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Wednesday Feb 02, 2022
平和経 第107話
Wednesday Feb 02, 2022
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洗礼ヨハネの失敗によって亡くなったイエス様
ユダヤ教徒は、旧約聖書を文字どおりに信じ、エリヤが来てもいないのに、自分こそメシヤだと言うイエス様の命を奪ってしまったのですが、その一方で、洗礼ヨハネはどうなったのでしょうか。マタイによる福音書第十一章二節以降を見ると、洗礼ヨハネがへロデ•アンティパスの結婚の不道徳問題に口をはさみ、獄中に入れられて死ぬような運命に置かれたとき、自分の弟子たちをイエス様のところに送って「『きたるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」と尋ねます。洗礼ヨハネは、イエス様をメシヤとしてよく信じましたか、信じませんでしたか。かつてヨルダン川のほとりで、多くの群衆に「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ一・二九)と証したのに、どうして再び尋ねる必要があるのですか。かつて証したその同じ口で、人を送って「あなたはきたるべきかたですか、ほかの人を待つべきでしょうか」と尋ねたというのです。
この話を聞いたとき、イエス様は、世の中で自分を認めてくれる人が一人もなく、国全体が反対する中、わずかな生命線のような一縷(いちる:細糸一本のように今にも絶えそうな)の希望としていた洗礼ヨハネまで、最後に来て「メシヤなのか、違うのか」と尋ねたので、どれほど胸が詰まる思いがしたか考えてみてください。ですから、六節で「わたしにつまずかない者は、さいわいである」と指摘したのです。
そして、七節以降では、洗礼ヨハネがヨルダン川のほとりでイエス様を証するとき、群衆が見聞きしたことを風刺的に指摘したのです。イエス様は、「あなたがたは、何を見に荒野に出てきたのか。風に揺らぐ葦であるか。では、何を見に出てきたのか。柔らかい着物をまとった人か。柔らかい着物をまとった人々なら、王の家にいる」と語られました。そして、十一節では、「あなたがたによく言っておく。女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起らなかった。しかし、天国で最も小さい者も、彼よりは大きい」と言いました。どうして、そのような矛盾する話を語ることができるのですか。あの世に行っている預言者も、すべて女性を通して生まれたのであって、石の間から生まれたのでしょうか。すべて女性から生まれ、洗礼ヨハネも女性から生まれ、イエス様がメシヤであると証したのですから、あの世でも大きな存在でなければならないはずなのに、彼はなぜ小さくなるのかというのです。
なぜかというと、あの世に行っている過去の預言者たちは、歴史的な距離をおいてメシヤを証してきましたが、預言者として送られた洗礼ヨハネは、直接的にメシヤを証する使命をもっている立場なのですから、一番大きくならざるを得ないのです。
しかし、なぜ天国では最も小さい人も洗礼ヨハネよりは大きいと言ったのでしょうか。霊界に行っている最も小さい預言者も、イエス•キリストをメシヤだと思って迎えます。ところが、洗礼ヨハネはイエス様を証し、イエス様に直接従って、大きい人になるべきだったにもかかわらず、それができなかったので、最も小さい者になるしかないというのです。このような内容でおっしゃったことを知らなければなりません。
事実かどうか、十二節を見てみましょう。「パブテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている」とあり、洗礼ヨハネと、のちのイエス様の弟子との間で、天国を奪い合う争奪戦が展開していることを語っています。これは、洗礼ヨハネが自らの使命を中心として、尽力できなかったことを示しています。もし、洗礼ヨハネが努力したとすればどうなっていたでしょうか。洗礼ヨハネは、イエス様の一番弟子になっていたでしょう。
もし、洗礼ヨハネが一番弟子になったとすれば、洗礼ヨハネの弟子たちは十二弟子に入るのであり、洗礼ヨハネに従う群れが七十門徒、百二十門徒になり、ユダヤの国全体の忠臣たちがイエス様に従っていくのではないかというのです。イエス様に反対するために洗礼ヨハネを送ったのですか。それでは、洗礼ヨハネがどれほど偉大な人なのかを調べてみましょう。神様が、メシヤのために公認して送った彼は、どれほど特別な人なのか、イエス様のみ言を通して調べてみます。
十三節に、「すべての預言者と律法とが預言したのは、ヨハネの時までである」と旧約聖書を完成させる結実的存在として来たとイエス様は宣布しました。洗礼ヨハネがイエス様と一つになれば、ユダヤ教の聖書、旧約聖書を信じていた人々はみなついてきて、一つになるようになっています。そうすれば、誰がイエス様の命を奪うでしょうか。神様の王子であるメシヤというお方は、築いておいた基盤を活用するために来られるのであって、貧しく聖書にも無知な漁夫や売春婦や取税人たちを従えさせて彼らを食べさせ、彼らの主人になり、師になるために来られたのでしょうか。
それでは、洗礼ヨハネがイエス様に従ったか従わなかったかを、もう一度はっきりと調べてみましょう。ヨハネによる福音書第三章二十六節以下を見れば、洗礼ヨハネの弟子たちがイエス様のことを聞いて、「先生、ごらん下さい。ヨルダンの向こうであなたと一緒にいたことがあり、そして、あなたがあかしをしておられたあのかたが、バプテスマを授けており、皆の者が、そのかたのところへ出かけています」と報告すると、洗礼ヨハネは「彼は必ず栄え、わたしは衰える」と言いました。これをキリスト教では「洗礼ヨハネは立派な預言者なので、イエス様をそのように高め、自分は滅びると謙遜に言った」と解説しています。
メシヤのために三年間以上苦労し、願っていたそのメシヤに出会って証したのなら、当然、死んでもメシヤのために死ななければならないというのです。これはどういうことかというと、一緒に共同歩調を取ったなら、メシヤが栄えれば自分も栄え、メシヤが滅びれば自分も滅びるべきです。それなのに「わたしは衰える」と言ったのは、「従わない」という決定的な事実をありのままに告げたことなのです。
このように見るとき、第一に旧約聖書を文字どおり信じたゆえに、第二に洗礼ヨハネの不信ゆえに、イエス様が十字架で亡くなられるようになったことを、私たちは今まで知らなかったというのです。
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