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Thursday Mar 17, 2022
平和経 第151話
Thursday Mar 17, 2022
Thursday Mar 17, 2022
3.真の愛を中心とした真の家庭と真の宇宙
日付:一九九七年五月十九日
場所:ウルグアイ、モンテビデオ、ビクトリアプラザ•ホテル
行事:「新救国連合」国家指導者晩餐会
尊敬する内外の貴賓の皆様、特にこの場に参席してくださった著名な紳士淑女の皆様。公私共に御多忙にもかかわらず、この場に御来席くださった皆様に深く感謝申し上げます。
このような貴い日に、私が心から皆様に差し上げたい最も貴い返礼の贈り物があるとすれば、それは私がこれまで世界を巡回しながら説いてきた、最も代表的な二つのみ言を御紹介することです。
それは、「救援摂理史の原理観」と「宇宙の根本を探して」というみ言です。現代においては男女問題と家庭問題、そして青少年問題が絶対的に解決されなければなりませんが、この二つのみ言は、その根本的な解決方案を提示しています。各自が帰って、自らを振り返り、家庭を愛したい思いが生じるたびに、このみ言を読んで深く考えれば、皆様が幸福で円満な家庭を築くのに大きな助けとなるでしょう。皆様はこの二つのみ言を、皆様の年の数ほど読んでくださるようにお願いします。年齢が八十歳を超えていれば、八十回以上読まなければなりません。皆様が読めば読むほど、天の祝福と天運が共にあるでしょう。読めば読むほど、その家庭に平和が自動的に臨むので、何度も読んでくださるようにお願いします。
最初のみ言の主題は、「救援摂理史の原理観」です。その内容を要約すれば、神様を中心として結婚し、真の父母になることです。第一次アダムの家庭でアダムが失敗して堕落したので、第二次アダムとしてイエス様が来られ、これを国家的な次元で復帰しなければなりません。ですから、第一次アダムは堕落したアダムであり、メシヤであるイエス様は第二次アダムとして来られたのですが、真の父母の家庭を築くことができずに約束だけして亡くなられることにより、第三次アダムが再び来られ、世界的基準で真の父母の使命を蕩減復帰しなければならないのです。これが、第三次アダムとして来られる再臨主の使命です。ですから、旧約時代、新約時代、成約時代を完成するのです。そして、人類救援の根本問題が、血統復帰であるという事実も明らかにしています。
二番目のみ言の主題は、「宇宙の根本を探して」です。人間の堕落の根本が愛によって成立したため、人類は真の愛を失ってしまいました。ですから、この真の愛をどのように取り戻すかという問題が提起されています。真の愛を失ってしまったというのは、淫乱によって堕落したという意味です。すなわち、生殖器を中心として誤ったので、これを取り戻そうとすれば、その反対に、正しく行かなければならないということです。
このように、誤った愛がエデンの園で植えられたので、終わりの日の刈り入れのときに、その結果として現れる現象が青少年問題です。それで、「性」の混乱時代が来るというのです。これを清算するのは、絶対「性」でなければなりません。この絶対「性」の概念によってのみ、家庭破壊を防止し、青少年の淪落を防ぐことができるのです。
三大主体思想とメシヤ思想
この時間は、「真の愛を中心とした真の家庭と真の宇宙」という新しい主題で、み言を分かち合おうと思います。ここに集った皆様には父母がいます。そして、師がいて、その次に国の主人がいます。彼らは、誰にとっても絶対的に必要です。しかし、いくら父母だとしても、真という基準を中心として見るときには、様々な基準があるものです。
皆様自身は、果たしてどれほど真の父母になったと思いますか。また師といっても、アメリカにあるハーバード、エール、そしてコロンビアのようなアイビー•リーグ(アメリカ東部の名門私立大学八校で結成しているリーグ)に属した大学であるとか、イギリスのオックスフォードやケンブリッジ大学の教授であれば真の師でしょうか。国の主人も、真という基準から見るとき、同じにはなり得ないのです。皆様は、アメリカのような強大国の大統領であれば、真の大統領だと思いますか。
事実、今日の家庭では、子女が父母を信じられず、夫婦同士も互いに信じられず、兄弟同士でも不信する関係になっています。学校では師を信じられず、国では国の責任者を信じられないというのが今日の実情です。このように、皆様が願うこの三つの重要な立場、すなわち父母と師、そして国の主人の中で、真という基準を中心として、どれか一つでも合格できるのか、ということが問題なのです。
皆様が真の父母になり、真の師になり、真の主人にならなければならないとすれば、そのような世界最高の基準、そのすべてのモデルの中心とは誰でしょうか。その方が正に神様です。神様は父母の中の真の父母であり、師の中の真の師であり、王の中の真の王であられます。
神様は永遠の真の父母であり、永遠の真の師であり、永遠の真の主人であられます。私たちが神様の息子、娘になるとすれば、まず神様のような真の父母にならなければなりません。神様のような真の師の道を行かなければなりません。そして、神様のような真の主人となる道を行かなければならないのです。これが三大主体思想です。その究極的なモデルは神様です。
旧約聖書に記録されている、イスラエル民族に送られるメシヤとは誰のことでしょうか。メシヤは、正に真の父母として来られる方であり、真の師として来られる方であり、真の王として来られる方です。しかし、イエス様はこの地上で家庭をもち、民族を一つにできなかったので、再び来なければなりません。再び来られるメシヤは第三次アダムとして来られて、世界的基準で真の父母権と真の師権と真の王権を教えてくださろうとするのです。これが正にメシヤ思想です。ですから、家庭があり、国家があり、世界があり、天がある所であれば、いつでもどこでも、三大主体思想が正しく確立されなければなりません。
人は空間の世界に立てば、必ず上下が必要であり、左右が必要であり、前後が必要です。それでこそ、自分の存在位置が確定するのです。皆様が上下を正しく備えているか、左右、前後を正しく備えているかによって、様々な形になるのです。
皆様の上下、左右、前後関係、そして家庭の問題、国の問題、もしくは世界の問題を扱うときに、公式は一つです。個人を中心として、上下、左右、前後があるように、家庭においても父母と子女がいなければならず、夫と妻がいなければならず、兄弟姉妹がいなければなりません。
これと同じように、国においても国の主人を中心として、すべての家庭が東西の文明、南北の文明をすべてかき抱き、その次に、世界の万民を兄弟姉妹のようにかき抱いて、結局一つの家庭のモデルを築くのです。モデルは全く同じです。そして、自分自身がそのモデルの中心になるのです。自分がいて、その次には自分の家庭がなければならず、国と世界と天地、そして神様にまで行かなければならないのと同じ道理です。皆様には宇宙の中心になりたいという気持ちがあるだけではなく、そのようにもなれるのです。

Thursday Mar 17, 2022
平和経 第149話
Thursday Mar 17, 2022
Thursday Mar 17, 2022
2.理想家庭と平和世界
日付:一九九五年八月二十三日
場所:韓国、ソウル、ロッテワールド•ホテル
行事:「世界平和女性連合」第二回世界大会(真のお母様)
内外の貴賓の皆様。「世界平和女性連合」会長団、各界の女性指導者、そして会員の皆様。私はきょう、この集まりが平和世界を実現しようとする私たち全員の念願を早める重要な契機になることを信じながら、この壇に立ちました。世界各地で献身的に奉仕しながら、より平和な社会と世界を建設するために歩む皆様の労苦に感謝いたします。
地上に平和世界を成し遂げることが、簡単でしょうか。それは歴史を通しての人類の夢でした。この夢が達成されるためには、まず平和な国と世界が先に形成されなければなりません。平和な国と社会は、睦まじく楽しい家庭が前提とならなければなりません。このように見るとき、和やかで楽しい理想的な家庭は、すなわち平和世界を築く出発であり、基本単位になるのです。
真の愛を基盤とした理想家庭
理想的な家庭は、どのようなものでなければなりませんか。神様の理想世界に対する計画は、創世記に記録された祝福のとおり、アダムとエバが善の夫婦、善の父母となり、理想的な家庭を築くことでした。その家庭を根源とし、子孫が父母に似て、理想的な家庭を永続的に築いていくことを願われたのです。
私の夫である文鮮明総裁の教えによれば、神様は真の愛の本体であられます。神様の根本属性である真の愛を動機として、創造が始まったのです。神様の真の愛は、愛してために生きる対象を必ず求めるからです。神様の創造の動機は真の愛です。被造万物は、神様が愛するために造った実体対象です。その中で人間は、神様と最も近い関係にある愛の対象です。神様は人間の真の父母であり、人間は神様の真の息子と娘です。神様と人間は、真の父母と子女の関係です。
本来、人間は父母の愛を受けて子女の心情を体恤しながら育ち、その次に兄弟同士で愛し合いながら、兄弟の心情を体恤して育ちます。成長して真の人格を備え、完成した真の人になれば、夫婦生活を通して互いに愛し合うことにより、夫婦の心情を体恤するようになります。被造物はすべてそうですが、特に人間は、真の愛を感じ、真の愛の生活をするようになるとき、幸福になるのです。
愛を受けるとき、生命力が躍動します。生命の香りも愛の中で漂います。愛は人間の幸福と生命と喜びの源泉になります。このように貴い真の愛は、知識や外的な要因によって得るものではありません。経験を通して感じ、生活を通して体恤するようになっているのです。
このように人間は、成長期間に生活と経験を通して、神様の真の愛を段階的に体恤するようになっていました。すなわち、人間は子女の心情、兄弟の心情、夫婦の心情、父母の心情など、四大心情を段階的に体恤しながら完成するのです。人間の人格と幸福の尺度は、愛をどのように、またどれほど感じ、与え合うかによって区分されるのです。
夫婦愛における自律と責任性
四大心情の関係において、縦的な愛、すなわち父母の子女に対する愛は、第一子、第二子と続きながら分けて与えられても、その完全性は減少したり、変わったりはしません。そのため、一組の夫婦が何人もの子女を生んで愛することができるのです。
