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Friday Feb 17, 2023
真の父母経 第57話
Friday Feb 17, 2023
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11 お父様は、試練の渦中でも不平を言いません。迫害を受けるまっただ中に入っても、不平を言わないのです。国や町や家庭や個人が終局において攻撃してきましたが、私に勝つことはできませんでした。すべて敗れていきました。最後には、神様までもがお父様に反対しました。しかし、神様がいくら理解し難いことをしても、私は神様をつかんでいました。そうして霊界で四十三日間闘ったのです。
神様が反対するので、神様を中心としてイエス様が反対し、孔子が反対し、釈迦が反対し、ムハンマドが反対し、霊界全体が一つになって反対しました。しかし、四十三日間闘いながら、譲歩しなかったのです。神様は、四十三日の間に決裁をしなければならないようになっていました。それで神様は、お父様が天と地において最高の勝利者であると宣布したのです。
第四節 興南監獄とイエス様の使命継承路程
イエス様の使命を全うするための蕩減路程
興南監獄の試練は、再臨のメシヤとして、イエス様の使命を全うしていかれるための蕩減摂理路程である。再臨のメシヤは、クリスチャンたちが反対する中で、イエス様の使命を全うしていくために、十字架によって亡くなられずに、生きて監獄から出てこなければならないだけでなく、イエス様が失ってしまった十二人以上の弟子を、十字架上(監獄)で探して立てなければならない。北朝鮮の興南監獄は、人間を徐々に殺す十字架と同じであったが、真のお父様は、イエス様の使命を全うしていくための蕩減路程を勝利的に締めくくられたのである。特に、周辺の人に対して伝道することはできなかったが、霊界にいる囚人の先祖たちが子孫に夢で現れ、真のお父様に特別に良く接し、侍るようにと教え、真のお父様が監獄から出てこられるときには、十二人以上の弟子をもつようになられたのである。そして、興南監獄に収監されたのち、最初の二、三週間は、食事の半分を他の囚人たちに分けてあげ、定州にいらっしゃる忠母様(実母)が、定州から興南まで来て差し入れしたはったい粉と服も、すべて彼らに分け与えられるなど、人のために自らを犠牲にしながら、収容期間に三度も模範労働者賞を受けられた。毎日配給される飲料水の一部を残しておき、体を清められるなど、神様の息子であるという自覚をもって模範的な生活をされたため、天も感動せざるを得なかったのである。
1 イエス様は、霊界の地獄のどん底に行って、三日間の受難の道を克服しなければなりませんでした。イエス様が霊肉を中心とした勝利の基点をもたなければならなかったのです。ですから、道を切り開いておかなければ讒訴される立場になってしまうので、道を築かなければなりません。それゆえ、イエス様が霊界の地獄に行って開拓し、道を切り開いたのです。
お父様はそのような原則を知っていたので、以北(現在の北朝鮮)に行って監獄に入ったのです。私が平壌刑務所で手錠をかけられて刑罰を受けている中でも、「誰々に会うだろう」ということを、すべて約束されていました。「そこに行けば、イエス様の三弟子のような人に会うだろう」ということを約束されたのです。復帰の運勢圏の中では、そうでなければ天道と合いません。ですから、手錠をかけられて監獄に行く道も、最高の希望の道でした。
「これこれこのような人に会うだろう」という、その希望をもって監獄に入っていったのです。絶望の中で訪ねていったのではありません。私が監獄に入ったので、そこで道を築き、その苦労の功績を通して、その門が自動的に開くようにしなければならないのです。そのようにするには、完全に蕩減しなければなりません。監獄暮らしをして、獄中で祭物にならなければならないのです。それで、監獄に入っても、最も難しいことを私が引き受けて行いました。
