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Thursday Mar 31, 2022
平和経 第166話
Thursday Mar 31, 2022
Thursday Mar 31, 2022
今日、アメリカだけでなく全世界において、青少年の脱線と堕落は健全な社会を脅かしています。世界は、人間の努力と人間愛では収拾できない終末的な状況に到達したというのです。ですから、必ず新しい運動が起こらなければなりません。誤ったことを清算してしまい、本来の基準で出発しなければなりません。
そのような意味で、歴史とは本然の理想世界に向かって古いものを清算し、新しいものを再創造していく再創造復帰摂理歴史です。ですから、古いものと新しいものがぶつかるのです。今まで、個人が家庭を好きなように立ててきましたが、これからはそのように立ててはいけません。そのような時代に私たちは立っているのです。
多くの宗教の創始者の中で、イエス様は、特に家庭に関して深刻なみ言を多く語られました。イエス様は、神様をどのような方だとおっしゃいましたか。「神様は私の父であられる」とおっしゃったのです。創造主である神様と人間の関係を、父母と子女の関係であると説いたのです。さらに、自分は神様のひとり子だと言いました。
これは、イエス様が神様の最初の息子であり、一人息子であるということです。
神様が愛の本体であるとすれば、人間とは父子の関係とならざるを得ません。ですから、私たち人間と創造主の関係は、単純な造物主と被造物の関係を飛び越え、真の愛、真の生命、真の血統によって連結された関係となるのです。
神様を中心とした家庭を築くことがイエス様の願い
また、イエス様は「私は新郎であり、あなたがたは新婦である」という立場で語られました。新郎と新婦が結婚すれば夫婦になります。家庭を築こうというのです。結局、家庭を築いて子女を生もうということです。ですから、結婚した夫婦は必ず息子、娘を生んでこそ、家庭がしっかりと築かれるのです。妻が憎くて離婚したくても、子女を生んでおけば、いい加減に別れることもできないのです。子女は、夫婦の愛の実です。
イエス様は、神様のひとり子、天の国の王子としてこの地に来られました。それも、神様の第一王子として来られたというのです。神様の全権を相続するのにふさわしい王子として、神様の印を受けて生まれた息子なのです。そのような神様の息子を迎えて、神様の長子の嫁にならなければならなかったユダヤ民族でしたが、そのようになれませんでした。
それでは、皆様の中で、その王子の新婦になる自信のある人がいますか。新郎新婦は神様を父として侍り、天の王子と王女として関係を結ばなければなりません。このように、神様を中心とした家庭を築くことが主の願いでした。外的な天下を所有しようということではなかったのです。
それでは、キリスト教は何をするべきなのでしょうか。全人類が共同で願う、来られるその方に新婦を準備して、その方が願われる環境をつくってさしあげなければなりません。これを聖書では、「小羊の婚宴」と比喩したのです。このような歴史的な責任を背負ってきたのが、正に新婦の宗教であるキリスト教の使命であるという事実をはっきりと知らなければなりません。
結局、イエス様が肉身をもって地上に来られた目的は、新婦を得て家庭を築こうということです。問題は家庭です。真の家庭を築いたならば、イエス様は、何にならなければならないのでしょうか。家父になるべきです。家父になると同時に、家長にならなければなりません。さらには、氏族の長にならなければならないのです。しかし、イエス様は家庭理想を完成することなく、十字架で亡くなられました。イエス様が築くべきその家庭は、神様をお迎えして千年、万年暮らしたいと言える家庭です。韓国の民謡の中に、「月よ、月よ、明るい月よ、李太白が遊んだ月よ。あの、あの、あの月の中に桂の木が植えられたので、父母に侍って千年、万年暮らしたい」という歌があるのです。
祝福とは神様の願いである真の家庭を築くこと
それでは、家庭を築いて何をすべきなのでしょうか。子女を生まなければなりませんでした。すなわち、神様の孫と孫娘が出てこなければならなかったのです。結局、神様が直系の孫と孫娘を見ることができなかったことが恨です。神様は今まで、すべての人間の標本的な家庭を立てようとされたのです。
ですから、神様はそのような家庭をどれほど慕われたでしょうか。また、堕落によって結ばれた人間が、どれほどその家庭を慕ったでしょうか。皆様も、その家庭を慕ってみましたか。理想家庭を中心として、すべての人類が一つにならなければなりません。そうして、人類は何を探し出さなければならないのでしょうか。真の家庭を迎えなければならないのです。
今日、堕落した世界の家庭は、神様のみ前に立つことができません。このような曲折があるので、「あなたの家族が怨讐である」と言われたみ言は正しいというのです。イエス様はこの地に来て何をしようとしましたか。神様を中心とした一つの家庭を築こうとしたのです。ところが、この家庭を築けなかったので、再び来るとおっしゃいました。再び来られて、何をしなればならないのでしょうか。家庭を築かなければならないというのです。そうして、その家庭において息子、娘が後代に繁殖し続ければ、氏族が形成され、民族が形成され、国家が形成されるのです。
そのような純粋な神様の家庭を築こうとすれば、神様の愛を中心とした家庭の血族がこの地上に現れなければなりません。ところが、その家庭を築けなかったので、神様が再びこの地上に、神様の創造理想だった本然の基準、すなわち本然の家庭を中心とした復帰の血族を形成するために、今まで救援摂理をしてこられたのです。
そのような家庭を立てるために、皆様がよく御存じの「祝福」というものをしてあげているのです。その家庭を「祝福家庭」と言います。その祝福家庭とは、どのような家庭でしょうか。神様を中心とした理想的な家庭のことを言うのです。その家庭は、来られる主を迎えるべき家庭であり、これからの後代の人々も迎えるべき家庭であり、すべての人間が最後にもたなければならない共同の目標です。
それでは、行くべき共通の関門は何でしょうか。国でもなく、世界でもありません。共産主義世界でもなく、民主主義世界でもありません。本然の家庭です。民主主義の世界に、真の民主主義世界を創建できる本然の家庭がなければなりません。この本然の家庭が現れるまでは、平和の王国、平和の理想国家、平和の国はあり得ないというのです。
ですから、私たちが願うこのような理想的家庭、本然の家庭、生きるべき家庭、出会うべき家庭、探し出すベき家庭が、この地球上に必ず現れ、人類歴史と運命を共にできる一時が来なければならないのです。それでこそ、地に対する神様の摂理が成し遂げられるのであり、安息の福地、安息の住み家が出発するのです。このように、家庭を生かし、地域社会を新たにし、国を強健にする運動において、聖職者が先頭に立たなければなりません。
内外の貴賓の皆様。きょう、祝福を受けた聖職者の皆様は、今から先頭に立って、皆様の教会と皆様の地域社会において、この祝福運動を主導し、平和の国、平和の世界を成し遂げていく先駆者となることを願います。神様の祝福が皆様の家庭に共にあることを願いながら、話を終えようと思います。ありがとうございました。

Thursday Mar 31, 2022
平和経 第165話
Thursday Mar 31, 2022
Thursday Mar 31, 2022
8.祝福家庭と理想世界
日付:二〇〇二年四月二十七日
場所:アメリカ、ワシントンDC、シェラトン•ナショナル•ホテル
行事:十四万四千双聖職者祝福結婚式祝賀晩餐会
内外の貴賓の皆様。まず、歴史的な超宗教、超人種、超国家で構成された十四万四千双聖職者祝福結婚式に参加した当事者の皆様に、心からお祝い申し上げます。真の家庭理想を中心として、宗派と教理を超越して五色人種が一つになったきょうこの日は、葛藤と紛争に明け暮れてきた人類文明史に対して、愛による和解を勝ち取った新しい歴史の一日として記録されるでしょう。
真の家庭の重要性
私は、過去八十年以上の生涯を通して、自ら創設した教団を飛び越え、唯一なる神様のもとの一つの平和世界を建設するために全身全霊を注いできました。その実が結ばれたこの意義深い場において、多くの教団の指導者の皆様と今から分かち合おうと思うみ言は、「祝福家庭と理想世界」です。この世の中には数多くの人々が暮らしていますが、彼らはみな、家庭に属しています。しかし、真の家庭がなければ、真の子女を育てることはできないのであり、真の社会の形成も不可能です。このように、真の家庭が基礎となり、真の社会、真の国家、真の世界が成し遂げられるというのは、当然の事実です。その真の家庭とは、神様の真の愛を中心として築かれた家庭を意味するのです。
今までの歴史時代には、真の家庭とは何かということに対する定義がありませんでした。それだけでなく、真の人が目指すべき目標とその限界点が何かも、明確ではありませんでした。人はどこから来て、どのように生き、死後はどこに行くのかが分からない、無知に陥っている人間だというのです。そして、このような人間が、自らの到達すべき目的の標準、修養の基準、人間完成の限界点を規定できないまま、歴史を経てきたのです。
個人がそのような立場に立てなかったので、人間が願う最高の家庭的な基準が形成されるはずがありません。このように見るとき、数多くの人間が、各自行くべき人生行路において苦しんでいることも問題ですが、私たちが忘れてはならないより大きな問題は、真の個人を基盤として真の家庭基準を成し遂げるべき課題が、人類の行路と発展する人類歴史の途上に残っているという事実です。
それでは、人間の霊的な無知を打開してきた宗教が目指すべき最後の目的は何でしょうか。個人の救いにも意味がありますが、さらに家庭を救わなければならないのです。まず家庭を取り戻し、悪主権に属している人間を罪悪の中から解放しなければなりません。
本当の意味で歴史を代表し、時代を代表し、未来を代表する家庭を取り戻さなければなりません。さらには、世界人類が共に喜べる家庭の土台と家庭が行くべき正道の基準を確定しなければなりません。その家庭の制度がどこから出発し、どこに向かうべきかということが決定されなければなりません。そのようにならない限り、この地上に平和の世界を創建できないというのです。外的なものがいくらよく成し遂げられたとしても、家庭が健全でなければ、世界は一時に破綻し得ることを知らなければなりません。
家庭は真の平和の起点
家庭には、父母がいると同時に夫婦の関係があります。父母がいなかったり、夫婦が別れたりしていても不幸なことですが、愛する配偶者を失うときには、この上なく悲惨で不幸になるのです。それだけでなく、夫婦が子女をもてなければ、それもやはり不幸に違いないのです。たとえ外的に見れば大きく成功できなかったとしても、家庭で真の父母、真の夫婦、真の子女を中心とした愛を完成し、誰もがその家庭を手本にしたいと思うほどに平和に暮らすならば、その家庭は、幸福な家庭であることを否定できないでしょう。
今日まで、聖人や賢人が平和を語ってきましたが、家庭が真の平和の起点であることがよく分かりませんでした。それは、神様の創造理想が、理想家庭を土台とした平和世界建設であることを知らなかったからです。今まで、この世界の歴史の中では、各種の革命が数多くありました。革命の結果として世界を動かした事実が多くあったとしても、それはすべて過ぎ去ってしまうのです。最後の問題は、真の家庭を築くための革命を起こせる一つの中心が、地球上に顕現しなければならないということです。
そうして、そこから新しい世界の創建、新しい歴史的な理想の出発が現れなければならないという事実を否定する道理はありません。これが第一イスラエルであるユダヤ教から、第二イスラエルであるキリスト教を通して伝授されてきたメシヤ思想です。正しい家庭の起源をもてなかった人が、正しい方向に進むでしょうか。進んでも、安定した目的点を見出せずに戻ってくるしかありません。ですから、再び家庭を訪ねて入っていかざるを得ない運命をもっているのが人生行路なのです。
