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Tuesday Feb 15, 2022
平和経 第117話
Tuesday Feb 15, 2022
Tuesday Feb 15, 2022
神様のみ旨
日付:一九八五年八月二十日
場所:アメリカ、ワシントンDC、オムニ•ショーハム•ホテル
行事:宗教の自由連盟主催ダンベリー連邦刑務所出監歓迎晩餐会
尊敬する宗教の自由連盟委員長、そして委員の皆様、全国から集まってくださった聖職者の皆様、そして紳士淑女の皆様。このように挙国的に、超教派的に意義深い場を準備して、私の出監を歓迎してくださったことに対して、心から感謝を申し上げます。
さらに、私が法廷闘争を行っているときから法廷嘆願書、宗教の自由に関する集会、特別祈祷会、同苦の会、カウサ聖職者連合に参加するなど、積極的な支援をしてくださった聖職者の皆様に、重ねて感謝を申し上げます。また、多くの方々が私に激励の書簡を送ってくださり、祈祷で支援してくださったことなどに対し、忘れることのできない感謝の気持ちをもっています。
神様のみ旨と人間の完成
私は今回で、私の生涯において六度目の監獄生活を経験しました。難しい立場でも神様と感動的な交流をすることができました。以前もそうであったように、今回も私が個人的な理由や失敗によって監獄に入ったのではありません。ですから、獄中で迫害者を恨み、自らの無念さを訴えることよりは、神様のみ旨を立てるために、神様のみ旨に従うべきアメリカと世界を心配する、深い瞑想と祈祷を捧げる有益な時間をもつことができました。
私の決意と生涯は、世の中が知ることのできない神様の恨を解いてさしあげ、神様のみ旨をこの地上に成し遂げることです。私と私たちの運動は、今日に至るまで、深刻な無理解と迫害が続いてきました。神様のための至上課題の前には、親族から認められないことが問題ではなく、一般大衆や教団、または国家や世界が反対することが問題ではありませんでした。私は生涯を通して神様の深い心情と愛を確認し、これを証してきました。ですから、私にとって神様は、想像の中の漠然とした神様ではなく、生きていらっしゃる神様であり、私の心情と私の細胞一つ一つで体恤される神様でいらっしゃいます。
神様のみ旨のための道において、同役者(共に働く人)であられる牧会者の皆様。皆様がきょう、私の出獄をこのように歓迎されるのは、レバレンド•ムーン個人に対して歓迎しているのではなく、神様のみ旨のために生きてきたレバレンド•ムーンを歓迎するものであると思います。この機会に、私たちすべての最大関心事であり、一番の課題である「神様のみ旨」について一考することで、きょうの私の挨拶に代えようと思います。
神様は、永遠、絶対、不変のお方です。ですから、そのお方のみ旨も、永遠、絶対、不変であるに違いありません。神様が人間を創造されるとき、目的と理想をもって創造されました。その目的が成し遂げられた世界は、愛によって統一された世界であり、神様を父として侍り、全人類が兄弟姉妹として仲むつまじく暮らす、神様を中心とした人類大家族の世界です。
愛の本体であられる神様は、愛のために人間を創造されました。愛は独りで成立するものではありません。したがって、神様が絶対に必要とされる唯一のものは、その愛を施せる対象、すなわち神様が愛することのできる対象なのです。相対がいてこそ愛することができます。愛と心情の本体であられる神様は、その愛が動機となって宇宙を創造されたのであり、特にこの期間に、創世記第一章二十七節のみ言どおり、神様に似た実体対象として人間を創造されたのです。ですから、万民において、神様は永遠な無形の内的父母であり、完成したアダムとエバは永遠な有形の外的父母(先祖)になるのです。最大の愛は、主体と対象が永遠の愛を与え合い、完全に一つになるときに現れて結実します。真の愛の中では自動的な統一が展開し、また生命が連結されて理想が実現されるのです。
神様のみ前で最も貴い対象存在であるアダムとエバが、神様の愛を中心として父母と子女として、主体と対象として、また無形の創造主と有形の実体として、完全調和統一された永遠の愛と生命の理想を成就することが神様のみ旨でした。よく、創造主と被造物は対等な立場に立つことができないものだと言われてきました。もしそうだとすれば、その創造主の前には愛の理想の実践は不可能なのです。神様の愛の理想は、子女であるアダムとエバを有形実体対象として立て、永遠に彼らと合一するというものでした。コリント人への第一の手紙第三章十六節のみ言のとおり、神様は人間の中にいらっしゃることを願われます。無形である神様の愛の理想が実体の人間を通して実現される起点は、人間が神様の対象体として完成する瞬間です。人間が神様を中心として人格的に成熟し、心と体が完全に一つになることによって、神様の愛と理想と生命の永遠の対象になることを意味します。アダムとエバが神様の子女として理想的個体になれば、やがて理想的家庭に発展し、次に理想的社会、国家、世界へ発展して、絶対愛に対する感応で得た生命の喜び、幸福の理想、そして調和統一の天国を完成するのです。
無形の主体としていらっしゃる神様は、果てしなく遠い始源から、愛の宇宙史的刺激を充足させる対象を慕わしく思ってこられ、有形無形の完全な対象体として人間と相まみえるその愛の刺激がどれほど大きかったでしょうか。神様がアダムとエバを地上に造られたので、天国は地上で先に造られ、地上で理想的な生活をして霊人体が天上の永遠の天国に行くようになっているのです。
人間は主体と対象、すなわち相対的なカップルとして造られ、また人間のために存在する全万物世界も愛の原理のもとに調和し、また人間の愛によって生命と理想を実現するようになっています。
万物世界は人間にとって、特に成長するアダムとエバにとって愛の教科書であり、愛の真髄が無尽蔵に陳列された博物館です。神様の一つの性をそれぞれ代表したアダムとエバが、神様が許諾された愛の教科書である自然の中で愛を体恤しながら、完全に育って横的に一体となる相対理想を実現することが、宇宙史的な神様の創造の希望でした。
神様の愛は、神様と人間が主体と対象として縦的な愛の関係を完成することだけを目標とされたのではありません。縦的な愛を完成してアダムとエバ自身の横的愛の結実をもたらそうとされたのです。その瞬間が正に、内的父母であられる神様が、外的父母であるアダムとエバと完全一体となるために臨在される、愛の理想成就の瞬間です。無形の父母であられる神様が、アダムとエバの形状をまとわれて、有形世界に永存なさる父母になるのです。この時、アダムとエバは真の父母、真の先祖になるのです。
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Tuesday Feb 15, 2022
平和経 第116話
Tuesday Feb 15, 2022
Tuesday Feb 15, 2022
国税庁の起訴は職権濫用
この歴史的な裁判について少しお話しいたします。大勢の統一教会の信者たちがこの国に到着し始めたとき、国際的教会事業のための特別基金がつくられました。長い間の名誉な伝統に従って、教会の信者たちがこの基金を管理する人として、教会に代わって私を選択するようになりました。私はこの基金を公開して取り扱い、隠匿しようとしたことは一度もありませんでした。事実はと言えば、ニューヨークの主要銀行に預金をしていました。「この基金は、教会の目的のために使われる教会基金ではない」という何の証拠もありませんでした。
それにもかかわらず、IRS(国税庁)は私を起訴しようと際限のない努力をし始めました。途方もない公的な圧力と議会次元の圧力がIRSに加えられたあと、大掛かりな調査が始まりました。結局、数百万ドルの納税者たちの税金であるお金を使ったあと、IRSは教会基金として預けた私名義の銀行預金において、利益に対する収益報告をしなかったとして、私を起訴しました。政府の論理に従うならば、いわゆる脱税総額が七千ドルないし一万四千ドルでした。実際において委任された教会基金を、宗教指導者が取り扱う慣習は、長い間の光栄ある慣習です。カトリックの司教たちから一線の牧会者に至るまで、多くの宗教指導者たちは、まだ毎日この慣習に従っています。そして、私が実際に私個人の経費のために引き出した基金に対しては収入税金を納付したにもかかわらず、アメリカ政府はこの事実を黙殺してしまいました。すなわち彼らは、一人のなじみの薄い宗教指導者を告訴したのです。
政府が私を迫害しようとやっきになって犯した権利の乱用をすべて表現しようとすれば、限りないでしょう。しかし、この権利の乱用は善良な正義の人々には知られていません。統一教会は、多くの人々にとって聞き慣れない教会であるにもかかわらず、私に対する告訴と有罪判決の状況に対して、未曾有の抗議が起こりました。私が連邦最高法院に出した嘆願書には、四十団体以上の「法廷の親友たち」の支持を受けました。これらの有名な機構と個々人は、政府の反宗教的権利の乱用に対する深刻な憂慮を現す、十六種類の訴訟摘要書を出しました。私の嘆願を支持する法廷の親友たちの中には、次のような方々がいます。
全国キリスト教協議会、カトリック宗教および市民権擁護連盟、長老派、アメリカ•バプテスト教会、全国福音伝道師協会、南部キリスト教指導者会議、アメリカ•キリスト教学校協会、アフリカ監理監督教会、キリスト教法律協会、末日聖徒キリスト教会、アメリカ市民自由連合など、これら有名な互いに異なる機構は異口同音に、IRSが今日知られていない一つの宗教を効果的に迫害できるならば、あすは既存の教会の自由が脅威を受けるだろうと語りました。私が熱心に祈祷するのは、IRSが私と私の教会に下した権利の乱用が、正義と自由を愛するアメリカの人々の注目の対象になることです。この偉大な国を復興させ、キリスト教建国精神を復興させようとする神聖なみ業に、貴殿も参与されることを要請するものです。
