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Tuesday May 03, 2022
平和経 第192話
Tuesday May 03, 2022
Tuesday May 03, 2022
愛は極めて自然なところで形成される
先生が幼かった頃、ある日、鳥を一つがい捕まえて、二羽のくちばしを合わせようとしたことがあります。二羽が口づけするのを見るために、垣根を造り、餌もあげながら観察しました。互いに愛し合い、楽しそうに歌うのを見たいという子供心からそのようにしたのです。それは、すべての自然の道理をはっきりと知るための、一つの好奇心に満ちた実験でした。今考えれば、全くもって意地悪な行動をしたものです。愛は自然に形成されることを、随分あとになってから悟ることができました。愛は最高に自由な雰囲気の中で形成されるものであってこそ、真実の愛です。先生が愛について正しく知っているのは、長年の実験を経た結果なのです。
愛の価値を失った人々に対して大学教育を施すといって、何が変わるでしょうか。彼らは、知識を蓄えるだけで、個人主義者や物質主義の信仰者をつくり出すだけなのです。テンジャンチゲ(肉、野菜などをみそとともに煮た煮物)は土焼きの器に入れてこそ、その味が出るのと同じように、人格修養も愛を土台にしてこそ、その目的を達成できるのです。世界文明の花は、美術的調和を整えた基盤の上で咲かせなければなりません。焼いたカルビは皿に盛らなければならないのであり、テンジャンクッ(韓国風みそ汁)は土焼きの器に入れてこそ、本来の味が出るのと同じです。濃厚で香ばしいテンジャンクッの味は、一度覚えればどこに行っても忘れられないのです。同じように、人もそのような愛を一度覚えれば、変わることがありません。単純な味のインスタント食品はやがて嫌気が差すように、愛もインスタント食品のように、どこででも簡単に求めることができれば、それは真の愛とは言えないのです。
最近は、インスタント食品のような愛で愛する人々が至る所に散らばっていますが、それが問題です。香水風呂に入って沐浴したからといって、愛が深まるのではありません。山真の僻村(へきそん)に住みながら、冷水に浸かって体を洗い、寝床に入る夫婦の愛のほうがもっと純粋であり、長く続いて深まるものなのです。
人間が、愛する人と出会えば、抱擁したいと思い、口づけもしたいと思うのは、自然な異性間の本能です。私が環境と接しているのは、この宇宙を好きになるためです。それは相対を探し立てるための、人間の自然な行為です。すべての人間が相対的理念のもとで、男性は女性に対し、女性は男性に対するとき、ここには愛の秩序に違反する行為や事件がないでしょう。真の愛の秩序は、相対的な理念を基盤として男性と女性が出会うときに生まれるのです。
第四章 人生路程
神様の目的
神様には体がありません。それで、すべての万物に神様の体を現すために、アダムを神様の代わりの顔として現したのです。それが創造理想です。神様は本来、霊的な中心であり、アダムは本来、肉的な中心です。その二つが九〇度をつくるのです。それが神様の創造目的です。アダムとエバが堕落しなかったならば、霊界に行って父母として永遠に現れるのですが、堕落したためにそのようになれません。堕落しなかったならば、自分の父母に神様のように侍れば、誰でも天国に行くようになるというのです。
この世界は丸くなっています。太陽も丸く、地も丸く、星も丸く、口も丸くなっています。どのような物も、すべてそのようになっています。そのため、宇宙はくるくる回りながら関係を結ぶのです。そして、丸くなっているとしても、個別にも、全体にも関連性を結びながら、球形を維持するのです。それでは、私はなぜ生まれたのでしょうか。この大宇宙と拍子を合わせるために生まれたのです。したがって、海の波がざぶんざぶんと音を立てれば、私の心もざぶんざぶんと音を立て、風が気持ち良く吹けば、私の心も気持ち良く、花が咲いて香りを漂わせれば、私の心も香りを漂わせることができるのです。
愛の中で生まれ、愛の中で育ち、愛の中で生きて、愛の中で死ぬようになるときは、生まれたことも有り難いことであり、生きることも有り難いことであり、死ぬことも有り難いことなのです。皆様は、母と父がこの上なく愛する場に同参して生まれました。同参者だというのです。父母の愛によって生まれたので、父母の愛の証の旗として生まれたと思いなさいというのです。ですから旗が動くのは、愛を表示するために動くのです。一生の間、愛のために生きるのです。そうして、母のためにも愛の旗を振ってあげ、父を見ても愛の旗を振ってあげ、兄弟たちのためにも愛の旗を振ってあげなさいというのです。
瞬間(一日)と一生の関係
皆様の生活全体が栄養素を吸収できる足場にならなければ、生命体を完成できません。これが、自然の現象世界で展開するのです。生命の分岐点は、長い期間にあるのではなく、一瞬にあるのです。瞬間を無視する人は、貴いものをもつことができません。偉大な人にもなれず、神様の王座と王冠を受け継ぐこともできません。
