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Wednesday Feb 08, 2023
真の父母経 第42話
Wednesday Feb 08, 2023
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4 五山普通学校では、日本語を使ってはいけませんでした。皆さんも知っているように独立万歳運動の三十三人のうちの一人で、日本と怨讐の立場で闘争した代表的な人物である李昇薰(イスンフン)氏が建てた学校であり、そのような学校の伝統があるので、日本語を使わせなかったのです。
ところが問題は、私たちが敵を知らなければいけないということでした。敵について詳しく知らなければ、敵と闘っても対策を立てられないという思いがしました。それで、定州普通学校の四学年に、編入試験を受けて入りました。そこに入ってから、日本語が流暢にできるようになって卒業したのです。そのような過程を経ながら、信仰の道や人生の根本など、難しい問題について考えるようになりました。
5 定州普通学校に編入し、学校で日本語を習いました。片仮名、平仮名を勉強したのが、ついきのうのことのようです。それを一晩ですべて覚えてしまいました。学校に行ってみると、三年生、四年生、五年生の子供たちが日本語で話していました。
その当時の私は、年がいってから学校に入ったので、背が高かったのです。それなのに、日本語が一言も分からないのですから、他の人たちが踊っているその真ん中で、何もできずに一人でただ見物ばかりしているのに、恥ずかしいことさえ分かっていないというような状況でした。その時の気まずさは、感じたことのない人には分からないでしょう。ですから、稲妻のように、一年生、二年生、三年生、四年生のすべての本を半月ですべて覚えてしまいました。そうすると、聞き取れるようになったのです。
6 私は、頭が悪くないので、どんな勉強をしても世界的な学者になっただろうと思います。そのような頭をもったからといって、私が勉強して世界に名だたる学者になって何をするのか、そのような問題を深刻に考えました。
そのような学者になったところで、黒板の前でチョークの粉を吸い込み、一生の間、腰が曲がるまでひたすら研究ばかりして死ぬのです。そのようにしてすべての根本問題を解決できるのかといえば、それはできないというのです。
それならば、人間として行くべき道のうち、どんな道が最も困難で大変な道かを考えました。歩むのが大変といわれる道を私は行きたかったのです。人間として今まで歴史時代において、過去、現在、未来に誰もできなかったこと、できないことを、私が一度しなければならないと考えました。
7 私が勉強する時は、稲妻のように勉強しました。数年かけてすることを、瞬く間にやってのけました。私の故郷は、定州から北東方向に約八キロメートルの距離にある農村です。灯蓋(とうがい)(灯火用の油皿を載せるもの)に明かりをともして勉強したのが、ついきのうのことのようです。
午前二時、三時まで夜を明かしながら勉強していると、父や母が、「おい!もう寝なさい。体をあまり無理させてはいけない」と言いました。いつもそうでした。その時、私が常に友としたのが夜の虫たちでした。夏は夜の虫を友としたのです。そのように座って、午前二時、三時まで勉強しました。田舎の夜は本当に静かです。昆虫たちが月夜に鳴く声は、とても神秘的なのです。
ソウル留学生活
真のお父様は、定州公立普通学校を卒業され、一九三八年四月十二日から一九四一年三月八日まで、ソウル黒石洞の京城商工実務学校に通われた。真のお父様は、誰よりも早く登校され、教室の掃除を一手に引き受けてされるときも多かった。そのため、同級生たちも気兼ねし、むやみに接することができなかった。か弱い学生は保護してあげ、力があっておごりたかぶる者たちとは正面から向き合い、是非を正された。闊達であられたが、普段は寡黙で真面目だった。天道を明らかにし、人格の完成を目指して、常に沈黙された。真のお父様の学籍記録には、「明朗で活発、飾り立てることなく真面目、そして、強靭、健全であり、自ら率先してあらゆることに熱心に取り組む」、「身体が健康で、出席状況は良好、特にサッカーを好む」と評価されている。
8 謙遜な人は上がっていくのです。学校の友達の中でも、自分の位置や境遇も分からず、拳を振るう学生たちがいます。しかし、謙遜な人、自分に実力があってもおごり高ぶらない学生もいます。そのような人には、何かしら威圧感があります。主管性が宿っているのです。近づきたいと思うのですが、彼がじっとしていても、なぜか近寄り難いのです。皆さんの友達の中にも、そのような人がいるというのです。
私は学生時代、あまり話をしませんでした。学校に行っても絶対に饒舌にはなりませんでした。一日中、話をしない日もありました。ですから、同級生たちは、私のことをとても近寄り難く思っていました。学校の先生よりも近寄り難かったのです。かといって、私が彼らを恐喝したり、脅迫したのでもなく、たたいたりしたのでもありません。
