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Saturday May 20, 2023
真の父母経 第177話
Saturday May 20, 2023
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第二節 平壌大同保安署での受難
真のお父様は、天が備えられた韓国のキリスト教指導者の不信により、新たな基盤を築くため、一九四六年六月六日、北朝鮮の平壌に到着された。真のお父様の伝道集会は神霊的な恩賜に満ち、多くの信者が押し寄せた。すると、キリスト教の指導者たちによる密告と共産政権の宗教弾圧がかみ合い、平壌到着から二ヵ月後の八月十一日、真のお父様は、韓国政府のスパイであるなどの容疑で、大同保安署に収監された。当時、許浩彬(孝彬)をはじめとする腹中教の幹部たちも大同保安署に収監されていた。
1 お父様が二十七歳の時は、共産世界の平壌に行って闘った時期です。その時代と今の時代とを比較してみれば、皆さんは幸福な人たちです。その時だけでも、七十人以上のキリスト教の牧師が団結してお父様に反対しました。北朝鮮の共産治下でキリスト教がキリスト教連盟をつくり、共産党と一つになって反対する環境で、彼らと向かい合って闘いました。私たちの理念さえもてば、どこに行っても核心要員を引き抜ける力がつきます。
その時、私は平壌の景昌里という所にいたのですが、それぞれの教会では「景昌里に行くとハンサムな異端の男がいるが、彼の話を聞いただけでだまされてしまう」といううわさが立ちました。特に「女性たちは行ってはならない」と、大々的に宣伝されたのです。
2 お父様は、共産党の統治下にある北朝鮮に入っていったのですが、すぐに捕まりました。私が南側から来たので、李承晩の手先だというのです。しかし、いくら調査をしてみても、根拠をつかむことができませんでした。それで、「男のムーダン(霊媒)である」とか「社会を乱す」などと言って捕まえ、閉じ込めたのです。
その時、本当に何度もむちで打たれました。拷問もたくさん受け、ひどい扱いをたくさん受けました。そのような道を歩んできた人です。とても劇的な場面が数多くありました。それらを、希望に満ちたあすを築くための一つの過程だと考えれば、貴重な時間だったのです。
3 サタンは、個人を使って私を攻撃させ、家庭を使って最も憎むように仕向けます。国家をも使って、どうしたら命を奪えるかと、その方法を探し求めています。イエス様の命を奪ったようにとんなことをしてでも命を奪おうとするのです。
ですから、私に反対するために、すべてが動員されました。共産治下の北朝鮮に入って、監獄暮らしをしました。私を韓国のスパイに仕立て上げ、「李承晩政権の手先だ」と言いながら、あることないこと、ありとあらゆる言葉を浴びせかけました。「北朝鮮政権を略奪するための回し者だ」と言うなど、ありとあらゆることをしたのです。命を奪おうとして放り込んだというのです。
その時、「ああ、神様のみ旨も何も、大変でできそうにもない。すべて放棄しよう」と思っていれば、そこで終わっていたでしょう。しかし、「世界が滅びる前に、私が滅びる立場に行くことはできない。世界が残っている限り、生き残らなければならない。いかなる拷問を受けたとしても、死の境地に出くわすことがあっても、神様のみ名によって、神様のみ旨を成し遂げるために闘うのだ」と考えました。
4 私は平壌で共産党に捕まり、手錠をかけられて監獄に引っ張られていきました。日本統治下の時には、日本の警察官に引っ張られて監獄に行ったこともあります。
私は、希望に満ちた心をもって監獄に行きました。なぜなら、監獄に行けば、ある人に会う約束になっていたからです。霊界を通して、ある人に会うように予定されていました。その人に会うために喜んで入っていったのです。そこに行けばこのような人に会えると思うと、それが正に希望の出発になるのです。
5 腹中教の許浩彬氏は、一生涯あらゆる精誠を尽くして信仰の道を歩んでいきました。その背後の歴史を見ると、皆さんには想像のつかない道を歩んだのです。宗教者を怨讐のように扱う共産党の圧制下で激しい拷問を受けても、自分たちの信仰心を守っていきました。
その拷問を受けた内容は、言語に絶するものです。蒸し暑い夏の季節に、彼女たちは苧麻(からむし-ちょま、まお:麻織物の原料)のチョゴリ(薄手の服)を着た身でどれほどむちを打たれたのか、その服が穴だらけになったという話を聞きました。数十回も気絶し、彼女の弟は拷問に耐えられずに死んでいきました。四十人以上の責任者も投獄され、悲惨な状況で拷問を受けました。お父様もそのような立場で、同じ団体の一員とみなされて、投獄されたのです。
6 蕩減復帰原理によって、お父様は、私を待って準備していた集団に会いに行くことはできませんでした。イエス様が亡なられた理由は、彼が新婦を迎えられなかったからです。イエス様を迎える新婦が準備されていなかったからです。それが、イエス様の亡くなった原因でした。