堕落した人類を救うための最初の起点は家庭
本郷を追求していく人間の力が、歴史全体とすべての環境に影響を及ぼすことができ、幸福の土台を築く動機にならなければなりません。そのような人間の力の基盤となる家庭が、どこに築かれるのでしょうか。今日、すべての宗教は、社会に公的な利益をもたらす前に、家庭に公益となる基盤をまず整えなければなりません。なぜなら、宗教が社会に公益となる業績を立てたとしても、その社会を形成している家庭の基盤が歪むときには、社会の土台も崩れてしまうからです。
このような点から見るとき、神様が堕落した人類をお救いになるための最初の起点とはどこなのでしょうか。ある文明を誇る特定の国家でしょうか。違います。社会のある組織が理想的な組織だからといって、それを中心にするのでしょうか。違います。それでは、天才的な素質をもったある個人を中心にするのでしょうか。違います。これらすべてのものを超越できる一つの起点が真の家庭であるということを、皆様は知らなければなりません。ですから、今日、人間はそのような家庭の門を通過した資格を備え、勝利者の称号を掲げて世界に向かっていける人にならなければなりません。そのような主義と思想に応ずることのできる個体が現れなければならないのです。
それでは、どうして仏教とカトリックでは独身生活を強調してきたのでしょうか。独身主義が人間の幸福の土台であると本当に言えるでしょうか。違います。それは、どのような宗教や主義も、真の幸福の根源がどこにあるかということを提示してあげなかったために、独身生活をしながら、今後現れる純潔で正しい家庭を約束してきたのです。
昨今、提起されているカトリック内の深刻な問題は、十三世紀以降、継続されてきた独身主義に対する根本的な再考を意味するのです。神様のみ旨は、真の男性と真の女性が形成する真の家庭を通して成し遂げられるようになっています。聖職者たちが先頭に立ち、理想家庭を築いて手本を見せるのは、当然のことです。

Thursday Mar 31, 2022
平和経 第164話
Thursday Mar 31, 2022
Thursday Mar 31, 2022
真の愛の完成
人間世界において真の愛を完成すれば、政治的や文化的、環境的に何か問題があり得るでしょうか。真の愛の世界では、解決できない問題がありません。真の愛の世界は、すなわち歓喜と理想が満ちあふれた自由と平和と幸福の世界です。真の愛の同位権、同参権、相続権によって、喜びと幸福が無限に、そして永遠に拡散する世界になるのです。今日、世界人類が抱いている難問題は、真の愛の完成によってのみ、根本的な解決が可能です。
人間は成長期間を通して、神様の真の愛を段階的に体得しながら成熟するようになっています。真の愛によって生まれた人間は、真の子女の愛、真の兄弟の愛、真の夫婦の愛、真の父母の愛を順番に体恤しながら、完成するのです。
個体について見れば、心と体が一つになるところから真の愛が現れます。その次に、心身一体となった完成した男性と女性が真の夫婦の真の愛を交わし、その次に、彼らが真の神様の真の愛と連結して、子女を正しく愛する真の父母にならなければなりません。夫婦の心と体の中に神様の真の愛が臨み、その真の夫婦が一つになって、息子、娘を生むようになっているのです。そうしてこそ、完全で理想的な家庭ができるのです。
父母の真の愛、夫婦の真の愛、兄弟の真の愛、子女の真の愛など、四大愛を完成し、四大心情を体恤できる最小単位が真の家庭です。したがって、真の家庭は人間の真の愛と真の幸福の土台であり、真の生命と真の血統が芽生える所となります。ですから、真の家庭は人間が創造本然の真の愛と真の人格を育て上げる修練所であり、真の愛の学校なのです。このような真の愛の真の家庭は、人類の願いであると同時に神様の創造目的の根本になります。この真の家庭から輩出される真の愛の真の人格によってのみ、真の社会、国家、世界の完成があり、すべての環境圏の創造理想が具現されるのです。
私が常々、地上における真の家庭天国を強調する理由もここにあります。真の家庭天国が形成されれば、地上天国が形成されるのです。真の家庭天国で教育され、完成した真の愛の人格は、他人の幸福を阻害したり、環境と不調和を起こしたりはしません。いつでもために生きる真の愛によって調和一体を成し遂げる、真の人になるのです。
男性は神様の陽性の性禀を、女性は神様の陰性の性禀を代表する主体と対象です。神様の創造理念は、両性の中和体としていらっしゃる神様の性相を二性に分立し、再び神様の本性相に似た姿に合性一体化することです。真の夫婦は神様の二性をそれぞれ代表しているのであり、天と地を代表した立場で互いに調和一体を成し遂げるために生まれたのです。すなわち、男性も女性も、本来自分のために、自己中心的に生きるように創造されたのではなく、相対のために存在するように創造されたということです。真の夫婦はそれぞれ、相対のために生まれたことをはっきりと知らなければなりません。
真の愛は、一人では実現されないと言いました。真の愛は必ず相対的基盤を通して実現されるのです。夫婦間の真の愛は、自分たち夫婦のためだけのものではありません。神様の創造理想を中心とした真の愛です。絶対的な真の愛の主人は神様です。神様の真の愛によって、自分の相対と一つになろうとするとき、絶対的な神様の真の愛が臨在するのです。
真の夫婦は、神様の真の愛を抱き、合一した希望をもって未来の世界に向かって進まなければなりません。子女の誕生も、家門の繁栄も、この基台の上で可能になるのです。夫婦の真の愛が生活の環境圏を越え、神様の真の愛理想と一致する家庭を完成することが、究極的な願いになるのです。
家庭の重要性
堕落はアダム家庭から起きたので、本然の姿に戻っていく目的は、アダム家庭の復帰完成にあります。神様は世界と国を求める前に、民族と教会を求める前に、御自身の相対を求め、一つの中心家庭を求めます。神様は歴史を通して、御自身の理想的な対象となる真の家庭を訪ねてこられました。この真の家庭は、私たちが習慣的に生活してきた家庭とは根本的に異なります。神様を中心とした理想的な真の家庭を探し出せなければ、理想的な国と世界も探し出せません。本然の真の家庭を先に立てる原則がここにあるのです。ですから、個人が救いの目標ではなく、真の家庭が救いの基本単位になるのです。
堕落がなかったならば、真の愛によるアダム家庭は、どのように生み殖えたでしょうか。アダムとエバは、真の愛による理想的な真の夫婦となり、さらには真の父母となって、その子孫と全人類の真の先祖になったでしょう。
アダムとエバを真の父母として生み殖えた人類は、一つの大家族を形成し、アダム文化圏の平和世界を成し遂げたでしょう。したがって、復帰歴史の帰結は、真の父母と真の愛を中心とした真の家庭を探し立て、これを中心として編成されるのです。このとき、中心である真の家庭は、人類の願いであると同時に、神様の願いです。この真の家庭は、真の愛と真の生命の始原となり、人類の平和と幸福の起点になるのです。
真の愛の革命
「自分のまいたものを、刈り取る」(ガラテヤ六•七)という言葉があります。人類の先祖がサタンを中心とした偽りの愛によって、悪の人格、悪の夫婦、悪の父母から、悪と偽りの種が蒔かれたのです。今の時代は、それでもこれまで人間社会を支えてきた父子の関係や基本倫理、道徳律までもがすべて崩れてしまいました。動物よりも劣る破倫行為が起こり続けています。その程度がひどくなっていくのです。エデンの園における堕落によってそのように植えられたので、その現象が歴史的、世界的に実を結ぶ収穫期になったという意味です。
本然の真の愛は、時代による発展もなく、そのままで完全なものです。原形そのものが真であり、永遠、不変、絶対的なものです。ところが、人間の先祖が成長期間において未完成のまま堕落し、偽りの愛の始原を形成したのです。利己的で悪の偽りの愛を土台として積み上げた人類文明は、このまま続くことはできません。このままではいけません。人類が減んでしまうのです。
家庭の基盤が崩れ、子孫が根本的に誤っていくのに、外的な発展と物質的な豊かさに何の意味がありますか。歴史的な過ちと不条理は、根本的に清算されなければなりません。人類にとって最も至急に必要なものは、真の父母による真の愛の革命です。根本的な変革なくしては、人類の幸福や平和な世界は望めません。今日の問題は、真の父母が中心になった真の家庭主義、神様の真の愛主義によって整理されなければなりません。
尊敬する指導者の皆様。私がこれまで世界的に展開してきた平和運動とともに、真の愛主義の理念を深刻に評価してくださることをお願いします。青少年に対する真の愛と純潔運動、そして国境、文化、人種、宗教を超越した真の愛による真の家庭運動などを、統一教会の教団的行事としてのみ考えてはいけません。
世界平和は、平和な国家がまずあってこそ、実現されます。国家の平和は家庭の平安が前提でなければなりません。世俗的な人々が一般的に願ってきた権力や富貴や知識が、平和と幸福の必要十分条件にはなり得ません。真の幸福は、所有に比例するのでもなく、外的な生活の利便さによって左右されるのでもありません。このようなものが真の愛と共にあるとき、真の平和と真の幸福を得るようになるのです。本当の平和も無限の幸福も、真の愛で他のために生きて施すとき、そしてその施したものが全体を巡って再び訪ねてくるときにのみ、確実に得られるのです。
尊敬する指導者の皆様。今に至るまで皆様は、各分野において並外れた信念をもって、人類の福祉と社会発展のために大きな実績をもって寄与してこられたことを知っています。もちろん、その分野においてさらに大きく寄与されるでしょう。しかし今、人類は総体的に危機の時代を迎えています。特定分野だけの備えや努力だけでは足りません。指導者たちが時代の良心となり、積極的に模範を見せながら、平和世界の基本単位であり前提条件である真の家庭を創造し、指導するために進み出なければなりません。
十三日に私が執り行う三億六千万双祝福結婚式の第一次儀式は、私が生涯を捧げ、理想家庭に対して教育してきた結実の一つです。祝福儀式に同参する人は、既に神様のみ前に婚約し、神様の真の愛を中心として真の夫婦、真の父母となり、真の家庭を築く人々です。平和世界の実現のために、真の家庭運動を通した歴史的な真の愛の革命を勢いよく進行しているのです。
親愛なる指導者の皆様。人類を家庭破綻の道から救うことよりも、さらに急がれることがどこにあるでしょうか。平和世界に向かう真の家庭運動に積極的に同参してくださることを重ねてお願いします。
神様の真の愛が皆様と皆様の家庭、そして国と共にあることをお祈りいたします。誠にありがとうございました。

Thursday Mar 31, 2022
平和経 第163話
Thursday Mar 31, 2022
Thursday Mar 31, 2022
7.真の家庭と世界平和
日付:一九九八年六月十一日
場所:、アメリカ、ニューヨーク、ウォルドルフ•アストリア•ホテル
行事:一九九八世界文化体育大典
著名な学者の皆様、尊敬する宗教指導者、そして各界の指導者の皆様。「真の家庭と世界平和」という主題のもとに進められるこの特別会議に御参席くださったことを、心から歓迎いたします。
私たちは、深刻な道徳的混乱、世界紛争、環境問題、犯罪などに染められた二十世紀を清算し、希望の中で二十一世紀を迎えるべき歴史的な大転換期に立っています。人類は、戦争と苦痛のない平和の世界を渇望しています。しかし希望よりも、かえって次第に悪化していく物質万能主義の傾向と共に、国家権力と宗教が正しい影響を及ぼせない中で、青少年の退廃、家庭破綻、麻薬とエイズなどが、人類の将来をさらに暗くしています。高度に発達した科学技術も、便利な情報通信の発達も、経済開発と政治的努力も、人類の幸福と平和な真の家庭を通した世界をもたらすことができずにいます。
