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Thursday Jan 11, 2024
真の父母経 第387話
Thursday Jan 11, 2024
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9 お母様は、自分が良いと思うものがあれば、それを食口たちにすべて分け与えようとします。どこかに出掛けなければならないとき、着る物がないことがたくさんありました。自分だけを中心として喜んではいけないと考えるのです。
第一に、霊感が鋭いことについて天に感謝し、第二に、み旨に対して絶対に従順であろうとすることに感謝し、第三に、自分のものを、自分のものではなく世界のものとして、そのままためらわずに分け与えようとすることに感謝します。しきりに与えるので、かえって神様が心配されるほどの天性に恵まれているというのは、母としての性格を備えているということです。
それで、今考えてみれば、これまで私たちの家庭に多くの子女を下さったことや、これらすべてのことは、神様が私たちの家庭を祝福してくださったからだと思うのです。ですから、皆さんは自分を中心とした考えをもってはいけないというのです。
10 今まで、私は誰にも負債を負いませんでした。精誠を尽くすことにおいても、祈ることにおいても、負債を負いません。負債を負わないというのがお父様の哲学です。楽な生活をしようとは思いません。このような面に、誰よりも多くの神経を使うのです。統一教会の誰よりも、時間と精誠の量において何倍にもなる内容をみ旨のために投入しています。そのような面で、皆さんに負債を負わないというのです。
11 み旨の道を歩む時に、世話になろうという人は、父母の肉をえぐる人であり、骨を削る人です。私は、天のみ前に負債を負おうと思いません。負債を負わせようとするのです。神様が私の前に現れて、「そろそろ少し休みなさい」と言うそのような場でも、どんなことをしてでも行こうとします。それでも休まない私を見て、一人座って泣く神様を父として、侍ろうとするのが、生活哲学であり、志操です。それを誰かが教えてくれたのでするのではありません。
神様の心の底からにじみ出る感謝の応えとして、「一度会おう。会いたい」と言える父子関係のために、そのような絆のために、今まで生きてきてみると、天の保護を受けたのです。ですから、滅びませんでした。だからといって、私が立派だというのではありません。知れば知るほど、ますます下がっていかなければならないのです。
12 中心存在になれば、負債を負ったものはすべて返さなければなりません。また、中心存在は責任を負わなければなりません。私が一つ一つ見て回ることができなくても、道端で皆さんに会えば、私の財布にあるお金をすべて取り出してあげるのです。一銭も残さずにあげるのです。その一人は、一個人ではありません。統一教会員全員に、そのようにあげることはできないので、条件としてその人に与えるのです。私の精誠に従い、私が行く道を助けようという人は、私以上に福を受けなさいというのです。そうすれば滅びません。
私は三十代まで、み旨のためにそのように生きました。学生の時、父母がお金を送ってくれれば、かわいそうな人にすべてあげ、歩いて通いました。その時は電車賃が五銭でした。和信(ファシン)百貨店から鷺梁津(ノリャンヂン)に行くときは、必ず積善をしていきました。このように、万民の恨を抱き、「お父様、道端で乞食の生活をするこの民に、私が今与えるお金はいくらにもなりませんが、あなたの心の中において、民族解放とともにこの地の上に富が訪れ、万民が仰ぎ見る国になるようにしてください」と祈りながら、涙を流した生活が忘れられません。
13 お父様は、天のために同情してくれた、忘れることができない人々には、最高のものをもって報いようとする人です。み旨に従っていく道で皆さんに苦労をさせますが、お父様は無責任な人ではありません。苦労をさせれば、責任を負うというのです。地上で責任を負うことができなければ、霊界に行ってでも責任をもつというのです。ですから、お父様とそのような誓約をして行く人は、幸せな人だと思うのです。私は絶対に裏切ることができない人です。少しでも世話になれば、(それを返さない限り)気が済まない人です。根がそうなのです。神様がそうです。神様は、世話になったままでは我慢ができないお方です。自分のために十のことを尽くしてくれれば、その何百倍、何千倍にして返してあげようとするお方です。皆さんもそのような性分でなければなりません。
真の主人の人生と家庭生活
真の父母様は、孤独で寂しい御自身の人生を「ホルロアリラン」の歌詞に比喩されたこともある。原理を探し求めるときも、困難を窮める復帰摂理の路程を開拓しながら一歩一歩前に進むときも、ただ一人で闘い、勝利されたのである。また、真の父母様の万物愛は、この上ないものだった。堕落以来、真の主人を迎えることができなかったその恨と悲しみを知り、万物と交流しながら創造本然の愛と美を与え合う喜びを感じられたからである。そして、神様の創造理想は家庭を基盤として実現されるため、真の父母様にとって家庭は何よりも貴いものであった。真の父母様は、常に手をつないで歩かれ、公的、私的な場でいつも共に過ごされた。しかし、生涯全体が公的な生活だったため、忙しい日程の中で子女様と一緒に過ごす時間はほとんどなく、家庭を祭物にして人類一家族の理想を成し遂げることに全力投球されたのである。
