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Monday Jun 26, 2023
真の父母経 第179話
Monday Jun 26, 2023
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11 興南は、冬に零下二三度まで下がる所です。そのような所でお父様は、単衣の服を着ていても寒いとは考えませんでした。その場で、「もっと寒くなれ。もっと寒くなれ。もっと寒くなれ」と思いながら、それを克服する闘いをしました。寒ければ寒いほど、綿入れのズボンと上着はすべて人にあげ、単衣の服だけを着て仕事をしました。厚い服は人に与え、単衣の服を着ようとしたのです。
また、最も困難な仕事はどこにあるのかと考えて、その場所を訪ねていこうとしました。ほかの人たちは最も易しい仕事を求めるのですが、最も困難な仕事を探し回ったのです。これを越えられなければ死ぬと考えました。そうでなければ、共産党やこの世界を制覇するという考えをもつことはできないのです
12 お父様の歯を見ると、割れているところがあります。監獄で針を作ろうとして割れました。監獄では針が本当に貴重です。手に入れることができないので、作って使わなければなりません。その時、肥料工場に肥料を入れるかますを結ぶために使う手かぎがありました。その手かぎの端を非常に軽く、百回でも千回でもたたくのです。突然強くたたいてはいけません。軽くたたくと平らになります。その平らになったところを、ガラスで裂くのです。
その次に、それを研いで針を作ります。その時、穴が丸いといけないので、歯でぎゅっとかんで細長く作るのです。その次には、これを切らなければならないのですが、切る道具がないので、歯でかみ切るのです。そうしようとしたところ、歯がこのように割れました。今でもこの歯を見るたびに、監獄での生活が思い出されます。
そのようにして針を作っておくと、そのうわさが監獄全体に広まり、土曜日になると針を借りに来るのです。すると王様のように座って、「あなたも受け取っていきなさい。あなたも受け取っていきなさい」と言いながら貸してあげるのです。そうしてから朝、出ていくとみな挨拶をします。そのような時には、針も作れなければなりません。私が精誠を込めて作った針なので、世の中で作った針よりもよく鏠うことができると考えました。
13 皆さんは、共産党の監獄での生活がどのようなものか、よく知らないでしょう。ソビエト革命後、多くのソ連人が強制労働に苦しみました。共産主義理論では、彼らの前に、何らかの有産階級や反共産主義分子たちがいてはいけません。共産党は反対者たちをすべて粛清したいのですが、世界の世論のゆえにそうすることができないのです。そこで共産党は、彼らを強制労働に動員して、厳しい労働によって彼らが死ぬ時を待つのです。
北朝鮮で監獄にいた時、お父様は強制労働収容所に収監されました。北朝鮮の共産党は、ソ連の経験に倣って、すべての囚人たちを厳しい労働に動員し、彼らが死ぬまで放っておきました。
14 重労働をさせて死なせるのが共産主義の作戦です。興南の監獄に入ってから三年過ぎると、ほとんどがみな死んで出ていきます。間違いなく三年以内にそうなります。食べ物をろくに与えずに重労働をさせるので、ここに入ってきた人は、まず死んだも同然です。
この世の普通の人の基準では、一日三食、脂気のある食べ物を食べて精いっぱい仕事をしても、十人で一日に七百かますしかできません。しかし、この工場では、その倍近くの量をしなければならないのです。食べる御飯は少なくて、大きな口で、三口も食べれば終わってしまいます。そうして重労働をするので、朝食を食べて工場に向かうその道で、既に足がふらつきます。そのような足を引きずっていって朝から仕事をするのです。その姿は、本当に悲惨極まりないものです。
15 私が仕事をした興南の硫酸アンモニウム肥料工場に、大きな広場があります。白い硫酸アンモニウムが生産されて出てくると、ベルトコンベアを通ってその大きな広場の真ん中に積もるのですが、滝の水が落ちるように、白いものが落ちてきます。その高さが二十メートルほどになります。そのように高い所から広いコンベアを通って落ちる様子は、滝のように壮観です。それが地面に落ちると冷めるのです。
熱いと固まりになるので、固まらない程度に冷ますために、そのように高い所から落とさなければなりません。落ちて積もった大きな肥料の山はピラミッドのようですが、それをすくって入れるのです。
しかし、時間がたったものは、熱で溶けて、岩山のように固まってしまいます。まるで氷山のように青白くなるのです。そのような肥料の山を中心として、それをすくって袋に入れる作業をします。大きな広場に八百人から九百人が出ていって仕事をするのですが、大きな山を二つに分けて積み上げるのと同じようなことをするのです。
16 お父様は、北朝鮮の共産政権の(興南)監獄に入って、二年五ヵ月の間、重労働をしました。何の労働かというと、肥料工場でする仕事です。硫酸アンモニウム肥料工場で、肥料がベルトコンベアに載せられて、広場の真ん中に落ちるようになっています。その肥料をかますに入れて秤に掛け、貨車に積む仕事をするのです。熱処理をして作るものなので、生産されて出てくる硫酸アンモニウムは熱いのです。それが冷めると塊になります。それを何年もの間放っておくと、岩のようになってしまいます。本当に大変な重労働でした。
一日八時間の労働時間に、一人一人の責任分担があります。十人一組になって仕事をするのですが、一組の一日のノルマは千三百かますです。これを八時間以内に終わらせなければ、食事が半分に減らされることになっていました。
