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Saturday Mar 05, 2022
平和経 第140話
Saturday Mar 05, 2022
Saturday Mar 05, 2022
直観的感覚が現実化する世界
聖賢が行く道と凡人が行く道は違います。聖賢は歴史と共に生きようとし、世界と共に生きようとし、未来と共に生きようとした人です。しかし、凡人は自分のために生きようとし、世界も自分のためにあると考えて生きた人です。
霊界にも霊界としての世界があり、国があり、氏族があり、家庭があり、個人がいます。個人を中心として見るとき、「私はそこで絶対的に必要な存在だ」と言える自主性なしには入れないところが天国です。家庭を中心として見るときも、氏族を中心として見るときも、「私が絶対的に必要だ」と言えるそのような自主性があって、初めて行けるところが天国です。
霊界では、地球というものは、一つのほこりのようなものです。霊界は時空を超越した無限の世界です。そして「ある時代にこれこれこういう心情をもって地上に生まれ、生きて死んだ人がいれば、ここに直接現れよ!」と言えば、その人が瞬時に現れます。そのように直感的感覚が現実化される世界です。そこには食料を作る工場もなく、自動車を造る工場もなく、何もありません。
人間は霊界に入籍するとき、地上生活を証明する証明書をもって行かなければなりません。「私はこのように生きた。このようなことをやった」と言える生涯の証明書です。そのような証明書は自分自身が書くことはできません。初めはサタンが書きます。まずサタンに証明書をもらってから、メシヤの証明書をもらわなければならないのです。その次に神様の証明書をもらわなければなりません。この三つの証明書が必要だということを知らなければなりません。
霊界は真の愛を中心としてために生きる所
霊界に行けば霊界は膨大ですが、三段階になっています。誰が一番高いところに上がるかというと、より人のために人生を生きた人です。しかし、自分のために生きてきた人は反対の位置に立つようになります。自分のために生きた人はみな反対し、人のために生きた人はみな歓迎します。霊界に行けば、自分の親や妻も関係ありません。高いところに行く人はみな、人のために生きた人々です。
世界のあらゆる国を回りながら、自分の母と家庭に対する愛を拡大したような心情をもってために生き、世界の人々をみな悪から救おうとする聖人の心をもった人々が、高いところに行くのです。自分のために生きた人は地獄に行くのであり、人のために生きた人は天国に行くのです。この二つの世界が死において分かれます。
ですから、全体のために生き、より大きなもののために生きなさい、というのです。世界のために生き、神様のために生き、人類の解放のために生きなさい、というのです。これからは、互いにために生きようとする競争が始まるでしょう。
天の国では、ために生きる人が高い位置に行くので、その高い人のために私が生きれば、その人に乗ってジャンプできるのです。その人のために生きるのは、神様が創造して相対を造ったのと同じなので、その人の愛の対象圏に立とうということです。
人のために一〇〇パーセント生きる人に対しては、「私を踏み越えていってください!」と言うのです。どんなにアメリカという国が大きくても、アメリカの大統領よりもその国の国民のために生きる人がいれば、その人が大統領を踏み越えていっても、みな歓迎するのです。しかし、自分の利益だけを得ようとするときは、みな怨讐になります。
霊界でも同じです。より大きなことのために生きようとするときは、自然に通過します。より大きなことのために生きるようになれば、自然に通じるのです。ですから、世界のために生きる人は、アメリカのために生きなくてもいいのです。世界の中にアメリカが含まれます。すべての国がみな含まれるのです。
みなが歓迎するその方向の内容とは、真の愛を中心としてために生きる愛の道以外にないという結論が出てきます。死ぬときにもっていくべきものは、神様を愛し、自分を愛し、本質的人間としての自分を立てるために苦労し、自分と相対との夫婦の愛、家庭の愛を中心として、この愛を世界に拡大するために努力したものです。
人類を愛し、神様を愛したことが、最後に残り、あの世の所有権決定の基準になります。霊界に行けば、伝道した人の数によって皆様の所有権が決められることを知らなければなりません。霊界に行って誇るべきものが何かというと、どれほど人を慕って生きたかということです。
あの世で必要なものは、ほかのものではありません。世界よりも、自分の国よりも、自分の妻よりも、自分の息子、娘よりも、神様をもっと愛したことです。妻が話すとき、「あなたは私より神様をもっと愛してから私を愛してください」と言ってこそ、夫からより高い次元の神様のような愛を受けられるようになるのです。
心情圏の世界は愛が普遍化される世界
今日、レバレンド•ムーンは心情圏を説いていますが、心情圏の基地とは、神様を中心とした真の父母の愛、真の夫婦の愛、真の兄弟の愛、そして真の子女の愛というものです。そのような愛が普遍化される世界が心情圏の世界です。
そのような本然の世界においては、愛する夫婦の愛の基準を中心として生きたとしても、天と地、天宙を中心とした夫婦の愛でなければなりません。ですから、その世界に合格できる愛の基盤をどこで築くのでしょうか。レバレンド•ムーンは、この世でそれを築いていかなければならないと教えているのです。この世で何よりも貴いとされているものではなく、心情圏世界の合格者になるためです。
ですから、霊界には家庭を連れて入らなければならない原則があるのです。どうして息子、娘がいなければなりませんか。子孫とは本来、縦的な神様の愛と横的な父母の愛、神様と父母の血が縦横に混ざって生まれたものです。したがって、子孫をもてなかった人は、霊界に行って天地の調和を形成することができず、東西南北に拍子を合わせられないのです。子孫をもてなければ、あの世に行っても、楽しみ、安息できる場所がありません。
皆様。霊界では宗教や宗派は必要ありません。そこに行って長老派やカトリックというものは必要ありません。神様との生活圏内に入るのです。
あの世に行けば、世界を愛した人もいて、愛国者、忠臣、烈女、聖人たちがみないるでしょう。しかし、レバレンド•ムーンが知る限りでは、今までは神様の本然の愛の中で心情圏の伝統を中心として生きた人は一人も行っていないのです。何かを出発させるときは、神様を中心として出発しなければなりません。霊界に行けば、そのような原則にどれほど同化し、どれほど一致したかということによって、今後、地獄から中間霊界、楽園、天国まで連結されるのです。
何が一番貴い道かというと、天のために地上でどれほど苦痛を受け、どれほど涙を流したかということです。それがあの世のどこでもパスするチケットです。あの世に行けば、他の国の人同士は一緒にいられませんが、すべての宗教圏は一緒にとどまることができます。
宗教圏は、一つの世界を願って歩み、一つの神様を信じていくので、一緒にとどまることができるのです。宗教を信じる人々がこの世の人々と違うこととは何かというと、彼らは一生の間霊界を標準として生活するという点です。
宗教というものは、永遠の世界、超然とした世界の内容を中心として、神様なら神様がいらっしゃるところと神様が住んでいらっしゃるところを中心として、私たちが関係を結ぶことのできる内容を教えてくれるのです。
世界宗教国連創設の主唱
世界の各宗教を代表して、きょうこの場に参席された皆様に、私がこれまでお話ししたとおり、人間の生死の問題を中心とした生の価値を集中して取り上げたのは、他意があってのことではありません。生と死に対する正しい教えを伝えるのは、私たち宗教指導者たちの責任であることを強調するためです。
今日、この世界の政治指導者たちは、国連を通じた世界平和と人類の繁栄を追求しています。しかし、私の判断では、政治、経済、軍事的側面を中心とした国連の機能だけでは、世界平和の道は不完全だというのです。政治、経済、軍事的手段は、外的、肉的、物質的側面にすぎません。ですから、より内的、霊的、精神的な側面は、宗教的教えと世界のすべての宗教の連合と一致した行動を通してのみ可能なのです。
私は、きょうこの場を借りて、既存の国連に世界の主要宗教とその指導者たちが参与する、世界宗教国連の機構が創設されなければならないことを主唱するものです。世界と人類の未来のために、きょうこの時点で、世界宗教国連の創設とその役割の重要性について、これから皆様と世界のすべての国々が、さらに深く論議してくださることをお願いするものです。ありがとうこざいました。
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Saturday Mar 05, 2022
平和経 第139話
Saturday Mar 05, 2022
Saturday Mar 05, 2022
私の目的は世界の救援
皆様。私は心苦しく思うことが一つあります。神様が御自身のみ旨を成就する責任を下さったので、私は生きている間に神様が満足する水準までみ旨を成就しておかなければならないということです。その前には、死ぬに死にきれないのです。よって、死地に入っていっても、神様が導き引っ張ってくださるというのです。私はこのみ旨を成就するために、御飯を食べるときも、寝ても覚めても世界と人類のために祈り、努力しています。
