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Friday May 06, 2022
平和経 第193話
Friday May 06, 2022
Friday May 06, 2022
第四章 人生路程
幼児期と三段階秩序
アダム、エバを、神様はどのように造ったのでしょうか。土でこねて造ったのなら、どのような土で造ったのでしょうか。どこから出発したのでしょうか。どこから始まったのかというのです。アダムとエバを、最初から成長した人間として造ったとは考えられません。赤ん坊から造ったのです。神様は、胎児を宿した母親がおなかの中で育てるのと同じ過程を経て造ったという論理を立てなければ、このすべての三段階の秩序を通じた存在の形成というものを説明する道理がありません。それで、アダムとエバにも幼児期があったというのです。その次に長成期がありました。その次に完成期があったのです。これは天理です。幼児期とは、どのような期間だったのでしょうか。無形の神様が、無形の世界から有形の世界へ行く過程で、赤ん坊という存在を抱いて育てたという論理から始めなければなりません。
私たちの人生の道
私たちが暮らしている社会、国家、世界は、自分の志に符号する環境になっていないので、あらゆる苦衷が生じており、善悪の分岐点が食い違っています。百人なら百人、各々自分なりの一日の生活を営むために環境の中で苦闘しており、志を押して進めているのです。
ですから、朝に計画した一日の活動に対して、誰も自信をもてないということを、私たちは一日の生活の中でよく感じています。その上、その環境の範囲が大きければ大きいほど、自分の一日の生活を勝利として結果づけるためには、それに比例して決意と推進力をもたなければなりません。そのようにしなければ、その日が勝利の日になり得ないのです。そのような一日一日が加わってひと月になるのであり、ひと月ひと月が加わって一年になるのです。
そのひと月も、私たちが計画したとおりに生きられる環境になっていません。私たちがひと月の勝利をもたらすためには、そのひと月の環境に備わった複雑なすべての事情、すべての条件を打破できる推進力と決意がなければなりません。それがなければ、ひと月の計画を勝利で終えることができないのです。一年を押し進めるためには、三百六十五日を克服できる闘志力、あるいは推進力を備えなければなりません。そのようにしなければ、一年を勝利で飾れません。このような一年に十年が加わり、二十年、あるいは三十年が加わった日々を過ごしているのが、私たちの人生の道です。
今日、この地に暮らしている人間は、時間性から抜け出せません。人類歴史を見ても同じです。個人、家庭、氏族、民族、国家、世界も、そのような時間圏内で動いています。人が生きていくのに、必ず達成すべき目的があります。その目的を中心として、十年、二十年、三十年、七十年、一生の間、行くべきなのです。目的が大きければ大きいほど、内的にもっと強く決意しなければなりません。そのようにしなければ、その目的に到達できません。時間という過程を通して、その目的を凌駕する内的な決意を続けない限り、その目的を達成できないというのです。
私たちが訪ねるべき本郷
皆様は、霊界の事実が分からないかもしれませんが、先生は神様の特別な恵沢を受けて、未知の世界についてよく知っています。その世界の根本を掘り返してみると原則は簡単でした。その世界は、神様の天地原則である「ために生きる生活」をした人だけが行く所です。そのような内容で形成された世界が理想天国です。そこが、私たち人間の訪ねるべき本郷です。
私たちは堕落した人生として、本郷から追放された人間なので、本郷の地に向かって帰るべき運命にあります。しかしそこは、人間自体では帰ることができないので、神様は人間が帰れる道を歴史過程に設定せざるを得ません。それで、その民族の文化背景、風習、あるいは伝統に従って、数多くの宗教を立てて収拾してきたのです。そのように収拾するための訓練場として立てたのが宗教です。ですから宗教は、本郷の地に入る資格をもつ人を錬磨する訓練場です。
東西南北、四方の文化背景によって、高い所に前進できる一つの統一された宗教世界へと導いてきています。そのような本郷の地に導かなければならない宗教なので、宗教は「ために生きなさい」ということを教えざるを得ません。ですから、高次的な宗教であるほど、「ために生きなければならない」という原則を強調しなければならないので、「温柔、謙遜であれ」と言い、「多くの人を高め、彼らのために生きよ」とし、「犠牲になり奉仕しなさい」と教えるのです。その理由は、その国の法度に合う訓練をしなければならないからです。
