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Saturday Jan 28, 2023
真の父母経 第32話
Saturday Jan 28, 2023
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第二節 真のお父様の家系
家門の伝統
南平文氏(ナムピョンムンシ)の始祖である武成公(ムソンゴン)・文多省(ムンダソン)は、西暦四七二年二月に、今日の全羅南道(チョルラナムド)羅州市(ナジュシ)南平邑(ナンピョンウプ)楓林里(プンニムニ)にある、長者淵(チャンヂャヨン)という池の近くにある大きな岩の上の石箱でお生まれになったが、その石箱には赤い字で「文」と刻まれていたと伝えられている。南平文氏の族譜を見ると、新羅時代の慈悲(チャビ)王が、夢の中で「この国に特別な赤ん坊が生まれたので探しなさい」という命を受け、南平にある文巌(ムナム)という岩で泣いている赤ん坊を探し出したところから、文氏の先祖が出発したと記録されている。また、文多省は、真興(チンフン)王の時代に輔相(ポサン)(大臣を従え、国王を助けて国を治める人)を兼ねて大国師(テグクサ)(国王の学問上の師)に昇格したのち、端正な容貌をした人々を選んで、風月主(プンウォルヂュ)(花郎徒-ファランド-の首長)と呼び、孝、忠、義を教えたという。真のお父様は、「南平文氏は、伝統的に良心的であり、操を立てて不義と妥協しない、恐るべき頑固さをもった一族」とされ、「八道江山(パルドガンサン:韓半島全土)から我が家を訪ねてくる人は、誰であっても厚くもてなしてから送り出しなさい」という家門の伝統があると語られた。
1 世界の人々は、お父様の血統がどこに連結されているのかを探ります。大韓民国の歴代の先祖たちが犠牲になった土台の上に連結されているのです。犠牲とは何かというと、肥やしになることです。肥やしのある所に生命の種を植えると、よく育ちます。歴史時代に受難を経て、苦痛を受けたその民族は、生命の種を受けてすくすくと育てることができます。このような受難を経た地域では、聖人が出生するのです。義の人、義の主張、義の国、義の主義が発生するようになっているのです。
2 お父様は、南平文氏です。南平という言葉は、南の平地を意味します。南とは理想のことです。南の国に平地を築いていける活動舞台、自然舞台が待っているというのです。文は「文章」の「文」の字です。文の字を見ると、「又」の字の上に点(、)を載せているので、祭祀にお供えするお膳と同じです。
ですから、文氏は祭司長の責任を果たさなければなりません。祭主にならなければならないのです。祭物を供え、神様の恨を解いてさしあげる祭主にならなければならないということです。私はそのように考えて生きてきました。
3 自分の先祖の中で、国の忠臣や聖人、聖子の功績をもつ人がいれば、その人を先祖の中の先祖として奉らなければなりません。文克謙(ムングッキョム)という方は、高麗時代に、武官と文官の間を行き来しながら和解を取り結ぼうとして客死しました。文克謙おじいさんは、歴史的な伝統をわきまえて、朝鮮時代五百年の歴史を綴り得る橋を架けたのです。そして、綿の種を中国から持ち込んだ文益漸(ムンイクチョム)おじいさんから二十三代目に私が入っています。
4 私の家は、曽祖父が引っ越してこられてから定州に住み始めたのですが、家には家訓があります。その家訓とは、「八道江山を慕いつつ、八道江山から貴い客が訪ねてくることを願い、来る客人たちを、真心を込めてもてなしなさい。通りすがりに訪ねてくる客人たちを、真心を込めてもてなしなさい。そうすれば、八道江山の福が、我が一族に訪れる」というものです。
ですから、訪ねてくる客人の接待に手抜かりがあってはいけないというのです。その背後に何がついているのか分からないので、この上ない真心でもてなして送り出せば、後代に福がやって来るのです。「三千里の全土から訪れる福なので、その福はそのような基盤の上で出会うようになり、そのような基盤を通して福を受ければ、さらに三千里半島を越えて世界に分け与えられる福が押し寄せてくる」と考えるのです。
5 私が両親に有り難く思うことは、家訓があるために、「家に出入りする人を絶対にそのまま帰さずに、必ずもてなしてから送りなさい」と言われたことです。乞食が来たといって冷遇してはいけないというのです。私の祖父もそうでした。伝統がそうだったのです。
