Episodes
Wednesday Mar 01, 2023
真の父母経 第68話
Wednesday Mar 01, 2023
Wednesday Mar 01, 2023
9 お父様は、一九五七年頃、約四百人の食口のためにいつでも祈ってあげていました。最近は、私は祈らないようにしています。しかし、ある限界点まで越えていくためには、祈ってあげなければなりません。祈ると、どのような心霊状態なのかが分かります。祈れば、自分と関係している食口たちは枝のようなものなので、神様が必ず教えてくれます。
精誠を捧げてみてください。食口たちのために精誠を捧げれば、彼らの心霊状態が傷つくときは、様々な姿で見せてくれます。うなだれている時もあり、ふろしきで顔を覆う時もあり、様々な姿で見せてくれるのです。気分の良いことがあった食口の場合は、すぐに笑う姿が見えます。また、悲しいことがある時もすぐに分かります。
10 精誠を捧げる時間がなければなりません。明け方に起きる時は、休んでいた視神経が目覚める境界線にあるので、必ず見せてくれます。それを見て、「きょうは教会で何かが起きそうだ。きょうはこのような食口が来るようだ」といったことを感知しなければなりません。
有能な医者は、患者の顔色だけを見ても、何の病を患っているのか分かります。歩く姿だけを見ても分かります。そのように、皆さんも霊的なアンテナを高くして、鑑定する能力がなければなりません。そのためには、精誠を捧げなければなりません。
祈りというのは、本当に恐ろしいものです。無言でいながら、その環境を完全に占領するのが祈りです。お父様は、どこに行っても、自分の目標を中心として二十四時間祈ります。御飯を食べながらも、息をしながらも祈ります。それは、自分のためのものではありません。人類のためであり、神様のための祈りなのです。
そのような一念を中心として、精誠を込めて四方を一周すれば、平衡を保って円形になります。私が祈ることによって上がっていけば、この圏内は天が主管し得る領域になるので、この圏内の良心的な人士たちは引っ張られてくるのです。会えば、我知らず引っ張られてくるのです。ですから、いつでも精誠を捧げなければなりません。
草創期の熱気と愛の風
一九五〇年代、真のお父様は、真心を込めて食口を指導された。夜が更けるまで食口の事情を最後まで聞いてあげ、多くのみ言を語られた。壇上に立たれるときは、涙を流しながら説教をされた。食口たちは、真のお父様のことを慕いながら常に教会を訪ね、教会に来れば、なかなか家に帰ろうとしなかった。このような神霊と真理、愛にあふれた雰囲気の中で、教会は受難を踏み越え、新たな跳躍の足場をつくり上げたのである。
11 お父様は昔、食口たちを育てるのが一番楽しいことでした。夜遅くまで話をします。夜十二時になって、食口たちが帰りたくても、話をする喜びに酔いしれて語り続けるのです。お父様は、午前一時、二時、三時になっても話をするのですが、居眠りする食口たちもいます。それはどれほどの差があるでしょうか。
講義しながら酔いしれ、講義しながら涙を流し、講義しながら感謝し、講義しながら考えるのです。地獄に行く生命でも、注射を一本だけ打ってあげれば、良くなってくるのです。それはどれほど興奮することかというのです。天が共にあるので、そこには電気が通るのです。
何億ボルトが通っていくような力が共にあり、世の中が揺さぶられる気分がします。どれほど痛快でしょうか。そのような時は目をつぶろうとしても、つぶることができません。寝ていても、はっとして目が開きます。
12 皆さんは、神様の心情に代わり、神様の創造的役割に代わって、人々を救ってあげるために、どれほどの努力をしたでしょうか。深刻な問題です。
お父様は講義もし、説教もたくさんしましたが、一九五〇年代は、涙なくして説教した日がありませんでした。痛哭しない日がありませんでした。あらん限りの力を尽くし、血の汗を流して気が遠くなる境地や、「私は死ぬ」と言って倒れた境地から立ち上がろうとしてこそ、天が慰労してくれ、役事してくれるのです。
ですから、皆さんが今まで出掛けていって働き、伝道をたくさんしたならば、寝る前にその村のために祈ってあげなければなりません。自分が責任をもつ郡ならば郡のために、最も高い山に登って祈り、高い山に登れなければ、最も深い谷に行って祈りなさいというのです。止まってはいけません。それから、最も神聖な所、聖殿に行って祈るのです。聖殿において涙が乾いてはいけません。
13 歴史に残るのは、実力ではありません。実績が残るのです。準備が残るのではなく、基盤が残るのです。これはどこにでも適用されることです。これはお父様の言葉ではありません。学校や、どこに行っても同じです。ですから、語る時は、そのまま語ってはいけません。実績をもって語らなければなりません。
