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Thursday Oct 21, 2021
平和を愛する世界人として 第44話
Thursday Oct 21, 2021
Thursday Oct 21, 2021
天国の礎は平和な家庭
西洋の人たちは、本当に孤独に生きています。子供たちは18歳になれば家を離れ、クリスマスの時などにちょっと顔を見せればそれで終わりです。両親を訪ねていって安否を気遣うこともあまりありません。結婚すれば完全に独立して暮らし、一人で生活できないくらい年を取ると療養所に行きます。そんな状況なので、西洋の老人は東洋の文化を羨ましく思っています。「東洋の人たちは、お祖父さんとお祖母さんを一家の長として敬い、一緒に暮らすので、本当に見ていていいですね。子供たちが年老いた両親を養い……。それでこそ人として生き甲斐があるというものです。療養所で横になって、子供の顔も見ることができずに、歳月が過ぎていくのも分からないまま生き長らえて、何をするというのですか」と嘆く老人が一人や二人ではありません。
ところが、西洋の老人がそれほど羨む東洋的な家庭観がだんだんと崩れていっています。いつからか始まった西洋ブームのために、数千年続いてきた私たちの伝統を自ら投げ捨てたのです。私たちの服を捨て、私たちの食べ物を捨て、私たちの家庭を捨てました。年末になると、隣人助け合い運動の放送番組では、毎年増えていく独り暮らしの老人の人数が発表されます。そのようなニュースを見るたびに、残念な気持ちを抑えることができません。家庭は家族が一緒に集まって暮らす所です。家庭がばらばらに別れて一人になってしまえば、それはすでに家族ではありません。大家族制度は韓国の美しい文化です。
私は、三代が一緒に暮らす家庭を勧めています。韓国の伝統を守るためだけではありません。夫婦が結婚して貴い子供を生めば、親は子供にすべての物を譲りますが、譲れるものには限界があります。父母は現在を、子供は未来を象徴します。祖父母は過去の歴史を代表します。したがって、祖父母と父母と子供が一緒に暮らしてこそ、子供は過去と現在の両方の運勢をすべて譲り受けることができるのです。祖父母を愛し、尊敬することは、過去の歴史を受け継いで、過去の世界を学ぶことです。子供は父母から現在を生きる貴い知恵を学び、父母は子供を愛して未来に備えるのです。
お祖父さんは神様の代身の立場です。いくら賢い青年でも、広い世の中の秘密をすべて知ることはできません。人が年を取って自然に悟るようになるあらゆる人生の秘密を、若い人はまだ知りません。お祖父さんが家庭の歴史になる理由がまさにここにあります。お祖父さんは、長きにわたって自ら体験して悟った知恵を、孫に伝達する貴い師です。
世の中で最も年を取ったお祖父さんはまさしく神様の立場です。ですから、お祖父さんの愛を受け、またお祖父さんのために生きる人生は、神の愛を悟って、神のために生きる人生ということができます。このような伝統を守ってこそ、神の国の秘密倉庫の扉を開けて、愛の宝を受け取ることができるのです。年を取った人を無視することは、その国の国民性を捨てることであり、民族の根を無視することと同じです。
秋になれば、栗の木はだんだんと水分がなくなり、葉が落ちます。栗の毬も殻が剥がれ、栗の実を包んだ内皮も乾いてしまいます。これがほかでもない生命の循環です。人もこれと同じで、赤ん坊として生まれ、父母の愛を受けて育ち、良い配偶者と出会って結婚します。これらすべてが愛によってなされる生命の輪です。そして年を取れば、乾いた栗の毬のようになっていきます。私たち全員が同じです。老人は他にいるのではなく、年を取れば私たち全員が老人になります。それを考えたら、いくらもうろくした老人だとしても、いい加減に接してはいけません。
「家和して万事成る」という言葉を覚えておくべきです。家庭が平和であれば、すべてのことがうまくいくという意味です。平和な家庭は天国の基礎であり、家庭の原動力は愛です。家庭を愛するように宇宙を愛すれば、どこへ行っても歓迎されるようになります。神様は、宇宙全体の父母として愛の真ん中にいらっしゃるのです。したがって、愛にあふれた家庭は、神様にまで一瀉千里で通じるようになります。家庭が愛によって完成してこそ宇宙が完成するのです。

Thursday Oct 21, 2021
平和を愛する世界人として 第43話
Thursday Oct 21, 2021
Thursday Oct 21, 2021
愛は与えて忘れなさい
家庭は、神様が創造した最高の組織です。また、人類が互いに愛し、平和に暮らすことを学ぶ愛の学校であり、世の中に平和の王宮を建てるための訓練道場です。為に生きる夫と為に生きる妻として、そして永遠の愛の道を行くための夫婦として、その責任を学ぶところです。家庭は世界平和のためのベースキャンプなので、息子・娘が「お父さんとお母さんが喧嘩する姿を、生涯一度も見たことがない」と言うようにならなければなりません。
人生を歩んでいけば、ありとあらゆることをすべて経験するようになるものです。いくら仲の良い夫婦でも、一緒に暮らしていれば、互いに小言も言い、怒鳴ることもありますが、子供たちが入ってきたら、ぴたっと止めなければなりません。いくら腹の立つことがあっても、子供たちに接するときだけは、穏やかにしなければなりません。子供たちが、「わが家はとても和気藹々としていて、お父さんとお母さんは本当に仲が良い」と思って育つようにしなければならないのです。
父母は、子供たちにとって第二の神様です。「神様が好きか? お父さんとお母さんが好きか?」と尋ねて、「お父さんとお母さんが好きです」と答えたら、それはすなわち「神様も好きだ」という意味です。教育の最も大事な部分を担っているのが家庭です。幸福も平和も、家庭の外にはありません。家庭こそが天国です。いくら莫大なお金と名誉を持ち、世界をすべて手に入れたとしても、健全な家庭を築くことができなければ、その人は不幸です。家庭は天国の出発点だからです。夫婦が真実の愛で結ばれ、理想的な家庭が築かれたら、宇宙と直接連結されます。
ダンベリー刑務所にいたとき、面白い光景を見ました。テニスコートを造るために、毎日坂道をブルドーザーでならす作業をしていました。雨が降り出すと作業を止め、晴れの日になるとまた作業を始めるということの繰り返しで、これが数ヵ月続きました。しばらくの間、雨ばかりで仕事ができず、ようやく20日目になって、再び作業するために出て行った日のことです。水草のある所に水鳥が巣を作っていました。囚人たちの運動用の歩道から数メートルも離れていない所でした。
最初は、水鳥がいることも知りませんでした。完璧といってよいほどの保護色で、水鳥の羽毛が水草そっくりに見えました。卵を産んで、初めてそこにいることが分かったのです。水鳥はしっかりしゃがみ込んだまま、黒い砂利石のような卵を抱えていました。雛が卵を割って出てくると、母鳥が餌を取ってきて雛たちの口の中に入れていました。ところが、餌をくわえてきた母鳥は、雛がいる巣まで絶対に一度で飛んでいきません。巣から少し離れた所に降り、、そこから歩いて雛のいる所に近づいていきます。それも、毎回、違う方向から歩いていきます。雛がいる巣の位置を誰にも知られないようにする母鳥の知恵でした。
水鳥の雛たちは、母鳥が取ってきてくれる餌を食べてすくすくと育ちました。囚人たちが散歩をしていて巣のそばに近づくと、母鳥が飛んできて彼らを鋭いくちばしでつつきます。もしや自分の雛が傷つけられるのではないかと警戒するのです。
水鳥も父母の真の愛を知っていました。真の愛とは、自分の命までも捨てることができるものです。そこにはいかなる計算もありません。母鳥が命を捨ててまで雛を守ろうとするその心は、真の愛そのものです。父母はいくらつらくても愛の道を行きます。愛の前に自分の命を投げ出していくのが父母の心であり、真の愛です。
愛の本質とは何でしょうか。愛の本質とは、人に何かをしてもらおうとする思いを捨てて、人のために、全体のために先に与えて、為に生きることです。与えても、与えたという事実そのものを忘れてしまい、絶えず与えるのが愛です。それは、喜んで与える愛です。母親が子供を胸に抱いてお乳を与えるときに感じる喜びの心情がまさにそれです。
