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Thursday Mar 17, 2022
平和経 第147話
Thursday Mar 17, 2022
Thursday Mar 17, 2022
神様が一番占領したいものは人間の真の愛
それでは、神様の心はどれほど大きいでしょうか。人間の良心のふろしきと神様の心を比較すれば、どちらがより大きいでしょうか。神様の心が人間の良心より大きいとすれば、神様が一番占領したいと思うものは、この上なく大きな人間の真の愛だという結論が出てくるのです。
神様が絶対的な方であるなら、一人でいて寂しいでしょうか、幸福でしょうか。皆様がいくら大統領でも、妻がいなくて一人で暮らすようになれば、かわいそうなのです。愛の対象がいなければかわいそうになるのです。神様も相対が必要でしょうか、必要ではないでしょうか。
いくら神様でも、一人では寂しいのです。人間はお金がなければ寂しく、知識がなければ寂しく、権力がなければ寂しく思うのですが、神様はお金を必要とせず、知識も必要とせず、権力も必要としません。創造主だからです。神様に一番必要なものとは何かが問題です。神様のことを何と言いますか。神様は愛の王であられ、愛の主人であられます。もし愛の王であられ、新郎であられる方が神様であれば、相対者である王妃が必要だというのは絶対的原理です。それでは、「絶対的な神様の愛の相対になる方とはどなたでしょうか」と尋ねれば、どのように答えますか。それは、真の人間であるというのです。
皆様はお金を必要とし、知識を必要とし、権力を必要としますが、妻がいなければ、すべて意味がありません。夫には妻が必要であり、子女が必要であり、妻は夫が必要であり、子女が必要です。そのような愛の対象が暮らす所が家庭です。
私はここで、良心の願いをいっぱいに満たせる愛の主体であられる神様に侍り、その神様の愛の対象である男性と女性が一つになって、その愛の中で息子、娘を生み、幸福で豊かに暮らせる家庭こそ、神様の真の愛を中心とした地上天国の最初の出発基地になるということを主張します。
私たち人間が、愛する相対が自分より何千万倍、無限大の価値ある存在として現れることを願うのと同じように、神様も、御自身の愛する相対が無限の価値のある存在になることを願うのです。そのような人が、真の人間です。皆様、そのような男性と女性が、正にアダムとエバだったという事実を知りませんでした。私たちに高い良心の願いが与えられたのは、神様が主体であれば、人間は対象の立場にある存在だからです。ですから、神様の分身ではなく、神様とはまた違う別個の人格者だというのです。そのような対象に、神様より数千万倍価値のある存在になることを願う良心に基づく欲望を許してくださったのです。それが良心の作用だということを、私たちは知らなければなりません。
神様が創造当時、理想として願った真の愛、偉大な愛を中心として、人間と愛の関係を結び、一つになれる神人愛一体の家庭を築いたならば、今日、私たちは天国や地獄を語ることもなく、ただそのまま天国に入るようになるのです。ここで問題になるのは、神様の真の愛と人間の真の愛が、一つの主体的愛と相対的愛として一つになって一点から出発しなければ、神様の愛と人間の愛が異なる二つの愛として出発するようになり、二つの愛の方向と目的地になるということです。このようになるとき、神様と人間が願う絶対的理想世界を見いだすことはできません。この二つの愛が一点から出発できることを願った神様のみ旨は、堕落によって完全に停止してしまったというのです。
真の愛と真の生命と真の血統を受け継ぐことによって救いが成就する
サタンの愛を中心に偽りの父母が生まれ、偽りの愛、偽りの生命、偽りの血統を受け継いだ子孫なので、すべて地獄に行くのです。天国とは関係がありません。ですから、体の強い力を制御して、心が思いどおりにできる人を中心として、良心を通して神様の愛を占領しなければなりません。ところが、私たち人間はその事実を知らなかったのです。
皆様。恋煩いというものを知っていますか。恋煩いにかかった人は、恋煩いにかかった動機を解決してあげれば、万事が解決します。堕落した人間ですが、堕落していないアダムの本性が残っているので、それが恋煩いにかかったように神様の愛を慕い、また慕うというのです。良心は、「神様の真の愛を、どのようにして占領するか」と言います。お金があり、知識があり、権力があっても、自分の生命を懸けても、愛する人を失ってしまえば、何の役にも立たないのです。
皆様が心を解放して解怨成就させ、良心世界において三六〇度に解放圏を形成すれば、その良心は自然に神様の真の愛と連結されるようになっています。愛のふろしきと良心のふろしきのうち、どちらが大きいかと言えば、愛のふろしきが大きいのです。なぜなら、良心は愛から始まったからです。良心を解放し、神様の真の愛と一つになって暮らしてから入る所、神様を中心とした愛の血族を準備して、彼らを中心に暮らしてから入る所が天国です。その愛を占領できなければ、永遠に天国に入れず、その日のために数千万年、待たなければなりません。
堕落した人間は、神様の真の思想と経綸の明かりが神様の真の愛とともにともされて一体にならない限り、天国とは関係がありません。真の良心と真の愛が一つになって暮らす人は、自動的に天国に入ります。イエス様を信じても、神様の愛と結合できなかった人は、天国に入れないのです。
体と心が闘う人は天国に入れません。サタンの血統を受けて紛争が起きている人は、天国に入れないというのでこのようなことを開拓すべきすべての宗教が自ら争うときには、終わりの日に、すべて滅びるのです。争う所には神様がいらっしゃいません。ですから、宗教を信じるというのは、体を打って良心を解放する断片的なものであって、これが救いの門を開く鍵ではないのです。神様の真の愛を中心として、真の愛と真の生命と真の血統を受け継がなければ、救いはあり得ないという事実を知らなければなりません。宗教を信じることによって救われるのではありません。宗教を信じるのは、体を追い込むためです。良心の解放圏を備えるようになれば、良心の願いは神様よりも高まるというのです。
人間は神様に帰らなければならない
皆様。自分がすることを良心が先に知るでしょうか、神様が先に知るでしょうか。良心が先に知るというのです。私たち人間は相対的な存在なので、夫と向き合う妻のように、個性も人格も異なっているのです。
もし神様が先に知るとすれば、人間は神様の分身であり、一つの体なのです。一人では、相対的な理想を完成できないというのです。それで、アダムとエバが堕落したあと神様は、「アダムよ!お前はどこにいるのか」とまず尋ねたのです。人間は神様の真の愛から出発したので、対象的な人格者として神様に帰るのです。神様に帰らなければなりません。父母が百歳になり、息子も年を取って八十歳になれば、父と息子は父子の関係はもちろん、友達にもなるのです。
女性と男性は、力で比較すれば相手にもなりませんが、愛というものが介在すれば、妻と夫が互いに押したり引き寄せたりしながら、一つになるというのです。人間が神様のみ前に対象的な愛の存在になったとすれば、神様が喜ばれるでしょうか、喜ばれないでしょうか。
神様は、神様の理想的な対象を未来の希望として願いながら、愛の対象が完成する前にこの宇宙をお造りになったのですが、愛の対象として完成したのちに、アダムとエバがそれ以上に大きいものを再び創造してほしいと言えば、神様にそれを創造できる能力があるでしょうか、ないでしょうか。私たちの良心の願いが無限であっても、それを創造してくれる神様であるということを知らなければなりません。
このように無限な神様の真の愛を中心として、対象の価値をもつ存在として人間を造ったのですが、これを完全に失った人間になったので、再びこれを回復しなければならないのが人間の生涯であり、人類歴史の目的であるという事実を知らなければなりません。各宗教では、宗教の主人たちが再び来ると言いました。イエス様が再臨すると言い、仏教では弥勒仏が来ると言い、儒教は新しい孔子が来ると言い、イスラームのシーア派ではマフディーが来ると言ったのです。
神様が宗教を立てた目的は何でしょうか。神様が一番愛する息子、娘、神様の骨と肉が一つになる、そのような愛する息子、娘を中心とした愛する家庭、愛する氏族、民族、国家を形成することが神様のみ旨に違いないということを、はっきりと知らなければなりません。そうだとすれば、メシヤはどのような方かということを知らなければならないのです。永遠な神様の真の愛を根として初めて地上に訪ねてこられ、すべての宗教が願う理想を完成する方が、再臨のメシヤであることを知らなければなりません。

Wednesday Mar 16, 2022
平和経 第146話
Wednesday Mar 16, 2022
Wednesday Mar 16, 2022
神様が願う家庭と私と世界を知らなければならない
全世界的に今、問題は、私的にも公的にも、物質が先か精神が先か、無神論か有神論か、観念か実在か、進化論か創造論かということです。これをはっきりさせなければなりません。
例を挙げてみましょう。動物世界を見れば、生まれるとき、目が先に生じます。その目は、物質それ自体です。その目が生まれる前に、太陽があることを知っていたでしょうか、知らなかったでしょうか。その目という物質肉体は知りませんでしたが、生まれるときは、先に知った立場で、太陽を見ることができるように生まれたのです。知った上で生まれたというのです。
空気があることを、その目自体は知りませんが、既に空気の中にはほこりが飛ぶことを知っていて、目をカバーするまつ毛が準備されていることが分かります。そして、目自体は知りませんが、あらかじめ涙を蒸発させる輻射熱があることを知り、目に涙腺を置いて防備するようにしたのです。本来の物質自体は知りませんでしたが、生じる前にそのような事実を知った上で生まれたというのです。結論として、私たちはこのことから、思惟と存在、精神と物体、観念と実在、有神論と無神論、創造論と進化論について論争する問題を解決できるというのです。ですから、確かに神様によって創造されたということを否定できません。そのため、本然の神様の創造理想世界に帰り、神様が願う家庭と私と世界をはっきりと知らなければならないのです。
私たちの体と心を見れば、体は地獄の基地になっており、良心は天の国の基地になっているという、この二つの世界の分岐点をもっている人間であることが分かりませんでした。このような立場に立っている私たち自身を見ると、体が心を引っ張り回しているというのです。歴史を通じて、体が心を自由自在に引っ張ってきたというのです。もし良心が強くなれば、自然と天に帰っていくので、世界は既に天のみ前に立つことができたはずだというのです。
