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Wednesday Feb 02, 2022
平和経 第107話
Wednesday Feb 02, 2022
Wednesday Feb 02, 2022
洗礼ヨハネの失敗によって亡くなったイエス様
ユダヤ教徒は、旧約聖書を文字どおりに信じ、エリヤが来てもいないのに、自分こそメシヤだと言うイエス様の命を奪ってしまったのですが、その一方で、洗礼ヨハネはどうなったのでしょうか。マタイによる福音書第十一章二節以降を見ると、洗礼ヨハネがへロデ•アンティパスの結婚の不道徳問題に口をはさみ、獄中に入れられて死ぬような運命に置かれたとき、自分の弟子たちをイエス様のところに送って「『きたるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」と尋ねます。洗礼ヨハネは、イエス様をメシヤとしてよく信じましたか、信じませんでしたか。かつてヨルダン川のほとりで、多くの群衆に「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ一・二九)と証したのに、どうして再び尋ねる必要があるのですか。かつて証したその同じ口で、人を送って「あなたはきたるべきかたですか、ほかの人を待つべきでしょうか」と尋ねたというのです。
この話を聞いたとき、イエス様は、世の中で自分を認めてくれる人が一人もなく、国全体が反対する中、わずかな生命線のような一縷(いちる:細糸一本のように今にも絶えそうな)の希望としていた洗礼ヨハネまで、最後に来て「メシヤなのか、違うのか」と尋ねたので、どれほど胸が詰まる思いがしたか考えてみてください。ですから、六節で「わたしにつまずかない者は、さいわいである」と指摘したのです。
そして、七節以降では、洗礼ヨハネがヨルダン川のほとりでイエス様を証するとき、群衆が見聞きしたことを風刺的に指摘したのです。イエス様は、「あなたがたは、何を見に荒野に出てきたのか。風に揺らぐ葦であるか。では、何を見に出てきたのか。柔らかい着物をまとった人か。柔らかい着物をまとった人々なら、王の家にいる」と語られました。そして、十一節では、「あなたがたによく言っておく。女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起らなかった。しかし、天国で最も小さい者も、彼よりは大きい」と言いました。どうして、そのような矛盾する話を語ることができるのですか。あの世に行っている預言者も、すべて女性を通して生まれたのであって、石の間から生まれたのでしょうか。すべて女性から生まれ、洗礼ヨハネも女性から生まれ、イエス様がメシヤであると証したのですから、あの世でも大きな存在でなければならないはずなのに、彼はなぜ小さくなるのかというのです。
なぜかというと、あの世に行っている過去の預言者たちは、歴史的な距離をおいてメシヤを証してきましたが、預言者として送られた洗礼ヨハネは、直接的にメシヤを証する使命をもっている立場なのですから、一番大きくならざるを得ないのです。
しかし、なぜ天国では最も小さい人も洗礼ヨハネよりは大きいと言ったのでしょうか。霊界に行っている最も小さい預言者も、イエス•キリストをメシヤだと思って迎えます。ところが、洗礼ヨハネはイエス様を証し、イエス様に直接従って、大きい人になるべきだったにもかかわらず、それができなかったので、最も小さい者になるしかないというのです。このような内容でおっしゃったことを知らなければなりません。
事実かどうか、十二節を見てみましょう。「パブテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている」とあり、洗礼ヨハネと、のちのイエス様の弟子との間で、天国を奪い合う争奪戦が展開していることを語っています。これは、洗礼ヨハネが自らの使命を中心として、尽力できなかったことを示しています。もし、洗礼ヨハネが努力したとすればどうなっていたでしょうか。洗礼ヨハネは、イエス様の一番弟子になっていたでしょう。
もし、洗礼ヨハネが一番弟子になったとすれば、洗礼ヨハネの弟子たちは十二弟子に入るのであり、洗礼ヨハネに従う群れが七十門徒、百二十門徒になり、ユダヤの国全体の忠臣たちがイエス様に従っていくのではないかというのです。イエス様に反対するために洗礼ヨハネを送ったのですか。それでは、洗礼ヨハネがどれほど偉大な人なのかを調べてみましょう。神様が、メシヤのために公認して送った彼は、どれほど特別な人なのか、イエス様のみ言を通して調べてみます。
十三節に、「すべての預言者と律法とが預言したのは、ヨハネの時までである」と旧約聖書を完成させる結実的存在として来たとイエス様は宣布しました。洗礼ヨハネがイエス様と一つになれば、ユダヤ教の聖書、旧約聖書を信じていた人々はみなついてきて、一つになるようになっています。そうすれば、誰がイエス様の命を奪うでしょうか。神様の王子であるメシヤというお方は、築いておいた基盤を活用するために来られるのであって、貧しく聖書にも無知な漁夫や売春婦や取税人たちを従えさせて彼らを食べさせ、彼らの主人になり、師になるために来られたのでしょうか。
それでは、洗礼ヨハネがイエス様に従ったか従わなかったかを、もう一度はっきりと調べてみましょう。ヨハネによる福音書第三章二十六節以下を見れば、洗礼ヨハネの弟子たちがイエス様のことを聞いて、「先生、ごらん下さい。ヨルダンの向こうであなたと一緒にいたことがあり、そして、あなたがあかしをしておられたあのかたが、バプテスマを授けており、皆の者が、そのかたのところへ出かけています」と報告すると、洗礼ヨハネは「彼は必ず栄え、わたしは衰える」と言いました。これをキリスト教では「洗礼ヨハネは立派な預言者なので、イエス様をそのように高め、自分は滅びると謙遜に言った」と解説しています。
メシヤのために三年間以上苦労し、願っていたそのメシヤに出会って証したのなら、当然、死んでもメシヤのために死ななければならないというのです。これはどういうことかというと、一緒に共同歩調を取ったなら、メシヤが栄えれば自分も栄え、メシヤが滅びれば自分も滅びるべきです。それなのに「わたしは衰える」と言ったのは、「従わない」という決定的な事実をありのままに告げたことなのです。
このように見るとき、第一に旧約聖書を文字どおり信じたゆえに、第二に洗礼ヨハネの不信ゆえに、イエス様が十字架で亡くなられるようになったことを、私たちは今まで知らなかったというのです。
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Wednesday Feb 02, 2022
平和経 第106話
Wednesday Feb 02, 2022
Wednesday Feb 02, 2022
旧約聖書を間違って解釈し、イエス様の命を奪ったユダヤ民族
今まで、ユダヤ教はキリスト教と怨讐の関係にあります。ここで私たちは、聖書がどのようなものかということを知って、その怨讐関係を越えていかなければなりません。サタン世界において神様のみ旨を成就できる人や家庭や国家をつくるためには、彼らは怨讐国家に送られた情報部員と同様の立場なので、神様は、彼らに情報をあからさまに指示したとすれば、彼らは捕らえられ、みな滅びるようになるのです。
ですから、神様は暗号で指示せざるを得なかったという、その記録が聖書であることを知らなければなりません。アメリカ中央惰報局(CIA)がソ連に情報部員を送るとき、手紙で「このようにしなさい」とあからさまに書いて送るでしょうか。暗号でその指示を送るのです。もしその指示内容をはっきりと教えてしまうならば、情報部員はみな捕まえられ、その命を奪われるでしょう。これと同じように、神様はユダヤ教徒に彼らの任務を暗号で教えてあげ、終わりの日に遣わすメシヤの命を奪われない環境をつくり、教えてあげて、導くべき神様のみ旨があったことを知らなければなりません。
ところが、ユダヤ教徒たちは、暗号で書かれた旧約聖書を解き間違えて、メシヤの命を奪ってしまったということを知らなければなりません。CIAの局長が、その暗号を最もよく知る人物であるのと同様に、旧約聖書の暗号を最も的確に解くことができるのは神様しかいないのです。
そこで、神様のみ旨を成就するためには、必ず神様はあらかじめ教え、時を迎えたあとに再び教えるのです。アモス書第三章七節を見れば、「まことに主なる神は、そのしもべである預言者にその隠れた事を示さないでは、何事をもなされない」とあります。
しかし、旧約聖書を信じていた人々が、旧約聖書を解き間違えてしまったために、来られたメシヤの命を奪うという歴史的な罪を犯してしまった事実を、私たちはよく知らなければならないのです。その時のユダヤ教の信者たちは、それでもまだよいというのです。洗礼ヨハネをエリヤだと主張するイエス様がなされたことは、当時のユダヤ教徒から見ると尋常でありませんでした。数多く奇跡を行い、歴史始まって以来の新しいみ言を語り、奇異なみ業をたくさん行うのを見たとき、それを否定もできず、かといって肯定もできないので、「さあ、それなら洗礼ヨハネをエリヤだと主張するのだから、彼がエリヤなのかどうか一度尋ねてみよう」といって議論が始まりました。
そのことが、ヨハネによる福音書第一章十九節以下に記されています。洗礼ヨハネに、「あなたはどなたですか。……あなたはエリヤですか。……では、あの預言者ですか」と尋ねたとき、洗礼ヨハネはエリヤであることを否定しました。エリヤ自身ではなくても、また、あの預言者(申命記一八•一八)ではないにしても、洗礼ヨハネは、自分が預言者の中の一人だということを強調しなければならなかったのです。にもかかわらず、それを否定してしまいました。
それはなぜでしょうか。自分のことを預言者の一人であるとイスラエルの人々がせっかく信じているにもかかわらず、なぜ否定したのでしょうか。既にイエス様の言動を不信する状況が起こっており、事態が不利になっていたというのです。やがて国から追われるイエス様であり、教会からも追われる立場にあったイエス様でした。イエス様が語ることを問題視したユダヤ教の指導者やパリサイ人たちが、イエス様を葬り去ろうと話し合っている実情を感じ取っていたというのです。
このように、洗礼ヨハネは、人間中心的な立場にたったために、天を代弁することができず、エリヤではないと言ったのみならず、自分は預言者の中の一人でもないと否認してしまいました。ですから、人々はイエス様の話を信じるでしょうか、洗礼ヨハネの話を信じるでしょうか。現代のアメリカで言えば、ある若者が出てきて、「ビリー•グラハムはエリヤであり、私は再臨のイエスである」と言えば、それを誰が信じますか。歴史が交錯する中で、同じように、神様が、アダム以降、約四千年間準備してきた摂理歴史の中で、ユダヤ民族を信じ、希望を抱いてそのもとにイエス•キリストを送ったにもかかわらず、ユダヤ民族が無知のために不信してイエス様の命を奪ったという事実を否定できません。
それが事実なのか、そうでないのか、新約の使徒たちを通して一度調べてみましょう。イエス様の十字架後の初代教会のとき、ユダヤ教徒たちやイスラエル民族がイエス様の弟子たちを迫害するとき、その一番の扇動者であり、代表者として立ち上がった人とは誰かというと、使徒パウロでした。ステパノの命を奪うことにも賛同しましたが、他のイエス様の弟子たちの命を奪おうとダマスコに行く途中、天からの光に打たれて悔い改め、イエス様を証した人が使徒パウロです。