お一人の神様が、全人類を子女として対し、愛されるのも、この原則があるからです。しかし、代表的な横的愛である夫婦間の愛は、他の相手に向けると完全な愛になれません。夫婦間の愛は、分けるとすぐにその完全性が破壊されてしまうのです。万人の本性は、夫婦間の愛の中に第三者が介入することを許しません。神様の創造の原則は、夫婦間の愛が他の相手に向かって裂かれることを許さなかったからです。
神様は人間に、他の動物とは違って、夫婦間の愛の自由を下さいました。子を産むときにだけ関係をもつ動物の愛とは、根本が違うのです。
責任のない自由は、本当の自由ではありません。夫婦間の愛にも責任性が求められるのです。夫婦が愛の神聖性と永遠性を信じる基盤の上で、互いの責任性を守るとき、初めて家庭が安定するだけでなく、幸福の住み家となるのです。人間はこのような、分けることもできず、否定することもできない夫婦の愛を通して、息子、娘をもつようになっていました。本然の人は、真の人として育ち、その次に、分けることのできない愛によって真の夫婦となり、子女をもって真の父母になるようになっていたのです。
堕落と愛の秩序
聖書を読まれた方は御存じかもしれませんが、人間の先祖は、神様が喜ばれ、祝福してくださる結婚をし、そこから神様の愛を受ける息子、娘である子孫を繁殖したのではありません。アダムとエバは、既に神様に対して罪を犯し、楽園から追い出されたのちに子女を生んで、後代へと繁殖してきたのです。アダムとエバは神様が願われる真の夫婦にも、真の父母にもなれませんでした。私たち人類は、真の父母と真の家庭を根源として生まれた子孫になれなかったのです。本性としては夫婦の愛が永遠不変であることを願うにもかかわらず、そのようになれないのは、人類の先祖の堕落の根源が偽りの愛の因縁、不倫によってつくられたからです。原罪が子々孫々に遺伝し、終わりの日に近づくほど性道徳が乱れ、家庭が破壊されるのも、すべてそのためです。
神様が最も嫌われるのが、愛の法度に背き、倫理的に誤ることです。洋の東西を問わず、次第にひどくなっていく青少年の脱線、家庭破綻、十代の未婚の母の問題などの現象を、誰が解決するのでしょうか。このような現象は、飢餓や戦争、どのような疾病よりも、さらに恐ろしいものです。なぜならこの問題は、今日の私たちの問題だけでなく、子孫の問題として、人類が未来に対する希望を失うものだからです。今日の絡み合った愛の秩序は、子孫に直接的に影響を与えるのです。

Thursday Mar 17, 2022
平和経 第148話
Thursday Mar 17, 2022
Thursday Mar 17, 2022
神様の真の愛によって夫婦が一つにならなければならない
そうして、真の父母となり、失われた真の愛を中心として、真の生命と真の血統を理想家庭として地上に探し立てようというのが、救援摂理の目的でした。堕落によって神様は、アダム家庭の真の母と息子、娘をすべて失ってしまいました。神様が触れられる真の息子、娘がいなかったというのです。神様の真の愛を中心として、血統的な関係をもてる神様の家庭がなかったのです。
堕落した父母によって偽りの愛と偽りの生命と偽りの血統の因縁を結ぶことにより、私たちの体と心の闘いが起こりました。アダムとエバが怨讐になりました。アダムの二人の息子の間で殺戮戦が起こったのです。
ですから、神様がこれを復帰するための救援摂理は復帰摂理なので、失われた真の体と心が一つになった息子、娘として、絶対的に一つになった夫婦と息子、娘が、神様の真の愛を中心として完全に一つとなり、神様と永遠に一緒に暮らせる真の家庭を築くのです。そして、新婦格であるキリスト教と連結させて、神様と血縁関係を結ぶことにより、神様の真の愛で統一された家庭、氏族、民族、国家、世界を再び編成しなければならないというのです。これが神様の救援摂理の完成です。
ブラジルの指港者の皆様。ブラジルが神様の祝福を受けることを願うでしょう。そのためには、神様の真の愛を中心として、体と心が一つとなった民にならなければなりません。神様の真の愛を中心として、夫婦が絶対的に一つになれなければならないというのです。神様の真の愛を中心として、子女が絶対的に一つになれる家庭の数がブラジルに多くなるとき、神様がこの国に来て暮らすようになるというのです。そのようになれば、自然にこの国も世界の中心国家にならざるを得ないのです。
人間も、自分の一番愛する人が農村や貧民窟にいるとすれば、その愛する主体は対象が暮らす所に行って、共に暮らしたいと思うのです。どのような所でも、愛する人がいる所に行って暮らしたいというのです。それと同じように、神様も一番愛する息子、娘がいる所であれば、農村や貧民窟も天国になるのであり、上流層が住む所、中流層が住む所、どのような環境でも天国になるのです。
きょう、統一教会の教主という人がここに現れて話をしていますが、統一教会とはいったい何をする所なのでしょうか。神様の真の愛を紹介する所であり、真の愛を中心として体と心を一つにしようとする所であり、体と心が一つとなったその夫婦を、絶対的に一つになるべき理想的夫婦にしようとする所です。その息子、娘は絶対的に別れることのない、統一された兄弟にしようという、そのような主義をもち、神様の命令によってその使命を遂行するのが、統一教会であることをお伝えします。
国際合同祝福結婚の意義
偽りの愛による偽りの父母から、偽りの愛と偽りの生命とそして、偽りの血統によって始まったすべての汚されたものを完全に清算し、真の神様と真の父母の愛を中心として私たち夫婦が真の父母となり、神人愛が一体となった真の愛の種、真の生命の種、真の血統の種を接ぎ木してあげるための礼式が、国際合同祝福結婚式になるのです。
堕落によって、偽りの愛、偽りの生命、偽りの血統の種を受け、偽りの結婚式をした家庭を反対に復帰するため、新しい結婚式に国際的に多くの家庭を参加させ、天の大きな祝福を伝授してあげようという礼式が祝福結婚です。ブラジルの全国民が大きな祝福を受け、天国家庭に転換されて、地上天国に入籍する国民になることを願ってやみません。こうして、超国家的な血縁関係を結成し、神様を中心とした天宙的大家庭主義を形成することにより、真の父母主義、夫婦主義、兄弟主義を宣布して心情文化世界を成し遂げ、地上から天上世界まで、天国に入っていける解放された地上天国の世界を完成しようというのが、統一教会の目的です。
第二次世界大戦以降、レバレンド•ムーンは全世界的に五十年間、迫害を受けてきました。罪があったからではなく、自分たちを救うために多くの迫害を受けたことが分かる時代になったので、今や反対に、一番立派であると考えるようになりました。レバレンド•ムーンの手によって共産主義が滅びました。ゴルバチョフ大統領と金日成首席を教化させた人がレバレンド•ムーンです。滅びゆくアメリカを救おうと「レバレンド•ムーンでなければならない」と言う、希望的な体制をつくっておきました。
韓半島の困難な政治的背景にも、レバレンド•ムーンが関係しているのです。中東もそうです。アメリカの共和党が四十年ぶりに勝利したのも、レバレンド•ムーンが背後から影響を及ぼしたためであるという事実を知らなければなりません。アメリカの共和党が民主党に勝つたということに関して、背後でレバレンド•ムーンが関与していたという事実を皆様は知らなかったかもしれませんが、このような事実を見るとき、ブラジルがレバレンド•ムーンをアメリカよりも先駆けて絶対的に占領するようになれば、世界の一等国家になるでしょう。
レバレンド•ムーンは今まで、語ったことはすべて成し遂げてきました。全世界がレバレンド・ムーンをたたき潰し、葬り去ろうとありとあらゆることをしましたが、死なずに堂々と世界の頂上に立ち、きょうもこうして叫ぶことのできる立場に立ちました。それは天が愛するからであり、神様が絶対的に保護するからであることを知って、統一教会について生命を懸けて学んでみなければならないと思うのです。
解放と自由と統一と幸福の天国
きょう、このような意義深い日に出会い、信じるに値する立場で一番重要な事実について紹介したことを理解してくださり、どうか忘れずにこの道に従って、皆様が新しい覚醒のもとに決意し、皆様の家庭と皆様の国に祝福を誘導する指導者となるようにお願いします。これにより、理想的家庭が皆様の国に出発し始めるのです。
皆様も御存じのとおり、レバレンド・ムーンと妻は真の父母として全世界に知られています。今日、私たち夫婦が本当に真の父母として、真の愛、真の生命、真の血統によって天と連結されたことが事実であれば、この地上には平和を成し遂げた「真の家庭と私」から、解放と自由と統一と幸福の天国が芽生えてくることを心に留めてくださるようにお願いします。皆様の家庭と国に神様の祝福があることをお祈りいたします。ありがとうございました。

Thursday Mar 17, 2022
平和経 第147話
Thursday Mar 17, 2022
Thursday Mar 17, 2022
神様が一番占領したいものは人間の真の愛
それでは、神様の心はどれほど大きいでしょうか。人間の良心のふろしきと神様の心を比較すれば、どちらがより大きいでしょうか。神様の心が人間の良心より大きいとすれば、神様が一番占領したいと思うものは、この上なく大きな人間の真の愛だという結論が出てくるのです。
神様が絶対的な方であるなら、一人でいて寂しいでしょうか、幸福でしょうか。皆様がいくら大統領でも、妻がいなくて一人で暮らすようになれば、かわいそうなのです。愛の対象がいなければかわいそうになるのです。神様も相対が必要でしょうか、必要ではないでしょうか。
いくら神様でも、一人では寂しいのです。人間はお金がなければ寂しく、知識がなければ寂しく、権力がなければ寂しく思うのですが、神様はお金を必要とせず、知識も必要とせず、権力も必要としません。創造主だからです。神様に一番必要なものとは何かが問題です。神様のことを何と言いますか。神様は愛の王であられ、愛の主人であられます。もし愛の王であられ、新郎であられる方が神様であれば、相対者である王妃が必要だというのは絶対的原理です。それでは、「絶対的な神様の愛の相対になる方とはどなたでしょうか」と尋ねれば、どのように答えますか。それは、真の人間であるというのです。
