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Wednesday Mar 02, 2022
平和経 第136話
Wednesday Mar 02, 2022
Wednesday Mar 02, 2022
15.生死に対する理解
日付:一九九八年十二月十九日
場所:アメリカ、ワシントンDC、ワシントン•タイムズ•ビルディング
行事:一九九八世界平和宗教連合大会
尊敬する議長、世界の宗教指導者、ならびに内外の貴賓の皆様。キリストの聖誕日を前後して、各宗教では重要な日程と儀式が予定されているにもかかわらず、このように参席してくださったことに、心より感謝申し上げます。この時間をお借りして、これまで各宗教がその解答に苦しんできた問題である「人間の生と死」に対する、私の見解の一端をお伝えしようと思います。
私たちはこの地上に住んでいますが、この世界は地上だけがあるのではなく、霊界もあることを知っています。霊界は間違いなくあるのです。そして、この地上と霊界は、全く異なる二つの世界ではなく、一つの世界として連結されています。したがって、私たち人間は神様から生まれたので、いずれにせよ再び神様がおられる霊界に帰らざるを得ないのです。
死は根源の世界への回帰
皆様。韓国語ではおもしろいことに、「死ぬ」ということを「帰る」と表現します。どこに帰るというのでしょうか。これは単に墓地に行くことを言うのではありません。もともと人生が出発した、本来の場に戻るという意味です。はるかかなたの、歴史の起源を越えて帰るということです。
だからといって、韓国人として生まれたので、韓国人に帰るという意味ではありません。私たち人類始祖の根源となるその世界に帰るという意味です。すなわち創造主がいらっしゃるならば、その創造主がいらっしゃる所に帰るという意味です。そこから出発したので、そこに帰るのです。
宇宙も循環作用をします。例えば、山に積もっていた雪が解ければ、その水が小さな沢を通って流れ、さらにはいくつかの川を通って大海へと流れていきます。大海へと流れていったその水は、水蒸気となって再び帰るのです。このように循環運動を通して、より高まる所へ、より良い所へと帰ることを願うのです。
それでは、私たちが行って、永遠に生きなければならない所とはどこでしょうか。私たちは地上界で肉身生活をしていますが、心だけは永遠の世界に向かって進んでいるのです。私たちはこの世に生まれると、十代、二十代、三十代、そして中年と壮年と老年の時代を通過します。このように青春時代を過ぎて壮年時代を経て、老年の峠を越えつつ、日が沈むように人生を終えていくのです。しかし、霊界があるという事実を知っている人々は、地上で肉身をもって生きる一生はわずかなもので、死んだのち、私たちが迎えるべき世界は永遠だということをよく知っています。ですから、地上での生涯というものは、永遠の世界に行く準備をするための期間なのです。
学生を例に挙げれば、学生が一学期あるいは一学年を終えるときには、学校が定めたすべての学科の単位を取らなければならない単位の基準があるのです。その最高基準を百点とするとき、その基準にその学生の単位がどれほど到達したかという割合によって、学校の評価が決まるのです。しかし、単位が足りなければ足りないほど、その学生は学校が立てたその基準から遠ざかります。
このようにあらゆることは、ある標準を中心としてその価値を測定するようになっているのです。私たちが一生の間、肉身世界で生きるのも、あたかも学生が学校でいい点数を取るために準備する期間のようなものなのです。言い換えれば、私たちの生涯をすべて懸けて単位を取る準備期間だということになります。
すなわち、私たちの一生において責任を追及するある基準に、私たちがどれほど一致するかという基準値を中心として、私たちは日々の生涯路程を歩んでいるのです。ところが、ほとんどのこの世の人々は、本来人間がこの世に生まれて生き、求めていくべき本然の世界がどこなのかをはっきりと知らずにいるのです。すなわち死後の世界があるのかないのか、神様が存在するのかしないのかも知らずに生きているのです。
人類は一つの兄弟、一つの国民
皆様。私たちはいずれにせよ、いつかは霊界に行くようになっています。その霊界は一つの国です。地上世界のように、いくつもの国に分かれているのではありません。