17 硫酸アンモニウム肥料工場で仕事をしたのですが、そこはアンモニアガスが充満しています。ですから、硫酸アンモニウムが皮膚に溶け込み、絞ると水が出るほどです。どこを絞っても水が出てきます。細胞が、半分は死んでいるというのです。そのような環境では、精神力でなければ持ちこたえられません。
そこでは、いくらしっかり食べている人たちでも、三年も仕事をすると肺病になります。ならなければうそです。そのようなアンモニアガスが工場の中に満ちているのです。ですから、大体六ヵ月過ぎて咳をすれば、血の混じった痰が出ます。必然的に、そうなるようになっています。そこできつい仕事に疲れ果てず、自分の精誠の基盤を築き、蘇生した体をもってこそ持ちこたえられるのですが、普通の若者たちはそれを知りません。ですから、お父様が経験を通してそれを指導し続けてきたのです。
18 肥料工場でする仕事は、かますに肥料を入れ、秤に掛けて縛り、引っ張っていって貨車に積むことです。どんどんと肥料をすくい出すので、肥料の山の近くに場所を取ってはいけません。およそ十メートル、十五メートル離れた所からしなければなりません。ですから、その距離の分だけ、引っ張っていかなければなりません。
そうやって、それを港で待っているソ連の船に積み込むのです。数万トン積み込むのですが、それを毎日計算しながら、行わなければなりません。それが間違った場合は、大きな問題になります。国家間の外交問題がかかっているからです。ですから、ノルマは絶対に完遂しなければなりません。
そのような中で、仕事ができなければ二級に落ちるのです。かますを縫う仕事をする二級に落ちると、御飯は半分しかくれません。その次に、それもできなくなれば、縄をなう所に行くことになります。縄をなう所に行くと、御飯は三分の一にしかなりません。それは死ねということです。
結局、一握りの御飯をもらうために、必死になって働きに出るのです。夕方、帰ってきて、ほかの人と同じように一握りの御飯をもらうことが一番の希望なのに、その半分や三分の一をもらうことになれば、茫然とするのです。
ですから、死に物狂いで、御飯のために死ぬまで働かざるを得ないというのです。
19 お父様は、監獄でマラリアを患っても祈りませんでした。かえって、そのような時には断食をしました。「ようし、やるぞ!」と言って、薬も飲むことができずに二十四日間患っても、責任量の仕事を完遂していきました。朝、働きに出掛ける時に、監房から出るように言われます。広場に全員集めておいて、不法な所持品を持っていないか、すべて身体検査をします。そうすると、そこで一時間から二時間が費やされます。こうして九時に作業が始まるとすると、一里以上の道のりを歩いていくのに一時間から一時間二十分かかります。御飯を食べる時間を入れれば、二時間以上はかかるというのです。
ですから、働きに出るとなると、普通明け方の四時半に起きて、九時に作業場に到着するのです。そうやって出掛けて座り込むと、頭が非常にくらくらします。頭がくらくらして、立つことができません。ですから、横の人の肩をつかんで立ち上がるのです。作業場に行っても、自分の力で働くのではありません。
限度を超えた冷酷な監獄の食事
収監者たちには、少量の雑榖御飯と塩の汁物が配給された。御飯は粘り気がなく、大口で食べると、三口ほどにしかならなかった。それでも、仕事をしなければ配給量が半分に減るため、具合が悪くても作業場に出ていかざるを得なかった。御飯を食べながら死んだ人の口の中から、御飯を取り出して食べることもあった。正に、興南監獄は冷酷さの限界線を越えた場所だった。このような所でも、真のお父様は、最初の二、三週間、配当された給食の半分を収監者たちに分け与えられたのである。
20 監獄でお父様は、決して一言も話しませんでした。共産主義者たちの組織を知っていたからです。お父様にとって最も大変だったことは、虚偽の演説を聞いたあとに感想文を書くことでした。監視員たちは監視の目をお父様に集中させて、告発する条件を探し求めていました。共産主義者たちは、お父様の部屋にスパイを入れておきました。ですから、お父様は一言も話さなかったのです。
監視員たちは、一人の囚人に御飯を少し多めに与えて、その囚人を手先として利用しました。これは、とても簡単にできることです。共産主義の世界では、御飯で人々を操るのです。皆さんが御飯を食べながら、時々、石が入っているときがあると思いますが、ある人はそれを吐き出すでしょう。しかし、囚人たちは、吐き出したものまでも、ことごとくなめて食べるほどでした。このような状況が続いたのです。
21 お父様は、一九四九年十二月十七日から二十一日までの期間を、一生忘れることができません。当時、監獄に入っている人には、大概とうもろこし御飯や燕麦御飯、それから豆かすのようなものが与えられました。殺すことができないので食べさせるのです。
その期間には、そばを半分しかひいていないもので作られた御飯が与えられました。そのようなものを配給して食事にしたのです。それを最初に食べたときは、肌がむくみました。そばの御飯だけを食べると腫れるのです。その御飯を食べるとき、御飯に気をとられた人たちは、胃がどうなろうと食べます。胃のことを考えません。おなかがすいているので、それが食べづらくても、そのままごくりとのみ込んでしまい、病気になったのです。
お父様はそのことを既に知っていました。ですから、普段、御飯を食べる時間よりも三倍ゆっくり食べました。すべて一つ一つ皮を剥いて食べたのです。ほかの人たちは、その食べ物を食べて、消化できないので顔が腫れました。ですから、食べる時は、唾を倍以上も出すようにして、長時間かんで食ベなければなりません。その時、そば一粒一粒、すべて皮をむいて食べたのですが、それが一生忘れられません。
またその上、仕事は重労働をしました。その時、この世で御飯がどれほど貴重なものかを知りました。米一粒がどれほど貴いかを、その時に知ったのです。食膳が出されると、その時のことが思い出されます。