ですから、再臨主が来る時、その準備された集団は、新婦の位置で準備したものをもって訪ねてこなければなりません。もし、その準備された集団の指導者だった許浩彬氏が、主がいらっしゃる所を知るために神様に祈っていたならば、神様がその人にその場所を教えてあげていたでしょう。ですから、お父様は彼らが来るまで待っていました。彼らのいる所に行くことはできないというのです。
その期間にお父様は、アンナのような女性に会いました。その女性は、二つの立場の業をしていました。彼女は、時には天の側で業をし、時には中間の立場で業をしたのです。天の側でなければ中間の立場です。お父様は、その年を取った女性に出会ったのち、許浩彬氏に人を送り、お父様が誰なのかを祈ってみなさいと伝えました。しかし、許浩彬氏は、一つの大きな兆候を期待したのであって、一人の若い男性などは期待してもいませんでした。お父様は、許浩彬氏に特別な人ではなく、普通の人を送ったのです。許浩彬氏は、その人が大きな使命をもっていることを悟れず、彼を送り返しました。そのあとにも、一人の若い女性をその集団に送りましたが、許浩彬氏からは何の反応もありませんでした。その時、許浩彬氏は、自分の集団の幹部たちが一堂に会したとき、自分が受けた「春香が監獄で彼女の夫に会ったように、お前も監獄で主に会うだろう」という啓示を説明していたのです。
7 お父様が平壌で許浩彬氏に会おうとした当時、北朝鮮は共産主義者たちが占領していました。その時、共産主義者たちは、許浩彬氏の集団が人々からたくさんの寄付金を集めて、良い服を作り、良い家を買ったことを知るようになりました。それで、彼らはこの集団の指導者たちを宗教的詐欺師として告発し、彼らを監獄に放り込んだのです。
そして、その時にお父様も、その集団と関係があると告発されました。実際には、何の関係もありませんでしたが、そのように告発されたのです。そうして監獄に入ることになり、その集団の指導者と同じ部屋に閉じ込められました。
許浩彬氏のもとでその集団を率いていた一人の男性が、同じ部屋にいるという状況になったのです。その日が一九四六年八月十一日です。
その集団の指導者たちは、共産主義者たちによって、とても苛酷な拷問を受けました。共産主義者たちは、あらゆる宗敎を抹殺しようとしたのです。
大同保安署での受難と釈放
真のお父様が大同保安署で受けた拷問は、非常に苛酷なものだった。一週間眠らせない、棍棒で袋だたきにするなど、特殊な拷問が加えられた。真のお父様は、百三日目となる一九四六年十一月二十一日、半死半生の状態で釈放された。信徒たちは、お父様が多くの血を吐いて、瀕死の状態に陥っていたため、亡くなられたあとの問題まで議論していたが、奇跡的に回復された。その後、集会所を移転され、引き続きみ言を伝えられた。
8 お父様は、共産党から一週間眠らせないという拷問も受けたことがあります。拷問を受ける時は、「こいつ、お前が耐えるか、私が耐えるか見てみよう」と思い、おもしろい時間だと考えました。普通の人たちは、一週間眠ることができないと、うつらうつらしながらすべてを話してしまいます。
お父様は、目を開けていてもよく眠ります。それを研究しました。その時、訓練をしたので、今も眠気がすると、その方法を利用するのです。また、拷問を受けて、あざができたり、痛いところがあったりすると、それをほぐす方法を研究したので、疲れた時にはその運動をします。私は今でも、普通、一日に一時間だけ眠れば、持ちこたえられるのです。
9 平壌で開拓する時、キリスト教の牧師と長老の夫人たちがお父様のところに押し寄せるので、七十人以上の牧師が投書して、お父様を監獄に放り込みました。南側から来たスパイとみなし、ソ連の共産党まで来て取り調べをするのですが、ひどい拷問を受けました。彼らは真っ赤な部屋で一週間眠らせません。三日眠れなかったら人は狂ってしまいます。
真っ赤な部屋に一人で入れておき、白い座布団に座らせて、三日から一週間、睡眠を取らせないのです。お父様は、「お前が私を眠らせないようにできるか」と思いながら、目を開けて眠りました。眠る訓練をしたのです。目を開いたまま眠るのです。当時、「文某は男のムーダンで妖術まで使うので、聖書に出てくるような奇異なことがそのまま起こる」とうわさになっていたので、横に見張りがいました。
10 お父様は、力もあり敏捷です。できない運動がありません。私が運動するという時には、何をしても三等以内に入らないものがありません。そのような能力のある男でしたが、袋だたきに遭ったのです。
東西南北の十二方位すべてから打たれても、ただ黙って打たれなくてはならない時が一度や二度ではありませんでした。ありとあらゆる拷問を受けました。そのような拷問を受けて打たれても、「打て!こいつら!」と言って耐え抜きました。棒でたたかれても、「打ってみろ!こいつら!」と言ったのであって、情けなく「ああ、助けてくれ!」とは言いませんでした。机の脚(の角材)でたたかれても、「お前が折れることはあっても、私は折れるものか」と思いました。たたかれて歯が半分ほど欠けてしまったこともあります。
お父様がそのような恥辱の場で流した汗は、何の汗でしょうか。大声を張り上げたとすれば誰よりも張り上げ、血を流したとすれば誰よりも流しました。涙を流したとすれば、誰よりも流したというのです。