父母は、愛する子供のために骨身を削って苦労しながらも、疲れを知りません。それくらい子供を愛するからです。本当の愛は神様から始まり、また愛は父母から来るのです。ですから、父母が「おまえたちが互いに喜ぶのは、父母の恩徳によるものだ」と言えば、子供たちは「お父さんとお母さんが私をこのように育て、このような伴侶と出会わせてくれなければ、大変なことになるところでした」と答えなければならないのです。
家庭は愛の包みだと言うこともできます。天国に行ってその包みをほどいてみれば、その中から良いお父さんとお母さんが飛び出してきます。美しい子供たちが飛び出してきます。慈愛に満ちたお祖父さんとお祖母さんが飛び出してきます。一人一人が愛の包みに包まれている所が家庭です。家庭は神の理想が実現する空間であり、神がなさることの完成した姿を見ることのできる場所です。神の御旨は、愛が実現する世界をつくることであり、家庭は神の愛が満ちあふれた所です。
家族とは、言葉にしただけで自然と口元から笑みがこぼれる存在です。家庭には、心から私のためにしてくれる真の愛が満ちあふれているからです。真の愛は、愛を与え、そして愛を与えたことさえ忘れてしまうものです。父母が子供のために生きる愛、祖父母が孫に与える愛が真の愛です。国のために命を捧げることもまた、真の愛です。

Thursday Oct 21, 2021
平和を愛する世界人として 第42話
Thursday Oct 21, 2021
Thursday Oct 21, 2021
夫婦が必ず守らなければならない約束
結婚した後には必ず守るべきことがあり、私は結婚する夫婦に必ず次のことを誓わせます。第一に、夫婦がお互いに信頼し愛すること、第二に、お互いの心を傷つけないこと、第三に、二世や三世の子供たちに純潔を守るように教えること、第四に、真の理想家庭を築くためにすべての家庭が互いに激励し援助すること、等々です。婚前の純潔を守ることと結婚後に貞節を守ることは、男女を問わずとても大事です。人間らしく、正しく生きるために、また健全な家庭を守るために、私は必ずこれを教えます。
結婚とは、ただ単なる男女の出会いではありません。それは神の創造の偉業を受け継いでいく貴重な儀式です。結婚は、男性と女性が一つになり、生命を創造して真の愛を求めていく道です。結婚を通して新しい歴史が生まれます。結婚した家庭を中心に社会が形成され、国家が建設され、神の願う平和世界が築かれていきます。つまり、この世の中で神の国、、天国が広がる起点となるところが家庭なのです。
ですから、夫婦は平和の中心にならなければなりません。夫婦は仲良くしなければならないし、そればかりでなく舅や姑、そして親戚に至るまで、その夫婦によって平和が生まれてこなければなりません。二人だけが愛して幸せに暮らすのではなくて、その家の家族全員がお互いに愛して暮らさなければなりません。
私は結婚した夫婦に「無条件に子供をたくさん生みなさい」と言っています。子供をたくさん生んで育てることは神の祝福です。神が下さった貴い命を、人間の物差しで測ってむやみに堕胎するようなことはあってはならないことです。この世に生を享けたあらゆる命にそれぞれ神の御旨があるからです。命はすべて貴いのですから、しっかりと受け入れて守ってやらなければなりません。
結婚した夫婦がお互いを信頼して愛を積み上げていくのは当然のことです。私が夫婦に最も大切なこととして誓わせているのは第三の約束です。
「子供たちに純潔を守るように教えること」
真に当然なこの約束が、最近の世の中ではあまりにも守るのが難しくなってしまいました。しかし、世の中が悪くなればなるほど、より徹底して守らなければならないのが純潔です。
人間も世界平和も、家庭を通して初めて完成するのです。そして、すべての人間を善なる人間にし、理想的な平和世界をつくっていくことが宗教の目的です。平和は政治家が額を集めて相談したからといってできるものではありませんし、強大な軍事力があるから平和になるともいえません。世界平和が訪れてくる出発点は、政治でも軍事でもなく家庭です。
ところで、家庭生活において最も大変なのが息子・娘をきちんと育てることです。親は愛で子供を生み育てますが、子供は父母の思いどおりには生きてくれません。加えて、現代の物質文明は青少年の純粋な心を破壊しています。美しく育つべき青少年が麻薬に溺れ、幻覚を見ながら生きています。幻覚は正気を失わせ、正気を失った子供たちは、結局、犯罪と堕落の沼地にはまっています。
思い起こすと、1971年のアメリカは、フリーセックスの嵐が吹き荒れて、社会が言葉にならないほど混乱していました。道端には、髪を伸ばし麻薬に酔ってぐったりしているヒッピーがあふれていました。立派な教育を受けたはずの健康な青年が、そうやって一人、二人と駄目になっていきました。性的な堕落が甚だしく、1年に800万人の性病患者が出たそうです。
ところが、真の深刻な問題は、政治や学者、牧師らの社会のリーダーとなるべき人たちが、その事実を知っていながら、見て見ぬふりをして問題を覆い隠そうとあくせくしていたことです。彼らが現実から目を背けようとしたのは、自分たちが純潔ではなかったからです。自分たちが純潔を守れないのに、子供のたちにそれを守れと教育することはできません。
大人たちの不倫と性道徳の乱れは、家庭を破壊し、子供たちを駄目にしてしまいます。不倫と乱れた私生活は、子供たちの心に致命的なダメージを与えます。現代社会の人々が物質的な豊かさほどには幸福を享受し得ていないのは、元を正せば家庭が崩壊しているからです。家庭を救うためには、まず大人たちが襟を正してきちんと生きることです。子供を純潔に育てるのはその次の問題です。
母親とは、家庭を守る砦のような存在です。母親の犠牲と奉仕があってこそ健全な家庭、平和な家庭が正しく立つことができます。世の中がいくら変わろうともその基本は変わりません。美しい子供はそういう家庭から育ってきます。横に歩くカニが、自分の子供に向かって真っすぐ歩けと言うのは理屈に合わない話です。子供は家庭で親の姿を見て学ぶのであって、子供の教育にはそれが一番大事です。父母が正しい手本を見せなければなりません。真の家庭から真の子女が出てくるのです。真理は常に最も単純です。
子供たちを育てていく中で、最も難しい時期が思春期です。思春期の子供たちは皆、王子様であり王女様です。思春期はあらゆることを自己中心に考える時期なので、父母の言葉に無条件に反発するものです。そういう時こそ彼らを理解してやらなければ、うっかりするととても悪い道にはまり込んでしまいます。反対に、いくら些細なことでも、自分と心が通じると思えばとてもうれしくなります。秋の日、葉っぱがすっかり落ちた柿の木から、熟した柿がぽとっと落ちるのを見ただけでも、うれしくて笑います。何だか分からないのですが、自分の心に届くものがあるので喜ぶのです。なぜそうなるのかと言えば、神が人間をそのように創造したからです。神から創造された人間の本性がそうなっています。
思春期に愛の感情に包まれてしまうと、世の中を見る目が曇って判断力を失ってしまいかねません。思春期の少女と少年が会って話をすれば、胸が高鳴りますが、そのようなとき、その心を神の基準に合わせなければ必ず悪の世界に染まるようになります。体(肉欲)を制御する手段がなくなってしまうからです。心の目と体の目が一つになって動きます。愛の鼻を持てば、それまで嫌っていたにおいも好きになり、愛の口を持てば、それまで嫌っていた味も好きになります。夜通し愛の話を聞きたくなるし、愛する人にはしきりに触れてみたいと思うようになります。
思春期になると、心と体の細胞はすべての門を開こうとし、愛を喜んで迎え入れたくなります。愛には幸福感が伴いますが、だからといって、「しめた!」とばかりに無条件にその門に駆け込むと、大変なことになってしまいます。まだ門を開いてはならないのです。門を開くには時を待たなければなりません。時が来て初めて愛の門を開くことができます。時を知り、愛と性を正しく用いることを知るべきです。父母は、思春期の子供たちにこのようなことを正確に教えなければなりません。愛は神に似ていく過程であって、世の中で蔓延しているような自分勝手に楽しむものではありません。

Tuesday Oct 19, 2021
平和を愛する世界人として 第41話
Tuesday Oct 19, 2021
Tuesday Oct 19, 2021
この上なく善良で貴いあなた
結婚してから、私は妻と約束をしました。
