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Monday Oct 30, 2023
真の父母経 第309話
Monday Oct 30, 2023
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超教派運動の必要性とその方向性
真の父母様は、アベル圏である統一教会とカイン圏であるキリスト教団を一つにさせることにより、神様に侍ることのできるアベル型国家として大韓民国を立てようとされた。このような趣旨のもと、一九六〇年代の中盤から本格的に展開された超教派運動は、教派間の和合と一致運動の典型として定着しながら、韓国の宗教界において大きな新風を巻き起こした。
6 アベルはカインを屈服させ、実体基台を立てて子女を復帰すると同時に、父母を復帰する条件を立てなければなりません。その条件を立てようとすれば、アベル一人ではできず、カインと一つになって立てなければなりません。そのような面で、アベル的教団である統一教会とカイン的教団であるキリスト教が一つにならなければなりません。
このように、互いが協助し、サタンを完全に屈服させることができる時が来るのです。ですから、私たちは、カイン・アベルが一つになる条件を立てるために、超教派運動をしています。
7 私たちの前には、今、超教派運動が次第に急迫した問題となっています。統一教会は今まで、アベル的な基準に立ち、エサウに排斥されたヤコブや、兄弟に排斥されたヨセフのような立場で歩んできました。しかし、今の時は、私たちが排斥された基準から次第に上がっていくのです。
ヤコブで言えば、還故郷をしたとき、自分が離れる前の故郷を再び回復できる時代に帰ってくるのです。
ヨセフで言えば、自分の兄たちが訪ねてきた時、彼らは怨讐の立場にいたのですが、飢えてかわいそうな境遇にいるので、養ってあげなければならないのです。そして、その兄弟たちの難しい環境が、ヨセフによってすべて解放されなければなりません。そのためには、エジプトの物、すなわちヨセフの管轄圏内の物を持ってきて、与えなければならないというのです。
また、ヤコブがもっている物もすべて持ってきて、与えなければなりません。このように財物を与え、ヨセフは父親から天の相続を受けようとし、(かつて)ヤコブも父親から祝福を受けようとしたのです。それが目的です。これを、兄たちが喜ぶ立場で受け取るようになれば、この世にある物質は問題ではありません。兄さえ訪ねてくれば、サタン世界の物質は根こそぎ入ってくるというのです。そのようにすることによって、すべて蕩減復帰されるのです。
8 兄のカインに会える時が来ました。キリスト教に会える時になってくるので、超教派運動をしなければならないのです。ヤコブが物質を中心として犠牲になり、自分の兄を生かすために苦労したのと同じように、私たちは、大韓民国を生かすために、物質を基準として、この国で奉仕しなければなりません。原理的な条件を明確に立てて蕩減していかなければ、押されていくのです。ですから、超教派運動をするのです。
キリスト教を兄のように思って接するのです。キリスト教は兄と同じです。ハランに避難したヤコブは、故郷に帰ってくる時、自分が二十一年間、精誠を尽くして集めた僕と財産をエサウにすべて捧げようとしました。そうして、エサウは物質を手にし、神様の祝福を受けました。私は、たとえ負債を背負うことになるとしても、そのようなことをするでしょう。
9 今や、いかなる教団も、世界的な宗教と連結されなければならず、哲学も、世界的な哲学基準に連結されなければならず、政治も、世界的な政治と連結されなければなりません。私たちは、このような基準を国家的次元で築いておかなければなりません。そのようにしなければ、天が守勢の立場から攻勢の立場に変わることができないのです。
そのようにしようとすれば、キリスト教を中心として、統一教会が多くの宗教を糾合しなければなりません。そのために、一九六六年から超教派運動を展開しているのです。
言い換えれば、キリスト教を中心として超教派的活動を展開して、彼らと私たちが共通の立場を取っていることを自他共に公認し、国家的な次元でも、統一教会の教理がいかなる宗教の教理よりも優れていることを公認させなければなりません。
10 私が今まで天宙史的な責任を背負いながら苦心してきたこととは、この民族とキリスト教と私たちが一つになるその一日を、どのようにして迎えるかということでした。この民族とキリスト教と私たちは、一つにならなければなりません。今まで復帰摂理において、神様が時代的な使命を背負った人々を送るときは、どのようにして既成宗教と国を収拾し、一つになる基点を立てるかということが常に問題でした。ですから、既成宗教に歓迎される一つの方向を模索しなければならないのです。一つにならなければならないというのです。
11 超教派運動は、すべての教会を救ってあげるためのものです。その昔、弟アベルの命を奪ったカインを復帰しなければならないのです。アベルが打てば滅びます。愛によって抱いてあげなければなりません。これが統一教会の運動です。ですから、借金をしてまで、この運動をしているのです。
