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Thursday Apr 07, 2022
平和経 第170話
Thursday Apr 07, 2022
Thursday Apr 07, 2022
真の父母の顕現と祝福の価値
神様の真の愛の属性が絶対、唯一、不変、永遠であるように、神様が立てられたみ旨もまた絶対的で、唯一、永遠、不変でなければなりません。神様の創造理想は、必ずこの地上に完成されなければなりません。アダムとエバの堕落によって失ってしまった御自身の子女を訪ねてきた天の摂理は、必ず成し遂げられなければなりません。イスラエルの不信によって、イエス様は霊界に逝かれてしまいましたが、天は再び、人類の救世主であり、再臨メシヤである真の父母をこの地に送られ、救援摂理歴史を完結していらっしゃることを知らなければなりません。二度と延期も、延長もできない復帰摂理のプログラムに従い、絶対的で永遠不変な摂理を展開していらっしゃるというのです。
皆様はきょう、重要な摂理の現場に立っていらっしゃいます。耳がある人はお聞きください。目の開いている人はしっかり御覧ください。口のついている人は、万邦に証をしてください。皆様の目の前に立っているこのレバレンド•ムーンが、正に天から印を受けて顕現した、人類が何よりも待ち望んできた救世主であり、メシヤであり、再臨主であり、平和の王であり、真の父母です。これは決して私の叫びではありません。霊界の四大聖人はもちろん、数千、数万の聖人や賢人も異口同音にそれを証するメッセージを送ってきています。
神様も直接メッセージを送られ、人類すべてが真の父母を中心として、この地に平和王国を創建することを促していらっしゃいます。このようなメッセージを収録した本が既に出版されています。もしこの事実を信じられなければ、生命を懸けて祈祷してみてください。天は必ず皆様の祈祷に明確な回答を下さるでしょう。
それでは、堕落の後裔として野生のオリーブの木になってしまった人類が行くべき道はどこにあるのでしょうか。真の父母様を通して神様から祝福結婚を受けなければなりません。野生のオリーブの木は、千年待っても野生のオリーブの木のままです。必ず真のオリーブの木に接ぎ木され、真の血統権を確保しなければなりません。真の父母様を通して受ける祝福結婚が、正に真のオリーブの木に接ぎ木される恩賜の祝福です。
よく世の中では、レバレンド•ムーンが主導してきた祝福結婚式を、単に統一教会式の結婚式にすぎないと言います。しかし祝福結婚式は、簡単に男性と女性が出会って一つの家庭を築く婚礼式ではありません。今までの世の中の結婚式は自分たちを中心とした結婚式でしたが、祝福結婚式は、神様に喜びをお返ししてさしあげるのにふさわしい内容を備え、歴史を蕩減する貴い条件として神聖で盛大に挙行する、それこそ祝福と復活の儀式です。人間始祖アダムとエバの堕落によって始まった神様の恨を解いてさしあげ、イエス様が成し遂げられなかった新郎新婦の基準を通過するものであることを知らなければなりません。
したがって祝福結婚という言葉は、統一教会から始まった言葉ではありません。創世から堕落以後、今まで歴史過程を通して神様の内心の中で一つの願いとして残され、常にこれを追い求め、また願ってきたことを知らなければなりません。歴史上、そのような一日を探し出すために、形容し難い受難の道を歩んでこられなければならなかった神様の事情を知る人がどこにいるでしょうか。ですから、その一日を探し出せば、その日は歴史的な解怨成就の日であり、摂理的な所願成就の日になるのです。
このような次元で見るとき、祝福結婚はどれほど福があり、一方ではどれほど途方もなく恐ろしい祝福であるかが分かります。言い換えれば、祝福結婚の位置は、過去から今まで綴ってきた歴史過程におけるすべての悲しみを清算できる場であり、今まで成就されなかった神様の願いが新たに出発できる場であり、新しい人間の未来が出発する契機となる起点でもあります。先天時代のサタン支配圏を完全に抜け出す、最も確実な方法です。皆様は祝福結婚を通してこそ、真の父母との関係を継承することができます。天の全権を譲り受ける過程的結実です。祝福を受けた家庭は、霊界に行っても真の父母が責任をもってあげます。真の父母様の主管のもとで生きるようになるという意味です。このように、祝福結婚を通して真の父母様と天的な関係を結ぶようになれば、それは永遠不変の関係になります。祝福結婚は天国の門を開く鍵になるのです。
祝福が結実する後天時代
それでは、祝福が成し遂げられる今の時代は、どのような時代でしょうか。サタンの支配圏にあった先天時代が終わり、平和王国が建てられる後天時代が到来しました。六千年間苦労してこられた神様の恨は解かれ、平和に向かう人類の願いが成し遂げられる最高のときです。
この地に来て、み旨を完成できずに逝かれたイエス様の願いが成就するときです。それだけでなく、人間創造以後、初めて真の愛が花を咲かせて実を結ぶときであり、万物からも歓迎と尊敬と栄光を受けられるときです。神様もこの日をどれほど待ち望んでこられたでしょうか。罪悪は消え、光明な太陽が昇ってくる新天新地を迎える日、すべての万物が和動し、万象が踊りを踊る勝利の新しい朝、新しい時代を迎える日です。天国理想は、祝福結婚を通して家庭を探し立てなければ、成し遂げられないと言いました。天国理想は、私たちが天道に従って神様のみ旨を成就するときに完成し、天道は、家庭において真の愛を中心として立てられます。
それでは、真の愛とは、どのような愛でしょうか。真の愛は公益性を帯びた無形の秩序であり、平和であり、幸福の根源です。真の愛は、受けようという愛ではなく、他のために、全体のために先に与え、ために生きようという愛です。与えても、与えたという事実自体を記憶せず、絶えず与える愛です。喜んで与える愛です。母親が子女を懐に抱いてお乳を飲ませる、喜びと愛の心情です。子女が父母に孝行して喜びを感じる、そのような犠牲的な愛です。神様の人類創造は、返してもらおうという期待も条件も何もなく与える、絶対、唯一、不変、永遠の愛による創造だったのです。

Sunday Apr 03, 2022
平和経 第169話
Sunday Apr 03, 2022
Sunday Apr 03, 2022
10.祝福結婚は天地合徳、宇宙合一の道
日付:二〇〇五年八月二十日
場所:韓国、ソウル、オリンピック公園体操競技場
行事:平和の王即位一周年記念式
尊敬する内外の貴賓、そして愛する祝福家庭の皆様。まず、神様の祖国創建と人類平和の具現のために、世界各地で苦労される皆様に、深甚なる感謝の言葉を申し上げる次第です。
創造理想的家庭
皆様も御存じのように、きょう私たちは、二〇〇四年にアメリカと韓国の国会において私を「平和の王」に推戴し、戴冠式を行った歴史的な日を記念するため、このように席を共にしました。思えば、きょうはまた、私が過去八十年以上の生涯を捧げ、天のみ旨を成し遂げてくる過程で、口惜しい謀略と迫害によって経なければならなかった六度の獄中生活のうち、その最後であるアメリカのダンべリー刑務所における獄苦に勝利した出監記念日でもあります。この意義深い日を記念する場で、私はきょう、皆様に祝福結婚の価値とその意味に関する天のメッセージをお伝えしようと思います。み言の題名は、「祝福結婚は天地合徳、宇宙合一の道」です。宇宙万物の創造主であられる神様は、どのような姿で存在されるのでしょうか。神様は二性性相でいらっしゃいます。ここで言う二性性相とは、男性格主体と女性格対象の二性性相を意味します。したがって、神様の男性格を分立させて創造したのが人類最初の男性格先祖であるアダムであり、神様の女性格を分立させて創造したのが人類最初の女性格先祖であるエバです。そして、アダムとエバを再び合わせた姿と同じものが彼らの子女です。神様の創造は、このように正分合の原則に従って展開します。神様を一代として、アダムとエバが二代であれば、彼らの子女は三代の位置に立つようになり、一つの家庭で三代圏を形成し、未来永劫、罪のない子孫が繁栄するように祝福されたのが、神様の人間創造でした。
アダムとエバが、神様のみ旨のとおりに個性完成、すなわち人格を完成し、神様の祝福の中で夫婦関係を結んで神様と完全一体を完成したならば、神様が彼らの中に臨在できる関係が決定されたでしょう。さらには、彼らの子女にも、神様と直接的に父子の関係を結べる愛の基準が連結されたでしょう。これを総称して、人間に対する神様の祝福と呼ぶのです。
一般的に祝福とは、福を祈ってあげるという意味です。それでは、福の中の最高の福とは何でしょうか。人間にとってどのような福が、最も貴い福かというのです。お金ではありません。名誉でもありません。権力や知識でもありません。アダムとエバが神様の祝福の中で結婚し、罪のない子女を繁殖することさえできたならば、それ以上に貴い福はなかったでしょう。宇宙万象も喜びで応じ、神様にとっても最高の喜びの日になっていたのです。このような祝福の場は、摂理的に見るとき、地上天国と天上天国が出会う場なのです。
もしエデンの園で、神様が女性を創造せず、男性だけの創造で終わっていたとすれば、どのようになったでしょうか。奇跡の中の奇跡は、男性と女性が共存するという事実です。片方だけの存在では、何も存在しないのと同じです。人類はそのまま、百年もたたずに終わっていたでしょう。男性と女性が共にいるところから、初めて天道が立てられ、人倫と道徳が始まるのです。
したがって、完成したアダムとエバの結婚は、神様御自身の結婚になっていたのです。神様であると同時にアダムであり、エバであると同時に神様となり、アダムとエバは神様の体になって、神様は彼らの心の位置に安着され、有形、無形共に両面で人類の真の父母になっていたはずです。
しかし、人類歴史は人間の先祖の堕落により、最初の一歩から罪悪と闘争の歴史に転落してしまいました。当然、神様を真の父母として侍って暮らすべき人類は、偽りの父母となった悪魔サタンの支配を受けて生きる地獄の主人になってしまったのです。神様の分聖殿となり、神様が臨在される、神様と同じ価値をもつ人間になるベきだったアダムとエバの体は、様々な罪悪と偽りの温床、悪魔の舞踏場になってしまいました。
具体的に堕落とは、神様の祝福の中で挙げるべき結婚式を、サタンを中心として挙げたことを言うのです。創造原理によれば、真の愛、真の生命、真の血統は父母から相続します。したがって、サタンを父母として生まれた人類は、選択の余地なく偽りの愛、偽りの生命、偽りの血統を伝授されたのです。生まれながらにして体と心の葛藤の中で苦しみ、死ぬ瞬間までもその問題を解決できずに旅立っていくかわいそうな人間になってしまったのです。
堕落と復帰
人間の中で神様の声を代弁している良心の声を無視し、サタンの走狗となっている肉身の欲望に従って、振り回されながら一生を生きているのが皆様自身の姿です。大部分の人は、自分がそのように寂しく無念な境遇に陥って生きているという事実さえ悟れずにいます。前後左右を見回しても、みな同じなので、自らの盲目的人生をごく当たり前のこととして受け入れて生きている、愚かで哀れな人間になってしまったのです。皆様はいつまで、この悲劇を好んで生きるのでしょうか。
「結者解之(キョルジャヘヂ)(自分の過ちは自分で解決すべき)」の原則に従い、人類は堕落のゆえに誤った偽りの結婚の根を抜いてしまわなければなりません。誤った愛によって堕落したために、偽りの愛の痕跡までもなくしてしまわなければならないという意味です。その土台の上に、神様の真の愛を中心とした真の祝福結婚を受けて、真の家庭を出発させなければなりません。子々孫々、罪のない真の子孫を繁殖できる、真の根を下ろさなければならないという意味です。