またこの良心よりも、肉身が良心を引っ張り回すというのは、堕落するときにサタンと関係を結んだ偽りの愛の力が、堕落するときの良心の力よりも強かったということです。神様はこのようなことをよく知っているために、堕落した人類を放っておくことができず、この体が良心を引っ張り回す力を弱める作戦を行わざるを得ないのです。このように、歴史的に天が働くその救援的な役割をもたせて立てたのが、宗教だというのです。
宗教の目的
神様は、異なる文化的背景に従って多くの宗教を全世界に立てたのですが、心を引っ張り回す体を弱め、その力を取り除くことが宗教の目的であることを、今まで宗教を信じる信仰者は知らずにいたのです。堕落がなかったならば、宗教は必要ありません。誤ったので、これを修正するために宗教が必要だったというのです。ですから、神様は宗教を通して何をしようというのでしょうか。心を引っ張り回すこの体を追い詰めようというのです。
皆様は、宗教を信じることによって救われ、キリスト教を信じることによって天国に行き、仏教を信じることによって極楽に行くと思っています。しかし、天国は神様の真の愛を中心として一つになった子女が入るようになっています。天国に入れるアダムとエバの家庭は、神様の子女として、血族であり、神様の愛を中心とした家庭とならざるを得ないのです。そのような家庭が人る所が天国であることを、今まで誰も知りませんでした。ですから、良心の力を強化するために、この体を打たなければならないのです。良心を解放させ、良心が体を自由自在に引っ張り、堕落していない本然の神様の愛の懐に帰らなければならないというのです。
それでは、宗教がしなければならないこととは何でしょうか。体が最も嫌がることを提示することです。体が嫌がる「断食をしなさい」、「奉仕をしなさい」、「犠牲になりなさい」ということを言うのです。それだけではなく、最後には「祭物になりなさい!」と言います。祭物は血を流すようになっています。生命を懸けることができなければならないというのです。ですから、聖書で「自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである」(ルカ一七.三三)という逆説的な論理を教えてくれたのも、肉身が生きるままに行けば地獄に行くのであり、肉身を抑制して良心の解放圏を形成すれば天国に行くという意味です。私たちの体を完全に屈服させ、良心が絶対的な主体の立場に立つようになれば、私たちの良心は無限の欲望と無限の希望をもつようになっているのです。
今日、歴史時代において数多くの宗教があり、数多くの宗教指導者がいましたが、その宗教指導者と宗教を信じる人々は、体を完全に占領して無の状態に立ち、良心を中心として本然的基準で天と相対できる立場に立った、解放された人間になれませんでした。
私たち人間は、堕落することによって偽りの愛の根を中心として野生のオリーブの木になってしまいました。神様の真の愛を中心として根を打ち込むべき人間が、悪魔の愛を中心として根を打ち込んだために、野生のオリーブの木になったという事実を、どのように清算すべきでしょうか。これは現在、生きている私たち人類が解決すべき、重大な宿命的課題として残っているのです。
皆様自身を中心として見るとき、皆様の良心は、皆様のあらゆることについて、知らないことがありません。良心は私にとって、父母よりもさらに近い位置に存在することにより、永遠の愛をもって、永遠に神様の懐に抱かれることを願っているのです。世の中の父母とは、結婚すれば別れることがありますが、良心は私を中心として、私が生まれる前から私と共に存在し、私を愛しながら、永遠に神様の子女として解放しようとするのです。それが良心作用なのです。
良心の願いは絶対的中心者を占領すること
良心の世界には、師は必要ありません。ある国の教育を担当する大臣が、「良心を教育しよう」と宣布したという話を聞いたことがありますか。良心が本然の道を行くとすれば、私が一生の間、行くべき道をはっきりと知って、間違いなく神様の懐に帰っていけるようにすべて教えてくれ、導いてくれるということです。皆様が良心を中心として見るとき、良心が自分の一生のあらゆることを知っているのと同じように、霊界に行けば、地上で行ったすべての事実がはっきりと分かるようになっているのです。傷のない子女、すなわち永遠な神様の真の息子、娘になるように働き掛けるのが私の良心の作用であることを、今まで知らなかったのです。
霊界に行かない自信のある人はいますか。いずれにせよ、誰もが行くのです。皆様が霊界に入れば、すぐに名前が分かるようになっていて、皆様の一生だけでなく、数千代の先祖も一瞬にして分かるのです。そこは時空を超越した世界なので、良心に背く内容を残してはならないのです。そのため、良心は師よりも優っているという事実を知らなければなりません。
ここには著名な方々と教授が来ていると思いますが、皆様は良心以上に教えてあげられる内容をもっていません。皆様の良心は、航海する船におけるコンパスと同じ役割をしています。皆様の中には、年を取った方々と若い方々がいらっしゃいますが、結婚するとき、相手が自分よりも劣ることを願う人はいますか。いません。また、「愛する相手が自分より十倍優れていることを願うか、百倍優れていることを願うか」と尋ねるならば、ためらうことなく「百倍!」と答えるのです。可能であれば、千倍、万倍、億万倍、もっと優れていることを願うのです。
その時に、良心の願いは最高の愛であり、絶対的中心者を占領しようとするのです。私たちの先祖も、私たちの子孫も同じです。このような質問を神様にしてみても、同じ答えが返ってくるでしょう。
皆様。欲心と欲望をすべてかなえようとするとき、ブラジルの上院讓員は国家のために大統領になりたいと思い、南米全体、ひいては世界のために貢献する一番高い、立場に立ちたいと思うのが、良心に基づく欲望です。歴史始まって以来、今まですべての人々が、「良心の願いは達成できない、不可能である」という結論を下しています。しかし、ここに立っているレバレンド•ムーンは「可能である」という結論を下しているのです。
皆様の良心のふろしきはどれほど大きいでしょうか。良心の大きさはどれくらいでしょうか。良心が神様を占領したというとき、それで終わると思いますか。神様よりもっと大きいものがあれば、そのもっと大きいものを占領したいと思うのが良心の願いでしょうか。それとも、そこまでは願わないでしょうか。神様よりもっと大きいものがあれば、そのもっと大きいものを占領したいと思うのが良心の願いなのです。それでは、良心の願いはいったい何をしようというのでしょうか。宇宙で最高のものがあるなら、その最高のものも占領し、それ以上に大きなものかあってもまた占領しようとするのです。良心はそれほど大きなふろしきだというのです。

Wednesday Mar 16, 2022
平和経 第145話
Wednesday Mar 16, 2022
Wednesday Mar 16, 2022
第四篇 人類を救う真の家庭運動
1. 1.真の家庭と私
日付:一九九五年六月七日
場所:ブラジル、ブラジリア
行事:中南米十七ヵ国巡回講演
今晩、ブラジルに来て貴賓の皆様にお会いし、このような歓迎パーティーの場をもてたことを、心から感謝申し上げます。
皆様はたくさんのうわさを聞いて御存じかと思いますが、ここに立っているのが、正にレバレンド•ムーンという者です。世界に多くの問題を起こし、多くの話題を提示しながら今日まで歩んできたのは、天に侍ってきた歴史的事実ゆえであると言わざるを得ません。きょう、ひと時の間お会いし、喜びの環境の中でお話ししようと思うのは、「真の家庭と私」という内容です。世界で問題となっているのは家庭ですが、真の家庭とはどのような家庭かということを中心として、お話ししたいと思います。
真の家庭とはどのような家庭か
「今、私たちが生きている世界は、善の世界か、悪の世界か」と尋ねてみれば、誰もが「悪の世界である」と答えるでしょう。なぜ、悪の世界なのでしょうか。全世界の歴史を見ても、ブラジルの歴史を見ても、どの国の歴史を見ても、戦争の歴史が続いてきたという事実を、私たちは知っています。戦争を通して争うという事実は、一つの平面的な基準から落ちていくということです。そして、世界が悪であるとすれば、ブラジルという国も悪であるという話であり、ブラジル人も、私たち自身も悪であると言わざるを得ないのです。
私たち自身をよく見れば、私たちの体と心も闘っているという事実を否定できません。そうだとすれば、この闘いの起源はいったいどこにあるのかということが問題にならざるを得ないのです。私自体内に紛争があって平和の基地をもてないときは、いくら家庭が平和で、国と世界が平和だとしても、幸福になり得ないというのです。
皆様が御存じのように、第一次、第二次、第三次世界大戦も終結しました。また、戦争中でも、いくらでも休戦はできますが、私たちの体と心を中心としたこの闘いは、昔から歴史を経て、現世はもちろん、未来まで続く闘いであることを、私たちはまるで知らずにいたのです。このような問題を中心として考えるとき、神様がいらっしゃるのであれば、私たちの体と心の闘いが、なぜこのように歴史性を帯びて続くようになったのかということが大きな問題になります。人間が罪を犯したというとき、罪を犯した人がそれを蕩減しなければなりません。罪を犯したこと自体に神様が責任を負い、干渉することはできないのです。
それでは、体と心が闘う起源地はどこでしょうか。私たちの生命は父母から受け継ぎましたが、また父母をさかのぼっていけば、第一代の私たち人類の先祖の位置までさかのぼるようになります。すなわち、第一代の先祖であるアダムとエバの夫婦の愛に問題があったために、このようになったと見るのです。生命の起源は父母の愛によって始まります。ですから、私たちの生命が出発する前からこのような闘いが始まったと見るならば、父母が愛し合うその場が問題になったという事実を、私たちは考えざるを得ません。アダムとエバの愛が喜びの愛になれずに、相反する愛の起源となって生命の根が打ち込まれたことによって、私たち人間自体の紛争が始まったと言わざるを得ないのです。
聖書は、アダムとエバが堕落することにより、エデンの園から追い出されたと記しています。追い出された人類の先祖が、子女を繁殖したのは事実です。追い出したアダムとエバについていって、神様が結婚式をしてあげたはずは絶対にありません。誰のもとで結婚式をしたのだろうかと考えるとき、堕落することによってサタンのもとで結婚式をしたということを、私たちは認めざるを得ないのです。