皆様はお金を必要とし、知識を必要とし、権力を必要としますが、妻がいなければ、すべて意味がありません。夫には妻が必要であり、子女が必要であり、妻は夫が必要であり、子女が必要です。そのような愛の対象が暮らす所が家庭です。
私はここで、良心の願いをいっぱいに満たせる愛の主体であられる神様に侍り、その神様の愛の対象である男性と女性が一つになって、その愛の中で息子、娘を生み、幸福で豊かに暮らせる家庭こそ、神様の真の愛を中心とした地上天国の最初の出発基地になるということを主張します。
私たち人間が、愛する相対が自分より何千万倍、無限大の価値ある存在として現れることを願うのと同じように、神様も、御自身の愛する相対が無限の価値のある存在になることを願うのです。そのような人が、真の人間です。皆様、そのような男性と女性が、正にアダムとエバだったという事実を知りませんでした。私たちに高い良心の願いが与えられたのは、神様が主体であれば、人間は対象の立場にある存在だからです。ですから、神様の分身ではなく、神様とはまた違う別個の人格者だというのです。そのような対象に、神様より数千万倍価値のある存在になることを願う良心に基づく欲望を許してくださったのです。それが良心の作用だということを、私たちは知らなければなりません。
神様が創造当時、理想として願った真の愛、偉大な愛を中心として、人間と愛の関係を結び、一つになれる神人愛一体の家庭を築いたならば、今日、私たちは天国や地獄を語ることもなく、ただそのまま天国に入るようになるのです。ここで問題になるのは、神様の真の愛と人間の真の愛が、一つの主体的愛と相対的愛として一つになって一点から出発しなければ、神様の愛と人間の愛が異なる二つの愛として出発するようになり、二つの愛の方向と目的地になるということです。このようになるとき、神様と人間が願う絶対的理想世界を見いだすことはできません。この二つの愛が一点から出発できることを願った神様のみ旨は、堕落によって完全に停止してしまったというのです。
真の愛と真の生命と真の血統を受け継ぐことによって救いが成就する
サタンの愛を中心に偽りの父母が生まれ、偽りの愛、偽りの生命、偽りの血統を受け継いだ子孫なので、すべて地獄に行くのです。天国とは関係がありません。ですから、体の強い力を制御して、心が思いどおりにできる人を中心として、良心を通して神様の愛を占領しなければなりません。ところが、私たち人間はその事実を知らなかったのです。
皆様。恋煩いというものを知っていますか。恋煩いにかかった人は、恋煩いにかかった動機を解決してあげれば、万事が解決します。堕落した人間ですが、堕落していないアダムの本性が残っているので、それが恋煩いにかかったように神様の愛を慕い、また慕うというのです。良心は、「神様の真の愛を、どのようにして占領するか」と言います。お金があり、知識があり、権力があっても、自分の生命を懸けても、愛する人を失ってしまえば、何の役にも立たないのです。
皆様が心を解放して解怨成就させ、良心世界において三六〇度に解放圏を形成すれば、その良心は自然に神様の真の愛と連結されるようになっています。愛のふろしきと良心のふろしきのうち、どちらが大きいかと言えば、愛のふろしきが大きいのです。なぜなら、良心は愛から始まったからです。良心を解放し、神様の真の愛と一つになって暮らしてから入る所、神様を中心とした愛の血族を準備して、彼らを中心に暮らしてから入る所が天国です。その愛を占領できなければ、永遠に天国に入れず、その日のために数千万年、待たなければなりません。
堕落した人間は、神様の真の思想と経綸の明かりが神様の真の愛とともにともされて一体にならない限り、天国とは関係がありません。真の良心と真の愛が一つになって暮らす人は、自動的に天国に入ります。イエス様を信じても、神様の愛と結合できなかった人は、天国に入れないのです。
体と心が闘う人は天国に入れません。サタンの血統を受けて紛争が起きている人は、天国に入れないというのでこのようなことを開拓すべきすべての宗教が自ら争うときには、終わりの日に、すべて滅びるのです。争う所には神様がいらっしゃいません。ですから、宗教を信じるというのは、体を打って良心を解放する断片的なものであって、これが救いの門を開く鍵ではないのです。神様の真の愛を中心として、真の愛と真の生命と真の血統を受け継がなければ、救いはあり得ないという事実を知らなければなりません。宗教を信じることによって救われるのではありません。宗教を信じるのは、体を追い込むためです。良心の解放圏を備えるようになれば、良心の願いは神様よりも高まるというのです。
人間は神様に帰らなければならない
皆様。自分がすることを良心が先に知るでしょうか、神様が先に知るでしょうか。良心が先に知るというのです。私たち人間は相対的な存在なので、夫と向き合う妻のように、個性も人格も異なっているのです。
もし神様が先に知るとすれば、人間は神様の分身であり、一つの体なのです。一人では、相対的な理想を完成できないというのです。それで、アダムとエバが堕落したあと神様は、「アダムよ!お前はどこにいるのか」とまず尋ねたのです。人間は神様の真の愛から出発したので、対象的な人格者として神様に帰るのです。神様に帰らなければなりません。父母が百歳になり、息子も年を取って八十歳になれば、父と息子は父子の関係はもちろん、友達にもなるのです。
女性と男性は、力で比較すれば相手にもなりませんが、愛というものが介在すれば、妻と夫が互いに押したり引き寄せたりしながら、一つになるというのです。人間が神様のみ前に対象的な愛の存在になったとすれば、神様が喜ばれるでしょうか、喜ばれないでしょうか。
神様は、神様の理想的な対象を未来の希望として願いながら、愛の対象が完成する前にこの宇宙をお造りになったのですが、愛の対象として完成したのちに、アダムとエバがそれ以上に大きいものを再び創造してほしいと言えば、神様にそれを創造できる能力があるでしょうか、ないでしょうか。私たちの良心の願いが無限であっても、それを創造してくれる神様であるということを知らなければなりません。
このように無限な神様の真の愛を中心として、対象の価値をもつ存在として人間を造ったのですが、これを完全に失った人間になったので、再びこれを回復しなければならないのが人間の生涯であり、人類歴史の目的であるという事実を知らなければなりません。各宗教では、宗教の主人たちが再び来ると言いました。イエス様が再臨すると言い、仏教では弥勒仏が来ると言い、儒教は新しい孔子が来ると言い、イスラームのシーア派ではマフディーが来ると言ったのです。
神様が宗教を立てた目的は何でしょうか。神様が一番愛する息子、娘、神様の骨と肉が一つになる、そのような愛する息子、娘を中心とした愛する家庭、愛する氏族、民族、国家を形成することが神様のみ旨に違いないということを、はっきりと知らなければなりません。そうだとすれば、メシヤはどのような方かということを知らなければならないのです。永遠な神様の真の愛を根として初めて地上に訪ねてこられ、すべての宗教が願う理想を完成する方が、再臨のメシヤであることを知らなければなりません。

Wednesday Mar 16, 2022
平和経 第146話
Wednesday Mar 16, 2022
Wednesday Mar 16, 2022
神様が願う家庭と私と世界を知らなければならない
全世界的に今、問題は、私的にも公的にも、物質が先か精神が先か、無神論か有神論か、観念か実在か、進化論か創造論かということです。これをはっきりさせなければなりません。
例を挙げてみましょう。動物世界を見れば、生まれるとき、目が先に生じます。その目は、物質それ自体です。その目が生まれる前に、太陽があることを知っていたでしょうか、知らなかったでしょうか。その目という物質肉体は知りませんでしたが、生まれるときは、先に知った立場で、太陽を見ることができるように生まれたのです。知った上で生まれたというのです。
空気があることを、その目自体は知りませんが、既に空気の中にはほこりが飛ぶことを知っていて、目をカバーするまつ毛が準備されていることが分かります。そして、目自体は知りませんが、あらかじめ涙を蒸発させる輻射熱があることを知り、目に涙腺を置いて防備するようにしたのです。本来の物質自体は知りませんでしたが、生じる前にそのような事実を知った上で生まれたというのです。結論として、私たちはこのことから、思惟と存在、精神と物体、観念と実在、有神論と無神論、創造論と進化論について論争する問題を解決できるというのです。ですから、確かに神様によって創造されたということを否定できません。そのため、本然の神様の創造理想世界に帰り、神様が願う家庭と私と世界をはっきりと知らなければならないのです。
私たちの体と心を見れば、体は地獄の基地になっており、良心は天の国の基地になっているという、この二つの世界の分岐点をもっている人間であることが分かりませんでした。このような立場に立っている私たち自身を見ると、体が心を引っ張り回しているというのです。歴史を通じて、体が心を自由自在に引っ張ってきたというのです。もし良心が強くなれば、自然と天に帰っていくので、世界は既に天のみ前に立つことができたはずだというのです。
またこの良心よりも、肉身が良心を引っ張り回すというのは、堕落するときにサタンと関係を結んだ偽りの愛の力が、堕落するときの良心の力よりも強かったということです。神様はこのようなことをよく知っているために、堕落した人類を放っておくことができず、この体が良心を引っ張り回す力を弱める作戦を行わざるを得ないのです。このように、歴史的に天が働くその救援的な役割をもたせて立てたのが、宗教だというのです。
宗教の目的
神様は、異なる文化的背景に従って多くの宗教を全世界に立てたのですが、心を引っ張り回す体を弱め、その力を取り除くことが宗教の目的であることを、今まで宗教を信じる信仰者は知らずにいたのです。堕落がなかったならば、宗教は必要ありません。誤ったので、これを修正するために宗教が必要だったというのです。ですから、神様は宗教を通して何をしようというのでしょうか。心を引っ張り回すこの体を追い詰めようというのです。