だからといって、誰でも望めばその目的を達成できるのではありません。数千、数万年の間、人類歴史が進行してきましたが、誰もこのような境地に到達して、人類を罪悪から救ってあげられなかったではないですか。歴史上、数え切れない浮き沈みを繰り返しながら発展してきた多くの宗教も、このような目的を成し遂げるためにそれぞれ努力してきましたが、結局、彼らも堕落性の壁を越えられず、挫折したり、迂回したりしてしまったのです。
しかし、神様は真の愛の父母であられます。人類歴史上、初めてイエス様に御自身のひとり子の資格を賦与し、この地に顕現させられました。救世主、メシヤの使命をもってこられたイエス様は、この天のみ旨を成し遂げてさしあげるために、三十三年の生涯を捧げられましたが、結局、途中で十字架の祭物として消えてしまいました。イエス様は完全な人間、すなわち完成した「後のアダム」の資格で御自身の新婦候補を訪ねてこられましたが、実際は、天が数千年を経て準備しておいたユダヤ教とイスラエルが、そのみ旨を推し量れないまま、かえってイエス様を十字架に追いやってしまいました。
罪のない純粋な天の真の愛の種として顕現されたイエス様も、その種をこの地に植えることもできないまま、再び天に帰ってしまわれたのです。この地で新婦を探し出し、天と地の前で「小羊の婚宴」を催して真の愛の家庭を立て、罪のない真の天の血統を繁殖させようとされたイエス様のみ旨は、結局、途中でこのように挫折してしまう結果となりました。

Friday Apr 01, 2022
平和経 第167話
Friday Apr 01, 2022
Friday Apr 01, 2022
9.愛と真の結婚
日付:二〇〇四年八月二十一日
場所:韓国、ソウル、ロッテワールド•ホテル
行事:真の心情革命と真の解放•釈放天一国入籍祝福式祝賀宴
尊敬する元、現職の世界首脳と国内外の貴賓の皆様。まず、万有の真の父母、真の師、真の王、真の主人であられる父なる神様に、きょうを迎えさせてくださったことを、私たち全員で心から感謝しましょう。
真の愛と血統転換
きのう、私たちが一つの心で同参し、勝利を収めた「真の心情革命と真の解放•釈放天一国入籍祝福式」は、神様の摂理と歴史的見地から見るとき、歴史上、空前絶後の人類の勝利であり、神様の喜びです。
人間の先祖の堕落によって、人類は神様のみ旨ではない偽りの愛、偽りの生命、偽りの血統を伝授されました。しかし、堕落とは無関係の位置にいらっしゃる神様ですから、御自分ではどうすることもできず、数千、数万年を耐えて待ち続けてこられたのです。昨日はそのような父なる神様の恨を解いてさしあげる真の父母様の勝利であり、解放と釈放の日でした。
サタンのくびきの中で苦しんでいた六十億の人類が、今や天の真の父母と地上の真の父母を仰ぎ、侍って暮らせる新天新地の世界、すなわち後天開闢の時代である安着太平聖代を謳歌できる門を大きく開く天地合一の祝福式だったのです。
今や皆様は、後天時代を迎え、天が下さる真理のみ言を皆様の家庭と国で実践躬行し、永生のための準備を徹底的にしなければならないときです。先天時代の葛藤と衝突、そして対決主導の世界から、天地父母様であられる真の父母様の勝利的基盤の上に立ち、今から私たちは、共生と和合統一の実体的天国、天一国を創建しなければなりません。そのような意味で、きょう私は、皆様がこれから実践して生きるべき「真の愛と真の結婚」という題名で、私が生涯説いてきた真の愛の原理の一端をお伝えすることにより、晩餐の辞に代えようと思います。
皆様。真の愛とはどのような愛でしょうか。明らかに、世の中でよく言う世俗的な愛のことではありません。気の向くままに与えてはやめてしまう、そのような愛ではありません。肉身の欲望に引きずられ、本心に釘を打つ、そのような放縦と放蕩の愛では決してありません。真の愛は、公益性を帯びた無形の秩序であり、平和であり、幸福の源泉です。世界人類のための共同の財産であり、神様の意志と力の象徴です。
真の愛は、その根を神様に置いているのです。真の愛は、与えれば与えるほどもっと与えたくなり、もっと豊かになり、もっと大きな喜びを抱かせてくれる神秘的な愛なのです。私たちの生命の動機と過程、そして終末までも動かせる偉大な力を所有しています。人間は、真の愛から生まれ、真の愛によって育てられ、真の愛の道を歩み、真の愛によって死んでいく一生を送るように創造されているのです。ですから、真の愛は最高、最上の価値をもっているのです。
真の愛は、永遠に一緒にいて、永遠に一緒に見ながら、永遠に一緒に語り、永遠に一緒に聞いて、永遠に一緒に感じても、ただうれしいという愛です。万民が一緒に喜ぶ愛です。小さければこの上なく小さいものであり、大きければこの上なく大きい愛です。真の愛の中では、目が一度瞬きするだけでも天地が揺れ動く喜悦を感じることができ、にっこりと笑う一度のほほえみにも、私たちの一生が行ったり来たりする超人的な力を感じるのです。見えると思えば見えず、見えないと思えば見えたりする、神秘の塊です。真の愛の色彩はどのような色彩でしょうか。夜なら真っ黒で、昼には白く、夕方には黄色いと思いますか。真の愛の中心の色彩は、和合と統一、そして平和と幸福です。
原子爆弾は人間の生命を奪う力しかありません。創造ではなく、審判と破滅の象徴です。しかし、真の愛には死んだ生命を生かす復活の力があるのです。したがって、世界を一つに束ねて統一させる力は、核爆弾を前面に立てた武力と権力にあるのではなく、真の愛にあるのです。国ごとに固有な文化的背景があり、国境がありますが、このようなものを越えられる武器は、真の愛しかありません。今日の世界人類が抱えているあらゆる難問題も、真の愛の完成を通してのみ、解決できるのです。
真の父母と血統転換
皆様。真の愛を求めなければなりません。真の愛を皆様のものにしなければならないのです。皆様の生活の中で、真の愛を完成しなければなりません。どこに行って探し出せるのでしょうか。まず、真の愛の存在像を調べてみれば、真の愛は東西南北の四方性を備え、人種と文化と宗教と国境を超越して存在し、作用します。生命よりも先に作動するので、生命の根源となるのが真の愛です。真の愛は変化もなく、どのような革命もありません。真の愛は、原形そのままで完全なのです。真の愛は最高に自然なものであり、最高の真実の愛です。世の中のどのような作用よりも早いのが、真の愛の作用です。
真の愛は、縦的な真の父母の実体として来られた横的な真の父母から、真の祝福を受けることによって神様の血統に接ぎ木され、初めて種を受けるのです。偽りの堕落世界においては探し求める道がありません。絶対に不可能なことです。堕落の結果として生じた人間中心の世界では、善の血統を探し求める道がないのです。
真の父母を通して真の善の血統に接ぎ木されてこそ、皆様の体と心の闘争も克服でき、ひいてはカインとアベルの関係、宗教、人種、国境問題、民主と共産の問題を解決できる道を見いだせるのです。今日、世界の最も危険な紛争地域である中東の平和と韓半島の統一も、ここから探し出せるのです。
このように、血統転換は重要で深刻なことです。六十億人類の生死がかかった空前絶後の出来事です。正にこのような理由から、二〇〇四年八月二十日、皆様全員が大韓民国の国会で共に奉呈した「真の心情革命と真の解放•釈放天一国入籍祝福式」は、皆様の一生で最も大きくて貴い恩賜であり、祝福なのです。皆様は今、世界平和の王に即位した真の父母から祝福を受け、真の血統を伝授され、真の愛の種を受けました。この種をよく育てて花を咲かせ、真の実を結ぶようにしなければならないのが、皆様の残された生涯であるということを忘れてはいけません。

Thursday Mar 31, 2022
平和経 第166話
Thursday Mar 31, 2022
Thursday Mar 31, 2022
今日、アメリカだけでなく全世界において、青少年の脱線と堕落は健全な社会を脅かしています。世界は、人間の努力と人間愛では収拾できない終末的な状況に到達したというのです。ですから、必ず新しい運動が起こらなければなりません。誤ったことを清算してしまい、本来の基準で出発しなければなりません。
そのような意味で、歴史とは本然の理想世界に向かって古いものを清算し、新しいものを再創造していく再創造復帰摂理歴史です。ですから、古いものと新しいものがぶつかるのです。今まで、個人が家庭を好きなように立ててきましたが、これからはそのように立ててはいけません。そのような時代に私たちは立っているのです。
多くの宗教の創始者の中で、イエス様は、特に家庭に関して深刻なみ言を多く語られました。イエス様は、神様をどのような方だとおっしゃいましたか。「神様は私の父であられる」とおっしゃったのです。創造主である神様と人間の関係を、父母と子女の関係であると説いたのです。さらに、自分は神様のひとり子だと言いました。
これは、イエス様が神様の最初の息子であり、一人息子であるということです。
神様が愛の本体であるとすれば、人間とは父子の関係とならざるを得ません。ですから、私たち人間と創造主の関係は、単純な造物主と被造物の関係を飛び越え、真の愛、真の生命、真の血統によって連結された関係となるのです。
神様を中心とした家庭を築くことがイエス様の願い
また、イエス様は「私は新郎であり、あなたがたは新婦である」という立場で語られました。新郎と新婦が結婚すれば夫婦になります。家庭を築こうというのです。結局、家庭を築いて子女を生もうということです。ですから、結婚した夫婦は必ず息子、娘を生んでこそ、家庭がしっかりと築かれるのです。妻が憎くて離婚したくても、子女を生んでおけば、いい加減に別れることもできないのです。子女は、夫婦の愛の実です。
イエス様は、神様のひとり子、天の国の王子としてこの地に来られました。それも、神様の第一王子として来られたというのです。神様の全権を相続するのにふさわしい王子として、神様の印を受けて生まれた息子なのです。そのような神様の息子を迎えて、神様の長子の嫁にならなければならなかったユダヤ民族でしたが、そのようになれませんでした。
それでは、皆様の中で、その王子の新婦になる自信のある人がいますか。新郎新婦は神様を父として侍り、天の王子と王女として関係を結ばなければなりません。このように、神様を中心とした家庭を築くことが主の願いでした。外的な天下を所有しようということではなかったのです。
それでは、キリスト教は何をするべきなのでしょうか。全人類が共同で願う、来られるその方に新婦を準備して、その方が願われる環境をつくってさしあげなければなりません。これを聖書では、「小羊の婚宴」と比喩したのです。このような歴史的な責任を背負ってきたのが、正に新婦の宗教であるキリスト教の使命であるという事実をはっきりと知らなければなりません。
結局、イエス様が肉身をもって地上に来られた目的は、新婦を得て家庭を築こうということです。問題は家庭です。真の家庭を築いたならば、イエス様は、何にならなければならないのでしょうか。家父になるべきです。家父になると同時に、家長にならなければなりません。さらには、氏族の長にならなければならないのです。しかし、イエス様は家庭理想を完成することなく、十字架で亡くなられました。イエス様が築くべきその家庭は、神様をお迎えして千年、万年暮らしたいと言える家庭です。韓国の民謡の中に、「月よ、月よ、明るい月よ、李太白が遊んだ月よ。あの、あの、あの月の中に桂の木が植えられたので、父母に侍って千年、万年暮らしたい」という歌があるのです。
