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イエス様の生涯と愛 第79話
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怨讐までも愛する愛の宗教
この地上に、神様が最も愛することのできる人とは誰でしょうか。イエス・キリストです。そのような意味で、イエス様はメシヤになったのです。それでユダヤの国における方向を提示して現れました。イエス様の哲学とは何でしょうか。ローマとイスラエルが、圧迫国家と被圧迫国家、支配国家と被支配国家というこの二国家間には、高い怨讐の壁があるのを知ったのです。世界で最も高い壁なのです。ローマとイスラエルの間の壁が、その時代において占領国家間の壁としては、最も高い壁だったのです。
イエス様はどのようにしたかというと、「お前は力で私を征服するが、私は反対にお前を愛で征服する」という表題を掲げて現れたのです。十字架で亡くなるときローマ兵に対して、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ二三・34)と祈られました。これは驚くべき歴史的事実です。そのことによって、この世の人が嫌う、怨讐視するそのような国境を越えることのできる、一つの本郷の根拠地を追求していた事実を私たちは知らなければなりません。
怨讐は個人的怨讐があると同時に、家庭的怨讐があります。イエス様はどのように考えたのでしょうか。個人的怨讐があるのです。世界の人をみな、そのように見るでしょう。個人的怨讐があり、家庭的怨讐があり、氏族的怨讐があり、民族的怨讐があり、国家的怨讐があり、世界的怨讐があり、数多くの怨讐が四方に絡まっているのです。それはどういうことかというと、私に従い私の主張に従っていく人の中には、個人的怨讐の前に犠牲になる人もいるだろうということです。
家庭的怨讐の前に犠牲になり、氏族的怨讐の前に犠牲になり、民族的怨讐の前に犠牲になり......。このような戦いで犠牲になることがあるが、「怨讐(敵)を愛せよ」というタイトルによって、いつかは勝利できるその日が来るだろうし、その結果の日を待ち焦がれざるを得ないのです。もしこの世の国、サタンの方向と同じく、神様が復讐して恨みを晴らすとしたら、この世はすべてなくなってしまうのです。
キリスト教を中心とした神様の祖国光復は、どこから始まるのでしょうか。このような思想をもった個人から出発するのは、当然のことです。愛で抱き、国境を取り崩し、すべての環境と文化を越えて消化していきながら、怨讐までも愛し得る運動を提示してきた宗教が、キリスト教だったのです。それゆえキリスト教は、神様がいる限り世界的な宗教にならざるを得ないのです。
大豆を植えれば大豆が生え、小豆を植えれば小豆が生え、赤い花の種を植えれば赤い花が咲くように、悪なる怨讐、恨みを晴らす種を蒔いて、悪魔サタンの種が繁殖したのですが、怨讐を愛する種を蒔けば、それが怨讐を愛する木として繁殖するのです。それが自然の道理です。
今日のキリスト教について言えば、キリスト教の数多くの教派はなぜ生じたのでしょうか。キリスト教の中に教派ができたという事実は、「怨讐を愛せよ」というキリスト教の教理とは異なるのです。キリスト教の教理は「怨讐を愛せよ」です。自分の教会内では愛しているかもしれませんが、キリスト教徒同士が戦っているのです。「あなたの兄弟姉妹を愛せよ」と言いました。キリスト教の兄弟とは、キリスト教です。長老派教会、メソジスト教会、ホーリネス教会、すべて兄弟です。
真なる伝統的主流思想に立っているキリスト教はどこなのでしょうか。怨讐を愛する教団になり、怨讐の国を取り戻すために怨讐を助けてあげ、再度生かしてあげようとするそのような教団が真なる教会なのです。そのような教団が、未来に神様の真なる個人と家庭から氏族、民族、国家、世界の版図を受け継ぐことのできる教団だということは、この上なく妥当な結論です。キリスト教が一つにならない限り、世界は一つになれません。数多くの国が一つになるということは、夢にも考えられないのです。