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Friday Nov 01, 2024
イエス様の生涯と愛 第69話
Friday Nov 01, 2024
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サタンを屈服させることのできる秘訣
聖書を見ると、イエス様は完全に個人的、家庭的、民族的、国家的な条件を立てて、サタンと闘って勝ったでしょうか。勝つことができませんでした。イエス様の前でも屈服しなかったサタンが、イエス様を信じる人に屈服すると思いますか。六千年間、神様の前で讒訴し、神様のみ旨を蹂躙し、神様の摂理を滅ぼしてきた知恵深いサタンが、イエス様を信じる人が「引き下がれ」と言ったからといって、簡単に引き下がると思いますか。
私たちには、歴史的な相続権がなければなりません。アダムからノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、イエス様以後までの伝統と基盤を受け継ぎ、歴史的な供え物の代わりとなった相続者にならなければなりません。そうしてサタンに、「お前は歴史的な路程の中で、ノアに負け、ヤコブに負け、モーセに負けなかったか。私は彼らの勝利の基盤の上に立っていて、摂理歴史のすべての伝統を相続したので、サタンよ!お前は引き下がりなさい」と言ってこそ、引き下がるようになっているのです。
ただ単に「サタンよ、引き下がれ」といくら祈ってみたところで、サタンは引き下がるでしようか。六千年間、神様の前で讒訴し、蹂躙し、復帰摂理を破綻させたサタンなのに、イエス様を信じる者が「引き下がれ」と言ったからといって、簡単に引き下がると思いますか。とんでもないことです。
イエス様には、神様から心情を受け継いだ「相続譜」があります。四千年の間イエス様を送る時までの心情的な「相続譜」がありました。次にはイエス様の対象の「相続譜」がなければなりません。「私は、間違いなく歴史的な神様の心情を通して、神様が探し求めていた者だ。私はイエス様の聖なる体に接ぎ木された者だ」と言えなければなりません。
それでサタンに十字架上で勝つのではなく、十字架にかからずにサタンを屈服させなければなりません。それゆえ肉身をもって、実体として復活しなければなりません。このような実体の相続者として認められてこそ、この天国に行けるのです。
霊的基盤だけを築いたキリスト教
キリスト教会は霊肉の地上天国を願ってきたのではなく、肉的世界を放棄して霊的救いを目標として霊的王国、霊的メシヤとしてのイエス様に仕えてくるしかありませんでした。言い換えれば、イスラエル民族は国があり、選民的国権をもつことができましたが、今日全世界のキリスト教は、第二イスラエルの霊的国家であって主権国家、国がないのです。
キリスト教徒は霊的第二イスラエル圏内に立っているので、肉的基盤をもつことができず、霊的基盤のみをもっているのです。ですから霊肉を中心とした地上天国を完結すべき神様の本然のみ旨を成就することができなかったので、主は再び来ざるを得ないという事実を知らなければなりません。
十字架の場は、神様が勝利したのではなくサタンが勝利したのです。イエス様がゲッセマネの園で、今は「やみの支配の時」(ルカ二二・53) であると宣布したことは否定できません。十字架の場は、四千年間、神様が準備した国を失った場であり、イスラエルの教会を失った場であり、洗礼ヨハネ一団と十二弟子、右の強盗などすべてを失った場であることを知らなければなりません。
十字架上には、キリスト教がなかったことを知らなければなりません。キリスト教はいつ出発したのでしょうか。死んでから三日後に復活して、四十日間、失ってしまった弟子たちに会い、聖霊が降臨したのちに出発したのがキリスト教であることを知らなければなりません。
それゆえ二千年間、キリスト教徒は十字架の道理ではなく、復活の道理によってキリスト教が生じたことを知らずに信じてきた事実を皆さんは悔い改めなければならないのです。イエス様が復活した土台の上からキリスト教が始まったので、キリスト教は霊的です。
十字架でイエス様が亡くなることが神様のみ旨を成し遂げることであるならば、ゲッセマネでの祈祷は誤ったものです。そうだとすれば、メシヤの資格はないのです。実にあきれたことです。メシヤとして一度ならず三度も、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ・二六・39)という祈祷ができるでしょうか。
キリスト教が言うように、最初から死ぬために来られたとするならば、イスカリオテのユダに賞金をあげなければならないのです。それなのに、「その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう」(マタイ二六・24)と言われたみ言をどのように解釈するのでしょうか。
イエス様自身が死ななければ、どうなっていたかというと、先ほど言ったようにイスラエルの国が延長されてそのまま残り、ユダヤ教徒がそのまま残ることを知っていました。しかし自分が十字架で死ねば、ユダヤの後代の数多くの人々が十字架の道に従って行かなければならないので、血を流さずには行くことができず、また数多くのキリスト教徒が苦労し、また主が再び来て苦労するだろうということを知っていたのです。
それゆえゲッセマネで、そのような祈祷をせざるを得なかったということを皆さんは知らなければなりません。今日キリスト教徒たちは、「イエス様は肉身があったので、死の苦痛を心配してそのような祈祷をした」と言うのですが、それはばかげた話です。
それから十字架上で亡くなりながら、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ・・・・・・わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ二七・46)というイエス様の言葉は、どのように解釈するのでしょうか。
十字架上で亡くなりながら、「すべてが終った」(ヨハネ一九・30)と言ったのは、どういうことなのでしょうか。霊肉を中心とした使命を果たすために来たのですが、基盤のないこの地上で神様のみ旨を完全に成し遂げることができなかったので、十字架を背負ってでも霊的救いの摂理の土台を残さなければならないというみ旨を知った立場で、霊的救いの摂理の出発の基盤を築くために、自分のすべてを捧げたので「その基盤をすべて成し遂げた」と言ったのです。
神様のみ旨を成し遂げるために、サタンの国を滅亡させ、生きた立場でサタンの王権をなくして、人類を取り戻そうとされた主が、このように悲惨に死んでいったという事実を今からでも知って、キリスト教とユダヤ教は悔い改めて一つにならなければなりません。一つになって、来られる主を迎え得る準備をしなければならないのです。
真理は理論に合わなければなりません。盲目的な信仰時代を捨て、新しい世界に向かってこの世界を収拾し、救いのために全世界のキリスト教徒たちは一つに団結すべき時が来ました。それゆえ「統一」という言葉が、必要な時になったということを知らなければなりません。