祝福とは神様の願いである真の家庭を築くこと
それでは、家庭を築いて何をすべきなのでしょうか。子女を生まなければなりませんでした。すなわち、神様の孫と孫娘が出てこなければならなかったのです。結局、神様が直系の孫と孫娘を見ることができなかったことが恨です。神様は今まで、すべての人間の標本的な家庭を立てようとされたのです。
ですから、神様はそのような家庭をどれほど慕われたでしょうか。また、堕落によって結ばれた人間が、どれほどその家庭を慕ったでしょうか。皆様も、その家庭を慕ってみましたか。理想家庭を中心として、すべての人類が一つにならなければなりません。そうして、人類は何を探し出さなければならないのでしょうか。真の家庭を迎えなければならないのです。
今日、堕落した世界の家庭は、神様のみ前に立つことができません。このような曲折があるので、「あなたの家族が怨讐である」と言われたみ言は正しいというのです。イエス様はこの地に来て何をしようとしましたか。神様を中心とした一つの家庭を築こうとしたのです。ところが、この家庭を築けなかったので、再び来るとおっしゃいました。再び来られて、何をしなればならないのでしょうか。家庭を築かなければならないというのです。そうして、その家庭において息子、娘が後代に繁殖し続ければ、氏族が形成され、民族が形成され、国家が形成されるのです。
そのような純粋な神様の家庭を築こうとすれば、神様の愛を中心とした家庭の血族がこの地上に現れなければなりません。ところが、その家庭を築けなかったので、神様が再びこの地上に、神様の創造理想だった本然の基準、すなわち本然の家庭を中心とした復帰の血族を形成するために、今まで救援摂理をしてこられたのです。
そのような家庭を立てるために、皆様がよく御存じの「祝福」というものをしてあげているのです。その家庭を「祝福家庭」と言います。その祝福家庭とは、どのような家庭でしょうか。神様を中心とした理想的な家庭のことを言うのです。その家庭は、来られる主を迎えるべき家庭であり、これからの後代の人々も迎えるべき家庭であり、すべての人間が最後にもたなければならない共同の目標です。
それでは、行くべき共通の関門は何でしょうか。国でもなく、世界でもありません。共産主義世界でもなく、民主主義世界でもありません。本然の家庭です。民主主義の世界に、真の民主主義世界を創建できる本然の家庭がなければなりません。この本然の家庭が現れるまでは、平和の王国、平和の理想国家、平和の国はあり得ないというのです。
ですから、私たちが願うこのような理想的家庭、本然の家庭、生きるべき家庭、出会うべき家庭、探し出すベき家庭が、この地球上に必ず現れ、人類歴史と運命を共にできる一時が来なければならないのです。それでこそ、地に対する神様の摂理が成し遂げられるのであり、安息の福地、安息の住み家が出発するのです。このように、家庭を生かし、地域社会を新たにし、国を強健にする運動において、聖職者が先頭に立たなければなりません。
内外の貴賓の皆様。きょう、祝福を受けた聖職者の皆様は、今から先頭に立って、皆様の教会と皆様の地域社会において、この祝福運動を主導し、平和の国、平和の世界を成し遂げていく先駆者となることを願います。神様の祝福が皆様の家庭に共にあることを願いながら、話を終えようと思います。ありがとうございました。

Thursday Mar 31, 2022
平和経 第165話
Thursday Mar 31, 2022
Thursday Mar 31, 2022
8.祝福家庭と理想世界
日付:二〇〇二年四月二十七日
場所:アメリカ、ワシントンDC、シェラトン•ナショナル•ホテル
行事:十四万四千双聖職者祝福結婚式祝賀晩餐会
内外の貴賓の皆様。まず、歴史的な超宗教、超人種、超国家で構成された十四万四千双聖職者祝福結婚式に参加した当事者の皆様に、心からお祝い申し上げます。真の家庭理想を中心として、宗派と教理を超越して五色人種が一つになったきょうこの日は、葛藤と紛争に明け暮れてきた人類文明史に対して、愛による和解を勝ち取った新しい歴史の一日として記録されるでしょう。
真の家庭の重要性
私は、過去八十年以上の生涯を通して、自ら創設した教団を飛び越え、唯一なる神様のもとの一つの平和世界を建設するために全身全霊を注いできました。その実が結ばれたこの意義深い場において、多くの教団の指導者の皆様と今から分かち合おうと思うみ言は、「祝福家庭と理想世界」です。この世の中には数多くの人々が暮らしていますが、彼らはみな、家庭に属しています。しかし、真の家庭がなければ、真の子女を育てることはできないのであり、真の社会の形成も不可能です。このように、真の家庭が基礎となり、真の社会、真の国家、真の世界が成し遂げられるというのは、当然の事実です。その真の家庭とは、神様の真の愛を中心として築かれた家庭を意味するのです。
今までの歴史時代には、真の家庭とは何かということに対する定義がありませんでした。それだけでなく、真の人が目指すべき目標とその限界点が何かも、明確ではありませんでした。人はどこから来て、どのように生き、死後はどこに行くのかが分からない、無知に陥っている人間だというのです。そして、このような人間が、自らの到達すべき目的の標準、修養の基準、人間完成の限界点を規定できないまま、歴史を経てきたのです。
個人がそのような立場に立てなかったので、人間が願う最高の家庭的な基準が形成されるはずがありません。このように見るとき、数多くの人間が、各自行くべき人生行路において苦しんでいることも問題ですが、私たちが忘れてはならないより大きな問題は、真の個人を基盤として真の家庭基準を成し遂げるべき課題が、人類の行路と発展する人類歴史の途上に残っているという事実です。
それでは、人間の霊的な無知を打開してきた宗教が目指すべき最後の目的は何でしょうか。個人の救いにも意味がありますが、さらに家庭を救わなければならないのです。まず家庭を取り戻し、悪主権に属している人間を罪悪の中から解放しなければなりません。
本当の意味で歴史を代表し、時代を代表し、未来を代表する家庭を取り戻さなければなりません。さらには、世界人類が共に喜べる家庭の土台と家庭が行くべき正道の基準を確定しなければなりません。その家庭の制度がどこから出発し、どこに向かうべきかということが決定されなければなりません。そのようにならない限り、この地上に平和の世界を創建できないというのです。外的なものがいくらよく成し遂げられたとしても、家庭が健全でなければ、世界は一時に破綻し得ることを知らなければなりません。
家庭は真の平和の起点
家庭には、父母がいると同時に夫婦の関係があります。父母がいなかったり、夫婦が別れたりしていても不幸なことですが、愛する配偶者を失うときには、この上なく悲惨で不幸になるのです。それだけでなく、夫婦が子女をもてなければ、それもやはり不幸に違いないのです。たとえ外的に見れば大きく成功できなかったとしても、家庭で真の父母、真の夫婦、真の子女を中心とした愛を完成し、誰もがその家庭を手本にしたいと思うほどに平和に暮らすならば、その家庭は、幸福な家庭であることを否定できないでしょう。
今日まで、聖人や賢人が平和を語ってきましたが、家庭が真の平和の起点であることがよく分かりませんでした。それは、神様の創造理想が、理想家庭を土台とした平和世界建設であることを知らなかったからです。今まで、この世界の歴史の中では、各種の革命が数多くありました。革命の結果として世界を動かした事実が多くあったとしても、それはすべて過ぎ去ってしまうのです。最後の問題は、真の家庭を築くための革命を起こせる一つの中心が、地球上に顕現しなければならないということです。
そうして、そこから新しい世界の創建、新しい歴史的な理想の出発が現れなければならないという事実を否定する道理はありません。これが第一イスラエルであるユダヤ教から、第二イスラエルであるキリスト教を通して伝授されてきたメシヤ思想です。正しい家庭の起源をもてなかった人が、正しい方向に進むでしょうか。進んでも、安定した目的点を見出せずに戻ってくるしかありません。ですから、再び家庭を訪ねて入っていかざるを得ない運命をもっているのが人生行路なのです。
堕落した人類を救うための最初の起点は家庭
本郷を追求していく人間の力が、歴史全体とすべての環境に影響を及ぼすことができ、幸福の土台を築く動機にならなければなりません。そのような人間の力の基盤となる家庭が、どこに築かれるのでしょうか。今日、すべての宗教は、社会に公的な利益をもたらす前に、家庭に公益となる基盤をまず整えなければなりません。なぜなら、宗教が社会に公益となる業績を立てたとしても、その社会を形成している家庭の基盤が歪むときには、社会の土台も崩れてしまうからです。
このような点から見るとき、神様が堕落した人類をお救いになるための最初の起点とはどこなのでしょうか。ある文明を誇る特定の国家でしょうか。違います。社会のある組織が理想的な組織だからといって、それを中心にするのでしょうか。違います。それでは、天才的な素質をもったある個人を中心にするのでしょうか。違います。これらすべてのものを超越できる一つの起点が真の家庭であるということを、皆様は知らなければなりません。ですから、今日、人間はそのような家庭の門を通過した資格を備え、勝利者の称号を掲げて世界に向かっていける人にならなければなりません。そのような主義と思想に応ずることのできる個体が現れなければならないのです。
それでは、どうして仏教とカトリックでは独身生活を強調してきたのでしょうか。独身主義が人間の幸福の土台であると本当に言えるでしょうか。違います。それは、どのような宗教や主義も、真の幸福の根源がどこにあるかということを提示してあげなかったために、独身生活をしながら、今後現れる純潔で正しい家庭を約束してきたのです。
昨今、提起されているカトリック内の深刻な問題は、十三世紀以降、継続されてきた独身主義に対する根本的な再考を意味するのです。神様のみ旨は、真の男性と真の女性が形成する真の家庭を通して成し遂げられるようになっています。聖職者たちが先頭に立ち、理想家庭を築いて手本を見せるのは、当然のことです。

Thursday Mar 31, 2022
平和経 第164話
Thursday Mar 31, 2022
Thursday Mar 31, 2022
真の愛の完成
人間世界において真の愛を完成すれば、政治的や文化的、環境的に何か問題があり得るでしょうか。真の愛の世界では、解決できない問題がありません。真の愛の世界は、すなわち歓喜と理想が満ちあふれた自由と平和と幸福の世界です。真の愛の同位権、同参権、相続権によって、喜びと幸福が無限に、そして永遠に拡散する世界になるのです。今日、世界人類が抱いている難問題は、真の愛の完成によってのみ、根本的な解決が可能です。
人間は成長期間を通して、神様の真の愛を段階的に体得しながら成熟するようになっています。真の愛によって生まれた人間は、真の子女の愛、真の兄弟の愛、真の夫婦の愛、真の父母の愛を順番に体恤しながら、完成するのです。