宗教をどのようにして糾合するかが問題です。これが私たちの課題です。ここには、皆さんが分からない苦しみがあります。
そこにお金が必要になれば、私が借金をしてでも、足場を築かなければなりません。そして、私の子女を愛する前に、彼らを愛によって屈服させなければなりません。愛する子女をあとにして、まず怨讐のために尽くさなければならないのです。自分の子女よりも、怨讐をもっと愛したという立場に立たなければならないというのです。そのようにするとき、解放の門が開かれます。統一教会は、今までそのために努力してきました。
12 本来、メシヤは、実体基台を完成し、教会と民族圏を中心として来られる方です。ユダヤ教とイスラエル民族がイエス様を迎えることができる基準は、長成期完成級に該当します。ですから、統一教会は、国だけでなく、キリスト教に対しても新たな影響を及ぼさなければなりません。そうして、ユダヤ教とイエス様が一つになり、イエス様とイスラエル民族が一つになるべきだった基準に立たなければなりません。
ユダヤ教とイスラエル民族はイエス様を打つ立場に立ちましたが、今は、そのようになってはいけません。イエス様がユダヤ教とイスラエルの国に影響を及ぼすことのできる位置を完結しなければならないのです。そのようにしなければならない使命が、私たちにあります。これを合わせるために、超教派運動と宗教協議会の活動をするのです。
13 私たちは、キリスト教徒たちに、「私たちは等しく、神様を父と信じているのは間違いないのではないか。ぶどうの木ややまぶどうの木のように、枝が少し違うだけで、形は一緒ではないか」と言って、説得しなければなりません。そのようになれば、私たちの教会は超教派運動もすることができ、宗教協議会の運動もすることができます。このように、キリスト教と一つになって、宗教を信じない人々が神様を信じるように導かなければなりません。
私たちが主動的な立場に立って、信仰をもっていない人々を伝道しなければなりません。そのためには、キリスト教が復興会をするとき、統一教会員たちが行って、伝道もしてあげなければなりません。私たちがそれこそ、親和を図る行動をしなければならないというのです。
14 超教派運動をしている人々は、もともと私の怨讐だった人たちです。私たちは麦だけの御飯を食べて貧しくしていますが、彼らに同情することができるので、どれほど偉大かというのです。そのような人々に対して悪口を言うのではなく、同情し、慰労して、彼らのために祈る人は、どれほど偉大かというのです。宗教者でなければ、誰がこれをするのかということです。
そうして、神様が「歴史始まって以来、私が愛することができる人に出会った」と私に言われるならば、私は「畏れ多いお言葉です。私は後ろに退きますので、統一教会の群れを愛してください」と言うのです。これがお父様の思想です。「私は愛を受けなくても大丈夫です」と言うのです。これが神様の思想であり、イエス・キリストの思想です。
15 私たちは、善悪の分岐点に立っています。このことをいつも考えなければなりません。私は、(ここから)転換していきます。それでは、どのような道が最も早い道でしょうか。怨讐を愛する道は、一八〇度で転換することができます。それを見れば、イエス様は、このような世界を知っていた方です。私が霊界からすべてのものを探し求め、人生のどん底や高い所をすべて調べてみると、その方は正に真理、真の世界の深い内情を知っていた方でした。
ですから、統一教会のためよりも、キリスト教のために、超教派のために、経費をより多く使っているのです。皆さんが飢えても、皆さんを苦労させても、そのようにしています。
なぜでしょうか。統一教会が、既成教団を愛することによって端から端に、国の怨讐を愛することによって端から端に、転換する幅が広がるのです。
16 キリスト教から見れば、ユダヤ教が兄の立場にあり、統一教会から見れば、キリスト教が兄の立場にあると私は信じ、主張しています。キリスト教とユダヤ教が一つになったならば、今日、この世界は、このような悲惨な世界にならなかったでしょう。
イエス様のみ旨を中心として見るとき、再臨という言葉をめぐって、今日の歴史は数多くの犠牲的代価を払い、現在の世界的な情勢、思潮圏内に入ってきています。
この時代に新しい宗教である統一教会が出てきて、キリス教にとって問題になり、世界にとって問題になっていますが、これがある個人の一念から始まったものであるとは、微塵も考えることができません。間違いなく、背後で神様が役事(働き)したというのです。私の生涯を通して、成し遂げることができないような様々な出来事を経験するたびに、天との直接的な解決方策に従って順応することにより、困難な峠道を経て、今日の名声をもつ統一教会になったのです。私たちは、神様を中心として、神様のみ旨を成就するために、ユダヤ教とキリスト教、そして、統一教会がその道を行くと考えるのです。