私たちは、アメリカの重要性とキリスト教と伝統的価値改善の緊迫性を痛感しているため、統一教会の運動はこの目的のために貢献する多くの事業を運営、または後援しています。国際宗教財団、新しい福音研究協会、神様会議などの事業を通して、神様とすべての宗教の間の理解を増進、改善しようと、あらゆる宗教の神学者たちを迎えて努力しています。
私たちはまた、神様のみ旨を学界に展開することもしています。「国際文化財団」は科学と絶対価値に対する例年の会議を後援しています。「世界平和教授アカデミー」、「バラゴンハウス出版社」、「ワシントン公共政策研究所」などの機構に学者を迎えています。宗教の理想は人類に奉仕することによって現れなければならないので、私たちは「国際救護財団」と「自活奉仕団」などの事業を始めました。全体主義の理念から万人を救援するために「国際勝共連合」、「大学原理研究会」、「カウサ(CAUSA:南北米統一連合)」のような機構を設立しました。大衆媒体の責任性の基準を樹立しようと「世界言論人会議」、「ニュース•ワールド•コミュニケーション」を創設しました。後者は、いくつかの新聞を発行しています。その中で「ワシントン•タイムズ」は国家の政策に対する代案を提示しようと創設されました。この事業だけのためにも、一億ドル以上のお金がかかりました。
アメリカのために数多くの事業を展開
これらの事業には、教会信徒たちの愛を通した犠牲はもちろん、途方もない財政的資源が要求されます。数億ドルがアメリカに投入されました。なぜなら、この国が世界の運命を決定するからです。私の運動において、アメリカは基金の受取人であって基金の出処ではありません。もしアメリカを失えばすべてを失うという確信のもとで、私たちは働いています。神様が頼れる国はこの国だけです。貴殿が私の事業の範囲を理解されるならば、私が七千ドルないし一万四千ドルの、アメリカ政府に出す税金を詐取するためにアメリカに来たと信じることができるでしょうか。
今から、貴殿と貴殿の教会信者が地上で神様のみ旨を成就するために、共に働く統一運動に参与してくださることを願います。統一教会の信仰と慣習に対する多くの誤解と誤認があることは、私もよく知っています。アメリカの立派な紳士たちが、統一運動において私たちを理解し、協力するとともに、私たちと建設的対話を分かち合うことを切に望みます。統一運動をしている私たちの信仰を、この手紙ですべて御説明申し上げることはできませんが、私たちの信仰の教義を詳しく説明するビデオテープと印刷物を貴殿に送るよう、私たちの教会幹部たちに要請しました。まだ貴殿がこの贈り物を受け取っていないとすれば、近いうちにお受け取りになれるでしょう。
貴殿がこれらを評価して、また私が貴殿に申し上げようとするお話を考慮してくださる時間があることを願います。私たちの根本的な使命は、全世界がキリストの中で愛し合い、団結するようにし、家庭を復帰するとともに、神様を中心とした観点で無神論に反撃することです。このような意味で貴殿がこのビデオテーブとその他の印刷物を受け取られるものと信じます。
この手紙を読んでくださって、誠にありがとうございました。貴殿が、私が申し上げたことに賛同されようと賛同されまいと、私たちは互いに愛し、尊敬し、手を取り合って神様に奉仕できることを、心から祈るものです。神様の祝福が貴殿に、永遠に共にあることを願います。
一九八五年二月文鮮明牧師より
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Tuesday Feb 15, 2022
平和経 第115話
Tuesday Feb 15, 2022
Tuesday Feb 15, 2022
6.統一運動に参与することを期待します
日付:一九八五年二月二十八日
場所:アメリカ、コネティカット、ダンベリー連邦刑務所
行事:アメリカ牧師に送った獄中書信
親愛なる牧師の皆様。ダンべリーから貴殿と貴殿の教会信者たちに心からの御挨拶を申し上げます。私は文鮮明牧師と申します。獄中から貴殿にこのような書信を差し上げたことに驚かれるかもしれません。貴殿は恐らく、三十年ほど前に私が韓国で創設した宗教運動についてお聞きになったことがあるだろうと思います。
十六歳(数え)の復活節に出会ったイエス様の啓示
貴殿がこの宗教運動についてお聞きになったことや読まれたものは、恐らく敵意に満ちたものであり、歪曲されたものであると推察されます。このような事実が私を甚だ胸痛くさせています。私はこの誤解を解いてさしあげたいと思います。しかし、それよりも重要なことは、貴殿が私と統一教会に関してどのような意見をもっていらっしゃったとしても、世界的な国家であると同時にキリスト教国であるこのアメリカに対する私の衷心に満ちた観を、貴殿と共に議論したいと切に願っています。私がお話ししようとするすべてのことに対して、貴殿が賛同するとは決して期待していませんが、貴殿が私の声に耳を傾けてくださり、考慮してくださることを望む次第です。私は、北朝鮮にある一地方のまじめな儒教家庭で生まれました。十歳の頃、全家族がキリスト教に改宗しました。私は改宗とともに深い感銘を受けました。私はこの新しい信仰に愛着をもち、以前に誰かを愛した以上にイエス様を愛しました。
私は数えの十六歳の時に、普通では考えることができない経験をしました。復活節の朝、長時間の涙ながらの祈祷のうちに、イエス•キリストが私に現れて、多くの啓示と教示を下さいました。イエス様は、深奥かつ驚くべきことについて、多くのみ言を語ってくださいました。「苦痛を受けている人類ゆえに、神様が悲しんでいらっしゃる」とおっしゃいました。そして私に、「地上での神様のみ業に対する、特別な役割を果たしてほしい」と要請されました。
それは既に四十九年前のことです。その後、多くのことが起こりました。私は学業を続けながら、聖書を勉強しました。私は、万民が聞いて知ることのできる深奥なみ言をイエス様から受けました。このみ言を人々に教えたといって、私は何度も逮捕され、収監されて激しい拷問を受けました。三年間、北朝鮮の死の監獄にいました。この監獄では人々が数ヵ月もたたずに死んでいきますが、主が三年間私を保護なさり、また私をして激しい苦痛から生き残るようにされました。その後、数年間多くの人々にみ言を伝播する機会がありました。そのようにして今日、統一教会は百二十余ヵ国に約三百万の信徒をもっています。
今日、神様には頭痛の種が三つあります。第一に、無神論的全体主義、特に共産主義の拡大です。共産主義は制度的に宗教に反対し、神様に対する信仰をなくそうという理念をもつ偽りの宗教です。過去六十年間に、共産主義は何と一億五千万人の生命を奪い取っていきました。私は直接、共産主義の監獄で死ぬような拷問と苦役に服しました。共産主義は世界的に拡大し、また宗教と神様を信じる人々を抹殺しようとしています。
第二に、神様の頭痛の種は道徳的没落です。特に全世界の青少年たちの退廃の姿です。伝統的な家庭の価値の没落と腐敗した大衆媒体の影響は、若者たちをして使命感を失わせました。数百万のアメリカの青年たちは、神様に対する信仰を失い、価値に対する尊敬心を失い、自分への尊敬心さえ失いつつあります。麻薬の乱用、性的不道徳が荒れ狂っています。若者たちはこの世界の未来を担っています。彼らが腐敗すれば、次世代のどこの誰が宗教を信奉して、神様に仕えるでしょうか。
最後に、神様を最も悲しませるのは、キリスト教信仰の不協和および分裂です。神様はお一人でいらっしゃいます。イエス•キリストもお一人です。しかし、今日、五百ないし千種類のキリスト教の教派が乱立しています。この地球上のある所では、キリスト教徒だと自任する人々が、神様の名のもとにお互いの命を奪い合っています。時には平和に共存もしますが、彼らの信仰は日増しに力を失い、退廃し、また冷めていきつつあります。キリスト教の信仰は熱気を失い、問題の多い現在の世界での挑戦に失敗を繰り返しています。
善であり慈悲、正義の勢力と暗黒の勢力との宇宙的闘いにおいて、神様はこの国アメリカに特別な祝福をされました。神様はキリスト教をして真の信仰を取り戻させ、神様の愛を中心とした天国の家庭を形成する場所としてアメリカを立てられました。神様はアメリカを、この上なく愛されます。アメリカの偉大性は、その膨大な自然資源にあるのではなく、また途方もない繁栄にあるのでもありません。それは、この国の建国精神、正にそこにあります。「神様のもとにおける万人の自由と正義のための国」を建国しようと勇敢な男女たちがここアメリカに来ました。アメリカは様々な種族と様々な背景をもった人々が、一つの調和を形成した世界で唯一の国です。白人、黒人、黄色人のすべてが兄弟姉妹である一つの人間家族です。神様を私たちの父と認定するとき、この理想は実現されるのです。
神様が私をアメリカに呼ばれた理由
一九七一年、神様は頭痛の種を解決しようと私をアメリカに呼ばれ、キリスト教を復興させる運動を導かれました。その後、私はキリスト教を団結させ、道徳性を回復し、無神論的共産主義を撃破する運動のために、神様のみ言を伝播し、アメリカの人々を鼓舞させました。
アメリカは本当に天が選択した国であり、キリスト教的愛と統一の手本として選択された国であるとともに、苦痛の中にあるこの世界のために自ら犠牲となり、奉仕するように選択された国です。しかし、今日のアメリカは危険な岐路に置かれています。一方ではキリスト教の復興、神様を中心とした道徳と家庭の価値の回復および無神論的共産主義に抵抗するために叫ばれる神様の声があります。そうであるかと思えば、他の一方では、暗い宗教の非寛容性がアメリカで幅を利かせています。この偉大なアメリカ全域にわたって、信仰的な人々は迫害され続け、罰金を出さなければならず、逮捕され、投獄され有罪宣告を受けています。皮肉なことに、この偉大な社会の一部では、宗教的理想を復興させているかと思えば、一方では暗黒勢力が神を恐れぬ不道徳および腐敗に向かって走っています。