使徒パウロは、イエス様がメシヤであったことを誰よりもよく実感したので、使徒行伝第十三章四十六節で、「神の言は、まず、あなたがたに語り伝えられなければならなかった。しかし、あなたがたはそれを退け、自分自身を永遠の命にふさわしからぬ者にしてしまったから、さあ、わたしたちはこれから方向をかえて、異邦人たちの方に行くのだ」と堂々と宣布しました。
このようにして、来られた主が、当時のユダヤ民族の不信によって悲しみの十字架の道を行かざるを得なかったことが、どれほど胸の詰まることかを、私たちは考えもせずに、ただ無条件に十字架を信じてきました。本当なら、ユダヤ教徒の不信によって死んではいけないイエス様が死んだにもかかわらず、「死ぬために来た」と信じてきたのです。ですから、どうしてイエス様の前に行けるでしょうか。救いを受けても、行って会う自信がありますか。
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Wednesday Feb 02, 2022
平和経 第106話
Wednesday Feb 02, 2022
Wednesday Feb 02, 2022
旧約聖書を間違って解釈し、イエス様の命を奪ったユダヤ民族
今まで、ユダヤ教はキリスト教と怨讐の関係にあります。ここで私たちは、聖書がどのようなものかということを知って、その怨讐関係を越えていかなければなりません。サタン世界において神様のみ旨を成就できる人や家庭や国家をつくるためには、彼らは怨讐国家に送られた情報部員と同様の立場なので、神様は、彼らに情報をあからさまに指示したとすれば、彼らは捕らえられ、みな滅びるようになるのです。
ですから、神様は暗号で指示せざるを得なかったという、その記録が聖書であることを知らなければなりません。アメリカ中央惰報局(CIA)がソ連に情報部員を送るとき、手紙で「このようにしなさい」とあからさまに書いて送るでしょうか。暗号でその指示を送るのです。もしその指示内容をはっきりと教えてしまうならば、情報部員はみな捕まえられ、その命を奪われるでしょう。これと同じように、神様はユダヤ教徒に彼らの任務を暗号で教えてあげ、終わりの日に遣わすメシヤの命を奪われない環境をつくり、教えてあげて、導くべき神様のみ旨があったことを知らなければなりません。
ところが、ユダヤ教徒たちは、暗号で書かれた旧約聖書を解き間違えて、メシヤの命を奪ってしまったということを知らなければなりません。CIAの局長が、その暗号を最もよく知る人物であるのと同様に、旧約聖書の暗号を最も的確に解くことができるのは神様しかいないのです。
そこで、神様のみ旨を成就するためには、必ず神様はあらかじめ教え、時を迎えたあとに再び教えるのです。アモス書第三章七節を見れば、「まことに主なる神は、そのしもべである預言者にその隠れた事を示さないでは、何事をもなされない」とあります。
しかし、旧約聖書を信じていた人々が、旧約聖書を解き間違えてしまったために、来られたメシヤの命を奪うという歴史的な罪を犯してしまった事実を、私たちはよく知らなければならないのです。その時のユダヤ教の信者たちは、それでもまだよいというのです。洗礼ヨハネをエリヤだと主張するイエス様がなされたことは、当時のユダヤ教徒から見ると尋常でありませんでした。数多く奇跡を行い、歴史始まって以来の新しいみ言を語り、奇異なみ業をたくさん行うのを見たとき、それを否定もできず、かといって肯定もできないので、「さあ、それなら洗礼ヨハネをエリヤだと主張するのだから、彼がエリヤなのかどうか一度尋ねてみよう」といって議論が始まりました。
そのことが、ヨハネによる福音書第一章十九節以下に記されています。洗礼ヨハネに、「あなたはどなたですか。……あなたはエリヤですか。……では、あの預言者ですか」と尋ねたとき、洗礼ヨハネはエリヤであることを否定しました。エリヤ自身ではなくても、また、あの預言者(申命記一八•一八)ではないにしても、洗礼ヨハネは、自分が預言者の中の一人だということを強調しなければならなかったのです。にもかかわらず、それを否定してしまいました。
それはなぜでしょうか。自分のことを預言者の一人であるとイスラエルの人々がせっかく信じているにもかかわらず、なぜ否定したのでしょうか。既にイエス様の言動を不信する状況が起こっており、事態が不利になっていたというのです。やがて国から追われるイエス様であり、教会からも追われる立場にあったイエス様でした。イエス様が語ることを問題視したユダヤ教の指導者やパリサイ人たちが、イエス様を葬り去ろうと話し合っている実情を感じ取っていたというのです。
このように、洗礼ヨハネは、人間中心的な立場にたったために、天を代弁することができず、エリヤではないと言ったのみならず、自分は預言者の中の一人でもないと否認してしまいました。ですから、人々はイエス様の話を信じるでしょうか、洗礼ヨハネの話を信じるでしょうか。現代のアメリカで言えば、ある若者が出てきて、「ビリー•グラハムはエリヤであり、私は再臨のイエスである」と言えば、それを誰が信じますか。歴史が交錯する中で、同じように、神様が、アダム以降、約四千年間準備してきた摂理歴史の中で、ユダヤ民族を信じ、希望を抱いてそのもとにイエス•キリストを送ったにもかかわらず、ユダヤ民族が無知のために不信してイエス様の命を奪ったという事実を否定できません。
それが事実なのか、そうでないのか、新約の使徒たちを通して一度調べてみましょう。イエス様の十字架後の初代教会のとき、ユダヤ教徒たちやイスラエル民族がイエス様の弟子たちを迫害するとき、その一番の扇動者であり、代表者として立ち上がった人とは誰かというと、使徒パウロでした。ステパノの命を奪うことにも賛同しましたが、他のイエス様の弟子たちの命を奪おうとダマスコに行く途中、天からの光に打たれて悔い改め、イエス様を証した人が使徒パウロです。
使徒パウロは、イエス様がメシヤであったことを誰よりもよく実感したので、使徒行伝第十三章四十六節で、「神の言は、まず、あなたがたに語り伝えられなければならなかった。しかし、あなたがたはそれを退け、自分自身を永遠の命にふさわしからぬ者にしてしまったから、さあ、わたしたちはこれから方向をかえて、異邦人たちの方に行くのだ」と堂々と宣布しました。
このようにして、来られた主が、当時のユダヤ民族の不信によって悲しみの十字架の道を行かざるを得なかったことが、どれほど胸の詰まることかを、私たちは考えもせずに、ただ無条件に十字架を信じてきました。本当なら、ユダヤ教徒の不信によって死んではいけないイエス様が死んだにもかかわらず、「死ぬために来た」と信じてきたのです。ですから、どうしてイエス様の前に行けるでしょうか。救いを受けても、行って会う自信がありますか。
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Wednesday Feb 02, 2022
平和経 第104話
Wednesday Feb 02, 2022
Wednesday Feb 02, 2022
2.キリスト教の新しい未来
日付:一九七四年三月九日
場所:アメリカ、バーミンガ厶、ハイアット•ホテル
行事:アメリカ三十二カ都市巡回大講演会
今晩このように集まってくださった紳士淑女の皆様。心より感謝申し上げます。きょう皆様と共に考えようと思うタイトルは「キリスト教の新しい未来」です。このようなタイトルで、少しの間お話しいたします。皆様がよく御存じのとおり、アメリカといえば、キリスト教を中心として世界で一番の国家です。
神様のみ旨成就のために来られる主
きょう、お話しする内容は、今日、私たちの信仰生活、あるいは従来の神学を通して知ることができ、学ぶことができる内容に関するものではなく、全く新しい分野のものですので、アメリカの多くの国民が聞かなければならないものだと思います。そのために、私がここに現れるようになった次第です。
今、終わりの日がやって来たので、歴史的な事件や事実を明確にしておかなければなりません。私は、神様から「三年間アメリカに行って宣べ伝えなさい」というみ言を聞き、一九七二年から一九七三年と一九七四年の今年まで、アメリカの皆様を訪ね、津々浦々でこのように壇上に立つようになりました。その点を理解してくださるようにお願いします。
皆様も私も、神様のみ旨のために生き、神様のみ旨を成就する兄弟の立場にいることを理解して寛容な気持ちをもち、皆様が信じてきた信仰生活と相反するからといって、それを直ちに判断なさらずに、深い祈りの中で、あるいは暝想の中で探知、探求して判断してくださることを願ってやみません。
キリスト教は今まで、二千年間、再臨主を待つ信仰生活をしてきたことを私たちは知っています。しかし、今は終わりの日がやって来たので、信じるだけではなく、来られる主を迎えるために準備をしなければなりません。その段階を経ていかなければならないと思うのです。
私たちが一つの小さな大会を行うときにも、プログラムを組み、そのとおりに間違いなく動いてこそ、その大会を円満に終えることができます。今日、主が来るというこの事件は、歴史始まって以来最も大きな事件であり、人類歴史上で最も重要な事件なので、それが盲目的に漠然となされるとは考えられません。ですから、私たちは今、その内容がどのようなものなのかを知らなければならないのです。
例えば、皆様がバーミンガムに向かって汽車に乗っているときは、汽車に乗ってさえいれば安心して目的地に到着することができますが、一度バーミンガムに到着すれば、行くべき新しい方向と目的が明確でなければならないのです。今まで信じていたキリスト教の中で、主が来ることを準備するある団体が存在しなければならないということは、理論的に明白な事実です。
主は間違いなく来なければなりません。それでは、主はなぜ来るのでしょうか。神様のみ旨成就のために来ます。それでは、神様のみ旨とは何ですか。今日、信仰する人々は、神様が救援摂理のみ旨を通して摂理すると思っていますが、本来、神様のみ旨は一つしかあり得ないことを知らなければなりません。
今日、この救援摂理というものは、神様が本来計画した創造理想世界において必要だったものではありません。人間が堕落することによって、神様のみ旨を成就できなかったために、そのみ旨を再び取り戻していく過程が救援摂理だということをはっきりと知らなければなりません。
神様が決められたみ旨に背くことはできません。神様は絶対的なお方なので、そのみ旨を完成させてこそ、権威を保て、堂々とした立場に立つことができるのです。これが事実である以上、目的としていた本然の基準で堕落した人間を完成させることができなければ、神様が絶対的な神様になれないことを、私たちは知らなければなりません。
人類救済のための神様のみ旨とキリスト教の使命
それでは、人類の先祖アダムとエバが堕落しなかったならば、どのような世界になったでしょうか。神様の愛の中で保護を受けて彼らが完成していたならば、神様がアダムとエバを呼んで祝福し、結婚式をしてあげたでしょう。そのために男性と女性を造ったのです。
もしそのようになったとすれば、この地球星には、堕落した人類の先祖ではなく、神様の愛される、罪のない完成した人類の真の先祖が暮らすようになり、真の父母になっていたはずです。つまり、神様が本当に愛することのできる真の新郎と真の新婦が、この地上に誕生していたというのです。お互いが怨讐の兄妹ではなく、完全に神様のみ旨に協助する、神様の愛の中にいる神様の真の兄妹がこの地上に生まれたでしょう。そうすることによって、神様を中心とした家庭をこの地球星に形成し、罪のない父母として罪のない息子、娘を生んで、罪のない氏族、罪のない民族、罪のない国家、罪のない世界をつくり、この地球星の人類は、名実共に神様の主管を受け、神様はこの地球星の王になったでしょう。そのような結論になります。