私は、ある特定の国や民族のためには苦労しませんでした。私の目的は世界の救援です。その目的のために今まで死を覚悟し、犠牲的に命を捧げて働いてきました。皆様も世界のために生き、死ななければなりません。世界を救うためなら、愛する妻を抱いて、家庭を抱いて、自分の氏族を抱いて、民族をまるごと抱いて、死ぬこともできなければなりません。
さて皆様は、未来のある日、死を迎えることになり、死を前にして過ぎし日を回顧するようになりますが、そのときにどんな一言を残して逝くのかということを考えなければなりません。死の道は、友もいない道です。愛する父母もいない道であり、愛する兄弟もいない道であり、愛する夫婦や子女もいない道です。ただ一人で行かなければならない道です。
もう一度行くこともできず、行って来ることもできない道、一度行けば永遠に帰ることのできない道ですが、この道を行くときに、人間はどんな心をもって行くかが重要です。人間が死に逄着するその瞬間に、その死を乗り越えられる希望がないとするならば、そこでおしまいです。
今日まで神様のみ旨に従い、神様のみ旨を立ててきた多くの人々は、どのような人々だったかと言うと、死の道の前で後退した人たちではなく、死をあざ笑い、死を凜々しく乗り越えた人々でした。そのような人々が天の道を立ててきたという事実を、私たちは歴史を通じてよく知っているのです。
死ぬことなく復活はできない
それでは、天の願いを抱いて生きる人とは、どのような人でしょうか。人間が悲しむ死の峠も、喜びで越えることのできる人です。そのような人が天の願いを抱いた人だということを知らなければなりません。ですから、私たちは死を前にして、この世のすべてのことを恨み、嘆く人にならずに、天の前に立って喜び、自分の死の価値を誇る人にならなければなりません。
それでは、死ぬとどうなるのでしょうか。死ぬ前までは私のものですが、死んだのちには神様のものになります。それは私たちが堕落した血統を受けたからです。ですから、死ぬまでは、私たちの生命のすべてはサタン側の因縁を抜けきれないのです。しかし、死んだのちは神様と関係が結ばれるのです。死ぬことなく復活はできません。一つの時代を通過しなければ、次の時代を迎えることができないのです。
「自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである」(ルカ一七・三三)という聖書で言う命を失う「死」とは、何を意味するのでしょうか。神様が下さった永遠である真の生命を失いなさいということではありません。サタン世界の堕落した血統を受け継いだ生命を否定しなさいということです。それで、み旨のために死のうとする人は生きるというのです。
この言葉は逆説のようですが、堕落と復帰の内容を中心として見るとき、そのようにしなければ、復帰ができないというのです。これは復帰の正常な論法です。人生の勝敗は、数十年の期間を通して決定されるのではありません。それは一瞬で決まるのです。私たちの一生を通して見ても、皆様が生まれるその瞬間は、長い期間ではありません。
もちろん生まれるまでの腹中の時期がありますが、その腹中の十ヵ月という期間は、出生する一瞬のための準備期間なのです。ところが、十ヵ月の間、いくらよく準備したとしても、決定的な一瞬をうまく越えられなければ、生まれるその赤ちゃんは悲しい運命を迎えることになるのです。
この地上に来て、運命の瞬間を迎える最期の場で、過去を悔い改める人がいるとすれば、その人の心には過去のすべての事実が映像として回想されるでしょう。その中で「真なるものがあった。自分の生命よりも貴い何かを残した」という人がいるとすれば、彼はこの地に来て逝くとき、甲斐のある一時を楽しむ人になるでしょう。
しかし、過去のすべてのことを回想してみるとき、頭を振って回想したくない過去をもっているならば、彼は悲惨な人です。過去を回想すれば回想するほど、自分の顔に歓喜が満ち、自分のすべての問題が理想に浸ることができるならば、死の恐怖も彼には慰労の一場面として飾られるでしょう。過去を回想する瞬間が恐怖の瞬間ではなく、ほかの何かを残すなら、彼の過去は死なないのであり、現実も死なないものとして現れるでしょう。
そうすることのできる過去をもった人は、必ず民族がついていくことができる縁をもった人であり、世界万民がついていかざるを得ない縁を残した人であると見ることができます。神様のみ前に一人で立つことができるかという問題を考えるとき、真と善は自分から始まって自分で終わるのではありません。自分から始まって人に結果を結ばせるか、人によって始まり、自分に結果をもたらすことができてこそ、善になるのです。
過去の生活が人のために与える生活だったならば、死の道でも恐怖がないはずです。人のためにすべてを与え、人のために犠牲になり、真に近い生活をしながら、涙も人のために流し、自分の生命も人のために投入し、自分の願いも人のためのものなので、自分のすべての生命力を寄せ集めて人のために投入するならば、その過去の生活は光り輝く過去になるでしょう。
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Saturday Mar 05, 2022
平和経 第138話
Saturday Mar 05, 2022
Saturday Mar 05, 2022
神様の法則のとおりに生きなければならない
それでは、霊界とはどのような所でしょうか。私たちが霊界に入れば、頭の上にあるひよめきと細胞で呼吸するようになります。霊界での空気は、地上の空気ではなく愛です。呼吸を通して愛の要素を受けるというのです。
私たちが地上で生きるときも、御飯だけ食べていてはいけません。御飯だけ食べて、水だけ飲んで生きるというのは、胃袋を満たしているだけです。結局、そうして死んでいくということです。地上で生きている私たちの姿は、私たちの第二の存在です。
私たちがこの期間にすべきことは、新しい愛の人格を形成することなのです。この地上で私たちが最も必要とするものは愛です。孤児とは何でしょうか。母と父の愛を受けられない子女たちを、どうして孤児と呼びますか。霊界と永遠に連結できる愛がないからです。愛がなければ孤独なのです。それで独身で生きる人をかわいそうだというのです。
もう一度お話ししますが、私たちが死ぬということは、第二の呼吸をしていた肉体に連結されたこの器官を壊し、愛の要素を受け継ぐことです。ですから、私たちは、いずれにせよ肉身を破って出ていかなければなりません。愛は見えないものです。父母の愛、夫婦の愛、兄弟の愛、子女の愛など、このすべての愛を中心として私たちの内的な構造が成長するのです。
それで、私たちが神様の法則のとおりに生きるときにのみ、胎児が母の腹中で正常に育つのと同じように、私たちがこの地でも正常に成長できるのです。ですから、むやみに生きてはいけないというのです。私たちが自然界を調べてみると取るに足らない昆虫、実の中の種、そして鳥まで飛ぶことができるのに、ましてや万物の霊長たる人間が飛べなくていいでしょうか。たんぽぽの種を見てください。風が吹くと自然に飛ぶようになっています。このように鳥も飛び、昆虫も飛び、植物の種も飛ぶのを見れば、人間も明らかに飛べるように創造されたに違いありません。ある者は性急に「神様、ほかのものたちはみな飛び回るのに、どうして私たちは飛べないように造ったのですか」と神様に抗議しかねません。しかし、神様は「お前たちは数十年待って完成すれば、飛べるようにしてあげよう!」とお答えになるでしょう。
地上で愛する訓練をしなければならない
それでは、その時まで私たちは何をしなければなりませんか。その時になって、その世界に適応できるように、私たち自身を訓練しなければならないのです。父母を愛し、夫婦同士愛し合い、子女を愛しながら、この地上世界で訓練をしなければならないのです。そうして、時が来れば、永遠の世界に入り、永遠に神様に侍って生きるようになるのです。そのためには、いつかはこの肉身を脱いで死ななければなりません。
私たちがせみの一生を調べてみれば、せみも飛ぶようになる前に、幼虫の段階を経ます。そのせみが「ぼくは幼虫のまま暮らしたい。殻を脱ぐのは嫌だ。ああ、陸地も空気も何もかもみんな嫌いだ!」と言って反抗したとしても、いざ殼を脱いでみると飛ぶようになるのです。
とんぼも同じです。初めは幼虫になって水の中で泳いで暮らし、地上に上がってきて、しばし這い回り、その次は殻を脱いで飛び回りながら、食べるとは想像もしなかった虫を捕まえて食べるのです。天下を自分の舞台にして飛び回るのです。このように昆虫類の中には、三段階の世界を経るものが多いのです。
それで昆虫には羽があります。水と陸地と空中の三時代を過ごしなから,羽をもつようになるのです。万物の霊長という私たち人間に翼がありますか。人間には次元の高い翼があるのです。皆様も肉身を脱いで死ぬのは嫌だと言うかもしれませんが、いざ死んで肉身を脱げば、私たちの霊人体が第二の出生の恵みの関門を通過して、飛んでいくのです。
前にもお話ししたように、人間はいずれ死にます。私たちは、善なる自己を永遠の世界に第二の私として立てるために、苦労を覚悟しなければなりません。母の腹中で胎教をよく受けてこそ、健康で善良な赤ちゃんとして生まれるのと同じように、私たちの地上世界での生活も、よく準備しなければなりません。
私たち人間は、神様の形状を見習い、神様の心情を見習い、神様の聖なる神性を見習いつつ、育たなければなりません。育ってからは、また命を懸けて越えていかなければならないのです。したがって、どんなに恐ろしい暴風雨がやって来ても、私たちは最後の峠を越えなければなりません。よくやっていても、境界線の前で倒れてはいけません。