だとすれば、霊界で生活する内容はどなっているのでしょうか。例えば、魚は水を離れては生きられません。魚には水が生命維持の絶対的な条件となります。だからといって、魚も一カ所だけで棲むのではありません。魚の中には淡水を離れ、海水と接するきっかけをつくって産卵する場合もあるのです。二つの世界に通じなければならないという意味です。
私たちの体と心も、このように互いに通じなければならないのです。人類歴史を互いに比較して考察してみるとき、もし私たちの先祖であるアダムが生まれた日と結婚した日、そして死んだ日を記念する世界的な統一圏が形成されていたならば、その日を記念する人類は、一つの兄弟となり、一つの民となっていたことでしょう。すなわち、一つの世界で生きる人類になり得ていたという意味です。そのようになっていたならば、アダムの生活風習は、そのまま人類歴史を通して継承され、そのとき形成された文化は人類が生存する限り、永遠に継承されていたでしょう。
人間は誰しも、いつ死ぬかを知らずに生きています。いつ交通事故に遭って死ぬかもしれないというのです。死んでから、「ああ、レバレンド•ムーンの話は正しかった!」と言って後悔する人もいるでしょう。私たちは、実はとても深刻な人生の道を歩んでいることを知らなければなりません。私たちは永遠の世界に行くための準備をするために、寸暇を惜しんで生きなければなりません。そのような運命の岐路に立っていることを、私たちは知らなければなりません。
一般的に霊界に行く人にも、二通りの人がいます。自分のもって生まれた運命のとおりに生きてから逝く人と、自分の運命のとおりに生きられずに逝く人の二種類です。自分の運命のとおりに生きられずに逝く人の中には、早く死ぬ人と、民族や世界の罪を蕩減するために代わりに逝く人たちがいます。
もし神様が千人の価値をもった一存在を中心的な立場に立て、すべての人の代わりに死の道を行かせたとすれば、千人がみなその人の恩徳に感動し、その人のために生き、その人の生涯を見習い、その人のように生きようとするでしょう。そのようになれば、人々はその人と同じ恵沢圏内に入っていくのです。人々が忠臣の思想を見習おうとし、聖賢の生き方に従おうとするのも、彼らと同じ恵沢圏内に入ろうとする欲望のためなのです。
人間の中には、希望をもって生きる人もいて、希望をもてずに生きる人もいます。この希望は、人間を中心とした希望と天を中心とした希望の二種類に大別することができます。
私たちは生まれたその日から、母の懐が何よりも一番いいものと思って大きくなりますが、ある程度大きくなれば、母の懐を離れるようになります。私たちはまた、成長しつつ友達と付き合い、友達こそこの世で一番いいものと思って過ごしますが、いつかはその友達とも別れていくのです。このように人間は成長しながら、愛する親も愛する夫婦も愛する兄弟も、さらには愛する子女も自分の希望のすべてにはなれないという事実を知るに至るのです。
人間は、いつも多くのことを希望します。しかし、その希望する心も結局は消えてしまいます。家庭に対する希望、国家に対する希望、さらには世界に対する希望をもっていますが、年齢を重ねるにつれて、希望する心もだんだん弱くなっていくのです。
事実、多くの人々は自分たちの希望を全体的な希望として誇り、自分の生命を失うようなことがあったとしても、その希望を捨てることができないという確固たる信念をもてずにいるのです。私たちは一生の間、あらゆる希望を抱いて生きますが、結局、死に直面して、自分が抱いていた希望のすべてを捨てて逝ってしまうというのです。私たちは、きょうも生きることを願い、あすも生きることを願い、新たな希望を求めてさまよっていますが、死に直面するときには、そのすべての希望をあとにして、最期の道を行くのです。この事実を私たちはよく知っています。
人間は自分を中心として見るときは、希望をもっているようですが、死の峠を越えることのできる希望をもってはいないのです。私たちが人生観として、死さえも乗り越えることのできる一つの希望を見つけなければならないのが、今日、この地上に生きている人間たちが考えるべき重要な問題なのです。
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