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Thursday Oct 17, 2024
イエス様の生涯と愛 第55話
Thursday Oct 17, 2024
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聖書を文字どおりに信じたユダヤ教徒
昔、ユダヤ教徒がイエス様のことをなぜ受け入れられなかったのかを、はっきりと知らなければなりません。そうであってこそ、私たちは今後、来られる主を迎え得る道を模索できるのです。
旧約聖書を見ると、主は雲に乗って来られるとあります。ダニエル書第七章13節を見ると、「人の子のような者が、天の雲に乗ってきて・・・・・」とあるので、その時の信仰者たちは、主が雲に乗って来られるものと思っていたのです。ですから、「雲に乗って来ない人は主ではない」と信じていたのです。
それはあたかも今日、雲に乗って来るものと思っているキリスト教徒の前に、主が雲に乗って来るのではなく、人として来て、捕らえられて苦難を受けている。二千年前、捕らえられて死んだイエス様をメシヤではないというユダヤ教徒に対して、イエス様を信じる弟子が叱責したのは、あたかも今日のキリスト教に対する叱責と全く同じものなのです。
このようにイスラエル民族が信じていたものと、イエス様を送った神様のみ旨とは異なっていたという事実を知らなければなりません。それから、信じられない理由として何があったのかというと、マラキ書第四章5節を見ると、「主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす」と、メシヤが来る前に必ずエリヤを送ってあげようと固く約束しました。旧約聖書のマラキ書は新約聖書の(ヨハネの) 黙示録のようなものであり、最後に預言されたものなので、そのようになるものと信じたのです。
エリヤとは、イエス様が来られる九百年前に火の戦車に乗って昇天した方ですが、天に昇っていったので再び天から降りてくるものと思って待ち望んでいたときに、待っていたエリヤは来ず、突然、もじゃもじゃ頭の若者、イエス様が現れて、「私がお前たちが長い間待ってきたメシヤだ。私を信じなさい」と言うのですから、それを信じるでしょうか。
ユダヤ教徒は、聖書のマラキ書にあるようにエリヤが来るものと思って信じるならば、億千万年たってもメシヤに出会えないでしょう。私が霊界に行って調べてみたところ、それは間違いないことなので命を懸けて宣布するのです。もし信じられないなら、事実かどうか皆さんが死んでみてください。レバレンド・ムーンがうそをついたか、死んでみれば分かります。ユダヤ教徒は、二千年前に来られて逝ったイエス様を受け入れなかった歴史的な罪を悔い改め、今からでもイエス様を受け入れなければならないと私は宣言するのです。
これを今日に例えて言えば、天変地異が起きて主が雲に乗って来られるものと信じているのに、一人の青年が堂々と現れて、「私がお前たちキリスト教が二千年間、願ってきた再臨主である」と言えば、それを信じますか。この地上に神様のみ旨を成し遂げるために、万民の前に遣わされたメシヤは、ユダヤ教徒が従わなかったことにより、私たちの知らない中で死んでいった恨めしい歴史があるという事実を知らなければなりません。
キリスト教徒たちに、「イエス様は何をしに来ましたか」と尋ねれば、「万民を救うために来ました」と答え、「どのようにして数おうとして来ましたか」と尋ねれば、「十字架に釘打たれ、救うために亡くなられました」と答えるでしょう。それならば、キリスト教は再臨主が来るのを望んでいますが、キリスト教が滅んで駄目にならせるために、主が来られるのを願うのでしようか。栄えようとして願うのです。
イエス様に従えなかったユダヤ教が恩恵を受けましたか。信じていたなら天理の恩恵を受けたはずなのに、信じないでイエス様を殺したことによって二千年間、国のない、さすらう孤独な旅人の身であったという事実を私たちは知らなければなりません。世界の人を救うことができ、本来の神様のみ旨を成し遂げ得る、その中心存在を殺したのですから、これほど大きな罪はありません。
四千年間準備した民が、もしエリヤが先に雲に乗って来たとするならば、イエス様を捕らえて殺せるでしょうか。殺さないのです。神様が歴史的旧約時代に、このように摂理をされましたが、新約時代にはこのように摂理をしないという保障がありますか。旧約聖書にも、「雲に乗って来る」という箇所と、「エリヤを遣わしてくださる」という箇所と、「人として来る」という箇所があります。そして新約聖書にも、ヨハネの黙示録第一章7節を見れば、間違いなく雲に乗って来るとあるのですが、テサロニケ人への第一の手紙第五章2節を見ると、盗人がくるように来るとあります。両面の預言があります。あのように来るとも言い、このように来るとも言うのです。
ところが自分の都合のよいように、雲に乗って来るということは信じて、盗人が夜くるように来るということは信じないのですか。歴史的事実を推察してみて、今日私たちの置かれている立場を明らかにすることによって、私たちは将来、二度と神様のみ旨の前に罪を犯してはなりません。それゆえ「雲に乗って来ることもあり、人として来ることもあり得る」というふうに信じる人が、賢い人なのです。