私たちがこのような人生の境界線に立つとき、私たちは果たして何をしなければならないのでしょうか。気持ちを引き締めて頑張っても、最後まで行けるかどうか分からないのに、あたふたしていれば、途中で挫折してしまうのです。最後の決勝点まで境界線を突破しなければ、勝利者になれません。人として生まれたのなら、一度やってみるだけの価値のあることです。
いくら後ろで反対し、横から迫害したとしても、自分の行く道を行けばいいのです。人の反対に関与する余地がありません。一歩ずつでも早く行って、この運命の道を通過していこうという人が、最後の境界線を越えることができるのです。私たちは、そのように行かなければなりません。
私たちはよく「心がまっすぐだ」と言います。それはどのような意味ですか。まっすぐに垂直に立ったものを「まっすぐだ」と言います。木も横に傾いたものを「まっすぐだ」とは言いません。「心がまっすぐだ」というのも同じです。垂直に立っているという意味です。それで人は立って歩くのです。垂直になってこそまっすぐなのです。
自分の心を完全に垂直になるようにしなければなりません。そこに体が水平線になるのです。このように垂直と水平が私たちの内部で形成されるとき、垂直から引っ張る力と水平から押す力がバランスを取り、求心力と遠心力が形成されるのです。ですから、私たちは、私自身を見つけなければなりません。私たちが自分自身を主張するときは、神様と真の父母にそうだと認定されなければなりません。その土台の上に私たちは親戚、一族、一国に発展させていき、私たちの生活環境を拡大していくのです。
この世で危険な伝染病の患者たちを隔離して収容するように、遠からず神様のみ旨を知っても罪をたくさん犯した人々は、隔離して北極のような寒帯地方に収容する時が来るでしょう。彼らは完全に悔い改めて改悛(かいしゅん)するその日まで、そのような所に放り出して、食べ物も寝る所もなく、大変な苦痛の道を歩むかもしれません。(*改悛:全非を悔い改め、心をいれかえること)
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Saturday Mar 05, 2022
平和経 第137話
Saturday Mar 05, 2022
Saturday Mar 05, 2022
死と闘って勝利できる希望
皆様。この世のすべてのことは過ぎ去るのです。家庭も過ぎ去り、国家も過ぎ去り、さらには世界、あるいはどのような主義や思想もすべて過ぎ去るのですが、最後まで残らなければならないものとは何でしょうか。それが正に、死と闘って勝利できる希望です。私たちにそのよう希望がないとすれば、「私たちは人生の敗北者である」と言わざるを得ないでしょう。この世には、生まれながらにしてこの世的なすべての希望を一切拒み、人間の世の希望ではない天の希望、すなわち永遠の希望を抱いて生きる人たちがいます。
天は正にこのような人々を助けているのです。ですから、信仰生活をする人々は、地上のある希望を抱いて生きるのではなく、死の峠までも乗り越えることのできる希望を抱いて、永遠の希望の世界を夢見て生きなければなりません。
私たちが若いときには、死についてあまり考えませんが、年を取るほど、死について徐々に深刻になります。ここに座っている皆様も、この場に立っているレバレンド•ムーンも、いつかは死ぬようになっています。このように死というものは、運命の関門です。
誰も避けられない道だからです。私たちが死んだのちには、果たしてどうなるのでしょうか。死という単語を使った目的とは何であるか御存じですか。生の意味を知らせるためです。生の価値は、誰がよく知っていますか。生きようと身もだえする人には分かりません。死ぬ境地に入り、生死の岐路で天にすがり、生の価値を打診したことのある人でなければ分からないのです。
それでは、私たちはなぜ死を恐れるのでしょうか。私たちはなぜ生まれたのか、その目的を知らないからです。なぜ死ぬのか、なぜ生まれたのかということを知りません。それで哲学でも最初に問う質問が、人生とは何であり、人間はなぜ生まれたのかということです。
皆様。私たちが死ぬということは、神様の愛の中に生まれることなのに、人間世界では「ああ、死ぬ!」と言って大騒ぎです。それを見る神様は、にこにこ笑われるでしょうか。それとも驚き、悲しむでしょうか。喜び、うれしく思うのです。限られた地上の愛の圏内から無制限の愛の圏内へと突入できる喜びを迎える瞬間が、肉身が死ぬ瞬間、すなわち第二の出生の瞬間だからです。
だとすれば、神様は、私たちがこの肉身世界に生まれた日を喜ばれるでしょうか。それとも第二の無限拡大世界の愛のために肉身を脱ぎ、死を通して新しい息子、娘として生まれるその時間をもっと喜ばれるでしょうか。もちろん後者です。私がこのような話をするのは、皆様が死の恐怖から解放されなければ、神様と関係を結ぶことができないという事実を知らなければならないからです。
神様は人間が生まれたときから、成長していく過程を見守り、また直接参与しながら喜ばれるのです。赤ちゃんが成長するにつれて、神様の心に動く愛の鼓動も増大するからです。
神様があるしぐさをすれば、子女たちも一緒にそのしぐさをします。神様がお笑いになれば子女たちも共に笑い、悲しまれれば共に悲しみながら、このようにだんだんと神様に似ていくのです。また、その子女たちは、成長しつつ親たちの姿に似るようになります。言葉も習い、生活規範も親たちから学ぶようになります。
もちろんこのすべてのことは、本来神様に由来したものです。だとすれば、神様が私たち人間と共にこの地球星に暮らしたのち、あの世に飛んでいくとき、私たちはどうすべきでしょうか。「ああ、私もついていきます」と言えば、「こいつ、お前は誰だ」と言いながら、神様が私たちを切り離してしまうでしょうか。それとも一緒に連れていかれるでしょうか。もちろん連れていこうとされます。ところが「今は連れていくことができないので、お前がもう少し大きくなって、もう少し完成したのちに連れていく」と言うとき、人間は「今は逝けないが、いつかは私たちも逝く時が来るだろう」と思いながら待つのです。地上で肉身をもって生きる間、人間はいつも神様に付いて回ることはできません。
真の愛のために死ぬことができなければならない
さあ、それでは何が問題でしょうか。私たちが神様に似たいと思い、神様も私たちを神様の息子、娘として御自身に似させたいという願いをもつのは当然のことです。
それで、人間は再び神様に似ることのできる体をもって生まれなければならないという結論が出てくるのです。神様と人間は共に永遠に飛び回ることのできる日を待ち望むのです。そのように飛び回ることのできる人として生まれる日、そのような体に生まれる日、その日が正に肉身を脱ぐ、死の日なのです。
だとすれば、人間は死を歓迎しなければならないでしょうか。それとも悲しまなければならないでしょうか。もちろん歓迎しなければなりません。それでは、私たちが死ぬときは何のために死ななければならないのでしょうか。神様の真の愛、すなわちために生きる愛のために死のうとしなければならないのです。ですから、肉身を脱ぐというのは、無限の神様の愛の活動圏に私たちが同参するためであり、神様の愛の世界のためだという結論になるのです。
皆様。皆様は一度、そのような真の愛を受けて実践する神様の本当の息子、娘として生まれてみたいと思いませんか。神様がお金持ちなら、どれほどお金持ちでしょうか。皆様、一度考えてみたことがありますか。無限の星の中に、ダイヤモンドの星がないと言えるでしょうか。純金でできた星がないでしょうか。神様こそ全知全能のお方です。御自分の子女たちに、何でも与えようとされないでしょうか。どうでしょうか。
神様はこの無限の宇宙を、あっという間に往来することができます。皆様も関心がありますか。それなら私たちは、どのようにしなければならないでしょうか。神様が定めてくださった法度を守らなければならないのです。そうしてこそ、神様と共にいられるのであって、私たちの勝手にしてはいけないのです。
水中、地上、天上の三時代を通過しなければならない
皆様。神様が「してはいけない、しなさい!」と言うことを守る自信がありますか。人間は二重構造になっています。心が主体であり体は対象なので、心が体に従って一つになるのではなく、体が心に従って一つにならなければならないのです。
人間はまた三段階の世界、蘇生時代、長成時代、完成時代を通過します。すなわち、母の腹中での水中時代、地球星の世界、天上の空中世界です。私たちは腹中の水の時代を経て地上に生まれ、肉身をもって百年ほど地の時代を経るようになり、最終的には飛んでいく空中時代へと三時代を通過するようになるという意味です。私たちが母の腹中にいるときは、外の世界に出ていくまいと抵抗します。その中に残ろうとします。
なぜなら、私たちが腹中から出るときは、家がみな破壊され、私たちが栄養を取って生きていたすべてのものも崩壊していきます。そうして、分娩過程を通過しながら頭も伸びなければならず、体も伸びなければならないのですから、誰がそれを好むでしょうか。生まれるその瞬間まで、みな「ノー」と言うのです。子女は、羊水がどっと出てくるその水に従って出てくれば、安産になります。母が赤ちゃんを分娩するのを見れば、本当にかわいそうです。赤ちゃんを生んだことのある母親たちは、よく分かると思います。力を入れるときは、顔がいくら美人でも、ものすごい形相で顔をしかめるので、夫さえもその顔を見ていられず、逃げていくほどです。このように、産婦も最後の瞬間まで大変な苦痛を通過したのちに、子女が生まれてくるのです。