個体について見れば、心と体が一つになるところから真の愛が現れます。その次に、心身一体となった完成した男性と女性が真の夫婦の真の愛を交わし、その次に、彼らが真の神様の真の愛と連結して、子女を正しく愛する真の父母にならなければなりません。夫婦の心と体の中に神様の真の愛が臨み、その真の夫婦が一つになって、息子、娘を生むようになっているのです。そうしてこそ、完全で理想的な家庭ができるのです。
父母の真の愛、夫婦の真の愛、兄弟の真の愛、子女の真の愛など、四大愛を完成し、四大心情を体恤できる最小単位が真の家庭です。したがって、真の家庭は人間の真の愛と真の幸福の土台であり、真の生命と真の血統が芽生える所となります。ですから、真の家庭は人間が創造本然の真の愛と真の人格を育て上げる修練所であり、真の愛の学校なのです。このような真の愛の真の家庭は、人類の願いであると同時に神様の創造目的の根本になります。この真の家庭から輩出される真の愛の真の人格によってのみ、真の社会、国家、世界の完成があり、すべての環境圏の創造理想が具現されるのです。
私が常々、地上における真の家庭天国を強調する理由もここにあります。真の家庭天国が形成されれば、地上天国が形成されるのです。真の家庭天国で教育され、完成した真の愛の人格は、他人の幸福を阻害したり、環境と不調和を起こしたりはしません。いつでもために生きる真の愛によって調和一体を成し遂げる、真の人になるのです。
男性は神様の陽性の性禀を、女性は神様の陰性の性禀を代表する主体と対象です。神様の創造理念は、両性の中和体としていらっしゃる神様の性相を二性に分立し、再び神様の本性相に似た姿に合性一体化することです。真の夫婦は神様の二性をそれぞれ代表しているのであり、天と地を代表した立場で互いに調和一体を成し遂げるために生まれたのです。すなわち、男性も女性も、本来自分のために、自己中心的に生きるように創造されたのではなく、相対のために存在するように創造されたということです。真の夫婦はそれぞれ、相対のために生まれたことをはっきりと知らなければなりません。
真の愛は、一人では実現されないと言いました。真の愛は必ず相対的基盤を通して実現されるのです。夫婦間の真の愛は、自分たち夫婦のためだけのものではありません。神様の創造理想を中心とした真の愛です。絶対的な真の愛の主人は神様です。神様の真の愛によって、自分の相対と一つになろうとするとき、絶対的な神様の真の愛が臨在するのです。
真の夫婦は、神様の真の愛を抱き、合一した希望をもって未来の世界に向かって進まなければなりません。子女の誕生も、家門の繁栄も、この基台の上で可能になるのです。夫婦の真の愛が生活の環境圏を越え、神様の真の愛理想と一致する家庭を完成することが、究極的な願いになるのです。
家庭の重要性
堕落はアダム家庭から起きたので、本然の姿に戻っていく目的は、アダム家庭の復帰完成にあります。神様は世界と国を求める前に、民族と教会を求める前に、御自身の相対を求め、一つの中心家庭を求めます。神様は歴史を通して、御自身の理想的な対象となる真の家庭を訪ねてこられました。この真の家庭は、私たちが習慣的に生活してきた家庭とは根本的に異なります。神様を中心とした理想的な真の家庭を探し出せなければ、理想的な国と世界も探し出せません。本然の真の家庭を先に立てる原則がここにあるのです。ですから、個人が救いの目標ではなく、真の家庭が救いの基本単位になるのです。
堕落がなかったならば、真の愛によるアダム家庭は、どのように生み殖えたでしょうか。アダムとエバは、真の愛による理想的な真の夫婦となり、さらには真の父母となって、その子孫と全人類の真の先祖になったでしょう。
アダムとエバを真の父母として生み殖えた人類は、一つの大家族を形成し、アダム文化圏の平和世界を成し遂げたでしょう。したがって、復帰歴史の帰結は、真の父母と真の愛を中心とした真の家庭を探し立て、これを中心として編成されるのです。このとき、中心である真の家庭は、人類の願いであると同時に、神様の願いです。この真の家庭は、真の愛と真の生命の始原となり、人類の平和と幸福の起点になるのです。
真の愛の革命
「自分のまいたものを、刈り取る」(ガラテヤ六•七)という言葉があります。人類の先祖がサタンを中心とした偽りの愛によって、悪の人格、悪の夫婦、悪の父母から、悪と偽りの種が蒔かれたのです。今の時代は、それでもこれまで人間社会を支えてきた父子の関係や基本倫理、道徳律までもがすべて崩れてしまいました。動物よりも劣る破倫行為が起こり続けています。その程度がひどくなっていくのです。エデンの園における堕落によってそのように植えられたので、その現象が歴史的、世界的に実を結ぶ収穫期になったという意味です。
本然の真の愛は、時代による発展もなく、そのままで完全なものです。原形そのものが真であり、永遠、不変、絶対的なものです。ところが、人間の先祖が成長期間において未完成のまま堕落し、偽りの愛の始原を形成したのです。利己的で悪の偽りの愛を土台として積み上げた人類文明は、このまま続くことはできません。このままではいけません。人類が減んでしまうのです。
家庭の基盤が崩れ、子孫が根本的に誤っていくのに、外的な発展と物質的な豊かさに何の意味がありますか。歴史的な過ちと不条理は、根本的に清算されなければなりません。人類にとって最も至急に必要なものは、真の父母による真の愛の革命です。根本的な変革なくしては、人類の幸福や平和な世界は望めません。今日の問題は、真の父母が中心になった真の家庭主義、神様の真の愛主義によって整理されなければなりません。
尊敬する指導者の皆様。私がこれまで世界的に展開してきた平和運動とともに、真の愛主義の理念を深刻に評価してくださることをお願いします。青少年に対する真の愛と純潔運動、そして国境、文化、人種、宗教を超越した真の愛による真の家庭運動などを、統一教会の教団的行事としてのみ考えてはいけません。
世界平和は、平和な国家がまずあってこそ、実現されます。国家の平和は家庭の平安が前提でなければなりません。世俗的な人々が一般的に願ってきた権力や富貴や知識が、平和と幸福の必要十分条件にはなり得ません。真の幸福は、所有に比例するのでもなく、外的な生活の利便さによって左右されるのでもありません。このようなものが真の愛と共にあるとき、真の平和と真の幸福を得るようになるのです。本当の平和も無限の幸福も、真の愛で他のために生きて施すとき、そしてその施したものが全体を巡って再び訪ねてくるときにのみ、確実に得られるのです。
尊敬する指導者の皆様。今に至るまで皆様は、各分野において並外れた信念をもって、人類の福祉と社会発展のために大きな実績をもって寄与してこられたことを知っています。もちろん、その分野においてさらに大きく寄与されるでしょう。しかし今、人類は総体的に危機の時代を迎えています。特定分野だけの備えや努力だけでは足りません。指導者たちが時代の良心となり、積極的に模範を見せながら、平和世界の基本単位であり前提条件である真の家庭を創造し、指導するために進み出なければなりません。
十三日に私が執り行う三億六千万双祝福結婚式の第一次儀式は、私が生涯を捧げ、理想家庭に対して教育してきた結実の一つです。祝福儀式に同参する人は、既に神様のみ前に婚約し、神様の真の愛を中心として真の夫婦、真の父母となり、真の家庭を築く人々です。平和世界の実現のために、真の家庭運動を通した歴史的な真の愛の革命を勢いよく進行しているのです。
親愛なる指導者の皆様。人類を家庭破綻の道から救うことよりも、さらに急がれることがどこにあるでしょうか。平和世界に向かう真の家庭運動に積極的に同参してくださることを重ねてお願いします。
神様の真の愛が皆様と皆様の家庭、そして国と共にあることをお祈りいたします。誠にありがとうございました。

Thursday Mar 31, 2022
平和経 第163話
Thursday Mar 31, 2022
Thursday Mar 31, 2022
7.真の家庭と世界平和
日付:一九九八年六月十一日
場所:、アメリカ、ニューヨーク、ウォルドルフ•アストリア•ホテル
行事:一九九八世界文化体育大典
著名な学者の皆様、尊敬する宗教指導者、そして各界の指導者の皆様。「真の家庭と世界平和」という主題のもとに進められるこの特別会議に御参席くださったことを、心から歓迎いたします。
私たちは、深刻な道徳的混乱、世界紛争、環境問題、犯罪などに染められた二十世紀を清算し、希望の中で二十一世紀を迎えるべき歴史的な大転換期に立っています。人類は、戦争と苦痛のない平和の世界を渇望しています。しかし希望よりも、かえって次第に悪化していく物質万能主義の傾向と共に、国家権力と宗教が正しい影響を及ぼせない中で、青少年の退廃、家庭破綻、麻薬とエイズなどが、人類の将来をさらに暗くしています。高度に発達した科学技術も、便利な情報通信の発達も、経済開発と政治的努力も、人類の幸福と平和な真の家庭を通した世界をもたらすことができずにいます。
真の愛の創造理想
人類は長い歴史路程を通して、ある一時も、完全な幸福の真の主人公になれませんでした。個人的にも全体的にも、家庭は多くの不幸を経験しながら過ごしてきました。それにもかかわらず、人間はいつも諦めずに、粘り強く幸福を追求してきたのです。それは本来、人間が幸福に生き、真の家庭の中で豊かに暮らすように神様が造ってくださったからです。人間は堕落の罪によって苦痛の生活をしてきましたが、その本性においては本然の幸福な自我を希求し続けてきたのです。
それでは、真の幸福の本質とは何でしょうか。神様は何によって、人間が本当に幸福になるようにしてあげようと思ったのでしょうか。神様は真の愛の本体であられます。神様は真の愛の理想ゆえに、無限に投入しながら創造をされました。真の愛は一人で、独断的にするものではありません。主体と対象の関係を通して、成就できるものなのです。したがって、愛を成就して体恤するためには、神様も主体と対象の関係を結ばなければならなかったのです。正にそれが、真の家庭でした。
堕落によって失われた真の愛
神様の創造の根本目的は、真の愛とその対象である真の人です。絶対者である神様のみ前に、人間はどのようにしてその相対的な立場に立てるのでしょうか。努力や外的な条件によってではありません。ただ、真の愛の関係によってのみ可能なのです。主体と対象が完全な真の愛の関係を結べば、一度に同位権、同参権、相続権を互いにもつようになるのです。
神様の真の愛の動機により、その対象として造られた人間にとって最も貴いものは、真の愛を中心とした真の家庭を築くことです。真の愛は、人間を本当に幸福にする根本です。真の愛の中に無限の喜びがあり、無限の自由があります。真の愛の中で、永遠の調和が成し遂げられるのです。
神様は無形の主体であられ、人間は有形の実体対象です。神様は人間の真の愛の主体であり、真の生命の主体であり、真の理想の主体です。したがって、人間は真の愛の対象であり、真の生命と真の理想の対象になります。神様は父なる創造主であられ、人間は真の愛によって一つの体となる、その方の子女として造られたのです。
本来、真の人は心と体がいつも神様の真の愛を中心として一つになり、それに酔って喜びの中で生きるようになっていました。神様は真の愛によって幸福を感じる真の家庭を御覧になり、御自分も無限の喜びを感じると同時に、共にお住まいになろうとして、人間を創造されたのです。神様は真の愛によって人間と調和一体を成し遂げようとされたのです。ところが、人間の先祖が堕落してしまいました。