「いくら憤懣やるかたないことがあっても、信徒たちに『先生夫婦が喧嘩した』と思わせないようにしよう。これから子供を何人生んでも、父母が喧嘩したところを見せないようにしよう。子供たちは神様だからね。子供たちはとても小さな愛の神様だ。だから、子供たちが『お母さん!』と呼ぶときは、無条件に笑って『どうしたの?』と答えなければいけない」
7年間、そのように容赦のない訓練を受けた後、妻は初めて母らしくなりました。教会の中で、妻をめぐってなんだかんだと言っていた陰口は姿を消し、家庭にも安らかな幸福が訪れてきました。妻は14人の子供を生みましたが、世界中を講演して回る私と一緒に家を離れているときは、毎日、子供たちに手紙やはがきを書いて送るのを欠かさないほど、子供たちを愛で包んで育てました。
21年間に14人の子供を生んで育てたのですから、言うに言えない苦労があったはずですが、その素振りさえ見せませんでした。出産を控えた妻を置いて、私が海外に行ってしまったことも一度や二度ではありません。信徒たちが送ってくる手紙で、妻の生活が大変で栄養状態が心配だという内容を読んでも、どうすることもできない日もありました。それでも妻は、一度もつらいと不平を言ったことがありません。今も済まないと思うのは、一日に二、三時間しか眠らない夫に合わせるために、つまもこれまで毎日二、三時間しか眠ることができなかったことです。
妻は自分の結婚記念の指輪まで人にあげてしまうほど情け深い女性です。ぼろを着た人を見れば服を買ってあげ、あなかを空かせた人に会えばご飯を振る舞いました。家にプレゼントが届いても、開けずにそのまま人にあげてしまうこともしばしばでした。ある時、オランダを巡回している途中、ダイヤモンドの加工工場に寄る機会があり、それまで苦労をかけてきたお詫びの印に、妻にダイヤモンドの指輪を買ったことがあります。お金が少なくて大きなものは買えませんでしたが、私が見て良いと思うものを一大決心して買いました。しかし、その指輪さえ人にあげてしまいました。私が妻の指に何もないのを見て、「指輪はどこに行ったのか?」と聞くと、「どこに行くも何も、流れていきましたよ」と言うのです。
いつだったか、黙って大きな風呂敷を出して、服を包んでいる妻を見つけて、理由を尋ねました。
「それをどうするのか?」
「使うところがあります」
詳しい話はせずに風呂敷をいくつか包んでいました。後で知ったところによると、妻は国外に出ている宣教師たちに送ろうとしていたのです。「これはモンゴル行き、これはアフリカ行き、これはパラグアイ行き……」と、ふふふと笑う妻の心が本当に美しく感じられました。今でも、海外に出ている宣教師たちをあれこれと世話するのは妻の役目です。
妻は1979年に「国際救護親善財団(IRFF)」を作り、今もアフリカのコンゴ(旧ザイール)、セネガル、コートジボワールなどの国々を回って奉仕活動をしています。貧しい子供たちに食べ物を分け与え、体の具合の悪い人には医療品を、ぼろを着た人には衣服を届けます。韓国でも1994年に「愛苑銀行」を作りました。孤児救済と無料食堂の運営、北朝鮮同胞救済などの活動を行っています。また妻は、以前から女性団体の仕事もしています。妻が責任を持つ「世界平和女性連合」は世界80カ国に支部を置く団体であり、国連にも登録されたNGO(非政府組織)です。
人類の歴史において、女性はいつも抑圧される立場にいました。しかし、これから訪れる世界は、女性の母性と愛、親和力が土台となった和解と平和の世界です。女性の力が世界を救う時代が到来するのです。
しかし、今日の女性団体は、不忠義にも男性に反対することが女性のパワーを示すことだと言わんばかりに、男性を目の敵にして敵対しようとばかりします。妻が責任を持って運営する女性団体では、宗教に基礎を置いて、愛で平和世界を開いていく運動を展開しています。家庭を壊して飛び出してくる女性解放ではなく、真の家庭を守り、愛を実践する女性運動です。「女性はまず孝の心を持つ真の娘として育ち、結婚して貞節と献身で夫を支える妻となり、子供を正しく育てて社会のために奉仕する指導者となるように導く」ーーそうした女性を社会に送り出すことが妻の夢なのです。妻が率いる女性運動は、真の家庭を作るためのものです。
私が公的な仕事で忙しい時期に、私の子供たちは一年の半分近くを父も母もいない中で生活しなければなりませんでした。子供たちは、両親のいない家で信徒たちと共同体を作って暮らします。家の中はいつも信徒たちでいっぱいでした。また、わが家の食卓はいつもお客さんが優先で、子供たちは後回しでした。このような環境のために、子供たちは普通の家庭の子供であれば感じないような孤独を嫌というほど感じて育ちました。しかし、それよりもっと厳しい困難は、父親のことで受けなければならない苦痛でした。どこに行っても「異端の教祖、文鮮明」の息子・娘として指をさされたのです。それぞれあてどなく彷徨う時期を経験しましたが、子供たちはいつも元の位置に戻ってきてくれました。親として注意深く面倒を見てやることもできなかったのですが、今ではハーバード大学の卒業生が5人もいるのですから、これ以上ありがたいことはありません。今、子供たちは、私の仕事を助けてくれるほど皆成長しました。しかし、私は依然として厳格な父です。今も変わらず、父である私以上にもっとよく天に仕え、人類のために生きる人とならなければならないと教えています。
大抵のことには動じない妻でしたが、2番目の息子、興進の死に直面した時は、大変な悲しみを乗り越えなければなりませんでした。1983年12月のことです。私は妻と共に全羅南道光州で開かれた勝共決起大会に臨んでいました。興進が交通事故に遭って病院に運ばれたという国際電話を受けましたが、2日間の公式日程が残っていたため、すぐに渡米することはできませんでした。公式行事の全日程を終えた後、ニューヨークに急行しましたが、病室に横たわった興進はすでに意識がありませんでした。
坂道を加速しながら下ってきたトラックが急ブレーキを踏んで、横滑りして起きた事故でした。興進の車には親友二人が一緒に乗っていました。自分の命が危ない緊迫した状況の中での、興進は急いでハンドルを右側に切り、自分の座る運転席がトラックとぶつかるようにして、助手席と後部座席に座った友人たちの命を救いました。事故現場の坂道に行ってみると、道路には、右側に急ハンドルを切ったタイヤの黒い跡がそのまま残っていました。
結局、興進は、年を越えた1984年1月2日の早朝、天の国へと旅立ちました。ちょうど一月前に17歳の誕生日を迎えたばかりでした。育てた子供を先に送り出す妻の悲しみは筆舌に尽くしがたいものでしたが、声を出して泣くどころか涙さえ流すことができませんでした。私たちは霊魂の世界を知っています。人の霊魂は命を失ったからといって埃のように消えてしまうのではなく、霊魂の世界に行きます。しかし、愛する子供ともはやこの世で会うことも触れることもできないということは、親として耐えがたい苦痛です。思いどおりに泣くこともできなかった妻は、興進を乗せた霊柩車を何度も撫でていました。
このように大きな苦痛を経験するたびに心に衝撃を受けたはずですが、妻はよく乗り越えてくれました。いくら困難で大変な状況の中でも、妻は穏やかな笑顔を忘れずに人生の峠を越えてきました。信徒たちが子供の問題で妻に相談に来ると、妻は笑顔で答えます。
「待ってあげましょう。子供たちが道に迷うのは一時のことで、いつかは過ぎ去ります。子供たちが何をしても、絶えず抱き締めるような気持ちで愛してあげながら、あとは待ちましょう。子供たちは必ず両親の愛の懐の中に戻ってきます」
私は生涯、妻に大声を出したことがありません。私の性格がもともとそうだからではなく、妻が大声を出させるようなことをしたことがないからです。私の理髪もこれまでずっと妻がやってくれました。妻の理髪の腕は世界最高です。最近は、私も随分と年を取ったせいで、妻に頼ることが多くなりました。「足の爪を切ってほしい」と言えば、妻はさっと切ってくれます。足の爪は問題なく私の足の爪ですが、私の目にはよく見えず、妻の目のほうがよく見えるのですから、不思議なものです。年を取るほど、そのような妻がますます貴くなります。

Tuesday Oct 19, 2021
平和を愛する世界人として 第40話
Tuesday Oct 19, 2021
Tuesday Oct 19, 2021
第五章 真の家庭が真の人間を完成する :
私の妻、韓鶴子