この過程でおへそについているへその緒は、そのままにしておかなければなりませんか、それとも無慈悲に切ってしまわなければなりませんか。「それは人の命綱なのに、人と人の命綱をどうして切ってしまうのですか」と抗議する人がいるかもしれません。生まれてくる赤ちゃんも「死にそうだ」とおぎゃおぎゃと泣きじゃくります。しかし、それを見つめる神様は、喜びのほほえみを隠しきれないのです。そうなると生まれた新しい生命には一つの世界は完全になくなり、新しい一つの世界で「ふうっ!ふうっー」と息をするようになるのです。
皆様。人間は初めに生まれるとき、水の中から生まれるのです。腹中時代は水中時代です。胎児が母の胎中にいるときは、水の中に浮いています。ちょっと考えると母のおなかの中の時代では、息ができずに生きるのが大変なように感じられます。
水の中で生きているので、当然、水を飲んでは吐き出さなければならないのではないですか。そのために腹中の胎児は、ホースをおなかに連結して生きるのです。腹中の胎児は、どこを通じて栄養分を供給されるのでしょうか。おへそを通じてです。へそは腹中の胎児には口なのです。それで、私たちはおへそを冷遇してはいけません。「おへそよ、お前は昔、苦労したな」と言って触ってあげなさいというのです。おへそをよく、軽くたたいてあげると健康になります。笑い話ではありません。
そのように運動をしなさいということです。へその運動を通して健康になりなさいということです。その例として、いくら寒い部屋で寝たとしても、へそさえよく包んで寝れば下痢をしません。私たちはまた、へそを昔の口だと呼ぶこともできます。ある者は「この愚か者、昔の口がどこにあるか」と言うかもしれませんが、へそが私たちの過去の口だったことだけは間違いありません。このように私たちの呼吸器の役割もしていたへその段階が終われば、次は口だというのです。どんどん上に上がっていくのです。
同じように、この地球上で空気を呼吸して生きる肉身に宿っている私たちの霊人体は、肉身が老いてしまえば、それを捨てて外に出ようとするのです。
それなのに、その時に、肉身が「ああ、死にたくない、死にたくない」と言って悲鳴をあげるなら、神様はその姿をどのように御覧になるでしょうか。苦痛に直面したその肉身に同情されるでしょうか。あるいは静かにほほえまれるでしょうか。
大変な苦痛を甘受し、母の腹中を飛び出してきた赤ちゃんが成長して、父母の愛の対象になるように、私たちは肉身の悲鳴を振り切って、無形の父である永遠の神様の相対として再び生まれなければならないというのが、原理的な結論です。
地上世界でも子女が生まれたのちに大きくなれば、父母と友達になれるのです。父母と愛を共に分かち合うことのできる地上世界に生まれるからです。胎児が母胎の中で泳ぎ回るのと同様に、人間の地上生活は空気を吸い、空気のふろしきの中で生きるようになるのです。
そのような過程を経ながら地上でこのように父母と愛を分かち、呼吸する人であってこそ、「死なずに生きている」と言えます。同じように私たちは、霊的な無限の世界に通じる、親であられる神様と愛を分かち合ことのできる霊界に、再び生まれなければならないのです。
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Wednesday Mar 02, 2022
平和経 第136話
Wednesday Mar 02, 2022
Wednesday Mar 02, 2022
15.生死に対する理解
日付:一九九八年十二月十九日
場所:アメリカ、ワシントンDC、ワシントン•タイムズ•ビルディング
行事:一九九八世界平和宗教連合大会
尊敬する議長、世界の宗教指導者、ならびに内外の貴賓の皆様。キリストの聖誕日を前後して、各宗教では重要な日程と儀式が予定されているにもかかわらず、このように参席してくださったことに、心より感謝申し上げます。この時間をお借りして、これまで各宗教がその解答に苦しんできた問題である「人間の生と死」に対する、私の見解の一端をお伝えしようと思います。
私たちはこの地上に住んでいますが、この世界は地上だけがあるのではなく、霊界もあることを知っています。霊界は間違いなくあるのです。そして、この地上と霊界は、全く異なる二つの世界ではなく、一つの世界として連結されています。したがって、私たち人間は神様から生まれたので、いずれにせよ再び神様がおられる霊界に帰らざるを得ないのです。
死は根源の世界への回帰
皆様。韓国語ではおもしろいことに、「死ぬ」ということを「帰る」と表現します。どこに帰るというのでしょうか。これは単に墓地に行くことを言うのではありません。もともと人生が出発した、本来の場に戻るという意味です。はるかかなたの、歴史の起源を越えて帰るということです。
だからといって、韓国人として生まれたので、韓国人に帰るという意味ではありません。私たち人類始祖の根源となるその世界に帰るという意味です。すなわち創造主がいらっしゃるならば、その創造主がいらっしゃる所に帰るという意味です。そこから出発したので、そこに帰るのです。
宇宙も循環作用をします。例えば、山に積もっていた雪が解ければ、その水が小さな沢を通って流れ、さらにはいくつかの川を通って大海へと流れていきます。大海へと流れていったその水は、水蒸気となって再び帰るのです。このように循環運動を通して、より高まる所へ、より良い所へと帰ることを願うのです。
それでは、私たちが行って、永遠に生きなければならない所とはどこでしょうか。私たちは地上界で肉身生活をしていますが、心だけは永遠の世界に向かって進んでいるのです。私たちはこの世に生まれると、十代、二十代、三十代、そして中年と壮年と老年の時代を通過します。このように青春時代を過ぎて壮年時代を経て、老年の峠を越えつつ、日が沈むように人生を終えていくのです。しかし、霊界があるという事実を知っている人々は、地上で肉身をもって生きる一生はわずかなもので、死んだのち、私たちが迎えるべき世界は永遠だということをよく知っています。ですから、地上での生涯というものは、永遠の世界に行く準備をするための期間なのです。
学生を例に挙げれば、学生が一学期あるいは一学年を終えるときには、学校が定めたすべての学科の単位を取らなければならない単位の基準があるのです。その最高基準を百点とするとき、その基準にその学生の単位がどれほど到達したかという割合によって、学校の評価が決まるのです。しかし、単位が足りなければ足りないほど、その学生は学校が立てたその基準から遠ざかります。
このようにあらゆることは、ある標準を中心としてその価値を測定するようになっているのです。私たちが一生の間、肉身世界で生きるのも、あたかも学生が学校でいい点数を取るために準備する期間のようなものなのです。言い換えれば、私たちの生涯をすべて懸けて単位を取る準備期間だということになります。
すなわち、私たちの一生において責任を追及するある基準に、私たちがどれほど一致するかという基準値を中心として、私たちは日々の生涯路程を歩んでいるのです。ところが、ほとんどのこの世の人々は、本来人間がこの世に生まれて生き、求めていくべき本然の世界がどこなのかをはっきりと知らずにいるのです。すなわち死後の世界があるのかないのか、神様が存在するのかしないのかも知らずに生きているのです。
人類は一つの兄弟、一つの国民
皆様。私たちはいずれにせよ、いつかは霊界に行くようになっています。その霊界は一つの国です。地上世界のように、いくつもの国に分かれているのではありません。
だとすれば、霊界で生活する内容はどなっているのでしょうか。例えば、魚は水を離れては生きられません。魚には水が生命維持の絶対的な条件となります。だからといって、魚も一カ所だけで棲むのではありません。魚の中には淡水を離れ、海水と接するきっかけをつくって産卵する場合もあるのです。二つの世界に通じなければならないという意味です。
私たちの体と心も、このように互いに通じなければならないのです。人類歴史を互いに比較して考察してみるとき、もし私たちの先祖であるアダムが生まれた日と結婚した日、そして死んだ日を記念する世界的な統一圏が形成されていたならば、その日を記念する人類は、一つの兄弟となり、一つの民となっていたことでしょう。すなわち、一つの世界で生きる人類になり得ていたという意味です。そのようになっていたならば、アダムの生活風習は、そのまま人類歴史を通して継承され、そのとき形成された文化は人類が生存する限り、永遠に継承されていたでしょう。
人間は誰しも、いつ死ぬかを知らずに生きています。いつ交通事故に遭って死ぬかもしれないというのです。死んでから、「ああ、レバレンド•ムーンの話は正しかった!」と言って後悔する人もいるでしょう。私たちは、実はとても深刻な人生の道を歩んでいることを知らなければなりません。私たちは永遠の世界に行くための準備をするために、寸暇を惜しんで生きなければなりません。そのような運命の岐路に立っていることを、私たちは知らなければなりません。
一般的に霊界に行く人にも、二通りの人がいます。自分のもって生まれた運命のとおりに生きてから逝く人と、自分の運命のとおりに生きられずに逝く人の二種類です。自分の運命のとおりに生きられずに逝く人の中には、早く死ぬ人と、民族や世界の罪を蕩減するために代わりに逝く人たちがいます。