体と心、夫婦、子女統一を願う真の父母
堕落は、サタンによってエバが誘惑され、その誘惑されたエバがアダムを誘惑したところから始まりました。ですから、私たちの先祖であるアダムとエバが愛を中心として夫婦関係を結ぶとき、喜びの関係ではなく、相反する関係で結ばれることにより、その関係に根を置いている私たち人間も、体と心の闘争の起源を連結せざるを得ないという事実は、何よりも理論的なのです。
堕落は淫乱によって始まりました。このような願わない愛の関係によってサタンと一つになり、善の先祖になれず悪の先祖となって、悪の愛と悪の生命と悪の血統の根をもつようになったのです。このようなことが事実であれば、私たち全人類の堕落した子孫が、家庭を越えて、氏族を越えて、国家と世界まで発展した今日、五十億の人類はサタンの子孫であり、悪の父母の血統を受け継いだことを否定できないのです。私たちの体の中に、神様が最も嫌うサタンの血が蠢動しているという事実を、誰も考えられませんでした。これが問題です。
それでは、この根をどのように清算するのでしょうか。サタンが愛の根をどこに打ち込んだのかというと、体、すなわち肉身に根を下ろしたのです。もし堕落していなければ、体と心が一つになるのは自然の道理です。堕落することによって、天に相対する良心のプラスと、これに反対する体のプラスが衝突しているために、ここから闘争の歴史が始まったという事実を、私たちははっきりと認識しなければなりません。
このため、神様は善悪の分立歴史を展開せざるを得ないのです。神様は公的であられるので、全体のために生きる道を選びながら、愛と平和の目的に向かう反面、サタンは私的立場を取り、全面的に善の側を破壊しようとする立場に立って、憎悪と戦争で永遠に人類が天の側に行けないよう、天と地上世界を滅ぼそうとしています。神様は、サタン側に回った人類を打てないので、人類を取り戻すために天の側が打たれて取り戻し、サタンは打って奪われる作戦を取らざるを得ません。サタンは私的なことを中心として、憎悪と闘争によって天を滅ぼすための破壊を、歴史を通して行ってきており、天は反対に公的な立場で、愛と平和によって再創造してきているのです。
終末になれば、サタンは人類を支配してきた立場を天の側に奪われるようになるので、「神はいない」という無神論を提示して、人本主義と物本主義、そして共産主義の出現を助け、天の側の右翼とサタンの側の左翼の闘争を世界的に展開したのですが、天の側の勝利によって、第二次世界大戦以後、キリスト教文化圏の勝利と平和の世界に転換する大変革時代を迎えるようになるのです。
今の時代は個人主義の王国時代です。真の愛を中心として願う天の家庭を完全に破壊させたフリー•セックス時代と父母否定時代であり、夫婦否定時代と子女否定時代であり、ホモやレズビアンなど、天の側を完全に破壊する地上地獄の時代ですが、これを天国に転換するためにメシヤの再臨があるのです。そのため、メシヤは真の父母として体と心の統一、夫婦統一、子女統一を願うのです。

Tuesday Mar 15, 2022
平和経 第144話
Tuesday Mar 15, 2022
Tuesday Mar 15, 2022
神様と人類は父子関係
満場の市民の皆様。きょう一時を生きていく人生の道というものは、平坦な道ではありません。それは人間が堕落したからです。人間は堕落の因縁をもって生まれたがゆえに、その堕落によって生じた怨恨の過程を、いずれ乗り越えなければならない運命をもって生まれ、数千、数万年の歴史過程を経てもそれを越えなければ、その恨の道は私たちの前に永遠に残るようになるのです。
エデンの園でアダムとエバが堕落したその瞬間から、人間は不幸の要件をもって出発しました。ですから、人類が幸福の世界に帰るためには、必ず不幸の世界を跳ね返して進まなければなりません。そうでなければ、誰も幸福な世界に帰ることはできません。
人類始祖が堕落したことによって人間だけが不幸になったのではなく、神様までも共に不幸になりました。人間が生涯を捧げて生きていく一つの目的は、理想世界の実現だけではありません。それよりまず、生命の根源であられる神様に積もりに積もった悲しみと悲痛さをどのように打開するかということが、私たちの生涯の目的です。ですから、人類が幸福な所を訪ねるとき、神様も幸福になるのです。神様と人類は父子関係だからです。このように神様や人間は同じ立場に立って、一つの目的を指向し、歴史過程を経ながら今まで歩んできました。神様はアダムとエバを失うことによって、険しい道の中でも険しい道、世の中の誰も願わず、また行きたがらない道を歩んでこられたのです。人間もやはり堕落で残された、この避けることのできない運命の道を、救いの一日を願ってやって来ました。
神様に対して人間は、その方の息子、娘になることが最高の願いです。なぜなら、父母と最も近い立場は父子関係だからです。「私」という人間は、父母の愛と生命が合わさって、父母の理想を実現するために生まれました。愛や理想という言葉は、一人について語る言葉ではありません。生命も一人で独断的に出てくるものではなく、連結された立場で出てくるのです。ですから、神様が人をお造りになるとき、神様の真の愛と真の生命と理想の対象として造られたのです。これは驚くべき偉大なことです。自分がいなければ、父母の愛は現れることができません。父母の愛と生命と理想は、自分と共に関係しているのです。自分は父母の愛と生命と理想の結実体です。ですから、息子の立場は最高に価値のある立場です。神様と人類は父子の関係だからです。
父母と自分が一つのところから共に出発したという事実は、驚くべきことです。父母の愛は自分の愛であり、父母の生命は自分の生命であり、父母の理想は自分の理想として決定することができるのです。ですから、父母は子女を見つめるとき、これは自分の愛する息子、娘だと言います。子女とは、自分の愛と自分の生命と自分の理想の実体だということを、父母は感じて悟り、知っています。愛する息子、娘は、一日だけ会わなくても、会いたいと思い、今見ても、またすぐ見たいと思うのです。それはどんなに離そうとしても離すことができない、骨の中の骨であり、肉の中の肉です。いなければ死ぬほどつらいと思うのであり、そこにはすべての理想がかかっているのです。
今日、堕落によって真の愛と真の生命と真の理想をもつことができない人間世界に生まれた父母でも、そのように子女を愛そうとするのですから、そのような父母の主体であられる神様は、それよりもっと愛するというのです。
救援摂理の完成
本来、堕落していないアダムとエバは、神様の直系の息子、娘として神様の血統を引く存在です。アダムとエバは、天上天国と地上天国を受け継げる王子、王女だったのです。王子、王女であると同時に、無形の神様であり、主体であられる神様のみ前に対象として造られた存在であるがゆえに、神様から愛を受けられる実体なのであり、無形の神様が実体として顕現したものです。
神様の息子の特権とは、その方は自分のものであり、その方がもっているすべてのものも自分のものだというのです。神様の愛までも、生命までも、理想までも自分のものです。このように驚くべき偉大な本然の価値を、人間は再び回復しなければなりません。ですから、神様が主体的真の愛であり、永生するのなら、その真の愛の相対も永生しなければなりません。神様の真の愛と一つになれば、神様が自分のものになるのです。
堕落していないアダムとエバの体は、神様が住むことのできる家です。アダムとエバが神様を心の中心として、真の愛で永遠に統一された愛の体、生命の体、血統の体になっていたならば、今日、私たちの心と体は闘わないでしょう。堕落とは、悪魔の愛を中心として、悪魔の生命体と血統を受け継いだことです。偽りの父母から生まれたのです。ですから、この血統を改造しなければなりません。野生のオリーブの木を真のオリーブの木に改造しなければならないというのです。そうするためには、接ぎ木をして三代以上経て、そこで結ばれる実が真のオリーブの木になって、本然の基準を取り戻すようになるとき、初めて堕落した人間が本然の人間に復帰されます。そのとき、救いの摂理が完成するのです。
このように神様と一致した愛を中心として、善なる父母の息子、娘にするために、神様がこの地上に救世主として真の父母を送るのです。救世主は人類の血統を清め、本然の創造理想を実現するために来られるお方です。
私たち人間は、誰でも最高になりたいと思い、神様の息子、娘になって、神様の王子、王女として王権を受け継ぐ相続者になりたいという本然の欲望がありますが、他の血統を受け継いだがゆえに、生まれても嘆かわしく、生きても嘆かわしく、死んでも嘆かわしいのです。人生は苦海だという言葉が、ここから出てきました。ですから、自分の体と心の闘いをどのように中止させ、一つに統一させるかという問題が重要です。自分の体と心を一つにできなければ、南北統一も、世界統一も、そして霊界統一も、自分とは何の関係もなくなります。
主体と対象は、対応的な関係を結んだのちには、より大きなものを中心として一つにならなければなりません。男性と女性が対応して一つになったあと、より大きなプラスやマイナスになって、国の前に忠臣にならなければなりません。そして、これが再びプラスやマイナスとして世界的次元で聖人の道理に接ぎ木されなければならず、聖人の道理が再びプラスやマイナスになって、天宙的次元で聖子の道理に接ぎ木されなければなりません。そのように聖子の道理を備えたのちにこそ、神様に接ぎ木することができるのです。
ところが、私たちは発展を願い、大きなものを願い、高いものを願う、このような原則において、自分が行くべき道が運命的に横たわっているにもかかわらず、その道を知らずにいます。本然的な天道の動きに対する対応的な反射として、自分の心の欲望は作用していますが、その成就の道を知らずにいるために、人生は塗炭の苦しみの中で呻吟しているのです。これを見いだすことができないために、世の終わりの日になれば、その道を見いだすために多くの努力をしても不可能なので、自殺がだんだんと増えていくのです。私たちは何としてもこれを克服する道を探さなければなりません。
人類は世界の舞台で一番になることを願う前に、まず本然的アダムとエバの家庭で一番になることができなければなりません。アダムとエバが神様のみ前に直系の王子と王女の立場を備えるようになれば、彼らは男性として最高であり、女性として最高になるのです。しかし、彼らが堕落したことによって、彼らが占有すべき長子権の王子、長子権の王女の立場を失ったのです。これが人類歴史に恨として残りました。ですから、人類は神様の真の愛を再び探そうと、最初の息子と最初の娘の立場を求めていく人生の道を歩んできたのです。
