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Monday Sep 09, 2024
イエス様の生涯と愛 第15話
Monday Sep 09, 2024
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本然の因縁を回復するために来られたイエス様
信仰の理念で生きてきたユダヤ民族の精神とは、何であったのでしょうか。それは神様を信じる信仰でした。彼らは神様に頼る信仰で、神の国が建てられることを願いました。そのような願いを結実させることが、正にイエス様がこの地に降臨された目的でした。
ですからイエス様は、自分は万王の王だとおっしゃったのです。それから生活的な立場ではどのような話をされたかというと、自分は新郎であり、あなた方は新婦であると言われました。これは夫婦の一体理念を生活圏内に立てるためのみ言でした。それゆえイエス様は、亡くなりながらも御自身と聖霊を通した父母の役事を約束されたのです。
ある面から見れば、イエス様がこの地に来られた目的は、地を創造された神様は目に見えないので、見えない神様を証するための人間の代表者として、あるいは神様の代わりとして来られたと言えます。
では、このような使命をもってこの地に来られたイエス・キリストの視野は、どういうものだったでしょうか。まずイエス様は、天地を創造された神様を父と呼び得る立場であったことを知らなければなりません。
今日数多くの人間が、堕落圏内、すなわちこの地に生きていますが、イエス様の視線と堕落した人間の視線とは異なります。イエス様は神様を「我が父」と呼ぶ、この一つの問題に心のすべてを注ぎました。さらには、我が父だけが一番であるという因縁を実現されるために苦心されたのです。そして人間に対して、自分が新郎という名詞を立てようとされました。ところがイエス様は、神様の前に人類の新郎の資格を備える前に、天の前に新婦の立場を完結する段階を経られたのです。
創造主の理念を実現させるには、人間を生む父母の因縁と、生活のための夫婦の因縁と、活動のための国家の因縁と、宇宙的な因縁が結ばれなければなりません。このような宇宙的な創造の理念が、人間の生活環境に探し立てられなければ、神様は臨在することができないのです。
イエス様は、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ一四・6)と語られました。イエス様が行かれた道はどのような道かというと、父母の因縁、夫婦の因縁、国家の因縁を連結する道でした。またイエス様は、天倫の心情に通じた方であり、天国の心情に通じた方であり、摂理歴史を主管なさる創造者の心情に通じた善の中心であられました。
イエス様は「わたしは道である」と言われましたが、その道とは何の道のことを言っているのでしょうか。愛の道のことを言っているのです。また真理は、十字架の真理です。それから命は、全体的な生命を指して言っているのです。ですから、イエス様を信じなければならないのです。
真の父母として来られたイエス様
イエス様は、いかなる方として来られたのでしょうか。堕落した父母が生じたので、堕落した人類の原罪を清算する父母として来られたのです。その父母が霊界の父母として来てはいけません。地上の私たちと同じように肉体をもった姿、神様がアダムとエバを土で造られたように、そのような姿で来なければなりません。アダムが完成して、神様の愛の中で神様の血族になっていたならば、真の父母の歴史を中心として、人類は真の神様の直系の子女として完成し、完成した世界である理想的世界、神様の主管される愛の世界で暮らしたことでしょう。
人類がメシヤを願うのは、堕落したからです。堕落したので、メシヤを願うのです。その願われていたメシヤが来て、何をするのでしょうか。真なる父母として来て、新しく生み変えてあげなければならないのです。新しく生み変えてあげるのです。それゆえ地上のすべての人々は、新たに来られるメシヤ、すなわち父母を通して、メシヤを訪ねていき、再び生まれ変わらなければならないのです。
サタン世界の人は、ただそのまま直行していける歴史時代がないのです。メシヤを迎えて…。堕落世界においてメシヤを迎えるその道は、この堕落世界を否定する道です。サタン世界はメシヤを迎えられないように反対しているのですが、メシヤを迎えていくその道は、サタン世界を否定する最先端の場なのです。
そのような場でメシヤを迎えることになるのですが、メシヤを迎えてからは、この反対する世の中と関係のない、新しい世界へと乗り越えていかなければなりません。あたかも分水嶺を乗り越えるようにです。こちらはサタン世界なのですが、メシヤを中心として再び生まれ変わる、真の父母の第二の血肉の因縁を経た群れは、こちらの世界に生きる人ではありません。分水嶺を越えて、向こうの世界の人として移らなければならないのです。