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Wednesday Jan 04, 2023
真の父母経 第15話
Wednesday Jan 04, 2023
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第二章 真の父母様の聖婚と真の父母時代
第一節 真の父母様の聖婚と「小羊の婚宴」
聖婚式と「小羊の婚宴」
ヨハネの黙示録第十九章に預言された「小羊の婚宴」は、真の父母様の聖婚式によって実現された。創世記で失われたアダムとエバを、ヨハネの黙示録で取り戻して一致させるのである。御夫妻の聖婚式は、人類歴史の終末時代に、第三アダムとして来た再臨のメシヤが、その配偶者であり第三エバである聖霊の実体を新婦として迎え、神様が真なる人類始祖の夫婦として祝福してくださる式であった。誤って生まれた人類は、生まれ変わらなければならないため、真の父母が必要である。
アダムとエバが成長期間の長成期完成級で堕落して偽りの父母に転落し、またイエス様までもイスラエル選民から不信され、十字架を背負われるようになったことを蕩減復帰した位置で、真の父母様の聖婚式が挙行されたのである。
1 本来、人間始祖は、善なる父母として出発しなければなりませんでしたが、悪なる父母として出発したため、人間は、すべて悪なる父母の血統を受け継いで生まれました。神様の愛を「私」への愛としてそっくりそのまま受け、神様の懐に抱かれて、神様の直系の愛を通した血族として残された息子、娘にならなければならないのですが、そのようになれなかったというのです。ですから、その本来の立場に帰らなければなりません。これが正に、新郎と新婦を迎える「小羊の婚宴」です。
主がこの地上に新郎として来て、一人の新婦を探し、一つの基準の上に接ぎ木しなければならないというのです。それがキリスト教の主張する内容です。その基準を設定し、確固たる目的を立てた宗教が、キリスト教です。ですから、今日、民主世界がキリスト教文化圏において発展するのです。真の父母を迎えようとすれば、そのように発展しなければなりません。
今まで宗教は、一人の真の息子をつくるために努力してきました。神様は、一人の真の息子を探し出すために、今まで苦労されたというのです。ですから、世界宗教の教主たちの中には、女性がいないのです。(041-028;1971-12-12))
2 数多くの宗教の経書の中で聖書が偉大なのは、神様が人類の親であると掲げてきたからです。これがキリスト教思想の源泉です。その次に、イエス様は「ひとり子である」と言いました。ひとり子は、父なる神様の愛を初めて受けることができる息子です。その次に、キリスト教思想は新婦思想です。イエス様はそのようなひとり子なのですが、新郎として来たのです。そのため、新婦が必要です。ひとり子がいるので、ひとり娘が必要だというのです。
新郎と新婦は、男性と女性です。新郎新婦の宴の日とは、神様が初めて愛の旗を掲げて現れる日です。そのような婚宴の席が、エデンの園から願われてきたのです。これが台無しになったので、人類世界の終末において、この婚宴の席を再び回復しなければならないというのです。(135-125; 1985-10-04)
3 イエス様は、「私は神様の息子だ」と言いました。そして、「神様は私の父だ」と言いました。その次に、「私はひとり子だ」と言いました。ひとり子は、初愛を受けることができる王子です。神様の息子の中でも、初愛を受けることができるひとり子だというのです。初愛を独占できる息子なのです。その次に、ひとり娘がいなければなりません。新郎はひとり子であり、新婦はひとり娘です。結婚式をしなければなりません。それが「小羊の婚宴」です。主がこの地上に来て婚宴をするのです。
「小羊の婚宴」をするようになれば、家庭をつくるようになります。神様が願うものが家庭です。神様が願うのは、人類を神様の愛を中心としてひとり子とひとり娘とし、神様が本当に愛し得る家庭をつくることなのです。(160-272; 1969-05-17)
4 聖書を見ると、「終わりの日」には、メシヤが来て「小羊の婚宴」をするという内容が書かれています。「小羊の婚宴」とは、神様の血統関係を中心として夫婦になることです。そのようにして、人類の真の父母が現れたとすれば、サタンは存在できません。血縁的関係を中心として、その血統を結んでくれるのが、父と母、男性と女性、性相と形状の実体です。