それでも、彼らは私に対して、むやみに接することはできませんでした。
また、彼らは、悩みがあると、私のところに来て相談したのです。
9 学校の友達は、私のことを恐れていました。同じクラスの友達とは、会えば遊んだりしながら過ごしましたが、私のことを恐れたというのです。私は、余計なことは話しませんでした。困っている友達がいれば、私は人知れず、その友達を助けてあげたことがたくさんありました。
また、私は運動選手でした。相撲選手であり、サッカー選手でした。鉄棒もできました。体は大柄ですが、敏捷でした。黒石洞の我が物顔でいる人たちと、一週間のうちに全員会ってみました。そこで誰が親分なのかを調べて、彼らを私が教育すると考えながら暮らしたのです。
10 私の中学校時代は、一人で掃除をすべてやりました。学校を愛することにおいては、私が先頭に立ちたいという気持ちがあったので、全校生徒に代わって私が掃除しようと考えたのです。そのような時は、人が手伝ってくれることを嫌いました。一人できれいにしようとしたのです。それで、人がした所をまたやり直すことになります。そのように何度かしているうちに、友達が「お前が一人でやれ」と言うのです。それで自然に一人で掃除をするようになりました。
11 私は、一度つかんだら放しません。若い時もそうでした。村中から見えるものでも、私がすべて検証するまでは信じませんでした。学校で数学の先生が公式を教えてくれると、それを中心としてその先生を追い込んだ人です。誰がこのような公式をつくったのかというのです。ですから、暴いて、かき分けて、掘ってはまた掘り返しました。適当にではありません。何であっても、適当にしては通じないのです。
12 私が学校に通っていた時は、試験問題に何が出るのか分かりました。学校の先生が講義をする時、どれほど深刻かを見ます。自分の気に入った学生の目をまっすぐに見ながら語るのです。その学生が隅にいれば、隅のほうを見ます。「誰を見るだろうか」と思いながら、学校の先生に注目するのです。「先生が勉強のできる学生を見て強調しているのを見ると、これは間違いなく試験問題に出る」と思えば、A、B、Cと印を付けておきます。
一冊の本の中で十ヵ所だけ印を付けたあと、それだけ勉強しておけば落第しません。その周辺まで見ておくので、答えを書けば、三〇パーセントから四〇パーセントは当てられます。講義をよく聴いたので、そのようにできるのです。
自炊生活と涙の祈祷
真のお父様は、ソウルで過ごされた学生時代の三年間、自炊しながらの下宿生活を通して、苦行に近い生活訓練と多様な経験を積みながら、学業と信仰に精進された。当初、しばらくの間はソウルの銅雀区(トンヂャクク)鷺梁津(ノリャンヂン)から通学し、主に黒石洞で自炊しながら下宿をされた。特に、故郷の家からは十分な学費が送られてきたが、井戸のつるべの鎖が手に張り付くほどの酷寒の中でも、火の気のない部屋で過ごし、冷たい水をくみ上げて御飯を作るなどの自炊生活を通して、貧しい中で生きていく人々の生活を直接、体験された。この時から、昼は常に断食をされた。常に一食一品だった。空腹の時こそ、神様の心情に近く接することができるからである。そして、一日に十二時間以上、祈りに没頭されることもあった。そのため、膝と肘にたこができるほどだった。特に、学校の近くの松林、そして、教会の裏側にある瑞達山(ソダルサン)の岩の丘と、山の向こう側、銅雀洞の麓で、深刻かつ凄絶な談判祈祷もされた。そのような中で、神様の心情を体恤しながら心情的一体を成し遂げられたのである。
13 ソウルに来て自炊生活をしていた頃、冬はとても寒かったのです。平均気温が零下一七度から二一度ほどでした。若かった頃は、それくらい寒かったのです。真冬に火の気のない部屋で暮らし、冷たい水で御飯を炊くのです。
そして、今も私が忘れられないことがあります。山の尾根に掘ってある深さが十尋(約十八メートル)以上の井戸があったのですが、この井戸水は本当に良いものでした。つるべは、緒が切れるので、鎖でつないでいます。それをつかむとき、手が張り付いて「ふうふう」と息を掛けたことが、ついきのうのことのようです。そのような生活をして、人が生きていくことを、身をもって知ったのです。
14 私は、女性がいなくても一人で生きようと、あらゆることを研究しました。一生、独身生活をするとしても、このみ旨を私の一生の事業とすると定めて出発した人なので、できないことがありません。私に必要なものは、誰の世話にもならずに、自らの手で解決するというのです。私は、食事を作るのも上手です。包丁さばきを見れば、素人かどうか、すべて分かります。また、おかずを作るのを見れば、腕前が良いか悪いかすぐに分かるのです。私は七年以上、自炊生活をしました。
私には、たくさんのおかずは必要ありません。地方に行くと、おかずをたくさんお膳に並べますが、それは好きではありません。一種類でも口に合えばよいのです。私は、一つのことに向き合えば、その終わりまで見届けてしまう気質です。おかずもそうです。いくらおかずが多くても、箸は付けてみますが、食べるおかずは一種類だけです。一種類だけ買い、料理して食べるのです。