もし神様が千人の価値をもった一存在を中心的な立場に立て、すべての人の代わりに死の道を行かせたとすれば、千人がみなその人の恩徳に感動し、その人のために生き、その人の生涯を見習い、その人のように生きようとするでしょう。そのようになれば、人々はその人と同じ恵沢圏内に入っていくのです。人々が忠臣の思想を見習おうとし、聖賢の生き方に従おうとするのも、彼らと同じ恵沢圏内に入ろうとする欲望のためなのです。
人間の中には、希望をもって生きる人もいて、希望をもてずに生きる人もいます。この希望は、人間を中心とした希望と天を中心とした希望の二種類に大別することができます。
私たちは生まれたその日から、母の懐が何よりも一番いいものと思って大きくなりますが、ある程度大きくなれば、母の懐を離れるようになります。私たちはまた、成長しつつ友達と付き合い、友達こそこの世で一番いいものと思って過ごしますが、いつかはその友達とも別れていくのです。このように人間は成長しながら、愛する親も愛する夫婦も愛する兄弟も、さらには愛する子女も自分の希望のすべてにはなれないという事実を知るに至るのです。
人間は、いつも多くのことを希望します。しかし、その希望する心も結局は消えてしまいます。家庭に対する希望、国家に対する希望、さらには世界に対する希望をもっていますが、年齢を重ねるにつれて、希望する心もだんだん弱くなっていくのです。
事実、多くの人々は自分たちの希望を全体的な希望として誇り、自分の生命を失うようなことがあったとしても、その希望を捨てることができないという確固たる信念をもてずにいるのです。私たちは一生の間、あらゆる希望を抱いて生きますが、結局、死に直面して、自分が抱いていた希望のすべてを捨てて逝ってしまうというのです。私たちは、きょうも生きることを願い、あすも生きることを願い、新たな希望を求めてさまよっていますが、死に直面するときには、そのすべての希望をあとにして、最期の道を行くのです。この事実を私たちはよく知っています。
人間は自分を中心として見るときは、希望をもっているようですが、死の峠を越えることのできる希望をもってはいないのです。私たちが人生観として、死さえも乗り越えることのできる一つの希望を見つけなければならないのが、今日、この地上に生きている人間たちが考えるべき重要な問題なのです。
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Wednesday Mar 02, 2022
平和経 第135話
Wednesday Mar 02, 2022
Wednesday Mar 02, 2022
堕落と復帰
今日の現実はどうですか。戦争と葛藤、暴力と麻薬など、あらゆる不正と弊害が人類を不安にさせています。より一層深刻なのは、若者たちの性道徳が急激に崩れ、離婚率が急増して、幼い未婚の母の問題と家庭破壊が、人類社会の根底を揺るがしているということです。これはすべて、堕落に起因したものです。アダムとエバが、成長期間に純粋な愛の理想を汚したためです。エバが、蛇すなわちサタンによって果実を取って食べたということは、エバが原理を外れた愛の行為で堕落したことを象徴します。
アダムとエバは、愛する父母であられる神様を不信し、結果的にサタンに対して従順となり、偽りの夫婦になり、偽りの父母から人類歴史がスタートするようになったのです。彼らの子孫は暴力と殺人、罪と苦痛の中に陥る結果を招いてしまいました。このようにアダム家庭から人類が受け継いだ遺産は、罪と偽り、不浄な愛、暴力、殺人などでした。今は終末を迎えて、アダムとエバが蒔いた種の結果が、世の中に満開になって実を結んでいるのを見ることができます。神様の心情はどれほど悲しいでしょうか。
神様はどのようにしてでも、本来計画された真の愛の理想を回復されなければなりません。神様の救援摂理のために宗教をお立てになり、善の版図を広めてきました。神様が送られるメシヤは、この復帰摂理を完結する総責任を負って来られるお方です。ですから、メシヤは真の父母として来られなければなりません。真の父母の使命は、人類を真の愛で重生させて真の人に回復させ、真の夫婦となり真の父母になるようにすることです。
宗教の責任
神様のみ旨に逆行する世界の問題は、誰が収拾しなければなりませんか。不正と罪と苦痛の現実を変える責任は、宗教指導者たちが引き受けなければなりません。私は神様の召命を受けた日から、この責任に自分自身を捧げてきました。私は、原理と摂理の道を徹底して守りながら、人類の具体的な人生に時間と空間を超越して深々と浸透してきた悪に向かって、挑戦してきました。私はいつも、私自身と自らのすべての基盤を使って、他の宗教と世界の偉大な宗教指導者たちと協力を図ることに最善を尽くしました。そのようにする間、一度も神様に対する責任を果たさなかったことはありません。
「世界平和宗教連合」の創設を主唱した一九九〇年の「世界宗教議会」(サンフランシスコ)において、神様の創造目的、真の愛の根本、そして真の父母の役割を説明しました。社会倫理を正しく立て直して退廃文化を一掃し、真の愛と真の父母主義を実践しようと訴えました。真の愛による理想家庭を取り戻し、社会倫理を正しく立て直すことは、この時代の宗教指導者たちに賦与された貴重な責任です。
また、宗教指導者たちは、世の中の不法と不正などをなくすために先頭に立つ責任があります。世界的に澎湃(ほうはい)した不法と不平等、不条理を傍観したまま、宗教だけが理想郷に向かって現実の泥沼を抜け出すことはできないのです。儀式に溺れた信仰から生活信仰に変え、人間がその精神的荒廃から本性を取り戻せるよう、宗教者が模範を見せなければならないと思います。
そして、宗教指導者たちは他の人々のために、無制限の犠牲的生活を送り、またそのままそれを教えなければならない責任があると思います。まだこの世界には貧困と飢餓状態にある人が大勢いて、不平等が深刻化しています。これに対する宗教者の責任は、非常に大きいといえます。
私は過去二十年間、海洋資源の開発のために直接先頭に立って船に乗り、物心両面で多くを投入しながら努力しました。高蛋白質のフィッシュ•パウダー(魚粉)を開発することに成功し、人体に大切な製品を研究し、開発することを続けています。このすべての成果は、既に「国際救護親善財団」(IRFF)を通して、アフリカなどの地に効果的に支援されています。そして、今年初めから、ブラジル、パラグアイ、ウルグアイ、アルゼンチンの四ヵ国に広い土地を準備し、「新しい希望農場」を始めました。地球上から飢えの惨状をなくすという私の決意を実践しています。農業開発と海洋企業を通して食糧を生産し、低開発国家を支援することに、教団が互いに連合し協力すべきだと思います。教団が先導するこのような人的物的投資を通して、真の愛が実践されれば、世界に希望を与えることができると思うのです。
神様の真の愛による投入と注入がなかったなら、宇宙は生じませんでした。宇宙の存在法則は、主体が対象のために生きることです。ところが、堕落した世界では、主体が対象のために生きるのではなく、むしろ自己中心に利用しようとするので、滅びるのです。宗教は相手を先に喜ばせたあとに、自分が喜ぼうとする天理原則を教育し、実践しなければなりません。
尊敬する宗教界の指導者の皆様。「世界平和宗教連合」は宗教間の和合と世界平和のために、建設的に一緒に仕事をしていかなければなりません。「世界平和宗教連合」が世界の良心のような機能を果たさなければならないのです。政治、経済、教育など、世界の各界の指導者たちに助言し、指導するだけでなく、模範を示すべきでしょう。偉大な宗教は迫害と殉教の土壌の上に立てられ、創始者の貴い伝統基盤の上に立ったので、私たちは、犠牲を忌避することなく宗教本来の名誉を探し立てなければなりません。
最後に、私は今回の「世界平和宗教連合」の議会が、理想世界の実現のための宗教の責任に対する深い議論とともに、大きな成果を上げるだろうと思います。皆様と皆様の家庭、そして皆様が行われることに、神様の祝福が常に共にあることを願います。ありがとうございました。
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Wednesday Mar 02, 2022
平和経 第134話
Wednesday Mar 02, 2022
Wednesday Mar 02, 2022
14.宗教と理想世界
日付:一九九五年八月二十一日
場所:韓国、ソウル、ヒルトン•ホテル
行事:「世界平和宗教連合」第三回世界大会
尊敬する全世界の各教団の最高指導者の皆様。国内外の貴賓、宗教界の学者、そして宗教指導者の皆様。韓鶴子総裁と私は、皆様を温かく歓迎するとともに、皆様が韓国にとどまる間、満ち足りた時間をもつことを願います。
世界の宗教の核心主題は理想世界
「世界平和宗教連合」の第三回世界大会の主題は「理想世界の実現と世界の宗教の責任」です。「理想世界」は、今まで世界のあらゆる宗教の核心主題でした。各宗教は悪の実体を認め、悪と無知の世界に対する代案を教えています。この代案の世界が正に理想世界なのです。
理想を追求するのは、単に宗教にだけ限定された現象ではありません。なぜなら、全人類は宗教性を離れても理想を追求しており、理想の実現が不可能なときでさえ理想を追求しているからです。
しかし、どのような努力と立派な意図があるとしても、天の法度に背いてこれを追求するならば、何の効果もなく、かえって害になる結果をもたらすようになるでしょう。ですから、神様をはっきりと知り、創造理想とそのみ旨を明確に知らなければなりません。