そのような真の愛を受けるためには、自分自身を中心に生きるのではなく、神様を主にして、兄弟である人類を主にして生きなければなりません。父母に代わって兄弟のために最も多く血と汗を流しながら、長く耐えて克服した真の人であるほど、深く、広く、高い愛を受けるのです。そのような息子になり、娘になってこそ、父と母の全体を相続することができるのです。この道は男性も女性もみな行かなければなりません。ですから、十回でも百回でも死の峠を経て、また死んだとしても絶えず神様の真の愛を求めていかなければならないのが、人生において行くべき最高の道なのです。
統一教会の原理は、人間が神様の真の愛の圏内から脱したことが堕落であり、神様の愛の圏内に再び入ることが復帰だと教えています。そのような真の愛の圏内に入れば、自分の手一つを見ても、千回、万回激しく称賛するようになります。その世界では、自分の体も神様の真の愛を受ける体になるので、その喜びは言葉で表現できないのです。そのように素晴らしい世界が天国です。
宗教の使命
私たち人間の心が神様の真の愛を占領する日には、千年、万年歌い、踊ることができるのです。神様の真の愛に酔うようになれば、酒や麻薬のようなものに酔うこととは比較にもなりません。天下に存在するものすべてを呼べば、そこに応えないものはありません。流れる水だけを見ても、千年間歌を歌うことができます。そこにおけるささやきの甘味は、無窮無尽だというのです。その時は世の中のすべてを成し遂げたことになるので、金銀財宝も他の何も、みな必要ありません。世の中でそれより貴いものがないというのです。
このようなことを見るとき、人間の価値は、愛を通して、真の愛の感覚を通して宇宙と和合できる主人格だというのです。これを成し遂げることが人生の行くべき道です。霊界は今まで未知の世界でした。その世界は神様の存在原則である、ために生きた人だけが行く所です。そのような内容で形成された世界が理想天国です。そこが、私たち人間が求めていくべき本郷なのです。
今日、私たちは堕落した人生によって本郷から追放された人間となったがゆえに、本郷の地に向かって帰るベき運命にあります。しかし、そこは人間自体だけでは帰ることができません。それで、神様は人間が帰ることのできる道として、その民族の文化背景、風習あるいは伝統に従って数多くの宗教を立て、歴史的に収拾してこられたのです。宗教は本郷の地に帰る資格をもつ人に鍛える訓練の場です。神様は東西南北、四方の文化背景によって、高い所に前進できる一つの統一された宗教世界に導いてこられたのです。
そのような本郷の地に導く宗教なので、宗教は「ために生きなさい」と教えてあげざるを得ません。それで、高等な宗教であるほど、ために生きなければならないという原則を強調し、温柔、謙遜であれと教えるのです。無数の人々を高め、彼らのために生きる立場に立って、犠牲になり、奉仕しなさいと教えるのです。
今や、私たちの前に到来する二〇〇〇年以降は、世界の全人類が神様を中心とした真の本然の人間の価値を取り戻し、天地父母と一体となった祝福を受けた真の家庭を成し遂げ、神様と真の父母様を中心として、永遠にために生きる、真の愛の道理を実践する、真の平和と真の理想の天国時代を迎えなければならないのです。新年に皆様の家庭と国家に、神様の愛と祝福が一層満ちあふれることをお祈りいたします。ありがとうございました。
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Tuesday Mar 15, 2022
平和経 第143話
Tuesday Mar 15, 2022
Tuesday Mar 15, 2022
真の愛を中心とした家庭が行くべき道
真の愛を中心として男性と女性が一つになり、理想的な夫婦となって家庭を築けば、彼らは神様を身代わりする立場に立つようになり、宇宙のすべてに連結されます。そのようになるとき、神様のすべてが自分のものになるのです。どれほど幸福な立場でしょうか。ですから、私たちは万物を征服したい気持ちになるのです。男性と女性が合わさって家庭と社会と国家、そして世界を築くがゆえに、男性と女性が中心になって築いた家庭は氏族のモデルにならなければならず、氏族は国家のモデルにならなければならないのです。私たちの家庭が行くべき道とは、理想的な家庭と氏族と国を復帰していくことです。ですから、理想的な国が出てくるためには理想的な家庭がなければなりません。
尊敬する市民の皆様。真の愛が偉大な理由は、真の愛で私自身が神様の対象になることができ、神様も私自身になることができるからです。聖書にも「父がわたしにおり、また、わたしが父におることを知って悟るであろう」(ヨハネ一〇•三八)とあります。父が息子の中に、孫が祖父の中に、祖父が孫の中にあるという言葉は、ここから生じた言葉だと考えます。
祖母と祖父は、孫を中心として情を結ばなければなりません。それでこそ、愛の垂直線が始まるのです。また、孫は、祖母、祖父と一つにならなければなりません。祖父と祖母は神様と同じ立場なので、神様のように侍らなければなりません。そうでなければ、縦的な愛の軸を見いだすことができません。これを立てたのちに、横が生じるのです。横的なものは四方に連結されますが、縦的なものはただ一つの方向です。横的なものは東西南北、三六〇度に動くことができ、縦的なものは一つの点で動くことはできますが、分離することはできないのです。
ですから、愛を中心として、まず体と心を一つにしなければなりません。そして、神様を中心とした縦的な世界である霊界を愛することができなければなりません。そして、未来に中心国家が現れれば、その国を中心として全世界の人類を愛さなければなりません。ですから、真の愛を中心として、犠牲、奉仕、献身の道を通じ、霊界と全世界の人類を愛する生活を送れば、人間は自動的に中心的存在になって、二つの世界を主管して一つの世界をつくることができます。そうすれば、神様もそこに臨在されるようになるのです。
全霊界と全宇宙が合わさったものを天宙と言いますが、すべての霊界と宇宙は、真の愛を中心として、この天宙が一つに統一されることを願います。天宙を統一できるのも、全体の家庭を理想化させて一つにできるのも真の愛です。それで今日、人間が地上で暮らしても、永遠の生活をする霊界に入っても、絶対に必要なものは真の愛しかないという結論が出てきます。
真の愛は、人間や霊界だけでなく、すべてが好みます。ですから、真の愛をもった人は、動物や植物たちからも好まれ、彼を主人として迎えようとし、どのような存在でも真の愛を中心とした人と一つになろうとするのです。被造世界のあらゆる存在は、真の愛をもって生きる男性と女性の前に近づこうとし、彼と共に生き、彼により主管されることを理想とします。ですから、この世の中で一番貴いものとは、真の愛をもった男性と女性、すなわち真の人だという結論が出てくるのです。
人間には翼がないので、どんな昆虫や鳥よりももっと遠くに飛び、どんな飛行機よりももっと速く地球星を回るには、実体の肉身ではできません。どんなに走っても、いくらも行けないのです。人は万物の霊長として神様と対等な相対的立場にあります。ですから、一秒間に三十万キロメートルを走る光よりもっと速い作用ができなければなりません。それを可能にするものが霊人体です。今、私がソウルにいても、霊人体はさっとニューヨークに行ってくることができるのです。稲妻よりも速いというのです。このように、思いとともに歩調を合わせて作用できるのが霊人体です。しかし、世の中で一番速い作用とは、愛の作用です。世の中で一番速度が速いのは光や電波ではありません。世の中で一番速く、高く飛べる力をもったものが愛です。この地の果てとあの地の果てにいる人間同士で互いに愛し合うようになれば、その地の果てを越えて引っ張り合うのです。愛はそのような力をもっています。
真の愛を体験した人は、神様の本来の理想的な世界では、神様が願うあらゆることを即座に所有できる能力と権限をもちます。そして、そのような資格は地上でもたなければなりません。霊人体を中心として肉身が一つになる過程で、神様の愛の接続点が真の家庭において形成されてこそ、そのような立場に進むことができるからです。
神様の真の愛は、同胞を愛しても、世界の人を愛しても、万物を愛しても、感じることができます。どの国の人でも、五色人種を愛する心をもたなければならないのです。人だけではなく、微々たるものまで愛することができる心をもたなければなりません。自動的にそれが湧き出てこなければならないというのです。花が咲けば、その美しい色や香りは自然に出るのです。同様に、愛の花が咲かなければならず、愛の香りが自動的に宿らなければならないというのです。
そうするには、その愛の花を咲かせ得る栄養素を受けなければなりません。植物が地と太陽から栄養素を受けるのと同様に、私たちも肉身と霊人体を通して栄養素を受けるのです。それで、肉身を通して生力要素を受け、その次には霊人体を通して生霊要素を受けます。そうすることによって、自分は愛を完備した実体となり、どこでも飛んでいくことができます。そのようになれば、太陽系をはじめとする大宇宙は、すべて自分の活動舞台になるのです。
霊界は愛を中心とした世界
人間が肉身生活を終えたのちには、第二の出生をします。これが死です。第二の出生をする所、死んで行く世界が正に霊界です。その世界に入って、第三の父母である神様から宇宙全体を代表した愛が供給されるのです。理想的な愛が供給されるというのです。ですから、霊界では統一されざるを得ません。
死ぬ瞬間からは第二の空中世界を振り切って、新しい第三の愛の呼吸器官に連結されなければなりません。父母の愛、兄弟の愛を振り切って霊界に入り、結局は大宇宙の神様の本体と和合する愛の世界に入ります。種が本体から出てきたので、結果を結んで、また本体に戻らなければならないのです。霊界は愛の空気でできている世界です。愛の空気で満ちています。ですから、私たちはこの地上世界で、愛の息をすることができるもう一つのパイプ装置を準備しなければなりません。ですから、霊界を体験し、霊的な愛を感じて呼吸できる人になってこそ、霊界で死なないのです。
霊界は愛を呼吸し、愛を中心として暮らす世界です。ですから、完全な愛の人格をつくれなければ、行ったり来たりする道が制限され、四方に通じません。門を通ったとしても一つの門だけを通らなければならないのと同じです。春夏秋冬、いつでもどこでも合わせて暮らせる資格を備えようとすれば、完全な愛の人格を具備しなければなりません。ですから、三時代を経るように人間を造ったのです。