人間は個体の中で、悪の欲望を達成しようとする邪心の指向性と善の欲望を成就しようとする本心の指向性が、それぞれ異なる欲望を前に立てて、熾烈な闘争を繰り広げていることを感じながら生きていきます。私の体と私の心なのですが、気づいてみれば、体と心が対立している自分であることが分かるのです。このように人間の体と心が葛藤する矛盾性は、正に人間の先祖の堕落のためです。このような体と心の分裂、衝突は、家庭と社会だけでなく、国家、世界、天宙の分裂と不幸として続いてきたのです。
堕落とは、サタンの利己的な偽りの愛によって天道に逆らったことであり、結果的には、神様と真の愛が分からない無知に陥ったことです。こうして人間はサタンに従い、神様を失って、本然の価値も失ってしまったのです。創造本然の理想完成である心身一体を成し遂げた真の人になれず、幸福の根本要因である真の愛を中心とした真の家庭を築けませんでした。
心身の統一基地
すべての被造物は愛の法度に従って創造され、また存在しています。人間の完成も、知識や権力、もしくは財力によって成し遂げられるのではなく、真の愛によって成し遂げられるのです。すなわち、真の人は、真の愛の経験を通して、神様の根本的な真の愛に似た人格として完成するようになっているのです。個性完成とは、心と体が一体となって調和することを意味します。人間は神様の真の愛の核と一致する場にいるとき、心身が一体となるのです。
心と体は、神様の真の愛の基盤の上で、生活を通して授受作用を永続しながら完全に一つとなり、真の愛の人格を成就するようになっています。心身が統一基地をつくってこそ、その上に真の愛の完成である真の家庭が安着するのです。真の愛だけが、心身の理想的な関係を永遠に成し遂げられるというのです。心身統一の基地の上に神様の真の愛が臨めば、真の愛の門が大きく開き、真の人は神様と宇宙の真の愛と共鳴するようになります。そのようになった真の人は、見て、聞いて、感じるもので真の愛でないものがなくなり、自動的に無限の自由と喜悦の主人公になるのです。
このとき、真の人は真の愛に酔い、最高の芸術的情感の中で暮らすようになっています。真の人の人格は、自然な形で相対世界と情によって同化し、共に酔いながら生活の中で美しさを体恤しつつ、全体的な創造目的を完成するのです。このようになれば、神様のみ前に完全な対象となり、神様に似て、その方の真の愛を相続するようになるのです。神様が感じることをそのまま感じ、神様が喜ぶことをそのまま喜ぶようになります。
人間にとって最も神聖で貴いものが真の愛です。真の愛は、自分一人だけでは生じません。自己中心的なところでは生じないのです。真の愛は、相対のために与え、また与え、与えたことをすべて忘れ、また与えて施しながら、一つになろうとするのです。ですから、真の愛はすべてのものを抱くようになります。真の愛は、私個人だけの所有にはなりません。真の愛を相続したのちには、私のものであると同時に万民のものであり、宇宙共有のものになるのです。神様の希望は、真の愛を人間と共有することです。神様は御自身の息子、娘であり、最も高く最も貴い被造物である人間と、心情世界において真の愛の喜悦と幸福を永遠に共有したいと思われるのです。

Wednesday Mar 30, 2022
平和経 第162話
Wednesday Mar 30, 2022
Wednesday Mar 30, 2022
真の愛と関係を結んだ死後の世界
神様には時間という概念がありません。時間の概念がないというのは、永遠に初めであり、終わりであるという意味です。過去も現在も未来も、同じだというのです。そのようになっても嫌でないように作用を起こすことのできる、神様が安息できる本質は何でしょうか。そのようなものが問題になります。
それは何でしょうか。全知全能の能力でしょうか。違います。神様の知恵、全知全能ではできないというのです。それによっては、安息できないのです。真の愛の力だけが可能です。神様も「真の愛!」と言えば、「そうか!」と言うのです。それ以外は、神様にとって必要ではないのです。
私たちは最後、どこに行かなければならないのかといえば、霊界です。それは何を意味するのでしょうか。一般的に死後の世界だと言いますが、死後の世界ではありません。なぜ、死後の世界にならないのでしょうか。真の愛と関係している世界だからです。真の愛と関係している世界なので、死後の世界ではないのです。真の愛を中心として出発したものなので、自分が真の愛の立場に立つようになるときは、既に今ここが霊界です。ですから、真の愛が偉大なのです。真の愛によって縦的な球形運動をしてこそ、上下、前後、左右が和合できるのです。縦は縦、横は横になって和合できなければ、上下、前後、左右全体が和合できないのです。統一が起こりません。真の愛だけが統一できるのです。そのため、統一教会が真の愛を中心とした統一理想世界を論じるのも、原理観に一致した結論なのです。
神様は人間を引っ張ってくださろうとします。神様も息をするのです。真の愛の呼吸をされるのです。神様も宇宙に拍子を合わせるので、真の愛を中心として、宇宙が永遠に続くのです。真の愛に永生があるというのです。ですから、皆様はここまで行かなければなりません。そうしてこそ、神様の呼吸圏に入っていくのです。
真の愛も息をするのです。宇宙の脈拍がこのようになるので、男性や女性が「ああ!私は嫌だ!」とは言えないのです。拍子が合うときは、互いが本当に愛し合わなければなりません。方向がすべて同じです。一方向です。すべて、神様を中心とした一つの方向なのです。
天国に行くためには祝福の門を通過しなければならない
霊界も肉界も、真の愛に従って動きます。その縦的な真の愛の主軸を中心として、環境的条件は自分自ら自動的に拍子を合わせるのです。「その共通分母は何か」と言うとき、過去の人も、現在の人も、何と答えるでしょうか。「永遠性と同伴できる資格は何であり、私たち人間の世界で必要とするすべての欲求の要因は何か」と言うとき、それは真の愛だというのです。それは取るに足らない愛ではありません。真の愛です。
それでは、真の愛とは何でしょうか。縦横を通じて九〇度を備え、どこであれ角度がすべて合わなければなりません。東洋の家にも合い、西洋の家にも合い、南方型の家にも合い、北方型の家にも合い、五色人種(すべての人種)、文化背景、宗教背景がすべて違ったとしても、この道を一緒に行けるのが、正に真の愛です。
今日、この世界には多くの人々が暮らしています。世界に六十億以上の人が住んでいますが、統一教会で言う「祝福」の意味を知る人は、多くないでしょう。この祝福という言葉は、統一教会で初めて始まった言葉であり、その祝福という言葉を中心として、今まで祝福結婚行事をしてきたのです。
それでは今後、人類はどこに行かなければならないでしょうか。すべての人類は、祝福の門を通らなければ天国に行けません。数多くの人がキリスト教を信じていますが、そのキリスト教自体も祝福という門を通らなければ、天に行けないのです。このように言うとキリスト教では「統一教会のレバレンド•ムーンは独善的な発言をたくさんする」と不平を言います。このような考えをもつ人、またそのように言う人もいるかもしれませんが、それはその人たちの話であって、統一教会で語る祝福結婚は、堕落した人類にとって必ず行くべき道です。いくら反対しても、霊界と肉界を連結して天国に入っていくべき重大な問題となるのが、この祝福結婚だというのです。
今日、一般の宗教を信じる人々は、「救い」と言えば、個人の救いを考えます。よく信じれば、自分は天国に行くと信じる立場です。しかし、本来の神様の理想について見てみれば、天国は一人で行くようにはなっていないのです。
夫婦の霊人体
私たちは、真の愛の理想を訪ねていく群れです。ですから、霊界の代弁者として立つために、真の愛の理想を自分の体に、現実に身につけて、その真の愛をどれほど横的な世界に植えるのか、種として蒔くのかという、ここから真の愛の心をもって互いに与え合いながら育つのです。
このようにして、真の愛の実を結び、その夫婦が霊界に入るようになるとき、神様の永遠な真の愛の圏に抱かれて、神様と一つの体になるのです。神様と一つになるのです。人は、この地上においてその殻がすべて老いていきますが、夫婦生活をして、真の愛で愛し合えば愛し合うほど、霊人体は美しくなります。それはどういう意味かと言えば、人間が長く生きれば生きるほど、内的な人間である霊人体は、最高の円熟した美男、美女になるということです。肉身という殼は服のように脱いでしまわなければならないのに、これが若いままでくっついていれば、どうするのですか。ですから、老いれば外的な面の殼はすべて使えなくなりますが、内的な中身は成熟して、永遠の未来の相続者となり、最高の美人になるのです。秋の豊かな実りになるのです。
ですから、神様を直接愛する前に、皆様の足の先から、皆様の食べる食べ物を愛し、物質を愛し、万物を愛し、皆様の体を愛さなければなりません。万物を愛することによって、万物の要素を吸収し、自分の体を愛さなければなりません。
なぜ結婚しなければならないのか
皆様の第一の父母は皆様を生んでくれた父母ですが、第二の父母は地球です。この地です。皆様は、皆様の肉身が大きくなれるように、地からその要素を供給されるのです。地が肉身の第二の父母です。第二の父母を経て、第三の父母に帰るのが死です。
第三の父母のところには、そのまま行くのではありません。第三の父母のところに帰ろうとすれば、本来の父母だった神様の姿に似なければなりません。ですから、結婚はなぜするのかといえば、神様の姿に似るためにするのです。神様は二性性相としていらっしゃる方として、その二性が合体化した一体的な存在であられ、その神様の分性的人格自体が男性と女性なので、彼らが合性一体化して種のようになり、神様の本性的な位置に帰らなければならないのです。
ところが、その種を連結させるためには、真の愛の道理である結婚をしなければならないので、生まれながら真の愛を受け、成長しながらも真の愛を目標にして成長し、暮らしながらも真の愛を中心として暮らし、逝くときにも真の愛に帰るために逝かなければならないのです。その真の愛の道を行くという結婚の目標を中心として訪ねていかなければ、永生の方向が狂うという事実を、皆様は知らなければなりません。
祝福結婚と永生は、真の父母から始まります。真の父母と真の愛で一体になるというのは、個人、家庭、国家、世界、天宙が完成し、神様の創造理想が完結することなのです。真の父母が生まれた所は人類の祖国であり、地上天国と天上天国の出発地になるのであり、神様の全権時代を迎えるようになるのです。ですから、滅びることなく全盛の時代へと発展するでしょう。大韓民国の国民は、訓読会を通して真の父母と超国家的に一体となり、万国に勝利圏を備えて、万国の祖国となりましょう!ありがとうございました。

Wednesday Mar 30, 2022
平和経 第161話
Wednesday Mar 30, 2022
Wednesday Mar 30, 2022
永生しなければならない理由
神様は、人間をどのような存在として造ったのでしょうか。神様の絶対唯一の価値となる、真の愛の対象者として造りました。これは驚くべき事実です。近頃、人間の生命の価値はどのくらいになりますか。いくらになりますか。そのような無価値な人間ではありません。神様のみ前に、宇宙を与えても取り替えられない高貴な価値、真の愛の相対圏として男性を造り、女性を造ったという驚くべき事実を知らなければなりません。
人は真の愛で生まれ、真の愛で大きくなり、真の愛で生き、真の愛で死にます。しかし、そのままなくなるのではありません。主体であられる神様が永遠、不変、唯一なので、その方のみ前に対象的な真の愛の立場に立つようになれば、永生するのです。永生という理論がここから出発するのです。生命から始まるのではありません。