神様の愛を動機として生命を動かし、愛と生命と血統が一つになって渦巻くのです。その中で女性と男性の主人が入れ替わり、二人が一つになって共に「主人だ」と言えるところから、生命の種、子孫が連結されるのです。それが創造理想です。ところが、そのようなものがすべて壊れてしまいました。それを取り戻すためには、代わりに万物を取り戻し、人間を取り戻し、父母を取り戻さなければなりません。これが救援摂理の骨子です。(325-131; 2000-06-30)
5 再臨主が来られて婚宴をすると言われています。婚宴、つまり「小羊の婚宴」をするには、イエス様を中心として新婦がいなければなりません。その新婦が、堕落する前のアダムの前にいたエバです。イエス様は第二次のアダムであり、来られる再臨主は第三次のアダムです。ですから、第三次のアダムが、堕落する前のアダムとして来て、堕落する前のエバを探し出し、「小羊の婚宴」をしなければならないのです。
結婚することによって人類の父母になるべきアダムとエバが、堕落したことによって悪なる父母になりました。それで、私たちが堕落する前の善なる父母に出会うようになれば、復帰されるのです。ですから、人類には善なる父母がいなければなりません。「小羊の婚宴」をするのは、善なる父母として即位するためです。
6 人間は本来、堕落せず、時と環境を整えて神様の祝福を成就した真の先祖にならなければなりませんでした。ところが、それができずに堕落した先祖になったので、万民の前に堕落していない善の先祖が登場しなければなりません。その人は、天にいる霊人たちにとっても父であり、地に暮らす人たちにとっても父になれる方です。そのような方を、キリスト教では再臨のイエスといいます。
「小羊の婚宴」は、再臨のイエスが父として来られて、母を立てる祝宴です。キリスト教の真理とは、正にこのことなのです。キリスト教の中心はイエス様であり、イエス様の中心は愛です。聖書の中心も愛です。愛の中心は新郎と新婦であり、新郎と新婦の中心は「小羊の婚宴」です。この「小羊の婚宴」の中心的な意味は、本来、神様が許可した時と環境を整えて、天と地を相続できる真の人間先祖として祝福を受けることなのです。
7 神様は、失ってしまったアダムとエバの代わりの存在を求めています。聖書では、イエス様を後のアダムと言い、完成したアダムを生命の木と言っています。ですから、イエス様は、失ってしまった生命の木の代わりとして来られた方です。
しかし、イエス様は、使命を完結することができませんでした。神様と息子が喜ぶことができる一日をもつことができなかったので、再臨という言葉を残すようになったのです。神様がイエス様と共に喜ぶことができる一時、六千年の恨の心情を吐露し、神様と、あるいは今後来られる主と息子、娘の関係を結ぶ日が来るのです。神様のひとり子、イエス様がこの地上に来られて、もし亡くなっていなければ、イエス様がひとり子だと語ったので、神様は彼のためにひとり娘も送られたでしょう。
神様の二千年の(キリスト教)歴史は、新婦を求めるための歴史です。イエス様は、真の息子の姿で現れましたが、真の娘の姿がないので、神様のみ旨を成し遂げることができませんでした。ですから、二千年のキリスト教の歴史は、娘を求めるための歴史です。聖霊は、神様の娘として来られました。神様を解怨するその日が、「小羊の婚宴」の日です。(004-303; 1959-10-11)
8 今まで宗教は、理想的な一人の男性と理想的な一人の女性を求めてきました。神様が「この人は、私がありったけの愛を注ぐ人だ」と言い得る、一人の男性と一人の女性を求めてきたのです。キリスト教でいう新郎と新婦とは、世界をすべて網羅して、神様の愛を受けることができるひとり子とひとり娘を探し出すことを意味します。完成した男性と女性がこの地上で出会い、婚宴を行ってこそ、新しい世界が開かれるのです。ですから、来られる再臨主は、新婦を探し出して「小羊の婚宴」をしなければなりません。(041-027; 1971-02-12)
9 人間が堕落していなければ、原罪のない息子、娘を生み、そのまま天国に行ける家庭をもっていたはずです。そこに立った父母は真の父母です。また、その家庭は、神様と一つになった家庭です。その息子、娘は、神様の家庭の子孫です。このようなみ旨を創世記で成就できなかったので、ヨハネの黙示録に至って、新郎と新婦の名を立てて成就しようというのです。
新郎は、完全な真の父として来られる方です。新婦は、神様が愛することのできる真の母として登場する方です。アダムとエバが堕落していなければ、神様を中心として結婚式をしたはずですが、堕落したことによって、サタンを中心として結婚式をしてしまったので、それを取り戻して神様を中心に初めて聖婚式を行うというのが、ヨハネの黙示録にある「小羊の婚宴」という言葉なのです。