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Thursday Jan 11, 2024
真の父母経 第388話
Thursday Jan 11, 2024
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20 人は、言葉と行い、このすべてが端正でなければなりません。言行心事、言葉と行い、その次には、考えて働くことが端正でなければなりません。模範にならなければならないというのです。それでこそ、すべての環境に適応できるからです。
私たちはいずれにしても、「私」一人が生きていくのに、このようなすべての過程を経なければならないので、自分自身の生活と教会生活と社会生活を貴重に思うことができなければならないと考え、このような内容を伝達するのです。
今は昔とは違うからです。時が変わりました。そのようなすべてのことを備える時が来ました。これからは、実績をどのように表すかに力を注がなければなりません。今からの実績は、蕩減の実績ではなく、皆さんにとって利益となる実績として残るというのです。
21 物は、どこにあるか、いつでも分かるように片づけておかなければなりません。皆さんは、美しく手入れをし、整頓することができなければなりません。
私は、「日本がなぜ祝福を受けるのだろうか」と考えたのですが、それは日本人たちが環境をきれいにし、整理が上手だからだと思います。悪い霊人は、(環境が)悪くなるようにさせ、良い霊たちは、「きれいにして神聖に整備しなさい」と言うのですが、良い霊たちがたくさん来て助けてくれるので、日本がそのように早く発展したと考えるのです。私たちは忙しく活動をするとしても、今後、そのような面を生活化しなければなりません。
22 お父様は、人々が夫婦で生活をすることについて、いつも興味深く考えています。二人が一生涯、愛し合い、子女を生み、苦労を乗り越え、共に励まし合いながら、生涯にわたってマラソン大会を続けているのを見るとき、「何が、あのようにさせるのだろう!」という思いが湧くのです。それはお金でもなく、女性の力でも、男性の力でもありません。それを可能にするのは愛の偉大な力です。愛は、眠っている子女が、舌を出して母親のお乳を欲しがるのと同じです。子女が、泣きながらでもお乳を吸うように母親の懐を慕う心をもった幼子の立場と同じです。それは貴重なことなのです。
23 私はいくら忙しくても、毎日、一日も欠かさずに、眠っている子女たちの所に行って祈ってあげます。貴い生命の前に、父母の役割を果たすのは簡単ではないというのです。「私がお前にあげられるものは何だろうか。お前に負債は負わない。お前が寝る時間、私が福を願い、しっかりと抱いてキスしてあげよう。私には時間がなくて、いつもお前の手を握って歩くことはできないが、私が申し訳ない思いをもってお前を抱き、キスしてあげる、このようなことは永遠に残るだろう」、このように生活しているのです。
24 父母がけんかしながら、涙を流して争い、子女たちが泣きわめくようなことがあってはいけません。それは父母としてすべきことではありません。子女たちに対して恥ずかしいことです。子女たちは未来の神様です。神様の理想を未来の後継者たちが相続していかなければなりません。未来の神様にならなければならないというのです。そして、神様の実体対象にならなければなりません。
彼らは未来の神様なので、師の中の師です。子女たちはだませません。絶対にだませないというのです。既に、父母がうそをついているのを、言葉にはしなくても、すべて知っています。ですから、父母は師の中の師にならなければなりません。父母は第二の神様の位置に立って、師の中の師にならなければならないのです。彼ら(子女たち)の情緒的な標準にならなければなりません。「僕もうちのお父さんのような夫になり、うちのお母さんのような妻を迎えよう。もし駄目なら、育ててでもそのように導こう」と言えるようにしなければなりません。心情的教育は、そこからしなければならないのです。
25 私とお母様は、息子、娘の前では絶対に涙を流しません。彼らの前で涙を流す姿を見せてはいけないのです。その子女たちは神様です。父母は、自分の息子、娘に絶対に涙を流すところを見せてはいけません。幼い時は父母が一番です。世の中で最も貴い存在であり、神様の次に偉い父母だと思っているのです。国の大統領よりも、世界の聖人よりも、誰よりも一番貴いというのです。家庭がそのような心情のもとで進まなければなりません。
