Episodes
Monday Aug 15, 2022
平和経 第310話
Monday Aug 15, 2022
Monday Aug 15, 2022
2.祖国よ、輝け
日付:一九七八年十月十九日
場所:韓国、ソウル、朝鮮ホテル
行事:韓国地域社会開発研究院招請朝餐講演会
尊敬する各界の指導者の皆様。きょうの朝、この意義深い集会に私をお呼びくださり、国家中興の大課業において中枢的役割を担当していらっしゃる皆様に、お話し申し上げる機会を与えてくださり、心から感謝申し上げます。
神様に選ばれた韓国
私は海外において、様々な逆境の中でも、ひたすら神様の国の具現のために宣教事業に没頭し、二年半ぶりに再び懐かしい祖国の土を踏みました。普通ならば、その間に何度か帰ってこなければならなかった祖国ですが、今回は、執拗に捕らえて放さないフレーザー委員との熾烈な対決において、最終的決着をつけようとしているうちに、懐かしい祖国への帰りが二年半も遅れてしまいました。
フレーザー議員は、去る九月十二日、民主党の予選でついに落選しました。人間的に見ると彼は大変かわいそうな人です。私は、「怨讐も愛さなければならないので、彼のために祈りなさい」と信徒たちに勧めました。彼は今回、負けられない闘いで負けました。その理由は何でしょうか。彼は天意に背反したことによって、敗北したのです。聖賢の言葉に、「天に順う者は存し、天に逆らう者は亡ぶ」とあります。いわば彼は、神様の審判を受けたのです。
韓国を第二のベトナムに仕立てようとする彼の努力は、韓国を選んで天の大きな摂理を全うしようとする神様のみ旨とは正反対の努力でした。そのような神様の摂理を知ってみれば、韓国は重要な国なのです。韓国は、今後世界が共産化されるのを防ぐ、決定的役割を果たす国です。神様は、共産主義の究極的目標である世界制覇を許すことはできません。それは、神様御自身の敗北を意味するからです。そして、この歴史的な有神と無神、二つの理念の最終対決において、韓国は神様の選手として選ばれたのです。
ですから、韓国を破壊しようとするフレーザー議員の陰謀は、とても容認し難いことでした。私は、神様の審判が彼に下ることを明確に予知できました。彼は天に逆らう者の立場に立っているので、いかに彼の威勢が盛んだったとしても、彼の末路が悲惨なことを知っていました。誰でも、天理に背反しては生き残る者がいないのです。今回のフレーザー議員の敗北は、神様の審判であると言わざるを得ません。
このように、こよなく韓国を愛される神様を骨髄にしみて実感しながら帰ってきた、今回の帰国の道でした。何度も降り立った金浦空港ですが、今回はいつになく私を喜んで迎えてくれているようであり、故国同胞の温かい歓迎は、私の霊魂を揺さぶりました。帰るやいなや私は、祖国の地、錦繍江山(クムスガンサン)(=韓国の別称)千五百里を、南北にわたって走ってみました。韓国の山河は、とりわけ青々と美しく、世界に類例を見ない秀麗な山河でした。民族中興に向かって突き進む祖国の復興の姿は、十分に満足して余りあるものでした。
故国にいらっしゃる皆様。本当にお疲れ様でした。私たちは、ただ先進国家につき従っていくことに満足する国となってはいけません。私たちの祖国大韓民国を通して、神様は偉大な課業を成し遂げようとされておられます。二千年前、人知れぬ小さな村、ユダヤの国ベツレヘムの地に、偉大な思想が出現しました。それがすなわち、イエス様の思想でした。神様は、その救世思想を中心として二千年間、救世運動を推し進めてこられました。今、もう一度、共産主義の魔の手から世界を救い出し、地上に天国を建設する新しい救世理念の誕生地として、神様は、東方の小さな国、韓国を訪ねてこられるのです。私たちは、神様が与えてくださるこの任務を甘受しなければなりません。これは正に、私たちの祖国大韓民国が、永遠に栄える道であり、いつまでも光り輝く道です。
堕落によって創造理想と正反対になった世界
きょう、私は皆様をお迎えし、私のこのような所信の一端を披瀝しようと思います。世界のすべての宗教は、宇宙の根本原因を、創造主または神様という方として認定するところから出発します。その神様は善であり、永遠不変であり、唯一であり、絶対的な方でなければなりません。その神様がこの世をお造りになったとするならば、そこには必ず創造目的が先行したはずです。そして、その創造目的も、やはり永遠、不変、唯一、絶対的なものでなければなりません。
神様の創造目的は「喜び」です。喜びを得ようとして、人間と世界を造られたのです。その喜びというのは、一人では感じることができません。喜びを感じるためには必ず対象、または相手が必要です。主体と対象が互いに相対基準を結んで与え合うとき、喜びを感じることができるのです。そして最高の喜びは、愛を与え、受けるときに感じることができます。そのように、神様が私たち人間を対象として造られ、その対象とともに無限の愛を与え合い、永遠に喜びを得ようとされたのです。それが、すなわち創造目的だったのです。