きょう、監獄にいながらも、私が神様に対して感謝していると言えば、驚かれるかもしれませんが、これは絶対に本当のことです。なぜなら、このような獄中の難しい過程を通して、私は貴殿とこのようなお話を分かち合うことのできる機会をもつようになり、直面した危機を貴殿にお知らせし、また歴史的なこの瞬間に私たちに与えられた恵みの機会を、貴殿と共にもつようになったからです。
私がいかにして、きょうこの監獄にまで来るようになったのかを、簡略に御説明申し上げようと思います。私は自らの禍福については無関心です。私の入獄が神様のみ旨に役に立つならば、これ以上感謝することはありません。しかし、明らかなことは、私がアメリカ政府によって迫害を受け、差別待遇を受けたということです。すなわち、アメリカ政府は信仰的な熱意に対して、ますます敵意を抱く、驚くべき兆しを見せています。
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Tuesday Feb 15, 2022
平和経 第114話
Tuesday Feb 15, 2022
Tuesday Feb 15, 2022
5.世界平和のために宗教間で和睦しよう
日付:一九八四年八月十四日
場所:韓国、ソウル、ロッテ•ホテル
行事:第四次宗教一致会議および世界宗教青年指導者セミナー(代読)
尊敬する議長、高名な学者および聖職者の皆様、世界宗教青年大会の参席者、そして紳士淑女の皆様。私は、「神様に関する今日の討議」の第四次会議の場所であると同時に、「第三次世界宗教青年セミナー」の終着地でもある韓国にまで来られた皆様を、心から歓迎するものです。
この二つの行事がきょう、このように韓国で合流するようになったのは、偶然のことではありません。歴史的に見るとき、韓国は世界の宗教が唯一、集結した地でした。早くから仏教と儒教がここでその根を深く下ろし、互いに調和しながら、在来の檀君神話と土俗信仰の流れの中に習合して受け継がれてきました。そして、一九八四年はカトリックの韓国伝来二百周年であり、プロテスタントの韓国伝来百周年になる年です。単一文化圏の中で主要宗教の相互共存と相互発展の過程が歴史的に進行してきたこの地では、多様な宗教的教訓が「隠遁の国」の民たちの胸に深く入り込んでいます。
正にこのような土壌に私たちの統一運動が宿り、出現してきたので、この運動は、汎世界的次元で「多様性の中での合一」を模索し、「神様のもとに全人類が一家族」であることを悟った基盤の上で、愛と共感と調和の世界を成し遂げようとする運動です。
このような理想世界を創建するために、私たちは全体的なモデル、すなわち青写真をもたなければなりません。
統一運動が提示する理想世界の姿は、心と体が一致した完成した一人の人間に比喩することができます。神様を中心とした人間の精神および霊的生活から、人生の理想と目的が出てきます。神経組織は心がしようとすることを各細胞に伝達し、四肢五体から入ってくる情報を頭脳に伝達します。この授受の過程が順調なとき、個人は調和が取れた状態にあると言うのです。
人類全体の精神的および霊的生活が、一個人のそれと比べることができるならば、人類社会の経済的で外的な側面は、個人の身体と比べることができます。人類の霊的理想と神様に向かう念願と愛は、宗教を通して社会と文化の中に表現され、それを中心として神学、哲学、芸術およびあらゆる文化が巡っていくのです。ここにおいて、宗教指導者、神学者および哲学者は、あたかも人体の神経組織のように、神様から来るメッセージを解読して、全人類に伝達しなければならないのです。
きょうの現実を改善し、新しい文化革命を成就するに当たって、宗教指導者および学者の皆様が、決定的な役割を担当できると私は信じています。歴史的に見るとき、宗教指導者たちと学者たちは、古代インド、中国、中近東およびギリシャで文化創建の先駆者たちでした。これは初期のキリスト教とイスラーム文化圏でも例外ではなく、文芸復興と宗教改革、または啓蒙思潮においても同じでした。
しかし、今日の科学技術の急速な成功とともに、宗教は現実世界の諸問題を解決することに失敗し、宗教のこのような姿に幻滅を感じた数多くの人々が、共産主義の反宗教的旗じるしのもとに集まりつつあります。しかし、共産主義は暴力を手段とし、究極的に神様を拒否して、諸宗教の目標を挫折させ、人類の主眼を物質的次元に限定させようとしています。共産主義に傾いた相当数の人々は、自分なりに高い夢をもち、人種と国家の垣根を越えて活動しようとしている事実を、私が知らないわけではありません。しかし、この人たちの情熱と理想主義は、神中心の思想と活動によってのみ補完され、完成に向かう道を見いだすことができるのです。
正に、ここに宗教指導者たちと学者の皆様が、献身的に先頭に立つべき時代的要請があるのです。「神様会議」と「世界宗教青年セミナー」、また「国際宗教財団」の諸般の活動は、このような理想を実現するための機構であり、テストケースであり、フォーラムなのです。
皆様は、学問をもって皆様自身を世界と神様のみ前に奉献するよう召命されています。皆様は共同体の中で神様を代弁し、神様から来る愛と希望を隣人に伝達して、世の中の人々が人類と神様に奉仕する仕事をするに当たって、その手伝いをする使命を受けています。これは、皆様の教会や寺院や会衆を悟らせ、神様を中心とした自由と平和の世界を築くために動員されることに連結されるのです。
この世俗化した時代に宗教のできることは何かと、尋ねてくる方が大勢います。それに対する私の所見は、世界の宗教が価値観の普遍的かつ不変的な土台、すなわち絶対価値を提示し、すべての政府がその上で真の調和をつくり出せるようにすべきであり、科学技術が正しい価値観のもとで人類に有益な方向に進むように指導すべきでしょう。地上のすべての文化圏が神中心の伝統のもとに純化され、高揚されて万人に共有されるとともに、末永く後代に伝承されるようにしなければなりません。
私が語るこの理想は、地上に神様の王国を建てることであると、心から言うことができます。そして、私はこのことが可能だと信じます。ある方々は、私がとても理想主義的だと評していますが、私もこれを認めます。しかし、私には他の選択の余地がありません。神様が私を直接呼ばれたのであり、このような使命を下さったからです。
私は今まで、神様の理想を教えることだけに終わったのではなく、地上に神様のみ旨を実現することに生涯を捧げてきました。これまで私が推進してきた宣教、教育、学術、勝共、教団および教団間の和解、社会奉仕などの活動がそれです。これらの中でも特に強調したいのは、教団および教団間の和解運動です。
今日、人類が直面している大きな問題は、数多くのキリスト教の教派と様々な世界宗教、そして各世界宗教の内部からもたらされている相互無理解の現状です。この問題を解決しようとする多様な努力にもかかわらず、宗教の共同体間の対立と敵対感は依然として続いています。過去数世紀の間に繰り広げられた宗教戦争は、きょうも終結することなく続いています。相互一致のために数多くの運動が試みられてきましたが、篤実な信仰者たちの間では、まだ非寛容、宗教的偏狭および傲慢の風潮が澎湃(ほうはい:盛んな勢いでわき起こること)しています。そのために、大部分の宗教が同じ神様に仕え、甚だしくは同じ教理をもっているにもかかわらず、宗教者たちは相互弾圧と敵対行為を継続してきました。
私たちは、神様が教団主義や教理的党派主義を超越していらっしゃるという事実を悟らなければなりません。神様の目的は、いつも全人類を救援されるところにあり、特定の民族や人種や宗教団体だけを救援しようとされるのではなく、これは今、この時間にも変わることはありません。宗教者として私たちが相互間の争いと敵対行為を終息させなければ、世の中を救援しようとされる神様を助けることはできません。多くの宗教指導者たちがこれを痛感してきましたが、様々に複雑な理由のために、この問題の解決はいつも挫折してきました。
私が強調してきたことは、世界平和のための必須の条件が正に宗教間の和睦であるということでした。今まで、ある一つの宗教が神様を完全に代弁することは不可能だったので、宗教がもっている多様な見解は、必然的な産物です。しかし、私たちは、お一人の天の父母の子女であるがゆえに、私たちは一つの大家族の中の兄弟姉妹なのであり、したがって、宗教間の葛藤と憎しみは不必要なものです。
私はかつて霊的探求の道で神様と何度も対面し、世界宗教の創始者たちとも霊的に出会いました。今も私は、引き続き神様の臨在とそこから来る霊感による交信を、生活の中で体恤しています。神様がいらっしゃらないとすれば、抑圧され、搾取されていた弱小民族の地の片田舍で生まれたこの人が、どうして無理解と迫害の中で世界的な霊的基盤を築き上げることができたでしょうか。そして、きょう、世界の宗教指導者たちのこの水準高い集いを主催し、このような演説をすることができるでしょうか。私たち統一運動の目標と手段は、神様が下さった指針によって設定され、採択されてきたという事実を、明らかにしておこうと思います。すなわち、このすべてのものは、私の私的所見や活動ではなく、正に神様に由来したものなのです。
「国際宗教財団」は、一九九三年に世界宗教議会を開催しようと計画しています。この行事は、一八九三年にシカゴで開かれた世界宗教議会の百周年を記念するためのものです。一九九三年のこの行事を準備するために、二度の予備集会が開催される予定ですが、その一つは一九八五年末にニューヨーク市近郊で行われる予定であり、もう一つは、一九八九年に開かれるようになるでしょう。この予備集会には、それぞれ七百人以上の宗教指導者、学者、一般信者代表、芸術家、そして青年たちが参加するようになるでしょう。この二つの予備行事と一九九三年の主行事は、それで終わることなく、未来のより大きな集いに連結されるよう推進されるでしょう。