私が妻に初めて会ったとき、、妻は小学校を卒業したばかりの13歳の少女でした。教会に来るときも帰るときも、いつも同じ道を通り、一度も大声を出したことのないおとなしい少女でした。ある日、信徒の洪順愛女史がその娘と一緒に挨拶に来ました。
「何という名前か?」と聞くと、「はい、韓鶴子といいます」と、はきはきと答えました。ところがその瞬間、私は思わず「韓鶴子が大韓民国に生まれたのだなあ!」と3度も繰り返し、「神様! 韓鶴子という立派な女性を韓国に送ってくださったのですね。ありがとうございます」と祈りました。それから彼女を見つめて言いました。
「韓鶴子、これからたくさん犠牲にならなければならないのだなあ」
彼女を見た瞬間、これらすべての言葉が自然と飛び出してきました。後日、洪順愛女史は、その日の私がなぜ自分の娘を見て3度も同じことを繰り返したのか、本当に不思議に思ったといいます。妻は、その日の短い出会いをよく覚えていました。私が独り言のように漏らした言葉も、すべて忘れずに胸の中にしまっていました。自分の将来のことで大きな啓示を受けたような気がして、忘れられなかったそうです。
妻の母、洪順愛女史は、篤実な長老教会の家系に生まれ、キリスト教信仰に育まれて成長しました。故郷は私と同じ定州でしたが、実際に暮らしたのは安州(平安南道)です。朝鮮戦争のときに南に下ってきたそうです。私たちの教会の信徒になってからは、春川(江原道)で献身的な信仰生活を送り、娘をとても厳しく育てました。妻が通った看護専門学校はカトリックが運営する学校でした。規律が非常に厳格で、まるで修道女のような生活だったそうです。おとなしい性格の妻は、真の信仰を懸命に求め歩いた母の元で、家と学校を行き来しながら大きくなりました。学校を除けば、私たちの教会に来ることが彼女にとって唯一の外出でした。
当時、40歳を目前にした私は、結婚する時が近づいていると直感していました。神様が「時が来たので結婚しなさい」と命じれば、そのとおりに従うだけでした。1959年10月から、池承道ハルモニ(お婆さん)が中心となって、新婦も決まっていないうちから私の婚約準備が始まりました。誰になるか分からない妻のために7年間も祈禱していたある信徒は、「先生、私は夢の中で韓鶴子嬢が先生の新婦になるのを見ました」と言いました。池承道ハルモニは、「ああ、これは何の夢でしょう。夢の中に数十羽の鶴が現れて、手で追い払ってもしきりに飛んできて、先生を白く覆うのです。これは何かの兆候でしょうか」と夢の話をしました。
すると今度は妻の夢に私が現れて、「その日が近づいてきたので準備しなさい」と語ったというのです。夢の中で妻は、「今まで私の天の御旨どおりに生きてきました。これからも神様の御旨が何であれ、神様の僕として従います」と従順に答えたそうです。
妻が私の夢を見た数日後、私は洪順愛女史に娘を連れて来るように言いました。13歳の少女の時に挨拶を受けて以来、公式的には初めて会う場でした。私は妻に絵を描いてみなさいと言いました。彼女は躊躇なく鉛筆をさっと動かし、描いたものを私の前に広げてみせました。とても良く描けていると思って妻の顔を見ると、恥ずかしがるその姿が本当に美しく、絵に負けないくらい心も立派でした。その日、私は妻にとても多くの質問をしました。そのたびに妻は、戸惑うこともなくはきはきと答えました。
数日後、私は再び妻を呼びました。呼ばれた理由が分からないまま私の前に立った彼女に、「あすの朝、結婚式をする」と言うと、「そうですか」と言って、それ以上何も聞かず、反対もしませんでした。反対というものを知らない女性のようでした。そのような純粋でおとなしかったのですが、神の御旨に対しては固く決心した人でした。
1960年3月27日、私たちは約婚し、それから半月も経たない4月21日に結婚式を挙げました。私は紗帽を、妻はチョクトゥリを被りました(紗帽とチョクトゥリは伝統的な正装用の帽子と冠)。23歳も年下の新婦のきりっと結んだ口元と清楚な顔が端正に見えました。
「私との結婚が、普通の結婚とは違うことをよく知っているだろう。私たちが夫婦の因縁を結んだのは、神様から受けた使命を果たし、真の父母になるためであって、世の中の人たちのように男女の間の幸福のためではない。神様は真の家庭を通して天国をこの世に広げたいと願われている。私たちはこれから、天国の門を開く真の父母になるための厳しい道を行かなければならない。歴史が始まってからこの方、その道を行った者は誰もいないから、私たちの行くべき道がいかなるものか、私にも分からない。したがって、これから7年間、あなたにとってはとても耐えがたいことがたくさんあるだろう。私たちの行く道は他の人とは全く違うということを片時も忘れず、たとえ小さなことでも私と相談した後に行い、私が言うことにはすべて従順に従ってこなければならない」
「すでに覚悟しておりますので、何も心配なさらないでください」
妻の表情には固い意志が見えました。妻は、結婚した翌日から耐えがたい日々を送らなければなりませんでした。最初に訪れた困難は、実家の母親に会えないことでした。妻の家系は3代続けて母一人で子供を育ててきたので、母親と娘の関係がひときわ親密だったのですが、私は妻の母に「娘に会いに訪ねてこないでください。これから3年間は私の前にも姿を見せないでください」と何度も繰り返し伝えました。妻には、母親だけでなく、親戚との関係もすべて断つように言いました。教会の母である人が、親戚とひそひそ話をしたり、私的なことに気持ちが奪われたりしたら、自分の責任を果たすことができないと考えたからです。妻の心の中には、ひとえに天だけがいなければならなかったのです。
私は3年間、妻を信徒の家に間借りさせました。また、教会には1日に1度しか来られないようにしました。それも、夜に来て、来るときは正門から入っても出るときは裏門から静かに出て行くように言いました。その上、私は夜通し礼拝をしたり祈禱を捧げたりするので、頻繁に妻の元に行くことができません。その間も、私をめぐるおかしな噂は途切れなく続いたので、年若い妻が耐え抜くのは容易なことではありませんでした。
結婚した頃は、すでに全国に120ヵ所以上の教会の基礎を築いて、かなり有名になっている時でした。教会の中でさえ私の結婚をめぐってさまざまな声があり、妻をねたみ、怨んで、あらゆることを言って騒ぎ立てました。
しかし、私が妻を間借りさせただけでなく、どこへ行くにも妻の代わりにお婆さんたちを連れて回るので、妻に対してああだこうだと言っていた声は次第に消えていきました。最初の娘が生まれた頃、産後の関節痛にかかって、暖房もない部屋でぶるぶると震えていても、夫の私が顔も出さないので、どうしてそんなに冷たい仕打ちができるのかと、かえって妻をかばって心配する人が増えました。
「先生もあんまりだ。結婚したのなら夫人と一緒に暮らすべきなのに、あれは何だ。顔を見る暇もないとは」
こうして、妻の悪口を言っていた人たちがかえって妻に同情し、一人、二人と妻の味方になっていきました。
妻は若くして本当にたくさんの訓練を受けました。私と一緒に暮らす間、一時も自由にできませんでした。いつも神経を尖らせて、薄い氷の上を歩くように、「きょうは何事もないだろうか、あすは何事もないだろうか」とやきもきしながら暮らさなければなりませんでした。一言言葉を間違えただけで私から咎められることもしばしばでした。うれしくて「うれしい」と言っても難癖を付けられ、私の後ろをちょろちょろ付いてきては小言を言われました。真の母になるためには仕方のないことでしたが、妻の心の中の悲しみはさぞや大きかったことでしょう。
私はただ一言投げかけるだけですが、妻は私の一言一言に合わせて生きなければなりませんでした。その苦労たるや言葉で言い表せないものがあったにちがいありません。そうやってお互いに合わせていくのに7年もの期間が必要でした。結婚生活で最も大切なことは信仰で一つになることだという事実を、その時に再び悟りました。

Saturday Oct 16, 2021
平和を愛する世界人として 第39話
Saturday Oct 16, 2021
Saturday Oct 16, 2021
「なぜ父が刑務所に行かなければならないのですか?」
ダンベリー刑務所でも、「為に生きる」という私の原則は何も変わりません。朝早く起き、汚れた場所をきれいに掃除しました。食堂に行っても、他の囚人は、テーブルに鼻をつけて寝ていたり、世間話をしていたりするのですが、私は必ず背筋を伸ばして順番を待ちました。与えられた仕事は他の人よりずっと多くやって、周りの人の世話をしました。余った時間には私自身の説教集を読みました。夜でも昼でも説教集を読んでいるので、ある囚人が「それがおまえの聖書か。おれの聖書はこれだが、一度見てみるか?」と雑誌を放り投げてきました。「ハスラー」というポルノ雑誌でした。