とんぼも、幼虫が水の中で泳ぎ回り、地上に上がってきてしばらく這い回ります。その次にはひらひらと飛び回り、食べるとは思いもしなかった虫を捕まえて食べます。天下を自分の舞台として飛び回るのです。このように昆虫類の中には、羽があって三段階の世界を経るものが多いのです。昆虫もこのように水と陸地での生を経て空中で暮らすのですから、万物の霊長である私たち人間は、もっと次元の高い翼をもっているのです。
私たちは神様に代わって愛で生まれ、愛で生きながら息子、娘を生み、愛の目的地に到達して、永遠に神様と共に生きるために神様の所に帰るのです。すなわち、私たちの一生とは、愛で始まり、愛で熟し、愛の実として刈り取られるのです。人が死ぬということは、愛の実を収穫することです。
私たちは、父母の愛を受け、夫婦の愛を交わし、子女を愛したので、内的な愛の世界に蒔かれた神様の愛のすべてを、一生をかけて実を結んで収穫し、あの世に逝くのです。ですから、私たちが完全に愛で一つになれば、神様に似るようになります。夫婦が合わさってこのような三段階の愛を完全に完成して霊界に行くようになれば、永遠の主体である神様のみ前に、永遠に「相対としての神様」になるのです。真の愛を中心として夫婦が死ねば、そのようになります。ですから、神様で始まって神様で締めくくるのです。
人間が死ななければならない理由は、体をもっていては制限された愛でしか愛することができないからです。無限大の神様の真の愛の対象的実権をもって現れようとするなら、制限された肉身だけではできないのです。ですから、無形の霊にならざるを得ません。さらに、真の愛の理想を全天地とともに同一化するためです。死は苦痛の道ではなく、宇宙的な真の愛を所有できる幸福の門を開門する時間です。死ぬということは、這って歩き回る陸地の世界から、ひらひらと飛び回って暮らせる世界に移ることです。全宇宙を自分の舞台にして、真の愛で旅行を楽しめる資格をもった人になり、そのような世界に入門するために死の道を行くのです。ですから、死ぬことは正に新しく生まれることです。
私たちは初めに母の胎内にいました。その胎が私たちを育てたふろしきです。そのふろしきの中から出てくるとき、すべてを振り切って生まれるのと同様に、私たちの霊人体に対して肉身はふろしきのようなものなので、これを振り切って飛んでいくのです。ですから、人間は結局、水の世界、陸地の世界、空中の光の世界を経て、永遠な真の愛の世界で暮らすようになるのです。
霊界では生命の要素が愛なので、愛を通した命令には不可能がなく、即座に実現されます。そこでは億万人が一度に夕食を食べるとしても、そこに合う食べ物を準備して、あっという間に宴会をすることができます。そのとき、列席する貴賓たちが、みな王女、王子になりたいというときは、すべて本物の王女、王子になります。それが可能なのです。
皆様、そのようなことを理解するなら、この地上で暮らしたいですか。あの世に行きたいですか。腹中にいるときは「腹中が一番いい」と言いながら、腹中でただ足をばたつかせながら暮らします。途中で引き出そうとすれば「嫌だ」と言うでしょう。そして、母のおなかの中から外に出るときは、一度死んでから目覚めます。地上での死というものも、一度死んでから目覚めるのと同じ作用なのです。ですから、肉身の死とは、正に第二のお産です。
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Tuesday Mar 15, 2022
平和経 第142話
Tuesday Mar 15, 2022
Tuesday Mar 15, 2022
物質世界、父母、神様は三大父母
自分は三大父母を通して生まれました。第一の父母は物質世界です。物質の世界からあらゆる要素を取り出して、物質の中心として、物質の複合的な存在として自分は造られました。このような観点から、その物質の元素自体が自分を生んでくれた先祖でもあり、また自分の延長が物質世界でもあります。この物質は愛の理想の立場においてのみ安着するように、宇宙はできています。愛の理想の立場において、すべての細胞が平安に生きられるようになっています。もし腹を立てたりすれば、すべてがこじれてしまうのです。
次に、自分の体を生んでくれた父母が第二の父母です。自分を生んでくれた父母が、自分をして一つの形態を備えて生まれてくることができるようにしました。しかし、この父母はどんなに頑張っても愛の主人になることはできません。自分の生命の主人にはなれますが、愛の主人にはなれないのです。
愛の主人は神様です。愛を宇宙化させて、愛を永遠化させるために神様がいらっしゃるのです。神様は愛の主体であられるので、愛を中心として父母になっています。ですから、神様が私たちの第三の父母です。このように私たちは三大父母をもっているのです。
私たち人間の一生は、腹中時代の十ヵ月、肉身時代の百年、そして霊界時代の千年、万年を永遠に生きていきます。私たちの顔を見れば、口、鼻、目の三段階になっていますが、これは人間が生きてゆく三時代の姿を見せてくれているのです。口は物質世界である腹中時代を象徴し、鼻は人の世界である地上時代を、目は霊界の天上時代を表します。
胎児が育つ母のおなかの羊水の中は、胎児には正に自由天地です。母のおなかの中では、いつも背中を曲げていなければならず、鼻も口もみな塞がっているのですが、胎児には自由天地だというのです。胎児に必要なすべてを供給するパイプがへそについていて、へその緒だけで生きなければなりませんが、そのような世界が胎児には自由天地なのです。胎児がおなかの中から生まれるとき、「私は世の中に出て、口で蜂蜜も食べ、餅も食べ、御飯も食べる」と考えて生まれますか。むしろ、そのおなかの中から外に出る時になって「ああ、ここがいい」と思うのです。しかし「出たくない」と思っても、時が来れば出るようになるのです。羊水が流れ出れば、それに従って外に出るようになりますが、このようにして生まれることを安産といいます。
赤ん坊は生まれるやいなや、泣くと同時に鼻の穴で息をするようになり、第二世界、すなわち空気世界に連結されます。おなかの中から空気世界に連結されて出てくるときには、腹中世界で暮らしたへその緒と羊水の袋をみな壊して出てこなければなりません。それらの死(破壊)と同時に、地球星の母の所に生まれるのです。生まれてからは、口で食べて鼻で息をするのです。ところが、地上で食べる食べ物は肉身が生きるのに必要な栄養分であって、本質的な生命要素ではありません。生命要素は、正に愛です。ですから、この世の中でも愛という空気を吸わなければなりません。母と父からの愛の空気を吸わなければならないのです。
赤ん坊が生まれると、母の愛の電波に沿って自動的に乳首を探しにいきます。美女であるかどうかは関係なく、愛ある母であればいいのです。これこそ創造の妙味、かつ神聖な姿なのです。人は愛で生まれ、愛を受けながら成長します。
このような立場で見るとき、「私」というものは、父母の愛の実です。父と母の愛がどのようなものなのかを実際の実として見せたのが自分なのです。愛の実であるがゆえに、父母は「私」を愛さなければなりません。その実を通して無限な愛がまた実を結ぶのです。個人的愛、家庭的愛、氏族的愛、民族的愛、国家的愛、世界的愛、宇宙的愛、そして本質的な神様の愛にまで連結できる道がここにあるというのです。
私は父母の愛の実
出生したのち、肉身時代には、生んであげた父母が子育てを受け持って正しい人に育てるのです。世界と国と家庭を代表し、父母がすべてを教えて供給してくれます。私たちが父母から物質を供給され、教育され、個体として完成すれば、愛を中心とした横的な基盤に連結させなければなりません。それが結婚です。父母は結婚するときまで責任をもつようになります。結婚して、父と母が互いに愛し合っていたその愛を引き継ぐのです。父母が自分を生んでどれほど愛したかを、自分が結婚して子女を生み育ててみることによって知るようになり、その愛を引き継ぐのです。そうすることによって、自分は愛を完全に受けることができ、与えることができる人になります。そうして、完全な一人の男性、女性として成熟するのです。
父母の縦的な愛で生まれ、成熟し、横的に愛するようになって、初めて総合的な愛の圏を見いだすことができます。天地は球形世界なので、縦横と上下、左右、前後の愛が連結されてこそ、それを与え合いながら回り、すべてがまとまって一つの調和のセンターとして現れるのです。ですから、天地の縦的愛が内外に軸としてしっかりと立てば、その次に横的な愛が必要なので、思春期というものがあるのです。
思春期には、ただ秋風に吹かれて落ち葉がころころ転がるのを見るだけでも笑うのです。乞食が訪ねてきて物乞いの歌を歌っても、思春期には「ああ!また来た。またやっているな」と言って歓迎します。そのように四方に拡大されるのです。ですから、おとなしくしていた女性たちも、髮の手入れや化粧をし、しきりに体に何かを塗るようになります。欲も強くなるのです。それが愛の横的な現象です。ですから、人生行路は旅のような道ですが、ここで備えるべきことは、縦横の愛を体恤していかなければならないということです。真の父母の愛、真の夫婦の愛、真の兄弟の愛、真の息子、娘の愛を中心とした家庭を築いたのち、これを横的に拡大し、東西南北に多くの家庭を広げておかなければなりません。そうして、彼らが縦横を連結できる真の家庭を形成し、氏族圏、民族圏、国家圏、世界圏で神様と真の愛で連結されるとき、その世界を天国というのです。
夫婦が愛し合うということは、神様を迎えることです。本来、父母は本然の神様の立場を代表し、ここで夫と妻は互いに他の一方の神様になります。そして、息子、娘はまた一つの小さな神様です。神様は真の愛の本体なので、真の愛と連結されれば、みな同じ体になります。父母は神様の代身として生きている神様であり、夫婦も神様の代身であり、子女も神様の代身です。このように三代が真の愛を中心として神様の立場を身代わりするのです。
ですから、父母も、夫婦も、そして子女も真の愛を必要とするのです。このように真の愛を中心に形成された家庭組織が天国の基盤です。そのような基盤を形成しなければ、天国が実現しません。これが公式です。家庭とは、すべての宇宙の現実世界の中心です。今日、人々は自分の家庭が、国と世界と宇宙を代表した家庭であることを知らずにいます。中心としての家庭だということを、知らずにいるというのです。ですから、家庭を破綻させることは、国と世界と宇宙に対する反抗になります。家庭の完成は宇宙完成の基礎になるので、家庭で愛するように宇宙を愛すれば、どこでも無事通過です。この場合、神様は宇宙全体の父母として、愛の複合的な中心の立場にいらっしゃいます。