いずれにせよ、このような行事は世界的に超宗派の広場を準備するように計画され、その目的はすべての生命体に内在している普遍的な原理を明らかにしていき、その原理の多様な発現を十分に高揚させようとするところにあります。これとともに世界宗教議会は、全人類が希求する世界平和の成就も模索するでしょう。その会議の参席者全員に、現代の霊的状況と当面の問題に関する各自の意見をやり取りする機会が提供されるでしょう。
世界宗教議会の目的は、政治的または教理的な立法をすることではなく、世界宗教間の相互に対する尊敬心を培い、宗教間の協力を奨励するところにあります。そして、その議会の主題は「霊的刷新と神中心の世界平和実現」であり、これに関連するその他の多様な問題も合わせて討議されるでしょう。
この場に来てくださったことに対して、重ねて感謝を申し上げます。私は今回の大会が人間の考えを標準として神様を考える集いでなく、神様の本来の理想を探索する集いになることを願います。皆様の真剣な研究と討議によって、この時代に対する神様の願いが大きく発現することを祈ってやみません。ありがとうございました。
<訓読者を募集しています。御言葉を読んでみ旨に貢献しませんか?ご希望の方は樋口まで連絡して下さい。>

Tuesday Feb 15, 2022
平和経 第113話
Tuesday Feb 15, 2022
Tuesday Feb 15, 2022
アメリカの意図的な宗教裁判
皆様が私のこのような膨大な公益事業の範囲を御存じならば、私がアメリカで二万五千ドルの脱税を試みたとは、誰も思わないでしょう。私の裁判事件は、初めから脱税事件ではありませんでした。これはアメリカ政府の意図的な宗教裁判でした。
彼らが統一教会を選んだのは、統一教会が攻撃を受けても、誰も同情しないだろうと信じたからです。しかし、政府はここで大きな誤算を犯しました。すべての人の人権が保障されない限りは、人権を保障されたとは言えず、ある一人が脅威にさらされれば、国民全体が脅威にさらされることをアメリカの宗教界は、あまりにもよく知っています。
政府が権力を乱用すれば、恐るべき事態が起こります。見てください。ローマ帝国はイエス•キリストを十字架にかけたではないですか。このアメリカでは、政府がシャーマンたちを焼き殺し、カトリックを迫害し、ユダヤ教を弾圧し、また黒人奴隷制度を延長させました。正に政府がモルモン教の教祖ジョセフ•スミスを投獄し、暴徒によって殺害されるのを傍観しました。今はその政府が私を捕まえようとし、その過程で私たちの宗教の自由を侵しています。私たちは今すぐ、この政府の職権乱用を防がなければなりません。そうでなければ、次の被害者は誰でしょうか。
正にこのような重要な時点で、レバレンド•ムーンがアメリカの宗教の自由を決定づける新しい突破口になったということには、歴史的で摂理的な意味があるのです。私の有罪判決は、宗教活動自体を実践することが罪になるという意味です。宗教指導者であるゆえに、私は処罰されようとしています。
このような啞然とする事実は、アメリカの良心を揺り起こしました。宗教指導者たちと信仰人たちがついに立ち上がったのです。彼らは怒りに震えながら、闘うために行進を始めました。最も重要な事実は、広範囲な宗教界が一つの目的のもとに団結したという事実です。この宗教界の団結が、アメリカの生存を保障するでしょう。
世界最大の対立
今日、世界の中の最大の対立は、アメリカとソ連の対立ではなく、資本主義と社会主義の対立でもなく、民主主義と共産主義の対立でもありません。それは神様を信じる人と神様を否定する人の対立だというのです。
共産世界は神様を否定する世界であり、人類の夢を実現することに失敗しました。ところが、自由世界も物質万能主義に陥って神様に背き、世界の問題に対してはお手上げです。今日、民主と共産の二大世界が、すべて暗闇と混沌の中にあります。新しいビジョンがどこかで現れなければなりません。それは神様を中心とした世界観でなければなりません。
私はその新しい理念が「神主義」であることを宣布します。この理念こそ、新しい解答を提示してくれるでしょう。この理念は、神様の愛の心情の中から湧き出たものです。これはすべての宗教者と良心的な人々を統合するでしょう。真の霊魂の自由を具現するでしょう。そして、この理念が結局は地上天国の基盤になるのです。
私が発表した神様を中心とする膨大な思想体系の内容は、高次元的な理論であるため、聞く人が衝撃的な感動を受けるようになるので、いわゆる「洗脳」という言葉が出回るようになりました。これによって、一部、親の世代と言論機関の誤解を招く結果となり、私を怨讐視する共産主義者たちは、統一運動に対するデマとして世界的にこれを利用してきました。
私はきょう、アメリカの宗教の自由を保全するために、私が犠牲の祭物になったことを光栄に思います。もし私が、危機に立ったアメリカ歴史の未来を警告する灯台の光になるならば、私の犠牲は偉大な目的を達成したのです。
きょうの私たちが直面する課題は、正にアメリカと自由世界の生存そのものです。このアメリカと世界の生存と繁栄を保障するために、私はどんな屈辱も甘受し、どんな険しい所にも行き、どんな苦役でも辞退せず、どんな十字架でもこれを喜んで背負うでしょう。もし、この宿命の道を行く途中で、たとえ倒れるとしても、それによってアメリカが生き、世界がよみがえって、神様のみ旨が成就するならば、私はただ神様に対する感謝に満ちるでしょう。
神様、アメリカを祝福してください
私には怨讐がいません。自らを槍で刺す人たちを十字架上で赦されたイエス•キリストの伝統に従って、私もとうの昔に自分の怨讐たちをすべて赦しました。さらに私はアメリカ政府に対しても、敵意をもっていません。私はむしろアメリカのために祈ります。
今、この瞬間、私の心情は神様に対する感謝で満ちています。それは、神様がこの重大な時期に私を選ばれて、この国の宗教の自由を勝ち取る闘いの先頭に立つ大将になるようにされ、アメリカの大覚醒を促す導火線になるようにしてくださったからです。
議長。この機会を下さったことに重ねて感謝を申し上げます。私は次のような言葉で、私の証言を結論づけようと思います。神様、アメリカを祝福してください!ありがとうございました。
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Monday Feb 14, 2022
平和経 第112話
Monday Feb 14, 2022
Monday Feb 14, 2022
4.アメリカと宗教の自由
日付:一九八四年六月二十六日
場所:アメリカ、ワシントンDC、国会議事堂上院議員会館
行事:アメリカ上院法司委員会憲法小委員会、宗教の自由に関する聴聞会
尊敬する議長、上院議員、そして紳士淑女の皆様。私はきょう、宗教の自由のためのこの上院聴聞会に私を招請してくださったことに対し、深甚なる感謝を捧げるものです。また、議長が私の大法院上訴を支援してくださったことに対し、感謝を申し上げます。憲法が付与する個人の権利を守護する貴殿の高貴な行為は、数多くのアメリカ人から末永く尊敬を受けるようになるでしょう。
アメリカと宗教の自由
大法院上訴棄却が発表されて以後、アメリカ全域には、この大法院の不当な処置に抗議する宗教指導者決起大会が続々と起こっています。この大会に参加した全国一千人以上のユダヤ教、キリスト教、イスラームの指導者たちが、宗教の自由守護の大命題のもと、もし私が監獄に行かなければならないとすれば、自分たちも一緒に行って一週間ずつ服役しようと決議しました。私はこの事実を知って、大きく感動しました。私はこのような宗教の自由の闘士たちに敬意を表すものです。
きょう、この場は、歴史的な場です。私はきょう、アメリカの国会に対してのみこの証言をするのではなく、歴史と神様の前に証言するものであると考えます。私には、神様がアメリカを愛していらっしゃることが分かります。しかし、アメリカの偉大さは、豊富な資源にあるのではなく、豊かな繁栄にあるのでもありません。アメリカの偉大性は、正にアメリカの建国精神にあります。その精神は、すなわち「万人のための自由と正義が存在する、神様のもとの一つの国」というものです。
しかし、神様の望まれることは、そこで終わるのではありません。神様の究極的理想は、「お一人の神様のもとの一つの世界」というものです。私たちは、神様の子女です。五色人種(すべての人種)が兄弟姉妹として、人類大家族を形成するのです。私たちがみな、神様を父として迎えるとすれば、神様のこの理想は現実化されるでしょう。
しかし、神様は宗教の自由がなければ、その理想を実現なさることはできません。アメリカの清教徒たちは、宗教の自由は正にすべての自由の核心であり、宗教の自由なしには、それ以外のどのような自由も意味がないことを知っていました。ですから、彼らは生命を、まるで、ちりあくたのように捨てながら、信仰の自由を勝ち取ろうとしました。
ところが、今その信仰の自由は危機に瀕しています。現代のアメリカは、無神論の暗雲の中に包まれ、あらゆる宗教生活に対して、ますます弾圧を加えています。そうかと言って、私たちがこの世界を捨てて避難できる新世界は、地球上にありません。私たちは、必ず本然のアメリカを取り戻さなければならず、宗教の自由を回復しなければなりません。そうしなければ、アメリカは結局、滅びるようになるでしょう。そのようになれば、明らかに世界も滅びるでしょう。
アメリカで果たすべき使命
一九七一年、神様が私にアメリカに行きなさいとおっしゃいました。そうして、キリスト教の復興を試みて、アメリカを建国精神に戻す運動を展開しなさいとおっしゃいました。神様は私を、医師と消防士の役割をしなさいとアメリカに送られたのです。アメリカに行って、一大霊的覚醒運動を起こすために送られたのです。全世界の生存問題が、神様が賦与した使命をアメリカが果たせるか果たせないかにかかっていています。アメリカは自由世界の最後の橋頭堡です。