真の愛の創造理想
人類は長い歴史路程を通して、ある一時も、完全な幸福の真の主人公になれませんでした。個人的にも全体的にも、家庭は多くの不幸を経験しながら過ごしてきました。それにもかかわらず、人間はいつも諦めずに、粘り強く幸福を追求してきたのです。それは本来、人間が幸福に生き、真の家庭の中で豊かに暮らすように神様が造ってくださったからです。人間は堕落の罪によって苦痛の生活をしてきましたが、その本性においては本然の幸福な自我を希求し続けてきたのです。
それでは、真の幸福の本質とは何でしょうか。神様は何によって、人間が本当に幸福になるようにしてあげようと思ったのでしょうか。神様は真の愛の本体であられます。神様は真の愛の理想ゆえに、無限に投入しながら創造をされました。真の愛は一人で、独断的にするものではありません。主体と対象の関係を通して、成就できるものなのです。したがって、愛を成就して体恤するためには、神様も主体と対象の関係を結ばなければならなかったのです。正にそれが、真の家庭でした。
堕落によって失われた真の愛
神様の創造の根本目的は、真の愛とその対象である真の人です。絶対者である神様のみ前に、人間はどのようにしてその相対的な立場に立てるのでしょうか。努力や外的な条件によってではありません。ただ、真の愛の関係によってのみ可能なのです。主体と対象が完全な真の愛の関係を結べば、一度に同位権、同参権、相続権を互いにもつようになるのです。
神様の真の愛の動機により、その対象として造られた人間にとって最も貴いものは、真の愛を中心とした真の家庭を築くことです。真の愛は、人間を本当に幸福にする根本です。真の愛の中に無限の喜びがあり、無限の自由があります。真の愛の中で、永遠の調和が成し遂げられるのです。
神様は無形の主体であられ、人間は有形の実体対象です。神様は人間の真の愛の主体であり、真の生命の主体であり、真の理想の主体です。したがって、人間は真の愛の対象であり、真の生命と真の理想の対象になります。神様は父なる創造主であられ、人間は真の愛によって一つの体となる、その方の子女として造られたのです。
本来、真の人は心と体がいつも神様の真の愛を中心として一つになり、それに酔って喜びの中で生きるようになっていました。神様は真の愛によって幸福を感じる真の家庭を御覧になり、御自分も無限の喜びを感じると同時に、共にお住まいになろうとして、人間を創造されたのです。神様は真の愛によって人間と調和一体を成し遂げようとされたのです。ところが、人間の先祖が堕落してしまいました。
人間は個体の中で、悪の欲望を達成しようとする邪心の指向性と善の欲望を成就しようとする本心の指向性が、それぞれ異なる欲望を前に立てて、熾烈な闘争を繰り広げていることを感じながら生きていきます。私の体と私の心なのですが、気づいてみれば、体と心が対立している自分であることが分かるのです。このように人間の体と心が葛藤する矛盾性は、正に人間の先祖の堕落のためです。このような体と心の分裂、衝突は、家庭と社会だけでなく、国家、世界、天宙の分裂と不幸として続いてきたのです。
堕落とは、サタンの利己的な偽りの愛によって天道に逆らったことであり、結果的には、神様と真の愛が分からない無知に陥ったことです。こうして人間はサタンに従い、神様を失って、本然の価値も失ってしまったのです。創造本然の理想完成である心身一体を成し遂げた真の人になれず、幸福の根本要因である真の愛を中心とした真の家庭を築けませんでした。
心身の統一基地
すべての被造物は愛の法度に従って創造され、また存在しています。人間の完成も、知識や権力、もしくは財力によって成し遂げられるのではなく、真の愛によって成し遂げられるのです。すなわち、真の人は、真の愛の経験を通して、神様の根本的な真の愛に似た人格として完成するようになっているのです。個性完成とは、心と体が一体となって調和することを意味します。人間は神様の真の愛の核と一致する場にいるとき、心身が一体となるのです。
心と体は、神様の真の愛の基盤の上で、生活を通して授受作用を永続しながら完全に一つとなり、真の愛の人格を成就するようになっています。心身が統一基地をつくってこそ、その上に真の愛の完成である真の家庭が安着するのです。真の愛だけが、心身の理想的な関係を永遠に成し遂げられるというのです。心身統一の基地の上に神様の真の愛が臨めば、真の愛の門が大きく開き、真の人は神様と宇宙の真の愛と共鳴するようになります。そのようになった真の人は、見て、聞いて、感じるもので真の愛でないものがなくなり、自動的に無限の自由と喜悦の主人公になるのです。
このとき、真の人は真の愛に酔い、最高の芸術的情感の中で暮らすようになっています。真の人の人格は、自然な形で相対世界と情によって同化し、共に酔いながら生活の中で美しさを体恤しつつ、全体的な創造目的を完成するのです。このようになれば、神様のみ前に完全な対象となり、神様に似て、その方の真の愛を相続するようになるのです。神様が感じることをそのまま感じ、神様が喜ぶことをそのまま喜ぶようになります。
人間にとって最も神聖で貴いものが真の愛です。真の愛は、自分一人だけでは生じません。自己中心的なところでは生じないのです。真の愛は、相対のために与え、また与え、与えたことをすべて忘れ、また与えて施しながら、一つになろうとするのです。ですから、真の愛はすべてのものを抱くようになります。真の愛は、私個人だけの所有にはなりません。真の愛を相続したのちには、私のものであると同時に万民のものであり、宇宙共有のものになるのです。神様の希望は、真の愛を人間と共有することです。神様は御自身の息子、娘であり、最も高く最も貴い被造物である人間と、心情世界において真の愛の喜悦と幸福を永遠に共有したいと思われるのです。

Wednesday Mar 30, 2022
平和経 第162話
Wednesday Mar 30, 2022
Wednesday Mar 30, 2022
真の愛と関係を結んだ死後の世界
神様には時間という概念がありません。時間の概念がないというのは、永遠に初めであり、終わりであるという意味です。過去も現在も未来も、同じだというのです。そのようになっても嫌でないように作用を起こすことのできる、神様が安息できる本質は何でしょうか。そのようなものが問題になります。
それは何でしょうか。全知全能の能力でしょうか。違います。神様の知恵、全知全能ではできないというのです。それによっては、安息できないのです。真の愛の力だけが可能です。神様も「真の愛!」と言えば、「そうか!」と言うのです。それ以外は、神様にとって必要ではないのです。
私たちは最後、どこに行かなければならないのかといえば、霊界です。それは何を意味するのでしょうか。一般的に死後の世界だと言いますが、死後の世界ではありません。なぜ、死後の世界にならないのでしょうか。真の愛と関係している世界だからです。真の愛と関係している世界なので、死後の世界ではないのです。真の愛を中心として出発したものなので、自分が真の愛の立場に立つようになるときは、既に今ここが霊界です。ですから、真の愛が偉大なのです。真の愛によって縦的な球形運動をしてこそ、上下、前後、左右が和合できるのです。縦は縦、横は横になって和合できなければ、上下、前後、左右全体が和合できないのです。統一が起こりません。真の愛だけが統一できるのです。そのため、統一教会が真の愛を中心とした統一理想世界を論じるのも、原理観に一致した結論なのです。
神様は人間を引っ張ってくださろうとします。神様も息をするのです。真の愛の呼吸をされるのです。神様も宇宙に拍子を合わせるので、真の愛を中心として、宇宙が永遠に続くのです。真の愛に永生があるというのです。ですから、皆様はここまで行かなければなりません。そうしてこそ、神様の呼吸圏に入っていくのです。
真の愛も息をするのです。宇宙の脈拍がこのようになるので、男性や女性が「ああ!私は嫌だ!」とは言えないのです。拍子が合うときは、互いが本当に愛し合わなければなりません。方向がすべて同じです。一方向です。すべて、神様を中心とした一つの方向なのです。
天国に行くためには祝福の門を通過しなければならない
霊界も肉界も、真の愛に従って動きます。その縦的な真の愛の主軸を中心として、環境的条件は自分自ら自動的に拍子を合わせるのです。「その共通分母は何か」と言うとき、過去の人も、現在の人も、何と答えるでしょうか。「永遠性と同伴できる資格は何であり、私たち人間の世界で必要とするすべての欲求の要因は何か」と言うとき、それは真の愛だというのです。それは取るに足らない愛ではありません。真の愛です。
それでは、真の愛とは何でしょうか。縦横を通じて九〇度を備え、どこであれ角度がすべて合わなければなりません。東洋の家にも合い、西洋の家にも合い、南方型の家にも合い、北方型の家にも合い、五色人種(すべての人種)、文化背景、宗教背景がすべて違ったとしても、この道を一緒に行けるのが、正に真の愛です。
今日、この世界には多くの人々が暮らしています。世界に六十億以上の人が住んでいますが、統一教会で言う「祝福」の意味を知る人は、多くないでしょう。この祝福という言葉は、統一教会で初めて始まった言葉であり、その祝福という言葉を中心として、今まで祝福結婚行事をしてきたのです。
それでは今後、人類はどこに行かなければならないでしょうか。すべての人類は、祝福の門を通らなければ天国に行けません。数多くの人がキリスト教を信じていますが、そのキリスト教自体も祝福という門を通らなければ、天に行けないのです。このように言うとキリスト教では「統一教会のレバレンド•ムーンは独善的な発言をたくさんする」と不平を言います。このような考えをもつ人、またそのように言う人もいるかもしれませんが、それはその人たちの話であって、統一教会で語る祝福結婚は、堕落した人類にとって必ず行くべき道です。いくら反対しても、霊界と肉界を連結して天国に入っていくべき重大な問題となるのが、この祝福結婚だというのです。
今日、一般の宗教を信じる人々は、「救い」と言えば、個人の救いを考えます。よく信じれば、自分は天国に行くと信じる立場です。しかし、本来の神様の理想について見てみれば、天国は一人で行くようにはなっていないのです。
夫婦の霊人体
私たちは、真の愛の理想を訪ねていく群れです。ですから、霊界の代弁者として立つために、真の愛の理想を自分の体に、現実に身につけて、その真の愛をどれほど横的な世界に植えるのか、種として蒔くのかという、ここから真の愛の心をもって互いに与え合いながら育つのです。
このようにして、真の愛の実を結び、その夫婦が霊界に入るようになるとき、神様の永遠な真の愛の圏に抱かれて、神様と一つの体になるのです。神様と一つになるのです。人は、この地上においてその殻がすべて老いていきますが、夫婦生活をして、真の愛で愛し合えば愛し合うほど、霊人体は美しくなります。それはどういう意味かと言えば、人間が長く生きれば生きるほど、内的な人間である霊人体は、最高の円熟した美男、美女になるということです。肉身という殼は服のように脱いでしまわなければならないのに、これが若いままでくっついていれば、どうするのですか。ですから、老いれば外的な面の殼はすべて使えなくなりますが、内的な中身は成熟して、永遠の未来の相続者となり、最高の美人になるのです。秋の豊かな実りになるのです。
ですから、神様を直接愛する前に、皆様の足の先から、皆様の食べる食べ物を愛し、物質を愛し、万物を愛し、皆様の体を愛さなければなりません。万物を愛することによって、万物の要素を吸収し、自分の体を愛さなければなりません。
なぜ結婚しなければならないのか
皆様の第一の父母は皆様を生んでくれた父母ですが、第二の父母は地球です。この地です。皆様は、皆様の肉身が大きくなれるように、地からその要素を供給されるのです。地が肉身の第二の父母です。第二の父母を経て、第三の父母に帰るのが死です。