今日、この地上で一番の真の人は、どのような人でしょうか。神様と内外で一体となり、子女の立場で完全に真の愛を受けられる人が、真の人です。そのような人が神様と共に暮らしていく生活を、真の人生の道というのです。
人々は、誰もが最高を願っています。人間が最高の位置に行くようになれば、神様は私のものです。また、私は神様のものです。そのようになれば、私は神様の息子になり、神様御自身と一つになるので、宇宙は誰のものになるでしょうか。私のものになるのです。
それでは、神様が一番愛し、一番貴く思う物があるとすれば、それを一日、もしくは十年や百年ぐらい共に過ごしたあと放り投げるように造ったでしょうか、永遠に共にいるように造ったでしょうか。永遠に共にいるように造られたのです。人も同じです。人が生まれて死ねば、終わりになるのがいいでしょうか、永生すべきでしょうか。永生しなければなりません。なぜでしょうか。人は、絶対者である神様が、絶対的な真の愛を中心として喜べる対象だからです。
それでは、皆様は永生を願いますか、願いませんか。漠然とですが、永生を願っています。自分にとって貴い物があれば、避難するときにそれをもっていきますか、もっていきませんか。もっていきます。それを誇りたいと思うのです。それを一日、二日だけ誇るのではありません。自分が死ねば、それを自分の後代に残したいと思うのです。永遠に残したいと思うのです。それは、神様も同じです。神様が永生される絶対者であるなら、その方が愛する対象も永生しなければなりません。ですから人々は、昔から永生することを願うのです。これをはっきりと知らなければなりません。ですから、絶対者であられる神様は、永生する価値をもった、愛する息子、娘を探さざるを得ないのです。
私たち人間は、神様が造られた傑作であり、神様に似ています。神様が永遠であられるので、私たちも永遠の性禀をもたなければならないので、私たちの心は老いることがないのです。
ですから、人は永生してこそ、その傑作としての存在価値をもつことができます。人間は万物の霊長です。ここから霊という言葉が出てくるのです。人は永生しなければなりません。
創造主の永遠な真の愛の相対
永生の論理をどのように探しますか。神様は知恵深い方です。もし、神様が愛の理念を立てなければ、孤独単身で、喜怒哀楽を感じられない神様になるでしょう。愛は絶対的愛ですが、この愛を失われた神様は、歴史始まって以来、誰も体験できない、深刻で息の詰まる立場、絶対的に悲惨な立場に立ったのです。誰も慰められません。永遠に慰めることができないのです。
その本然の息子、娘を犠牲にして、それで満足するのではなく、御自身が夢見た願いである真の愛の理想的相対を再現させて、それを抱いて千里、万里移動しながら、もっと輝くように装い、もっと美しく表示できなければなりません。万宇宙を彼らのために、そのように和動するように造ったのです。
大気圏に絶対低気圧圏ができれば、高気圧圏が生じ、自動的に循環運動が起こります。神様は本当に知恵の王です。なぜ投入し、忘れてしまわなければならないのでしょうか。自動的循環原理を通じて永遠の回転が始まるので、永生論理が設定されるのです。投入して、また投入するところから、永生の論理が始まります。ために生きるところでは滅びません。小さなところから大きなものに成長し、大きなものがその次にはどこに行くかと言えば、中に入って核が生じるのです。
神様が絶対的な真の愛の相対を求めるとするなら、誰をもってきて立てるのかと言うとき、「それは間違いなく人間である」と結論づけることができます。ですから、「万物之衆(マンムルチチュン)唯人最貴(ユインチェキ)(万物の中で人間が最も貴い)」という言葉が出てきたのです。これが、創造主の永遠な真の愛の相対、創造主の真の愛の相対になるという結論を出すとき、その真の愛と一つになった真の愛の相対は、永生するという論理が生じるようになるのです。
永生というのは自動的な産物です。永生はここから始まるのです。真の愛の関係を中心として、永生論理をどのように立てるかという問題は、宗教では極めて大切な話です。男性だけで永生があり、女性だけで永生があるのではありません。神様の真の愛と一つになるところに永生があるという結論が出てくるのです。
真の愛によってのみ救いが可能
今日、キリスト教の人々は「イエス様を信じれば永生する」と言います。話としては良い話です。「それでは、永生はどのようにするのですか」と尋ねれば、「永生をどのようにするも何も、そのようにしてするんだ!」と言います。永生というのは、継続的な作用をつなげていかなければなりません。彼らは体をもったまま人生の道を永遠に行くことができるというのです。そのためには、心臓の動脈と静脈のような循環器官が正常に動かなければならず、神経系が正常に動かなければならず、大脳と小脳のあらゆる作用が正常に動き続けなければなりません。
では、どのように永生するのかと尋ねれば、皆様はどのように答えますか。イエス様を信じれば永生しますか。信じれば救われますか。とんでもないことです。真の愛によってのみ、救いを受けるのです。神様の創造原則から見るとき、真の人だけが神様の真の愛の同伴者なので、真の愛をもてば、永遠に生きられるのです。その真の愛の圏内に入っていれば、霊界や地上で暮らすとき、自分がどこに行って暮らすのか、すべて目にするようになるのです。
皆様。大洋を行き来する大きな船が破損する危険が生じるときは、その船の中で暮らしていたねずみが錨綱をつたって陸地に逃げるという話を聞いたことがありますか。微々たるものにすぎない動物も、未来の自分の生死の境を見極められるのに、万物の霊長である人間は、それができないのです。これは堕落したためです。この堕落の仮面をどのように脱ぐかという問題は、すなわち悪魔の愛と悪魔の生命と悪魔の血統からどのように抜け出すかという問題です。これを中心として、解脱という言葉を使うのです。完全に抜け出して、関係のない立場、自主的な立場に立つという意味です。
永生に必要な観念
私は永生する人です。その次に、真の愛を実践する人です。私は永生と真の愛を、ここで実践する人だというのです。自分がここで何をするにしても、その活動や、工場で働いたり何かをしたりすることが、永生を延長させる材料だというのです。
永生できるように訓練し、永生できるように育てる訓練材料を探し出すことが、私のすべきことだと考えなさいというのです。皆様にとって永生と真の愛は、いつも必要です。永遠に必要なのです。
「私たちは永遠に生きられる。永生を願う!」というように、永生を願うのですが、変わらないものは真の愛です。他のものはすべて変わります。環境的に変わるのです。それでは、なぜ真の愛は変わらないのでしょうか。真の愛はすべての生命力の中心なので、変わらないのです。真の愛はなぜ変わらないのでしょうか。真の愛は、理想的な要件の中心位置を占めるからです。中心は、その周囲がすべてなくなるまでは、なくなりません。真の愛は宇宙の中心であり、神様を中心とした真の愛と一致しているので、神様が残っている限り、残っているというのです。
真の愛とは何でしょうか。皆様が結婚するとき、結婚相手は優れている人を願うでしょう。また、自分の息子、娘が、自分より優れていることを願わない人がどこにいますか。それは誰に似たのでしょうか。神様に似たのです。それは何かと言えば、神様も、真の愛の相対は自分より優れていることを願うということです。それを否定できますか。
絶対的な神様が私たち人類の父であれば、その父は絶対的に行わないのに、その息子、娘の前で絶対的に行いなさいと命令できますか。命令できません。神様も、真の愛の相対は自分より優れていることを願われるという原則から見るとき、人間の価値は最大の価値をもつのです。真の愛を中心として、神様より高い価値があるというのです。真の愛と直結した永生
そのため、皆様の心は最高のものを願っています。それは不可能なことではありません。万人が平等に可能なのです。堕落しなかったならば、可能なのです。天上の高く貴い立場からこの宇宙を眺めて管理し、主導するようになっているのであって、他の何かを眺めて、無理やり服従するようにはなっていないのです。
皆様の心がそうでしょう。解放された心です。誰の支配も受けたくないのです。これは万人共通です。真の愛の位置にいれば、神様の位置、天の国の玉座に思いどおりに行けるのです。神様の友達になれるのです。
真の愛ゆえに人間を造ったというとき、永遠であられる神様、絶対的な神様、永生する神様なので、その真の愛に一致した人間が永生するというのは、自然な論理です。ですから、永生しようとすれば、その真の愛の圏で暮らさなければなりません。真の愛によって永生が可能です。なぜでしょうか。創造の出発、動機、過程から、すべての目的が真の愛を中心として完成するのです。過程を通じて結果が出てきます。
自分の体と心の完成というのは、真の愛に属することによって根本的に可能になっています。無限の根本、原因から過程、それから理想の結実を結ぶのは、真の愛しかありません。真の愛によって、真の愛を中心として、神様も永存しているのです。
神様は何を中心として永存するのでしょうか。永生は、真の愛によって連結されるのです。ですから、永生の環境を形成するためには、真の愛の環境を中心として生活しなければなりません。真の愛の実体圏をもつには、真の愛を中心として、実体的な体恤をしなければならないのです。
皆様は、神様が霊界のどこにいらっしゃるか、はっきりとは分かりません。皆様は、神様のこのような絶対的な中心、愛の中心という観念をはっきりと知らなければなりません。その真の愛の力は、最も早い真の愛の力なのです。その真の愛は、直短距離を通ります。それで、このようなことを教えてあげるのです。なぜ文先生が、このようなことを強調するのでしょうか。それを知っているからです。神様を知り、永遠の世界を知っているからなのです。神様を知り、永遠の世界を知れば、いい加減に生きることはできません。
神様、永生、真の愛を知らなければならない
第一に神様を知らなければならず、第二に永生を知らなければならず、第三に真の愛を知らなければなりません。これは投入です。一〇〇パーセント以上、投入です。一〇〇パーセント以上、投入するところに永生があります。真の愛をもたなければ、永生がありません。永生しない人は神様に出会えないのです。
これから、世界をどのように収拾するのでしょうか。第一に利他主義、第二に真の愛、第三に永生です。これで世界が収拾されるのです。これの反対は利己主義です。これはサタン側と通じるのです。
その次に真の愛です。真の愛とは何であると言いましたか。自分の生命を投入し、それ以上に投入しなければなりません。生命を投入し、それ以上に投入しないところには、真の愛がないのです。レバレンド•ムーンはアメリカに来て、生命と財産と統一教会のすべての精誠を注ぎました。ここから真の愛が成立するのです。真の愛が成立しなければ、永生はありません。
なぜでしょうか。皆様の悪の生命の最高の起源は、サタンの血から受けたのです。サタンの血統です。サタンに属するのです。愛もサタンの愛です。これ以上にならなければいけないというのです。それで、聖書には「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである」(マタイ二二•三七—三八)とあるのです。この言葉はどういうことでしょうか。心を尽くして、思いを尽くしなさいと言ったのは、生命まで懸けなさいということです。これが第一の戒めです。