ダンベリー刑務所の中で、私は「黙って働く人」「本を読む人」「瞑想する人」と呼ばれました。そうやって3ヵ月が経つと、監獄の中の囚人や看守とも親しくなりました。麻薬で捕まった人とも親しくなり、ポルノ雑誌を自分の聖書だと言っていた囚人とも親しくなりました。さらに一月、二月が過ぎると、今度は、収監されていた囚人たちが、自分がもらった差し入れを私に分けてくれるようになりました。彼らと気持ちが通じるようになると、監獄の中に春の日が差してきたかのようでした。
監獄に行くのは悪いことばかりではないと私は思います。涙の谷間で泣く人を悔い改めに導くには、まず私が涙を流さなければなりません。私がそれ以上の悲しみを持たなければ、その人の心を開かせ、み言を受け入れさせることはできないでしょう。天の摂理は本当に奥妙です。私が監獄に閉じ込められてみると、意外にも、「宗教の自由」を侵害してきたアメリカ政府に対して憤りを露わにした聖職者7000人以上が、私を救い出すために立ち上がりました。その中には、アメリカのキリスト教保守派を代表する南部バプテスト教会ジェリー・ファウエル牧師や、オバマ大統領の就任式の際に祝禱を捧げた革新系のジョセフ・ローリー牧師(当時は南部キリスト教指導者会議議長)もいました。二人は救出運動の先頭に立ちました。娘の仁進(当時19歳)も、彼らを腕を組んで一緒に行進しました。7000人以上の聖職者の前で、涙して書いた手紙を読み上げることもしました。
「皆さん、こんにちは。私は文鮮明牧師の次女文仁進です。1984年7月20日は、世界の終末が私たち家庭に訪れてきたかのようでした。この日、父は刑務所に入っていきました。このようなことが父の身に起きるとは夢にも思いませんでした。それも神が祝福した自由の地であり、父がとても愛し、奉仕してきたアメリカの地で起きたのです。父は、アメリカに来てとても熱心に活動しました。私は、父が眠っている姿を一度も見たことがありません。常に早朝に起きて祈り、活動しています。私は、アメリカの将来と神のために、父ほど献身的に活動する人を見たことがありません。ところが、アメリカは父をダンベリー刑務所に投獄してしまいました。父がなぜ刑務所に行かなければならないのですか? 父の自分の苦痛は意に介さない人です。神の御旨を実践してきた父の人生には、涙と苦難が点在しています。今、父の年齢は64です。父にはアメリカを愛した罪しかありません。しかし、父は今この瞬間にも、刑務所の食堂で皿を洗ったり、床を磨いたりしています。先週、私は、囚人服を着た父と初めて面会しました。私は声を上げて泣きました。父は『私のために泣かないで、アメリカのために祈りなさい』と私を諭してくれました。全世界数百万の教会員に語った話も私にもそのまましてくれました。『おまえの怒りと悲しみを、この国を本当に自由な国にすることのできる強い力に変えなさい』。父は刑務所の中で、いかなる苦労もし、いかなる苦痛にも耐え、いかなる十字架も喜んで背負うと話しました。『宗教の自由』はあらゆる自由の基礎です。『宗教の自由』を守るため父を支持してくださった皆さんに、心から感謝申し上げます」
私は模範囚として設定され、6ヵ月減刑されて、13ヵ月後に出監しました。刑務所の門を出ていった日の夜、ワシントンDCで出監歓迎晩餐会が開かれました。ユダヤ教のラビやキリスト教の牧師ら宗教指導者が1700人も集まって、私を待っていました。私はそこで再び「超宗教・超宗派」を主張しました。誰の目も気にすることなく、大きな声で世の中に向かって叫びました。
「神は宗派主義者でも教派主義者でもありません。教理の枝葉末節にとらわれる神ではないのです。神の父母としての心情、そして大いなる愛の心には、民族と人種の区分がありません。国家や文化伝統の壁もありません。神は今日も、万民を同じ息子・娘として抱くために努力しておられます。今、アメリカは、人種問題、価値観の混乱と社会や倫理・道徳の退廃問題、霊的枯渇とキリスト教信仰の衰退問題、無神論に立脚した共産主義問題など、深刻な病弊を抱えています。私が神の召命を受けてこの国に来た理由はここにあります。今日のキリスト教は、大きく覚醒し一つに団結しなければなりません。イエス様が来られて『悔い改めよ』と叫ばれたその時の情景が、2000年を経た今、この地上に繰り返されています。私たちは、神がアメリカに命じた重大な使命を果たさなければなりません。このままでは絶対にいけません。新しい宗教改革が起こらなければならないのです」
獄中生活を終えて出てくると、これ以上私を縛り付けるものがありませんでした。私は以前よりもっと強い声で、堕落したアメリ下に対して警告のメッセージを放ちました。神様に対する愛と道徳性を取り戻すことこそが、この国を再び立ち上がらせることのできる力だと、強く訴えました。
何らの罪もなく刑務所に入りましたが、神の御旨はそこにもありました。私が刑務所に収監中から、私のために救出運動を起こした7000人を超す牧師たちは、代わる代わる釜山のボムネッコルとソウルを訪ねてきました。一体レバレンド・ムーンのどのような精神がアメリカの若たちをかくも引き付けるのか、それを知ろうというのです。彼らは短い訪問期間の中でも、わざわざ時間を割いて私たちの教理を学んで帰りました。私は彼らを中心に「アメリカ聖職者連合会(ACLC)」を組織して、今も宗教と教派の垣根を超える信仰運動と平和運動を展開しています。

Saturday Oct 16, 2021
平和を愛する世界人として 第38話
Saturday Oct 16, 2021
Saturday Oct 16, 2021
「私のために泣かず世界のために泣け」
ワシントン記念塔の集会には、驚いたことにアメリカの既成キリスト教会の牧師たちも信徒を大勢連れてやってき来ました。私の伝えるメッセージが宗教や宗派の別なく若者たちに感動を与えていると判断したのです。私が喉が張り裂けるほど声を大にして叫んだ「超宗教・超宗派」という目標が達成された瞬間でした。ワシントン記念塔の集会は奇跡でした。その日、集まった30万人の群衆の記録は、今も破られていません。
しかし、良いことには必ず悪いことも付いてくるものです。一部の在米ユダヤ人が、私の顔の描かれたポスターに八の字のひげを描き、ヒトラーを思わせるように手を加えました。彼らは私に反ユダヤ主義を意味するアンチ・センティズムのレッテルを貼り、「ユダヤ人を虐待する人物」と印象づけて激しく攻撃してきました。ユダヤ人だけではありませんでした。私に従う若者が急速に増え、原理を学ぼうとする牧師の数が目立って増え始めると、既成キリスト教会も私を迫害し始めました。一方で、伝統的なキリスト教会が集中的に私を圧迫するようになり、他方で、「共産主義の拡散阻止はアメリカの責任である」と説く私の主張に反発した革新系左派勢力が私を牽制し始めたのです。
人気が高まるほど、私をめぐるさまざまな疑惑が提起されました。以前は全く問題にならなかったことが、突然深刻な問題となって私を圧迫しました。保守勢力は、私が革新寄りだとして、私の教える教理が伝統的な価値観を破壊すると主張しました。彼らが私を最も不満に思ったことの一つは、十字架に対する新しい解釈でした。
救世主(メシヤ)として来られたイエス様が十字架に付けられて亡くなったのは、神様の予定された御旨ではありません。イエス様が処刑されることによって、平和世界を築くという神様の計画は頓挫してしまいました。もしその時、イスラエル民族がイエス様をメシヤとして受け入れていれば、東西の文化と宗教が一つになる平和世界ができていたはずです。しかし、イエス様は十字架にかかって亡くなったのであり、神様の人類救済の事業は、結局、イエス様の再臨以降に延長されたのです。このような十字架に対する私の新しい解釈が多くの反対を呼びました。既成キリスト教会はもちろん、ユダヤ人たちまでもが、すべて私を敵として激しく攻め立てたのです。彼らは、私をアメリカから追放しようと、さまざまなことを企てました。
最終的に、またもや私は囚われの身となりました。奈落に沈んだアメリカの道徳性を目覚めさせ、神の御旨にかなう国として復興させることしかしていないのですが、アメリカは私に脱税の罪を着せたのです。年齢が60をとうに超えている時です。
