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Saturday Mar 05, 2022
平和経 第137話
Saturday Mar 05, 2022
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死と闘って勝利できる希望
皆様。この世のすべてのことは過ぎ去るのです。家庭も過ぎ去り、国家も過ぎ去り、さらには世界、あるいはどのような主義や思想もすべて過ぎ去るのですが、最後まで残らなければならないものとは何でしょうか。それが正に、死と闘って勝利できる希望です。私たちにそのよう希望がないとすれば、「私たちは人生の敗北者である」と言わざるを得ないでしょう。この世には、生まれながらにしてこの世的なすべての希望を一切拒み、人間の世の希望ではない天の希望、すなわち永遠の希望を抱いて生きる人たちがいます。
天は正にこのような人々を助けているのです。ですから、信仰生活をする人々は、地上のある希望を抱いて生きるのではなく、死の峠までも乗り越えることのできる希望を抱いて、永遠の希望の世界を夢見て生きなければなりません。
私たちが若いときには、死についてあまり考えませんが、年を取るほど、死について徐々に深刻になります。ここに座っている皆様も、この場に立っているレバレンド•ムーンも、いつかは死ぬようになっています。このように死というものは、運命の関門です。
誰も避けられない道だからです。私たちが死んだのちには、果たしてどうなるのでしょうか。死という単語を使った目的とは何であるか御存じですか。生の意味を知らせるためです。生の価値は、誰がよく知っていますか。生きようと身もだえする人には分かりません。死ぬ境地に入り、生死の岐路で天にすがり、生の価値を打診したことのある人でなければ分からないのです。
それでは、私たちはなぜ死を恐れるのでしょうか。私たちはなぜ生まれたのか、その目的を知らないからです。なぜ死ぬのか、なぜ生まれたのかということを知りません。それで哲学でも最初に問う質問が、人生とは何であり、人間はなぜ生まれたのかということです。
皆様。私たちが死ぬということは、神様の愛の中に生まれることなのに、人間世界では「ああ、死ぬ!」と言って大騒ぎです。それを見る神様は、にこにこ笑われるでしょうか。それとも驚き、悲しむでしょうか。喜び、うれしく思うのです。限られた地上の愛の圏内から無制限の愛の圏内へと突入できる喜びを迎える瞬間が、肉身が死ぬ瞬間、すなわち第二の出生の瞬間だからです。
だとすれば、神様は、私たちがこの肉身世界に生まれた日を喜ばれるでしょうか。それとも第二の無限拡大世界の愛のために肉身を脱ぎ、死を通して新しい息子、娘として生まれるその時間をもっと喜ばれるでしょうか。もちろん後者です。私がこのような話をするのは、皆様が死の恐怖から解放されなければ、神様と関係を結ぶことができないという事実を知らなければならないからです。
神様は人間が生まれたときから、成長していく過程を見守り、また直接参与しながら喜ばれるのです。赤ちゃんが成長するにつれて、神様の心に動く愛の鼓動も増大するからです。
神様があるしぐさをすれば、子女たちも一緒にそのしぐさをします。神様がお笑いになれば子女たちも共に笑い、悲しまれれば共に悲しみながら、このようにだんだんと神様に似ていくのです。また、その子女たちは、成長しつつ親たちの姿に似るようになります。言葉も習い、生活規範も親たちから学ぶようになります。
もちろんこのすべてのことは、本来神様に由来したものです。だとすれば、神様が私たち人間と共にこの地球星に暮らしたのち、あの世に飛んでいくとき、私たちはどうすべきでしょうか。「ああ、私もついていきます」と言えば、「こいつ、お前は誰だ」と言いながら、神様が私たちを切り離してしまうでしょうか。それとも一緒に連れていかれるでしょうか。もちろん連れていこうとされます。ところが「今は連れていくことができないので、お前がもう少し大きくなって、もう少し完成したのちに連れていく」と言うとき、人間は「今は逝けないが、いつかは私たちも逝く時が来るだろう」と思いながら待つのです。地上で肉身をもって生きる間、人間はいつも神様に付いて回ることはできません。
真の愛のために死ぬことができなければならない
さあ、それでは何が問題でしょうか。私たちが神様に似たいと思い、神様も私たちを神様の息子、娘として御自身に似させたいという願いをもつのは当然のことです。
それで、人間は再び神様に似ることのできる体をもって生まれなければならないという結論が出てくるのです。神様と人間は共に永遠に飛び回ることのできる日を待ち望むのです。そのように飛び回ることのできる人として生まれる日、そのような体に生まれる日、その日が正に肉身を脱ぐ、死の日なのです。
だとすれば、人間は死を歓迎しなければならないでしょうか。それとも悲しまなければならないでしょうか。もちろん歓迎しなければなりません。それでは、私たちが死ぬときは何のために死ななければならないのでしょうか。神様の真の愛、すなわちために生きる愛のために死のうとしなければならないのです。ですから、肉身を脱ぐというのは、無限の神様の愛の活動圏に私たちが同参するためであり、神様の愛の世界のためだという結論になるのです。