第三の父母のところには、そのまま行くのではありません。第三の父母のところに帰ろうとすれば、本来の父母だった神様の姿に似なければなりません。ですから、結婚はなぜするのかといえば、神様の姿に似るためにするのです。神様は二性性相としていらっしゃる方として、その二性が合体化した一体的な存在であられ、その神様の分性的人格自体が男性と女性なので、彼らが合性一体化して種のようになり、神様の本性的な位置に帰らなければならないのです。
ところが、その種を連結させるためには、真の愛の道理である結婚をしなければならないので、生まれながら真の愛を受け、成長しながらも真の愛を目標にして成長し、暮らしながらも真の愛を中心として暮らし、逝くときにも真の愛に帰るために逝かなければならないのです。その真の愛の道を行くという結婚の目標を中心として訪ねていかなければ、永生の方向が狂うという事実を、皆様は知らなければなりません。
祝福結婚と永生は、真の父母から始まります。真の父母と真の愛で一体になるというのは、個人、家庭、国家、世界、天宙が完成し、神様の創造理想が完結することなのです。真の父母が生まれた所は人類の祖国であり、地上天国と天上天国の出発地になるのであり、神様の全権時代を迎えるようになるのです。ですから、滅びることなく全盛の時代へと発展するでしょう。大韓民国の国民は、訓読会を通して真の父母と超国家的に一体となり、万国に勝利圏を備えて、万国の祖国となりましょう!ありがとうございました。

Wednesday Mar 30, 2022
平和経 第161話
Wednesday Mar 30, 2022
Wednesday Mar 30, 2022
永生しなければならない理由
神様は、人間をどのような存在として造ったのでしょうか。神様の絶対唯一の価値となる、真の愛の対象者として造りました。これは驚くべき事実です。近頃、人間の生命の価値はどのくらいになりますか。いくらになりますか。そのような無価値な人間ではありません。神様のみ前に、宇宙を与えても取り替えられない高貴な価値、真の愛の相対圏として男性を造り、女性を造ったという驚くべき事実を知らなければなりません。
人は真の愛で生まれ、真の愛で大きくなり、真の愛で生き、真の愛で死にます。しかし、そのままなくなるのではありません。主体であられる神様が永遠、不変、唯一なので、その方のみ前に対象的な真の愛の立場に立つようになれば、永生するのです。永生という理論がここから出発するのです。生命から始まるのではありません。
今日、この地上で一番の真の人は、どのような人でしょうか。神様と内外で一体となり、子女の立場で完全に真の愛を受けられる人が、真の人です。そのような人が神様と共に暮らしていく生活を、真の人生の道というのです。
人々は、誰もが最高を願っています。人間が最高の位置に行くようになれば、神様は私のものです。また、私は神様のものです。そのようになれば、私は神様の息子になり、神様御自身と一つになるので、宇宙は誰のものになるでしょうか。私のものになるのです。
それでは、神様が一番愛し、一番貴く思う物があるとすれば、それを一日、もしくは十年や百年ぐらい共に過ごしたあと放り投げるように造ったでしょうか、永遠に共にいるように造ったでしょうか。永遠に共にいるように造られたのです。人も同じです。人が生まれて死ねば、終わりになるのがいいでしょうか、永生すべきでしょうか。永生しなければなりません。なぜでしょうか。人は、絶対者である神様が、絶対的な真の愛を中心として喜べる対象だからです。
それでは、皆様は永生を願いますか、願いませんか。漠然とですが、永生を願っています。自分にとって貴い物があれば、避難するときにそれをもっていきますか、もっていきませんか。もっていきます。それを誇りたいと思うのです。それを一日、二日だけ誇るのではありません。自分が死ねば、それを自分の後代に残したいと思うのです。永遠に残したいと思うのです。それは、神様も同じです。神様が永生される絶対者であるなら、その方が愛する対象も永生しなければなりません。ですから人々は、昔から永生することを願うのです。これをはっきりと知らなければなりません。ですから、絶対者であられる神様は、永生する価値をもった、愛する息子、娘を探さざるを得ないのです。
私たち人間は、神様が造られた傑作であり、神様に似ています。神様が永遠であられるので、私たちも永遠の性禀をもたなければならないので、私たちの心は老いることがないのです。
ですから、人は永生してこそ、その傑作としての存在価値をもつことができます。人間は万物の霊長です。ここから霊という言葉が出てくるのです。人は永生しなければなりません。
創造主の永遠な真の愛の相対
永生の論理をどのように探しますか。神様は知恵深い方です。もし、神様が愛の理念を立てなければ、孤独単身で、喜怒哀楽を感じられない神様になるでしょう。愛は絶対的愛ですが、この愛を失われた神様は、歴史始まって以来、誰も体験できない、深刻で息の詰まる立場、絶対的に悲惨な立場に立ったのです。誰も慰められません。永遠に慰めることができないのです。
その本然の息子、娘を犠牲にして、それで満足するのではなく、御自身が夢見た願いである真の愛の理想的相対を再現させて、それを抱いて千里、万里移動しながら、もっと輝くように装い、もっと美しく表示できなければなりません。万宇宙を彼らのために、そのように和動するように造ったのです。
大気圏に絶対低気圧圏ができれば、高気圧圏が生じ、自動的に循環運動が起こります。神様は本当に知恵の王です。なぜ投入し、忘れてしまわなければならないのでしょうか。自動的循環原理を通じて永遠の回転が始まるので、永生論理が設定されるのです。投入して、また投入するところから、永生の論理が始まります。ために生きるところでは滅びません。小さなところから大きなものに成長し、大きなものがその次にはどこに行くかと言えば、中に入って核が生じるのです。
神様が絶対的な真の愛の相対を求めるとするなら、誰をもってきて立てるのかと言うとき、「それは間違いなく人間である」と結論づけることができます。ですから、「万物之衆(マンムルチチュン)唯人最貴(ユインチェキ)(万物の中で人間が最も貴い)」という言葉が出てきたのです。これが、創造主の永遠な真の愛の相対、創造主の真の愛の相対になるという結論を出すとき、その真の愛と一つになった真の愛の相対は、永生するという論理が生じるようになるのです。
永生というのは自動的な産物です。永生はここから始まるのです。真の愛の関係を中心として、永生論理をどのように立てるかという問題は、宗教では極めて大切な話です。男性だけで永生があり、女性だけで永生があるのではありません。神様の真の愛と一つになるところに永生があるという結論が出てくるのです。
真の愛によってのみ救いが可能
今日、キリスト教の人々は「イエス様を信じれば永生する」と言います。話としては良い話です。「それでは、永生はどのようにするのですか」と尋ねれば、「永生をどのようにするも何も、そのようにしてするんだ!」と言います。永生というのは、継続的な作用をつなげていかなければなりません。彼らは体をもったまま人生の道を永遠に行くことができるというのです。そのためには、心臓の動脈と静脈のような循環器官が正常に動かなければならず、神経系が正常に動かなければならず、大脳と小脳のあらゆる作用が正常に動き続けなければなりません。
では、どのように永生するのかと尋ねれば、皆様はどのように答えますか。イエス様を信じれば永生しますか。信じれば救われますか。とんでもないことです。真の愛によってのみ、救いを受けるのです。神様の創造原則から見るとき、真の人だけが神様の真の愛の同伴者なので、真の愛をもてば、永遠に生きられるのです。その真の愛の圏内に入っていれば、霊界や地上で暮らすとき、自分がどこに行って暮らすのか、すべて目にするようになるのです。
皆様。大洋を行き来する大きな船が破損する危険が生じるときは、その船の中で暮らしていたねずみが錨綱をつたって陸地に逃げるという話を聞いたことがありますか。微々たるものにすぎない動物も、未来の自分の生死の境を見極められるのに、万物の霊長である人間は、それができないのです。これは堕落したためです。この堕落の仮面をどのように脱ぐかという問題は、すなわち悪魔の愛と悪魔の生命と悪魔の血統からどのように抜け出すかという問題です。これを中心として、解脱という言葉を使うのです。完全に抜け出して、関係のない立場、自主的な立場に立つという意味です。
永生に必要な観念
私は永生する人です。その次に、真の愛を実践する人です。私は永生と真の愛を、ここで実践する人だというのです。自分がここで何をするにしても、その活動や、工場で働いたり何かをしたりすることが、永生を延長させる材料だというのです。
永生できるように訓練し、永生できるように育てる訓練材料を探し出すことが、私のすべきことだと考えなさいというのです。皆様にとって永生と真の愛は、いつも必要です。永遠に必要なのです。
「私たちは永遠に生きられる。永生を願う!」というように、永生を願うのですが、変わらないものは真の愛です。他のものはすべて変わります。環境的に変わるのです。それでは、なぜ真の愛は変わらないのでしょうか。真の愛はすべての生命力の中心なので、変わらないのです。真の愛はなぜ変わらないのでしょうか。真の愛は、理想的な要件の中心位置を占めるからです。中心は、その周囲がすべてなくなるまでは、なくなりません。真の愛は宇宙の中心であり、神様を中心とした真の愛と一致しているので、神様が残っている限り、残っているというのです。
真の愛とは何でしょうか。皆様が結婚するとき、結婚相手は優れている人を願うでしょう。また、自分の息子、娘が、自分より優れていることを願わない人がどこにいますか。それは誰に似たのでしょうか。神様に似たのです。それは何かと言えば、神様も、真の愛の相対は自分より優れていることを願うということです。それを否定できますか。
絶対的な神様が私たち人類の父であれば、その父は絶対的に行わないのに、その息子、娘の前で絶対的に行いなさいと命令できますか。命令できません。神様も、真の愛の相対は自分より優れていることを願われるという原則から見るとき、人間の価値は最大の価値をもつのです。真の愛を中心として、神様より高い価値があるというのです。真の愛と直結した永生
そのため、皆様の心は最高のものを願っています。それは不可能なことではありません。万人が平等に可能なのです。堕落しなかったならば、可能なのです。天上の高く貴い立場からこの宇宙を眺めて管理し、主導するようになっているのであって、他の何かを眺めて、無理やり服従するようにはなっていないのです。
皆様の心がそうでしょう。解放された心です。誰の支配も受けたくないのです。これは万人共通です。真の愛の位置にいれば、神様の位置、天の国の玉座に思いどおりに行けるのです。神様の友達になれるのです。
真の愛ゆえに人間を造ったというとき、永遠であられる神様、絶対的な神様、永生する神様なので、その真の愛に一致した人間が永生するというのは、自然な論理です。ですから、永生しようとすれば、その真の愛の圏で暮らさなければなりません。真の愛によって永生が可能です。なぜでしょうか。創造の出発、動機、過程から、すべての目的が真の愛を中心として完成するのです。過程を通じて結果が出てきます。
自分の体と心の完成というのは、真の愛に属することによって根本的に可能になっています。無限の根本、原因から過程、それから理想の結実を結ぶのは、真の愛しかありません。真の愛によって、真の愛を中心として、神様も永存しているのです。
神様は何を中心として永存するのでしょうか。永生は、真の愛によって連結されるのです。ですから、永生の環境を形成するためには、真の愛の環境を中心として生活しなければなりません。真の愛の実体圏をもつには、真の愛を中心として、実体的な体恤をしなければならないのです。