去る十二年間、私はアメリカのためにあらゆる心血を注ぎ、一粒の汗と涙を惜しみませんでした。このような使命を遂行してくる過程で、私は問題の人物になりました。一部では多くの非難も受け、また迫害も受けました。しかし、歴史上、迫害を受けた宗教指導者は、私一人だけではありません。旧約と新約を通して主要な預言者は、蔑視され、迫害と苦難の道を歩んだ事実を知ることができます。今日、私はこのような神聖な伝統に参与することを光栄なことと考えています。
神様はこの地上で、真の自由を勝ち取ろうとされます。自由に対する最大の脅威は、共産主義の独裁です。共産党は既に一億五千万人の無垢の人命を虐殺しました。そのうちの多くの犠牲者が宗教者です。私も北朝鮮共産党の強制収容所から九死に一生を得て助かりました。共産主義は、今日の世界最悪の非人道主義です。
しかし、最近になり、自由は後退の一路にあります。一九七五年、自由は東南アジアから後退しました。そして、数百万の人命が、また犠牲に遭いました。アフリカとラテン•アメリカの様々な国々が、続々と共産化されました。少なくとも十五億の人類が共産治下で捕らわれの身となりました。今のこの時点では、アメリカの裏庭とも言える中米一帯が第一線になりました。自由の敵たちは、彼らの最後の目標であるこのアメリカを征服するその日までその前進を止めないことを私は知っています。
アメリカで達成した十二年間の業績
私は、一九八〇年、レーガン大統領の選挙を支援しました。私はこの大統領が共産主義の侵略を防ぎ、国を神様と建国精神に戻すことを望みました。ところが、残念なことに、最も多くの宗教界の支持を受けて当選したその大統領指揮下の政府が、そのどの時よりも教会を侵害し、歴史上かつてないほどに、宗教の自由が致命傷を受けているのです。これはどういうことでしょうか。
去る十二年間、私はアメリカのために、最善を尽くしました。私にはただ一つの目標があっただけです。それは、アメリカを道徳的に強くし、神様が賦与した使命を果たし得る力量を、どんなことをしてでも育てることです。そのような一念でした。
私は、「国際宗教財園」をつくって世界の宗教の統合運動を起こし、「ニュー・エラー(NewERA: 新しい宗教一致運動)」という超教派運動を始めています。各宗派の神学者たちが集まり、神様に対する理解を増進し、互いが融合するようにしながら、現代の最も偉大な神学者と哲学者たちが集まって神様の会議を開催します。
また、学界に神様のみ旨を覚醒させてきました。私は「国際文化財団」を創設して、年次で「科学の統一に関する国際会議」を開催しながら科学と絶対価値を議論させ、志ある教授たちが集まる「世界平和教授アカデミー」と「パラゴンハウス」という出版社、そしてアメリカ、ワシントンDCに政策研究所を造りました。
また、文化の分野を通して神様に対する畏敬思想の強化に努力してきました。マッカーサー元帥の仁川上陸作戦を描いた「オー!仁川」という映画の製作がその一例です。私は、マッカーサー元帥の愛国心と神様と人類を愛する精神を、この映画で描き、その精神をアメリカの若者たちに植えつけ、彼を英雄として推戴することが、この国を愛する道へと導いていくことになると信じていたのです。
宗教的理念は、必ず社会奉仕で表現されなければならないという原則のもと、私は、教会の社会活動を支援する協議会(NCCSA)、また「国際救護財団(IRFF)」、そしてプロジェクト•ボランティアをつくって全世界の貧しい人と困難者たちを助けています。
共産主義からの解放のために韓国と日本に「国際勝共連合」を創設し、大学街の青年の道徳運動のために原理研究会を創設し、国際カウサ運動を展開しました。責任言論の暢達(ちょうたつ)のためには「世界言論人会議」と「ニュース•ワールド•コミュニケーション」を創設して、世界の至る所で日刊紙を発刊し、そのうちの一つがアメリカの首都にある「ワシントン•タイムズ」です。これは民主主義の暢達のために、バランスの取れた言論の重要性を認めているからです。この「ワシントン•タイムズ」の事業一つだけでも、何と一億ドル以上が投資されました。
しかし、このような公共的は莫大な財政が必要であり、また数多くの人たちの献身的努力によって成り立っているのです。既に数億ドルがアメリカに投入され、この莫大な資金は、主に海外から送られてきました。統一運動においては、他とは異なり、アメリカが受恵者の立場であって、援助者の立場にはありません。それは、アメリカを失えば、世界をすべて失うという私の所信だからであり、神様がアメリカを差し置いては、ほかに期待できる国が地上にないからです。
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Saturday Feb 12, 2022
平和経 第111話
Saturday Feb 12, 2022
Saturday Feb 12, 2022
主体と対象が一つになるのが愛の作用
人間を見るとき、人間は二重構造になっています。人には心の作用があります。心を見ることはできませんが、それは誰も否定できません。また、体も作用をしています。これはみなよく知っています。
この体がなぜ作用し、心がなぜ作用するのですか。これを主体と対象として考えるならば、一つは男性型であり、一つは女性型です。プラス的なものは見えない内的な私、マイナス的なものは見える外的な私です。それがどうなりますか。それぞれ異なる作用をします。皆様、一度手を握ってみてください。様々な形態で手を握ったでしょう。このように上げて握る人がいて、このように下ろして握る人がいます。
すべてのものが連結されるためには、主体と対象の観念圏内で動くので、必ず円形運動をします。主体と対象を基準とした作用圏内では、絶対不可避な作用をしなければならないからです。それで、どの一面であろうとすべて円形に似ているのです。
男性と女性を見れば、相対的であると同時に、根本的に作用が異なります。概して男性は背が高く、女性は背が低いのです。両手は、運動することを中心として、関係を保ちながら一つになっていきます。二つが作用するのですが、出会うところから愛の作用を成立させることができると見るのです。独りではできません。二つが共同目的をもって和合できるところから愛の作用が爆発します。それでは、どうしてその愛が爆発する作用が必要なのですか。運動をすれば必ず消耗が生まれます。力学で入力と出力を見るときに、出力は必ず入力より小さいのです。したがって、このような原則の作用世界において、いかに作用を永続化させるかということが、極めて重要な問題です。
ですから、偉大な科学者である神様は、互いに異なるすべての作用が接触するとき、爆発的な作用を加えることを考えないでしょうか。この二つが合わさることのできる次元において、作用の決着点から関係が結ばれるものが愛の作用です。おもしろい話です。ですから、もし二人がぶつかり合えば、押し出すというのです。来ては戻り、愛によって押して戻すというのです。ですから、連続作用を拡大する主流的な作用圏の行為を継続すると見るのです。
ですから、一つのプラスがあれば一つのマイナスがあります。このプラスとマイナスがどのように合うのですか。合わせるのは主体と対象による作用です。マイナスは作用しますが、絶対に損をするようには動きません。これは、自分にプラスになる基準を探すためです。プラスを探して、より大きなプラス圏内に発展し、より大きな最高の欲望の目的、最高の価値の終着点に向かって走っていくのです。そうすることで、より高い次元にある愛の位置に進んでいこうという結論が出てくるのです。
すべての存在の最後の目的は神様の愛
今日、人間の欲望というものは、すべて党派的です。経済学者は経済、知識人は学問、政治家は権力、あるいは世の中の自分の欲望、家門、歴史的背景、環境的要件などなど、とても多様な環境に引っ張られて党派的に作用しています。それは、それ自体で終わってしまうのです。人は欲望をもっていますが、ここから根本問題が生まれています。自分が主体だからです。自分が主体になって、「お前も私のところにきて、私に従いなさい」と言っています。
今日、世界人類の弊害は何ですか。お金がないことが弊害なのではありません。知識がないことが弊害なのではなく、何かの社会組織の主権がないことが弊害なのではありません。自分を中心として引っ張って、自分に従わせようとすることが弊害です。個人個人がすべて自分を主張すれば、プラス•マイナス理想の形成基盤が、一度に完全に崩れるというのです。作用は作用どおりに行い、自らを完成させながら、それがもう一つの主体と対象の関係に連結される道に行かなければなりません。
すべての存在物が自分を中心として一つになろうといえば、止まってしまうことになります。この中に入ろうといえば止まってしまいます。ぶつかってしまいます。ここでは、大宇宙の形成は不可能なのです。ですから、神様がいるならば、神様はどのような考えをもたなければならないのでしょうか。これを連結させるためには、いつも「ために生きなさい」というでしょう。ために生きる行路を行かなければならないというのです。
すべての存在は、より大きな目的のためにあります。個人は家庭の目的のために、家庭は氏族の目的のために、氏族は国家の目的のために、国家は世界の目的のために、世界は霊界があれば天地の目的のために、天地は神様の目的のために前進しなければならないのです。神様の目的それ自体は何かというと、愛の目的です。すべて愛の進路があります。一つの細胞から、微生物なら微生物から、すべてが一つの支流のようになって、本流に流れて大河を形成し、大海に連結される偉大な愛の流れがあります。この流れの原則と内容を公認しなければ、大海に行くことができないのです。このような内容を先に知ったので、すべてを新しく革命しなければならないというのです。大革命が起こるでしょう。
孝子は必ず苦労の道を通ります。受難の道を通るには、その受難と苦労を超越して、価値のある内容に消化させていくことができる、ある刺激的な力の源泉がなければなりません。これを付加できる、その主体は愛です。有名な学者の先生方も、これを否定できないでしょう。