皆様は、宗教を信じることによって救われ、キリスト教を信じることによって天国に行き、仏教を信じることによって極楽に行くと思っています。しかし、天国は神様の真の愛を中心として一つになった子女が入るようになっています。天国に入れるアダムとエバの家庭は、神様の子女として、血族であり、神様の愛を中心とした家庭とならざるを得ないのです。そのような家庭が人る所が天国であることを、今まで誰も知りませんでした。ですから、良心の力を強化するために、この体を打たなければならないのです。良心を解放させ、良心が体を自由自在に引っ張り、堕落していない本然の神様の愛の懐に帰らなければならないというのです。
それでは、宗教がしなければならないこととは何でしょうか。体が最も嫌がることを提示することです。体が嫌がる「断食をしなさい」、「奉仕をしなさい」、「犠牲になりなさい」ということを言うのです。それだけではなく、最後には「祭物になりなさい!」と言います。祭物は血を流すようになっています。生命を懸けることができなければならないというのです。ですから、聖書で「自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである」(ルカ一七.三三)という逆説的な論理を教えてくれたのも、肉身が生きるままに行けば地獄に行くのであり、肉身を抑制して良心の解放圏を形成すれば天国に行くという意味です。私たちの体を完全に屈服させ、良心が絶対的な主体の立場に立つようになれば、私たちの良心は無限の欲望と無限の希望をもつようになっているのです。
今日、歴史時代において数多くの宗教があり、数多くの宗教指導者がいましたが、その宗教指導者と宗教を信じる人々は、体を完全に占領して無の状態に立ち、良心を中心として本然的基準で天と相対できる立場に立った、解放された人間になれませんでした。
私たち人間は、堕落することによって偽りの愛の根を中心として野生のオリーブの木になってしまいました。神様の真の愛を中心として根を打ち込むべき人間が、悪魔の愛を中心として根を打ち込んだために、野生のオリーブの木になったという事実を、どのように清算すべきでしょうか。これは現在、生きている私たち人類が解決すべき、重大な宿命的課題として残っているのです。
皆様自身を中心として見るとき、皆様の良心は、皆様のあらゆることについて、知らないことがありません。良心は私にとって、父母よりもさらに近い位置に存在することにより、永遠の愛をもって、永遠に神様の懐に抱かれることを願っているのです。世の中の父母とは、結婚すれば別れることがありますが、良心は私を中心として、私が生まれる前から私と共に存在し、私を愛しながら、永遠に神様の子女として解放しようとするのです。それが良心作用なのです。
良心の願いは絶対的中心者を占領すること
良心の世界には、師は必要ありません。ある国の教育を担当する大臣が、「良心を教育しよう」と宣布したという話を聞いたことがありますか。良心が本然の道を行くとすれば、私が一生の間、行くべき道をはっきりと知って、間違いなく神様の懐に帰っていけるようにすべて教えてくれ、導いてくれるということです。皆様が良心を中心として見るとき、良心が自分の一生のあらゆることを知っているのと同じように、霊界に行けば、地上で行ったすべての事実がはっきりと分かるようになっているのです。傷のない子女、すなわち永遠な神様の真の息子、娘になるように働き掛けるのが私の良心の作用であることを、今まで知らなかったのです。
霊界に行かない自信のある人はいますか。いずれにせよ、誰もが行くのです。皆様が霊界に入れば、すぐに名前が分かるようになっていて、皆様の一生だけでなく、数千代の先祖も一瞬にして分かるのです。そこは時空を超越した世界なので、良心に背く内容を残してはならないのです。そのため、良心は師よりも優っているという事実を知らなければなりません。
ここには著名な方々と教授が来ていると思いますが、皆様は良心以上に教えてあげられる内容をもっていません。皆様の良心は、航海する船におけるコンパスと同じ役割をしています。皆様の中には、年を取った方々と若い方々がいらっしゃいますが、結婚するとき、相手が自分よりも劣ることを願う人はいますか。いません。また、「愛する相手が自分より十倍優れていることを願うか、百倍優れていることを願うか」と尋ねるならば、ためらうことなく「百倍!」と答えるのです。可能であれば、千倍、万倍、億万倍、もっと優れていることを願うのです。
その時に、良心の願いは最高の愛であり、絶対的中心者を占領しようとするのです。私たちの先祖も、私たちの子孫も同じです。このような質問を神様にしてみても、同じ答えが返ってくるでしょう。
皆様。欲心と欲望をすべてかなえようとするとき、ブラジルの上院讓員は国家のために大統領になりたいと思い、南米全体、ひいては世界のために貢献する一番高い、立場に立ちたいと思うのが、良心に基づく欲望です。歴史始まって以来、今まですべての人々が、「良心の願いは達成できない、不可能である」という結論を下しています。しかし、ここに立っているレバレンド•ムーンは「可能である」という結論を下しているのです。
皆様の良心のふろしきはどれほど大きいでしょうか。良心の大きさはどれくらいでしょうか。良心が神様を占領したというとき、それで終わると思いますか。神様よりもっと大きいものがあれば、そのもっと大きいものを占領したいと思うのが良心の願いでしょうか。それとも、そこまでは願わないでしょうか。神様よりもっと大きいものがあれば、そのもっと大きいものを占領したいと思うのが良心の願いなのです。それでは、良心の願いはいったい何をしようというのでしょうか。宇宙で最高のものがあるなら、その最高のものも占領し、それ以上に大きなものかあってもまた占領しようとするのです。良心はそれほど大きなふろしきだというのです。

Wednesday Mar 16, 2022
平和経 第145話
Wednesday Mar 16, 2022
Wednesday Mar 16, 2022
第四篇 人類を救う真の家庭運動
1. 1.真の家庭と私
日付:一九九五年六月七日
場所:ブラジル、ブラジリア
行事:中南米十七ヵ国巡回講演
今晩、ブラジルに来て貴賓の皆様にお会いし、このような歓迎パーティーの場をもてたことを、心から感謝申し上げます。
皆様はたくさんのうわさを聞いて御存じかと思いますが、ここに立っているのが、正にレバレンド•ムーンという者です。世界に多くの問題を起こし、多くの話題を提示しながら今日まで歩んできたのは、天に侍ってきた歴史的事実ゆえであると言わざるを得ません。きょう、ひと時の間お会いし、喜びの環境の中でお話ししようと思うのは、「真の家庭と私」という内容です。世界で問題となっているのは家庭ですが、真の家庭とはどのような家庭かということを中心として、お話ししたいと思います。
真の家庭とはどのような家庭か
「今、私たちが生きている世界は、善の世界か、悪の世界か」と尋ねてみれば、誰もが「悪の世界である」と答えるでしょう。なぜ、悪の世界なのでしょうか。全世界の歴史を見ても、ブラジルの歴史を見ても、どの国の歴史を見ても、戦争の歴史が続いてきたという事実を、私たちは知っています。戦争を通して争うという事実は、一つの平面的な基準から落ちていくということです。そして、世界が悪であるとすれば、ブラジルという国も悪であるという話であり、ブラジル人も、私たち自身も悪であると言わざるを得ないのです。
私たち自身をよく見れば、私たちの体と心も闘っているという事実を否定できません。そうだとすれば、この闘いの起源はいったいどこにあるのかということが問題にならざるを得ないのです。私自体内に紛争があって平和の基地をもてないときは、いくら家庭が平和で、国と世界が平和だとしても、幸福になり得ないというのです。
皆様が御存じのように、第一次、第二次、第三次世界大戦も終結しました。また、戦争中でも、いくらでも休戦はできますが、私たちの体と心を中心としたこの闘いは、昔から歴史を経て、現世はもちろん、未来まで続く闘いであることを、私たちはまるで知らずにいたのです。このような問題を中心として考えるとき、神様がいらっしゃるのであれば、私たちの体と心の闘いが、なぜこのように歴史性を帯びて続くようになったのかということが大きな問題になります。人間が罪を犯したというとき、罪を犯した人がそれを蕩減しなければなりません。罪を犯したこと自体に神様が責任を負い、干渉することはできないのです。
それでは、体と心が闘う起源地はどこでしょうか。私たちの生命は父母から受け継ぎましたが、また父母をさかのぼっていけば、第一代の私たち人類の先祖の位置までさかのぼるようになります。すなわち、第一代の先祖であるアダムとエバの夫婦の愛に問題があったために、このようになったと見るのです。生命の起源は父母の愛によって始まります。ですから、私たちの生命が出発する前からこのような闘いが始まったと見るならば、父母が愛し合うその場が問題になったという事実を、私たちは考えざるを得ません。アダムとエバの愛が喜びの愛になれずに、相反する愛の起源となって生命の根が打ち込まれたことによって、私たち人間自体の紛争が始まったと言わざるを得ないのです。
聖書は、アダムとエバが堕落することにより、エデンの園から追い出されたと記しています。追い出された人類の先祖が、子女を繁殖したのは事実です。追い出したアダムとエバについていって、神様が結婚式をしてあげたはずは絶対にありません。誰のもとで結婚式をしたのだろうかと考えるとき、堕落することによってサタンのもとで結婚式をしたということを、私たちは認めざるを得ないのです。
体と心、夫婦、子女統一を願う真の父母
堕落は、サタンによってエバが誘惑され、その誘惑されたエバがアダムを誘惑したところから始まりました。ですから、私たちの先祖であるアダムとエバが愛を中心として夫婦関係を結ぶとき、喜びの関係ではなく、相反する関係で結ばれることにより、その関係に根を置いている私たち人間も、体と心の闘争の起源を連結せざるを得ないという事実は、何よりも理論的なのです。
堕落は淫乱によって始まりました。このような願わない愛の関係によってサタンと一つになり、善の先祖になれず悪の先祖となって、悪の愛と悪の生命と悪の血統の根をもつようになったのです。このようなことが事実であれば、私たち全人類の堕落した子孫が、家庭を越えて、氏族を越えて、国家と世界まで発展した今日、五十億の人類はサタンの子孫であり、悪の父母の血統を受け継いだことを否定できないのです。私たちの体の中に、神様が最も嫌うサタンの血が蠢動しているという事実を、誰も考えられませんでした。これが問題です。