私はアメリカに定着した最初の年に、世界各国から送られた宣教献金をニューヨークの銀行預金しました。アメリカでは、宗教活動に使う基金は宗教指導者の名義で銀行座に入れておくのが伝統的な習慣です。ところが、この銀行口座の預金から発生した3年間の利子所得を、私が所得として申告せず、脱税したと嫌疑をかけて、ニューヨーク連邦検事局は私を起訴しました。結局私は、1984年7月20日、コネティカット州のダンベリー連邦刑務所に収監されました。
ダンベリーに収監される前日、ベルベディア(ニューヨーク州ハドソン河畔にある教団施設)で最後の集会を持ちました。ベルベディアをいっぱいに埋めた信徒たちは、涙を流して私のために祈ってくれました。私に従う数千人の弟子たちが、ベルベディアに詰めかけてきました。私は彼らに向かって声高に叫びました。
「私は潔白です。私は何の過ちも犯していませんが、ダンベリー刑務所の向こうに昇ってくる輝かしい希望の光を見ながら行きます。私のために泣かず、アメリカのために泣いてください。アメリカのために祈ってください」
悲しみにひたる若者たちを前に、私は希望の握り拳をぎゅっと握ってみせました。
刑務所に入る前に私の残した声明文は、宗教者の間に大きな波紋を呼び起こしました。判決に抗議して潔白を訴える運動が起き、私のために力強い祈禱の波が起きました。
私は監獄に入ることを恐れるものではありません。監獄生活には慣れています。しかし、周囲の人たちは、一部のユダヤ人が私の命を狙って何をするか分からないと恐れました。それでも私は堂々と監獄に入っていきました。

Thursday Oct 14, 2021
平和を愛する世界人として 第37話
Thursday Oct 14, 2021
Thursday Oct 14, 2021
夢にも忘れられない1976年、ワシントン記念塔
1976年10月、ニューヨーク・マンハッタンの北側にあるベリータウンに「統一神学大学院(UTS)」を設立しました。教授陣には、ユダヤ教、キリスト教、仏教など、あらゆる宗教の垣根を超えて、各界から優れた人材を迎え入れました。彼らが教壇に立って自分の信じる宗教を教えれば、学生たちは鋭い質問を投げかけます。授業は、毎回白熱した議論の応酬の場となりました。あらゆる宗教が寄り集まって討議することで、間違った偏見はなくなり、学生たちはお互いを理解し始めました。こして、多くの有能な若者が私たちの学校で修士課程を終えて、ハーバード大学やエール大学の博士課程に進学していきました。彼らは今日、世界の宗教界を導く人材になっています。
アメリカ議会は、1974年、75年に私を招請しました。私は上下両院議員の前で「アメリカを中心とした神の御旨」という主題で講演を行いました。
「アメリカは神の祝福によって誕生した国です。しかし、その祝福は、ただアメリカ人のためだけのものではありません。それは、アメリカを通して下された世界のための祝福です。アメリカは祝福の原理を悟り、全世界の人類を救うために自らを犠牲にしなければなりません。そのためには、建国精神に立ち返る一大覚醒運動を起こさなければなりません。数十に分かれたキリスト教を統合し、あらゆる宗教を一つにまとめて、世界文明の歴史に新たな1ページを加えるべきです」
私は、道行く若者に向かって訴えたのと同じことを、アメリカ議員の前で声高に訴えました。その時点で、アメリカ議会から招請を受けて講演した外国の宗教指導者は私しかいませんでした。続けて二度も議会の招請を受けると、韓国から来た「サン・ミョン・ムーン(Sun Myung Moon)」とは一体誰のかと、関心を持つ人がとても増えました。
その翌年の6月1日、ニューヨークのヤンキー・スタジアムで、アメリカ建国200周年を祝う祭典を開きました。当時のアメリカは、建国200周年を祝っていられるほど平穏無事とはいえない状況でした。共産主義の脅威に苦しんでいたのであり、青少年の多くは、麻薬や堕胎など神の願いとはかけ離れた人生を送っていました。私はアメリカ、中でもニューヨークが大きな病にかかっていると考えました。そこで、病に臥したニューヨークの心臓にメスを入れる気持ちで祝典に臨みました。
祝典当日は驚くほどの雨が降り注ぎましたが、開始直前、会場一帯は晴れ、悪天候の苦難を劇的に超えて、大会は成功裏に行われました。まだ雨が降っている時のことです。バンドが「ユー・アー・マイ・サンシャイン(You Are My Sunshine)」を演奏すると、ヤンキー・スタジアムに集まった人々は、全員で声を合わせて一斉に歌い始めました。雨に打たれながら太陽の光の歌を歌うので、口では歌を歌いましたが、目からは涙が出ました。雨水と涙が入り混じる瞬間でした。
私は学校に通っていたとき、ボクシングをやっていました。ボクシングでは、いくらジャブを何回入れても、体力のある選手はびくともしません。しかし、アッパーカットを一発大きく入れれば、どんなに体力のある選手でもぐらつきます。私は、アメリカという大国にアッパーカットを一発大きく入れるつもりでした。今までに成功したどの集会よりもはるかに大きな規模の集会を持ち、アメリカ社会に「サン・ミョン・ムーン」の名前をしっかりと刻み付ける必要があると考えました。
ワシントンDCはアメリカの首都です。アメリカ議会議事堂とリンカーン記念堂を直線で結んだほぼ真ん中にワシントン・モニュメントという記念塔があります。ちょうど削って尖らせた鉛筆を垂直に立てたのと同じ形をしていまうす(高さ169メートル)。その記念塔の下には、リンカーン記念堂まで続く幅広い芝生広場があって、そこはアメリカの心臓部といってよい場所です。私は、そこで大規模な集会を開く計画を立てました。
ワシントン記念塔前の広場でイベントをするためには、アメリカ政府の許可を得なければならず、アメリカ公園警察からも許可を取らなければなりません。しかし、アメリカ政府は、私のことをあまり好ましく思っていませんでした。アメリカ政府が何度も申請書を突き返してきたため、大会当日の40日前になってようやく許可を得ることができました。
信徒たちも、あまりに大きな冒険だとして、誰もが引き留めようとしました。ワシントン記念塔前広場は、都心の真ん中に位置し、がらんとした、辺り一帯に何もない公園です。それも、木が生い茂って垣根になっている所ではなく、ただの青い芝生の広場です。ですから、もし人が集まらなければ、四方八方からその閑散とした様子があからさまになってしまいます。広い芝生の広場をぎっしりいっぱいにしようとすれば、数十万の人波が押し寄せてこなければならないのですが、果たしてそれが可能かということです。その時まで、ワシントン記念塔で大きな行事を行った人物は二人しかいませんでした。公民権運動の一環で「ワシントン大行進」を行ったマーティン・ルーサー・キング牧師と、大規模な宗教集会を開いたビリー・グラハム牧師です。そのような場所で大会を開こうと、私が挑戦状を突きつけたのです。
私はその日の大会のために、休む間もなく祈禱しました。原稿を4回も書き直しました。大会の一週間前になっても、その日にどんな説教をすべきか心が定まっていませんでした。原稿を書き終えたのは、大会のわずか3日前です。本来、私は説教の前に原稿を用意することはしません。しかし、その時はそうしてみようと心が動かされました。どういう訳なのかはっきりしませんが、とても重要な大会になることは明白でした。
ついに1976年9月18日、夢にも忘れることができないその日が来ました。朝早くから人々がひっきりなしにワシントン記念塔に押し寄せてきました。何と30万人という大勢の人の群れです。それほどの群衆が一体どこから押し寄せてきたのか、全く見当もつかないことでした。彼らの髪の毛の色や顔の色は皆、色とりどりでした。神様がこの地上に送り出されたすべて人種が集まったかのようでした。それ以上何を言う必要もない、本当に世界的な大会になりました。
私は30万人の群衆の前で、「退廃的なアメリカの青年たちを危機から救い出し、希望の若者にするためにアメリカに来た」と堂々と宣布しました。私が一言一言語るたびに、群衆の中で歓呼の声が上がりました。東洋から来たレバレンド・ムーンが伝える教えは、混沌の時代を生きていた当時のアメリカの青年たちにとって、新鮮な衝撃でした。彼らは、私が伝える純潔と真の家庭のメッセージを歓迎しました。人々の熱狂的な反応に、私の体からも脂汗が流れてきました。