皆様。皆様は一度、そのような真の愛を受けて実践する神様の本当の息子、娘として生まれてみたいと思いませんか。神様がお金持ちなら、どれほどお金持ちでしょうか。皆様、一度考えてみたことがありますか。無限の星の中に、ダイヤモンドの星がないと言えるでしょうか。純金でできた星がないでしょうか。神様こそ全知全能のお方です。御自分の子女たちに、何でも与えようとされないでしょうか。どうでしょうか。
神様はこの無限の宇宙を、あっという間に往来することができます。皆様も関心がありますか。それなら私たちは、どのようにしなければならないでしょうか。神様が定めてくださった法度を守らなければならないのです。そうしてこそ、神様と共にいられるのであって、私たちの勝手にしてはいけないのです。
水中、地上、天上の三時代を通過しなければならない
皆様。神様が「してはいけない、しなさい!」と言うことを守る自信がありますか。人間は二重構造になっています。心が主体であり体は対象なので、心が体に従って一つになるのではなく、体が心に従って一つにならなければならないのです。
人間はまた三段階の世界、蘇生時代、長成時代、完成時代を通過します。すなわち、母の腹中での水中時代、地球星の世界、天上の空中世界です。私たちは腹中の水の時代を経て地上に生まれ、肉身をもって百年ほど地の時代を経るようになり、最終的には飛んでいく空中時代へと三時代を通過するようになるという意味です。私たちが母の腹中にいるときは、外の世界に出ていくまいと抵抗します。その中に残ろうとします。
なぜなら、私たちが腹中から出るときは、家がみな破壊され、私たちが栄養を取って生きていたすべてのものも崩壊していきます。そうして、分娩過程を通過しながら頭も伸びなければならず、体も伸びなければならないのですから、誰がそれを好むでしょうか。生まれるその瞬間まで、みな「ノー」と言うのです。子女は、羊水がどっと出てくるその水に従って出てくれば、安産になります。母が赤ちゃんを分娩するのを見れば、本当にかわいそうです。赤ちゃんを生んだことのある母親たちは、よく分かると思います。力を入れるときは、顔がいくら美人でも、ものすごい形相で顔をしかめるので、夫さえもその顔を見ていられず、逃げていくほどです。このように、産婦も最後の瞬間まで大変な苦痛を通過したのちに、子女が生まれてくるのです。
この過程でおへそについているへその緒は、そのままにしておかなければなりませんか、それとも無慈悲に切ってしまわなければなりませんか。「それは人の命綱なのに、人と人の命綱をどうして切ってしまうのですか」と抗議する人がいるかもしれません。生まれてくる赤ちゃんも「死にそうだ」とおぎゃおぎゃと泣きじゃくります。しかし、それを見つめる神様は、喜びのほほえみを隠しきれないのです。そうなると生まれた新しい生命には一つの世界は完全になくなり、新しい一つの世界で「ふうっ!ふうっー」と息をするようになるのです。
皆様。人間は初めに生まれるとき、水の中から生まれるのです。腹中時代は水中時代です。胎児が母の胎中にいるときは、水の中に浮いています。ちょっと考えると母のおなかの中の時代では、息ができずに生きるのが大変なように感じられます。
水の中で生きているので、当然、水を飲んでは吐き出さなければならないのではないですか。そのために腹中の胎児は、ホースをおなかに連結して生きるのです。腹中の胎児は、どこを通じて栄養分を供給されるのでしょうか。おへそを通じてです。へそは腹中の胎児には口なのです。それで、私たちはおへそを冷遇してはいけません。「おへそよ、お前は昔、苦労したな」と言って触ってあげなさいというのです。おへそをよく、軽くたたいてあげると健康になります。笑い話ではありません。
そのように運動をしなさいということです。へその運動を通して健康になりなさいということです。その例として、いくら寒い部屋で寝たとしても、へそさえよく包んで寝れば下痢をしません。私たちはまた、へそを昔の口だと呼ぶこともできます。ある者は「この愚か者、昔の口がどこにあるか」と言うかもしれませんが、へそが私たちの過去の口だったことだけは間違いありません。このように私たちの呼吸器の役割もしていたへその段階が終われば、次は口だというのです。どんどん上に上がっていくのです。
同じように、この地球上で空気を呼吸して生きる肉身に宿っている私たちの霊人体は、肉身が老いてしまえば、それを捨てて外に出ようとするのです。
それなのに、その時に、肉身が「ああ、死にたくない、死にたくない」と言って悲鳴をあげるなら、神様はその姿をどのように御覧になるでしょうか。苦痛に直面したその肉身に同情されるでしょうか。あるいは静かにほほえまれるでしょうか。
大変な苦痛を甘受し、母の腹中を飛び出してきた赤ちゃんが成長して、父母の愛の対象になるように、私たちは肉身の悲鳴を振り切って、無形の父である永遠の神様の相対として再び生まれなければならないというのが、原理的な結論です。
地上世界でも子女が生まれたのちに大きくなれば、父母と友達になれるのです。父母と愛を共に分かち合うことのできる地上世界に生まれるからです。胎児が母胎の中で泳ぎ回るのと同様に、人間の地上生活は空気を吸い、空気のふろしきの中で生きるようになるのです。
そのような過程を経ながら地上でこのように父母と愛を分かち、呼吸する人であってこそ、「死なずに生きている」と言えます。同じように私たちは、霊的な無限の世界に通じる、親であられる神様と愛を分かち合ことのできる霊界に、再び生まれなければならないのです。
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