冬に乞食が訪ねてきて「御飯を下さい」と言えば、食事中でも祖母や母が即座に出ていくのですが、準備をしていなければ、祖父が自分のお膳を持って出ていくのです。知らないふりをして御飯を食べることができません。乞食に食事をあげて、自分は食べられなくてもかまわないというのです。私は、今まで世界の人々のためにそのようにしました。
湖南(ホナム)地方、嶺南(ヨンナム)地方など、八道江山(パルドガンサン)の人々が、以北(現在の北朝鮮)を経て中国に行くときには国道を通っていきます。村に来て一晩泊まっていこうとすると、「あっちに行けば文氏の家があるから、そこに行って泊まりなさい」と教えられるのです。それで、私の家はいつも、春夏秋冬、四季を通して客間が空いていませんでした。ですから、食事の用意をする母が、一生の間苦労したことを私は知っています。八道の人々に御飯を食べさせた、その家門は滅びないのです。八道から歓迎される後裔が生まれるというのです。
6 私の家には、いつも人がたくさんいました。私が八歳の頃、眠りから覚めて起きてみると、見知らぬ人たちで客間がいっぱいでした。そうして夜に宴会をしました。どうして集まっているのかと尋ねてみると、「独立軍が来た」と耳打ちするのです。その時、その人たちは天幕のような所で寝泊まりし、屋根にも上って歩き回り、塀も片手を付いて飛び越えるという話をたくさん聞きました。
その人たちに、夜食として麵料理を作ってあげました。鶏を料理して麵を作るほうが、御飯の仕度よりも早く、たくさんの人に食べさせることができるからです。おなかをすかせた人がいれば、主人が食べられなくても、彼らに食べさせなければならないというのが家訓でした。そのような教育を受けたのです。
7 真の父母の家門にも、愛国忠臣の歴史的伝統を備えなければなりません。私の家では、不思議なことに、家族の中で誰かがたばこを吸ったりお酒を飲んだりすると蕁麻疹(じんましん)が出ます。お酒も飲めず、たばこも吸えません。また、家庭の伝統で立派な点は、妾を置いたことがないことです。ですから、私の祖父の代から見ても、儒教思想を中心に最高の信仰をもってきました。
私の従祖父は牧師でしたが、預言書に関するすべてのことに通じていました。私の母や家族も、祈ると未来について知ることができました。
真のお父様の家族
南平文氏が平安道と咸鏡道(ハムギョンド)一帯に根を下ろしたのは、忠宣公(チュンソンゴン)・文益漸(ムンイクチョム)の五人の息子のうち、三男の毅安公(ウィアンゴン)・文中實(ムンヂュンシル)の時からであり、その中で毅安公の五代目の子孫である文達(ムンダル)が平安北道の定州に定着した。真のお父様の高祖父・文成學(ムンソンハク)は、毅安公の十九代目の子孫に当たり、禎浩(チョンホ)、禎機(チョンギ)、禎紇(チョンフル)など、三人の息子をもうけた。その中で末息子の文禎紇が、正に真のお父様の曾祖父であり、上思里に初めて基盤を築いたのである。
そして、文禎紇は、致國(チグク)、信國(シングク)、潤國(ユングク)の三人の息子をもうけたが、長男の文致國が真のお父様の祖父である。文致國は、真のお父様について、「この子は将来、大きな人物になるので、彼が願うことは何でも助けてあげなさい」と語った。文致國は、慶裕(キョンユ)(一八九三年、陰暦七月十一日~一九五四年十月十一日)、慶福(キョンボク)、慶球(キョング)など、三男二女をもうけ、文慶裕忠父様は、延安(ヨナン)金氏の慶繼(キョンゲ)(本名は周觀(チュグァン)、一八八八年、陰暦十月十五日~一九六八年一月七日)忠母様と婚姻をした。忠母様は定州の有力者で、独立運動と五山学校の設立にも携わった父・金伯洪(キムペコン)と母・仁同張氏(インドンチャンシ)のもと、三男二女の長女として生まれ、朝鮮時代に最も多くの科挙合格者を輩出した延安金氏の家門で富裕な生活を送りながら、貞潔で気品を備えた姿に成長した。背が高く、闊達、情熱的な性格だった忠母様は、真のお父様の再臨路程において、完全な母子協助の摂理基盤を築く犠牲的な人生を送った。
8 私の家庭は、曽祖父の時に神様の祝福を受けました。しかし、祖父の時になって蕩減を受けました。祝福を受けたあとには、蕩減を受けることになります。イスラエル民族も、祝福を受けたあとには、必ず蕩減を受けました。十の祝福を受けたならば、必ずそれだけの蕩減を受けなければならないのです。
ですから、私が神様の召命を受けるまでに、私の家庭に相当な混乱が起きました。財産を失い、人命被害もありました。それだけではなく、私の身近な人々に混乱が起きたりもしました。このように、祝福を受ければ、絶望的な状態に至るまで、神様はその家庭をサタン世界に差し出します。そうすると、サタン世界がしきりに打つのです。三代にわたって蕩減の歴史がありました。