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Saturday Mar 05, 2022
平和経 第138話
Saturday Mar 05, 2022
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神様の法則のとおりに生きなければならない
それでは、霊界とはどのような所でしょうか。私たちが霊界に入れば、頭の上にあるひよめきと細胞で呼吸するようになります。霊界での空気は、地上の空気ではなく愛です。呼吸を通して愛の要素を受けるというのです。
私たちが地上で生きるときも、御飯だけ食べていてはいけません。御飯だけ食べて、水だけ飲んで生きるというのは、胃袋を満たしているだけです。結局、そうして死んでいくということです。地上で生きている私たちの姿は、私たちの第二の存在です。
私たちがこの期間にすべきことは、新しい愛の人格を形成することなのです。この地上で私たちが最も必要とするものは愛です。孤児とは何でしょうか。母と父の愛を受けられない子女たちを、どうして孤児と呼びますか。霊界と永遠に連結できる愛がないからです。愛がなければ孤独なのです。それで独身で生きる人をかわいそうだというのです。
もう一度お話ししますが、私たちが死ぬということは、第二の呼吸をしていた肉体に連結されたこの器官を壊し、愛の要素を受け継ぐことです。ですから、私たちは、いずれにせよ肉身を破って出ていかなければなりません。愛は見えないものです。父母の愛、夫婦の愛、兄弟の愛、子女の愛など、このすべての愛を中心として私たちの内的な構造が成長するのです。
それで、私たちが神様の法則のとおりに生きるときにのみ、胎児が母の腹中で正常に育つのと同じように、私たちがこの地でも正常に成長できるのです。ですから、むやみに生きてはいけないというのです。私たちが自然界を調べてみると取るに足らない昆虫、実の中の種、そして鳥まで飛ぶことができるのに、ましてや万物の霊長たる人間が飛べなくていいでしょうか。たんぽぽの種を見てください。風が吹くと自然に飛ぶようになっています。このように鳥も飛び、昆虫も飛び、植物の種も飛ぶのを見れば、人間も明らかに飛べるように創造されたに違いありません。ある者は性急に「神様、ほかのものたちはみな飛び回るのに、どうして私たちは飛べないように造ったのですか」と神様に抗議しかねません。しかし、神様は「お前たちは数十年待って完成すれば、飛べるようにしてあげよう!」とお答えになるでしょう。
地上で愛する訓練をしなければならない
それでは、その時まで私たちは何をしなければなりませんか。その時になって、その世界に適応できるように、私たち自身を訓練しなければならないのです。父母を愛し、夫婦同士愛し合い、子女を愛しながら、この地上世界で訓練をしなければならないのです。そうして、時が来れば、永遠の世界に入り、永遠に神様に侍って生きるようになるのです。そのためには、いつかはこの肉身を脱いで死ななければなりません。
私たちがせみの一生を調べてみれば、せみも飛ぶようになる前に、幼虫の段階を経ます。そのせみが「ぼくは幼虫のまま暮らしたい。殻を脱ぐのは嫌だ。ああ、陸地も空気も何もかもみんな嫌いだ!」と言って反抗したとしても、いざ殼を脱いでみると飛ぶようになるのです。
とんぼも同じです。初めは幼虫になって水の中で泳いで暮らし、地上に上がってきて、しばし這い回り、その次は殻を脱いで飛び回りながら、食べるとは想像もしなかった虫を捕まえて食べるのです。天下を自分の舞台にして飛び回るのです。このように昆虫類の中には、三段階の世界を経るものが多いのです。
それで昆虫には羽があります。水と陸地と空中の三時代を過ごしなから,羽をもつようになるのです。万物の霊長という私たち人間に翼がありますか。人間には次元の高い翼があるのです。皆様も肉身を脱いで死ぬのは嫌だと言うかもしれませんが、いざ死んで肉身を脱げば、私たちの霊人体が第二の出生の恵みの関門を通過して、飛んでいくのです。
前にもお話ししたように、人間はいずれ死にます。私たちは、善なる自己を永遠の世界に第二の私として立てるために、苦労を覚悟しなければなりません。母の腹中で胎教をよく受けてこそ、健康で善良な赤ちゃんとして生まれるのと同じように、私たちの地上世界での生活も、よく準備しなければなりません。
私たち人間は、神様の形状を見習い、神様の心情を見習い、神様の聖なる神性を見習いつつ、育たなければなりません。育ってからは、また命を懸けて越えていかなければならないのです。したがって、どんなに恐ろしい暴風雨がやって来ても、私たちは最後の峠を越えなければなりません。よくやっていても、境界線の前で倒れてはいけません。
私たちがこのような人生の境界線に立つとき、私たちは果たして何をしなければならないのでしょうか。気持ちを引き締めて頑張っても、最後まで行けるかどうか分からないのに、あたふたしていれば、途中で挫折してしまうのです。最後の決勝点まで境界線を突破しなければ、勝利者になれません。人として生まれたのなら、一度やってみるだけの価値のあることです。
いくら後ろで反対し、横から迫害したとしても、自分の行く道を行けばいいのです。人の反対に関与する余地がありません。一歩ずつでも早く行って、この運命の道を通過していこうという人が、最後の境界線を越えることができるのです。私たちは、そのように行かなければなりません。
私たちはよく「心がまっすぐだ」と言います。それはどのような意味ですか。まっすぐに垂直に立ったものを「まっすぐだ」と言います。木も横に傾いたものを「まっすぐだ」とは言いません。「心がまっすぐだ」というのも同じです。垂直に立っているという意味です。それで人は立って歩くのです。垂直になってこそまっすぐなのです。
自分の心を完全に垂直になるようにしなければなりません。そこに体が水平線になるのです。このように垂直と水平が私たちの内部で形成されるとき、垂直から引っ張る力と水平から押す力がバランスを取り、求心力と遠心力が形成されるのです。ですから、私たちは、私自身を見つけなければなりません。私たちが自分自身を主張するときは、神様と真の父母にそうだと認定されなければなりません。その土台の上に私たちは親戚、一族、一国に発展させていき、私たちの生活環境を拡大していくのです。
この世で危険な伝染病の患者たちを隔離して収容するように、遠からず神様のみ旨を知っても罪をたくさん犯した人々は、隔離して北極のような寒帯地方に収容する時が来るでしょう。彼らは完全に悔い改めて改悛(かいしゅん)するその日まで、そのような所に放り出して、食べ物も寝る所もなく、大変な苦痛の道を歩むかもしれません。(*改悛:全非を悔い改め、心をいれかえること)
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