2 解放後、お父様は、怨讐たちが群れをなす以北の地でみ言を伝えました。それで、監獄の道から出発したのです。お父様は平壌の監獄に入っていくときも、死なないことを知っていました。その上、「これこれこのような人に会うだろう」ということまで知っていました。お父様に何か必要な物がある時は、無知蒙昧な強盗や窃盗犯、殺人犯などの大勢の囚人たちに、霊界が「どこそこの監房に番号が五百九十六号の人がいるから、その方にこのようなものを持っていってさしあげなさい」と伝えて、来させたりしました。冬になって寒くなるのに、お父様の着る服がなければ、彼らに着る服を持ってこさせたり、また、私が食べることができず、おなかがすいた時には、思いがけない人に、お父様の名前と番号を教えて、食べ物を持ってこさせたりしました。そのようなことが一度や二度ではありません。
平壌の監獄に入れば誰に会うのかを知っていたので希望の中で一九四八年五月二十日まで過ごしました。その時、監房の窓辺をかすめた柳の葉を眺めながら、思いにふけったことが、ついきのうのことのようです。今も記憶が鮮やかです。そこで、天のみ旨に従っていくことを約束した人たちに会いました。彼らに会うことによって、怨讐の地、最も深い谷間から天の密会が始まったのです。そこから天の兵士を募り始めました。家庭と社会から追われ、追い出されたので、そのように監獄から始めたのです。
3 お父様が平壌刑務所から手錠をかけられて興南の監獄に行くのに、十七時間かかりました。それで、その車内で何を考えたでしょうか。深刻でした。唖然とするほど深刻な立場にいるお父様を見る神様は、どれほどかわいそうでしょうか。神様の六千年の摂理歴史を再び蕩減復帰しなければならないのですが、私のほかには誰もする人がいないのです。これを蕩減復帰しようとすれば、数千年はかからざるを得ません。知っている人は私しかいません。
ですから、すべての山野の外景を眺めながらどれほど深刻だったでしょうか。私一人しかいないのです。その時、最も悪辣な強盗と二人組になって手錠をはめられていました。
そのような状況で「いかにしてこの環境で生き残るか」を考えるのですから、どれほど深刻だったかというのです。
お父様は、以北の平壌と興南の監獄で、イエス様の公生涯に該当する二年八ヵ月の期間を送り、十二人の人を復帰することができました。十二人を復帰することによって、イエス様が失ったすべての条件を復帰することができたのです。たとえその人たちがお父様に従わなかったとしても、お父様が釈放される時、彼らの位置に、ほかの人たちを立てることができました。
お父様は、計画していたすべてのことを完遂したので、天は、天使長国家であるアメリカと国連軍を通して北朝鮮を攻撃するようにし、お父様を解放しました。そうして、監獄から出てくるようになったのですが、その時、四人の人が私に従いました。国連軍が韓国を守ってくれたので、その条件によって、天の運勢は再び民主世界に戻ってくることができ、キリスト教を復帰するための役事を始めることができたのです。
5 イエス様が死の道を行くことになった時、イスラエル民族が裏切り、愛する三弟子までも裏切りました。ですから、蕩減復帰の原則によって、監獄にいる時、イエス様が失った十二弟子と同じ数を蕩減復帰しなければならなかったのです。このような立場にいたので、お父様が興南監獄にいる時、口を開かなくても第二イスラエル圏内にいる霊界の霊人たちが伝道して、その数を満たしてくれました。このような歴史的な関係を経てきたのです。
共産党の厳しい監視と注目を受ける獄中生活でも、人知れぬ心情的な団結運動を、神様が責任をもって行ってくださいました。そこでは、あからさまに伝道することはできませんでした。しかし、お父様が口を閉じていても、霊界から伝道してくれたのです。
北朝鮮・興南での蕩減路程において勝利された真のお父様
真のお父様は、興南監獄で、誰よりも遅く休み、誰よりも早く起きる生活をされ、労働現場においても、同僚のために尽くしながら、最も難しい仕事を一手に引き受けられた。「監獄の聖者」と呼ばれるほど模範的な生活をされたため、天が感動せざるを得なかったのであり、すべての蕩減復帰摂理の条件を立てられた。興南監獄では、国連軍が興南に上陸したのち、一九五〇年十月十二日から、囚人たちを処刑し始めた。真のお父様の処刑日は十月十四日だったが、国連軍が、この日、総攻撃を断行すると、北朝鮮の人民軍が退却するとともに、真のお父様と収監されていた人々はみな、解放された。そして、真のお父様は、監獄から解放された直後、徒歩で十日かけて平壌に向かわれた。
