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Sunday May 08, 2022
平和経 第197話
Sunday May 08, 2022
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世界の道徳啓蒙に対する統一科学の任務
日付:一九七二年十一月二十六日
場所:アメリカ、ニューヨーク、ウォルドルフ•アストリア•ホテル
行事:第一回「科学の統一に関する国際会議」
人間は社会生活を営む中で、誰しもが幸せな生活を追求するようになります。幸福になりたいと思うのは、誰しもがもつ抑え難い人間の欲望であり、理想です。数千年の人類歴史において、このような理想をもたなかった人は一人もいないでしょう。
人間生活と幸福な世界
理想は常に現実とは相反するものであるにもかかわらず、人間は、現実生活の中で理想を実現するために不断の努力を傾けてきました。そのようにして、政治、経済、社会、宗教、科学など、人類文化の全般にわたって、目覚ましい発展が遂げられてきたのです。そうして今日、人間は、古代や中世に比べれば、比較にならないほどの高度な福祉社会を実現しました。
このような発展において決定的な役割を果たしたのは科学でした。科学の発達がなかったとすれば、今日のこの驚くべき繁栄は不可能だったでしょう。この事実は、科学者はみな、幸福な理想社会の実現を自らの使命としてきたことを意味します。
すなわち、科学者たちは、人間の夢を実現させようという熱い使命感をもって科学技術を発展させてきたことを意味するのです。たとえ科学者の研究成果が、時には一部の権力者の不義の目的に悪用されたことがあったとしても、科学者の基本精神だけは、常に人類の福祉社会の具現を目指していたのです。
科学の総合化、統一化の傾向
このように科学は、人類の夢を実現することに、その目的があります。ところが、過去において科学は、立派な発明がなされたとしても、民族的、国家的障壁に遮られ、それが直ちに人類全体の福祉に寄与することにはならなかった時がたびたびありました。科学文明にも国境がなければならないという主張も時としてあったのです。しかし、科学文明は本質的に、人類全体のものであるべきであって、ある特定の国家や陣営の専用物であってはならないのです。そのため、強い使命感をもつ科学者たちが、共同福祉の目的を妨害する不義の勢力に対しては、強力に抵抗したことを私たちは記憶しています。
科学者の中には、各自専門分野によって、時には当面の研究に没頭するあまり、人類福祉に貢献する精神を忘れてしまう科学者もいましたが、ほとんどの科学者たちが基本姿勢として、人類の平和と繁栄に寄与しようと努力してきたことは疑う余地がありません。
科学には様々な分野がありますが、そのどれを取ってみても、人類幸福の実現を目標にしない部門は一つもありません。物理学、化学、医学がそうであり、生物学、地質学、天文学がそうです。
もちろん過去数世紀の間に、科学はあまりにも分析的方法に傾き、多くの部分が専門化され、科学の細分化現象が起きたことは事実ですが、最近になって、総合的な方法によって細分化された知識を総合し、統一する、希望的な傾向が現れつつあります。「統一科学」は、その顕著な例と言えるでしょう。いずれにせよ、今日までの科学が、たとえ細分化現象を起こしたとしても、各部門がそれぞれの立場で、ひたすら福祉世界の実現という一致した目標、一致した方向を指向してきたことは事実であり、また今後もそれを指向していくことを信じて疑いません。
しかし、今日の世界情勢を見ると、非常に嘆かざるを得ない現象が続いています。それは目覚ましい科学の発展と驚くべき経済の繁栄とは裏腹に、いまだに不幸な事態が世界の随所で起きているという事実です。
善の世界と幸福の世界
科学者たちのかくも切実な念願と努力にもかかわらず、いまだに発展途上国では貧困と文盲と疾病が、そして国際間には緊張と戦争と敵対行為が続いており、人類は華やかに発展した文化の陰で、依然として悲しみと不安と苦痛の生活をしているのです。多くの指導者がこの不幸を取り除き、平和と安定を樹立しようと努力しているにもかかわらず、ただ「平和」の言葉だけが世界にあふれているばかりで、人類は日に日に不安と苦悩と危機意識の中に陥りつつあるのです。これはいったい何が原因なのでしょうか。
それは、人類の行動を規制してきた従来の価値観が崩れたからです。倫理と道徳がその機能を喪失したからであり、善の基準が消え失せてしまったからです。西欧社会における神中心のキリスト教の価値観、東洋社会における天道思想中心の儒教の価値観など、従来の人間の精神を指導してきた価値観は、すべてその機能を喪失してしまいました。これが今日、科学者たちの熱意に満ちた努力にもかかわらず、人類の不幸が消えない根本原因なのです。
このような事実は、何を意味しているのでしょうか。それは、科学者たちの念願が実現されるには、必ず先に善の世界が実現されなければならないことを意味するのです。善の世界とは、価値観が確立された世界のことをいいます。それは道徳の世界であり、宗教の世界です。しかし、この価値観は全く新しいものでなければならないでしょう。現代有識者の実証的で論理的な精神を指導できる新しい価値観でなければなりません。
ここに、今日の科学者たちは、また一つの使命を担わなければならないという結論に至りました。物質的生活の向上だけを試みてきた自然科学だけでは、人類の真の幸福を保障することが難しくなったのであり、人間の精神を改革する作業までも、科学者が遂行しなければならなくなりました。それでは、その理由について説明することにします。
人間をはじめとした万物は、すべて質料的な側面と形相的な側面とを兼ね備えた統一的存在であることは、誰も否定できないでしょう。人間は心と体の統一体であり、動物は本能と体、植物は生命と物質、そして無機物は作用と物質の統一体です。ところが、存在論的に見るならば、宇宙は結果の世界であって、そこには必ずその究極の原因がなければならないとしたときに、唯物論はそれを物質であると主張し、唯心論、すなわち観念論はそれを精神であると主張しています。
統一的原因と統一的結果
しかし、結果の世界がそのような統一体であることから推論すると、その原因も、質料と形相の二つの要素を統一的にもち合わせている一元的存在でなければならないのです。一元的で統一的な原因であってこそ、そこから統一的な結果の世界が生じるのであり、また統一的結果には、必ず統一的で一元的な存在がその原因にならなければならないのです。
したがって、宇宙の根本原因を物質としてのみ考える唯物論は誤りであると言わざるを得ません。その原因となるものは、決して物質ではなく、それより先んじている非物質なのです。ですから人間というのは、その統一的原因から生じた統一的存在であって、人間を物質的存在とだけ見てはならず、また精神的存在とだけ見てもいけません。
したがって人間生活を向上させるにしても、肉身の物質的生活だけを改善しては完全な幸福は実現されないのであり、物質と精神の両面の生活を統一的に同時に改善していくときに、初めて真の幸福が到来するようになるのです。
今日までの科学は、その担当した分野が物質的な領域だったために、特に物質的生活の改善にばかり力を注いできたのです。ですから、残念ながら、科学者たちの切実な念願と熱心な努力にもかかわらず、人類はいまだに不安と混乱の中から抜け出すことができずにいるのです。ここでやむを得ず、科学者たちは、人類の真の福祉のために、そしてこれまで成し遂げてきたその高貴な努力の成果を守護するためにも、精神生活の改革運動に参加しなければならないという結論に至りました。精神生活の改革というのは、新しい価値観を確立することによって、善の世界を建設することであり、新しい道徳社会を建設することです。