その年の暮れ、『ニューズウィーク』誌は私を「1976年今年の人物」に選びました。しかし、また一方では、私を警戒し、恐れる人たちが増えました。彼らにとって私は、東洋から来た不思議な魔術師にすぎず、彼らが信じて付いていくような白人ではありませんでした。また、自分たちがよく聞く既成キリスト教会の教えと少々異なった話をするということが、彼らをとても不安にさせました。その上、白人の若者たちが「目が魚のように細長いアジア人」を尊敬し、彼に付いていくのを絶対に容認できませんでした。彼らは、私が純真な白人の若者を洗脳していると悪い噂を流し、私に歓声を送る群れの背後で、私に反対する勢力を集めました。またしても新たな危機が身近に迫ってきたのです。しかし、臆することはありませんでした。私は明らかに正しいことをしていたからです。
アメリカは人種差別と宗教差別が激しい国です。アメリカンドリームに憧れて、世界中からあらゆる人種が集まってくる自由と平等の国として知られていますが、実際は、人種差別と宗教差別によって激しい葛藤が生じている国です。それは、退廃と堕落、物質主義のような1970年代の豊かさの中に現れた社会の病弊よりも、はるかに深くアメリカの歴史に根ざした、簡単には治すことのできない持病のようなものでした。
その頃、宗教間の融和を導くために、私はよく黒人の教会を訪ねていったのものです。黒人のリーダーの中には、マーティン・ルーサー・キング牧師に倣って、人種差別をなくし、神の平和世界を築こうと努力する隠れた人材がたくさんいました。
彼らは、法的に人種差別が禁止される前、数百年間続いた黒人奴隷市場の写真を教会の地下室に展示していました。生きている黒人を木に吊して火で焼く場面、奴隷として売られてきた黒人たちを鶏のように並べてその口を開ける場面、男女の黒人を裸にして奴隷を選ぶ場面、泣き喚く子供を母親の懐から引き離す場面など、およそ人間の心を持っていたならば到底できないような蛮行を犯す姿がそのまま写し出されていました。
「見ていてください。これから30年のうちに、黒人と白人の混血家庭から生まれた子供がアメリカの大統領になるでしょう」
1975年10月24日、シカゴの集会で私はそのように語り、その日の予言は、今やアメリカで現実のものとなりました。シカゴで誕生したオバマが大統領になったのです。しかし、私の予言は成就したのではありません。宗教と教派間の葛藤をなくすために大勢の人の血と汗が流されたからこそ、今、一輪の花が咲いたのです。

Wednesday Oct 13, 2021
平和を愛する世界人として 第36話
Wednesday Oct 13, 2021
Wednesday Oct 13, 2021
レバレンド・ムーンはアメリカ精神革命の種
アメリカ人が最初に見せた反応は、この上なく冷たいものでした。「ようやく戦争の貧困の中から立ち直った韓国という取るに足りない国から来た宗教指導者が、どうしてアメリカ人を相手に悔い改めよと言うのか」と、皮肉っぽく言いました。
アメリカ人ばかりが私に反対したのではありません。国際共産主義者と連携した日本の赤軍派の反対は特に激しく、私がよく滞在していたボストンの修練所に侵入し、後に地元警察の検問に引っ掛かって摘発され、FBI(米連邦捜査局)に引き渡されたこともありました。私に危害を加えようとする動きが度々あったので、私の子供たちを警護員なしでは学校に通わせることができないほどでした。殺害の危険が続くと、私もある期間、防弾ガラスの中で講演を行いました。
彼らの妨害にもかかわらず、東洋から来た小さな目の男が行う巡回講演は、日増しに話題を呼びました。人々は、今まで聞いたものとは全く違った新しい教えに耳を傾けました。宇宙と人生に関する根本原理をはじめ、アメリカの建国精神を呼び覚ます講演内容が、退廃と怠惰の奈落に沈んだアメリカ人に新鮮な風を送り込んだのです。
アメリカ人は、私の講演を通して意識革命を経験しました。若者たちは「ファーザー・ムーン」、あるいは「レバレンド・ムーン(文師)」と呼んで私に従い、肩まで長く伸びた髪とぼうぼうに生えたひげを切りました。身なりが変わると心も変わるもので、酒と麻薬に溺れていた若者たちの心の中に神の愛が入り込み始めました。
講演には、宗派を超越して多様な若者たちが集まりました。説教の中で、「ここに長老派教会はいるか?」と尋ねると、「ここです、ここ!」と手を振る青年がとてもたくさんいました。また、「カトリックもいるか?」と尋ねても、あちこちで手を挙げました。「南部バプテスト教会は?」と尋ねると、どれくらい多くの人が「私です、私!」と言うのか分からないほどでした。私が「自分の宗派を放っておいて、なぜ私の説教を聞きに来るのですか。早く帰ってください。帰って自分の教会でみ言を聞きなさい」と言うと、「ああ! ああ!」と大きく溜め息をつきました。そのようにして、だんだんと多くの人が集まり、若者だけでなく、長老派教会やバプテスト教会の指導者が、教会の青年たちをつれて訪ねてくるようになりました。時間が経つにつれて、「レバレンド・ムーン」はアメリカ社会の精神革命を意味する一つの「イコン」(聖像、崇敬の対象)になっていきました。
私は、アメリカの若者に我慢と忍耐を教えました。自分を守ることができてこそ、宇宙を守ることができるという事実を切々と訴えました。
「皆さんは、苦痛の十字架を背負いたいですか。誰も十字架の道を行きたいとは思いません。心では背負いたくても、体が先に『ノー!』と言ってしまうのです。見た目には良く見えても、心にも良いとは限りません。見た目にはまことしやかでも、中を見てみれば、醜くて悪いものが多いのです。ですから、見た目に良いものばかりを求めて、その道ばかりを行きたくなったら、すぐに『こいつ!』と怒鳴って防がなければなりません。若者はひっきりなしに異性に引かれるのではありませんか? そういうときでも、『こいつ!』と言って自分を止めなければなりません。自分で自分をコントロールできなければ、世の中で何をしようとうまくいきません。私が壊れれば宇宙が壊れるのです」
「宇宙主管を願うために自己を主管せよ」という青年時代の座右の銘を彼らに訴えました。アメリカ社会は物質社会です。私は物質文明の真ん中に行って、心の問題を話しました。心は目にも見えず、手でつかむこともできません。しかし、明らかに私たちは心の支配を受けています。心がなければ何もありません。私はその心に愛を加えた真の愛を話しました。真の愛を土台として明確な自我意識を持ち、自分自身を自らコントロールできてこそ、本当の意味での自由をつかむことができる、と訴えました。
また、労働の大切さを教えました。労働は苦痛ではなく創造です。一生の間働いて暮らしても楽しいのは、労働が神様の世界に連結されているからです。人がする労働というのは、実際には、神様が創造しておいたものを使って、いろいろなものを作り出すことにすぎません。私が趣味として神様の記念品を作るのだと考えれば、実際、労働は何でもないことです。私は、物質文明がもたらす豊かな生活に慣れ、働く喜びを忘れてしまったアメリカの若者たちに、「楽しく働きなさい」と教えました。
そしてまた、もう一つ、自然を愛する喜びを教えました。都市の退廃した文化にとらわれ、利己的な人生の奴隷となった青年たちに、自然がどれだけ大切かを話しました。自然は神様が下さったものです。神様を自然を通して私たちに語りかけます。一瞬の快楽とわずかなお金のために自然を破壊するのは罪悪です。私たちが破壊した自然は、巡り巡って、害となって私たちに返ってきて、子孫を苦しめることになります。私たちは自然に帰り、自然が話す声を聞かなければなりません。心の門を開き、自然の声に耳を傾けるとき、自然の中から伝わる神様のみ言を聞くことができるのだ、とアメリカの若者たちに話しました。

Wednesday Oct 13, 2021
平和を愛する世界人として 第35話
Wednesday Oct 13, 2021
Wednesday Oct 13, 2021
アメリカに行くための最後の飛行機
1971年末、私はアメリカに向かいました。アメリカに行って必ずしなければならないことがあったからです。しかし、到着までには紆余曲折がありました。アメリカのビザを初めて取るわけでもないのに、なかなかビザが下りず、信徒の中には出国の日を延期してはどうかと言う人もいましたが、それはできませんでした。彼らに説明するのは難しかったのですが、決められた日に韓国を出発しなければならなかったのです。それで、まず日本に行ってアメリカのビザを解決することにして、ひとまず出国を急ぎました。
