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Friday Nov 08, 2024
イエス様の生涯と愛 第75話
Friday Nov 08, 2024
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一体となった百二十門徒
百二十人の門徒がマルコの屋上の間に集まり、イエス様が生前「聖霊を送ってあげよう」と言われたその約束を心に信じ、一つになって祈ることがなかったら、今日キリスト教は、世界的な宗教にはなれなかったことでしょう。
そのとき身を伏して祈った百二十人の門徒には、恐れの心がありませんでした。自分の威信や体面、そして家庭もすべて忘れ、ひたすら主の約束がある時、ある場所に現れることを信じて百二十人の門徒が一つとなって祈ったとき、四千年間、天地の間で遮っていた死亡の圏を打ち破って、聖霊が地上に臨むようになったのです。
これは偶然なことではありませんでした。このことによって人間を再び出産してあげることのできる新しい道が切り開かれたのですが、この一つの事実は誰によって起きたのでしょうか。
これは百二十人の門徒が終始一貫した心、終始一貫した誠意、終始一貫した供え物の精神によって、父のみ旨、神様を見つめた切実なその心によって起きたのです。このように地に対して摂理できなかった聖霊の役事が、初めて新しい歴史的な出発をし得たことを知らなければなりません。
百二十人の門徒は天地が震動し、炎のような舌が分かれる聖霊の役事を体恤するようになるとき、天に向かう切実な心に徹し、いかなる怨讐に対したとしても死を覚悟して行こうという心をもつようになったのです。ここに天によって力がさらに加えられると、その力はいかなる者が切ろうとしても切ることができなかったのです。このような力が土台になったがゆえに、彼らが語る言葉が天地を動かし得る能力を行使したということを知らなければなりません。
それならば当時、使徒たちは、どの程度まで一つになったのでしょうか。有無相通じるぐらいに一つになりました。彼らは、自分のものと相手のものとの区分がありませんでした。彼らは神様のみ旨を中心として、「私はあなたであり、あなたは私である」という一体の心情によって、二人が一つに十人が一つに団結したのです。ですから彼らは、誰かがある困難なことにぶつかるようになったときにも、それをある個人の困難としてほうっておいたのではなく、自分の困難として考えたのです。
このように兄弟の困難を自分の骨と肉、骨髄までしみ込む困難として感じるようになったとき、天も動いたのです。ですから皆さんも、お互いが自分のすべてを忘れ、ただ父のみ旨一つだけのためにいかなる犠牲が伴ったとしても、自分のすべてを捧げようという心、兄弟の困難を自分の困難として感じられる心の所有者にならなければならないことを心に銘じてください。
イエス様と聖霊の愛を通した霊的重生
イエス様が来られ逝きながら、「私は成し切れずに行くので、私を信じる代わりに聖霊を信じなさい」と言われました。イエス様さえ信じれば救われると思っているのですか。とんでもないことです。聖霊を信じても救われるのです。神様の息子を信じさせるのが聖霊なので(コリントⅠ一二・3参照)、聖霊も信じなければなりません。
聖霊とは何の神でしょうか。母の神です。聖霊は母の神であり、イエス様は人類の真の父です。真の父は完成したアダムです。アダムが堕落して人類の先祖になれなかったので、私たちはみな、真の先祖ではなく偽りの先祖の子孫です。ここに真の先祖として来られた方がメシヤです。真の父ということです。ところがキリスト教では、三位一体の神がどうだこうだと言っています。イエス様は真の父であり、聖霊は母なので、この霊的な父と母の愛を受けてこそ、霊的に重生されるのです。子女は父母の愛がなくて生まれることができますか。
それゆえ、黙示録には、「御霊(聖霊)も花嫁(新婦)も共に言った、「きたりませ」。また、聞く者も『きたりませ』と言いなさい。かわいている者はここに来るがよい。いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい」(二二・17)とあります。そのような日は、聖霊が実体をもつ日です。そのときが再臨時代です。新婦の着飾りを終える日です。
「小羊の婚宴」(黙示録一九・9参照)とは何でしょうか。失った真の父母を迎え入れる日です。そうなると名詞的な神様、信仰的な対象として必要だった神様は過ぎ去ります。名前だけの神様を信じたり、外形的にだけ信じたりする信仰生活は必要ありません。実体の神様が必要なのです。
それでは、信仰の実体の主体は誰だったのでしょうか。イエス様でした。希望の実体の主体は誰だったのでしょうか。イエス様でした。愛の実体、愛の主体は誰だったのでしょうか。イエス様でした。