私たちは、誤った理想の追求がもたらした悲劇を、無神論的共産主義によって胎動された、今世紀の様々な災難を通して明確に経験しました。共産主義は、神様を否定し、神様がいない理想的な人間社会をつくろうとした空想的な社会運動でした。民主体制は、共産主義より優れてはいますが、民主体制もまた、神様の摂理を無視するとすれば、継続して腐敗し、衰退してしまうでしょう。
善の道と神様の法度は一つであり、同一です。人間の善と理想は偉大な神様と直接的な関係なしには、成就することも維持されることもできません。このような理由で、どこの誰でも理想を追求するとすれば、神様のみ旨と宗教の重要性を理解しなければならないと言うことができます。
私は幼い頃から、人生と宇宙の根本的な疑問に対する答えを探し出そうと必死に努力してきました。私は、神様が理想の実現が不可能で、罪と苦難、そして不和がいつも猛威を振るう世界を創造されたとは、信じることができませんでした。私は、私が経験する世界がなぜこのように悪で満ちているのか、理解できませんでした。私の青少年期の経験を詳しく皆様にお話し申し上げる時間はありません。私の青年時代は真理に向かう渇望に満ちていたと話すことで十分でしょう。
私が明らかにした「統一原理」は、平凡に得られたものではありません。「統一原理」の根本は、徹底的な祈りの中で、霊界の聖人や賢人たちとの交流は言うまでもなく、神様との深い交わりから見いだしたものです。サタンとの血みどろの闘いを通して得た勝利なのです。私はこの「統一原理」を教えて実践するために、生涯の一瞬一瞬を捧げています。「統一原理」は全世界に伝播され、人をして、生きていらっしゃる神様と新しい関係を結ばせ、その人生を変化させています。
神様の理想と真の愛の家庭
私たち人間は、神様によって創造されたので、理想世界に向かう熱い望みをもって生まれました。「理想世界」と言うとき、その「理想」とは、本来神様に由来したものです。神様は、権力や栄光、あるいは富のために世の中を創造したのではありません。神様は、権力や栄光、富に対する欲望はありません。しかし、神様は、いかなる欲望ももたないというのは、正しくありません。神様は真の愛の本体としていらっしゃいます。愛を体恤するためには、神様も関係を結ばなければならないからです。真の愛の体恤は、主体と対象の関係を通した経験でのみ可能です。どのような存在も、独りで孤立していては、愛を感じることができないのです。
愛の関係は、自由に与え合うことができる存在だけが結べます。神様は、神様と自由に愛を与え合うことのできる存在、すなわち神様の愛の完全な対象体として人間を創造されました。人間は、真の愛の主体性をもつように創造された、神様の息子と娘です。ですから、神様は人間の真の父母でいらっしゃいます。神様は人間を神様の真の愛に同参させ、その愛を相続する存在として立て、その垣根として万物世界を創造されました。神様と人間はすべて、真の愛を通して最高の喜びと幸福を経験できるのです。
神様は、アダムとエバが真の愛を中心として純粋に成長し、真の人になることを希望されました。神様は、彼らの生物的な成長と栄養供給のために、環境を満遍なく、あらかじめ備えておかれました。しかし、神様のより深い関心は、人間の内的性稟と人格にありました。彼らは愛の経験を通して、神様の真の愛に似て完成するのです。神様は、愛の力を内的であり非物質的な力の中で、最も強力なものとして創造されました。そのような愛の力を、神様の愛と神様の法度の中で体恤するということは、人間が神様に似て一体となり、完成するということです。神様の愛が、人間の幸福と生命と理想の源泉になる理由も、ここにあります。
アダムとエバは、神様の愛の中で真の人になったのちに、お互いが真の愛で真の夫婦になり、それから子女をもって真の父母になるようになっています。人間が神様の利他的で無条件的な父母の愛を伝授された人格完成体となるとき、真の父母になります。
人間は成長期間を通して、神様の真の愛を段階的に体得します。生活の中の経験を通して、父母の愛、夫婦の愛、兄弟の愛、子女の愛を順次的に体得するようになっているのです。この四種類の愛と心情がとどまる基台が家庭なので、家庭は人間の愛と幸福、そして生命と血統の基地になるのです。このように真の愛の家庭は、人間の願いであると同時に、神様の創造目的の根本でもあります。人間の個体や家庭、そして社会や環境の真の完成は、家庭の中で真の愛の具現にその根を置いています。神様の真の愛の実体となった人間は、神様のみ旨に背いたり、他の人を侵害したり、または万物世界を悪用することができなくなります。
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Wednesday Mar 02, 2022
平和経 第133話
Wednesday Mar 02, 2022
Wednesday Mar 02, 2022
神様の真の愛は投入して、また投入しても、その投入したことを忘れる愛です。神様御自身も愛の相対を創造されるとき、神様御自身がために生きる立場に立って、御自身が所有しているすべてを百パーセント投入して、また千パーセント、万パーセントをさらに投入したいと思うのです。なぜなら、愛の相対と愛する子女は、自分よりも優秀なことを望むからです。このように真の愛が行く道は、与えてまた与える道です。真の愛の化身体である真の父母が行く道も、他から受けようとする道ではなく、人のために犠牲になる道です。
神様の救援摂理のために立てた宗教が見本を示すべき道も、この一つの原理です。人の生命は愛の理想を中心として育まれたものなので、人間の生命の本質は愛です。
ですから、愛を本質として生まれた生命は、神様がそうであられたように、ために生きる生活を送らなければならないのが天理です。それで人間は、真の愛のために生まれた存在だと言うことができます。真の愛はために生きるところから始まります。
創造本然の人間は、その心と体に神様の真の愛を備え、それにそのまま感応しながら生活するようになっています。言い換えれば、心は真の愛を中心として神様に感応し、体はその心に自動的に共鳴するのです。心と体が闘うことのない真の統一の起源は、神様の真の愛をそのまま受け継いで体感するところにあります。
心と体が統一体になる人間の理想は、神様の真の愛を完全に所有するときに成し遂げられるのです。心と体が真の愛を中心として統一されるところから、真の自由と平和の理想が出発できるようになります。そして、心と体が統一された基盤の上で、自由で平和な個人、家庭、氏族、民族、国家、世界を成し遂げることができるのです。ですから、世界と国家の中においてではなく、個人の心と体の間において平和の基点を探さなければなりません。
尊敬する宗教界の指導者の皆様。昨日は世界全域から集まった三万以上のカップルが神聖な祝福を受け、神様を中心とした新しい家庭の伝統確立を誓いました。皆様も参観しましたが、その行事がある一教団の重要な結婚儀式とだけ考えてよいでしょうか。性道徳の紊乱、青少年の脱線、そして家庭破綻で社会がその根元から揺れる現実を、何によって解決しますか。
サタンと人間始祖がばらまいた不倫が歴史的に実を結んでくるとともに、天道と人倫を破壊し、人間を獣にする地上地獄の終末的現象が起きているのです。このような悲劇は、不倫が美化されるようなフリーセックスを容認する風潮や、極端な利己主義により一層深刻化しつつあります。現実世界は精神的、道徳的に深刻な危機に置かれており、秩序正しい家庭が崩壊するだけでなく、次世代を担当する青少年の心と体を害しています。
家庭は創造理想の基本単位
このような人類の危機は、神様の真の愛と真の生命の主人であられるメシヤ、真の父母様を通してのみ解決されます。神様が願われる結婚観は、世の中の風潮に反して、神様のみ前に永遠の一夫一婦制、愛と性の尊厳、神様の祝福、そして子孫のための結婚を強調します。世界百六十ヵ国以上で人種と国境を越えて、神様の愛を中心として永遠の夫婦と家庭理想を成し遂げようとするこの運動は、人類の明るい未来であり、希望なのです。
神様の創造理想の基本単位は家庭です。家庭は、国家と社会を形成する基礎になります。人種を超越した神様の真の愛によって、世界一家族理想は平和世界の具現と直結します。人類は、神様の真の愛の理想のもとで祝福家庭をつくり、模範となる夫と妻になるとき、善の子女をもって正しい倫理を実践することができるのです。
このようになるとき、真の愛が実を結ぶ理想的な家庭が完成し、理想的な社会、国家、世界を形成していくことができます。そして、国際合同結婚行事を通して本然の家庭を復帰することによって、現代社会の慢性的な弊害を根本的に解決していきつつあるのです。
世界から来てくださった宗教界の指導者の皆様。今、宗教が世の中でその指導力を発揮する時になりました。指導力とは、盲信的で、かつ偏狭から来る傲慢で独善的な態度からは出てくることはできません。真の指導力は、天のみ旨に自分を従属させ、利他的であるときに生じるのです。宗教者たちは、この時代の状況と様々な非道に対して責任を感じ、深い自己省察がなければならない時だと思います。
今まで宗教者たちは、愛の実践において手本になることができず、自分個人の救援や宗派の利益に汲々とするあまり、全世界の救援のために尽力できなかったことを悔い改めなければなりません。今こそ、信仰だけでなく愛の実践が求められている時です。神様は私たちを呼んでいらっしゃいます。世の中の不義と罪悪に挑戦し、真の愛を施すことを熱望していらっしゃるというのです。
すべての宗教が一心になって、神様の人類に対する熱望を代弁して実行しなければなりません。信じる者たちは儀式や教理の論争を越え、生きていらっしゃる神様との深い霊的対話と交流を通して心霊が成長することを、神様は望んでいらっしゃいます。