そうなっていたとすれば、救世主は必要ありません。宗教は必要なく、祈祷は必要ありません。救世主が必要で、宗教が必要で、救援が必要になったのは、堕落の産物だからです。それを、今まで知らなかったというのです。
救援するというのは、落ちたからです。病気になったので、病人を直す病院が必要であり、故障したので修理する工場が必要なのです。ですから、宗教とは何でしょうか。修理工場と同じであり、病院と同じです。それはすべて救援です。病気になったので、救援が必要だということです。このような原則的な基準を、今日、キリスト教は規定しておかずに、漠然と無条件に信じていますが、それではいけないというのです。
それでは、この世はどのような世の中なのかについて、聖書を通して調べてみましょう。ヨハネによる福音書第十二章三十一節を見れば、「今はこの世がさばかれる時である。今こそこの世の君は追い出されるであろう」とあります。「この世の君」とはサタンのことです。なぜサタンが、人類の王になることができたのでしょうか。それは、人類が堕落したからです。神様とサタンとは怨讐関係です。人間始祖が偽りの夫婦関係によって堕落することで、私たち人類は堕落した先祖をもったのです。
そして、互いに殺し合う偽りの兄弟関係が成立したというのです。夫婦が罪のある息子、娘を生んで、罪のある家庭から罪のある氏族、罪のある民族、罪のある世界に広がっていったのです。ですから、自動的に悪魔サタンが王にならざるを得ないというのです。
このような世の中から、罪のない世の中に移行させなければなりません。それが救援です。移すということは、救援であり、復帰だということを知らなければなりません。本来、神様のみ旨とは、救援ではありません。ですから、本来の神様のみ旨に戻らなければなりません。メシヤが来る目的は、神様のみ旨を成就するためのものです。神様のみ旨とは何でしょうか。悪魔サタンから世の中の人をすべて救い出すことであり、最後には悪魔サタンを屈服することです。
今日、皆様が暮らしているところには、人間が罪を犯せば、それを讒訴する悪魔サタンがいます。それを屈服しなければなりません。今日のキリスト教は行くべき目的が何かを知らずにいます。「私一人が救われて天国に行こう」というのは、本当の救いではありません。人類を救援することが神様のみ旨であり、人類を滅ぼし蹂躙する悪魔サタンを、この地球星から永遠に追放することが、神様のみ旨だということを今まで知りませんでした。
そのような世界を復帰するためのメシヤを、そのまま個人の次元でサタンのもとに送れば、サタンが捕まえてその命を奪います。ですから、個人から家庭と氏族を経て、民族を経て、一つの国家形態を用意しておき、その国家の国民が一つになったところに、世界を料理するために送られたお方がメシヤです。それを準備すべきユダヤ教であり、選民だったということを、ユダヤ教の信者は知らなかったのです。その延長として世界的な主が再び来るときにも、そのみ旨は同じなので、世界的な終わりの日が来るとき、そのみ旨を拡大して、世界的な足場をつくるのがキリスト教の使命であることを知らなければなりません。
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Wednesday Feb 02, 2022
平和経 第105話
Wednesday Feb 02, 2022
Wednesday Feb 02, 2022
聖書に見るユダヤ民族がイエス様の命を奪った背景
それでは、今から問題になるのは、主がいかにして来るのかということですが、これを私たちははっきりと知らなければならないというのです。聖書のみ言を通して見れば、終わりの日については、イエス様御自身が、「天にいる御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる」(マルコ一三•三二)とおっしゃいました。ですから、いかにして来るのかという問題については、神様と談判して知る道と、私たち人間の知恵で求めて知る道があり、その道は昔、メシヤ、主がどのように来て、逝ったのか、ということから判断して知ることができるのです。その二つの道しかないことを、皆様は知らなければなりません。
皆様がもし神様と談判し、霊界に入って啓示を受けて分かったとしても、それを信じることができますか。このレバレンド•ムーンがそのような話をしても信じることができないというのです。ですから、はっきりとした証拠のある内容によって、真理に基づいた提示をしなければなりません。それゆえに、来られたメシヤについてはっきりと知ることによって、未来を推測することができるのです。それは言うまでもないことです。
今日、キリスト教でメシヤが来ることを願うのは、あたかも今から二千年前にユダヤ教徒たちがメシヤを望んでいたのと同じ立場です。今のキリスト教を見れば、二千年間メシヤが来ることを望んできましたが、ユダヤ教を見ると、神様はアダム以降、四千年間数多くの預言者を送って犠牲にさせながら、メシヤを遣わしてあげようと約束したのです。神様がメシヤを送ると約束したので、その民族は、そのお方が来るとすれば、鉄石のように固く一つになって神様のみ旨を成し遂げようと精誠を込めて信じてきました。
ですから、神様はメシヤであるイエス•キリストを約束どおり、その民族に送りました。また、約束どおり、その民族は受け入れなければならないという立場に立っていました。ところが、メシヤが来ることを願った民族が、メシヤを受け入れたのではなく、むしろ迫害し、捕まえて命を奪ったのです。皆様、それがなぞではないでしょうか。
その事件を例えて言えば、メシヤが来ることを願っている今日のキリスト教徒たちが、メシヤが来たにもかかわらず、カトリック教会の最高指導者であるロ—マ教皇や枢機卿、司教、あるいはプロテスタント教会の牧師のような人たちがすべて動員され、メシヤを捕まえて命を奪ったのと同様の結果をもたらしたというのです。簡単に「死ぬために来た」という話は通じません。理論的に合わないというのです。死ぬためならば、何のために彼らを訓練し苦労させてきたのですか。四千年の間、数多くの預言者の命を捧げさせ、イスラエル民族に大変な苦労をさせてまでメシヤを送る理由が分かりません。準備していない悪党のもとに送れば、どれくらいよく葬ってしまうでしょうか。このように言えば、口があっても答弁できません。
ですから、ユダヤ民族が、そのように待ち望んだメシヤを神様が送ったにもかかわらず、どうして彼らはメシヤを捕まえて命を奪ったのかというその原因を、はっきりと知らなければなりません。このような話を初めて聞くからといって、あまり深刻になりすぎないようにお願いします。なぜ捕まえて命を奪ったのかという問題を知らなければなりません。
なぜそのようにしたのかというと、第一に、旧約聖書の内容がそうするようになっています。皆様が御存じのように、旧約聖書のマラキ書は、新約聖書のヨハネの黙示録に該当します。マラキ書第四章五節以下を見れば、「主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる」と鉄石のように固く預言されているという事実を、私たちは知らなければなりません。
エリヤはどのような人だったかというと、イエス様が来られる約九百年前に、火の車に乗って昇天した人です。神様がこの民を愛して、このように時を決めてエリヤを送ろうといったので、火の車に乗っていったエリヤ自身が降りてくるものと思い、そのように信じたのです。「エリヤが来る」と聖書にはしっかりと書かれているのに、エリヤそのものは来ませんでした。旧約聖書はどのような本かというと、イエス様まで約二千年の間、イスラエル民族の思想の基調となり、ユダヤ教の信仰の中心となっているとともに、全生命を傾けて信じてきた本です。そのような旧約聖書を、イエス様の話を聞いて簡単に捨てることができるのかというのです。
皆様、それを信じますか。その話は、主が雲に乗って天から降りてくることを信じ、それを願っているのに、突然、ある人が来て「私が主である」と言うのと同じことです。それを今、キリスト教は信じることができますか。そのような事件であるがゆえに、イエス様が御苦労されるしかなかったのだということを、イエス様のみ言を通して調べてみることにしましょう。
マタイによる福音書第十七章十節以下を見てみましょう。イエス様の弟子たちは聖書の内容をよく知りませんでした。無知な彼らがイエス様を救世主として信じて伝道に出掛け、「メシヤが来たので信じなさい」と言うとき、祭司たちが「おいおい、あなたたちの先生がメシヤだとすれば、マラキ書のメシヤが来る前にエリヤを遣わすとある、そのエリヤはどこに来たのか」と言いました。ところが、弟子たちはその意味が分からないので、イエス様に尋ねる場面が出てきます。
エリヤそのものが来なかったので問題です。聖書に、「弟子たちはイエスにお尋ねして言った、『いったい、律法学者たちは、なぜ、エリヤが先に来るはずだと言っているのですか』。答えて言われた、『確かに、エリヤがきて、万事を元どおりに改めるであろう。しかし、あなたがたに言っておく。エリヤはすでにきたのだ。しかし人々は彼を認めず、自分かってに彼をあしらった……』。そのとき、弟子たちは、イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだと悟った」(マタイ一七•一〇―一三)と書かれています。
洗礼ヨハネはエリヤそのものですか。皆様なら信じますか。エリヤが来てもいないのに、洗礼ヨハネがエリヤだと言うのです。それで、「あなたが洗礼ヨハネをエリヤだと言うのは、メシヤを装うためだ」と言って、イエス様に対して疑い、彼を、約二千年間神様が立てたイスラエル選民を滅ぼし、ユダヤ教を滅ぼそうとする親玉だと言い、悪霊の頭ベルゼブルだと断定してしまいました。「間違いなく悪魔サタンの息子だ。エリヤは来ていないのに、エリヤが来たとこじつけるやつを、誰が救世主として信じるというのだ」と思ったのです。
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聖書に見るユダヤ民族がイエス様の命を奪った背景
それでは、今から問題になるのは、主がいかにして来るのかということですが、これを私たちははっきりと知らなければならないというのです。聖書のみ言を通して見れば、終わりの日については、イエス様御自身が、「天にいる御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる」(マルコ一三•三二)とおっしゃいました。ですから、いかにして来るのかという問題については、神様と談判して知る道と、私たち人間の知恵で求めて知る道があり、その道は昔、メシヤ、主がどのように来て、逝ったのか、ということから判断して知ることができるのです。その二つの道しかないことを、皆様は知らなければなりません。
皆様がもし神様と談判し、霊界に入って啓示を受けて分かったとしても、それを信じることができますか。このレバレンド•ムーンがそのような話をしても信じることができないというのです。ですから、はっきりとした証拠のある内容によって、真理に基づいた提示をしなければなりません。それゆえに、来られたメシヤについてはっきりと知ることによって、未来を推測することができるのです。それは言うまでもないことです。