6 十月十四日は、興南の監獄から出てきた日です。そこに入っていくとき、私はどれほど深刻だったでしょうか。何としてでも生きていかなければなりません。生き残ろうとすれば、死ぬと思われるような状況を通過しなければなりませんでした。ですから、労働する所で、いつでもその仕事場で模範となる人物として登場する人が私でした。それが生きていく秘法です。
働く人たちは数十人ではなく、千人近くいるのですが、看守たちが私を選定して、最高の実績を上げ得る材料にするのです。そのようになるのはたやすいことでしょうか。そのようにして生き残ったのです。
お父様は、このような道を走ってきて、み旨を成し遂げてきました。恨多き復帰の峠を越える責任者はどこに行ったのかというのです。民族の怨恨、世界のキリスト教が失敗した怨恨、呪い得るそのすべてのことに対して、私が責任をもって消化してきました。神様と共に働く人になり、その方の味方になり、自分の道を再創造して、私を中心としてキリスト教文化圏以上のものを編成してきたのです。
7 私が興南の肥料工場で働くことにおいてチャンピオンになったので、人々はみな私のあとにばかり付いてきました。朝、出ると班を編成するのですが、毎日同じ人たちと仕事をすることはできません。ですから、班を編成するとき、私がトイレに行っていたとしても、戻ってくるのを待って、私の後ろに付くのです。
そうすると、その中で最も仕事ができる人たちが集まり、そこで私が隊長になります。かますを縛ることから、引きずり出して貨車に積むことまで、することがとても効率的で、公式化されているのです。
ですから、仕事をしているとは考えず、他のことを考えます。国家的、世界的なあらゆることを材料にして、未来のプログラムを練るのです。そのようなことを考えながら働いていると、時間が過ぎるのも忘れます。ですから、他の人と同じように汗を流しますが、疲れを知りません。このようにすることが、精神的に力になるのです。このようにしていたところ、表彰があるたびに、毎回模範労働者に選ばれて賞をもらいました。そのようにして生き残ったのです。
8 「六・二五動乱」中の一九五〇年八月一日、アメリカ軍の日29爆撃機が総攻撃をし、興南を大々的に爆撃しました。お父様はこのようになることを予見していただけではなく、お父様を中心に直径十二メートル以内は、神様が守ってくださることを知っていたので、近い人たちに、みな私の周りにいるように告げました。お父様は、その中でじっと瞑想をしていました。爆撃のことは考えずに、今後の理想世界について考えていたのです。
結局、思想や理想をもった人こそ価値があるのです。このように復帰の使命を担った人を霊界に連れていけば、神様にとっては天宙的な損害になるので、神様はいかなる犠牲を払ってでも防備することを願ったのでありそのようにせざるを得ませんでした。
9 連合軍が爆撃をする数日前から、共産党は囚人たちを処分し始めました。ある日、彼らが麻ひもを集め始めたのです。お父様は、直感的に最後の時が近づいてきたことを感じました。お父様は本当に深刻な祈りを捧げました。
看守が、一人一人を呼び出して別の場所に移動すると説明しました。それが最後の道でした。そして、一人一人、井戸の中に逆さまに落として殺害したのです。次の番がお父様でしたが、その日の夜の午前二時頃、国連軍の総攻撃により、生きて興南監獄を出ることができたのです。
10 一九五〇年に国連軍が北朝鮮を爆撃したのですが、最初に興南を爆撃しました。お父様のいた興南監獄がその近くにありました。お父様は、その国連軍によって自由の身になったのです。そうなるまでに多くのいきさつがあります。
お父様は、東海岸にある興南から平壌まで歩いて帰ってきました。西側の平壌まで歩いていったのです。お父様は、以前に従っていたすべての人たちに、私が帰ってきたことを知らせながら弟子を捜してみましたが、ほとんど戻ってきませんでした。しかし、何人かの人を集めることができたのです。
11 一九五〇年十月十四日に釈放され、東海岸から平壌に向かって歩きました。平安南北道の境界線付近に来たとき、人民軍が、逃走しながら、峠を越えるたびに敵対する思想をもつ人たちを粛清していました。数十人ずつ並ばせて処刑していた、その峠を越えてきたのです。
その時は、刑務所から釈放されて、囚人服ではないほかの服を着て出てきていたので、人民軍は(私たちが)自分たちの敵ではないと思いました。死の峠を四回越えたのです。その時、四人の人が一緒に付いてきました。