愛国者とは誰ですか。同じ理屈です。国のために国民を愛し、主権者を愛するときに、この宇宙の原則の愛の要素と一致化できる和合の実体として、国を抱く人です。その民を愛で抱くところでは、頭をたたかれてもうれしいというのです。
皆様。聖人とはどのような人ですか。国ごとに愛国者が大勢います。国ごとに偉人が大勢います。それでは、聖人と愛国者と偉人とは、何が異なるのですか。聖人というものは、天に侍り、人類を愛した人を言います。人類を愛するとき、天地の大道と一致する道に接近させる旗手の立場に立った人が聖人です。聖人で終わるのではありません。その次には、天子(聖子)にならなければなりません。天子の道とは何ですか。神様と人類の受難の道を収拾して、愛の目的を決着させることができる人こそ天子、すなわち神様の息子だということができるのです。
統一教会は何を主張するのですか。「私」を中心として、宇宙の愛の本然の道に順応できる道に入って、私がいるのは父母のためであり、子女のためであり、民族、国家、世界のためにいるというものです。このように、より高い愛の段階に発展することです。それで、最後には一つしかない神様の愛を占領できると見るのです。
このように見るときに、このような思想でのみ統一できるというのです。その位置に進めば、一つになるようになります。しかし、皆様の心と体は、この作用がうまくできません。それは、堕落して人間が故障したからです。それで、実存哲学で言う「極限状況」をいかに克服するかということが問題です。それを愛で克服しなければなりません。
「今日の知識人と宗教」という主題について、現在の立場で皆様が考えるべきことは何でしょうか。愛を必要とする人は、いくら優秀な学者や博士、世界の政治家、あるいはいくら聖人だとしても、神様を信じる宗教から抜け出すことはできないという結論が出てきます。その愛が必要でなければ、宗教の道、神様を求める道を無視してもよいのです。
それで、皆様がきょう、この場に来られたので、私の話を一度参考にして、皆様の生活において、あるいは社会において、人倫や道徳、各分野にこのような内容を適用すれば、大韓民国と世界は新しい次元の発展基準、理想と幸福の基準が拡大するのではないかと思います。そのような意味で、少しの間お話しいたしました。ありがとうございました。
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Saturday Feb 12, 2022
平和経 第110話
Saturday Feb 12, 2022
Saturday Feb 12, 2022
3.今日の知識人と宗教
日付:一九八一年五月十六日
場所:韓国、ソウル、ロッテ•ホテル
行事:著名人招請講演会
大韓民国の重鎮である皆様をこの場にお迎えし、きょう知識人たちとの集いをもてるようになったことを、限りなく光栄に思う次第です。この場は、「今日の知識人と宗教」という主題をもって集まりましたので、私の所見の一端をお話ししてみようと思います。
人間は次元の高い価値を追求する
皆様は、統一教会の主張に関心があるのではないでしょうか。団体ならば団体の主張があり、国家ならば国家も、国策を中心としてそれ相当の主張があるものです。その主張に従って、その指揮下にあるすべての行政あるいは組織機関が動き、その目的とすることに向かって進んでいくのと同様に、統一教会にもその主張があります。
周知のように、人の欲望は極めて大きいものです。個人においては個人の欲望、家庭においては家庭の欲望、社会ならば社会、国家ならば国家、世界ならば世界なりの欲望があります。このように見るとき、人間がその欲望を通して何を得るのかを考えてみれば、その欲望を通して、より次元の高い目的や価値あるものを追求するということは、言うまでもありません。この宇宙、さらには宗教的に見るとき、見えない新しい世界があるとすれば、「私」はどこを終着点として進展するのかということが問題です。これが今まで、哲学あるいは人生問題を扱うすべての宗教が重要視する点です。人生はどこに向かっていくのでしょうか。人はそれぞれ異なる欲望をもち、自分なりに歩んでいます。そして、その欲望が指向する最高の目的とは、最高の価値でしょう。
皆様は自分の専門分野において、世界で一番の学者を標準として動くでしょう。これと同様に、この宇宙の中で、私たちの目的となる主体である偉大なお方がいらっしゃるとすれば、そのお方を標準としてすべてのものは動いていくでしょう。それで、人間世界においては、聖人という問題、さらには宗教的に見れば、神様という問題が登場するようになります。このように見るとき、私たちのあらゆる欲望は、神様というお方を目的とし、そこに終着点を置いていくものだという結論が出てきます。
神様が必要とされるものは何か
もし私たちが神様を発見し、神様を探し出したとき、神様が必要とするものとは何なのか、尋ねてみたいと思わないでしょうか。神様として望むこととは何でしょうか。神様が望むことがあるとすれば、私たちは神様を発見したその時から、神様が望むことに向かって前進せざるを得ないでしょう。
神様が望む欲望とは何でしょうか。その神様の望むものは、今日、私たちが生きている人間世界において語る物質でもなく、お金でもありません。ここに列席した高名な学者の先生方が追求する知識でもありません。神様は全知全能のお方なので、知識ではありません。権力でもありません。そのお方の欲望は、人間にとっても第二次的な立場で、さらに追求すべき重大な問題になるでしょう。このように総合して結論づけるとき、その結論とは何でしょうか。生命力ですか。それも違います。正に「愛」という一言に集約されるという結論を下さざるを得ません。
全知全能のお方に、何のために愛が必要なのでしょうか。なぜ神様に愛が必要なのかという話です。愛は個体自体で成立するものではなく、必ず相対的関係で成立するものだからです。愛というものが、一つの個体から自発的に出発できますか。いくら自分が愛をもっているとしても、自分自体で自発的に出発できないというのです。必ず相手が必要です。相手を通して愛を追求するようになっています。
それでは、神様は何を目的として創造したのでしょうか。神様が独断的な面において、一般的な目的の追求のために、この被造世界を造ったのでしょうか。それは喜びのためです。神様も喜ぶために造られたのです。喜び楽しむためです。何を中心として喜び楽しまれるのでしょうか。お金でもありません。この宇宙の万象をもって人間が喜ぶ、そのようなものを中心として喜ばれるためではありません。愛を中心として喜ばれるために万物を造られたのです。このすべての万物を、そのような目的のもとに造ったというのです。
それでは、万物が願う最高の願いとは何であり、最高の終着点とは何でしょうか。神様が愛を通して喜ぶことを目的として万物を造ったとすれば、被造世界の万物は、愛を通して連結される関係を抜け出すことはできません。あらゆる万物は、神様の真の愛を受けるために相対的関係をもって授受作用するのです。
力が先か、作用が先か
今日、多くの科学者たちは、この宇宙について「宇宙は力によってできた」という結論を下しています。力が存在することによって宇宙が形成されたというのです。それでは、力があって宇宙が形成されたのでしょうか。力が存在する前に何かがなければなりません。力だけではできません。力が存在する前に必ず作用という過程を経なければならないのです。心臓の作用が終われば、私たちのすべての力の原動力となる生命も終わります。皆様は、自動車に乗られると思いますが、自動車のエンジン作用が止まれば、走る力が、すべてなくなるのと同じです。ですから、力が先か、作用が先かという根本問題に至るようになります。力が先ですか、作用が先ですか。作用が先です。このように見るときに、作用のないところには力が存在できないのです。
私たちのすべての細胞構造から人体を見るとき、あらゆるものが作用圏内を総合して力を維持しています。いくら強い力があるとしても、その力自体が突発的に顕現することはできないと見るのです。細胞作用を通してのみ力が出てくるのであって、そのまま大きな力が出てくることはできません。必ずここには、力が存在する前に作用が必要だというのです。力が存在する前に作用がなければなりません。その作用は一人でできません。作用する要件を形成するためには、主体と対象の関係を絶対に離れることはできません。皆様はこの点をはっきりと知らなければならないというのです。
それでは、宇宙形成はどこからなされるのでしょうか。力からではありません。主体と対象の観念があって、その主体と対象の作用から形成されるのです。それから力の活動方向が変わります。その力は、こちらに作用すればこちらに行き、あちらに作用すればあちらに行くのであり、総合的に作用すれば一つの方向に行くでしょう。
このすべての作用を統一できる作用とは何なのかが問題です。例えば、私たちの腕がするような作用ですか。私たちの心臓が作動するような作用ですか。血管作用ですか。神経作用ですか。この全体を総合できる一つの方向性を定め、主体的力の主流圏を占めるものとは何かというのです。このようなすべての問題は、近世において多大な関心事でした。知識人たちには大きな問題とならざるを得ません。
この主流的で統合的な作用として、ある大きな目的を連結させるのは自己中心ではありません。接すれば接するほど、ぶつかればぶつかるほど、喜びが増し、うれしくなる、主流的な力の総合的な作用形態があります。それが何かというと、真の愛です。真の愛という作用には、すべてが和合するようになっています。
その理由は、神様が喜ばれるために愛を追求するというとき、その愛は私たちの第一の欲望と同じ立場に立つからです。すべての被造世界は相対のために造られたので、被造世界は真の愛を主体として拍子を合わせざるを得ない存在になっています。
