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Monday Dec 05, 2022
平和経 第411話
Monday Dec 05, 2022
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8.神様の心情の解放、釈放のための孝子、忠臣になろう
日付:二〇〇四年十二月十三日
場所:アメリカ、ワシントンDC、マリオット•ワードマン•パーク•ホテル
行事:共同遺産朝餐頂上会議
尊敬する元•現職の国家元首、世界の宗教界と各界を代表する指導者、アメリカの高名な指導者、そして紳士淑女の皆様。天が決定され、進行される摂理の時と方向をあまりにもよく知っている私は、きょうこの時点において、全世界六十億の人類に伝えてあげる天の警告的次元のメッセージを持って、この場に出てきました。
歴史上、誰も明確に知ることができなかった神様の事情と心情を、皆様に明らかにすることによって、今摂理的終末期に処している人類が果たす責任と方向性を正しく提示しようと、きょう私は「神様の心情の解放、釈放のための孝子、忠臣になろう」という題目でお話ししようと思います。
神様の恨と悲しみ
真の愛の本体であられる神様が、なぜ人間を創造されたのかというと、独りでいれば刺激がないからです。喜びというものは、相対関係によってわき出るものです。独りでは喜びの刺激を得ることができません。神様も愛の対象が必要なのです。独りでは愛することができません。このために人間は、神様の真の愛のパートナーである子女として創造されたのです。
このように、神様は人間の父であり、人間は神様の息子、娘です。神様の骨の中の骨、肉の中の肉、骨髄の中の骨髄のすべてを投入して創造されました。父と息子が出会うことのできる最高の場所は、愛が交差するその中心、生命が交差するその中心、理想が交差するその中心です。神様は人間に対して、全知全能であられる御自身と同等、同位の立場に立てるようにおつくりになりました。それで、人間の本心は、最高のものを希望するのです。
創造理想完成は、どこから始まるのでしょうか。それは、神様ではなく、正に人間から始まるのです。神様の理想は神人一体なので、人間の完成がない限り、神様の完成もまたあり得ないのです。そうだとすれば、神様は、人間始祖のアダムとエバが神様に似た無限の価値的存在になることを、どれほど待ち望まれたでしょうか。ところが、アダムとエバが堕落することによって、神様は真の息子、娘をもつことができなくなりました。
したがって、真の愛を中心として血統的な関係をもつ、神様の家庭も成し遂げることができなかったのです。その代わりに、偽りの父母により、偽りの愛と偽りの生命と偽りの血統の因縁を結ぶことによって、堕落の子孫である私たちには心と体の闘いが起きました。そして、アダムとエバは怨讐となったのであり、彼らの息子、娘たちの間には殺戮が起きました。結果的に神様は、アダムとエバを真の人類の先祖として、人類の父母として、御自身の息子、娘として向き合うことができなくなりました。神様は、二人といない息子、娘、永遠のひとり子とひとり娘を失ってしまわれたのです。
堕落と血統
堕落が男性と女性の間で起きたというのは、聖書の文字どおり、善悪の実を取って食べたことなのでしょうか。果物を取って食べたことが原罪になるのでしょうか。異性間で堕落するのは、過った愛しかありません。人間始祖が果物を取って食べたことによって、その子孫が千代、万代、罪人になることはありません。それは、血統的に罪の根を植えたので、遺伝法則によって永遠に持続されるのです。
不倫な淫行関係によって、エバは、天使長と一つになり、次に、アダムと一つになることによって、アダムとエバは、神様を中心とせずに、天使長を中心とした夫婦関係を結んで家庭をつくるようになったので、アダムとエバの子孫であるすべての人間は、結局サタンの血統を受け継ぐようになったのです。本来、創造理想の中で、愛は所有権を決定するようになっています。したがって、一旦、愛の関係を結べば、その愛を中心とした主体と対象は、互いの所有権をもつようになるのが原理です。このような原理的基準で、天使長が堕落して悪神になったサタンは、不倫の愛の因縁を通して、堕落人間に対する所有権を堂々と主張できるようになったのであり、人間の本当の父が神様でいらっしゃるのに、かえってサタンが父の振る舞いをしているのです。それで、ヨハネによる福音書第八章四十四節でイエス様は、「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている」と叱責されたのです。
今日のキリスト教徒たちは、み座の上にいらっしゃる万軍の主は全知全能でいらっしゃるので、自由に号令され、万事思いどおりにできると思っていますが、実際の神様は恨を抱いて悲惨な立場にいらっしゃる方です。純粋な本質的愛をもった神様のみ前に理想的対象として描かれたアダムとエバが、堕落して離れていったとき、神様の心はどれほど悲しまれたことでしょうか。堕落の当事者より、そしてこの世のいかなる人よりもっと悲しまれたのです。失ってしまった内容が深ければ深いほど、そしてその価値が大きければ大きいほど、その悲惨さはより一層大きいのです。そのような神様は、失ってしまった子女を取り戻すために、今まで復帰の道をたどってこられました。
神様は、漠然とした方ではありません。具体的な人格を備えた方でいらっしゃいます。ですから、私たち人間と、最高の真の愛の関係をもとうとされるのです。しかし、最高の愛と喜びを人間と共に永遠に分かち合おうとされた神様は、その出発点を人間始祖によって失ってしまわれました。それは正にアダムとエバの堕落のためです。
本然的真の父母の位置にいらっしゃるべき神様が、父母の位置を奪われてしまったのですから、どれほど悲痛でいらっしゃったでしょうか。偽りの父母である怨讐サタンの血統を譲り受け、真の父母が分からない堕落した子女を見つめなければならない神様の心情は、どれほど痛むでしょうか。人間の悲惨な姿を、その瞬間ごとに見つめる神様の心情、父母の心情はいかばかりでしょうか。
宇宙全体とも取り替えることのできない真の愛の実体対象を失うことによって、万物万象まですべて失ってしまい、創造理想全体が崩れるような悲しみの神様になられたのです。天宙の王座を怨讐に奪われた無念な神様になられたのです。絶対信仰、絶対愛、絶対服従の原理を徹底しながら真の愛を投入されたので、堕落の結果に対して、より一層切なく思わざるを得ない神様になられました。神様は、御自身の理想を強奪され、愛する息子、娘を強奪され、天宙の王権を強奪されて、なおもサタンから讒訴を受けてこられたのです。
このような嘆息の歴史は、堕落以後、世界的に訪れるものだったので、創世記によれば、神様も堕落の結果に対して嘆息されました。使徒パウロは、万物が嘆息し、私たちの先祖も嘆息し、全人類までも嘆息して、「被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる」(ローマ八•一九)と語っています。それは、すべてのものが嘆息圏を抜け出すことを願ったからです。
ですから、人間の創造本然の特権的価値を喪失して苦しむ無価値な人生を見つめる神様の内情的心情は、どれほど悲惨でいらっしゃるでしょうか。この人間たちは、本来は、愛と生命、そして血統を通して神様の直系の子女となり、天国の栄光を一身に受けなければならなかったのですが、敗者の仮面をかぶり、苦痛と嘆息と絶望の中で苦しんで人生の幕を閉じる立場に立っているので、それを見つめる神様は、どれほど苦しまれているでしょうか。一般的に信じられているように、全知全能で栄光のみ座に座った神様だとするならば、自分の息子、娘が死んでいくのに、神様はみ座に座ったまま、「こちらに上がってきなさい。私は席を立つことはできない!」と言われるでしょうか、それともみ座を蹴飛ばして下りていかれるでしょうか。