皆様は、神様が霊界のどこにいらっしゃるか、はっきりとは分かりません。皆様は、神様のこのような絶対的な中心、愛の中心という観念をはっきりと知らなければなりません。その真の愛の力は、最も早い真の愛の力なのです。その真の愛は、直短距離を通ります。それで、このようなことを教えてあげるのです。なぜ文先生が、このようなことを強調するのでしょうか。それを知っているからです。神様を知り、永遠の世界を知っているからなのです。神様を知り、永遠の世界を知れば、いい加減に生きることはできません。
神様、永生、真の愛を知らなければならない
第一に神様を知らなければならず、第二に永生を知らなければならず、第三に真の愛を知らなければなりません。これは投入です。一〇〇パーセント以上、投入です。一〇〇パーセント以上、投入するところに永生があります。真の愛をもたなければ、永生がありません。永生しない人は神様に出会えないのです。
これから、世界をどのように収拾するのでしょうか。第一に利他主義、第二に真の愛、第三に永生です。これで世界が収拾されるのです。これの反対は利己主義です。これはサタン側と通じるのです。
その次に真の愛です。真の愛とは何であると言いましたか。自分の生命を投入し、それ以上に投入しなければなりません。生命を投入し、それ以上に投入しないところには、真の愛がないのです。レバレンド•ムーンはアメリカに来て、生命と財産と統一教会のすべての精誠を注ぎました。ここから真の愛が成立するのです。真の愛が成立しなければ、永生はありません。
なぜでしょうか。皆様の悪の生命の最高の起源は、サタンの血から受けたのです。サタンの血統です。サタンに属するのです。愛もサタンの愛です。これ以上にならなければいけないというのです。それで、聖書には「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである」(マタイ二二•三七—三八)とあるのです。この言葉はどういうことでしょうか。心を尽くして、思いを尽くしなさいと言ったのは、生命まで懸けなさいということです。これが第一の戒めです。
第二の戒めは、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」(マタイ二二•三九)ということです。「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」というのは、どういうことでしょうか。生命を懸けて、真の愛を実践しなさいということです。生命を投入しなければならないというのです。
なぜ生命を懸けなければならないのでしょうか。生命を懸けなければ、第一にサタンを屈服させられず、第二にサタンの環境から抜け出せず、第三にサタンの血統から抜け出せないのです。この三つです。しかし、サタンの環境は抜け出せたとしても、メシヤ抜きではサタンの血統をどうすることもできません。永生しなければならない理由
神様は、人間をどのような存在として造ったのでしょうか。神様の絶対唯一の価値となる、真の愛の対象者として造りました。これは驚くべき事実です。近頃、人間の生命の価値はどのくらいになりますか。いくらになりますか。そのような無価値な人間ではありません。神様のみ前に、宇宙を与えても取り替えられない高貴な価値、真の愛の相対圏として男性を造り、女性を造ったという驚くべき事実を知らなければなりません。
人は真の愛で生まれ、真の愛で大きくなり、真の愛で生き、真の愛で死にます。しかし、そのままなくなるのではありません。主体であられる神様が永遠、不変、唯一なので、その方のみ前に対象的な真の愛の立場に立つようになれば、永生するのです。永生という理論がここから出発するのです。生命から始まるのではありません。
今日、この地上で一番の真の人は、どのような人でしょうか。神様と内外で一体となり、子女の立場で完全に真の愛を受けられる人が、真の人です。そのような人が神様と共に暮らしていく生活を、真の人生の道というのです。
人々は、誰もが最高を願っています。人間が最高の位置に行くようになれば、神様は私のものです。また、私は神様のものです。そのようになれば、私は神様の息子になり、神様御自身と一つになるので、宇宙は誰のものになるでしょうか。私のものになるのです。
それでは、神様が一番愛し、一番貴く思う物があるとすれば、それを一日、もしくは十年や百年ぐらい共に過ごしたあと放り投げるように造ったでしょうか、永遠に共にいるように造ったでしょうか。永遠に共にいるように造られたのです。人も同じです。人が生まれて死ねば、終わりになるのがいいでしょうか、永生すべきでしょうか。永生しなければなりません。なぜでしょうか。人は、絶対者である神様が、絶対的な真の愛を中心として喜べる対象だからです。
それでは、皆様は永生を願いますか、願いませんか。漠然とですが、永生を願っています。自分にとって貴い物があれば、避難するときにそれをもっていきますか、もっていきませんか。もっていきます。それを誇りたいと思うのです。それを一日、二日だけ誇るのではありません。自分が死ねば、それを自分の後代に残したいと思うのです。永遠に残したいと思うのです。それは、神様も同じです。神様が永生される絶対者であるなら、その方が愛する対象も永生しなければなりません。ですから人々は、昔から永生することを願うのです。これをはっきりと知らなければなりません。ですから、絶対者であられる神様は、永生する価値をもった、愛する息子、娘を探さざるを得ないのです。
私たち人間は、神様が造られた傑作であり、神様に似ています。神様が永遠であられるので、私たちも永遠の性禀をもたなければならないので、私たちの心は老いることがないのです。
ですから、人は永生してこそ、その傑作としての存在価値をもつことができます。人間は万物の霊長です。ここから霊という言葉が出てくるのです。人は永生しなければなりません。
創造主の永遠な真の愛の相対
永生の論理をどのように探しますか。神様は知恵深い方です。もし、神様が愛の理念を立てなければ、孤独単身で、喜怒哀楽を感じられない神様になるでしょう。愛は絶対的愛ですが、この愛を失われた神様は、歴史始まって以来、誰も体験できない、深刻で息の詰まる立場、絶対的に悲惨な立場に立ったのです。誰も慰められません。永遠に慰めることができないのです。
その本然の息子、娘を犠牲にして、それで満足するのではなく、御自身が夢見た願いである真の愛の理想的相対を再現させて、それを抱いて千里、万里移動しながら、もっと輝くように装い、もっと美しく表示できなければなりません。万宇宙を彼らのために、そのように和動するように造ったのです。
大気圏に絶対低気圧圏ができれば、高気圧圏が生じ、自動的に循環運動が起こります。神様は本当に知恵の王です。なぜ投入し、忘れてしまわなければならないのでしょうか。自動的循環原理を通じて永遠の回転が始まるので、永生論理が設定されるのです。投入して、また投入するところから、永生の論理が始まります。ために生きるところでは滅びません。小さなところから大きなものに成長し、大きなものがその次にはどこに行くかと言えば、中に入って核が生じるのです。
神様が絶対的な真の愛の相対を求めるとするなら、誰をもってきて立てるのかと言うとき、「それは間違いなく人間である」と結論づけることができます。ですから、「万物之衆(マンムルチチュン)唯人最貴(ユインチェキ)(万物の中で人間が最も貴い)」という言葉が出てきたのです。これが、創造主の永遠な真の愛の相対、創造主の真の愛の相対になるという結論を出すとき、その真の愛と一つになった真の愛の相対は、永生するという論理が生じるようになるのです。
永生というのは自動的な産物です。永生はここから始まるのです。真の愛の関係を中心として、永生論理をどのように立てるかという問題は、宗教では極めて大切な話です。男性だけで永生があり、女性だけで永生があるのではありません。神様の真の愛と一つになるところに永生があるという結論が出てくるのです。
真の愛によってのみ救いが可能
今日、キリスト教の人々は「イエス様を信じれば永生する」と言います。話としては良い話です。「それでは、永生はどのようにするのですか」と尋ねれば、「永生をどのようにするも何も、そのようにしてするんだ!」と言います。永生というのは、継続的な作用をつなげていかなければなりません。彼らは体をもったまま人生の道を永遠に行くことができるというのです。そのためには、心臓の動脈と静脈のような循環器官が正常に動かなければならず、神経系が正常に動かなければならず、大脳と小脳のあらゆる作用が正常に動き続けなければなりません。
では、どのように永生するのかと尋ねれば、皆様はどのように答えますか。イエス様を信じれば永生しますか。信じれば救われますか。とんでもないことです。真の愛によってのみ、救いを受けるのです。神様の創造原則から見るとき、真の人だけが神様の真の愛の同伴者なので、真の愛をもてば、永遠に生きられるのです。その真の愛の圏内に入っていれば、霊界や地上で暮らすとき、自分がどこに行って暮らすのか、すべて目にするようになるのです。
皆様。大洋を行き来する大きな船が破損する危険が生じるときは、その船の中で暮らしていたねずみが錨綱をつたって陸地に逃げるという話を聞いたことがありますか。微々たるものにすぎない動物も、未来の自分の生死の境を見極められるのに、万物の霊長である人間は、それができないのです。これは堕落したためです。この堕落の仮面をどのように脱ぐかという問題は、すなわち悪魔の愛と悪魔の生命と悪魔の血統からどのように抜け出すかという問題です。これを中心として、解脱という言葉を使うのです。完全に抜け出して、関係のない立場、自主的な立場に立つという意味です。
永生に必要な観念
私は永生する人です。その次に、真の愛を実践する人です。私は永生と真の愛を、ここで実践する人だというのです。自分がここで何をするにしても、その活動や、工場で働いたり何かをしたりすることが、永生を延長させる材料だというのです。
永生できるように訓練し、永生できるように育てる訓練材料を探し出すことが、私のすべきことだと考えなさいというのです。皆様にとって永生と真の愛は、いつも必要です。永遠に必要なのです。
「私たちは永遠に生きられる。永生を願う!」というように、永生を願うのですが、変わらないものは真の愛です。他のものはすべて変わります。環境的に変わるのです。それでは、なぜ真の愛は変わらないのでしょうか。真の愛はすべての生命力の中心なので、変わらないのです。真の愛はなぜ変わらないのでしょうか。真の愛は、理想的な要件の中心位置を占めるからです。中心は、その周囲がすべてなくなるまでは、なくなりません。真の愛は宇宙の中心であり、神様を中心とした真の愛と一致しているので、神様が残っている限り、残っているというのです。
真の愛とは何でしょうか。皆様が結婚するとき、結婚相手は優れている人を願うでしょう。また、自分の息子、娘が、自分より優れていることを願わない人がどこにいますか。それは誰に似たのでしょうか。神様に似たのです。それは何かと言えば、神様も、真の愛の相対は自分より優れていることを願うということです。それを否定できますか。
絶対的な神様が私たち人類の父であれば、その父は絶対的に行わないのに、その息子、娘の前で絶対的に行いなさいと命令できますか。命令できません。神様も、真の愛の相対は自分より優れていることを願われるという原則から見るとき、人間の価値は最大の価値をもつのです。真の愛を中心として、神様より高い価値があるというのです。
真の愛と直結した永生
そのため、皆様の心は最高のものを願っています。それは不可能なことではありません。万人が平等に可能なのです。堕落しなかったならば、可能なのです。天上の高く貴い立場からこの宇宙を眺めて管理し、主導するようになっているのであって、他の何かを眺めて、無理やり服従するようにはなっていないのです。
皆様の心がそうでしょう。解放された心です。誰の支配も受けたくないのです。これは万人共通です。真の愛の位置にいれば、神様の位置、天の国の玉座に思いどおりに行けるのです。神様の友達になれるのです。