今日、キリスト教でメシヤが来ることを願うのは、あたかも今から二千年前にユダヤ教徒たちがメシヤを望んでいたのと同じ立場です。今のキリスト教を見れば、二千年間メシヤが来ることを望んできましたが、ユダヤ教を見ると、神様はアダム以降、四千年間数多くの預言者を送って犠牲にさせながら、メシヤを遣わしてあげようと約束したのです。神様がメシヤを送ると約束したので、その民族は、そのお方が来るとすれば、鉄石のように固く一つになって神様のみ旨を成し遂げようと精誠を込めて信じてきました。
ですから、神様はメシヤであるイエス•キリストを約束どおり、その民族に送りました。また、約束どおり、その民族は受け入れなければならないという立場に立っていました。ところが、メシヤが来ることを願った民族が、メシヤを受け入れたのではなく、むしろ迫害し、捕まえて命を奪ったのです。皆様、それがなぞではないでしょうか。
その事件を例えて言えば、メシヤが来ることを願っている今日のキリスト教徒たちが、メシヤが来たにもかかわらず、カトリック教会の最高指導者であるロ—マ教皇や枢機卿、司教、あるいはプロテスタント教会の牧師のような人たちがすべて動員され、メシヤを捕まえて命を奪ったのと同様の結果をもたらしたというのです。簡単に「死ぬために来た」という話は通じません。理論的に合わないというのです。死ぬためならば、何のために彼らを訓練し苦労させてきたのですか。四千年の間、数多くの預言者の命を捧げさせ、イスラエル民族に大変な苦労をさせてまでメシヤを送る理由が分かりません。準備していない悪党のもとに送れば、どれくらいよく葬ってしまうでしょうか。このように言えば、口があっても答弁できません。
ですから、ユダヤ民族が、そのように待ち望んだメシヤを神様が送ったにもかかわらず、どうして彼らはメシヤを捕まえて命を奪ったのかというその原因を、はっきりと知らなければなりません。このような話を初めて聞くからといって、あまり深刻になりすぎないようにお願いします。なぜ捕まえて命を奪ったのかという問題を知らなければなりません。
なぜそのようにしたのかというと、第一に、旧約聖書の内容がそうするようになっています。皆様が御存じのように、旧約聖書のマラキ書は、新約聖書のヨハネの黙示録に該当します。マラキ書第四章五節以下を見れば、「主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる」と鉄石のように固く預言されているという事実を、私たちは知らなければなりません。
エリヤはどのような人だったかというと、イエス様が来られる約九百年前に、火の車に乗って昇天した人です。神様がこの民を愛して、このように時を決めてエリヤを送ろうといったので、火の車に乗っていったエリヤ自身が降りてくるものと思い、そのように信じたのです。「エリヤが来る」と聖書にはしっかりと書かれているのに、エリヤそのものは来ませんでした。旧約聖書はどのような本かというと、イエス様まで約二千年の間、イスラエル民族の思想の基調となり、ユダヤ教の信仰の中心となっているとともに、全生命を傾けて信じてきた本です。そのような旧約聖書を、イエス様の話を聞いて簡単に捨てることができるのかというのです。
皆様、それを信じますか。その話は、主が雲に乗って天から降りてくることを信じ、それを願っているのに、突然、ある人が来て「私が主である」と言うのと同じことです。それを今、キリスト教は信じることができますか。そのような事件であるがゆえに、イエス様が御苦労されるしかなかったのだということを、イエス様のみ言を通して調べてみることにしましょう。
マタイによる福音書第十七章十節以下を見てみましょう。イエス様の弟子たちは聖書の内容をよく知りませんでした。無知な彼らがイエス様を救世主として信じて伝道に出掛け、「メシヤが来たので信じなさい」と言うとき、祭司たちが「おいおい、あなたたちの先生がメシヤだとすれば、マラキ書のメシヤが来る前にエリヤを遣わすとある、そのエリヤはどこに来たのか」と言いました。ところが、弟子たちはその意味が分からないので、イエス様に尋ねる場面が出てきます。
エリヤそのものが来なかったので問題です。聖書に、「弟子たちはイエスにお尋ねして言った、『いったい、律法学者たちは、なぜ、エリヤが先に来るはずだと言っているのですか』。答えて言われた、『確かに、エリヤがきて、万事を元どおりに改めるであろう。しかし、あなたがたに言っておく。エリヤはすでにきたのだ。しかし人々は彼を認めず、自分かってに彼をあしらった……』。そのとき、弟子たちは、イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだと悟った」(マタイ一七•一〇―一三)と書かれています。
洗礼ヨハネはエリヤそのものですか。皆様なら信じますか。エリヤが来てもいないのに、洗礼ヨハネがエリヤだと言うのです。それで、「あなたが洗礼ヨハネをエリヤだと言うのは、メシヤを装うためだ」と言って、イエス様に対して疑い、彼を、約二千年間神様が立てたイスラエル選民を滅ぼし、ユダヤ教を滅ぼそうとする親玉だと言い、悪霊の頭ベルゼブルだと断定してしまいました。「間違いなく悪魔サタンの息子だ。エリヤは来ていないのに、エリヤが来たとこじつけるやつを、誰が救世主として信じるというのだ」と思ったのです。
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Wednesday Feb 02, 2022
平和経 第103話
Wednesday Feb 02, 2022
Wednesday Feb 02, 2022
世界を救うべき宗教の使命
絶対的な神様が造られた存在物は、一つの目的をもたなければならないことは間違いありません。それでは、神様の愛を中心として、絶対的な相対の立場に立った人間がこの地にいると思いますか。いません。絶対的な神様が造ったので、一つの目的を指向する人間になるべきですが、人間を見れば二律背反的な、反対の目的となるもう一つの道に立っているのが分かります。ある人はこれを、人における主体と対象の関係と見ますが、そうではありません。良心が内的なプラスだとするならば、邪心はまたほかの一つのプラスなのです。ですから、反発が起こるのです。そのような立場に立っているのが、この地上に生きている私たち人間です。
神様が私たちに高貴な偉業としてくださった愛の理念、絶対価値の理念を喪失してしまい、反対の二つの現象世界で呻吟して生きる悲惨な人間だということを知らなければなりません。言い換えれば、故障した人々になっているというのです。ところが、絶対的な神様は人間に相対するしかないので、このような人間をそのまま放置することができず、歴史過程を通して再生させる運動をしてきたというのです。すなわち、修理工場を造ったのですが、それが宗教なのです。
世界には多くの宗教がありますが、文化が異なり、あるいは民族の背景が異なるので、その基準によって、多くの宗教を立てて糾合してきたのです。宗教が望む目的は、世界を救うことです。神様が望む目的も、世界を救うことです。世界を救おうとする宗教でなければ、長く存続できません。
皆様、宗教指導者たちは、民族主義者ではなく、世界主義者であり、天を中心とした世界的な運動を提示した人々です。私たちは今、四大聖人として、イエス•キリスト、釈迦牟尼、孔子、ムハンマドを挙げます。ある人はソクラテスを挙げていますが、ソクラテスは哲人であって聖人ではありません。知識では生命を救うことができません。天だけが生命を左右するのです。
ですから、四大聖人とはどのような人々かというと、すべて世界的な大宗教の教主になっています。天に仕えなかった人はいません。皆様、聖人を尊重しながら、天を無視する人になってはいけないというのです。
世界的中心宗教はキリスト教
したがって、この修理工場のような使命を宗教がするのですが、神様が絶対者ならば絶対者が一番好む宗教とはこの四大宗教の中でどの宗教かということを、私たちは知らなければなりません。
儒教を見れば、神様に対するはっきりとしたことを教えられませんでした。善を行えば天が福を与えて、悪を行えば災いを与えるという程度しか教えることができなかったのです。仏教を見れば、法則的な神様は認めますが、人格的な神様は知らずにいます。また、イスラームを見れば、これはキリスト教を受け継いだ中間的な宗教です。
ところが、ただイエス•キリストだけは、主張した内容が異なります。彼が現れて「私は神のひとり子だ」と言いました。人類歴史上に、神様のひとり子だと主張した人は、イエス様しかいないのです。その次に「わたしを見た者は、父を見たのである」(ヨハネ一四•九)と言いました。「父がわたしにおり、また、わたしが父におることを知って悟るであろう」(ヨハネ一〇•三八)と言いました。それだけでなく、「私は花婿であり、あなたがたは花嫁である」という立場で語られたのです。このようなことを見るとき、誰を中心としてこれを成し遂げようとしたのかといえば、神様を中心として成し遂げようとしたというのです。言い換えれば、神様を中心として息子になり、一つの体になり、一つの新郎新婦になり、一つの家庭をつくろうというのがキリスト教の目的なのです。私たち人間に最高の価値として与えられた息子の位置と同等な立場、そして創造の偉業と創造したそれ以後の喜びまでも感じられる家庭的起源を、イエス様は教えてくださったのです。
キリスト教の限界
ところが、イエス様は神様の息子であり、天の父と一体になりましたが、相対である新婦を準備できませんでした。もし、イスラエルの国とユダヤ教が、その時、イエス様と一つになった立場で、イエス様が新婦を迎えられるようにしたならば、イエス様は神様と直接の相対となって、創造の能力を発揮できる基盤をもったはずですが、それを成し遂げることができずに逝きました。
このような神様を中心とした息子、娘が出てきて、家庭をつくって、新しい氏族と民族と国家と世界になったとすれば、この地球星はすぐに天国になったでしょう。神様を中心とした天の国になったでしょう。イスラエルの国の人々が信じることができず、ユダヤ教徒たちが信じることができなかったためにイエス様が死んだのであって、信じたとすればイエス様は死ななかったでしょう。
もし、そのとき、イスラエルの国とユダヤ教がイエス様を信じて、神様が理想としていた新郎新婦を迎えて新しい出発をしていれば、第二次世界大戦中に六百万人のユダヤ人がヒトラーに虐殺されることもなかったでしょう。歴史始まって以来、初めて現れた、神様の対象となり、神様が愛することのできるお方を打ってしまったので、そのようになったのです。それ以上に大きな罪はないというのです。
今、ここにもイエス様を信じる人が大勢来ていると思います。しかし、皆様の信じているキリスト教がこのまま進んでいけば、追われていくイスラエル民族のようになるかもしれません。今日、全世界に散らばっているキリスト教徒たちは、神様を中心として一つになり、再び来られる主がこのような使命をもって来られるので、再び追放することがないように基盤を築く運動をしなければ、今後、この世界の展望は悲惨だと見ざるを得ません。
そのお方が来て、新郎として新婦を迎えて婚宴をするというのが、ヨハネの黙示録に出てくる「小羊の婚宴」です。堕落したために、私たちは偽りの父母をもちました。神様がモデルとして考えていた善の真の父母は出てきませんでした。このように計画していたことを、終わりの日に来て、再び合わせなければならないというのです。真の父母が現れて、再び生み、再び接ぎ木するみ業をしなければ、世界のすべての人は救援されないのです。