今まで、天国を築こうと歩んできた私たちですが、国を通しては絶対に天国を築くことはできません。家庭を通して天国ができるのです。その家庭は、父母様がいつでも行って暮らしたいと思う家庭であり、神様が暮らしたいと思う家庭です。その国の主権者であれば、主権者が暮らしたいと思う所なのです。
26 父母は、幼子のおむつを洗いながら、臭いがしても、赤ん坊がにこにこ笑う姿を考えながら、ただ喜ぶのです。考えるだけで、もう目に浮かびます。子女を愛する父母の心はそうです。
皆さんが神様を愛するとすれば、どのくらい愛しますか。神様を愛する場合、神様のものであれば、良くないものがないのです。いくら難しいことでも、難しいと感じません。深い谷間に埋まっている愛の綱がうなりを上げて出てくることのできる一つの動機になります。母親が苦労して働いていても、子女をさっと抱き寄せ、乳房が痛くて気が遠くなるほどお乳を飲ませる姿は、本当に素晴らしいというのです。
第二節 真の父母様の公的生活と精誠
公的な生活姿勢
神様のみ旨とは創造目的を成し遂げることである。真の父母様は一生涯、そのみ旨のために生き、そのみ旨のために死のうとされた。ただ、天のみ旨だけを考え、み旨だけのために生きてこられた。夜も昼もなく、ゆっくり眠ることもできなかった。世界を巡回されるときも、いつも強行軍をしながら、食口たちを激励された。真の父母様の生涯は、神様の解放と人類の救いのための公的な路程であった。個人の生活を顧みられないまま、公的なことのために自らのすべてを犠牲にされたのである。
1 お父様は、どこに行っても聖別して暮らします。どこかに行って座るときも、聖別して座るのです。そして、その場から出てくるときは、必ずそこに盾を立てて(サタンから守る対策をして)おいて、出てくるのです。「ここのどんな環境よりも高い場所に座ってから行く」と考えてこそ、サタンは付いてきません。座る場所、見る場所、どこが居心地がいいか、それを見るのです。このような生活をすれば、神経が最高に鋭敏になるので分かります。良くない環境に入れば、すぐに全身がぞくっとするのです。どこがどうだというのが分かるというのです。その時は、その場を避けなければなりません。それが生き残る道です。
それを知りながらその場に行けば、露見するようになっています。ですから、いつも明かりをつけて回るのです。電気で言えば、昼が千ワットの明かりだとすれば、私は千ワット以上に明るくして回らなければなりません。太陽の光の下で、さらに明るければ、日の光の中でも影ができます。それゆえ、絶対的に「ために生きる」愛を実践しなければなりません。そのようになれば、百ワット、千ワットが天から直接来るのです。発電所から直接ここに来るのです。いつもそれを考えなければなりません。
2 お父様に、自分のことを考える思いがあれば、今日、このような位置にまで来ることはできず、流れてしまったでしょう。どれほど人を慕ったかというのです。教会の引導者であれば、夜十二時になっても、別れることを嫌わなければなりません。別れても、「家に入る前にまた来たらよい」と考えなければなりません、愛の気持ちが途切れず、続かなければならないというのです。
人を慕わなければなりません。うれしくて、涙が先立つ生活をしなければなりません。涙なくしては天の国に入れません。その道は、よく食べ、豊かに暮らす道ではありません。天はそのような事情を抱えている人がいれば、天の秘密とあらゆるものを運んであげようとするのです。父母様は、神様の解放のために走っていますが、皆さんはそのみ旨の前に、どのように一つになれるかを考えなければなりません。
3 今まで私が苦労したとは考えません。鮭は、産卵して死んだあとに、子供に自分の体を食べさせようとします。最後には、自分にあるすべてのものを根こそぎ食べさせて逝こうとするのです。何も残さないで逝きます。私も、所有物を残そうとは思いません。私の所有権があれば、後代の万国の子孫たちに、所有権を用意してあげようと思います。自分のものにして隠しておき、使おうという考えはありません。誰かが献金をすれば、絶対にそのお金を使いません。そっくりそのまま補充して世界のために使うのです。
4 私は、お金があっても、良い家を建てたり、自分一身の享楽を夢見たりはしませんでした。しかし、民族のためにお金を使うところがあれば、借金を背負ってでも使うという信念をもって歩んできました。なぜでしょうか。
世界を愛される神様のみ旨を愛したという条件を残すべき使命を背負った統一教会の指導者だからです。指導者が生活の中でそのような条件を立てなければ、皆さんを教育できる教材を残すことはできません。その教材を残すべき責任があるので、悲しくても悲しい表情をすることができず、悔しくても悔しさを表すことのできない立場で、今まで開拓者の使命を果たしてきているのです。