真の愛ゆえに人間を造ったというとき、永遠であられる神様、絶対的な神様、永生する神様なので、その真の愛に一致した人間が永生するというのは、自然な論理です。ですから、永生しようとすれば、その真の愛の圏で暮らさなければなりません。真の愛によって永生が可能です。なぜでしょうか。創造の出発、動機、過程から、すべての目的が真の愛を中心として完成するのです。過程を通じて結果が出てきます。
自分の体と心の完成というのは、真の愛に属することによって根本的に可能になっています。無限の根本、原因から過程、それから理想の結実を結ぶのは、真の愛しかありません。真の愛によって、真の愛を中心として、神様も永存しているのです。
神様は何を中心として永存するのでしょうか。永生は、真の愛によって連結されるのです。ですから、永生の環境を形成するためには、真の愛の環境を中心として生活しなければなりません。真の愛の実体圏をもつには、真の愛を中心として、実体的な体恤をしなければならないのです。
皆様は、神様が霊界のどこにいらっしゃるか、はっきりとは分かりません。皆様は、神様のこのような絶対的な中心、愛の中心という観念をはっきりと知らなければなりません。その真の愛の力は、最も早い真の愛の力なのです。その真の愛は、直短距離を通ります。それで、このようなことを教えてあげるのです。なぜ文先生が、このようなことを強調するのでしょうか。それを知っているからです。神様を知り、永遠の世界を知っているからなのです。神様を知り、永遠の世界を知れば、いい加減に生きることはできません。
神様、永生、真の愛を知らなければならない
第一に神様を知らなければならず、第二に永生を知らなければならず、第三に真の愛を知らなければなりません。これは投入です。一〇〇パーセント以上、投入です。一〇〇パーセント以上、投入するところに永生があります。真の愛をもたなければ、永生がありません。永生しない人は神様に出会えないのです。
これから、世界をどのように収拾するのでしょうか。第一に利他主義、第二に真の愛、第三に永生です。これで世界が収拾されるのです。これの反対は利己主義です。これはサタン側と通じるのです。
その次に真の愛です。真の愛とは何であると言いましたか。自分の生命を投入し、それ以上に投入しなければなりません。生命を投入し、それ以上に投入しないところには、真の愛がないのです。レバレンド•ムーンはアメリカに来て、生命と財産と統一教会のすべての精誠を注ぎました。ここから真の愛が成立するのです。真の愛が成立しなければ、永生はありません。
なぜでしょうか。皆様の悪の生命の最高の起源は、サタンの血から受けたのです。サタンの血統です。サタンに属するのです。愛もサタンの愛です。これ以上にならなければいけないというのです。それで、聖書には「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである」(マタイ二二•三七—三八)とあるのです。この言葉はどういうことでしょうか。心を尽くして、思いを尽くしなさいと言ったのは、生命まで懸けなさいということです。これが第一の戒めです。
第二の戒めは、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」(マタイ二二•三九)ということです。「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」というのは、どういうことでしょうか。生命を懸けて、真の愛を実践しなさいということです。生命を投入しなければならないというのです。
なぜ生命を懸けなければならないのでしょうか。生命を懸けなければ、第一にサタンを屈服させられず、第二にサタンの環境から抜け出せず、第三にサタンの血統から抜け出せないのです。この三つです。しかし、サタンの環境は抜け出せたとしても、メシヤ抜きではサタンの血統をどうすることもできません。

Wednesday Mar 30, 2022
平和経 第160話
Wednesday Mar 30, 2022
Wednesday Mar 30, 2022
6.祝福と永生
日付:一九九八年一月二十三日
場所:韓国、ソウル、オリンピック公園重量挙げ競技場
行事:四千万双祝福勝利歓迎および文鮮明先生み言訓読大会
世界人類は、終末期に生きています。今、世の中の家庭が壊れつつあり、父親と母親、そして子女たちが怨讐の関係になっています。なぜそのようなことが起こるのでしょうか。真の愛がないからです。一番重要なことは、永生の問題が分からないからです。霊界があるか、ないかということを知らずにいるのです。
永生問題を知らなければならない理由
人間は間違いなく永生するということを知れば、他の人が「罪を犯せ」と言っても、犯さないでしょう。「自分のために生きよ」と言っても、そのようには生きないのです。これが分からなければ、キリスト教を信じても、何の宗教を信じても、絶対に天国に行けません。神様の理想世界に行けないのです。真の愛は、生命を投入しなければならないのです。
この永生問題と連結されなければ、社会の革命も不可能です。現在よりもっと疲弊して没落した環境に陥るとすれば、誰もが「その場には行かない」と言うでしょう。しかし、永生問題、永遠の生命の問題というときは、環境的条件をすべて克服できるのです。宗教はそれで偉大なのです。永生問題がかかっています。永生問題の概念さえ確立しておけば、そしてそれが事実であるという主観が立つようになれば、自分の息子、娘と家族を引っ張っていくのです。
今までの宗教は、そのような思想界を包括し、習慣性によって環境に編み込まれた現在の文化背景の根拠を、すべて消化させることができないのです。それはなぜでしょうか。永生という概念を確立できていないからです。キリスト教もそうです。
キリスト教も、今まで信仰してきたとしても、終わりの日になって環境が変われば変わるほど、すべてかき回されてしまうのです。なぜでしょうか。それは、永生という概念がないからです。
永生問題においては、自信がないというのです。神様がいるのかいないのか、分かりません。生命を懸けて、環境を越えていけるかという問題について見るとき、すべてそこに所属して四方を見回しながら、現在の生活の方便に従ってその道に陥りつつあるのです。
信仰の道というものが、今生きている人生、肉身生活の準備ではなく、永遠の世界の生活のための準備であるという信念さえもつようになれば、その人は放っておいてもいいのです。人は時間が立てば立つほど、四十歳を越えて五十歳を越えるほど、死ぬ日が近づいてくるために、永生の概念について深刻になります。
愛というものは、年を取るほど希薄になりますが、永生の概念さえ分からせれば、年を取るほど、だんだんと深刻になるのです。そのため、真の宗教理念だけが、今後、世界を料理できるのです。邪悪な環境、混乱した変化がどれほど頻繁に起こっているでしょうか。しかし、永生の概念さえ徹底すれば、頻繁に変わる環境を貫いて越えていくことができ、どのような所から悲喜劇が起こってこようとも、すべて問題にならないのです。
神様は、アダムとエバを真の愛の相対として造ったのではないでしょうか。それは間違いありません。そのように造ったのですから、真の愛の対象となって生きなければなりませんでした。それを言葉だけでなく、実感しなければなりません。また、体恤しなければなりません。真の愛の力がどれほど偉大かということさえ感じるようになれば、「この道を行ってはいけない」と言っても、行くようになっているのです。
そのため、生活するときにいつも力を注がなければならないことは、どのようにして永生の概念を確立するかということです。それさえ確立されれば、すべて終わるのです。これを確立するときにも、理論的にそれが的中し、ぴったりと当てはまるときに心に響きます。肉身と一番近い位置で一つになるのは青少年のときです。
十六歳以前は、堕落前の本性基準を一〇〇パーセント活用できるときです。十六歳以前はアダムとエバが堕落する前なので、本性基準が生きています。ですから、青少年時代に神様を知らなければなりません。神様を知ることによって、自分と神様との不可避的な関係が分かるのです。「その関係が、なぜ不可避なのだろうか」ということを分からせるために、永生概念を確立しなければならないのです。いつもこれを考えなければなりません。
一生と永生
皆様は、どれくらい生きると思いますか。「七、八十年は生きるだろう」と思うでしょう。その前には死ぬと思わないのです。皆様は欲張りです。自分は「八十歳で死ぬ」とか、「百歳になって死ぬだろう」と絶対に信じたとしても、あす死ぬか、きょう死ぬか、分からないのです。御飯を食べながら死ぬか、または今晩、靴を脱いで部屋に入り、寝ている途中で死ぬか、分かるでしょうか。皆様は、「ああ、私は若いので、これから少なくとも四十年、五十年は生きる」という欲心をもっているでしょう。神様に保障されていますか。皆様はできるだけ短く、一年以内に死ぬものと考えてください。この短い期間に準備をすべてしなければなりません。そのような観念をもって、できるだけ短く見積もるほど良いのです。短く見積もるほど、損をしないのです。短い期間に正しく準備すれば、その内容が自分の永遠の生命の家を建てるのです。
それでは、その短い期間に神様を愛してみたでしょうか。神様と一つになって、神様と愛し合いたいのに、愛することができないのです。神様は、「愛しなさい!」と言われます。人間の世界で暮らす間、すべての人の中で一人でも神様に紹介するために、二十四時間、精誠を尽くしてみなさいというのです。そのように生きて死ねば、永遠の生命の主体になるのです。
皆様は何歳まで生きてから逝きますか。神様の命令によって、すぐに死ぬ場に出ていくとすれば、どうしますか。だとすれば、何かを残さなければなりません。天が自分を褒めることのできる何かを残すべきなのですが、自信はありますか。寝る時間が惜しく、食べる時間が惜しいというのです。心配しようにも、心配する暇がありません。
一生と永遠の問題ですが、その一生を短く見積もるほど、価値があるのです。他の人をどれほど愛するのか、人をどれほど愛する人になるのか、その次に、家庭をどれほど愛したのか、氏族をどれほど愛したのか、このように個人を愛し、家庭を愛し、氏族を愛するのは、全人類を愛するための教材です。彼らを愛するのは、全体を愛するための教材を愛することです。これをすれば、私たちの一生において絶対に損をしないので、この上なく知恵深い考えなのです。
永遠の生命を追求する人間
永遠の生命の世界を追求するのが信仰生活です。永遠の神様の愛を追求するのが信仰です。永遠の生命とともに永遠の愛と一致するために、神様の喜びと私の喜びが出会い、二つの喜びではなく一つの喜びとして感じられる結着点を求めていくのが信仰の道です。
ですから、信仰生活をする私たちの個体が、どれほど主体的愛と生命力をもって生きるかということが、何よりも重要な問題にならざるを得ません。私たちが五官を通して感じる感覚の一切を統合して、この生命、または真の愛とどれくらい関係を結んで生きるかによって、人間としてどれほどの価値をもっているかという問題が左右されるのです。そのため、私たち自身が、生命力と湧き出る真の愛の心をもって対人関係を結び、社会生活をしてきたかという問題を、再び考えざるを得ないのです。もしそのような立場に立っていることができなければ、それは停止、もしくは後退することなのです。
人は一生だけでなく、永生します。宗教は今まで、地球星からなくなることなく、文化背景と風習が異なるすべての環境を経てきながら、世界的な版図を拡大させてきました。人は一生が問題ではなく、永生しなければならないからです。