それでは、この根をどのように清算するのでしょうか。サタンが愛の根をどこに打ち込んだのかというと、体、すなわち肉身に根を下ろしたのです。もし堕落していなければ、体と心が一つになるのは自然の道理です。堕落することによって、天に相対する良心のプラスと、これに反対する体のプラスが衝突しているために、ここから闘争の歴史が始まったという事実を、私たちははっきりと認識しなければなりません。
このため、神様は善悪の分立歴史を展開せざるを得ないのです。神様は公的であられるので、全体のために生きる道を選びながら、愛と平和の目的に向かう反面、サタンは私的立場を取り、全面的に善の側を破壊しようとする立場に立って、憎悪と戦争で永遠に人類が天の側に行けないよう、天と地上世界を滅ぼそうとしています。神様は、サタン側に回った人類を打てないので、人類を取り戻すために天の側が打たれて取り戻し、サタンは打って奪われる作戦を取らざるを得ません。サタンは私的なことを中心として、憎悪と闘争によって天を滅ぼすための破壊を、歴史を通して行ってきており、天は反対に公的な立場で、愛と平和によって再創造してきているのです。
終末になれば、サタンは人類を支配してきた立場を天の側に奪われるようになるので、「神はいない」という無神論を提示して、人本主義と物本主義、そして共産主義の出現を助け、天の側の右翼とサタンの側の左翼の闘争を世界的に展開したのですが、天の側の勝利によって、第二次世界大戦以後、キリスト教文化圏の勝利と平和の世界に転換する大変革時代を迎えるようになるのです。
今の時代は個人主義の王国時代です。真の愛を中心として願う天の家庭を完全に破壊させたフリー•セックス時代と父母否定時代であり、夫婦否定時代と子女否定時代であり、ホモやレズビアンなど、天の側を完全に破壊する地上地獄の時代ですが、これを天国に転換するためにメシヤの再臨があるのです。そのため、メシヤは真の父母として体と心の統一、夫婦統一、子女統一を願うのです。

Tuesday Mar 15, 2022
平和経 第144話
Tuesday Mar 15, 2022
Tuesday Mar 15, 2022
神様と人類は父子関係
満場の市民の皆様。きょう一時を生きていく人生の道というものは、平坦な道ではありません。それは人間が堕落したからです。人間は堕落の因縁をもって生まれたがゆえに、その堕落によって生じた怨恨の過程を、いずれ乗り越えなければならない運命をもって生まれ、数千、数万年の歴史過程を経てもそれを越えなければ、その恨の道は私たちの前に永遠に残るようになるのです。
エデンの園でアダムとエバが堕落したその瞬間から、人間は不幸の要件をもって出発しました。ですから、人類が幸福の世界に帰るためには、必ず不幸の世界を跳ね返して進まなければなりません。そうでなければ、誰も幸福な世界に帰ることはできません。
人類始祖が堕落したことによって人間だけが不幸になったのではなく、神様までも共に不幸になりました。人間が生涯を捧げて生きていく一つの目的は、理想世界の実現だけではありません。それよりまず、生命の根源であられる神様に積もりに積もった悲しみと悲痛さをどのように打開するかということが、私たちの生涯の目的です。ですから、人類が幸福な所を訪ねるとき、神様も幸福になるのです。神様と人類は父子関係だからです。このように神様や人間は同じ立場に立って、一つの目的を指向し、歴史過程を経ながら今まで歩んできました。神様はアダムとエバを失うことによって、険しい道の中でも険しい道、世の中の誰も願わず、また行きたがらない道を歩んでこられたのです。人間もやはり堕落で残された、この避けることのできない運命の道を、救いの一日を願ってやって来ました。
神様に対して人間は、その方の息子、娘になることが最高の願いです。なぜなら、父母と最も近い立場は父子関係だからです。「私」という人間は、父母の愛と生命が合わさって、父母の理想を実現するために生まれました。愛や理想という言葉は、一人について語る言葉ではありません。生命も一人で独断的に出てくるものではなく、連結された立場で出てくるのです。ですから、神様が人をお造りになるとき、神様の真の愛と真の生命と理想の対象として造られたのです。これは驚くべき偉大なことです。自分がいなければ、父母の愛は現れることができません。父母の愛と生命と理想は、自分と共に関係しているのです。自分は父母の愛と生命と理想の結実体です。ですから、息子の立場は最高に価値のある立場です。神様と人類は父子の関係だからです。
父母と自分が一つのところから共に出発したという事実は、驚くべきことです。父母の愛は自分の愛であり、父母の生命は自分の生命であり、父母の理想は自分の理想として決定することができるのです。ですから、父母は子女を見つめるとき、これは自分の愛する息子、娘だと言います。子女とは、自分の愛と自分の生命と自分の理想の実体だということを、父母は感じて悟り、知っています。愛する息子、娘は、一日だけ会わなくても、会いたいと思い、今見ても、またすぐ見たいと思うのです。それはどんなに離そうとしても離すことができない、骨の中の骨であり、肉の中の肉です。いなければ死ぬほどつらいと思うのであり、そこにはすべての理想がかかっているのです。
今日、堕落によって真の愛と真の生命と真の理想をもつことができない人間世界に生まれた父母でも、そのように子女を愛そうとするのですから、そのような父母の主体であられる神様は、それよりもっと愛するというのです。
救援摂理の完成
本来、堕落していないアダムとエバは、神様の直系の息子、娘として神様の血統を引く存在です。アダムとエバは、天上天国と地上天国を受け継げる王子、王女だったのです。王子、王女であると同時に、無形の神様であり、主体であられる神様のみ前に対象として造られた存在であるがゆえに、神様から愛を受けられる実体なのであり、無形の神様が実体として顕現したものです。
神様の息子の特権とは、その方は自分のものであり、その方がもっているすべてのものも自分のものだというのです。神様の愛までも、生命までも、理想までも自分のものです。このように驚くべき偉大な本然の価値を、人間は再び回復しなければなりません。ですから、神様が主体的真の愛であり、永生するのなら、その真の愛の相対も永生しなければなりません。神様の真の愛と一つになれば、神様が自分のものになるのです。
堕落していないアダムとエバの体は、神様が住むことのできる家です。アダムとエバが神様を心の中心として、真の愛で永遠に統一された愛の体、生命の体、血統の体になっていたならば、今日、私たちの心と体は闘わないでしょう。堕落とは、悪魔の愛を中心として、悪魔の生命体と血統を受け継いだことです。偽りの父母から生まれたのです。ですから、この血統を改造しなければなりません。野生のオリーブの木を真のオリーブの木に改造しなければならないというのです。そうするためには、接ぎ木をして三代以上経て、そこで結ばれる実が真のオリーブの木になって、本然の基準を取り戻すようになるとき、初めて堕落した人間が本然の人間に復帰されます。そのとき、救いの摂理が完成するのです。
このように神様と一致した愛を中心として、善なる父母の息子、娘にするために、神様がこの地上に救世主として真の父母を送るのです。救世主は人類の血統を清め、本然の創造理想を実現するために来られるお方です。
私たち人間は、誰でも最高になりたいと思い、神様の息子、娘になって、神様の王子、王女として王権を受け継ぐ相続者になりたいという本然の欲望がありますが、他の血統を受け継いだがゆえに、生まれても嘆かわしく、生きても嘆かわしく、死んでも嘆かわしいのです。人生は苦海だという言葉が、ここから出てきました。ですから、自分の体と心の闘いをどのように中止させ、一つに統一させるかという問題が重要です。自分の体と心を一つにできなければ、南北統一も、世界統一も、そして霊界統一も、自分とは何の関係もなくなります。
主体と対象は、対応的な関係を結んだのちには、より大きなものを中心として一つにならなければなりません。男性と女性が対応して一つになったあと、より大きなプラスやマイナスになって、国の前に忠臣にならなければなりません。そして、これが再びプラスやマイナスとして世界的次元で聖人の道理に接ぎ木されなければならず、聖人の道理が再びプラスやマイナスになって、天宙的次元で聖子の道理に接ぎ木されなければなりません。そのように聖子の道理を備えたのちにこそ、神様に接ぎ木することができるのです。
ところが、私たちは発展を願い、大きなものを願い、高いものを願う、このような原則において、自分が行くべき道が運命的に横たわっているにもかかわらず、その道を知らずにいます。本然的な天道の動きに対する対応的な反射として、自分の心の欲望は作用していますが、その成就の道を知らずにいるために、人生は塗炭の苦しみの中で呻吟しているのです。これを見いだすことができないために、世の終わりの日になれば、その道を見いだすために多くの努力をしても不可能なので、自殺がだんだんと増えていくのです。私たちは何としてもこれを克服する道を探さなければなりません。
人類は世界の舞台で一番になることを願う前に、まず本然的アダムとエバの家庭で一番になることができなければなりません。アダムとエバが神様のみ前に直系の王子と王女の立場を備えるようになれば、彼らは男性として最高であり、女性として最高になるのです。しかし、彼らが堕落したことによって、彼らが占有すべき長子権の王子、長子権の王女の立場を失ったのです。これが人類歴史に恨として残りました。ですから、人類は神様の真の愛を再び探そうと、最初の息子と最初の娘の立場を求めていく人生の道を歩んできたのです。
そのような真の愛を受けるためには、自分自身を中心に生きるのではなく、神様を主にして、兄弟である人類を主にして生きなければなりません。父母に代わって兄弟のために最も多く血と汗を流しながら、長く耐えて克服した真の人であるほど、深く、広く、高い愛を受けるのです。そのような息子になり、娘になってこそ、父と母の全体を相続することができるのです。この道は男性も女性もみな行かなければなりません。ですから、十回でも百回でも死の峠を経て、また死んだとしても絶えず神様の真の愛を求めていかなければならないのが、人生において行くべき最高の道なのです。