出発予定日はとても寒い日でした。私を見送ろうと、信徒たちが空港のすぐ外まで集まってきました。ところが、いざ出国しようとすると、旅券に外務部(外務省)旅券課長の出国認証の捺印がないことが分かりました。結局、予約していた飛行機に乗ることができませんでした。
「申し訳ありません、先生。ひとまずご自宅にお戻りください。捺印をもらってきます」
と、出国準備を担当する信徒が慌てた様子で言ってきました。
「いや、空港で待つので、早く行って捺印してもらってきなさい」
私は急いでいました。ちょうど日曜日で、旅券課長は出勤もしていないはずです。しかし、そうした事情を考える余裕がありませんでした。担当者が旅券課長の家まで訪ねていって、捺印をもらうことができたので、その日の最後の飛行機に乗って韓国を出発しました。ところが、ちょうどその夜、「国家非常事態宣言」が発布され、翌日から海外出国が禁止されたのです。ですから、私はアメリカに行くための最後の飛行機に乗ったのです。
ところが、日本に行って再びアメリカのビザを申請しましたが、断られました。後で分かったことですが、光復(1945年8月15日)の少し前に共産主義者の疑いをかけられて、日本の警察に捕まった記録が残っていました。1970年代に入って、世界的に共産主義が猛威を振るっていた時期でした。私たちは127カ国に宣教師を送り出しましたが、そのうち共産国家の4カ国から追放されたほどです。当時、共産国家で宣教するのは命がけでしたが、私は最後まで使命を放棄せず、ソ連をはじめとする共産主義諸国に宣教師を派遣しました。
私たちは東欧の共産国家で行う宣教活動を「ナビ(蝶)作戦」と呼びました。幼虫がさなぎの期間を経たのち羽根を付けた蝶になる姿が、共産国家で苦難に耐えなければならない地下宣教活動に似ていることから、そう名付けたのです。蝶が幼虫から脱皮していくのは、苦労が多く孤独な過程ですが、成虫になるとどこへでも力強く飛んでいくことができます。同様に、地下宣教も、共産主義さえ崩れれば、羽根を付けてひらひらと飛んでいくものでした。
1995年初めに渡米した金永雲宣教師は、北米大陸のすべての大学を回って神のみ言を伝えましたが、その中でカリフォルニア大学バークレー校に留学していたドイツ人のピーター・コッホは、新しい真理によって伝道され、学業を中断して、オランダのロッテルダムに行ってヨーロッパ伝道を始めました。日本でも、中国をはじめとするアジア圏の共産国家に宣教師を送り出しました。きちんとした派遣礼拝を一度もできずに宣教師を死地に送り出す私の心は、甲寺の裏の松林で、崔奉春を日本に送り出した時とさして変わりはありませんでした。子供が打たれるのを見るのは、かえって自分が打たれるよりも残酷です。いっそのこと私が宣教師になって行けばよいものを、信徒を監視と処刑の地に送り出しながら、私の心は泣き続けていました。宣教師を送り出した後、私はほぼすべての時間を祈りに費やしました。彼らの命のために私にできることは、心を尽くして祈りを捧げることだけでした。共産圏での宣教は、見つかれば共産党に襟首をつかまれて引っ張られていく、危険この上ないものでした。
共産圏の宣教に行く信徒は、親に目的地さえ知らせることができずに出発しました。共産主義の恐ろしさをよく知る親たちが、最愛の息子・娘が死地に入っていくのを許すはずがなかったからです。ソ連に派遣されたクント・プオルチョは、国家保安委員会(KGB)に見つかって、国外追放されました。チャウシスクの独裁が極に達していたルーマニアでは、秘密警察のセクリタテアに尾行され、電話を盗聴されることが頻繁にありました。
一言で言って、ライオンのいる洞穴に飛び込むようなものでした。それでも、共産国家に潜入する宣教師の数は日増しに増えていきました。その頃、1973年のことです。チェコスロバキアで、宣教師を筆頭に信徒30人以上が一度に検挙されるという惨い事件が起きました。マリア・ジプナは冷たい監房の中で、24歳という花の盛りを迎えようかという年頃で命を失い、共産国家で宣教中に落命した最初の殉教者となりました。翌年、もう一人がやはり監獄で命を失いました。
知らせを聞いた私は、全身が硬直しました。話すこと、食べることはもちろん、祈ることさえできず、石の塊になったように座り込んでいました。彼らが私に出会っていなければ、私が伝えるみ言を聞いていなければ、そのように寒くて孤独な監獄に行くこともなく、そこで死ぬこともなかったはずなのに……。彼らは私の代わりに苦痛を受けて死んだのです。
「彼らの命と交換した私の命は、それだけの価値のあるものなのか。彼らは私の代わりに共産圏宣教の重荷を背負ってくれた。その負債を、私はどうやって返せばよいのか」
私はますます言葉を失っていきました。深い水の中に浸かっているように、際限のない悲しみに落ちていきました。その時、私の目の前にマリア・ジプナが黄色い蝶になって現れました。チョコスロバキアの冷たい監獄を抜け出した黄色い蝶は、力を失って座り込んでいる私に向かって、力を出して立ちなさいとでも言うように、羽根をひらひらさせました。彼女は、命をかけた宣教を通して、本当に幼虫から脱皮して蝶になっていたのです。
極限状況で宣教する信徒たちは、ひときわ多く夢や幻想を通して啓示を受けました。八方ふさがりの状況では誰とも連絡が取れないので、神が啓示を通して進む道を知らせてくれました。就寝中に「すぐに起きてそこから移動しなさい」と夢で教えられ、跳ね起きてその場を離れるやいなや、秘密警察が踏み込んできた、ということもあります。間一髪で命拾いするような出来事が、一度や二度ではありませんでした。また、一度も直接会ったことがないのに、夢に私が現れて、宣教のやり方を教えたこともあったそうです。信徒たちは、私に会うやいなや、「ああ、あの時、夢でお目にかかった先生に間違いありません」と喜びの声を上げるのでした。
このように共産主義を崩すために、また神の国を建設するために、命をかけて闘ってきた私を、かえって共産主義者だと疑い、アメリカ入国のビザを出さないというので、仕方なく、これまでカナダで反共活動をしていた資料を提出して、ようやくビザを受けることができました。
私がこのように複雑な過程を経てアメリカに行ったのは、彼らを堕落させた黒い勢力と闘うためでした。命をかけて悪の勢力と戦争をするために出発したのです。当時のアメリカは、共産主義と麻薬、退廃、淫乱など、世の中に存在するありとあらゆる問題が、坩堝のように混ざり合ってぐつぐつと煮え立っていました。私は「消防士として、医者としてアメリカに来た」と叫びました。家に火が付けば消防士が駆けつけ、体が病気になれば医者が訪ねてくるように、私は堕落の火が燃えているアメリカに駆けつけた消防士であり、神を見失い退廃の沼に落ちたアメリカの病気を治すためにやって来た医者でした。
1970年代初頭のアメリカといえば、ベトナム戦争をめぐる葛藤と物質文明に対する懐疑で、社会が激しく分裂していた頃です。人生に意味を見いだすことのできない若者たちは、道端をほっつき歩いて、酒と麻薬、フリーセックスに人生を浪費し、貴い霊魂を堕落するに任せていました。彼らが彷徨するのを止め、正しい人生に戻るように導いてやるべき宗教は、もはやその役割を失っていました。そのために、低俗でわいせつな雑誌類が道端で堂々と売られ、麻薬を吸って幻覚を見ながらふらふら歩く若者たちがあふれ、離婚した家庭の子供たちは心の拠り所を失って街をさまよいました。あらゆる犯罪が幅を利かせるアメリカ社会に警鐘を鳴らそうとして、神は私をその地に送られました。
アメリカに到着するやいなや、私は「キリスト教の危機と新しい希望」「キリスト教の新しい未来」という主題で全国を巡回し、講演活動を展開しました。人々が集まった場所で、誰も指摘していないアメリカの弱点を鋭く指摘しました。
「アメリカは本来、清教徒精神によって建てられた国です。わずか200年の間に世界最大の強大国になるほどの目覚しい発展を遂げたのは、神から無限の愛の祝福を受けたからです。アメリカの自由は神から来たものです。ところが、今日のアメリカは神を捨ててしまいました。今、アメリカの人たちは、神から受けた愛をすべて失ってしまいました。何が何でも霊性を回復しなければアメリカに未来はありません。私は皆さんの霊性を目覚めさせ、滅びつつあるアメリカを救おうとここにやって来ました。悔い改めてください! 悔い改めて神に帰らなければなりません!」