ですから、瞬間を輝かせるために、皆様は言葉一つにも、行動一つにも注意すべきであり、考えることにも注意すべきです。自分の生活で起こるすべての内容が、世界と関係する現象として残るという信念をもって解決するところにおいてのみ、勝利圏が決定されるのです。勝利圏が決定されるのは瞬間です。したがって、歴史的な勝利圏、天宙的な勝利圏も瞬間に決定されます。瞬間を輝かせることのできる無限の価値を感じながら生活する人は、偉大な人になれるのです。聖人にもなることができ、神様の息子、娘にもなれるのです。生死の分岐点は瞬間にかかっています。
今日、私たちの姿勢が問題です。まず、み旨の国が来ることを願い、み旨が成就されることを願うことも必要かもしれませんが、それより、自分がどのようにすればみ旨と一致していくかということが重要です。一時間なら一時間、どのようにすればみ旨と一つになれるかということが、み旨の国が成就されることを願うより重要なのです。ですから、まずみ旨を継承できる個人的な環境、家庭的な環境、氏族的な環境、民族的な環境を築いてこそ、み旨の国と関係を結べるので、神様を中心として、一日の生活圏内で、一時間なら一時間、どのようにみ旨と関係を結ぶかということが、重要な問題とならざるを得ません。
復帰摂理歴史を見れば、アダム家庭からノア家庭、アブラハム家庭、モーセとイエス様の家庭まで、四千年の歴史が流れてきていますが、彼らが失敗するようになった動機は、ある一年を中心としたものではありません。アダム家庭において、アダムとエバが堕落したのも、一年や十年、あるいは何十年を計画して失敗したのではありません。その失敗は、一瞬にしてもたらされたのです。その一瞬の失敗が、億千万年続いてきたことを考えるとき、その瞬間、瞬間がどれほど恐ろしく、どれほど怖いものかを知ることができます。
一瞬の失敗によって、歴史時代において修行の道を歩んだ数多くの人々が受難の報いを受けなければならず、そのみ旨に従っていかなかった数多くの民族が、滅亡のどん底に落ちなければなりませんでした。それが、途方もない蕩減の祭物の起源になったのです。ですから、ヵチッ、力チッという一瞬が恐ろしいのです。永遠の天国も、一瞬を離れてはあり得ません。
永遠の出発は、自分が死んで始まるのではありません。永遠の出発は、自分がみ旨を知った瞬間から続くのです。ここにおいて、一瞬でも時間の飛躍があって深い穴が生じれば、永遠は中断されるのです。ですから、私たちが生涯路程を中心として信仰の道を行くときに、今年行けなければ来年行き、来年行けなければ再来年行き、十代に行けなければ二十代に行き、二十代に行けなければ三十代に行き、三十代に行けなければ四十代に行き、四十代に行けなければ五十代に行く、このようにしてはいけません。一生をこのように生きていけば、一生の間、み旨と一つになる一日の生活も送ることができずに死ぬでしょう。もしそのように生きたならば、その人は天国に行けません。いくら自分が暮らしているその国が良いといっても、一日の勝利基準をもてなければ天の国に行け一年の勝利基準をもてなければ永遠の世界に入れないのです。
そのため、信仰者は永遠を夢見て進むことも重要ですが、それより重要なことは、現実においてどのように悪を清算し、善の旗手になるかということです。このような問題が何よりも重要です。
このような点から見るとき、アダムの瞬間的な失敗が、億千万年の恨を残したのです。アダム家庭において、カインとアベルが父母の恨を解き、兄弟の壁を崩して、一つの家庭の起源をつくらなければなりませんでした。このように復帰摂理の代表として立てられたアベルが死んだのも、瞬間的な事件でした。百二十年かけて箱舟を造ったノアの苦労の路程において、神様が「願いを成就する日が来たので、船に乗りなさい!」と言われた命令も、一瞬の間に下されました。この命令に同調した人は、永遠な神様の祝福を受けられましたが、そのようにできなかった人は、永遠の審判圏内で水葬されたのです。
アブラハムも同じです。神様が、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい。あなたの子孫はあのようになるでしょう」(創世記一五•五)と祝福されましたが、その祝福の命令もカチッという一瞬に下されたというのです。アブラハムが象徴献祭を行った時間も、何十年間、象徴献祭を行ったのではなく、たった一日の時間圏内でした。供え物を裂いて象徴献祭を行う時間はわずかでしたが、ここにおいて歴史的なすべての生死禍福の起源が組まれてきたのです。今日、信仰者が恐れるべきことは、終わりの日に訪ねてくる審判ではなく,一日一日の生活圏内で訪ねてくる時間をどのようにみ旨と一致させるか、どのようにみ旨と共に交差路を形成していくかという問題です。