新しい愛の理想世界建設のために出現した統一教会
今後、来られる主はどのような使命をもって来られるのでしょうか。堕落せずに善の父母の立場で完成する真の父母を失ったので、それを再び完成して、神様の愛を受ける真の父母の家庭から人類が再び愛される道を開くために来られるお方が、再臨主です。神様の愛を受ける息子、娘たちがこの地で生きて、家庭的に天国に行くのが幸福でしょうか。今日、キリスト教で信じるように、ただよく信じて、母は天国に行き、父は地獄に行くようになって、別々に別れていくのが幸福でしょうか。父母から子女に至るまで、全体が入らなければならないというのです。家庭が入り、氏族が入り、国が入り、世界がすべて入らなければなりません。
このような新しい父母を中心とした世界的な家庭がこれから生じ、そこから人類歴史上になかった新しい愛の理想を中心とした文化と伝統がこの地球星に顕現するようになるとき、今日のこの複雑で罪悪に満ちた世界ではなく、新しい地上の天国になるのです。そのようになるためには、皆様がどのように手続きを踏まなければならないのかを知らなければなりません。ですから、そのような内容を教えるのが、私たち統一教会の使命です。
膨大な内容をこのように要点を整理して短時間で話そうとするので、飛躍も多く、理解しづらい点もあったかもしれませんが、皆様が了解して聞いてくださったことに対して、心から感謝を申し上げます。
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世界を救うべき宗教の使命
絶対的な神様が造られた存在物は、一つの目的をもたなければならないことは間違いありません。それでは、神様の愛を中心として、絶対的な相対の立場に立った人間がこの地にいると思いますか。いません。絶対的な神様が造ったので、一つの目的を指向する人間になるべきですが、人間を見れば二律背反的な、反対の目的となるもう一つの道に立っているのが分かります。ある人はこれを、人における主体と対象の関係と見ますが、そうではありません。良心が内的なプラスだとするならば、邪心はまたほかの一つのプラスなのです。ですから、反発が起こるのです。そのような立場に立っているのが、この地上に生きている私たち人間です。
神様が私たちに高貴な偉業としてくださった愛の理念、絶対価値の理念を喪失してしまい、反対の二つの現象世界で呻吟して生きる悲惨な人間だということを知らなければなりません。言い換えれば、故障した人々になっているというのです。ところが、絶対的な神様は人間に相対するしかないので、このような人間をそのまま放置することができず、歴史過程を通して再生させる運動をしてきたというのです。すなわち、修理工場を造ったのですが、それが宗教なのです。
世界には多くの宗教がありますが、文化が異なり、あるいは民族の背景が異なるので、その基準によって、多くの宗教を立てて糾合してきたのです。宗教が望む目的は、世界を救うことです。神様が望む目的も、世界を救うことです。世界を救おうとする宗教でなければ、長く存続できません。
皆様、宗教指導者たちは、民族主義者ではなく、世界主義者であり、天を中心とした世界的な運動を提示した人々です。私たちは今、四大聖人として、イエス•キリスト、釈迦牟尼、孔子、ムハンマドを挙げます。ある人はソクラテスを挙げていますが、ソクラテスは哲人であって聖人ではありません。知識では生命を救うことができません。天だけが生命を左右するのです。
ですから、四大聖人とはどのような人々かというと、すべて世界的な大宗教の教主になっています。天に仕えなかった人はいません。皆様、聖人を尊重しながら、天を無視する人になってはいけないというのです。
世界的中心宗教はキリスト教
したがって、この修理工場のような使命を宗教がするのですが、神様が絶対者ならば絶対者が一番好む宗教とはこの四大宗教の中でどの宗教かということを、私たちは知らなければなりません。
儒教を見れば、神様に対するはっきりとしたことを教えられませんでした。善を行えば天が福を与えて、悪を行えば災いを与えるという程度しか教えることができなかったのです。仏教を見れば、法則的な神様は認めますが、人格的な神様は知らずにいます。また、イスラームを見れば、これはキリスト教を受け継いだ中間的な宗教です。
ところが、ただイエス•キリストだけは、主張した内容が異なります。彼が現れて「私は神のひとり子だ」と言いました。人類歴史上に、神様のひとり子だと主張した人は、イエス様しかいないのです。その次に「わたしを見た者は、父を見たのである」(ヨハネ一四•九)と言いました。「父がわたしにおり、また、わたしが父におることを知って悟るであろう」(ヨハネ一〇•三八)と言いました。それだけでなく、「私は花婿であり、あなたがたは花嫁である」という立場で語られたのです。このようなことを見るとき、誰を中心としてこれを成し遂げようとしたのかといえば、神様を中心として成し遂げようとしたというのです。言い換えれば、神様を中心として息子になり、一つの体になり、一つの新郎新婦になり、一つの家庭をつくろうというのがキリスト教の目的なのです。私たち人間に最高の価値として与えられた息子の位置と同等な立場、そして創造の偉業と創造したそれ以後の喜びまでも感じられる家庭的起源を、イエス様は教えてくださったのです。
キリスト教の限界
ところが、イエス様は神様の息子であり、天の父と一体になりましたが、相対である新婦を準備できませんでした。もし、イスラエルの国とユダヤ教が、その時、イエス様と一つになった立場で、イエス様が新婦を迎えられるようにしたならば、イエス様は神様と直接の相対となって、創造の能力を発揮できる基盤をもったはずですが、それを成し遂げることができずに逝きました。
このような神様を中心とした息子、娘が出てきて、家庭をつくって、新しい氏族と民族と国家と世界になったとすれば、この地球星はすぐに天国になったでしょう。神様を中心とした天の国になったでしょう。イスラエルの国の人々が信じることができず、ユダヤ教徒たちが信じることができなかったためにイエス様が死んだのであって、信じたとすればイエス様は死ななかったでしょう。
もし、そのとき、イスラエルの国とユダヤ教がイエス様を信じて、神様が理想としていた新郎新婦を迎えて新しい出発をしていれば、第二次世界大戦中に六百万人のユダヤ人がヒトラーに虐殺されることもなかったでしょう。歴史始まって以来、初めて現れた、神様の対象となり、神様が愛することのできるお方を打ってしまったので、そのようになったのです。それ以上に大きな罪はないというのです。
今、ここにもイエス様を信じる人が大勢来ていると思います。しかし、皆様の信じているキリスト教がこのまま進んでいけば、追われていくイスラエル民族のようになるかもしれません。今日、全世界に散らばっているキリスト教徒たちは、神様を中心として一つになり、再び来られる主がこのような使命をもって来られるので、再び追放することがないように基盤を築く運動をしなければ、今後、この世界の展望は悲惨だと見ざるを得ません。
そのお方が来て、新郎として新婦を迎えて婚宴をするというのが、ヨハネの黙示録に出てくる「小羊の婚宴」です。堕落したために、私たちは偽りの父母をもちました。神様がモデルとして考えていた善の真の父母は出てきませんでした。このように計画していたことを、終わりの日に来て、再び合わせなければならないというのです。真の父母が現れて、再び生み、再び接ぎ木するみ業をしなければ、世界のすべての人は救援されないのです。
新しい愛の理想世界建設のために出現した統一教会
今後、来られる主はどのような使命をもって来られるのでしょうか。堕落せずに善の父母の立場で完成する真の父母を失ったので、それを再び完成して、神様の愛を受ける真の父母の家庭から人類が再び愛される道を開くために来られるお方が、再臨主です。神様の愛を受ける息子、娘たちがこの地で生きて、家庭的に天国に行くのが幸福でしょうか。今日、キリスト教で信じるように、ただよく信じて、母は天国に行き、父は地獄に行くようになって、別々に別れていくのが幸福でしょうか。父母から子女に至るまで、全体が入らなければならないというのです。家庭が入り、氏族が入り、国が入り、世界がすべて入らなければなりません。
このような新しい父母を中心とした世界的な家庭がこれから生じ、そこから人類歴史上になかった新しい愛の理想を中心とした文化と伝統がこの地球星に顕現するようになるとき、今日のこの複雑で罪悪に満ちた世界ではなく、新しい地上の天国になるのです。そのようになるためには、皆様がどのように手続きを踏まなければならないのかを知らなければなりません。ですから、そのような内容を教えるのが、私たち統一教会の使命です。
膨大な内容をこのように要点を整理して短時間で話そうとするので、飛躍も多く、理解しづらい点もあったかもしれませんが、皆様が了解して聞いてくださったことに対して、心から感謝を申し上げます。
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Wednesday Feb 02, 2022
平和経 第102話
Wednesday Feb 02, 2022
Wednesday Feb 02, 2022
人体の神秘を通して見た神様の実在性
皆様。神様がいるか、いないかについて、少しの間お話ししてみましょう。私たちが人類始祖を求めてさかのぼれば、最初の人類始祖が出てくるでしょう。その人類始祖は大地で生まれたのです。その生まれた最初の人間が、大地に生まれるとともに、太陽があることを、それ自体が知っていて準備して出てきたか、そうでなければ、それ自体は知らずに出てきたかということを考えてみます。
この地に出てくるとき、目は太陽があることを知らなかったでしょう。しかし、それ自体は知らなかったとしても、あらかじめ天体に太陽があって、見ることができることを知り、目をそのように生じさせたのです。皆様の目を見るとまばたきしています。それは、地の熱を受けて目の水分が蒸発するので、湿らせなければならないことを知っていたからです。また、まつげは、ほこりを防止しなければならないことを知って生じました。これを見れば、人間は博物学的、天文学的知識を基盤として生まれたということです。
そして、目はあらかじめ汗が流れてくることを知っていました。それを知って、この貴重なところに異物が入れば大変なことになるので、防波堤をつくっておいたのです。そして、人が立って行き来することを知っていたというのです。また、耳を見てください。あらかじめ音波が来ることを知って、それを聞き取れるようになっています。また、鼻を見てください。鼻がなぜこのように下に向かうようになっているのかというのです。鼻に汗や雨水が入ってはいけないので、防波堤をつくって下に向かうようにしたのです。すべて知ってつくられたというのです。それらが自然にそのようになるでしょうか。
このように私たちの人体を見れば、神秘の王宮のようになっています。これがただそのままそのように生じることはありません。このように見るとき、人間が生まれるとき、自分自身は知りませんでしたが、それを知っていた方がいたか、いなかったかということが問題になります。そのように生まれたことに対して、「ただ生まれた」とは言えません。それをあらかじめ知っていた方が誰かというと、神様でいらっしゃいます。
神様との関係から見た人間の本然の価値