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Tuesday Mar 15, 2022
平和経 第141話
Tuesday Mar 15, 2022
Tuesday Mar 15, 2022
16.人間の行くべき生涯路程
日付:一九九九年一月十七日
場所:韓国、ソウル、オリンピック公園重量挙げ競技場
行事:真の家庭世界化前進大会
高名な紳士淑女の皆様。きょう「人間の行くべき生涯路程」という主題で進められるこの大会に、真冬の寒さとあらゆる現実の困難をものともせずに、満場の盛況を呈してくださいましたことに、心より感謝申し上げます。
今、全世界は大混乱の中で呻吟しています。個人では心身の紛争、家庭では青少年の淪落と家庭破錠、国家と世界においては不信と戦争が絶え間なく続いています。この諸般の問題の解決は、神人愛一体理想を体恤することによって克服することができます。
神様が人間を創造された目的
人間はなぜ生まれたのかという問題は、人類が歴史的に追究してきた根本問題です。ある人たちは自分の国のために、あるいは自分の父母のために、または自分自身のために生まれたと考え、信仰者たちは神様のために生まれたとも考えます。しかし、神様が宇宙を創造された目的は人間だけのためであるとか、神様御自身だけのためであるという論理は成立し難いのです。人間が造られる過程に連結された様々な目的、すなわち神様が人間を創造された目的や天使が人間の創造に協助した目的、あるいは万物が人間に投入された目的と人間が生まれたこと自体の目的などが、互いに違ってはならないのです。全体が喜ばなければなりません。人間の創造に関連した神様も喜び、天使も喜び、万物も喜び、そして人間自体も喜べる、そのような共通の内容でなければなりません。
それは、もてばもつほどうれしくて喜ばしく、一度もてば永遠に手放したくないと思う、そのような何かなのです。それは外的な内容ではなく、極めて内的なものであり、目に見えないものなのです。知識やお金や権力のようなものは、人間が生きていくのに必要な付帯条件にすぎません。それはみな人間のためにあるものなので、人間には当然そのようなものを所有する権限があるのであって、そのようなものを所有するために生まれたとは考えられません。それはみな流れていくものです。それは自分と一時的な相対関係を結べるかもしれませんが、永遠の相対関係は結べないのです。
さらに神様は、お金が必要なのではありません。全能であられる方なので、お金はいくらでもつくることができます。神様は万物を造るとき、原理原則を通して造ったので、知識の根本でもあられます。そして、神様御自身は創造主として権力の主体であられるので、権力が必要なのでもありません。そして、それは、人間の努力だけで追求できるものではありません。人間の努力では生命の根源を支配することはできません。自分の生命の動機や過程、そしてその生命の終末まで動かす、そのような何かでなければならないのです。
このように見るとき、それは、真の愛であると言わざるを得ないのです。人間は愛で生まれ、愛の道を行かなければなりません。そして、死ぬときも愛のために死ななければならないのです。ですから、私たちの人生を見るとき、生命より愛がもっと貴いだけでなく、愛が生命よりも先なのです。ですから、愛のためには生命まで喜んで捧げるのです。愛は永遠です。小説や詩のような文学作品を見ても、「不変の愛」や「私の永遠のあなた」という表現が多く存在するのを見ることができます。このようなものを見ると、私たちが瞬間的な愛、一時的な愛を願うのではなく、永遠の愛を願うことが分かります。
愛は神様も身動きさせない権威をもっています。神様も愛には弱いというのです。全能であられる神様も人間の愛の香りを嗅ぐならば、満面に笑みを浮かべられるのです。神様も愛の話がお好きなのです。話だけでも好きなのに、実際に愛すれば、どれほど喜ばれるでしょうか。私たちの人体の様々な器官も、愛という一つの目的を中心に生まれました。目は見るために生まれましたが、どのようなものを見るためかというと、共同のテーマである愛を探すために生まれたのです。鼻も臭いを嗅ぐために生まれましたが、臭いの中でも愛の香りを嗅ぐために、耳も愛の声を聞くために生まれました。私たちが聞く言葉の中でいくら聞いても嫌気がせず、好きな言葉は「愛している」という言葉です。これは若者も老人も同じなのです。
ですから、あらゆる存在が互いにみな喜ぶことのできるテーマは、愛以外にはないのです。その愛とは、大宇宙が歓迎できる真の愛です。神様も、天使世界も、万物も、そしてすべての人が公認できる愛なのです。愛というふろしきを持ってきてかぶせておけば、その中から抜け出そうとはしません。このような点から見るとき、宇宙創造の起源や生命の発祥地とは、正に真の愛だというのです。
真の愛は宇宙創造の起源
人間が宇宙を愛する境地に入れば、宇宙のすべての門が開くことを経験できます。また、自分が今、ここの空間に、ただ極めて小さなものとして存在しているとしても、愛を中心とすれば、極めて大きな存在と共同で共通な、そして同等かつ対等な相対的権限をもつようになります。その極めて大きな存在が絶対的な神様ならば、私は愛の権威によって、その絶対的な神様の相対的な立場に上がることができるのです。神様の属性が愛だからです。
ですから、神様の愛の公約を立てておいて、その公約の中に存在するようになれば、宇宙のどこに行こうと自由なのです。神様の愛に酔えば、一つの砂粒を千年見つめても飽きません。自分の手を見つめれば、自分の手から光が出ることが分かります。夜に一人で横たわっていると、暗い夜にもかかわらず、自分が黄金の板に横たわって黄金の光を発して寝ている自らを感じるようになります。夢のような話です。そのようになれば、丘に上がっても万物が喚声をもって歓迎するのを感じることができます。皆様もそのような経験をしたことがありますか。
私たち自身が愛の宇宙の中に生まれたと考えれば、無限に幸福に感じられるだけでなく、世の中に「私を見なさい」と誇るに値する自分です。神様が実験室で研究している途中に、最も理想的で、驚異的な発見があったとすれば、それは正に自分だったというのです。このような観点から、神様の愛の相対的立場に立てられた自分自身を破綻させることは、罪の中の罪であり、これを愛して保護することは善の中の善であるという結論が出てくるのです。ですから、自殺することは最も大きな罪になります。宇宙を破綻させる行動です。
監獄に入って、拷問で血を吐くことになったとしても、神様が抱いてくださる愛のみ手を感じれば、それがかえって神様が骨髄にしみる愛で抱くことのできる一つの条件になるのです。このように考えるとき、死ぬような環境も、幸福な場だと考えて歩むことができるのです。このようなことを考えるとき、男性も女性も、愛の力の中にいる人は、強い人なのです。国や世界を与えても変化させることができません。そのような人の前には、サタンも屈服せざるを得ない驚くべき結果が現れます。
ですから、神様がこの宇宙的愛を中心とした人間を代表して呼ばれるとするなら、その方は正にメシヤです。イエス様がその代表者だというのです。メシヤを通さなければ、宇宙愛を見いだすことはできません。ですから、万民はそのあとについていかなければならないという論理が成立するのです。イエス様は、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ一四•六)と言われましたが、ここに愛という言葉を一つ加えなければなりません。「わたしは道であり、真理であり、命であり、愛である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」と言ってこそ、論理がより明確になるのです。私たち人間は、父母の愛の中で生まれました。その父母の愛の一番中心の、主人として生まれたのです。ですから、父母は、私一人をつくり出すために愛し合ったという結論が出てきます。
ですから、父母に対して同等な立場で権利を主張することができます。「お父さんとお母さんは私がいなければ不幸です。私がいてこそ幸福でしょう」と言うとき、父母は「そうだ」と言うのです。そして、自分も父母がいなければ不幸だというのです。なぜなら、父母が原因で、私は結果だからです。父母と自分は愛を中心として一つです。原因と結果が一つになって愛の実体圏を形成するのです。これが宇宙の道理です。
統一教会の原理では、主体と対象が一つになるところから力が出てくると言います。ですから、原因である父母が自分と一つになれば、主体と対象が一つになっで一体となったので、新しい対象となって、より大きな主体と一つになることができます。神様がその主体ならば、その神様と一つになるのです。すなわち、神様の理想的な愛を中心として神様と完全な主体と対象の関係を形成すれば、神様と人間は完全に父子関係になって、一つになるのです。神様と人間の愛の圏が形成されれば、宇宙にはいつも明るい太陽のような愛の光が発せられるのです。
自分は、父と母の二つの生命が一つに結合した生命の連結体であるというだけでなく、父母の愛の同参者として父母の愛と一体です。さらには、自分は父母の理想とも一体です。理想には幸福や平和というものがすべて入ります。父母にとって、自分が世の中で成功したときの喜びがいくら大きくても、失った子女に出会ったときの喜びとは比較になりません。子女は父母の最高の理想と一体だというのです。
自分には父と母の生命の綱、愛の綱、そして理想の綱が連結されていますが、この綱は誰も切ることはできません。神様も切ることができず、宇宙も切ることはできません。むしろ、宇宙のすべての力がそれを擁護しようとするのです。ですから、私がどこに行っても、父と母がついてくるようになります。あの霊界にまでも、父と母はいつも共にいようとするのです。ですから、父と母が同行するのを嫌うのは、大きな罪です。この宇宙を破綻させる破壊行為だというのです。父母を連れていくことを嫌うのは、既にその人が宇宙の原則から離れていくことを意味します。
ですから、父母を自分の体のように思って愛し、父母に孝行することが、人間において最高に価値あることです。「和睦する家庭に福が来る」という言葉も、そこから来るのです。反面、父母が離婚することは、刀で子女を半分に切ることと同じです。それは宇宙の公法が許しません。これに逆らう父母はどこに行っても災いを受け、不幸がついて回るのであって、幸福になることはできないのです。