宗教は、情熱をもった人間が関係を結ぶべき霊的秩序を確立し、これを制度化して論理的に表現する人生の形態を、この世の中に創造しなければなりません。宗教指導者たちは自らの浄化の先頭に立ち、さらに他教団の指導者たちと互いに尊重し合いながら、影響力のある宗教協力体を育てていかなければなりません。
教団間の和合を通した世界平和の実現
尊敬する宗教界指導者の皆様。私は昨年、「世界平和宗教連合」を創設するときまで、千辛万苦の困難を乗り越えてきました。誰も果たすことができなかった教団間の大和合と神様のみ旨を中心とした世界平和の実現という目標をおいて、私は四十年以上、ために生き、与える献身の路程を歩みました。
特に世界各国の偏狭な一部教団の迫害と歴代政権の無理解の中でも、終始一貫した歩みによって、超教派運動をはじめとして、超宗派的な神学校設立、世界的な新しい教会一致運動、世界宗教協議会活動、『世界経典』刊行、教団間の和合のための様々な会議の持続的な支援、世界宗教議会創設など、私ができることは、これまであらゆる犠牲を顧みず、すべて行ってきました。
私はこのようにして、何をしようというのでしょうか。私の宗教議会開催も、「世界平和宗教連合」の組織活動もすべて、人類の父母であられる神様のみ旨を成し遂げてさしあげようという一念なのです。私が願うことは、自覚された宗教指導者、学者の皆様と共に、神様と人類の希望を地上に実現することしかありません。
今、ここから私たちが一段階さらに進んでいく道は、教団間の和合に満足せず、学会、政界、言論界等の社会指導者と共に、世界平和のための汎統一機構を構成し、より積極的な対社会活動をすることです。宗教は、この機構が神様のみ旨を地上に実現できるように教育し、率先しながら、ために生きる道において模範にならなければなりません。
私たちは、もう一度、心霊を高め、天の声に耳を傾け、謙虚な姿勢で神様の勧告に従いましょう。そうして、神様がこの時代の宗教指導者たちに任せた使命を自覚し、人類の心霊を正しく指導して、新しい文化世界に霊的、精神的秩序を確立しなければなりません。
今回の会議が人間的な見識の次元を越えて、天の知恵を中心とした討議になることを願います。大会議長として組織と運営に模範を見せたシリア東方正教会のグレゴリウス司教の献身に敬意を表しながら、分科議長団と代表の皆様の労苦に感謝を申し上げます。皆様と皆様の教団と家庭の上に、神様の祝福が共にあることを祈りながら、私のお話を終えようと思います。ありがとうございました。
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Wednesday Mar 02, 2022
平和経 第132話
Wednesday Mar 02, 2022
Wednesday Mar 02, 2022
13.新文化創建と宗教の役割
日付:一九九二年八月二十六日
場所:韓国、ソウル、インターコンチネンタル•ホテル
行事:第三回「世界宗教議会」
尊敬する各教団の最高指導者の皆様。各国から来られた宗教学者と宗教界の指導者、そして満場の宗教者の皆様。第三回「世界宗教議会」に参席してくださったことを歓迎しながら、韓鶴子女史と私の祖国である韓国、ソウルで皆様を迎えるようになったことを、うれしく思います。皆様が韓国にとどまられる間、満ち足りた有益な時間をもたれるよう祈ります。
宗教が追求してきた道
今回の会議は第三回「世界宗教議会」です。一九八五年に開催された第一回会議において、私は「世界宗教青年奉仕団」を創立し、また「世界宗教協議会」の最初の会議を発表したことがあります。
私が毎年支援しているこのプロジェクトは、昨年に発刊した『世界経典』とともに、全世界の宗教間の和合運動の最前線となってきました。特に各教団の青年代表たちが一カ所に集まって献身し、奉仕しながら他教団を理解し、和合の足場をつくったことは、幸いにも人類の未来のためになる伝統を立てました。
第二回会議は一九九〇年、アメリカのサンフランシスコで開かれ、正にその場で「世界平和宗教連合」を創設することを発表したのです。その翌年である一九九一年八月、ソウルで歴史的な「世界平和宗教連合|の創設大会がありました。そうして、今年には「国際宗教財団」とともに「世界平和宗教連合」が会議を共同開催するに至ったのです。
皆様が御存じのように、今回の大会は第一回「世界文化体育大典」の一環として行われることになります。ソウルオリンピックが開催された今から四年前、私は地球村の和合と交流協力の新しいぺージを開く「世界文化体育大典」に関する計画を公式的に発表しました。オリンピックは、大変重要な役割を果たしていますが、神様と縦的な価値および霊的な面が欠如しています。
宗教は、文化の中心なので、「世界宗教議会」と「世界平和宗教連合」は、「世界文化体育大典」の中心に位置するようになります。宗教的理想とその知恵と価値が、世界の中の教育、学問、芸術、体育、言論、政治、経済の根幹となり、その基準にならなければなりません。
「世界文化体育大典」は、人類の精神文化を収拾し、人間の幸福のための真の価値を取り戻し、神様と人間と万物が調和された平和的な新しい文化世界を志向する歴史的な行事になるでしょう。
平和と幸福の世界を取り戻してきた道
尊敬する宗教界の指導者の皆様。私たちの世界が深刻な苦痛に陥っていることは、周知の事実です。たとえ冷戦は終わったとしても、世界随所で依然として紛争が起こっており、罪悪と憎悪と不義が猛威を振るっています。
物質的に豊かな先進国でも、絶望と霊的な貧困の中で苦痛を受ける人々が大勢います。多くの人々は麻薬と無分別なセックスの中に快楽を見いだそうとしますが、霊肉両面で破滅の道を突き進んでいます。誰がこのような罪悪と戦争と絶望の世界を望みましたか。誰も願いませんでした。
人類の本性は、どうすればこのような不幸を清算して、平和と幸福にあふれる世界を成し遂げることができるかという問題の解答を求めてきました。宗教が追求してきた道が、正にこの道ではありませんか。しかし、いまだに人類が願ってきた理想世界は実現されていないというのです。宗教の核心には、人類の不幸と苦痛の根源を明らかにしようとする欲求があります。私たちが苦痛の根源に対して無知ならば、苦痛をなくすことができる希望さえないのです。しかし、この問題の解決は、神様の啓示による知恵をもってのみ可能なことなのです。
人間は真の愛のために生まれた存在
私はきょう、この問題に関する根本的な原因を明らかにし、その解答を提示しようと思います。神様は、人間始祖アダムとエバを造られて、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」(創世記一・二八)という三大祝福を下さいました。
第一の祝福である「生めよ」というのは、すべての人間が成長して、神様を中心として完成した人格者になりなさいという意味でした。第二の祝福は、完成した男性と女性が真の夫婦となり、子女を生んで真の父母の道理を果たしながら、理想家庭を成し遂げなさいということでした。第三の祝福は、人間が神様から許諾された環境の中で、不便や不足のない地上天国の環境を所有しなさいということでした。
真の愛の本体であられる神様は、愛の対象であり子女として造られた人間が、真の愛の完成体となり、その次に真の愛による夫婦の理想を成し遂げて、天国の環境をもつことを願いました。
しかし、不幸にもアダムとエバは、神様が祝福として下さった愛を完成する前、未成熟の段階で非原理的な愛で堕落し、エデンの園から追い出されてしまいました。そうして、生命の根源である真の愛と本来の神聖な資質を失った人間始祖は、神様の祝福によらずに、サタンの愛を中心として結婚生活を始め、サタンの愛と生命と血統を、子々孫々に相続するようになったのです。
神様は、人間の堕落によって成し遂げることができなかった創造目的を原状回復し、人間を不幸から救援しようというみ意を抱かれ、宗教を立てて指導してこられたのです。したがって、神様は全人類を生み変えるために、偽りの父母になったアダムとエバに代わってメシヤ、すなわち真の父母をお送りにならなければならないのです。
神様の摂理の究極的、不変の目的は、真の父母を探し立てることです。真の父母は、真の愛の化身体であり、真の生命の種として来られます。真の父母から真の家庭が始まり、この家庭は、復帰されるべきすべての家庭の標本となるのです。
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Wednesday Mar 02, 2022
平和経 第131話
Wednesday Mar 02, 2022
Wednesday Mar 02, 2022
12.平和世界のための宗教の使命
日付:一九九一年八月二十七日
場所:韓国、ソウル、リトル•エンジェルス芸術会館
行事:「世界平和宗教連合」創設大会
尊敬する各教団の最高指導者の皆様。世界各国から来られた宗教学者と宗教界の指導者、そして満場の宗教者の皆様。私は一九八五年、アメリカのニュージャージー州で開催された第一回「世界宗教議会」の際に、創始者演説を通して三つのお願いをしました。