統一教会の原理は、人間が神様の真の愛の圏内から脱したことが堕落であり、神様の愛の圏内に再び入ることが復帰だと教えています。そのような真の愛の圏内に入れば、自分の手一つを見ても、千回、万回激しく称賛するようになります。その世界では、自分の体も神様の真の愛を受ける体になるので、その喜びは言葉で表現できないのです。そのように素晴らしい世界が天国です。
宗教の使命
私たち人間の心が神様の真の愛を占領する日には、千年、万年歌い、踊ることができるのです。神様の真の愛に酔うようになれば、酒や麻薬のようなものに酔うこととは比較にもなりません。天下に存在するものすべてを呼べば、そこに応えないものはありません。流れる水だけを見ても、千年間歌を歌うことができます。そこにおけるささやきの甘味は、無窮無尽だというのです。その時は世の中のすべてを成し遂げたことになるので、金銀財宝も他の何も、みな必要ありません。世の中でそれより貴いものがないというのです。
このようなことを見るとき、人間の価値は、愛を通して、真の愛の感覚を通して宇宙と和合できる主人格だというのです。これを成し遂げることが人生の行くべき道です。霊界は今まで未知の世界でした。その世界は神様の存在原則である、ために生きた人だけが行く所です。そのような内容で形成された世界が理想天国です。そこが、私たち人間が求めていくべき本郷なのです。
今日、私たちは堕落した人生によって本郷から追放された人間となったがゆえに、本郷の地に向かって帰るベき運命にあります。しかし、そこは人間自体だけでは帰ることができません。それで、神様は人間が帰ることのできる道として、その民族の文化背景、風習あるいは伝統に従って数多くの宗教を立て、歴史的に収拾してこられたのです。宗教は本郷の地に帰る資格をもつ人に鍛える訓練の場です。神様は東西南北、四方の文化背景によって、高い所に前進できる一つの統一された宗教世界に導いてこられたのです。
そのような本郷の地に導く宗教なので、宗教は「ために生きなさい」と教えてあげざるを得ません。それで、高等な宗教であるほど、ために生きなければならないという原則を強調し、温柔、謙遜であれと教えるのです。無数の人々を高め、彼らのために生きる立場に立って、犠牲になり、奉仕しなさいと教えるのです。
今や、私たちの前に到来する二〇〇〇年以降は、世界の全人類が神様を中心とした真の本然の人間の価値を取り戻し、天地父母と一体となった祝福を受けた真の家庭を成し遂げ、神様と真の父母様を中心として、永遠にために生きる、真の愛の道理を実践する、真の平和と真の理想の天国時代を迎えなければならないのです。新年に皆様の家庭と国家に、神様の愛と祝福が一層満ちあふれることをお祈りいたします。ありがとうございました。
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Tuesday Mar 15, 2022
平和経 第143話
Tuesday Mar 15, 2022
Tuesday Mar 15, 2022
真の愛を中心とした家庭が行くべき道
真の愛を中心として男性と女性が一つになり、理想的な夫婦となって家庭を築けば、彼らは神様を身代わりする立場に立つようになり、宇宙のすべてに連結されます。そのようになるとき、神様のすべてが自分のものになるのです。どれほど幸福な立場でしょうか。ですから、私たちは万物を征服したい気持ちになるのです。男性と女性が合わさって家庭と社会と国家、そして世界を築くがゆえに、男性と女性が中心になって築いた家庭は氏族のモデルにならなければならず、氏族は国家のモデルにならなければならないのです。私たちの家庭が行くべき道とは、理想的な家庭と氏族と国を復帰していくことです。ですから、理想的な国が出てくるためには理想的な家庭がなければなりません。
尊敬する市民の皆様。真の愛が偉大な理由は、真の愛で私自身が神様の対象になることができ、神様も私自身になることができるからです。聖書にも「父がわたしにおり、また、わたしが父におることを知って悟るであろう」(ヨハネ一〇•三八)とあります。父が息子の中に、孫が祖父の中に、祖父が孫の中にあるという言葉は、ここから生じた言葉だと考えます。
祖母と祖父は、孫を中心として情を結ばなければなりません。それでこそ、愛の垂直線が始まるのです。また、孫は、祖母、祖父と一つにならなければなりません。祖父と祖母は神様と同じ立場なので、神様のように侍らなければなりません。そうでなければ、縦的な愛の軸を見いだすことができません。これを立てたのちに、横が生じるのです。横的なものは四方に連結されますが、縦的なものはただ一つの方向です。横的なものは東西南北、三六〇度に動くことができ、縦的なものは一つの点で動くことはできますが、分離することはできないのです。
ですから、愛を中心として、まず体と心を一つにしなければなりません。そして、神様を中心とした縦的な世界である霊界を愛することができなければなりません。そして、未来に中心国家が現れれば、その国を中心として全世界の人類を愛さなければなりません。ですから、真の愛を中心として、犠牲、奉仕、献身の道を通じ、霊界と全世界の人類を愛する生活を送れば、人間は自動的に中心的存在になって、二つの世界を主管して一つの世界をつくることができます。そうすれば、神様もそこに臨在されるようになるのです。
全霊界と全宇宙が合わさったものを天宙と言いますが、すべての霊界と宇宙は、真の愛を中心として、この天宙が一つに統一されることを願います。天宙を統一できるのも、全体の家庭を理想化させて一つにできるのも真の愛です。それで今日、人間が地上で暮らしても、永遠の生活をする霊界に入っても、絶対に必要なものは真の愛しかないという結論が出てきます。
真の愛は、人間や霊界だけでなく、すべてが好みます。ですから、真の愛をもった人は、動物や植物たちからも好まれ、彼を主人として迎えようとし、どのような存在でも真の愛を中心とした人と一つになろうとするのです。被造世界のあらゆる存在は、真の愛をもって生きる男性と女性の前に近づこうとし、彼と共に生き、彼により主管されることを理想とします。ですから、この世の中で一番貴いものとは、真の愛をもった男性と女性、すなわち真の人だという結論が出てくるのです。
人間には翼がないので、どんな昆虫や鳥よりももっと遠くに飛び、どんな飛行機よりももっと速く地球星を回るには、実体の肉身ではできません。どんなに走っても、いくらも行けないのです。人は万物の霊長として神様と対等な相対的立場にあります。ですから、一秒間に三十万キロメートルを走る光よりもっと速い作用ができなければなりません。それを可能にするものが霊人体です。今、私がソウルにいても、霊人体はさっとニューヨークに行ってくることができるのです。稲妻よりも速いというのです。このように、思いとともに歩調を合わせて作用できるのが霊人体です。しかし、世の中で一番速い作用とは、愛の作用です。世の中で一番速度が速いのは光や電波ではありません。世の中で一番速く、高く飛べる力をもったものが愛です。この地の果てとあの地の果てにいる人間同士で互いに愛し合うようになれば、その地の果てを越えて引っ張り合うのです。愛はそのような力をもっています。
真の愛を体験した人は、神様の本来の理想的な世界では、神様が願うあらゆることを即座に所有できる能力と権限をもちます。そして、そのような資格は地上でもたなければなりません。霊人体を中心として肉身が一つになる過程で、神様の愛の接続点が真の家庭において形成されてこそ、そのような立場に進むことができるからです。
神様の真の愛は、同胞を愛しても、世界の人を愛しても、万物を愛しても、感じることができます。どの国の人でも、五色人種を愛する心をもたなければならないのです。人だけではなく、微々たるものまで愛することができる心をもたなければなりません。自動的にそれが湧き出てこなければならないというのです。花が咲けば、その美しい色や香りは自然に出るのです。同様に、愛の花が咲かなければならず、愛の香りが自動的に宿らなければならないというのです。
そうするには、その愛の花を咲かせ得る栄養素を受けなければなりません。植物が地と太陽から栄養素を受けるのと同様に、私たちも肉身と霊人体を通して栄養素を受けるのです。それで、肉身を通して生力要素を受け、その次には霊人体を通して生霊要素を受けます。そうすることによって、自分は愛を完備した実体となり、どこでも飛んでいくことができます。そのようになれば、太陽系をはじめとする大宇宙は、すべて自分の活動舞台になるのです。
霊界は愛を中心とした世界
人間が肉身生活を終えたのちには、第二の出生をします。これが死です。第二の出生をする所、死んで行く世界が正に霊界です。その世界に入って、第三の父母である神様から宇宙全体を代表した愛が供給されるのです。理想的な愛が供給されるというのです。ですから、霊界では統一されざるを得ません。
死ぬ瞬間からは第二の空中世界を振り切って、新しい第三の愛の呼吸器官に連結されなければなりません。父母の愛、兄弟の愛を振り切って霊界に入り、結局は大宇宙の神様の本体と和合する愛の世界に入ります。種が本体から出てきたので、結果を結んで、また本体に戻らなければならないのです。霊界は愛の空気でできている世界です。愛の空気で満ちています。ですから、私たちはこの地上世界で、愛の息をすることができるもう一つのパイプ装置を準備しなければなりません。ですから、霊界を体験し、霊的な愛を感じて呼吸できる人になってこそ、霊界で死なないのです。
霊界は愛を呼吸し、愛を中心として暮らす世界です。ですから、完全な愛の人格をつくれなければ、行ったり来たりする道が制限され、四方に通じません。門を通ったとしても一つの門だけを通らなければならないのと同じです。春夏秋冬、いつでもどこでも合わせて暮らせる資格を備えようとすれば、完全な愛の人格を具備しなければなりません。ですから、三時代を経るように人間を造ったのです。
とんぼも、幼虫が水の中で泳ぎ回り、地上に上がってきてしばらく這い回ります。その次にはひらひらと飛び回り、食べるとは思いもしなかった虫を捕まえて食べます。天下を自分の舞台として飛び回るのです。このように昆虫類の中には、羽があって三段階の世界を経るものが多いのです。昆虫もこのように水と陸地での生を経て空中で暮らすのですから、万物の霊長である私たち人間は、もっと次元の高い翼をもっているのです。