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Saturday Mar 05, 2022
平和経 第140話
Saturday Mar 05, 2022
Saturday Mar 05, 2022
直観的感覚が現実化する世界
聖賢が行く道と凡人が行く道は違います。聖賢は歴史と共に生きようとし、世界と共に生きようとし、未来と共に生きようとした人です。しかし、凡人は自分のために生きようとし、世界も自分のためにあると考えて生きた人です。
霊界にも霊界としての世界があり、国があり、氏族があり、家庭があり、個人がいます。個人を中心として見るとき、「私はそこで絶対的に必要な存在だ」と言える自主性なしには入れないところが天国です。家庭を中心として見るときも、氏族を中心として見るときも、「私が絶対的に必要だ」と言えるそのような自主性があって、初めて行けるところが天国です。
霊界では、地球というものは、一つのほこりのようなものです。霊界は時空を超越した無限の世界です。そして「ある時代にこれこれこういう心情をもって地上に生まれ、生きて死んだ人がいれば、ここに直接現れよ!」と言えば、その人が瞬時に現れます。そのように直感的感覚が現実化される世界です。そこには食料を作る工場もなく、自動車を造る工場もなく、何もありません。
人間は霊界に入籍するとき、地上生活を証明する証明書をもって行かなければなりません。「私はこのように生きた。このようなことをやった」と言える生涯の証明書です。そのような証明書は自分自身が書くことはできません。初めはサタンが書きます。まずサタンに証明書をもらってから、メシヤの証明書をもらわなければならないのです。その次に神様の証明書をもらわなければなりません。この三つの証明書が必要だということを知らなければなりません。
霊界は真の愛を中心としてために生きる所
霊界に行けば霊界は膨大ですが、三段階になっています。誰が一番高いところに上がるかというと、より人のために人生を生きた人です。しかし、自分のために生きてきた人は反対の位置に立つようになります。自分のために生きた人はみな反対し、人のために生きた人はみな歓迎します。霊界に行けば、自分の親や妻も関係ありません。高いところに行く人はみな、人のために生きた人々です。
世界のあらゆる国を回りながら、自分の母と家庭に対する愛を拡大したような心情をもってために生き、世界の人々をみな悪から救おうとする聖人の心をもった人々が、高いところに行くのです。自分のために生きた人は地獄に行くのであり、人のために生きた人は天国に行くのです。この二つの世界が死において分かれます。
ですから、全体のために生き、より大きなもののために生きなさい、というのです。世界のために生き、神様のために生き、人類の解放のために生きなさい、というのです。これからは、互いにために生きようとする競争が始まるでしょう。
天の国では、ために生きる人が高い位置に行くので、その高い人のために私が生きれば、その人に乗ってジャンプできるのです。その人のために生きるのは、神様が創造して相対を造ったのと同じなので、その人の愛の対象圏に立とうということです。
人のために一〇〇パーセント生きる人に対しては、「私を踏み越えていってください!」と言うのです。どんなにアメリカという国が大きくても、アメリカの大統領よりもその国の国民のために生きる人がいれば、その人が大統領を踏み越えていっても、みな歓迎するのです。しかし、自分の利益だけを得ようとするときは、みな怨讐になります。
霊界でも同じです。より大きなことのために生きようとするときは、自然に通過します。より大きなことのために生きるようになれば、自然に通じるのです。ですから、世界のために生きる人は、アメリカのために生きなくてもいいのです。世界の中にアメリカが含まれます。すべての国がみな含まれるのです。
みなが歓迎するその方向の内容とは、真の愛を中心としてために生きる愛の道以外にないという結論が出てきます。死ぬときにもっていくべきものは、神様を愛し、自分を愛し、本質的人間としての自分を立てるために苦労し、自分と相対との夫婦の愛、家庭の愛を中心として、この愛を世界に拡大するために努力したものです。
人類を愛し、神様を愛したことが、最後に残り、あの世の所有権決定の基準になります。霊界に行けば、伝道した人の数によって皆様の所有権が決められることを知らなければなりません。霊界に行って誇るべきものが何かというと、どれほど人を慕って生きたかということです。
あの世で必要なものは、ほかのものではありません。世界よりも、自分の国よりも、自分の妻よりも、自分の息子、娘よりも、神様をもっと愛したことです。妻が話すとき、「あなたは私より神様をもっと愛してから私を愛してください」と言ってこそ、夫からより高い次元の神様のような愛を受けられるようになるのです。
心情圏の世界は愛が普遍化される世界
今日、レバレンド•ムーンは心情圏を説いていますが、心情圏の基地とは、神様を中心とした真の父母の愛、真の夫婦の愛、真の兄弟の愛、そして真の子女の愛というものです。そのような愛が普遍化される世界が心情圏の世界です。
そのような本然の世界においては、愛する夫婦の愛の基準を中心として生きたとしても、天と地、天宙を中心とした夫婦の愛でなければなりません。ですから、その世界に合格できる愛の基盤をどこで築くのでしょうか。レバレンド•ムーンは、この世でそれを築いていかなければならないと教えているのです。この世で何よりも貴いとされているものではなく、心情圏世界の合格者になるためです。
ですから、霊界には家庭を連れて入らなければならない原則があるのです。どうして息子、娘がいなければなりませんか。子孫とは本来、縦的な神様の愛と横的な父母の愛、神様と父母の血が縦横に混ざって生まれたものです。したがって、子孫をもてなかった人は、霊界に行って天地の調和を形成することができず、東西南北に拍子を合わせられないのです。子孫をもてなければ、あの世に行っても、楽しみ、安息できる場所がありません。
皆様。霊界では宗教や宗派は必要ありません。そこに行って長老派やカトリックというものは必要ありません。神様との生活圏内に入るのです。
あの世に行けば、世界を愛した人もいて、愛国者、忠臣、烈女、聖人たちがみないるでしょう。しかし、レバレンド•ムーンが知る限りでは、今までは神様の本然の愛の中で心情圏の伝統を中心として生きた人は一人も行っていないのです。何かを出発させるときは、神様を中心として出発しなければなりません。霊界に行けば、そのような原則にどれほど同化し、どれほど一致したかということによって、今後、地獄から中間霊界、楽園、天国まで連結されるのです。
何が一番貴い道かというと、天のために地上でどれほど苦痛を受け、どれほど涙を流したかということです。それがあの世のどこでもパスするチケットです。あの世に行けば、他の国の人同士は一緒にいられませんが、すべての宗教圏は一緒にとどまることができます。
宗教圏は、一つの世界を願って歩み、一つの神様を信じていくので、一緒にとどまることができるのです。宗教を信じる人々がこの世の人々と違うこととは何かというと、彼らは一生の間霊界を標準として生活するという点です。
宗教というものは、永遠の世界、超然とした世界の内容を中心として、神様なら神様がいらっしゃるところと神様が住んでいらっしゃるところを中心として、私たちが関係を結ぶことのできる内容を教えてくれるのです。
世界宗教国連創設の主唱
世界の各宗教を代表して、きょうこの場に参席された皆様に、私がこれまでお話ししたとおり、人間の生死の問題を中心とした生の価値を集中して取り上げたのは、他意があってのことではありません。生と死に対する正しい教えを伝えるのは、私たち宗教指導者たちの責任であることを強調するためです。
今日、この世界の政治指導者たちは、国連を通じた世界平和と人類の繁栄を追求しています。しかし、私の判断では、政治、経済、軍事的側面を中心とした国連の機能だけでは、世界平和の道は不完全だというのです。政治、経済、軍事的手段は、外的、肉的、物質的側面にすぎません。ですから、より内的、霊的、精神的な側面は、宗教的教えと世界のすべての宗教の連合と一致した行動を通してのみ可能なのです。
私は、きょうこの場を借りて、既存の国連に世界の主要宗教とその指導者たちが参与する、世界宗教国連の機構が創設されなければならないことを主唱するものです。世界と人類の未来のために、きょうこの時点で、世界宗教国連の創設とその役割の重要性について、これから皆様と世界のすべての国々が、さらに深く論議してくださることをお願いするものです。ありがとうこざいました。
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Saturday Mar 05, 2022
平和経 第139話
Saturday Mar 05, 2022
Saturday Mar 05, 2022
私の目的は世界の救援
皆様。私は心苦しく思うことが一つあります。神様が御自身のみ旨を成就する責任を下さったので、私は生きている間に神様が満足する水準までみ旨を成就しておかなければならないということです。その前には、死ぬに死にきれないのです。よって、死地に入っていっても、神様が導き引っ張ってくださるというのです。私はこのみ旨を成就するために、御飯を食べるときも、寝ても覚めても世界と人類のために祈り、努力しています。
私は、ある特定の国や民族のためには苦労しませんでした。私の目的は世界の救援です。その目的のために今まで死を覚悟し、犠牲的に命を捧げて働いてきました。皆様も世界のために生き、死ななければなりません。世界を救うためなら、愛する妻を抱いて、家庭を抱いて、自分の氏族を抱いて、民族をまるごと抱いて、死ぬこともできなければなりません。
さて皆様は、未来のある日、死を迎えることになり、死を前にして過ぎし日を回顧するようになりますが、そのときにどんな一言を残して逝くのかということを考えなければなりません。死の道は、友もいない道です。愛する父母もいない道であり、愛する兄弟もいない道であり、愛する夫婦や子女もいない道です。ただ一人で行かなければならない道です。
もう一度行くこともできず、行って来ることもできない道、一度行けば永遠に帰ることのできない道ですが、この道を行くときに、人間はどんな心をもって行くかが重要です。人間が死に逄着するその瞬間に、その死を乗り越えられる希望がないとするならば、そこでおしまいです。