一つ目は、各宗教の伝統は互いに尊重しなければならず、少なくとも宗教相互間の衝突や紛争を防止するために努力すること、二つ目に、私たちは、宗教共同体として協力しながら世界に奉仕すること、三つ目は、宗教の使命を完遂するために、すべての宗教指導者が参席し、世界平和のための一つの組織として発展しようという内容でした。そして、ちょうど一年前、アメリカのサンフランシスコで開かれた第二回「世界宗教議会」において、私は「世界平和宗教連合」の創設を主唱しました。皆様を含めた志のある宗教界の指導者たちの協力とともに、きょうこの場において、世界のあらゆる宗教の指導者たちが同参し、世界平和のための宗教連合体が歴史的な誕生を迎えるのです。
今は、世界の宗教が世界平和の実現のための中心的責任を果たすために、積極的な実践の道に立ち上がるときです。幸福な人類の未来は、物質的繁栄を追求することだけで実現されるのではなく、宗教間の理解、精神的な和合を通して思想と文化、人種間の葛藤を克服してこそ迎えられるのです。ここで私は、「平和世界のための宗教の使命」という主題でお話しし、「世界平和宗教連合」の創設メッセージに代えようと思います。
神様の真の愛を中心とした、他のために存在する利他主義的創造理想とは、心と体が調和一体をなした理想体としての個人を通して、理想的な家庭、社会、国家、さらには理想世界を成し遂げるというものです。しかし、人間は堕落することによって、その心と体がサタンの偽りの愛を受け、自分を第一と考える個人となり、このような人々が集まった家庭、社会、国家、世界は、立体的に増幅された葛藤と紛争を自体の矛盾としてもち、相互不信と分裂、闘争をするようになるのです。言い換えれば、サタンの願いである自己中心主義によって、民主世界は個人第一主義化され、サタンと人類は滅亡に向かうのです。これを救うために、神様の真の愛を中心とした「頭翼思想」と「神主義」が必要なのです。
私たちの社会と世界の紛争が、サタンの偽りの愛による個体の中の心身の葛藤から始まったので、真の平和は、神様の真の愛によって、まず個体の中の和合統一を通してのみ達成されるのです。平和世界を実現すべき基地は世界ではありません。心と体がサタンの主管圏を超えて、神様の真の愛で調和一体を成し遂げた個人、さらにそのような男性と女性が夫婦として結合した家庭が、すなわち世界平和を生み出す場になります。偽りの愛によって心と体が一体化できなかった堕落の結果は、私たちをして生活の中で縦横、多方面で心的な面と体的な面との分裂、葛藤、混沌を経験させます。例えば、個人や社会の価値の体系が、精神と物質、宗教と科学、唯心論と唯物論、理想と現実の間で、多くの混乱を経てきました。
創造理想によれば、心と体が理想的な神様の真の愛によって、個体の中で和合一体を形成するように、心と体の拡大の連結である心的世界と体的世界も、相克や闘争の関係ではなく、神様の真の愛で調和しなければなりません。心的世界を代表するものが宗教と思想の領域ならば、体的世界を代表するのは政治と経済の領域です。しかし、人間において心が主体であり体が対象であるように、宗教と政治の関係も、主体と対象の立場において、神様の真の愛で調和統一圏を成し遂げてこそ、理想社会が到来するようになるのです。
それでは、神様が聖人や預言者たちを地上に送られた目的とは何でしょうか。神様が願われる人格と生活の手本を見せながら、神様の真の愛のみ旨を万民に教育することです。特に、為政者や指導者たちに天道を教育し、実践させることによって、心の世界と体の世界が、神様の真の愛のみ旨を中心として和合するためです。
しかし、良心が願うとおりに体がついていかないように、多くの為政者たちは聖人や賢人を理解できず、その教えを受けずに警告を黙殺してきました。価値観の混乱、道徳的腐敗、麻薬中毒、テロ、人種差別など、現代社会の惨状と病弊に誰が責任をもてるでしょうか。
特に、いつの時よりも多元化した社会、また国際的に互いにもつれ合っているこの時代に、政治家たちの判断と選択に伴う責任はどれほど重大でしょうか。為政者たちが重要な事案を決定するときは、謙虚に天から聞こえてくる声に耳を傾け、天道に従って解決の道を探し求めていかなければならないと思います。
一方、私たちは、心の世界を代表する宗教自体が、平和世界を成し遂げるための主体的責任を全うできなかったことを反省しなければならないと思います。宗教が現実世界を指導し浄化する生命力をもつことができず、むしろ本来の使命に逆行していることを否定できないはずです。
各宗教は、神様の真の愛で内的純粋性と生命力を蘇生させなければならず、また果敢な自己改革とともに、神様の真の愛のみ旨の中において、兄弟宗教たちと一つの家族のように調和した関係を発展させていかなければなりません。神様とそのお方の真の愛の大きなみ旨に献身することが各教の使命ならば、教団自体だけの発展が宗教の目的になることはできません。神様は、経典研究と宗教的儀式よりは、神様の世界を救援しようとする大きなみ旨を知って、それを生活の中で実践することを求められます。長い間、宗教は、生きていらっしゃる神様をはっきりと目撃し、関係を結ぶことに失敗してきました。
私が知っている神様は、人間が論理を整えて集大成した教理の内容に執着されません。神様は、私たちすべての父母であられ、根源者であられるので、真の愛を中心として人種と宗派と文化を超越していらっしゃり、差別をしません。ですから、宗教者は、当然、万民救援とともに平和理想世界を実現しようという神様の真の愛のみ旨に、完全に従わなければなりません。宗教は、現実に安住することなく、生きていらっしゃる神様と共に、真の愛と真の生命力のある対話を行っていく、生きた信仰の道に進まなければなりません。
今の宗教的雰囲気ではいけません。新しい次元において、超宗教運動の推進力を通して、全世界的規模で破格の変革が要請されるのです。神様の真の愛の実践に誠実でない宗教者たちの偽善が、この地上に無神論者の拡散をもたらしました。
世の中は変わらなければなりません。各宗教は自浄努力で、新しい改革の主役にならなければなりません。すべての宗教は自らの利益を離れ、神様が願う世界救援のみ旨に従って、世の中の貧困と疾病と犯罪をなくすことにおいて先頭に立ち、終わりの日の暗黒世界に光明な光になって、政治、経済、社会の各界指導者を訓導しなければなりません。
尊敬する宗教界指導者の皆様。私は、神様の摂理の方向に従って世界を改革し、地上に神様の真の愛の理想を回復することに、あらゆる精誠を尽くしてきました。「国際宗教財団」(IRF)を中心として世界的に展開した「新超宗派研究協会」(NewERA)、「世界宗教協議会」(CWR)、「超教派牧師会議」(ICC)、「世界宗教議会」(AWR)、「世界宗教青年セミナー」(YSWR)、「青年宗教者奉仕団」(RYS)等の活動を通して、教団間の理解と和合と宗教者がすべき神様の真の愛の実践の手本を示しながら、平和世界理想のために尽力しています。五年前に世界の宗教指導者の合意と私の指示によって、今回出版した『世界経典』は、世界宗教の普遍的価値の内容が集大成された神聖な経典として、人類の心霊を照らしてくれる最高の光になるでしょう。特に一つの地球村家族として和合して暮らすべき青少年たちに、宗教と皮膚の色と文化の塀を跳び越えることができるように教育する、大切な教科書になるでしょう。
すべての人は、この経典を通して宗教的な無知と独善から抜け出すだけでなく、宗教の相互間には差別性より普遍的基台と共通性がはるかに多い、という事実を悟るようになると信じます。これまで『世界経典』の出版のために苦労してくださった各教団の監修委員と学者の皆様に、この場を借りて感謝と称賛を捧げます。
私は、世界平和のための心的であり主体的である「世界平和宗教連合」の創設に続き、あすには体的であり対象的である「世界平和連合」を本芸術会館で創設する予定であり、このために全世界から指導者たちが到着しています。この二つの機構が内外に調和、協力しながら、天意に従って真の愛で統一を実践するならば、平和世界は実現されるでしょう。ここに、神様の真の愛によって、心と体の統一と世界を越えて宗教と政治が統一されることによって、平和の世界が訪れるのです。
尊敬する宗教界の指導者の皆様。私たちが真実の目でこの時代を見つめるとき、今こそ宗教者の信仰だけでなく、実践の行動まで求められる切迫した時であることを知るようになります。
人種間の紛争や宗教戦争などの不幸な闘争をはじめとして、無神論、快楽主義、世俗的人本主義、そして真の宗教に対する歪曲などが蔓延することによって、引き起こされたこの世界の問題は真に深刻です。西側社会においては、共産無神論が立つ場所を失ったと安心する風潮もありますが、これは本質を知らずに下した速断です。神様を中心とした新しい真の愛の覚醒運動が、社会全般にわたって起きない限り、西欧社会が中心となった現代文明の没落は、共産圏の没落よりもさらに悲惨な形で近づくでしょう。世界をこのまま放置できません。時間がありません。誰がこの世代に責任をもつことができるでしょうか。軍人でも政治家でも科学技術者でもありません。正に、私たち宗教界が責任を負わなければなりません。
私は皆様の積極的な協力を要請します。「世界平和宗教連合」の運動を通して、歴史的な伝統宗教が調和しながら、世界平和に向かう実践運動として前進するとき、世の中を導いていく精神的基礎が固く立てられ、神様の真の愛を中心とした平和理想は完成されるでしょう。結局、全世界の宗教界が統一された方向をもつとき、統一された平和世界は到来するのです。
「世界平和宗教連合」の未来と各教団を代表した皆様と皆様の家庭に、神様の御加護があるとともに、皆様が世界平和を増進させる真の愛の人になることを祈りながら、これで終わりたいと思います。ありがとうございます。
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