私たちは神様に代わって愛で生まれ、愛で生きながら息子、娘を生み、愛の目的地に到達して、永遠に神様と共に生きるために神様の所に帰るのです。すなわち、私たちの一生とは、愛で始まり、愛で熟し、愛の実として刈り取られるのです。人が死ぬということは、愛の実を収穫することです。
私たちは、父母の愛を受け、夫婦の愛を交わし、子女を愛したので、内的な愛の世界に蒔かれた神様の愛のすべてを、一生をかけて実を結んで収穫し、あの世に逝くのです。ですから、私たちが完全に愛で一つになれば、神様に似るようになります。夫婦が合わさってこのような三段階の愛を完全に完成して霊界に行くようになれば、永遠の主体である神様のみ前に、永遠に「相対としての神様」になるのです。真の愛を中心として夫婦が死ねば、そのようになります。ですから、神様で始まって神様で締めくくるのです。
人間が死ななければならない理由は、体をもっていては制限された愛でしか愛することができないからです。無限大の神様の真の愛の対象的実権をもって現れようとするなら、制限された肉身だけではできないのです。ですから、無形の霊にならざるを得ません。さらに、真の愛の理想を全天地とともに同一化するためです。死は苦痛の道ではなく、宇宙的な真の愛を所有できる幸福の門を開門する時間です。死ぬということは、這って歩き回る陸地の世界から、ひらひらと飛び回って暮らせる世界に移ることです。全宇宙を自分の舞台にして、真の愛で旅行を楽しめる資格をもった人になり、そのような世界に入門するために死の道を行くのです。ですから、死ぬことは正に新しく生まれることです。
私たちは初めに母の胎内にいました。その胎が私たちを育てたふろしきです。そのふろしきの中から出てくるとき、すべてを振り切って生まれるのと同様に、私たちの霊人体に対して肉身はふろしきのようなものなので、これを振り切って飛んでいくのです。ですから、人間は結局、水の世界、陸地の世界、空中の光の世界を経て、永遠な真の愛の世界で暮らすようになるのです。
霊界では生命の要素が愛なので、愛を通した命令には不可能がなく、即座に実現されます。そこでは億万人が一度に夕食を食べるとしても、そこに合う食べ物を準備して、あっという間に宴会をすることができます。そのとき、列席する貴賓たちが、みな王女、王子になりたいというときは、すべて本物の王女、王子になります。それが可能なのです。
皆様、そのようなことを理解するなら、この地上で暮らしたいですか。あの世に行きたいですか。腹中にいるときは「腹中が一番いい」と言いながら、腹中でただ足をばたつかせながら暮らします。途中で引き出そうとすれば「嫌だ」と言うでしょう。そして、母のおなかの中から外に出るときは、一度死んでから目覚めます。地上での死というものも、一度死んでから目覚めるのと同じ作用なのです。ですから、肉身の死とは、正に第二のお産です。
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Tuesday Mar 15, 2022
平和経 第142話
Tuesday Mar 15, 2022
Tuesday Mar 15, 2022
物質世界、父母、神様は三大父母
自分は三大父母を通して生まれました。第一の父母は物質世界です。物質の世界からあらゆる要素を取り出して、物質の中心として、物質の複合的な存在として自分は造られました。このような観点から、その物質の元素自体が自分を生んでくれた先祖でもあり、また自分の延長が物質世界でもあります。この物質は愛の理想の立場においてのみ安着するように、宇宙はできています。愛の理想の立場において、すべての細胞が平安に生きられるようになっています。もし腹を立てたりすれば、すべてがこじれてしまうのです。
次に、自分の体を生んでくれた父母が第二の父母です。自分を生んでくれた父母が、自分をして一つの形態を備えて生まれてくることができるようにしました。しかし、この父母はどんなに頑張っても愛の主人になることはできません。自分の生命の主人にはなれますが、愛の主人にはなれないのです。
愛の主人は神様です。愛を宇宙化させて、愛を永遠化させるために神様がいらっしゃるのです。神様は愛の主体であられるので、愛を中心として父母になっています。ですから、神様が私たちの第三の父母です。このように私たちは三大父母をもっているのです。
私たち人間の一生は、腹中時代の十ヵ月、肉身時代の百年、そして霊界時代の千年、万年を永遠に生きていきます。私たちの顔を見れば、口、鼻、目の三段階になっていますが、これは人間が生きてゆく三時代の姿を見せてくれているのです。口は物質世界である腹中時代を象徴し、鼻は人の世界である地上時代を、目は霊界の天上時代を表します。
胎児が育つ母のおなかの羊水の中は、胎児には正に自由天地です。母のおなかの中では、いつも背中を曲げていなければならず、鼻も口もみな塞がっているのですが、胎児には自由天地だというのです。胎児に必要なすべてを供給するパイプがへそについていて、へその緒だけで生きなければなりませんが、そのような世界が胎児には自由天地なのです。胎児がおなかの中から生まれるとき、「私は世の中に出て、口で蜂蜜も食べ、餅も食べ、御飯も食べる」と考えて生まれますか。むしろ、そのおなかの中から外に出る時になって「ああ、ここがいい」と思うのです。しかし「出たくない」と思っても、時が来れば出るようになるのです。羊水が流れ出れば、それに従って外に出るようになりますが、このようにして生まれることを安産といいます。
赤ん坊は生まれるやいなや、泣くと同時に鼻の穴で息をするようになり、第二世界、すなわち空気世界に連結されます。おなかの中から空気世界に連結されて出てくるときには、腹中世界で暮らしたへその緒と羊水の袋をみな壊して出てこなければなりません。それらの死(破壊)と同時に、地球星の母の所に生まれるのです。生まれてからは、口で食べて鼻で息をするのです。ところが、地上で食べる食べ物は肉身が生きるのに必要な栄養分であって、本質的な生命要素ではありません。生命要素は、正に愛です。ですから、この世の中でも愛という空気を吸わなければなりません。母と父からの愛の空気を吸わなければならないのです。
赤ん坊が生まれると、母の愛の電波に沿って自動的に乳首を探しにいきます。美女であるかどうかは関係なく、愛ある母であればいいのです。これこそ創造の妙味、かつ神聖な姿なのです。人は愛で生まれ、愛を受けながら成長します。
このような立場で見るとき、「私」というものは、父母の愛の実です。父と母の愛がどのようなものなのかを実際の実として見せたのが自分なのです。愛の実であるがゆえに、父母は「私」を愛さなければなりません。その実を通して無限な愛がまた実を結ぶのです。個人的愛、家庭的愛、氏族的愛、民族的愛、国家的愛、世界的愛、宇宙的愛、そして本質的な神様の愛にまで連結できる道がここにあるというのです。
私は父母の愛の実
出生したのち、肉身時代には、生んであげた父母が子育てを受け持って正しい人に育てるのです。世界と国と家庭を代表し、父母がすべてを教えて供給してくれます。私たちが父母から物質を供給され、教育され、個体として完成すれば、愛を中心とした横的な基盤に連結させなければなりません。それが結婚です。父母は結婚するときまで責任をもつようになります。結婚して、父と母が互いに愛し合っていたその愛を引き継ぐのです。父母が自分を生んでどれほど愛したかを、自分が結婚して子女を生み育ててみることによって知るようになり、その愛を引き継ぐのです。そうすることによって、自分は愛を完全に受けることができ、与えることができる人になります。そうして、完全な一人の男性、女性として成熟するのです。
父母の縦的な愛で生まれ、成熟し、横的に愛するようになって、初めて総合的な愛の圏を見いだすことができます。天地は球形世界なので、縦横と上下、左右、前後の愛が連結されてこそ、それを与え合いながら回り、すべてがまとまって一つの調和のセンターとして現れるのです。ですから、天地の縦的愛が内外に軸としてしっかりと立てば、その次に横的な愛が必要なので、思春期というものがあるのです。
思春期には、ただ秋風に吹かれて落ち葉がころころ転がるのを見るだけでも笑うのです。乞食が訪ねてきて物乞いの歌を歌っても、思春期には「ああ!また来た。またやっているな」と言って歓迎します。そのように四方に拡大されるのです。ですから、おとなしくしていた女性たちも、髮の手入れや化粧をし、しきりに体に何かを塗るようになります。欲も強くなるのです。それが愛の横的な現象です。ですから、人生行路は旅のような道ですが、ここで備えるべきことは、縦横の愛を体恤していかなければならないということです。真の父母の愛、真の夫婦の愛、真の兄弟の愛、真の息子、娘の愛を中心とした家庭を築いたのち、これを横的に拡大し、東西南北に多くの家庭を広げておかなければなりません。そうして、彼らが縦横を連結できる真の家庭を形成し、氏族圏、民族圏、国家圏、世界圏で神様と真の愛で連結されるとき、その世界を天国というのです。
夫婦が愛し合うということは、神様を迎えることです。本来、父母は本然の神様の立場を代表し、ここで夫と妻は互いに他の一方の神様になります。そして、息子、娘はまた一つの小さな神様です。神様は真の愛の本体なので、真の愛と連結されれば、みな同じ体になります。父母は神様の代身として生きている神様であり、夫婦も神様の代身であり、子女も神様の代身です。このように三代が真の愛を中心として神様の立場を身代わりするのです。
ですから、父母も、夫婦も、そして子女も真の愛を必要とするのです。このように真の愛を中心に形成された家庭組織が天国の基盤です。そのような基盤を形成しなければ、天国が実現しません。これが公式です。家庭とは、すべての宇宙の現実世界の中心です。今日、人々は自分の家庭が、国と世界と宇宙を代表した家庭であることを知らずにいます。中心としての家庭だということを、知らずにいるというのです。ですから、家庭を破綻させることは、国と世界と宇宙に対する反抗になります。家庭の完成は宇宙完成の基礎になるので、家庭で愛するように宇宙を愛すれば、どこでも無事通過です。この場合、神様は宇宙全体の父母として、愛の複合的な中心の立場にいらっしゃいます。
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Tuesday Mar 15, 2022
平和経 第141話
Tuesday Mar 15, 2022
