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イエス様の生涯と愛 第83話
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国を見つけられなかったキリスト教徒たち
イエス様は三年の公生涯路程において、ユダヤ教を中心として失ったすべてを蕩減復帰しようとしたのですが、十字架にかかって亡くなったので、この地上に霊肉を中心とした一つの実体たる神様の土台の国として立てられたイスラエルが、すべて崩れていきました。すなわち四千年間摂理して、準備してきたイスラエルの土台が崩れていったのです。
結局、イエス様が亡くなることによって、キリスト教は霊的な国の土台だけをもつようになり、イスラエル民族は国のない民となって流離彷徨する身の上となり、サタン世界の物笑いの種になってしまったのです。ですから今日、霊肉共のキリスト教の国はどこにもないのです。したがって再び来られる主は、四千年間準備してイスラエルの国をつくられた神様の摂理をイスラエル民族が知らずに不信することによって、失ってしまったものを復帰しなければなりません。
イエス様は、この地上に国を探し出すために来られました。一つの国を探しに来られたのです。しかしイエス様は、その国を霊肉合わせて探し出すことができず、ただ霊的にのみ探し出しました。それゆえ、今日キリスト教は、この地上に実体の国がないのです。これは神様がこの地上において、いかなる国、いかなる民族を中心としても、「愛する私の国、愛する私の民族」と呼べないことを意味します。
いまだに神様の国の土台が、この地に立てられていないということを意味するのです。もしその当時、イスラエルの国がイエス様を中心として一つになっていたならば、息子であるイエス様を中心としたその国が神様の国なので、神様はその国を中心として世界を復帰されたはずです。しかし、この地を中心として霊肉合わせて連結させようとした土台が、イエス様が死ぬことによって、つまり実体を失うことによって霊的にのみ復帰されたのです。
したがって、今までキリスト教徒たちは、国がなく主権のない民のような立場なので、どこに行っても殺されたのです。殉教の血を流すことによって発展したのです。それはなぜでしょうか。そのように植えたキリスト教であるがゆえに、そのように殉教の血を流さなくては発展できないのです。今や血を流しながら迫害された時期は終わったのですが、それはそのまま死んでなくなるのではなく、キリスト教の霊的基盤を中心として失った実体の国を世界的に探し求めて築くために、その国を敬い慕い、主を待ち焦がれながら生まれたのが、正に再臨思想なのです。
したがって主は、この地に来られれば何をすべきでしょうか。一つの国を中心として世界的な蕩減を成し遂げなければなりません。そのためには、主を中心として一家庭をつくり、神様がその家庭を愛することができなければなりません。さらにはその家庭を中心として一つの氏族をつくって、神様がその氏族を「私の氏族」、その氏族を中心としてつくった民族を「私の民族」、その民族を中心としてつくったその国もまた「私の国である」と、サタン世界に打ち出せる国につくり上げなければなりません。それが正に、神様の摂理歴史であることをはっきりと知らなければなりません。
悲惨な犠牲の代価を払うキリスト教
神様は今まで、堕落した人間に対して救いの摂理をしてこられました。言い換えれば、神様は言うに言えない怨讐の子女たる私たち人間をして、神様が願われる歴史的なある完成基準、すなわち救いの摂理の目的基準を超えることのできるその一箇所に到達させるために、今まで摂理の方向を推し進めていらっしゃるのです。
そのような過程で、アダムの家庭、ノアの家庭、アブラハムの家庭、モーセの家庭、ザカリヤの家庭、イエス様の家庭などが現れ、第二イスラエル圏をつくるためにキリスト教を中心とした摂理歴史が現れたのです。ところが第一イスラエル圏から残された摂理歴史を再蕩減しようとすれば、その摂理史に現れた内容よりもよくなければなりません。
それゆえ第一イスラエル圏が成就できずに失敗したその基準を、霊的にだけでも勝利の基準としてつくるために、キリスト教は歴史を通して多くの犠牲の代価を払ってきたのです。ここには個人が動員され、家庭が動員され、氏族が動員され、民族が動員され、国家と世界が動員されたのです。
ローマ帝国はその当時、全世界を指導できるいかなる国よりも強い勢力をもった国家でした。そのようなローマ帝国に支配を受けたイスラエル、植民地のようなイスラエル圏においてキリスト教が出発し、ローマに対して戦っていくのですが、ローマは個人的に見ても世界的であり、家庭的な面においても世界的であり、民族的な面、国家的な面、すべての面から見ても世界的な権威を備えたただ一つの国家でした。
そのようなローマに対して、国もなく、一族もなく、氏族もなく、家庭もない状態で、キリスト教が分立した個々人の生命を導き、個々人が一身を投ずる犠牲の代価を払い、四百年間闘争してローマを負かしたのです。その期間にキリスト教徒が払った蕩減的な犠牲というのは、歴史上に類を見ない悲惨な事実として残っていることを私たちは知っています。そのような歴史過程を経て国家的な土台を築いたキリスト教は、その基盤の上で初めて希望の光を見いだすようになり、世界的な発展の土台を整えてきたのです。
キリスト教はローマ帝国に一つの基盤を築きましたが、ローマの一国家と国民だけを中心としては、摂理の全体を成し遂げられないので、それを基盤として世界へ伸びていきながら、個人的に迫害を受け、家庭的に迫害を受け、国家的に迫害を受けました。これはキリスト教がつづってきた悲惨な運命であると同時に、悲惨な歴史であることを私たちはよく知っています。