このような創造目的を果たすために、人間始祖として一男一女を造られたのですが、聖書では彼らを「アダム」、「エバ」と呼びます。そのアダムとエバが、神様の完全な喜びの対象となり、愛を与え合いながら、善の子女を繁殖していれば、その家庭が拡大して社会となり、その社会が発展して国家となり、その国家は世界に発展して、この地球は、このアダムの一族で満ちあふれ、この地上には神様の善と愛を完成した喜びの世界が築かれていたのです。その世界を、すなわち天国と称し、その天国は明らかにこの地上にできたはずだったのですが、その世界は、すなわち地上天国と言わざるを得ないのです。
この地上天国は、神様を中心とした一つの家庭であり、人類はすべて一つの兄弟です。そこには一つの伝統と一つの文化がある一つの統一世界にほかなりません。そこには人種差別はあり得ず、言語の衝突もなく、国家の分裂も、理念の対決も、殺戮して相争う戦争もあり得ません。このような神様の理想世界を描きながら、今日の現実を眺めてみるとき、私たちは、神様の理想とは正反対の世界に住んでいることを痛感させられます。まず私たちの一つの体の中に、心と体の分裂を見ることができるのです。
今日の私たちの世界は、分裂の世界です。国家の分裂、言語の分裂、文化、伝統、人種、理念、愛の分裂など、このような分裂の中で、人類歴史は殺戮の闘争と戦争の連続でした。これはどう見ても、天国と言うことはできません。私たちは地上地獄に住んでいるのです。これは、人間始祖アダムとエバの堕落によってもたらされた結果です。堕落したということは、神様に逆らったということであり、神様から離れたということです。それによって、神様が臨在できない歴史が始まりました。人類歴史は、神様に逆らう歴史の連続によって今日に至りました。
人間世界の救援のために遣わされたイエス様
私は先ほど、神様の創造目的が、永遠、不変、唯一、絶対的であると言いました。たとえ人類始祖の反逆によって堕落世界ができたとしても、神様の根本理念とみ旨は変わることはありません。神様は必ず初志を貫徹される方です。神様は必ず、神様本然の創造理想を果たさなければなりません。人間の堕落以後、神様は無為無策だったわけではありません。人間の堕落以後の神様のみ旨は、堕落した人間を救援する「救援の歴史」でした。
「救援」とは何でしょうか。病にかかった人を病気以前の状態に治すことが救援です。病にかかったこの堕落世界を、堕落以前の本然の世界に戻すことが、すなわち救援です。ですから、救援というのは、本然に帰ること、すなわち復帰なのです。ですから神様は、この堕落世界を清算し、堕落以前に神様が計画された本然の理想世界へと復帰するみ業をされて、歴史を歩んでこられているのです。
今から二千年前、神様は、イエス•キリストを救世主、メシヤとして、この地上に遣わされました。彼を遣わした目的は、正に堕落人間の救援です。救援は、すなわち復帰のことをいいます。メシヤがこの世を救援されるということはすなわちこの世を天国へと回復するということです。ところが、二千年前、メシヤは明らかにこの地上に来られましたが、いまだにこの地上には、天国が建設されていません。これは重大な問題です。イエス様は、「天国は近づいた」と天国の到来を宣言されましたが、その天国の到来が成就した痕跡はありません。むしろイエス様は、罪を着せられ、十字架に打ちつけられるという悲運を招きました。これはつまり、神様がメシヤを遺わされたみ旨が、二千年前に完全には成就されなかったことを立証しているのです。
その理由は何でしょうか。その理由は、イスラエル選民の無知と不信にあったのです。神様がメシヤを遣わされる以前の四千年間、イスラエルという選民を集めて摂理されてきたのは、メシヤが来られるとき、そのメシヤを迎えて、神様のみ旨を成就することを願ったからでした。しかし、イスラエル選民は、いざメシヤが来られたとき、神様のみ旨を正確に知ることができませんでした。彼らは、メシヤが来れば、ロ—マの虐政下にいる自分たちの怨讐を討ってくれ、力でローマを征服し、一躍、選民イスラエルが君主の権勢をもって、世界に君臨することを夢みました。彼らが望んだメシヤは、権力のメシヤ、武力のメシヤでした。
しかし、メシヤの天国理念は、武力で成し遂げるものではありません。神様の天国理念は、真理と愛で果たされるのです。その上、メシヤは、イスラエルだけを解放して彼らに王権を与えようとして来られる方ではなく、むしろ、イスラエル選民を犠牲にさせてでも、世界の救援を計ろうとして来られることを、彼らは知りませんでした。政治的な勝利と利己的な権勢争奪を夢見たイスラエル民族の目に映った裸足のみすぼらしい無力なイエス様の姿は、メシヤとしては受け入れ難い姿でした。
それでイスラエル選民は、メシヤを十字架にかけてしまいました。これは、神様にとってこの上ない悲劇であり、人類にとってこの上ない不幸です。神様の天国実現のみ旨は、その時点では成し遂げられず、未来のある時点で、再びメシヤを地上に遣わさざるを得ない破局を招いたと言えるのです。神様が、メシヤ、すなわち救世主を再び遣わされる日を、私たちは「再臨の日」と呼びます。神様のみ旨は、イエス様の時に完結することができず、再臨の日まで延長されてきました。イエス様が十字架につけられたその日から、神様は、再臨の日を準備することに余念がありませんでした。それから歴史は約二千年が流れました。今は、正に終末であると叫ぶ声が高まり、メシヤの再臨を待望する声は四海に満ちています。