Tuesday Mar 15, 2022
16.人間の行くべき生涯路程
日付:一九九九年一月十七日
場所:韓国、ソウル、オリンピック公園重量挙げ競技場
行事:真の家庭世界化前進大会
高名な紳士淑女の皆様。きょう「人間の行くべき生涯路程」という主題で進められるこの大会に、真冬の寒さとあらゆる現実の困難をものともせずに、満場の盛況を呈してくださいましたことに、心より感謝申し上げます。
今、全世界は大混乱の中で呻吟しています。個人では心身の紛争、家庭では青少年の淪落と家庭破錠、国家と世界においては不信と戦争が絶え間なく続いています。この諸般の問題の解決は、神人愛一体理想を体恤することによって克服することができます。
神様が人間を創造された目的
人間はなぜ生まれたのかという問題は、人類が歴史的に追究してきた根本問題です。ある人たちは自分の国のために、あるいは自分の父母のために、または自分自身のために生まれたと考え、信仰者たちは神様のために生まれたとも考えます。しかし、神様が宇宙を創造された目的は人間だけのためであるとか、神様御自身だけのためであるという論理は成立し難いのです。人間が造られる過程に連結された様々な目的、すなわち神様が人間を創造された目的や天使が人間の創造に協助した目的、あるいは万物が人間に投入された目的と人間が生まれたこと自体の目的などが、互いに違ってはならないのです。全体が喜ばなければなりません。人間の創造に関連した神様も喜び、天使も喜び、万物も喜び、そして人間自体も喜べる、そのような共通の内容でなければなりません。
それは、もてばもつほどうれしくて喜ばしく、一度もてば永遠に手放したくないと思う、そのような何かなのです。それは外的な内容ではなく、極めて内的なものであり、目に見えないものなのです。知識やお金や権力のようなものは、人間が生きていくのに必要な付帯条件にすぎません。それはみな人間のためにあるものなので、人間には当然そのようなものを所有する権限があるのであって、そのようなものを所有するために生まれたとは考えられません。それはみな流れていくものです。それは自分と一時的な相対関係を結べるかもしれませんが、永遠の相対関係は結べないのです。
さらに神様は、お金が必要なのではありません。全能であられる方なので、お金はいくらでもつくることができます。神様は万物を造るとき、原理原則を通して造ったので、知識の根本でもあられます。そして、神様御自身は創造主として権力の主体であられるので、権力が必要なのでもありません。そして、それは、人間の努力だけで追求できるものではありません。人間の努力では生命の根源を支配することはできません。自分の生命の動機や過程、そしてその生命の終末まで動かす、そのような何かでなければならないのです。
このように見るとき、それは、真の愛であると言わざるを得ないのです。人間は愛で生まれ、愛の道を行かなければなりません。そして、死ぬときも愛のために死ななければならないのです。ですから、私たちの人生を見るとき、生命より愛がもっと貴いだけでなく、愛が生命よりも先なのです。ですから、愛のためには生命まで喜んで捧げるのです。愛は永遠です。小説や詩のような文学作品を見ても、「不変の愛」や「私の永遠のあなた」という表現が多く存在するのを見ることができます。このようなものを見ると、私たちが瞬間的な愛、一時的な愛を願うのではなく、永遠の愛を願うことが分かります。
愛は神様も身動きさせない権威をもっています。神様も愛には弱いというのです。全能であられる神様も人間の愛の香りを嗅ぐならば、満面に笑みを浮かべられるのです。神様も愛の話がお好きなのです。話だけでも好きなのに、実際に愛すれば、どれほど喜ばれるでしょうか。私たちの人体の様々な器官も、愛という一つの目的を中心に生まれました。目は見るために生まれましたが、どのようなものを見るためかというと、共同のテーマである愛を探すために生まれたのです。鼻も臭いを嗅ぐために生まれましたが、臭いの中でも愛の香りを嗅ぐために、耳も愛の声を聞くために生まれました。私たちが聞く言葉の中でいくら聞いても嫌気がせず、好きな言葉は「愛している」という言葉です。これは若者も老人も同じなのです。
ですから、あらゆる存在が互いにみな喜ぶことのできるテーマは、愛以外にはないのです。その愛とは、大宇宙が歓迎できる真の愛です。神様も、天使世界も、万物も、そしてすべての人が公認できる愛なのです。愛というふろしきを持ってきてかぶせておけば、その中から抜け出そうとはしません。このような点から見るとき、宇宙創造の起源や生命の発祥地とは、正に真の愛だというのです。
真の愛は宇宙創造の起源
人間が宇宙を愛する境地に入れば、宇宙のすべての門が開くことを経験できます。また、自分が今、ここの空間に、ただ極めて小さなものとして存在しているとしても、愛を中心とすれば、極めて大きな存在と共同で共通な、そして同等かつ対等な相対的権限をもつようになります。その極めて大きな存在が絶対的な神様ならば、私は愛の権威によって、その絶対的な神様の相対的な立場に上がることができるのです。神様の属性が愛だからです。
ですから、神様の愛の公約を立てておいて、その公約の中に存在するようになれば、宇宙のどこに行こうと自由なのです。神様の愛に酔えば、一つの砂粒を千年見つめても飽きません。自分の手を見つめれば、自分の手から光が出ることが分かります。夜に一人で横たわっていると、暗い夜にもかかわらず、自分が黄金の板に横たわって黄金の光を発して寝ている自らを感じるようになります。夢のような話です。そのようになれば、丘に上がっても万物が喚声をもって歓迎するのを感じることができます。皆様もそのような経験をしたことがありますか。
私たち自身が愛の宇宙の中に生まれたと考えれば、無限に幸福に感じられるだけでなく、世の中に「私を見なさい」と誇るに値する自分です。神様が実験室で研究している途中に、最も理想的で、驚異的な発見があったとすれば、それは正に自分だったというのです。このような観点から、神様の愛の相対的立場に立てられた自分自身を破綻させることは、罪の中の罪であり、これを愛して保護することは善の中の善であるという結論が出てくるのです。ですから、自殺することは最も大きな罪になります。宇宙を破綻させる行動です。
監獄に入って、拷問で血を吐くことになったとしても、神様が抱いてくださる愛のみ手を感じれば、それがかえって神様が骨髄にしみる愛で抱くことのできる一つの条件になるのです。このように考えるとき、死ぬような環境も、幸福な場だと考えて歩むことができるのです。このようなことを考えるとき、男性も女性も、愛の力の中にいる人は、強い人なのです。国や世界を与えても変化させることができません。そのような人の前には、サタンも屈服せざるを得ない驚くべき結果が現れます。
ですから、神様がこの宇宙的愛を中心とした人間を代表して呼ばれるとするなら、その方は正にメシヤです。イエス様がその代表者だというのです。メシヤを通さなければ、宇宙愛を見いだすことはできません。ですから、万民はそのあとについていかなければならないという論理が成立するのです。イエス様は、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ一四•六)と言われましたが、ここに愛という言葉を一つ加えなければなりません。「わたしは道であり、真理であり、命であり、愛である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」と言ってこそ、論理がより明確になるのです。私たち人間は、父母の愛の中で生まれました。その父母の愛の一番中心の、主人として生まれたのです。ですから、父母は、私一人をつくり出すために愛し合ったという結論が出てきます。
ですから、父母に対して同等な立場で権利を主張することができます。「お父さんとお母さんは私がいなければ不幸です。私がいてこそ幸福でしょう」と言うとき、父母は「そうだ」と言うのです。そして、自分も父母がいなければ不幸だというのです。なぜなら、父母が原因で、私は結果だからです。父母と自分は愛を中心として一つです。原因と結果が一つになって愛の実体圏を形成するのです。これが宇宙の道理です。
統一教会の原理では、主体と対象が一つになるところから力が出てくると言います。ですから、原因である父母が自分と一つになれば、主体と対象が一つになっで一体となったので、新しい対象となって、より大きな主体と一つになることができます。神様がその主体ならば、その神様と一つになるのです。すなわち、神様の理想的な愛を中心として神様と完全な主体と対象の関係を形成すれば、神様と人間は完全に父子関係になって、一つになるのです。神様と人間の愛の圏が形成されれば、宇宙にはいつも明るい太陽のような愛の光が発せられるのです。
自分は、父と母の二つの生命が一つに結合した生命の連結体であるというだけでなく、父母の愛の同参者として父母の愛と一体です。さらには、自分は父母の理想とも一体です。理想には幸福や平和というものがすべて入ります。父母にとって、自分が世の中で成功したときの喜びがいくら大きくても、失った子女に出会ったときの喜びとは比較になりません。子女は父母の最高の理想と一体だというのです。
自分には父と母の生命の綱、愛の綱、そして理想の綱が連結されていますが、この綱は誰も切ることはできません。神様も切ることができず、宇宙も切ることはできません。むしろ、宇宙のすべての力がそれを擁護しようとするのです。ですから、私がどこに行っても、父と母がついてくるようになります。あの霊界にまでも、父と母はいつも共にいようとするのです。ですから、父と母が同行するのを嫌うのは、大きな罪です。この宇宙を破綻させる破壊行為だというのです。父母を連れていくことを嫌うのは、既にその人が宇宙の原則から離れていくことを意味します。
ですから、父母を自分の体のように思って愛し、父母に孝行することが、人間において最高に価値あることです。「和睦する家庭に福が来る」という言葉も、そこから来るのです。反面、父母が離婚することは、刀で子女を半分に切ることと同じです。それは宇宙の公法が許しません。これに逆らう父母はどこに行っても災いを受け、不幸がついて回るのであって、幸福になることはできないのです。
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