それでは、神様が人間を造ったとすれば、私たち人間をどのような立場に置いて、どのような関係を結ぶために造ったのかを調べてみましょう。神様が人間を造ったとすれば、造った神様の目的があったはずです。また、そのように造られた人間ならば、その人間自身にも目的があるのです。造られた人間の目的と造った神様の目的が別々だということはありません。必ずある一致点がなければならないというのです。その立場は神様も望み、私たち人間も望むでしょう。
ここに来た人々の中で、世界的に著名な大統領がいらっしゃるとすれば、その大統領よりも偉くなりたくないと思う人がいますか。偉くなりたいと思いますか、偉くなりたくないと思いますか。偉くなりたいと思うのです。最高に偉くなりたいと思います。世界で一番偉い人がいれば、その人と関係を結びたいと思うのが人間の欲望です。
そして、その偉い人を中心として一つになったとしても、それよりも偉い人がいれば、その人とも一つになりたいのです。男性も女性もそのような思いをもっています。いくら愚かな人だとしても、そのような思いをみなもっているというのです。もし天地を創造した絶対者である神様がいらっしゃるならば、その神様と関係を結びたいと思うでしょうか、結びたくないと思うでしょうか。
そして、その神様を占領したとしても、神様の中にただ一つしかない愛を占領できないときは、安心できないというのです。神様を占領し、神様の中に一つしかない愛までも占領すれば、万事OKです。そのお方の愛さえ占領する日には、そのお方のものは、私のものになるというのです。良心は私たちを、そこまでせき立てる作用をします。本来の人間は、そのような価値のある立場にいるので、そのような作用をしていることを否定できません。
神様は愛の神様ですが、私たち人間を愛そうとするならば、どのような立場で愛したいと思われるでしょうか。また、私たち人間は、どのような立場で神様の愛を受けたいと思うでしょうか。その立場は父子関係、すなわち父と息子の立場しかないというのです。ですから、今日、キリスト教で「父なる神」と呼ぶのです。父と息子なら上下関係です。人間の欲望を見るとき、その高い父の位置に私も一度行きたいと思わざるを得ないというのです。ですから、神様はそれまでも心配して、私たちの心、すなわち内的なところに入ってきて、私たち人間自身を外側、すなわち神様の体と同様の立場を許諾しようというのです。そのようになれば、同等な立場に立つようになります。
人間で見るとき、その父が貴いとすれば、一人しかいないその父を、どこかに持っていって保管したくはないのです。あの遠いところに置きたくないというのです。いつも自分と共にいて、自分だけに会い、自分だけが喜ベるところに持っていって置いておきたいと思います。ですから、神様が見えないことを願うのです。神様をどこかほかのところに置いてはいけないというのです。私だけが分かる心の中に置きたいというのが、私たち人間の欲望であるに違いありません。
ですから、創造主である神様は、被造物である私たち人間を神様と同じ立場に置くというのです。私たち人間を、神様の息子の立場で愛することができるように、神様と同等な立場に立ててくださったのです。
神様は天地を創造する能力をもったお方なので、その創造の能力までももつようにさせたかったというのです。神様が人間を創造したあと、私たち人間を造ってみると、どれほどかわいく、愛らしかったのか、そのような妙味までも、私たち人間が感じるようにさせたいと思われたというのです。
その神様の創造の能力を受けようとするなら、神様はお一人の中に完全な男性と女性の姿でいらっしゃるので、分かれて生まれた男性と女性も、完全な男性と女性が一つになって、神様の相手にならなければなりません。神様の相手になることによって、創造的役割を身代わりできるのです。
ですから、夫婦の愛を通して一つになることによって、神様のような立場で創造の能力を果たせるのが子女です。赤ん坊を生んで、どれほどうれしいかということを私たちに感じさせるために、神様は子女を愛する心を下さいました。このように見ると、神様は最も良いものを私たち人間に、すべて注いでくださったというのです。
このように、永遠であられる神様の愛と一つになって、幸福と満足の中で、平和なエデンで生きるように私たち人間を造られたのです。そのようになることによって、絶対的な神様のみ前に、神様の愛を中心として永遠に相対となる立場で、別れようとしても別れることができない幸福な人として生きるのが、人間の本然の姿だったということを、私たちは知らなければなりません。
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Wednesday Feb 02, 2022
平和経 第101話
Wednesday Feb 02, 2022
Wednesday Feb 02, 2022
1.お一人の神様と一つの世界宗教
日付:一九七二年二月三日
場所:アメリカ、ニューヨーク、リンカーン•センター
行事:アメリカ九ヵ都市巡回講演
紳士淑女の皆様。今夜、このように悪天候にもかかわらず、大勢の方々が集まってくださったことに対して、心から感謝申し上げます。皆様に会ってみたいという思いは、数十年前からありました。今晩、初めて皆様にお会いでき、まず皆様の前に感謝申し上げると同時に、神様に心から感謝を申し上げる次第です。
神様は実在するのか
きょう、お話しするタイトルは、「お一人の神様と一つの世界宗教」です。このニューヨークに住んでいる方々は、「神様」と言えば、「神様は死んだ」という言葉を連想するかもしれません。しかし、神様が存在しているのに、存在する神様を「死んだ」と言うのは、これ以上の罪はないと思うのです。神様が存在しないのに「神様は存在する」と言うほうが、それよりまだ良いと見ることができます。
きょう、お話しする「お一人の神様と一つの世界宗教」というタイトルを見ても、ここに人がいなければ何の問題にもなりません。人がいるので、その人と一人の神様が必要なのであり、人がいるので、その人と一人の神様が一つになってつくられる宗教が必要だというのです。
万一、絶対者である神様がお一人でいるならば、その神様がいる所は幸せな所ではないと考えざるを得ません。
神様であっても、その神様が一人で喜ぶならば、神様も正常な神様ではないでしょう。しかし、その神様がいくら小さな相対だとしても、その一つのものを見て「ははは」と笑いながら喜ぶとすれば、それは正常なのです。いくら小さなものでも、それを見て笑う神様に対して「狂っている」と言えば、そのように言う人がかえって狂った人になるのです。ですから、相対的存在がどれほど貴いかということを、皆様に最初にお話ししているのです。「不幸」や「悲しみ」という言葉は、相対がいないところから始まる言葉です。
それでは、神様が相対を好むとすれば、この世界でいったいどのような存在を好むと思いますか。感覚がない鉱物のようなものでしょうか。鉱物ではありません。植物でもありません。植物よりは動物のほうがより関心事になるでしょう。このように見るとき、この被造物の中で神様の関心事になり得る中心存在とは何かと尋ねれば、幼稚園児であっても、人間だと指摘するでしょう。皆様は、そのように思いませんか。このように見れば、人間は被造物の中で最高傑作だということを否定できないのです。ですから、神様も対象を訪ねていくとすれば、人間を除いては訪ねるべき対象がないという結論が出てきます。
今日、この複雑な情勢の中で、今後のアメリカの運命や、あるいは世界の運命を考えるとき、神様がいれば良いのか、いなければ良いのかという問題は、深刻に考えてみる問題にならざるを得ません。
絶対者がいて、真は真とみなし、悪は悪として処断することができれば良いですが、そのようなお方がいないとすれば、今後の世界は問題にならざるを得ません。ですから、神様がいないより、いるほうが良いというのが、私たちの願いです。ですから、神様がいるか、いないかということが問題です。
二性性相の神様
この宇宙は、存在世界であることを私たちは知っています。それは誰もが認めています。存在するためには、力がなければならないことを知っています。その力が存在するためには、力が先か、存在が先かということが問題です。力がなければ、存在もありません。ところが、その力というものは、作用をせずには現れないのです。力がある前に、作用という現象が必ず必要です。
また、作用をするためには、そこには必ず先行条件として、主体と対象が絶対必要だということを否定できません。この主体と対象が授受するところから作用が始まり、作用が始まることによって力が存続するのです。言い換えれば、力が存在する前になければならないものとは何かというと、主体と対象だというのです。
主体と対象は互いに異なる立場にあるので、これらが作用をするためには、互いに相手の内容に合うようにしなければならないのです。そのようにしなければ作用することができません。ですから、主体と対象が作用するためには、主体の目的と対象の目的が一致できる基点がなければならないのです。そうでなければ作用しないというのです。
私たちが何かの用で外に出ていくとき、自らが損をするために出ていく人はいないでしょう。ニューヨークのタイムズ•スクエアを大勢の人々が往来していますが、その人々が家から出るとき、「私はきょう、一ドルでも損をするために家から出ていく」といって出てきた人は一人もいないはずです。出てくる時は、必ず自分に利益になることを望み、自分にプラスになる何かを望んで出発するのです。
皆様が友人たちに会って交流するとき、お互いがマイナスになり、今よりも悪くなりかねない立場では、絶対に一つにならないのです。甲と乙の二人が一つになるには、今よりプラスになる共通の目的があるからこそ、そこで作用が起こり、一つになるということが起こるのです。このように見るとき、力が作用するには、二重目的、すなわち主体と対象が互いの目的にプラスになるものがなければ、一つになることもなく、作用もしないという結論を出すことができます。
原子を例に挙げれば、原子は陽子を中心として電子が取り囲んでいます。それもやはり、二つの目的を結合して与え合う立場にあるので、一つの原子型を形成するのです。ですから、電子の目的と陽子の目的が追求するものを中心として、合わせているのです。大きく見れば、神様も存在者です。神様が存在するならば、実存体としていらっしゃるのです。そうだとすれば、神様もやはり主体と対象の関係になっていて、完全に与え合うことができる二重目的を中心として、結合した位置に立たなければ、永遠に存在することはできないのです。それは、神様も結局は、主体と対象が一つになって、お一人の神様としていらっしゃるという話です。
神様のかたちに創造された人間
聖書の創世記第一章二十七節を見れば、「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」という聖句があります。それを帰納的に追究してみれば、神様は、一人の男性と一人の女性を合わせた方だという結論が出てきます。
そのような神様が一人でいてはいけないので、対象を必要とされ、そのために、この世界を創造せざるを得なかったというのです。それで、造られたのが一人の男性であり、一人の女性です。一人の人について見ても、人には心と体があります。この心と体が与え合うのです。もしこれが食い違ってくると苦痛を感じるようになります。どちらか一方が傾くというのです。しかし、これが一つになって上がっていけば喜びがあるのです。これが完全に一つになった男性がいるとすれば、彼は完全な男性です。