講義する時は、痛哭してでも感動を与えなければならないのです。ですから、お父様は草創期、その激しい迫害の渦中でも、血の汗を流しながら説教をしました。喉が張り裂けんばかりに説教をして、集まった人に感動を与えました。きのう以上にきょう、より迫害を受けて疲れたとしても、これから行くべき道が残っているので、力を投入するのです。力を投入しようとするので、消耗戦をしなければなりません。ですから、私はあらん限りの精力をすべて注ぎ込むのです。そのようにして引っ張ってきました。なぜならば、実績を残さなければならないからです。
14 一九五七年と一九五八年頃、お父様はどのような人だったでしょうか。どんなおばあさんでも、どんな人でも、その人の話を最もよく聞いてあげる先生でした。彼らから、「大韓民国で自分の話を一番聞いてくれる人」と言われていました。
ですから、おばあさんたちが来ると、嫁いだ日から夫をどのように愛したかという話まで、すべて私にするのです。今まで話したかつたことをすべて打ち明けるのです。お父様を訪ねてくる人は、誰もが「先生は私の話をすべて聞いてくれる」と言いました。それからは話すことがないので、お父様が話すのです。ここに器があれば、その器を逆さにしてすべて出しきってから入れれば、入ります。
話を聞いてあげる時には、本当に興味をもって聞いてあげます。夜を明かしながら聞いてあげるのです。話を心から聞いてあげ、また、心を込めて自分の話をするのです。それが秘訣です。そのように与え合うのです。
15 私が伝道をする時は、八十歳になる老人が訪ねてきても、若い人に接する時と変わらずに接しました。そのような思いをもって接するので、天地において誰も嫌だとは言いません。そのような人が来れば、先祖に出会ったように喜んで接しなければなりません。自分の祖母より喜んで接するのです。天からすぐに(結果が)出てくることはありません。ですから、そのような気持ちで接しなさいというのです。そのおばあさんに接するのは、天の秩序的法度です。年を取った人と接することは、天の道理に従った橋を架けることになるのです。神様こそ、最も年を取ったおじいさんです。
16 お父様に従ってきた人たちは、心情的な絆で結ばれているので、お父様を思いながら涙を流す人がたくさんいます。息子もいて、孫もいて、夫もいるのですが、涙をぼろぼろと流すのです。皆さんもそのようにすることができなければなりません。食べ物があれば、とっておいて、あとで一緒に分け合って食べようとし、ひたすら和動して、大変なことを解いてあげようとし、困難なことがあれば、私が開拓してあげようとします。ですから、町中で大騒ぎになり、国から追放しようとするにもかかわらず、お父様に従ってくるのです。
昔、私たちにはそのような雰囲気がありました。伝道に出掛けて、人が伝道されれば、自分を伝道してくれた人に無性に会いたくて、毎日教会にやって来るという雰囲気がありました。「そのような雰囲気をつくって指導しなさい」と言ったのです。新しく入ってきた人たちを、そのように指導しました。自分の家よりも良いので、家に行こうともせず、学校よりも良いので、学校に行こうともせず、職場よりも良いので、職場にも行こうとせず、みな教会に集まろうとしました。それが問題になったのです。
17 草創期、統一教会の女性たちは、教会に行きたくて行きたくて仕方がありませんでした。心の中で、「ああ、行きたい」と声を張り上げるのです。その声が聞こえ始めます。声が聞こえると、もう別世界の言葉を語り出します。霊界に通じるのです。神様の愛が電気だとすれば、その愛に通じ得る電線が連結されているのと同じです。その境地に入るようになれば、もうすべてが見えるのです。自宅にいながら、お父様が何をしているのかすべて分かります。「きょうは気分が悪いので、私が行けば先生も気分が良くないだろう」ということがすべて分かるというのです。それでも、行かないわけにはいかずに訪ねてきます。
この青坡洞の峠は、不思議な峠です。磁石が南北に向くのを誰も止めることはできません。「教会に行かない」と決心し、部屋から出て庭をぶらぶらしようと思っていたのに、門を開け、いつの間にかバスに乗って教会に向かっているというのです。我知らずに来てしまうのです。そのように不思議な力があります。そのようなことを感じたことのない人たちは、本当の愛が分からないのです。
18 統一教会員たちは、追われに追われる最も哀れな人たちです。雪の降る冬の夜に、家から追い出された哀れな境遇の食口たちや、追い出されて行き先もなく、壁にすがるようにして祈っていたその人たちを私は知っています。このような恨が胸に残っているのですが、天の耐え忍ぶその心を私は知っているので、反対する家族を赦しました。
彼らが知らずに犯した罪なので、赦すのです。様々な事情があります。その胸に天と地の恨を抱いて歩いていることを誰が知っているでしょうか。私はそのように歩んできながら、多くの涙をのんだのです。