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Thursday Oct 10, 2024
イエス様の生涯と愛 第43話
Thursday Oct 10, 2024
Thursday Oct 10, 2024
二、イエス様の嘆きと憂い
イエス様が対した人々
イエス様が対した人々は、たかだかペテロのような漁夫でした。ペテロに向かって愛について話したのです。「あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」と三度も尋ねました。それからイエス様が対した人の中には、マリヤという女性がいました。寡婦であり、良くない背後をもった人です。それから誰かというと、サマリヤの女です。ヤコブの井戸のそばで水をくれと言ったその場で、弟子たちが疑うほど親しげに話したサマリヤの女がいました。それからほかに誰がいますか。
この地上に愛の主人公として来て・・・・・・。新郎ですから、愛の主人公ではないですか。その愛の主人公であられる方の前に相対として現れた人たちが、どうしてそれほどまで役立たずの者たちだったのでしょうか。それがイエス様の願いだったのでしょうか。違います。神様の願いだったのでしょうか。違います。
出来の悪い人も、優れた人を要求するし、いくら不細工な女性だとしても、ハンサムな男性を新郎にしたいと思うでしょう。不細工な男性も、きれいな女性を妻に迎えたいと思うのです。
死亡圏内に生きている人間たちも、そのように反対の立場を望むのに、ましてや天の国の王子として生まれたイエス様が、そのようにとても愚かな漁夫たちを集めて、何かの大将のように振る舞ったというのでしょうか。娼婦の群れが、何か愛しているという表示をしたというのでしょうか。サマリヤの女は、夫が五人もいるとか聖書には記されています。あきれてしまうのです。
イスラエルの国の大祭司長を中心として、「あなたは、この人たちよりも私を愛したでしょう?」と言うとき、「はい、主は私の愛することをすべて見ました」という返事を聞いたなら、どれほどよかったことでしょうか。ピラトがイエス様の門徒たちを訪ねるために、自分の侍従たちを前に立てて通告し、「今やっと、訪ねてまいりました」と言ったならば、神様がそれを御覧になって気分が悪かったでしょうか。あれほどまでひどく滅びるとは、誰が知っていたでしょうか。
そのように滅ぼそうとして、四千年間、預言者たちを通して、「メシヤを送ってやろう」と言ったのでしょうか。預言者も楽な立場で預言者になるのではありません。殺されたり、あらゆる犠牲に遭いながらも、「将来このようになる」と話したことが風習化し得る基盤として築き上げられるまで、どれほど千辛万苦したことでしょうか。それほどまで価値もなく、それほどまで孤独に死なせるために、その道を築いたのでしょうか。とんでもないことです。それを知らなければなりません。哀れなイエス様なのです。
イエス様がその目で見つめた父母は、いかなる標準の父母だったのでしょうか。神様の前に「私の父と母は、天上天下に二つとない父と母なので、神様、この父母を私以上に愛してください」と言える祝福の、その時間はどこへ行ったのでしょうか。自分の愛する兄弟たちに関して、「神様、私の愛する兄弟たちは、天上天下のいかなる兄弟よりも高貴な兄弟です。私が人間に生まれて、このような兄弟をもったことは天の誇りであり、人類の誇りです」と称賛し得るその立場はどこにあったのでしょうか。
あるいは弟子たちに関して、「私は人の世の師の中の大いなる師として、師弟間を中心として天下に誇り得る権威をもって、私自身を愛する以上の立場で弟子を愛しました」と言える立場はどこにあったのでしょうか。
自分の一族を中心として、「私の祖父母、あるいは遠い親戚、私の一族全体は、天が愛さざるを得ない一族であり、あなたの前に紹介せざるを得ない一族ですので、この一族を手放しては天の行く道がありません」と喜びの立場で誓いの心情をもって、神様の前に紹介し、神様の祝福を望み得る時間があったでしょうか。なかったのです。
「あなたが四千年間受難の交錯する道を経てこられながら、悪なる群れと悪なる国の迫害を受けつつ残しておかれた、あなたが愛したかったこの教会とイスラエルの国を、私が愛することのできる立場に立ったので、この日をあなたが喜ぶことのできる所願成就の愛の日として迎えてください」と言うことができたでしょうか。全くできなかったのです。
イエス様の立場から考えると、マリヤのような卑しい者が来て、足に香油を塗って髪の毛で拭くとき、あきれたことでしょう。この世の男性であれば、足でけ飛ばしたはずなのに、そのようにしなかったことだけでも幸いなのです。その国で特別な祭司長の家門に生まれた美女が来て、同じことをしても迷惑だったはずなのに、そのざまは何でしょうか。
けれども、イスカリオテのユダがその行動を見て戒める場において、イエス様はかえって味方にならざるを得なかったのです。「イスカリオテのユダ、あなたには、私の命をねらう悪賢い心が宿っているが、この女性はあなたよりもましである。あなたよりもましな人をどうして戒めるのか」と叱責されたのです。
このように自分のすべてを犠牲にする道によってのみ、「全世界のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」(マタイ二六・13)とまで予告しながら、念を押したことを私たちは知っています。それが良い立場であるから、そう言ったわけではありません。もしそこで、イスカリオテのユダがとがめなかったら、イエス様はどうしていたでしょうか。そのようなことは言わなかったことでしょう。