14 お父様は、鉱山でトンネルを掘るチャンピオンです。坑木(こうぼく)まで設置できる人です。私は石炭を掘る人になっても、追い出されて監獄に入り囹圄 (牢獄・獄舎)の身になったとしても、死ぬ前にこのような世界を通してみ旨の版図を築いておいてから逝こうと考えたのです。ですから、炭を焼くことまですべて知っています。それゆえ、商売でも何でも、すべてに精通しているのです。
いくらヘリコプターに乗せられ、パラシュートで動物たちの棲む谷間に投下されても、飢え死にしません。動物たちが棲む所にも、食べる物はすべてあります。毒きのこはどのようなもので、草はどのようなものが食べられるか(を知っていて)、魚がいれば、釣り竿を自分で作れるので釣りもすることができます。魚を三匹だけ捕まえれば、一日は食べて暮らせます。このようにして、いくらでも生きていけるのです。そのため、生活の恐怖がありません。ですから、統一教会員は、「三十三歳まで苦労しなければならない」というのが生活哲学です。
15 お父様は、空を掛け布団にして、どこに行っても幸せに暮らします。友達がたくさんいるのです。自然すべてが神様の被造物ですが、その自然を友達にして暮らすことができるので、寂しくありません。ですから、幸福な生活をし、どこに行っても一人で生きていくこともできるというのです。それゆえ、幸福の先祖になることができ、血統の先祖になることができます。血統に似なさいと言い、生活方式に従いなさいと言うのです。そのようにしなければ、天国に行けません。それは、経験と実験を済ませた結論なので、正しい結論にならざるを得ないのです。
16 お父様は、何も持たずに南米に行きました。すべての人が「行ってはいけない」と言いました。アメリカに私を愛する人がたくさんいます。行けば追い出されると思って、行ってはいけないと勧告した人が多くいるのです。そのような学者たちもたくさんいました。
「行けば滅びることもある」と思って行った人が、滅びましたか、栄えましたか。滅びるとまで覚悟して行けば、滅びません。このような普遍的な思想をもち、それを自分の生涯の哲学として活用できる人が、知恵深い人です。これが生活哲学になっています。
ですから、できないという思いをもったことがありません。他の人ができないということも、私が手を付けさえすれば、三年以内にすべて成し遂げるのです。そのようにしないからできないのです。釣り場に行けば、世界的な記録を打ち立て、運動をしても、すべての面でチャンピオンです。
17 私は、家に行って部屋に入れば、靴下を脱いでしまいます。ネクタイも、特別な日でなければ締めません。締めずに節約して、飢え死にする世界の人々を助けてあげようというのです。空気が澄んでいるときは、服を一日着ても襟が汚れません。ですから、服を一日だけ着て洗濯しようとはしないのです。
ところが、脱いでおくと、持っていって洗ってしまいます。私は、服を脱ぐとしても、そのようにできないようにしておくのです。また、洗濯かごに入っていれば、取り出してまた着ます。そのように生きなさいというのです。節約して残し、世界の飢え死にする人々を助けてあげようと考えているのです。
18 きょう、私は公式の席上にワイシャツを着て、ネクタイを締めて出てきましたが、これはナイロンですから、いくらもしません。このように暮らすのです。今着ているこの上着は十三ドル、ズボンは七ドルを出して、この前買ったのです。合わせて二十ドルです。このベルトも、値段は安くても、わに皮でできたものよりもっと丈夫です。まさかこのように安物を着ているとは、夢にも思わなかったでしょう。このようなことまで話すのは、皆さんが「お父様の生活の内面を知りたい」と言うからです。このような素朴な生活をしています。自分に対しては質素なのです。
19 私には、自分の所有になっているものは一つもありません。すべて教会を建てるために使いました。私のように節約する人はいません。私のように、自分には無慈悲なけちん坊はいないでしょう。きょうは皆さんが来るというので、スーツを着て出てきましたが、ネクタイをしないでスーツを簡単に着れば、どれほど節約になるでしょうか。これは上と下を合わせて五十ドルあれば買って着ることができます。私はそのようにして暮らしています。そのようにして、どこにでも行くのです。なぜでしょうか。真の父母の名をもった人として、負債を負って生きることはしないというのです。夜も昼も時間を超越して生きるのです。
雨が降る日には、世界の統一教会の宣教師たちが、軒先を眺めて涙を流しながら、食事もできずに夜を明かし、父母様の「万寿無疆」を祈っているはずなのに、私が大の字になって眠り、御飯を食べることができるでしょうか。その思想は、高貴な思想です。そのような思想をもって、一族のために苦労し、投入して、忘れてしまいなさいというのです。そうすれば間違いなく中心存在になります。中心存在は、責任をもたなければなりません。