人生の行くべき道とは何でしょうか。神様の愛を占領することが、人生の行くべき道です。神様の愛を占領することが、人生の行くべき最高の終着点です。この道は、男性も行かなければならず、女性も行かなければなりません。すべての人が行くべきなのです。人生の行くべき道は、無限な愛の神様を探すことです。十回でも百回でも、死の峠を経てでも、たとえ死んででも、絶えず神様の愛を探すのが、人生において行くべき最高の道です。欲望の果てはどこまででしょうか。神様の愛を占領することです。神様を占領したといっても、その中にあるもっと貴い愛を占領できなければ、神様は自分の神様ではありません。ですから、神様の愛を占領しなければなりません。
愛さえ占領すれば、神様はいらっしゃらなくても構わないというのです。神様のものが私のものであり、私のものが神様のものになるとき、初めて内外が一つになります。そのような国が、上下の等級のない理想の本国になるのです。そのような場所に横になれば、天下にあるすべての存在で良く見えないものがなく、天下にあるすべての存在で自分のために存在しないものがないと感じられるのです。そのようなものが神様の愛なので、今日、人間が行くべき天上世界、すなわち天国は、愛で満ちあふれた所です。
誤った出生(しゅっしょう)の基準
世の中の人々は、自分自身が高貴な人だと言っていても、いくら博士だと言っていても、自分の出生が誤ったことを知らずにいます。神様の怨讐であるサタンの愛、生命、血統をもって生まれたことを知らないというのです。重要な問題です。堕落によって人間は、サタンの愛から生まれたのです。サタンの愛がその父母にまでつながってきました。母の生命、父の生命にサタンの血が流れており、その血が今日、自分につながってきたのです。そのような結実体が、正に自分です。ですから皆様は、サタンの血統に属しているのです。言わば、皆様の血管を通ってサタンの血が流れているというのです。ですから、自動的にサタンは自分の理想的な実を結ぶのであり、神様はそのような男性と女性を本然の純粋な完成人間として救おうとされるのです。
皆様は、サタンの愛から出発しました。サタンの血統をもって生まれたのです。ですから、出発が誤ったというのです。出発が誤ったので、再び帰らなければなりません。それでは、帰るには帰るのですが、どこに行くベきでしょうか。堕落前に帰らなければなりません。偽りの父母によって始まったので、真の父母によって再び始めなければなりません。ですから、どれほど深刻でしょうか。自分が神様の愛と神様の生命と神様の血統を引き継がなければならないのです。それで、祝福を受けるとき、血統転換式をするのです。それを、自分の生命よりもっと信じなければなりません。
統一教会の一つの礼式だといって、ただ一般の宗教儀式と同じに考えてはいけません。これは、死んだ立場からよみがえらせる注射薬と同じです。解毒注射です。私たちの先祖が誤ったのです。このために、歴史を経てきながら数多くの人々が犠牲になりました。これを知る私たちは、再びその道を行くことはできません。絶対に行けないのです。不倫の愛で堕落したことにより、歴史を通して受けたその代価が、途方もなかったというのです。個人、家庭、社会、国家、世界に及ぼした影響が、途方もなかったのです。
生涯の基準
ここにおける人間の「生涯」とは、永遠の生涯です。それは地上界のことだけを言うのではありません。霊界においても生きている永遠の生涯です。私という存在は、神様の愛の対象として造られました。絶対的で主体的な神様の対象が、正に私です。神様の愛の相対が、私だというのです。神様が御自身よりもっと貴く思うのが、真の愛の概念です。神様は絶対的で、永遠な生命の中心です。神様の理想は永遠なのですが、その理想の中心が、正に真の愛です。その愛の相対が私です。
愛の属性は、主体と対象を一つにすることです。それは、国家をも一つにします。それゆえ愛において、どのような場にも同参でき、どこでもついていけるのです。愛によってすべて相続できます。神様の心情までもすべて相続するのです。先生は悲惨な過程を経てこれを発見することにより、その基盤の上に立つようになりました。これは何ものとも換えることはできず、崇高で、尊厳ある高貴なものです。驚くべき恩賜です。そのため、神様と同じ立場に立つのです。永遠な真の愛の場に同参するのです。
霊界は、制限された地球星とは次元が違います。制限された所では自由に動けませんが、霊界は次元が高い世界なので、何でもできる所です。時間を飛び越えることができます。愛を中心として何でも願いさえすれば、いつでもどこでも、すべて得られるのです。私たちは本来、永生体として造られました。真の愛を中心とした対象体である私は、永遠の生命体だというのです。ですから、霊界に行けば自由です。そのためには、生涯の基準として、第一は善悪の基準が重要です。善悪の基準が第一であり、第二は本然の出発点に返ることであり、第三は永生問題です。