今日まで神様のみ旨に従い、神様のみ旨を立ててきた多くの人々は、どのような人々だったかと言うと、死の道の前で後退した人たちではなく、死をあざ笑い、死を凜々しく乗り越えた人々でした。そのような人々が天の道を立ててきたという事実を、私たちは歴史を通じてよく知っているのです。
死ぬことなく復活はできない
それでは、天の願いを抱いて生きる人とは、どのような人でしょうか。人間が悲しむ死の峠も、喜びで越えることのできる人です。そのような人が天の願いを抱いた人だということを知らなければなりません。ですから、私たちは死を前にして、この世のすべてのことを恨み、嘆く人にならずに、天の前に立って喜び、自分の死の価値を誇る人にならなければなりません。
それでは、死ぬとどうなるのでしょうか。死ぬ前までは私のものですが、死んだのちには神様のものになります。それは私たちが堕落した血統を受けたからです。ですから、死ぬまでは、私たちの生命のすべてはサタン側の因縁を抜けきれないのです。しかし、死んだのちは神様と関係が結ばれるのです。死ぬことなく復活はできません。一つの時代を通過しなければ、次の時代を迎えることができないのです。
「自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである」(ルカ一七・三三)という聖書で言う命を失う「死」とは、何を意味するのでしょうか。神様が下さった永遠である真の生命を失いなさいということではありません。サタン世界の堕落した血統を受け継いだ生命を否定しなさいということです。それで、み旨のために死のうとする人は生きるというのです。
この言葉は逆説のようですが、堕落と復帰の内容を中心として見るとき、そのようにしなければ、復帰ができないというのです。これは復帰の正常な論法です。人生の勝敗は、数十年の期間を通して決定されるのではありません。それは一瞬で決まるのです。私たちの一生を通して見ても、皆様が生まれるその瞬間は、長い期間ではありません。
もちろん生まれるまでの腹中の時期がありますが、その腹中の十ヵ月という期間は、出生する一瞬のための準備期間なのです。ところが、十ヵ月の間、いくらよく準備したとしても、決定的な一瞬をうまく越えられなければ、生まれるその赤ちゃんは悲しい運命を迎えることになるのです。
この地上に来て、運命の瞬間を迎える最期の場で、過去を悔い改める人がいるとすれば、その人の心には過去のすべての事実が映像として回想されるでしょう。その中で「真なるものがあった。自分の生命よりも貴い何かを残した」という人がいるとすれば、彼はこの地に来て逝くとき、甲斐のある一時を楽しむ人になるでしょう。
しかし、過去のすべてのことを回想してみるとき、頭を振って回想したくない過去をもっているならば、彼は悲惨な人です。過去を回想すれば回想するほど、自分の顔に歓喜が満ち、自分のすべての問題が理想に浸ることができるならば、死の恐怖も彼には慰労の一場面として飾られるでしょう。過去を回想する瞬間が恐怖の瞬間ではなく、ほかの何かを残すなら、彼の過去は死なないのであり、現実も死なないものとして現れるでしょう。
そうすることのできる過去をもった人は、必ず民族がついていくことができる縁をもった人であり、世界万民がついていかざるを得ない縁を残した人であると見ることができます。神様のみ前に一人で立つことができるかという問題を考えるとき、真と善は自分から始まって自分で終わるのではありません。自分から始まって人に結果を結ばせるか、人によって始まり、自分に結果をもたらすことができてこそ、善になるのです。
過去の生活が人のために与える生活だったならば、死の道でも恐怖がないはずです。人のためにすべてを与え、人のために犠牲になり、真に近い生活をしながら、涙も人のために流し、自分の生命も人のために投入し、自分の願いも人のためのものなので、自分のすべての生命力を寄せ集めて人のために投入するならば、その過去の生活は光り輝く過去になるでしょう。
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Saturday Mar 05, 2022
平和経 第138話
Saturday Mar 05, 2022
Saturday Mar 05, 2022
神様の法則のとおりに生きなければならない
それでは、霊界とはどのような所でしょうか。私たちが霊界に入れば、頭の上にあるひよめきと細胞で呼吸するようになります。霊界での空気は、地上の空気ではなく愛です。呼吸を通して愛の要素を受けるというのです。
私たちが地上で生きるときも、御飯だけ食べていてはいけません。御飯だけ食べて、水だけ飲んで生きるというのは、胃袋を満たしているだけです。結局、そうして死んでいくということです。地上で生きている私たちの姿は、私たちの第二の存在です。
私たちがこの期間にすべきことは、新しい愛の人格を形成することなのです。この地上で私たちが最も必要とするものは愛です。孤児とは何でしょうか。母と父の愛を受けられない子女たちを、どうして孤児と呼びますか。霊界と永遠に連結できる愛がないからです。愛がなければ孤独なのです。それで独身で生きる人をかわいそうだというのです。
もう一度お話ししますが、私たちが死ぬということは、第二の呼吸をしていた肉体に連結されたこの器官を壊し、愛の要素を受け継ぐことです。ですから、私たちは、いずれにせよ肉身を破って出ていかなければなりません。愛は見えないものです。父母の愛、夫婦の愛、兄弟の愛、子女の愛など、このすべての愛を中心として私たちの内的な構造が成長するのです。
それで、私たちが神様の法則のとおりに生きるときにのみ、胎児が母の腹中で正常に育つのと同じように、私たちがこの地でも正常に成長できるのです。ですから、むやみに生きてはいけないというのです。私たちが自然界を調べてみると取るに足らない昆虫、実の中の種、そして鳥まで飛ぶことができるのに、ましてや万物の霊長たる人間が飛べなくていいでしょうか。たんぽぽの種を見てください。風が吹くと自然に飛ぶようになっています。このように鳥も飛び、昆虫も飛び、植物の種も飛ぶのを見れば、人間も明らかに飛べるように創造されたに違いありません。ある者は性急に「神様、ほかのものたちはみな飛び回るのに、どうして私たちは飛べないように造ったのですか」と神様に抗議しかねません。しかし、神様は「お前たちは数十年待って完成すれば、飛べるようにしてあげよう!」とお答えになるでしょう。
地上で愛する訓練をしなければならない
それでは、その時まで私たちは何をしなければなりませんか。その時になって、その世界に適応できるように、私たち自身を訓練しなければならないのです。父母を愛し、夫婦同士愛し合い、子女を愛しながら、この地上世界で訓練をしなければならないのです。そうして、時が来れば、永遠の世界に入り、永遠に神様に侍って生きるようになるのです。そのためには、いつかはこの肉身を脱いで死ななければなりません。
私たちがせみの一生を調べてみれば、せみも飛ぶようになる前に、幼虫の段階を経ます。そのせみが「ぼくは幼虫のまま暮らしたい。殻を脱ぐのは嫌だ。ああ、陸地も空気も何もかもみんな嫌いだ!」と言って反抗したとしても、いざ殼を脱いでみると飛ぶようになるのです。
とんぼも同じです。初めは幼虫になって水の中で泳いで暮らし、地上に上がってきて、しばし這い回り、その次は殻を脱いで飛び回りながら、食べるとは想像もしなかった虫を捕まえて食べるのです。天下を自分の舞台にして飛び回るのです。このように昆虫類の中には、三段階の世界を経るものが多いのです。
それで昆虫には羽があります。水と陸地と空中の三時代を過ごしなから,羽をもつようになるのです。万物の霊長という私たち人間に翼がありますか。人間には次元の高い翼があるのです。皆様も肉身を脱いで死ぬのは嫌だと言うかもしれませんが、いざ死んで肉身を脱げば、私たちの霊人体が第二の出生の恵みの関門を通過して、飛んでいくのです。
前にもお話ししたように、人間はいずれ死にます。私たちは、善なる自己を永遠の世界に第二の私として立てるために、苦労を覚悟しなければなりません。母の腹中で胎教をよく受けてこそ、健康で善良な赤ちゃんとして生まれるのと同じように、私たちの地上世界での生活も、よく準備しなければなりません。
私たち人間は、神様の形状を見習い、神様の心情を見習い、神様の聖なる神性を見習いつつ、育たなければなりません。育ってからは、また命を懸けて越えていかなければならないのです。したがって、どんなに恐ろしい暴風雨がやって来ても、私たちは最後の峠を越えなければなりません。よくやっていても、境界線の前で倒れてはいけません。
私たちがこのような人生の境界線に立つとき、私たちは果たして何をしなければならないのでしょうか。気持ちを引き締めて頑張っても、最後まで行けるかどうか分からないのに、あたふたしていれば、途中で挫折してしまうのです。最後の決勝点まで境界線を突破しなければ、勝利者になれません。人として生まれたのなら、一度やってみるだけの価値のあることです。
いくら後ろで反対し、横から迫害したとしても、自分の行く道を行けばいいのです。人の反対に関与する余地がありません。一歩ずつでも早く行って、この運命の道を通過していこうという人が、最後の境界線を越えることができるのです。私たちは、そのように行かなければなりません。
私たちはよく「心がまっすぐだ」と言います。それはどのような意味ですか。まっすぐに垂直に立ったものを「まっすぐだ」と言います。木も横に傾いたものを「まっすぐだ」とは言いません。「心がまっすぐだ」というのも同じです。垂直に立っているという意味です。それで人は立って歩くのです。垂直になってこそまっすぐなのです。
自分の心を完全に垂直になるようにしなければなりません。そこに体が水平線になるのです。このように垂直と水平が私たちの内部で形成されるとき、垂直から引っ張る力と水平から押す力がバランスを取り、求心力と遠心力が形成されるのです。ですから、私たちは、私自身を見つけなければなりません。私たちが自分自身を主張するときは、神様と真の父母にそうだと認定されなければなりません。その土台の上に私たちは親戚、一族、一国に発展させていき、私たちの生活環境を拡大していくのです。
この世で危険な伝染病の患者たちを隔離して収容するように、遠からず神様のみ旨を知っても罪をたくさん犯した人々は、隔離して北極のような寒帯地方に収容する時が来るでしょう。彼らは完全に悔い改めて改悛(かいしゅん)するその日まで、そのような所に放り出して、食べ物も寝る所もなく、大変な苦痛の道を歩むかもしれません。(*改悛:全非を悔い改め、心をいれかえること)
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