第二の戒めは、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」(マタイ二二•三九)ということです。「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」というのは、どういうことでしょうか。生命を懸けて、真の愛を実践しなさいということです。生命を投入しなければならないというのです。
なぜ生命を懸けなければならないのでしょうか。生命を懸けなければ、第一にサタンを屈服させられず、第二にサタンの環境から抜け出せず、第三にサタンの血統から抜け出せないのです。この三つです。しかし、サタンの環境は抜け出せたとしても、メシヤ抜きではサタンの血統をどうすることもできません。永生しなければならない理由
神様は、人間をどのような存在として造ったのでしょうか。神様の絶対唯一の価値となる、真の愛の対象者として造りました。これは驚くべき事実です。近頃、人間の生命の価値はどのくらいになりますか。いくらになりますか。そのような無価値な人間ではありません。神様のみ前に、宇宙を与えても取り替えられない高貴な価値、真の愛の相対圏として男性を造り、女性を造ったという驚くべき事実を知らなければなりません。
人は真の愛で生まれ、真の愛で大きくなり、真の愛で生き、真の愛で死にます。しかし、そのままなくなるのではありません。主体であられる神様が永遠、不変、唯一なので、その方のみ前に対象的な真の愛の立場に立つようになれば、永生するのです。永生という理論がここから出発するのです。生命から始まるのではありません。
今日、この地上で一番の真の人は、どのような人でしょうか。神様と内外で一体となり、子女の立場で完全に真の愛を受けられる人が、真の人です。そのような人が神様と共に暮らしていく生活を、真の人生の道というのです。
人々は、誰もが最高を願っています。人間が最高の位置に行くようになれば、神様は私のものです。また、私は神様のものです。そのようになれば、私は神様の息子になり、神様御自身と一つになるので、宇宙は誰のものになるでしょうか。私のものになるのです。
それでは、神様が一番愛し、一番貴く思う物があるとすれば、それを一日、もしくは十年や百年ぐらい共に過ごしたあと放り投げるように造ったでしょうか、永遠に共にいるように造ったでしょうか。永遠に共にいるように造られたのです。人も同じです。人が生まれて死ねば、終わりになるのがいいでしょうか、永生すべきでしょうか。永生しなければなりません。なぜでしょうか。人は、絶対者である神様が、絶対的な真の愛を中心として喜べる対象だからです。
それでは、皆様は永生を願いますか、願いませんか。漠然とですが、永生を願っています。自分にとって貴い物があれば、避難するときにそれをもっていきますか、もっていきませんか。もっていきます。それを誇りたいと思うのです。それを一日、二日だけ誇るのではありません。自分が死ねば、それを自分の後代に残したいと思うのです。永遠に残したいと思うのです。それは、神様も同じです。神様が永生される絶対者であるなら、その方が愛する対象も永生しなければなりません。ですから人々は、昔から永生することを願うのです。これをはっきりと知らなければなりません。ですから、絶対者であられる神様は、永生する価値をもった、愛する息子、娘を探さざるを得ないのです。
私たち人間は、神様が造られた傑作であり、神様に似ています。神様が永遠であられるので、私たちも永遠の性禀をもたなければならないので、私たちの心は老いることがないのです。
ですから、人は永生してこそ、その傑作としての存在価値をもつことができます。人間は万物の霊長です。ここから霊という言葉が出てくるのです。人は永生しなければなりません。
創造主の永遠な真の愛の相対
永生の論理をどのように探しますか。神様は知恵深い方です。もし、神様が愛の理念を立てなければ、孤独単身で、喜怒哀楽を感じられない神様になるでしょう。愛は絶対的愛ですが、この愛を失われた神様は、歴史始まって以来、誰も体験できない、深刻で息の詰まる立場、絶対的に悲惨な立場に立ったのです。誰も慰められません。永遠に慰めることができないのです。
その本然の息子、娘を犠牲にして、それで満足するのではなく、御自身が夢見た願いである真の愛の理想的相対を再現させて、それを抱いて千里、万里移動しながら、もっと輝くように装い、もっと美しく表示できなければなりません。万宇宙を彼らのために、そのように和動するように造ったのです。
大気圏に絶対低気圧圏ができれば、高気圧圏が生じ、自動的に循環運動が起こります。神様は本当に知恵の王です。なぜ投入し、忘れてしまわなければならないのでしょうか。自動的循環原理を通じて永遠の回転が始まるので、永生論理が設定されるのです。投入して、また投入するところから、永生の論理が始まります。ために生きるところでは滅びません。小さなところから大きなものに成長し、大きなものがその次にはどこに行くかと言えば、中に入って核が生じるのです。
神様が絶対的な真の愛の相対を求めるとするなら、誰をもってきて立てるのかと言うとき、「それは間違いなく人間である」と結論づけることができます。ですから、「万物之衆(マンムルチチュン)唯人最貴(ユインチェキ)(万物の中で人間が最も貴い)」という言葉が出てきたのです。これが、創造主の永遠な真の愛の相対、創造主の真の愛の相対になるという結論を出すとき、その真の愛と一つになった真の愛の相対は、永生するという論理が生じるようになるのです。
永生というのは自動的な産物です。永生はここから始まるのです。真の愛の関係を中心として、永生論理をどのように立てるかという問題は、宗教では極めて大切な話です。男性だけで永生があり、女性だけで永生があるのではありません。神様の真の愛と一つになるところに永生があるという結論が出てくるのです。
真の愛によってのみ救いが可能
今日、キリスト教の人々は「イエス様を信じれば永生する」と言います。話としては良い話です。「それでは、永生はどのようにするのですか」と尋ねれば、「永生をどのようにするも何も、そのようにしてするんだ!」と言います。永生というのは、継続的な作用をつなげていかなければなりません。彼らは体をもったまま人生の道を永遠に行くことができるというのです。そのためには、心臓の動脈と静脈のような循環器官が正常に動かなければならず、神経系が正常に動かなければならず、大脳と小脳のあらゆる作用が正常に動き続けなければなりません。
では、どのように永生するのかと尋ねれば、皆様はどのように答えますか。イエス様を信じれば永生しますか。信じれば救われますか。とんでもないことです。真の愛によってのみ、救いを受けるのです。神様の創造原則から見るとき、真の人だけが神様の真の愛の同伴者なので、真の愛をもてば、永遠に生きられるのです。その真の愛の圏内に入っていれば、霊界や地上で暮らすとき、自分がどこに行って暮らすのか、すべて目にするようになるのです。
皆様。大洋を行き来する大きな船が破損する危険が生じるときは、その船の中で暮らしていたねずみが錨綱をつたって陸地に逃げるという話を聞いたことがありますか。微々たるものにすぎない動物も、未来の自分の生死の境を見極められるのに、万物の霊長である人間は、それができないのです。これは堕落したためです。この堕落の仮面をどのように脱ぐかという問題は、すなわち悪魔の愛と悪魔の生命と悪魔の血統からどのように抜け出すかという問題です。これを中心として、解脱という言葉を使うのです。完全に抜け出して、関係のない立場、自主的な立場に立つという意味です。
永生に必要な観念
私は永生する人です。その次に、真の愛を実践する人です。私は永生と真の愛を、ここで実践する人だというのです。自分がここで何をするにしても、その活動や、工場で働いたり何かをしたりすることが、永生を延長させる材料だというのです。
永生できるように訓練し、永生できるように育てる訓練材料を探し出すことが、私のすべきことだと考えなさいというのです。皆様にとって永生と真の愛は、いつも必要です。永遠に必要なのです。
「私たちは永遠に生きられる。永生を願う!」というように、永生を願うのですが、変わらないものは真の愛です。他のものはすべて変わります。環境的に変わるのです。それでは、なぜ真の愛は変わらないのでしょうか。真の愛はすべての生命力の中心なので、変わらないのです。真の愛はなぜ変わらないのでしょうか。真の愛は、理想的な要件の中心位置を占めるからです。中心は、その周囲がすべてなくなるまでは、なくなりません。真の愛は宇宙の中心であり、神様を中心とした真の愛と一致しているので、神様が残っている限り、残っているというのです。
真の愛とは何でしょうか。皆様が結婚するとき、結婚相手は優れている人を願うでしょう。また、自分の息子、娘が、自分より優れていることを願わない人がどこにいますか。それは誰に似たのでしょうか。神様に似たのです。それは何かと言えば、神様も、真の愛の相対は自分より優れていることを願うということです。それを否定できますか。
絶対的な神様が私たち人類の父であれば、その父は絶対的に行わないのに、その息子、娘の前で絶対的に行いなさいと命令できますか。命令できません。神様も、真の愛の相対は自分より優れていることを願われるという原則から見るとき、人間の価値は最大の価値をもつのです。真の愛を中心として、神様より高い価値があるというのです。
真の愛と直結した永生
そのため、皆様の心は最高のものを願っています。それは不可能なことではありません。万人が平等に可能なのです。堕落しなかったならば、可能なのです。天上の高く貴い立場からこの宇宙を眺めて管理し、主導するようになっているのであって、他の何かを眺めて、無理やり服従するようにはなっていないのです。
皆様の心がそうでしょう。解放された心です。誰の支配も受けたくないのです。これは万人共通です。真の愛の位置にいれば、神様の位置、天の国の玉座に思いどおりに行けるのです。神様の友達になれるのです。
真の愛ゆえに人間を造ったというとき、永遠であられる神様、絶対的な神様、永生する神様なので、その真の愛に一致した人間が永生するというのは、自然な論理です。ですから、永生しようとすれば、その真の愛の圏で暮らさなければなりません。真の愛によって永生が可能です。なぜでしょうか。創造の出発、動機、過程から、すべての目的が真の愛を中心として完成するのです。過程を通じて結果が出てきます。
自分の体と心の完成というのは、真の愛に属することによって根本的に可能になっています。無限の根本、原因から過程、それから理想の結実を結ぶのは、真の愛しかありません。真の愛によって、真の愛を中心として、神様も永存しているのです。
神様は何を中心として永存するのでしょうか。永生は、真の愛によって連結されるのです。ですから、永生の環境を形成するためには、真の愛の環境を中心として生活しなければなりません。真の愛の実体圏をもつには、真の愛を中心として、実体的な体恤をしなければならないのです。
皆様は、神様が霊界のどこにいらっしゃるか、はっきりとは分かりません。皆様は、神様のこのような絶対的な中心、愛の中心という観念をはっきりと知らなければなりません。その真の愛の力は、最も早い真の愛の力なのです。その真の愛は、直短距離を通ります。それで、このようなことを教えてあげるのです。なぜ文先生が、このようなことを強調するのでしょうか。それを知っているからです。神様を知り、永遠の世界を知っているからなのです。神様を知り、永遠の世界を知れば、いい加減に生きることはできません。