もし絶対者がいるとすれば、どのような男性を要求するでしょうか。そのような男性を要求するでしょう。女性も同じです。心と体が完全に一つになった女性がいるとすれば、神様は、その女性に会おうとせざるを得ません。絶対者の威信から見ても、最高の男性、最高の女性に会わなければならないというのです。そのように、天のみ前に堂々と立つことができる人を天は求めるのであり、私たちも望むのです。
私たち人間を見れば、原因的な存在ではないことを否定できません。人は結果的な存在です。皆様は、存在する、しないを自由に決めることができますか。できません。原因になれないので、結果的な立場にいることを否定できないのですが、結果的な存在も、原因が絶対的ならば、絶対的な相対の位置に立つことができるのです。
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Tuesday Feb 01, 2022
平和経 第100話
Tuesday Feb 01, 2022
Tuesday Feb 01, 2022
しかし堕落以後、個体から全体に至るまで、善と悪の葛藤は絶えず繰り返されてきたのであり、結局、人種、国境、宗教の壁は、人類に量り知れない苦痛を抱かせてきました。真の父母様は、神様の解放と人類救援、そして平和理想世界の完成という生涯の摂理的目標をお立てになり、全生涯を全力投球してこられました。霊性回復のための宗教活動を中心として、政治、経済、社会、文化、芸術、教育、言論、スポーツを通じて人類平和運動を展開してこられ、特に天国の最小単位を「真の家庭」に置き、真の家庭の祝福と怨讐間の祝福結婚の門を開いてくださいました。
すべての葛藤を解消する国際交叉祝福結婚を通して、名実共に人類大家族理想を現実のものにされました。その結果、百二十の氏族と百二十余ヵ国で平和の王、万王の王に推戴されて戴冠式を挙行し、人類の夢は現実となっています。
第五に、真の父母様は「天地人真の父母」として、神様の位相を確立され、この地上で初めて創造本然の完成を成就されました。真のお父様は僕の僕の立場から蕩減復帰摂理を展開され、その勝利的結果に従い、サタンの主権は徐々に縮小していき、神様の位相は次第に創造本然の位相に格上げされたのです。
二千年前、イエス様が神様を「父」として啓示しましたが、そのことによって、ユダヤ人たちから神様を冒瀆したと言われ、十字架の苦難を受けるようになったことを皆様も御存じでしょう。しかし真の父母様は、この地上において実体的に蕩減復帰を完成され、神様に本然の創造主、すなわち天と地と人間を主管される真の父母としての尊さと栄光を取り戻してさしあげたのです。
このように真の父母様の摂理的位相は、摂理の基準に従って変化してきたのであり、その基台の上に神様の解放と釈放圏が成し遂げられました。メシヤから真の父母、天地父母、天地人父母、祝福家庭王、平和の王、万王の王を超えて、二〇一〇年に「天地人真の父母定着」を宣布されました。すなわち神様は「無形の天地人真の父母」であられ、真の父母様は「有形の天地人真の父母」として定着し、創造主、神様の本質的アイデンティティーを実体で完成、顕現されたのです。
愛する食口の皆様。天も干渉できない蕩減復帰の摂理路程で、真のお父様と私が経験してきた苦痛は想像を超越するものです。私たちは、真の家庭の子女たちを摂理の祭物として捧げることまでしました。その険難な蕩減復帰の路程を、誰が量り知ることができるというのでしょうか。私は全生涯を捧げて真のお父様の伴侶として、苦楽を共にし、万難を克服してきました。その勝利的基盤の上に、真の父母様は天が下さった摂理的次元の同参権、同居権、同位権をもつようになったのです。
今後の私たちの行くべき道
尊敬する内外の貴賓、そして愛する全世界の祝福家庭の皆様。これから真のお父様は、天法に従って霊界を拠点として、自由自在に霊肉界を往来されながら、天一国の拡張のために摂理されるでしょう。真のお父様は夜の神様の実体として肉界に再臨協助され、昼の神様の実体として地上摂理を継続する真のお母様と一心、一体、一和、一念の境地で、摂理を経綸されるようになるでしょう。
そして、真のお父様は、基元節の勝利を通して本然のエデンの園をこの地上に創建するために、皆様と共にいらっしゃるでしょう。天の摂理は中断することができないためです。これから私は、このような歴史的摂理の新しい転換期を迎え、真のお父様の勝利的基盤を相続して、この地上を中心とする摂理を主導し、先頭に立つことを明らかにしながら、皆様に次の幾つかのお願いをしたいと思います。
第一に、私たちは真の父母様が立ててくださった伝統を、絶対生命視しなければならず、子孫万代まで相続し、伝承させなければなりません。真の父母様は愛と心情の伝統、み言と規定、規則と儀礼の伝統、心情文化の伝統を立ててくださいました。特に真の父母様の蕩減復帰摂理路程の結晶体であるみ言を訓読する訓読会の伝統は、各家庭ではもちろん、教会や天を中心とする集会で、最も中心的内容となるようにしなければなりません。それとともに、私たちはこの地上で新しい秩序を立てていかなければなりません。ですから、組職の秩序と伝統も、真の父母様を中心とする真の家庭とアベルを中心とする中で、一糸乱れず統一体を築いていかなければならないことを肝に銘じてくださるようお願いします。
第二に、天が祝福された祝福家庭の理想を完成しなければなりません。家庭は真の愛、真の生命、真の血統の揺りかごであり、神様の創造目的を実現する基盤です。「家庭盟誓」の八大項目を中心とする中で、善なる血統の伝統を絶対信仰によって守らなければなりません。私たちの平和のビジョンは「純潔な愛、幸福な家庭、平和な世界」です。夫婦が絶対愛で天に侍って一体となる伝統の中で、子女を愛とみ言によって養育しなければなりません。家庭において訓読会を通して天一国の秩序がしっかりと定着するようにしなければならず、正午定着の基準で縦的、横的に心情的伝統が定着していく祝福の理想を完成しなければなりません。
第三に、皆様全員は氏族的メシヤの祝福を受けたので、この地上に天一国が完成されるときまで、その使命と責任を果たさなければなりません。氏族的メシヤは真の父母が下さる祝福の中で最も大きな祝福です。蕩減復帰摂理の勝利的基台でなければ、堕落人間を氏族のメシヤとして立てることはできないためです。ですから、真の父母様の全生涯の摂理的経綸の中には、いつも氏族的メシヤの使命が強調されてきたのです。
この地上における天一国の天宙的完成は、氏族的メシヤたちがその使命を果たして、各氏族にみ言と祝福とために生きる生活を相続させ、善の主権を立てて、平和な世界、人類大家族の実現を通してこそ可能になるのです。各氏族において勝利的基盤が形成されるようになれば、その基台の上にアベル国連が自動的に安着し、善主権は完成するようになるのです。
第四に、私たち全員は真の父母様と真の家庭を中心として、和合と統一の心情文化共同体を築いていかなければなりません。皆様全員は、例外なく天の選択と先祖の功績、そして自らの後天的天稟によってみ旨の道と関係を結び、数多くの迫害を顧みず真の父母様のみ跡に従い、今日の勝利圏を迎えるようになりました。ですから、私たち全員は、一つの父母を中心とする一家族心情共同体です。世の中はいまだに分裂と葛藤に満ちていますが、私たち統一家は、人種、国境、およびいかなる障壁も軽く越えて、一つの兄弟姉妹になることができます。ために与えて生きる人生の見本を見せれば、確実に達成できる夢です。特に、このような摂理の大転換期には、私たち全員が真の父母様と一つにならなければならないことを、肝に銘じてください。
基元節の勝利のための誓い
尊敬する平和の指導者、愛する統一家の食口の皆様。真のお父様は今、霊界で私たちといつも共にいらっしゃいます。ただ無形でいらっしゃるだけであり、一瞬たりとも私たちの傍らを離れることはないでしょう。今私たちに何を望んでいらっしゃるでしょうか。正に中断のない前進です。
神様の摂理は、全世界に真の父母を中心とする中で愛と平和が満ちあふれ、心情文化が定着し、新しい秩序が定着するときまで続けられなければなりません。その上に基元節の勝利を土台として、より一路邁進し、天と真の父母様の前に大きな栄光をお捧げし、世界と歴史の前に大きな希望を抱かせてあげなければならないでしょう。
愛する食口の皆様。私はこのような摂理の勝利圏のために最に最善を尽くしながら、全生涯を見せてくださり、指導してくださった真のお父様の生涯と伝統に忠実であり続けるでしょう。
皆様にきょうお伝えするこの願いは、霊界に行かれる真のお父様の遺言です。全員が胸深く刻み、勝利者になられることを切に願います。皆様の家庭と国家の上に、神様の祝福と愛がいつも共にあることをお祈りいたします。ありがとうございます。
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すべての葛藤を解消する国際交叉祝福結婚を通して、名実共に人類大家族理想を現実のものにされました。その結果、百二十の氏族と百二十余ヵ国で平和の王、万王の王に推戴されて戴冠式を挙行し、人類の夢は現実となっています。
第五に、真の父母様は「天地人真の父母」として、神様の位相を確立され、この地上で初めて創造本然の完成を成就されました。真のお父様は僕の僕の立場から蕩減復帰摂理を展開され、その勝利的結果に従い、サタンの主権は徐々に縮小していき、神様の位相は次第に創造本然の位相に格上げされたのです。
二千年前、イエス様が神様を「父」として啓示しましたが、そのことによって、ユダヤ人たちから神様を冒瀆したと言われ、十字架の苦難を受けるようになったことを皆様も御存じでしょう。しかし真の父母様は、この地上において実体的に蕩減復帰を完成され、神様に本然の創造主、すなわち天と地と人間を主管される真の父母としての尊さと栄光を取り戻してさしあげたのです。
このように真の父母様の摂理的位相は、摂理の基準に従って変化してきたのであり、その基台の上に神様の解放と釈放圏が成し遂げられました。メシヤから真の父母、天地父母、天地人父母、祝福家庭王、平和の王、万王の王を超えて、二〇一〇年に「天地人真の父母定着」を宣布されました。すなわち神様は「無形の天地人真の父母」であられ、真の父母様は「有形の天地人真の父母」として定着し、創造主、神様の本質的アイデンティティーを実体で完成、顕現されたのです。
愛する食口の皆様。天も干渉できない蕩減復帰の摂理路程で、真のお父様と私が経験してきた苦痛は想像を超越するものです。私たちは、真の家庭の子女たちを摂理の祭物として捧げることまでしました。その険難な蕩減復帰の路程を、誰が量り知ることができるというのでしょうか。私は全生涯を捧げて真のお父様の伴侶として、苦楽を共にし、万難を克服してきました。その勝利的基盤の上に、真の父母様は天が下さった摂理的次元の同参権、同居権、同位権をもつようになったのです。
今後の私たちの行くべき道
尊敬する内外の貴賓、そして愛する全世界の祝福家庭の皆様。これから真のお父様は、天法に従って霊界を拠点として、自由自在に霊肉界を往来されながら、天一国の拡張のために摂理されるでしょう。真のお父様は夜の神様の実体として肉界に再臨協助され、昼の神様の実体として地上摂理を継続する真のお母様と一心、一体、一和、一念の境地で、摂理を経綸されるようになるでしょう。