人は、この時代においてのみ生きるのではなく、宇宙と共に生活しなければなりません。一生は百年以内の短い生涯ですが、生涯を限界として、そのままなくなるのではありません。その限界線を克服すれば、限界としていたこのすべての地球村の生活を越え、超然とした立場で生存し続けられるのです。そのような世界は厳然と実在しますが、ないとしても、今に至るまで苦痛の中で呻吟しながら生きる人類を同情して助けるためには、理論的にでも永生論を主張しなければならず、理論的にでも神様を中心とした理想国家の形態を推理しなければならないのです。そのような面からも宗教が必要です。
しかし、理論的に考えられた宗教理想という事実を知れば、誰が満足を感じるでしょうか。「ある!」と断定できなければなりません。「ある!」というのは、自分が定めるのではありません。「ある!」というのは、創造の初めから定められているのです。根本から「そうだ!」と言えるところまで明らかにしなければならないのです。ですから、皆様の永生問題とともに、宗教問題を中心として、神様の問題まで解決しなければなりません。このような諸般の問題が連結されているのです。

Thursday Mar 24, 2022
平和経 第159話
Thursday Mar 24, 2022
Thursday Mar 24, 2022
神様の三つの悩みの種
罪の根源であるサタンの戦略は、真の家庭理想が実体化され、根を下ろすことができないように、常に破壊することです。これが過去五十年の間に、神様の三つの悩みの種にもなりました。第一は神様の存在自体を否定する共産主義であり、第二は不道徳と堕落であり、第三は教派と宗派間の分裂と葛藤です。
考えてみてください。どれほど多くの罪なき人々が、共産主義によって命を奪われたでしょうか。一億以上の人々が犠牲になり、また数億の人々が追放されて強制的に奴隷生活を強いられ、虐待と飢えに遭い、戦争で傷を負って、生涯を苦難の中で送らなければなりませんでした。それだけではなく、神様を否定する非真理を伝播することにより、人間が究極的な価値を見いだせないようにした罪科は、本当に大きいものがあります。
神様の二つ目の悩みの種である不道徳と堕落は、まるで押し寄せる荒波のように、家庭と国を破壊し、命を奪っていっています。道徳の崩壊は離婚と家庭破壊、青少年の淪落と未婚の母の問題、そして麻薬中毒などの悪の実を結びます。
これは特定の国の問題ではなく、世界共通の問題になりました。世界的に広がっていくエイズは、淫乱と乱雑な性生活の直接的結果です。日ごとに増えていくエイズをこのまま放置すれば、何百万、もしくは何千万の人命が失われていき、人類の存立を脅かすでしょう。
神様の三つ目の悩みの種であるキリスト教の教派間、または世界の宗派間の葛藤と分裂はどうでしょうか。神様にとって、宗教者は世界の良心でなければなりません。彼らは悪に打ち勝てる伝統と価値と実践力をもっていなければなりません。ところが、互いに反目し、分裂しながら争っているので、無能になって感化力を失い、悪に打ち勝って世の中を正しく指導する力を喪失したのです。以上の三つの根本問題は、五十年前に宗教指導者たちが神様の摂理に対して無知で、神様のメッセージを受け取れなかったことにより生じた結果です。
人間の責任分担の重要性
世界の高名な指導者の皆様。神様の見解では、過去五十年間、世界のすべての不幸と絶望と破壊が必然だったとは捉えません。避けることができたのです。もし一九四〇年代の後半に、キリスト教を中心とした宗教界が神様の啓示に従い、真の家庭の理想と一つになっていたならば、共産主義はいち早く衰退していたでしょう。また、各教団の影響力ある指導と模範を見せる実践生活により、青少年の退廃、家庭破壊、エイズなども世界的な問題にならなかったでしょう。
共産主義者は、私を中傷して謀略を巡らし、評判の悪い問題の人物に仕立て上げました。私にファシスト、または似非宗教者というレッテルを貼り、世界的に誹謗を浴びせました。アメリカでは脱税という捏造の罪をかぶせ、監獄にまで送りました。しかし私は、過去二十五年間、アメリカが摂理的な使命を悟れるよう、私のすべての精誠と魂を注いできました。西洋を中心に、世界に寄与した私の思想的な指導と立体的な活動を通して、アメリカが共産主義に打ち勝てるように助けることができたのです。今や共産主義は、ほぼ消えつつあります。
不道徳と淫乱、そして退廃の風潮は、享楽主義と共に家庭を組織的に破錠させています。一部の現代人は、「伝統的な家庭以外に、同性愛の人々もまた別の類型の家庭を築くことができ、彼らは養子や人工受精によって子女をもつことができる」と考えるまでに至っていると言います。
これは、長い歴史を通して人類が存続してきた人類の存立の霊的根本土台を破壊する、恐ろしい結果を生み出しています。皮肉なことに、科学者は絶滅する植物や動物の種類に対して嘆いていますが、根本が破綻する家庭については悟れずにいるようです。
今日、神様は私たちに質問されています。「人類は救いを得るまで、人類の三分の一ほどをエイズや戦争によって失わなければならないのだろうか」、「神様が本来計画したとおりに、人間が万物と調和して暮らすことを悟る前に、地球の自然資源と環境がすべて破壊されるのではないだろうか」と。
神様は、決して諦めたりはされません。どのようなことがあっても、神様は真の家庭理想を通して人類と世界を救い、回復されるでしょう。疑問なのは、どれほどの代価を払うかということです。人間の生命だけではなく、経済的な損失や環境の破壊まで含めた代価のことです。堕落と不道徳のゆえにもたらされた社会問題は、経済的な崩壊とともに、さらに悪い環境をもたらします。世界の指導者はこの点を深く反省してみる必要があります。
神様の希望は、人間の苦痛が終わり、真で平和な世界一家庭を形成することです。神様は、私たちが自ら責任分担を完遂することを願われます。もし、人類が神様のメッセージを受け入れ、また確信をもって行動すれば、神様の国はそれに比例して早く、喜びの中で成就できるでしょう。そのようにしなければ、神様と人類の苦痛は延長され、不必要な死亡と不幸が続くでしょう。
真の愛による祝福結婚
それでは、神様の悩みは、どのようにして解決されるのでしょうか。どのようにすれば、家庭が根本的に健全になれるのでしょうか。どのようにすれば、分裂した諸宗教が神様のもとで和解、協力できるのでしょうか。その答えは、国際祝福結婚式の中にあります。私と妻は、一九六〇年に三家庭を前にして主礼を行い、祝福結婚式を始めました。そのとき人々に、全世界の何千万双が神様の祝福を受けるようになると話せば、誰が信じたでしょうか。しかし、超国家、超人種、超宗教的に神様の祝福のもと、夫婦が純潔と貞節を守ることを誓約する三千九百六十万双の祝福式が、皆様の前で現実として進行されることになったのです。
尊敬する指導者の皆様。私はこの場で、過去五十年間の祝福歴史の中における困難だった事情を語ることはしません。ただ、祝福結婚式によってのみ、崩壊していく世界の家庭が根本的に安定し、その本然の役割を果たせることを重ねて強調します。各自が神様に侍る真の愛の人格を形成し、真の夫婦、真の父母になろうとする厳粛な誓約なくしては、真の家庭が回復されません。祝福結婚式によって創出された楽しく和合する家庭であってこそ、平和な社会と国家、そして世界をつくることができます。特に、国家と人種と宗教を超えて行われる祝福結婚それ自体が、世界平和の礎石になるのです。これが神様の願われることではないでしょうか。
今回の祝福結婚に、奇跡のように多くの家庭が同参するようになったのは、世界の志ある各教団の指導者の積極的な支援によるものです。そして、多くの国家指導者が、青少年の淪落と家庭破綻の問題は、この真の家庭運動によってのみ根本的に解決できるということに共感し、積極的に協力したので可能となったのです。私はこの場を通し、これらすべての支援者に、もう一度感謝申し上げます。
祝福結婚式は、人々、特に若者たちに真の愛の価値を自覚させ、絶対純潔の必要性を共感させる動機と媒介になるでしょう。この運動によって自覚した世界の善男善女が集まり、神様の祝福のもとで永遠の夫婦となる、真の愛の革命が起きなければなりません。このようにして築かれた新しい家庭が、神様のみ前に新たに誓約した既成祝福家庭の支援を受けながら、正しい倫理を実践し、世界に道徳の模範を見せることによって、真の愛が結実した理想的な家庭、社会、国家、世界を創建していかなければなりません。
祝福結婚式は、偽りの愛の因縁を清算して、絶対「性」を中心とした結婚の神聖な内容と価値の回復を目指します。真の夫婦の愛、真の父母の愛、真の子女の愛を回復するための儀式です。ですから、祝福結婚式に参席する当事者は、純潔と信頼を生命視し、不変の夫婦の愛を誓約します。その真の愛の基盤の上で、真の家庭をつくり、真の子女を養育し、生活の中で真の国家と平和世界の実現に献身することを誓うのです。
到来する未来の世界は、神様と人間と万物が調和する新しい心情文化、真の家庭による愛の文化の世界です。真の愛によって互いのために生きながら、和合、協力し、共に暮らす共生共栄共義の世界です。未来の歴史は、「人類一兄弟姉妹」を念願する若者たちが、人種を超越した真の愛によって、真の家庭と真の父母中心の真の家族理想で、「世界一家庭」の夢を実現する歴史でなければなりません。
尊敬する世界の指導者の皆様。祝福結婚は、神様が私たちに下さる最も貴い贈り物です。私たち夫婦は、皆様がこの歴史的な儀式に同参し、神様の祝福結婚を受けることを願っています。
これから「世界平和統一家庭連合」は、一層拍車を掛けて真の家庭運動を展開し、二〇〇一年まで三回にわたり、三億六千万双の祝福結婚式を挙行するでしょう。価値観の崩壊と倫理的な堕落によって、青少年が不倫に陥り、家庭が根こそぎ破錠しつつあります。
滅亡の道を転げ落ちる人類を危機から救うこと以上に、急がれる重要なことがどこにあるでしょうか。人類を救う根本的代案である真の家庭運動と祝福結婚式を世界化させ、普遍化させようとする私の活動は、尊敬を集めている皆様の積極的な後援を必要とします。国別に志のある指導者が結束し、真の家庭祝福結婚運動の支援部隊をつくって、国を救う運動をしなければなりません。人類を本然の姿に復帰するこの意味ある活動において、多くの指導者が主役となってくださるように、切にお願いします。そうして、万民が一日も早く真の家庭を築き、神様を中心とした地上、天上王権時代に入り、勝利と自由と平和と統一の世界で暮らせるように指導しなければなりません。
皆様と皆様の家庭、そして皆様の国に、神様の愛が満ちあふれることを祈りながら、これで終わりたいと思います。

Thursday Mar 24, 2022
平和経 第158話
Thursday Mar 24, 2022
Thursday Mar 24, 2022
5.真の家庭理想による平和世界の実現
日付:一九九七年十一月二十七日
場所:アメリカ、ワシントンDC、キャピタルヒルトン•ホテル
行事:第四回「世界平和会議」
尊敬するシドキー議長、基調演説者の皆様、著名な元、現職国家元首と紳士淑女の皆様。「二十一世紀に向かう世界ビジョン」という主題で開かれた「世界平和連合」の第四回「世界平和会議」に参席してくださった皆様に、深く感謝申し上げます。
私は来たる土曜日、RFKスタジアムで行われる特別な行事に、皆様を直接招待したいと思います。世界宗教の代表的指導者の祝福の中で、私と妻は、百八十五ヵ国から参加した三千九百六十万双に対する祝福結婚式を挙行いたします。当初の目標だった三百六十万双を超え、再び三千六百万双を超過して達成いたしました。皆様の国からも多くの夫婦が同参するでしょう。百八十五ヵ国の代表を含めた三万双の夫婦がスタジアムに参席し、同時に人工衛星とビデオを通じて、世界的に祝福結婚式が連結され、進行するでしょう。
この祝福を受ける夫婦は、自分の家庭と夫婦の結合を神様のみ前に誓約し、配偶者には永遠の信頼と純潔を誓い、そして子女には高い道徳と純潔を教えながら養育することを約束します。この夫婦たちは、言語と人種と国家と宗教の背景が様々です。しかし、彼らは神様の愛、そして世界平和は神様を中心とした完全な家庭から始まるという信念ゆえに、この祝福式に同参するのです。