神様、永生、真の愛を知らなければならない
第一に神様を知らなければならず、第二に永生を知らなければならず、第三に真の愛を知らなければなりません。これは投入です。一〇〇パーセント以上、投入です。一〇〇パーセント以上、投入するところに永生があります。真の愛をもたなければ、永生がありません。永生しない人は神様に出会えないのです。
これから、世界をどのように収拾するのでしょうか。第一に利他主義、第二に真の愛、第三に永生です。これで世界が収拾されるのです。これの反対は利己主義です。これはサタン側と通じるのです。
その次に真の愛です。真の愛とは何であると言いましたか。自分の生命を投入し、それ以上に投入しなければなりません。生命を投入し、それ以上に投入しないところには、真の愛がないのです。レバレンド•ムーンはアメリカに来て、生命と財産と統一教会のすべての精誠を注ぎました。ここから真の愛が成立するのです。真の愛が成立しなければ、永生はありません。
なぜでしょうか。皆様の悪の生命の最高の起源は、サタンの血から受けたのです。サタンの血統です。サタンに属するのです。愛もサタンの愛です。これ以上にならなければいけないというのです。それで、聖書には「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである」(マタイ二二•三七—三八)とあるのです。この言葉はどういうことでしょうか。心を尽くして、思いを尽くしなさいと言ったのは、生命まで懸けなさいということです。これが第一の戒めです。
第二の戒めは、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」(マタイ二二•三九)ということです。「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」というのは、どういうことでしょうか。生命を懸けて、真の愛を実践しなさいということです。生命を投入しなければならないというのです。
なぜ生命を懸けなければならないのでしょうか。生命を懸けなければ、第一にサタンを屈服させられず、第二にサタンの環境から抜け出せず、第三にサタンの血統から抜け出せないのです。この三つです。しかし、サタンの環境は抜け出せたとしても、メシヤ抜きではサタンの血統をどうすることもできません。

Wednesday Mar 30, 2022
平和経 第160話
Wednesday Mar 30, 2022
Wednesday Mar 30, 2022
6.祝福と永生
日付:一九九八年一月二十三日
場所:韓国、ソウル、オリンピック公園重量挙げ競技場
行事:四千万双祝福勝利歓迎および文鮮明先生み言訓読大会
世界人類は、終末期に生きています。今、世の中の家庭が壊れつつあり、父親と母親、そして子女たちが怨讐の関係になっています。なぜそのようなことが起こるのでしょうか。真の愛がないからです。一番重要なことは、永生の問題が分からないからです。霊界があるか、ないかということを知らずにいるのです。
永生問題を知らなければならない理由
人間は間違いなく永生するということを知れば、他の人が「罪を犯せ」と言っても、犯さないでしょう。「自分のために生きよ」と言っても、そのようには生きないのです。これが分からなければ、キリスト教を信じても、何の宗教を信じても、絶対に天国に行けません。神様の理想世界に行けないのです。真の愛は、生命を投入しなければならないのです。
この永生問題と連結されなければ、社会の革命も不可能です。現在よりもっと疲弊して没落した環境に陥るとすれば、誰もが「その場には行かない」と言うでしょう。しかし、永生問題、永遠の生命の問題というときは、環境的条件をすべて克服できるのです。宗教はそれで偉大なのです。永生問題がかかっています。永生問題の概念さえ確立しておけば、そしてそれが事実であるという主観が立つようになれば、自分の息子、娘と家族を引っ張っていくのです。
今までの宗教は、そのような思想界を包括し、習慣性によって環境に編み込まれた現在の文化背景の根拠を、すべて消化させることができないのです。それはなぜでしょうか。永生という概念を確立できていないからです。キリスト教もそうです。
キリスト教も、今まで信仰してきたとしても、終わりの日になって環境が変われば変わるほど、すべてかき回されてしまうのです。なぜでしょうか。それは、永生という概念がないからです。
永生問題においては、自信がないというのです。神様がいるのかいないのか、分かりません。生命を懸けて、環境を越えていけるかという問題について見るとき、すべてそこに所属して四方を見回しながら、現在の生活の方便に従ってその道に陥りつつあるのです。
信仰の道というものが、今生きている人生、肉身生活の準備ではなく、永遠の世界の生活のための準備であるという信念さえもつようになれば、その人は放っておいてもいいのです。人は時間が立てば立つほど、四十歳を越えて五十歳を越えるほど、死ぬ日が近づいてくるために、永生の概念について深刻になります。
愛というものは、年を取るほど希薄になりますが、永生の概念さえ分からせれば、年を取るほど、だんだんと深刻になるのです。そのため、真の宗教理念だけが、今後、世界を料理できるのです。邪悪な環境、混乱した変化がどれほど頻繁に起こっているでしょうか。しかし、永生の概念さえ徹底すれば、頻繁に変わる環境を貫いて越えていくことができ、どのような所から悲喜劇が起こってこようとも、すべて問題にならないのです。
神様は、アダムとエバを真の愛の相対として造ったのではないでしょうか。それは間違いありません。そのように造ったのですから、真の愛の対象となって生きなければなりませんでした。それを言葉だけでなく、実感しなければなりません。また、体恤しなければなりません。真の愛の力がどれほど偉大かということさえ感じるようになれば、「この道を行ってはいけない」と言っても、行くようになっているのです。
そのため、生活するときにいつも力を注がなければならないことは、どのようにして永生の概念を確立するかということです。それさえ確立されれば、すべて終わるのです。これを確立するときにも、理論的にそれが的中し、ぴったりと当てはまるときに心に響きます。肉身と一番近い位置で一つになるのは青少年のときです。
十六歳以前は、堕落前の本性基準を一〇〇パーセント活用できるときです。十六歳以前はアダムとエバが堕落する前なので、本性基準が生きています。ですから、青少年時代に神様を知らなければなりません。神様を知ることによって、自分と神様との不可避的な関係が分かるのです。「その関係が、なぜ不可避なのだろうか」ということを分からせるために、永生概念を確立しなければならないのです。いつもこれを考えなければなりません。
一生と永生
皆様は、どれくらい生きると思いますか。「七、八十年は生きるだろう」と思うでしょう。その前には死ぬと思わないのです。皆様は欲張りです。自分は「八十歳で死ぬ」とか、「百歳になって死ぬだろう」と絶対に信じたとしても、あす死ぬか、きょう死ぬか、分からないのです。御飯を食べながら死ぬか、または今晩、靴を脱いで部屋に入り、寝ている途中で死ぬか、分かるでしょうか。皆様は、「ああ、私は若いので、これから少なくとも四十年、五十年は生きる」という欲心をもっているでしょう。神様に保障されていますか。皆様はできるだけ短く、一年以内に死ぬものと考えてください。この短い期間に準備をすべてしなければなりません。そのような観念をもって、できるだけ短く見積もるほど良いのです。短く見積もるほど、損をしないのです。短い期間に正しく準備すれば、その内容が自分の永遠の生命の家を建てるのです。
それでは、その短い期間に神様を愛してみたでしょうか。神様と一つになって、神様と愛し合いたいのに、愛することができないのです。神様は、「愛しなさい!」と言われます。人間の世界で暮らす間、すべての人の中で一人でも神様に紹介するために、二十四時間、精誠を尽くしてみなさいというのです。そのように生きて死ねば、永遠の生命の主体になるのです。
皆様は何歳まで生きてから逝きますか。神様の命令によって、すぐに死ぬ場に出ていくとすれば、どうしますか。だとすれば、何かを残さなければなりません。天が自分を褒めることのできる何かを残すべきなのですが、自信はありますか。寝る時間が惜しく、食べる時間が惜しいというのです。心配しようにも、心配する暇がありません。
一生と永遠の問題ですが、その一生を短く見積もるほど、価値があるのです。他の人をどれほど愛するのか、人をどれほど愛する人になるのか、その次に、家庭をどれほど愛したのか、氏族をどれほど愛したのか、このように個人を愛し、家庭を愛し、氏族を愛するのは、全人類を愛するための教材です。彼らを愛するのは、全体を愛するための教材を愛することです。これをすれば、私たちの一生において絶対に損をしないので、この上なく知恵深い考えなのです。
永遠の生命を追求する人間
永遠の生命の世界を追求するのが信仰生活です。永遠の神様の愛を追求するのが信仰です。永遠の生命とともに永遠の愛と一致するために、神様の喜びと私の喜びが出会い、二つの喜びではなく一つの喜びとして感じられる結着点を求めていくのが信仰の道です。
ですから、信仰生活をする私たちの個体が、どれほど主体的愛と生命力をもって生きるかということが、何よりも重要な問題にならざるを得ません。私たちが五官を通して感じる感覚の一切を統合して、この生命、または真の愛とどれくらい関係を結んで生きるかによって、人間としてどれほどの価値をもっているかという問題が左右されるのです。そのため、私たち自身が、生命力と湧き出る真の愛の心をもって対人関係を結び、社会生活をしてきたかという問題を、再び考えざるを得ないのです。もしそのような立場に立っていることができなければ、それは停止、もしくは後退することなのです。
人は一生だけでなく、永生します。宗教は今まで、地球星からなくなることなく、文化背景と風習が異なるすべての環境を経てきながら、世界的な版図を拡大させてきました。人は一生が問題ではなく、永生しなければならないからです。
人は、この時代においてのみ生きるのではなく、宇宙と共に生活しなければなりません。一生は百年以内の短い生涯ですが、生涯を限界として、そのままなくなるのではありません。その限界線を克服すれば、限界としていたこのすべての地球村の生活を越え、超然とした立場で生存し続けられるのです。そのような世界は厳然と実在しますが、ないとしても、今に至るまで苦痛の中で呻吟しながら生きる人類を同情して助けるためには、理論的にでも永生論を主張しなければならず、理論的にでも神様を中心とした理想国家の形態を推理しなければならないのです。そのような面からも宗教が必要です。
しかし、理論的に考えられた宗教理想という事実を知れば、誰が満足を感じるでしょうか。「ある!」と断定できなければなりません。「ある!」というのは、自分が定めるのではありません。「ある!」というのは、創造の初めから定められているのです。根本から「そうだ!」と言えるところまで明らかにしなければならないのです。ですから、皆様の永生問題とともに、宗教問題を中心として、神様の問題まで解決しなければなりません。このような諸般の問題が連結されているのです。