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Friday Nov 01, 2024
イエス様の生涯と愛 第68話
Friday Nov 01, 2024
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願われた時と環境を残して逝ったイエス様
イエス様は逝きました。どのようにして逝ったのでしょうか。使命をもって来られて、すべてを残して逝きました。イエス様が探し求めていたその時を残し、イエス様が見ようとしたその環境を残し、イエス様が行使しようとしたその主権を残して逝ったのです。
それゆえにイエス様は、「時が来れば、比喩では話さないで、あからさまに、あなたがたに話して聞かせるだろう」(ヨハネ一六・25参照)とおっしゃいました。イエス様は時について語ることができませんでした。なぜでしょうか。怨讐の前で、自分が万王の王として来たと言えば、ローマ帝国の植民地であるイスラエルが耐えられないからです。ですからイエス様は、時が差し迫っていることを感じてはいたのですが、時について語ることができず、環境を築くために戦わなければならなかったのですが、それができなかったのです。
イエス様の心情を一度考えてみてください。時を探し求めようと、どんなに全力を尽くしたことでしょう。ヨセフとマリヤの家庭で育つ時も、何度も天倫のすべてのことについて語りたかったのです。マリヤは処女として身ごもり、イエス様を生んだあと育て、乳を飲ませる時には、それでも神様の息子であることを知り、神様が選んだ貴公子であることを知っていましたが、日がたてばたつほどその心があせて、イエス様に対して普通の子のように接するようになりました。
イエス様はヨセフの家庭において、食べるべき物も食べられず、着るべきものも着ることができずに、心情の王子として働きました。しかし、その心の奥底には、時を恋い慕う心情があったのです。
イエス様は神様が許した一時のために準備し、神様が許した一つの環境のために内的にも外的にも、または人格的な分野においても備えるべきすべてを備え、自分自ら、神様あるいは万民の前に現れ得る時を待ち焦がれたのです。十二歳のときに、両親の知らない間に神殿を訪ねていったイエス様でした。しかし、エルサレムの多くの人々の前で、証すべき彼の兄弟たちまでも、からかい、ばかにしたのです。
イエス様は今日、人々の考えるとおりの空想的な人格者ではありません。聖書にも、イエス様に対して、食べ物をむさぼり、ぶどう酒をたしなむ人であり、病人の友であり、罪人と取税人の仲間であると当時の人々が非難したというのですが、どうしてそのようなことがあり得るでしょうか。なぜそうだったのでしょうか。
それを考えると痛哭しなければなりません。なぜイエス様は、罪人と取税人の友になったのでしょうか。彼らとだけ友になりたかったイエス様ではなかったのです。仕方がなかったからです。
イエス様は祭司長たちが謙虚になり、自分の前に出てきてひざまずき、「あなたは万王の王であり、私たちの指導者です」と頭を下げて、敬拝してくれることをどれほど待ち焦がれたでしょうか。しかし、かえって彼らに後ろ指をさされたのです。モーセの律法を蹂躙し、神殿を汚す者だと悪口を言われました。それで仕方なく罪人の友になり、取税人の友になったのです。四千年間、築き上げた祭壇が崩れてしまったので、やむを得ずそのような状況になったのです。当時の祭司長は、大いなる審判の時に最初に呼ばれて審判を受けなければならないでしょう。
今まで人々は、イエス様を盲目的に信じました。盲目的に「イエス様は私たちの罪のために死んだので、私たちはその十字架を信じさえすれば救われるのだ」と単純に信じたのです。しかしイエス様は福音のみ言を伝えるとき、食べられず着られませんでした。いちじくの実を取って食べようとして、いちじくを呪うとは、どれほどおなかがすいていたのでしょうか。気楽でのんきで、満腹だったイエス様ではありません。神様の息子の身の上が、このように落ちぶれるとは......。
時を失ってしまったイエス様でした。また環境を失ってしまったイエス様でした。居場所がなくて、あの家この家と転々としながら、マグダラのマリヤのような寡婦の家を訪ね歩きました。今日のような自然な時にそうだったのではなく、二千年前にそうだったのです。一人の女性が三百デナリにもなる香油をイエス様の足に塗って髪の毛で拭きました。そのようなことが受け入れられるでしょうか。到底考えられないことなのです。
イエス様は、どれほど残念がったことでしょうか。そのような立場にまで追い出されたイエス様の心情が、いかばかりであったでしょうか。「四千年の歴史が蹂躙されていく。ここで神様が苦労をなさり、数多くの預言者たちが血を流しながら築いてきた歴史的な土台が崩れていくところなのだ」と考えるときに、呪いたい気持ちを身にしみて感じていたのですが、口をつぐんだイエス様だったのです。
呪えば四千年間続けてこられた神様の苦労が途切れてしまうので、自分のために準備してきた土台が崩れたとしても、自分が責任を負おうとして口をつぐんだのです。イエス様は悲しく困難な立場に立つたびに、オリーブ山をさまよいながら祈られ、ゲッセマネの園をさまよいながら祈られました。これが神様の息子のすべきことでしょうか。
イエス様は、人間の幸福を約束する新しい人生観と世界観と宇宙観をその時代に固く立ててから逝かなければならなかったのですが、そのようにできたでしょうか。イエス様の人格観は、どのようなものだと明確に言えますか。漠然としています。「私がこれこれこのような理念をもってきて、この地を支配した」と語ったでしょうか。「時と環境を整理して、これこれこのように支配した」と語ったでしょうか。語ることができませんでした。まるで敗北者のように消え去ったイエス様なのです。
イエス様はこの地上に来られて、三年間語られました。しかし、その本当に成したかったみ言のうち一つも成し遂げられませんでした。三年間引っ張って歩いた弟子たちは、どうなったでしょうか。のちにみな不信しました。三年間あらん限りの精誠を尽くし、血肉を削って喜怒哀楽を共にしながら育ててきた弟子が、そのような有様でした。師は師なりに進み、弟子は弟子なりに進んでいったのです。結局、イエス様はすべてを残して逝ったのです。