私は、皆様がこの歴史的な式典を見物するだけではなく、皆様もまた、関係ある周囲の人々と共に神様のみ前に出て、自らの結婚の誓約を新たにすることを願って、その場に招待いたします。
人類共通のビジョンのために
きょう私は、人類共通のビジョンを見つけ、実現するために歩んできた過去の五十年を回顧しようと思います。人類は第二次世界大戦の痛手を踏み越え、すべての国が平和になる道を探そうとしました。
神様は私に、二千年のキリスト教の基盤の上に神様の天国を建設する世界的な運動を指示されました。啓示の中心は、真の父母と真の家庭を探し出す公式路程でした。しかし、当時の韓国のキリスト教指導者は、この真理を受け入れることができず、神様に大きな失望を与えました。私は迫害と反対を受け、罪なく投獄される苦難の路程を歩まざるを得ませんでした。
キリスト教のこの歴史的な過ちが讒訴条件となり、韓国で悪が勢力を得て、韓半島が完全に分断され、半世紀にわたる受難の歴史を生み出す摂理の内的原因となったのです。
神様が下さるメッセージを拒絶したことが、なぜこれほど不幸な結果を生んだのかということを知るためには、神様が五十年前に私を通してキリスト教指導者に下さったメッセージの意味を知る必要があります。そのメッセージは、本質的にきょうのメッセージと同じです。ただし、キリスト教のためだけのものではなく、ユダヤ教、イスラーム、仏教、ヒンドゥー教、そしてすべての宗教と宗派のためのメッセージです。それは、神様を中心とした真の家庭の理想だけが、個人相互間や家庭と社会、そして国家相互間の真の関係と平和を達成する土台になるということです。
私は青少年のときから、人間の罪と苦痛の根源を探そうと必死に努力してきました。私はこれまで多くの涙を流し、誰も理解できない長い歳月の祈祷生活と孤独な霊的闘いをしてきました。長年、聖書に対する研究と広大な霊界を遍歴したのちに、ようやく神様が真で理想的な人生を啓示してくださったのであり、また人間の苦痛の根本原因が、エデンにおいて人間の先祖によって始まったことを教えてくださいました。
真の愛と真の家庭の理想
尊敬する指導者の皆様。皆様は、神様が真の愛と真の人のために、万物を創造なさったことを知らなければなりません。被造物はすべてペアになっています。動物界、植物界、鉱物界、すべて主体と対象の関係でできており、互いによく与え合うことによって形成される調和は、それらが存在して繁殖するすべての力、そして愛と善の基盤になるのです。
人間もまたこの原則に従って創造され、個人は心と体でできており、そして男性と女性になっています。神様の理想は、神様の真の愛を中心として心と体が一つになった個人と、そのように完成した男性と女性が一つになる家庭です。このようになれば、人間は神様の神性を正しく反映できるのです。また、神様の真の愛の対象体となり、子孫に神様の真の愛、真の生命、真の血統を伝えられるようになるのです。
アダム家庭は、神様の理想と一致した真の愛の家庭を築かなければなりませんでした。人間始祖アダムとエバは、神様の無形の性稟を実体的に完成し、神様のみ旨と愛を宇宙に伝えるという期待の中で創造されました。アダムとエバとその子女たちは、全人類が従うことのできる根本原理を生活の中で確立するはずだったのです。
アダムとエバの子孫は、心と体を一つに完成し、神様と一つになった個人、そして夫婦が一つになった家庭、また子女と共に一つになった家庭を成し、自由と平和と幸福と希望が地上全体に満ちた、安定した基盤を築いたでしょう。その典型が家庭や国家にとどまらず、世界と全宇宙に広がるのが神様の理想でした。真の家庭において形成された天国モデルが国家全体に拡大され、国家圏の天国が全世界に拡大され、世界圏の天国が全天宙に拡大されるのです。
人間の最も基本的な心の姿勢と人格は、家庭で形成されます。家庭は愛と人格、そして生活の出発であり、その根本基台となります。人生は家庭基盤の上で、父母の愛によって生まれ、息子、娘の段階から夫婦の位置、父母の位置、祖父母の位置へとその位相を異にする愛の人格体として完成し、結局、子孫の愛情の中で天の国に行くようになっているのが創造原理です。家庭を通して歴史と国が生じ、理想世界が始まります。これがなければ、個人の存在する意味もなく、血統の伝承もありません。ですから、家庭はすべての価値と理念、そして制度と体制より優先される、最も貴い人間の愛と生命の本拠地になるのです。
人間の罪の根本と真の家庭理想の回復
しかし、悲惨なことに、神様が理想とされた真の家庭は実現されませんでした。エデンの園で蛇はエバを誘惑し、エバはアダムを誘惑して、利己的な偽りの愛をこの世に植えたのです。人類の罪と不幸は、人間の先祖アダムとエバがサタンを動機として結んだ不倫の愛の結果から始まりました。堕落によって人類の始祖は善の先祖になれず、悪の先祖となり、悪の生命と悪の血統の根をもつようになったのです。
このように誤った愛から出発した最初の家庭は、真の愛の完成人格である真の人、真の夫婦、真の父母の始原をつくることができなかったのです。偽りの愛の結実である堕落人間の利己主義は、真の愛の秩序を破壊し、自身の心と体の葛藤から、家庭、国家、世界的な葛藤によって、分裂と闘争を拡大してきているのです。
人間の不幸を治癒する解決方案は、神様に帰る蕩減復帰しかありません。ために生きる真の愛によって心と体の闘いを中断させ、本然の真の愛の人格に復帰しなければならないのです。人類が真の愛の人格の始原と標本となる真の父母を迎えて祝福を受けることによって、理想家庭を築くべき理由がここにあります。
個人を復帰し、真の家庭を復帰して、真の愛と善を世界的基準に拡大しなければなりません。ただこの真理だけが、争っている教派を一つに統一でき、また地上天国を成し遂げることができるという事実を知っている私は、五十年前にこの啓示をキリスト教の人々に明らかにしました。私は、もう一つの教派をつくる意向は全くありませんでした。しかし、神様のメッセージは既存の教団から拒否され、迫害を受けました。私はやむを得ず他の基盤を築かなければならなかったのであり、そのために過去四十三年間、苦労してきました。一九五四年、韓国で「世界基督教統一神霊協会」を創立し、日本、アメリカ、ヨーロッパ、そして全世界に宣教師を派遣しました。この基盤の上に、私たち夫婦は多くの団体を立て、真の家庭の原理が学術、言論、宗教、芸術、産業分野などで扱われ、この世界を蕩減復帰できる標本と典型をつくろうと努力したのです。

Monday Mar 21, 2022
平和経 第157話
Monday Mar 21, 2022
Monday Mar 21, 2022
ザカリヤ、エリサベツ、洗礼ヨハネはイエス様に侍るべきだった
神様の息子がたとえ着地したとしても、サタンの世界において無事に育ってみ旨を成し遂げるためには、保護を受ける垣根が必要でした。神様はザカリヤ家庭の三人が、その基盤となってくれることを期待されました。しかし、このようにイエス様は私生児の立場で、ザカリヤ家庭の保護も受けられず、またヨセフとの難しい条件において、心情的に途方もなく寂しい境遇で育ったのです。メシヤの道を自覚するようになったイエス様は、孤独な事情が神様のみ旨を成就するに当たって深刻な障害要因であることを、独りもどかしく思ったのです。
本来、メシヤは第二のアダムであり、真の父です。その使命のためには、実体の新婦、真の母を迎えなければなりません。もし、ザカリヤとエリサベツが神様の啓示と霊的な恩恵のもと、最初にもった絶対的な信仰をもち続けていたならば、イエス様を神様の息子、メシヤとして、これ以上ない精誠を尽くして侍るだけでなく、イエス様を通して神様のみ旨を受け、絶対的に従ったでしょう。
そして、イエス様のために生まれた洗礼ヨハネでしたから、彼が悔い改めさせた民がイエス様を信じ、救われるように導く任を果たさなければなりませんでした。しかし不幸にも、ザカリヤはもちろん、エリサベツや洗礼ヨハネも、神様の息子としてイエス様を証しただけで、侍ることはなかったのです。
尊敬を受ける祭司のザカリヤが傍観し、洗礼ヨハネがイエス様と無関係な立場に立つことにより、かえってイエス様の行く道をさらに難しくしてしまい、民が従えないようにしてしまったのです。ましてや、彼らが信仰を失って人間的な考えに流れたとき、イエス様が願われた新婦を迎えることを助けるはずは絶対になかったのです。
イエス様は母マリヤからも、ザカリヤとエリサベツからも反対を受け、最後には洗礼ヨハネからも反対され、肉親の保護を受けながら使命を完遂することを断念せざるを得ませんでした。イエス様は、新たに摂理的基盤を探して、再び復帰摂理をするために家を出ました。家を出たイエス様は、行く所がありませんでした。「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」(マタイ八・二〇)と嘆息されたのです。
家庭や氏族の基盤を失ったイエス様は、それに代わる基盤を探しに出掛けたのです。これがイエス様の三年路程でした。しかし民族が不信し、弟子たちの信仰が弱くなってサタンの侵犯を受けてしまったので、イエス様の基台は崩れ、十字架の道を行かざるを得なかったのです。本来、イエス様はメシヤとして地上に来て、弟子たちと万民を祝福され、罪のない天国を築かなければなりませんでした。ところが、不信されて新婦を迎えられなかったので、真の父母になれず、その使命を完遂できませんでした。それで、再臨することを約束されたのです。
第三アダム、真の父として来られる再臨主は、イエス様が果たせなかった神様の復帰摂理の根本を完成するために来られます。すなわち、創造理想を完成する真の本然の赤ん坊の種として来て、神様の真の愛、真の生命、真の血統の根源となる真の父母理想を完成するために来られるのです。
再臨主は、既にイエス様のときまでに神側が勝利した根本摂理の土台の上に臨在されます。すなわち、イエス様が大人になられるときまでの勝利的な基盤の上にそのまま立たれて、イエス様が果たせなかった新婦を探し、真の父母となられ、祝福によって万民を復帰してくださるのです。
真の父母は、血統を伝授する新しい祝福結婚の行事を通して、全人類を神様の真の愛と真の生命、そして真の血統に接ぎ木し、真の人として救って、さらには真の家庭を築いて地上天国を建設されるのです。
祝福結婚は最も貴い贈り物
尊敬する宗教指導者の皆様。祝福結婚は、神様が私たちに下さる最も貴い贈り物です。私たち夫婦は、皆様がこの歴史的な儀式に同参し、神様の祝福結婚を受けることを願います。そして、これから「世界平和統一家庭連合」は真の家庭運動により一層拍車を掛け、二〇〇一年まで三回にわたり、三億六千万双の祝福結婚式を挙行するでしょう。価値の崩壊と倫理的な堕落によって青少年が淪落し、家庭が根こそぎ破壊されています。「自分のまいたものを、刈り取る」(ガラテヤ六•七)という聖句があります。エデンの園においてアダムとエバが、未完成期に不倫を植えました。終わりの日にそのような現象が世界的に再現され、青少年の極めて深刻な堕落現象が、罪悪歴史の結実として現れるのです。
滅亡の道を転げ落ちる人類を危機から救うこと以上に、急がれる重要なことがどこにあるでしょうか。人類を救う根本的代案である真の家庭運動と祝福結婚式を世界化させようという私の活動は、尊敬を集めている皆様の積極的な後援を必要とします。国別に志のある指導者が結束し、真の家庭祝福結婚運動の支援部隊をつくって、国を救う運動を広げていかなければなりません。
人類を本然の姿に復帰するこの意味ある活動において、多くの指導者が中心となり、率先してくださることを切にお願いします。そうして、万民が一日も早く真の家庭を築き、神様を中心とした地上、天上王権時代に入って、勝利と自由と平和と統一の世界で暮らせるように指導しなければなりません。皆様と皆様の家庭、そして皆様の国に神様