ですから、近所に愛のある裕福な家があるとすれば、近所の犬たちもその家に行って大便をするというのです。そこを通る犬もそこでとどまろうとしまた飛んていくすずめもその垣根に来てとどまろうとします。すずめがチュンチュン鳴くその家は、大抵愛のある裕福な家です。子犬もそうであり、小さな昆虫もこのような愛の理念に拍子を合わせ、宇宙の大作用圏の方向性に一致する作用形態をもって存在していると見るのです。これは人間自体においてもそうです。ですから、愛の道に従っていくためには、どうしなければなりませんか。この作用も、必ず主体と対象の関係によるのです。
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Sunday Feb 06, 2022
平和経 第109話
Sunday Feb 06, 2022
Sunday Feb 06, 2022
女性の体を通して来られる再臨のイエス様
それでは、今後、来られる主はいかにして来られるかということを考えてみましょう。新約聖書にも両面の預言があります。旧約と同じだというのです。今日のキリスト教徒は、当時のユダヤ教徒と全く同じ立場です。範囲が世界的に発展しただけです。しかし、キリスト教は霊肉ではなく霊的のみです。国がありません。イスラエル選民のように国家基準の基盤ももっていないというのです。なぜですか。イエス様が死んだからです。昔のユダヤ教にさえ及ばないことを知らなければなりません。
イエス様は霊的王としてのみ成就しました。ですから、神様のみ旨は世界人類を救ってサタンを追い出し、神様が王になることであるにもかかわらず、イエス様が死ぬことによって地上でサタン世界を復帰することはできませんでした。サタンを追放してイエス様が王になり、神様が主管する国を建てるというみ旨が成就できなかったのですが、そのみ旨を成就するのはメシヤなので、再び来なければなりません。ですから、全世界のキリスト教徒たちが一つになって、来られる主を中心として、この地上に天国を形成するために、失敗したイスラエル民族以上に強い世界の国家をつくらなければならないということです。
聖書のヨハネの黙示録第一章七節を見れば、「彼は、雲に乗ってこられる」と預言されています。テサロニケ人への第一の手紙第五章二節を見れば、「主の日は盗人が夜くるように来る」とあります。雲に乗ってくるのに、盗人のように来ることができますか。皆様の思いどおり、盗人のように来る主は信じず、雲に乗って来る主を信じようと決定できますか。雲に乗ってくるのは、昔、旧約聖書のエリヤと主、メシヤが雲に乗って来ることを信じるのと同じであり、人として来るとすれば盗人のように来るということです。
旧約時代を中心として神様の役事(働き)を見るとき、イエス様が雲に乗ってくると思いますか。そのように信じていては、また十字架にかけるようになります。イエス様を信じる人々が、来られるお方の命をまた奪うというのです。
私たちは、両面の預言をどちらも信じようというのです。雲に乗っても来ることもでき、人としても来ることもできるということです。雲に乗って来ると思って信じていた人は、人として来れば迫害しかねませんが、人として来ると思って信じていて、主が雲に乗って来るとすれば、間違いなく迎えるというのです。ヨハネの黙示録第十二章五節を見れば、「女は男の子を産んだが、彼は鉄のつえをもってすべての国民を治めるべき者である」と女性が産むといいました。それを教会では、仕方なく今まで雲に乗って来ることと結びつけて解釈してきました。
それでは、聖書の中で、雲に乗って来ては成り立たないというものを紹介してみましょう。ルカによる福音書第十七章二十節以下を見てください。「神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない」、とあります。雲に乗ってくるのに見ることができないでしょうか。また、二十二節では、「あなたがたは、人の子の日を一日でも見たいと願っても見ることができない時が来るであろう」と語られました。
雲に乗って来るのに、見ることができないでしょうか。二十五節、二十六節を見ると、「しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。そして、ノアの時にあったように、人の子の時にも同様なことが起るであろう」となっていますが、雲に乗って来る主が苦難を受けるでしょうか。ノアの時のように凄惨でしょうか。もし、人として来るとすれば、このようになるのです。人として来れば、間違いなくこのようになるでしょう。
全世界のキリスト教徒たちは、主は雲に乗って来ると思っているのに、人として来るとすれば、ローマ教皇や枢機卿や、全体の勢力基盤をもった人々が、「キリスト教を滅ぼし、神様のみ旨を滅ぼす異端を捕まえて葬ってしまえ」と言うのではないかというのです。皆様、そうではないでしょうか。聖書のみ言がこのようになっています。歴史的な事実から見て当然そのような結論をつけるべきだという立場から見るとき、このように神様が生きていることをここから探し出すことができ、神様のみ旨は計画的であり公式的であることを、私たちは探し出すことができるのです。
このレバレンド•ムーンがここに現れて、このようなことを熱心に教えてあげたのですが、もし教える人がいなければ、また捕まえて命を奪うのであって、ほかに方法があるかという話です。時が来たということです。レバレンド•ムーンがこのような話をしなかったとすれば、皆様がそのようにはしないと保障できますか。
それからまた、ルカによる福音書第十八章八節を見れば、「人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」という言葉があります。それは信じる人ではなく、信仰がない人の話です。雲に乗って来るのに、信じられないでしょうか。ユダヤ教徒と同じことになります。雲に乗ってきて、エリヤが先に来ると思っていたのに、人として来たとすれば信じる人が一人でもいるでしょうか。イエス様の使徒の中に書記官がいますか、祭司がいますか。1人でも信仰をもった人を見ましたか。このようなことを見るとき、雲に乗って来てはこのような話が成り立たない、というのが聖書の話だというのです。
人として来られる主を迎えるべきキリスト教
神様のみ旨とは何でしょうか。キリスト教の教派の神様になることでしょうか、人類の神様になることでしょうか。神様のみ旨とは、世界的な人類の神様になることです。救世主が来たのは、キリスト教だけを救うためではありません。世界を救うために来たのです。皆様がよく知っているヨハネによる福音書第三章十六節を見れば、「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」と言ったのであって、「一教派を愛し、一個人を愛する」と言ったでしょうか。「世の中を愛する」と言いました。それでは、世界がその神様を探し出しましたか。サタンを追放しましたか。地で失ったので、地に来て取り戻さなければならないのです。
ですから、マタイによる福音書第十六章十九節を見れば、イエス様が霊界に行かれる前に、天国の鍵をぺテロに与えながら、「あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」と地上の重要性を説かれました。地上ですべてのことを解決しなければならないというのです。
全世界の人類を中心として、神様がすべてを主管する王権をこの地上に立てましたか。サタンが王権を握っているので、そのようにしなければ、神様が計画どおりにできず、失敗した神様になります。誰ゆえにですか。サタンゆえにです。そのようになればサタンにさえ及ばないという結論になります。ですから、イザヤ書第四十六章十一節を見れば、「わたしはこの事を語ったゆえ、必ずこさせる。わたしはこの事をはかったゆえ、必ず行う」という言葉があります。
結論を下しましょう。私たちは、悪の人類の先祖をもっていて、悪の夫婦の起源をもっていて、悪の兄弟の起源をもっています。善なる人類の真の先祖と善なる夫婦と善なる兄弟をもって罪のない息子、娘を生むことができなかった私たちなので、地上でこれを成し遂げなければなりません。ですから、神様を中心とした家庭を取り戻すことができなければ、国を取り戻すこともできず、世界も取り戻すことはできません。
ですから、イエス様はこの地に再び来て、神様が愛する家庭をつくらなければなりません。すなわち新郎として新婦を見いだしてこそ、真の父母も生まれ、真の夫婦も生まれ、真の兄弟も生まれるのです。これを完全に成し遂げることができなかったので、再び来て成し遂げることを預言したのが「小羊の婚宴」であり、新郎が新婦を迎えることなのです。
家庭をもってこそ氏族を取り戻し、民族を取り戻し、国家を取り戻し、世界を取り戻すことができるので、家庭が問題です。そのために新郎新婦として来るようになるのが、「小羊の婚宴」です。新郎新婦が出会わなければならないのです。神様が、堕落していないときに成し遂げるべきだったアルファのみ旨を、ひと回りしながら悪の世の中を除去してしまい、オメガとしてもってきて合わせるということです。
最初のアダムが失敗したことを、二番目のアダムであるイエス様が来て復帰しなければならないのですが、それができなかったので、三番目に再臨主が来て成し遂げなければならないというのです。聖書のコリント人への第一の手紙第十五章四十五節から四十七節に、イエス様のことを「後のアダム」「第二の人」と言ったのはそのためです。雲に乗って来ては成し遂げることができないので、人として来なければなりません。それで、人類の真の先祖と真の夫婦と新しいキリスト教を中心として、世界の王権をつくって天の国を成し遂げなければならないのが、来られる主を迎えるキリスト教の使命です。
今、そのような時が私たちの目前に近づいたことを知り、皆様が祈る中でそのような場に同参(一緒に参加すること)することを願います。今晩皆様にお話しできたことを感謝し、皆様が否定的に速断することなく、神様に祈ることで解決することをお願いしながら、お話を終えようと思います。ありがとうございました。