そして、真のお父様は、基元節の勝利を通して本然のエデンの園をこの地上に創建するために、皆様と共にいらっしゃるでしょう。天の摂理は中断することができないためです。これから私は、このような歴史的摂理の新しい転換期を迎え、真のお父様の勝利的基盤を相続して、この地上を中心とする摂理を主導し、先頭に立つことを明らかにしながら、皆様に次の幾つかのお願いをしたいと思います。
第一に、私たちは真の父母様が立ててくださった伝統を、絶対生命視しなければならず、子孫万代まで相続し、伝承させなければなりません。真の父母様は愛と心情の伝統、み言と規定、規則と儀礼の伝統、心情文化の伝統を立ててくださいました。特に真の父母様の蕩減復帰摂理路程の結晶体であるみ言を訓読する訓読会の伝統は、各家庭ではもちろん、教会や天を中心とする集会で、最も中心的内容となるようにしなければなりません。それとともに、私たちはこの地上で新しい秩序を立てていかなければなりません。ですから、組職の秩序と伝統も、真の父母様を中心とする真の家庭とアベルを中心とする中で、一糸乱れず統一体を築いていかなければならないことを肝に銘じてくださるようお願いします。
第二に、天が祝福された祝福家庭の理想を完成しなければなりません。家庭は真の愛、真の生命、真の血統の揺りかごであり、神様の創造目的を実現する基盤です。「家庭盟誓」の八大項目を中心とする中で、善なる血統の伝統を絶対信仰によって守らなければなりません。私たちの平和のビジョンは「純潔な愛、幸福な家庭、平和な世界」です。夫婦が絶対愛で天に侍って一体となる伝統の中で、子女を愛とみ言によって養育しなければなりません。家庭において訓読会を通して天一国の秩序がしっかりと定着するようにしなければならず、正午定着の基準で縦的、横的に心情的伝統が定着していく祝福の理想を完成しなければなりません。
第三に、皆様全員は氏族的メシヤの祝福を受けたので、この地上に天一国が完成されるときまで、その使命と責任を果たさなければなりません。氏族的メシヤは真の父母が下さる祝福の中で最も大きな祝福です。蕩減復帰摂理の勝利的基台でなければ、堕落人間を氏族のメシヤとして立てることはできないためです。ですから、真の父母様の全生涯の摂理的経綸の中には、いつも氏族的メシヤの使命が強調されてきたのです。
この地上における天一国の天宙的完成は、氏族的メシヤたちがその使命を果たして、各氏族にみ言と祝福とために生きる生活を相続させ、善の主権を立てて、平和な世界、人類大家族の実現を通してこそ可能になるのです。各氏族において勝利的基盤が形成されるようになれば、その基台の上にアベル国連が自動的に安着し、善主権は完成するようになるのです。
第四に、私たち全員は真の父母様と真の家庭を中心として、和合と統一の心情文化共同体を築いていかなければなりません。皆様全員は、例外なく天の選択と先祖の功績、そして自らの後天的天稟によってみ旨の道と関係を結び、数多くの迫害を顧みず真の父母様のみ跡に従い、今日の勝利圏を迎えるようになりました。ですから、私たち全員は、一つの父母を中心とする一家族心情共同体です。世の中はいまだに分裂と葛藤に満ちていますが、私たち統一家は、人種、国境、およびいかなる障壁も軽く越えて、一つの兄弟姉妹になることができます。ために与えて生きる人生の見本を見せれば、確実に達成できる夢です。特に、このような摂理の大転換期には、私たち全員が真の父母様と一つにならなければならないことを、肝に銘じてください。
基元節の勝利のための誓い
尊敬する平和の指導者、愛する統一家の食口の皆様。真のお父様は今、霊界で私たちといつも共にいらっしゃいます。ただ無形でいらっしゃるだけであり、一瞬たりとも私たちの傍らを離れることはないでしょう。今私たちに何を望んでいらっしゃるでしょうか。正に中断のない前進です。
神様の摂理は、全世界に真の父母を中心とする中で愛と平和が満ちあふれ、心情文化が定着し、新しい秩序が定着するときまで続けられなければなりません。その上に基元節の勝利を土台として、より一路邁進し、天と真の父母様の前に大きな栄光をお捧げし、世界と歴史の前に大きな希望を抱かせてあげなければならないでしょう。
愛する食口の皆様。私はこのような摂理の勝利圏のために最に最善を尽くしながら、全生涯を見せてくださり、指導してくださった真のお父様の生涯と伝統に忠実であり続けるでしょう。
皆様にきょうお伝えするこの願いは、霊界に行かれる真のお父様の遺言です。全員が胸深く刻み、勝利者になられることを切に願います。皆様の家庭と国家の上に、神様の祝福と愛がいつも共にあることをお祈りいたします。ありがとうございます。
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Monday Jan 31, 2022
平和経 第99話
Monday Jan 31, 2022
Monday Jan 31, 2022
尊敬する平和指導者、そして誇らしい食口の皆様。振り返れば本当に険難な蕩減復帰の路程でしたが、真の父母様はこれら全てのものをきれいに締めくくって勝利され、神様の王権時代、神様直接主管圏の時代が定着する天一国時代を開かれました。
「私の誓い」を「家庭盟誓」に格上げさせ、「真の父母様の名」で祈る時代から「祝福中心家庭の名」で直接報告する時代になる、過去からは想像することもできなかった変化の中で、新しい摂理の時代、天一国時代を開いてくださいました。
神様の王権のもと、善主権の秩序は、真の父母を中心とする中で、心情文化の実体化として縦的、横的に拡大されました。私の六十歳(二〇〇三年)の還暦を期して、「天地父母様天一国開門祝福聖婚式」と「天宙・天地真の父母様平和統一祝福家庭王即位式」を通して天の主権が縦的に根づき、また百二十の氏族と百二十ヵ国における平和の王即位式を通じて、全世界に定着するようになりました。「天宙平和連合」を通じたアベル国連の創設とともに「天地人真の父母天正宮入宮戴冠式」を奉献し、初めて創造理想の実体化が確固たる基盤を構築するようになり、ついに真の父母様の五十年路程の勝利により、摂理的禧年を迎えながら、「天暦時代」、天基元年が去る二〇一〇年に宣布されたのです。
真の父母様の勝利圏
真のお父様がこの三年間、一瞬たりとも手離されなかったみ言、非常に大切にされ、機会さえあれば訓読されながら説明してくださった「天地人真の父母定着実体み言宣布大会」のみ言と「神様の祖国と故郷は韓国」のみ言から「人類のための遺言」の小項目の内容を見ると、次のようなみ言があります。
「この教本は、皆様が霊界に行っても読み、学ばなければならない本です。決して人間の頭脳から出てきた言葉や教えではありません。天がかわいそうな人類を救援するために下さった天道を教える教材、教本だからです。皆様。正午定着の人生は影をつくらない人生だと言いました。私たち全員が発光体となって光を与える人生を生きれば、影が生じる隙間がありません。受ける者は借りをつくる者です。皆様はみな、過ぎし日の借りを返すために、これから、かわいそうな貧しい人の涙を拭ってあげ、暗い所を明るくしてあげる永遠の真の愛の発光体となる人生を生きるように願います。……既に真の父母様御夫妻は最終一体をなして、完成、完結、完了の基準の上に立って、全体、全般、全権、全能の時代を奉献宣布されたのです」。
真のお父様はどのようなお方か
尊敬する平和の指導者、愛する祝福家庭の皆様。これから新しい摂理的転換期、新しい時代を開きながら、私は何よりも真のお父様の摂理的位置が確固たるものとなることを願います。全生涯をひたすら神様のみ旨のために全力投球で一分一秒を惜しまれながら、五大洋六大州、そして霊界まで絶え間なく渉猟されながら、血と汗と涙で積み上げられ、勝利された天宙史的な摂理的業績が、人類に永遠の基準となり、見本となることを願います。
第一に、真のお父様は人類の善の先祖、真の父母様であられます。人類の先祖アダムとエバは、堕落して悪の先祖になりました。イエス様が証言されたように、偽りの先祖です。神様は、アダムとエバの堕落によって創造本然の人間、すなわち御自身の形状を失われてしまったのです。
このため神様は復帰摂理を展開され、最後の再臨のメシヤとして真のお父様を送ってくださり、真のお父様は自らの責任分担として真理のみ言を究明され、蕩減復帰摂理を完成されました。祝福と聖和式を通して、堕落人間が行くべき肉界と霊界の重生、復活、永生の道を開いてくださいました。したがって創造本然の真の愛、真の生命、真の血統は、ただ善の先祖であられる真の父母様を通してのみ相続を受けることができるのであり、その関門は正に祝福結婚です。
第二に、真のお父様は永遠の真理、すなわちみ言の主人であられます。神様はみ言によって被造万物世界を創造されました。すなわちみ言は真理であり実体です。神様の愛と心情は、み言を通して有形として現れます。人類の偽りの先祖アダムとエバは、神様のみ言に背いて堕落し、み言の実体化を成し遂げることができませんでした。したがってメシヤは、出発のための摂理として、天の真理のみ言を取り戻さなければならないのです。
真のお父様はこのような摂理的要請に従って、自ら千辛万苦の精誠とサタン分立の勝利、神様の認証を通してみ言を究明され、全生涯を通してみ言によって摂理の陣頭指揮を執ってこられ、み言によって生命力を吹き入れ、愛で育み、再創造の摂理を完成してこられました。その結果、真の父母様の路程の禧年を迎え、八大教材•教本を完成され、訓読会の伝統を打ち立てられて、万民が家庭でみ言と愛によって天一国を定着させることができる道を開いてくださいました。したがって八大教材•教本のみ言の権威は、ただ真の父母様だけにあるのであり、これはそっくりそのまま、子孫万代まで永遠の伝統として守られなければならないのです。
第三に、真のお父様は神様の救援摂理の完成者であられます。『原理講論』で規定しているように、人類歴史は救援摂理、すなわち復帰摂理歴史です。人類の先祖アダムとエバが堕落して、偽りの先祖を中心とした悪主権の世界が生じました。
人間の不幸、苦悩、罪悪、疎外、そして総体的葛藤と反目によって引き起こされた戦争は全て、人類先祖の堕落に起因しています。このような罪悪世界を創造本然の理想世界、すなわち幸福と犠牲と奉仕と愛があふれる平和な世界に復帰するための摂理が始められ、それは人類歴史の中で一瞬たりとも休むことなく続けられてきました。
しかし蕩減と復帰の繰り返しの中で進められてきた救援摂理は、中心人物や集団の責任分担が完成されずに延長を繰り返してきました。二千年前、神様のひとり子、イエス様がメシヤとして来られましたが、当時のユダヤ民族の不信によって十字架にかかって亡くなり、再臨を約束されました。
予定された約束のとおり、二千年が過ぎて再臨のメシヤとして真のお父様が来られ、全生涯を通して全歴史を蕩減する摂理的路程の中で、勝利を成就されました。真の父母の生涯路程を一言で表現すれば、「緊張と苦痛」であると言っても過言ではありません。その理由は、蕩減復帰摂理におけるサタンとの生死を懸けた闘いだったためです。したがって、メシヤ路程四十年、真の父母路程四十年、そして平和の王、万王の王としての十年の路程を通して摂理を完成、完結、完了されました。
第四に、真のお父様は平和の王、万王の王であられます。神様のみ旨は平和理想世界の完成、すなわち神様のもとの人類大家族世界の完成にあります。個体的に見れば、心と体が統一された個人完成、そして夫婦、父母、兄弟、子女の統一を通した家庭完成、さらに拡大して社会、国家、世界が一つになって、愛と平和のあふれる世の中を築こうということです。
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