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Thursday Feb 03, 2022
平和経 第108話
Thursday Feb 03, 2022
Thursday Feb 03, 2022
主は雲に乗って来られるのではない
その次に、第三の理由を調べてみましょう。その時にユダヤ教の人々が信じていたのは、来られるメシヤが雲に乗ってくるということです。それはなぜでしょうか。ダニエル書第七章十三節を見ると、「人の子のような者が、天の雲に乗ってきて」と預言されているので、旧約聖書を生命視する彼らは、雲に乗ってくると信じざるを得なかったのです。
ここにいる牧師先生たちは、「レバレンド•ムーンは、間違って理解したためにそのように語っているのかもしれない。そのみ言は再臨の時の話であって、イエス様の時の話ではない」と言うかもしれませんが、とんでもないことです。イエス様のみ言どおりにすれば、洗礼ヨハネの時にすべて終わるのです。旧約聖書のあらゆる預言と預言者は、洗礼ヨハネまでにすべて終わったというのです。
雲に乗ってくると思っているのに、人として生まれたマリヤの息子であり、ヨセフの息子、その兄弟をもみな知っている彼が、メシヤになる資格のある人物に見えたと思いますか。今日のキリスト教徒たちは、再臨主が雲に乗ってくると思っているのに、人として来たとすれば、その人物を信じられるかというのです。同じことです。それが使徒時代に問題になったのかどうか、聖書を通して調べてみましょう。
使徒行伝第七章五十二節を見ると、このような話があります。「いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、ひとりでもいたか。彼らは正しいかたの来ることを予告した人たちを殺し、今やあなたがたは、その正しいかたを裏切る者、また殺す者となった」と、ステパノは当時のユダヤ教指導者らの不信を断罪しています。弁明する方法が全くありません。今、私が語っているのは、すべて皆様が信じている聖書の話です。神様のみ旨を誰よりも愛し、神様のみ旨の道を正しく行こうするので、このような話を皆様にせざるを得ません。
皆様は「レバレンド•ムーンが何の権威をもって話しているのか」と言うかもしれませんが、そのような話をする権威があります。私が霊界のイエス様や、洗礼ヨハネに会ってみると、このようになっていて、またそれを聖書で探してみるとそうなっていました。両面が合ったので、間違いないというのです。皆様の信じていることが正しいのか、レバレンド•ムーンの話したことが正しいのか、世界中に尋ねてみてください。もし皆様が信じることができなくても、皆様の息子、娘は間違いなく信じるでしょう。
十字架はあらゆるものを失った場
このようなことを見るとき、イエス様は本来、十字架で死ぬために来られたのではないにもかかわらず、ユダヤ民族の不信によって死ぬようになったことは、神様の悲しみであり、人類の悲しみであり、歴史的な悲しみであり、未来の悲しみとして残っているのです。私たちは、今までこのことを知らなかったというのです。旧約聖書は、メシヤが来ることを両面で預言していました。イザヤ書第九章、第十二章、第六十章を見れば、「栄光の主として現れる」と言っていますが、第五十三章には苦難を受けるだろうと預言されています。なぜこのように両面の預言をしなければならなかったのかを知らなければなりません。
私たち堕落した人間のことを、神様も恐れ、サタンも恐れます。なぜかというと、一時、神様を熱心に信じていても、すぐ裏切ってサタンと組んで神様の世界を台無しにし、またサタンと組んで一つになっていても、再び神様のもとに来て、サタン世界を滅ぼす、そのような人間だからです。ですから、神様も恐れ、サタンも恐れていることを知らなければなりません。
ユダヤ民族がイエス様を信じたなら、栄光の主となっていたはずなのに、信じなかったことによって、十字架で亡くなるようになったのですが、十字架を背負うようになったのは、急変的な事件であることを皆様は知らなければなりません。それでは、十字架で亡くなることを、いつ決定したのでしょうか。聖書を通して調べてみましょう。
ルカによる福音書第九章三十節、三十一節を見れば、「すると見よ、ふたりの人がイエスと語り合っていた。それはモーセとエリヤであったが、栄光の中に現れて、イエスがエルサレムで遂げようとする最後のことについて話していたのである」となっています。変貌山上のその時に決定したというのです。
なぜなら、ユダヤ教が反対し、イスラエルの国がそうであり、洗礼ヨハネまで反対する立場に立ったので、既にみ旨を成就する足場はすべて崩れたのです。それで、神様も仕方がないので、霊と肉を中心として地上天国と天上天国の両面を救援完成しようとするみ旨を捨てて、霊的救援の世界だけでも立てるために、二次的摂理を中心とした十字架の道に送り出したのです。もし彼が十字架で亡くならなければ、両面をすべて失うようになります。仕方なく一つの分野だけでも残すために、イエス様を十字架に差し出さざるを得なかったことを、皆様は知らなければならないというのです。
今日、キリスト教徒たちは、聖書のマタイによる福音書十六章二十二、二十三節のみ言をもって、イエス様が間違いなく死ぬために来られたと主張します。そのみ言が何かというと、イエス様がエルサレムに行って死ぬだろうと言ったとき、一番弟子のぺテロが、「主よ、とんでもないことです」と言いました。そのとき、イエス様は強く叱咤しました。「サタンよ、引きさがれ」と言ったのです。それで、キリスト教徒たちは「死ぬために来たイエス様が、死のうとするのに反対するので、サタンよ、引きさがれと言った」と考えています。しかし、それは変貌山上で、十字架で亡くなることを決定した以後なので、このような返事をせざるを得なかったことを、皆様ははっきりと知らなければなりません。
もし、洗礼ヨハネとユダヤ教徒とイスラエル民族がイエス様を信じたなら、どうなったでしょうか。イスラエル民族はイエス様と一つになって団結し、その時に中東圏までイエス様と一つになるのです。そうなっていたなら、ローマに対抗して四十年以内にローマを天の側に引っ張り込むのです。死んだイエス様が四百年間でローマを征服したので、生きたイエス様を中心として、四十年以内に天の国の憲法を宣布できるのです。それができれば、今日までの、プロテスタントとカトリックの歴史はなくなります。すべて、イスラエル民族の立場でみ旨が成就していったからだというのです。
み旨が成就していれば、イスラエルの国があのように悲惨に滅びることもなく、キリスト教徒たちも悲惨に血を流すこともなかったでしょう。王権を統一して、キリスト教が世界を動かすことができるようになったとすれば、誰がイエス様の命を奪うでしょうか。
世界は既に、神様のみ旨どおりに、天の国になり、世界はすべて一つになっていたというのです。主が再び来る必要もないのです。キリスト教は、このことを知らなければなりません。ですから、イエス様が十字架で亡くなったその場は、神様とイエス様がすべてのものを失った場だということを、私たちは知らなければなりません。十字架は、神様の勝利ではなく、悪魔サタンの勝利です。神様の息子を釘づけにした場です。
十字架でイスラエルの国を失い、ユダヤ教の基盤を失ったのであり、摂理史的な時を失ったのであり、ぺテロをはじめ弟子たちをみな失ったのであり、のちには、右側の強盗までも死んでしまったのです。そこにはキリスト教がなく、キリスト教の出発もありません。すべて失ってしまいました。キリスト教はいつから出発したのでしょうか。イエス様の復活後、そして四十日後にキリスト教が出発しました。キリスト教が十字架ではなく復活から出発したことを、今まで知らなかったのです。それは、二千年のキリスト教が根本的に教えています。聖書を見れば、否定できません。イスカリオテのユダがイエス様を捕えに来たとき、「今はやみの支配の時である」(ルカ二二•五三)と言ったではないですか。
もし、イエス様が死ぬために来たとすれば、ゲッセマネの園で三度祈る時、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・三九)と言うでしょうか。理由もなく、このような祈祷を捧げれば、メシヤの資格がないというのです。なぜそのような祈祷を捧げたのでしょうか。死ぬことが恐ろしいからですか。キリスト教徒たちは、「ああ、イエス様も肉身をもっていたので、その死の苦痛のためにそのように祈ったのだろう」と言いますが、とんでもないことです。死が恐ろしくてそう祈ったのではありません。
自分が十字架で死ねば、全世界のキリスト教徒たちが十字架の道に従ってこなければならず、自らが血を流すことによって、全世界のキリスト教徒の体にサタンが侵入できる条件が成立するので、数多くの人が血を流して犠牲になる、そのことを考えるとき、そのような祈祷を捧げざるを得なかったのです。また、四千年も準備してきたイスラエルの国とユダヤ教が滅びて足場もなくなることを知って、神様が四千年摂理されたその苦労を思ったとき、そのような祈祷を捧げざるを得なかったというのです。
ですから、イエス様が十字架上で落命する前に、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ二七•四六)と言いましたが、このような祈祷はどういうことでしょうか。また、三時間も暗闇になったというのは、成就すべき一つのみ旨がまっ暗な世の中に占領されたことを表示したものだったのです。皆様は、歴史時代において、死なずにみ旨を成し遂げていくべきメシヤが、このように死んでいったことを、もはや否定できないことを知りました。
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