Episodes

Monday Oct 11, 2021
平和を愛する世界人として 第33話
Monday Oct 11, 2021
Monday Oct 11, 2021
海に未来がある ①
幼い頃から、私の心はいつも遠いところに向かっていました。故郷では山に登って海を慕い、ソウルに来てからは海の向こうの日本に思いを巡らしました。常に、今いる世界よりも、もっと広い世界を夢見ていました。
1965年は、私が初めて世界巡回に出た年です。トランクいっぱいに韓国の土と石を詰めて持っていきました。世界を回って、要所要所に韓国の土と石を埋めるつもりでした。8ヵ月半で日本とアメリカ、そしてヨーロッパなど40カ国を回りました。
ソウルを出発する日、数十台のバスに分乗してやって来た信徒たちで、金浦空港はいっぱいになりました。北西の風が激しく吹きつける1月の飛行場に、黒山の人だかりができました。その頃は、外国に出ていくのはかなり大変なことでした。彼らが空港に集まったのは、誰かに言われたからではなく、自分の心が導くとおりにしたことです。私は信徒たちの思いをありがたく受け取りました。
当時、私たちの宣教国は10カ国をわずかに超えるほどでしたが、私は2年で40カ国に増やすつもりでした。40カ国を巡回したのは、その基礎を固めるためでした。
最初に訪問したのは日本です。密航して宣教を始めた日本で、私は大々的な歓迎を受けました。国法に背いての命がけの危険な出発でしたが、今考えてみれば、当時の私たちの選択はとても適切なものでした。
私は日本の信徒たちに尋ねました。
「皆さんは日本的ですか? そうでないとしたら、日本的なものを超えましたか?」
私は話を続けました。
「神が願われるのは日本的なものではありません。神は日本的なものを必要とされません。日本を超えたもの、日本を超えた人を必要とされます。日本の限界を超えて世界に向かう日本人であってこそ、神が用いることができるのです」
日本の人々には冷たく聞こえたかもしれませんし、寂しく感じたことでしょう。しかし、私はあえてきっぱりと話しました。
次に訪れたのはアメリカです。サンフランシスコ空港に降りた私は、アメリカ宣教師と共に2ヵ月間アメリカ全域を回りました。各州を巡回している間に、「全世界に号令する中心本部はアメリカだ。これから創建する新しい文化は、必ずアメリカを踏み越えていかなければならない」と痛感しました。私はアメリカの地に500人収容できる修練所を建てようと計画しました。もちろん、韓国人だけでなく、100以上の国から修練生を受け入れる国際的な修練所を建てることが目標でした。
幸い、その願いは間もなく果たされました。その後、毎年100カ国から4人ずつ送られたメンバーが修練所に集まり、半年間世界平和を研究し、討論することになりました。それは今でも続いています(この国際修練所は後に統一神学大学院となる)。人種や国境、宗教は何の関係もありません。私は、人種と国境、宗教を超えた多様な考えを持つ人たちが集まり、世界平和について虚心坦懐に議論することが、人類を成長させ、世界をより発展した社会にすることだと信じています。
アメリカを巡回する間に、ハワイとアラスカを除く48州はすべて行きました。後部座席に荷物を載せられるワゴン車を借りて、昼夜兼行で走りました。運転手が居眠りをすることがあると、「おいおい、疲れているのは分かるよ。しかし、遊びで来たわけではないのだ。大きな仕事をするために来たのだから、しっかり頼むよ」と言って、励ましました。どこかに楽に座ってご飯を食べることもしませんでした。車の中で、食パン2枚にソーセージを1つ入れ、ピクルスでものせて食べれば、立派な一食になります。朝昼晩といつもそうやって食べました。寝るのも車の中です。車が宿であり、車がベッドであり、車が食堂でした。狭い車の中で、食べて、寝て、お祈りしました。何でもできないことがありませんでした。その時の私には達成すべき明確な目標があったので、体が少々不便なことぐらいは十分に耐えることができました。
アメリカとカナダを経て中南米を回り、次にヨーロッパに渡りました。私の目で直接見たヨーロッパは、完全にバチカン文化圏でした。バチカンを超えなければヨーロッパを超えることはできないと思いました。峻険といわれるアルプスも、バチカンの威勢の前には何でもないものでした。
ヨーロッパの人々が集まって祈りを捧げるバチカン(カトリック教会の総本山であるローマ教皇庁やサン・ピエトロ大聖堂がある)で、私も汗をぽたぽた流して祈禱しました。数多くの教派と教団に分裂した宗教が、何としてでも一日でも早く統一されるようにお祈りしました。神様がつくられた一つの世界を、人間がそれぞれの立場で自分たちに有利になるようにあちこち分けてしまったものを、必ず一つにしなければならないという思いが、より確固たるものとなったのです。その後、エジプトと中東を経てアジア各国を回ることで、8ヵ月半の長い巡回を終えました。
ソウルに帰ってきた私のトランクには40カ国、120カ所の地域から持ってきた土と石がいっぱいに入っていました。韓国から持って行った土と石をその土地に埋めて、新たにその場所から持ち帰った土と石です。土と石で世界40カ国と韓国を連結したのは、朝鮮半島を中心として平和世界が実現する未来に備えるためでした。私は、40カ国すべてに宣教師を送り出す準備を始めました。
広い地球村を巡回しながら、私は人知れず世界を舞台に行う事業について構想を練りました。教会が大きくなり、宣教地が一つ、二つと増えるにつれて、宣教費用もぐんと増えたので、それをまかなうためにさらに大きな事業が必要でした。アメリカ48州を巡っている時も、私たちの教会の支えになる事業は一体何だろうかと考え続けました。
それで思いついたことは、アメリカ人は毎日のように肉を食べるという事実でした。まず牛一頭の値段がいくらか調べてみました。マイアミで25ドルする牛がニューヨークに行くと400ドルになります。マグロはどうかと調べてみると、驚いたことに、1匹のマグロが4000ドルを超えます。さらに、マグロは一度に150万個以上の卵を産みますが、牛は一頭しか産むことができません。こうなると、牛を育てるべきか、マグロを育てるべきか、答えはおのずと明らかです。
問題は、アメリカ人が魚肉を食べないことでした。しかし、日本人はマグロといえば飛びついてきます。アメリカにも日本人は大勢暮らしていて、日本人が運営する高級レストランは、マグロの刺身をとても高く売っていました。一度刺身の味を覚えたアメリカ人も、マグロを喜んで食べました。
私たちの暮らす地球は、陸地より海がもっと広いのです。アメリカは広い海に囲まれていて、魚が豊富です。また、200海里(約270キロメートル)の外側であれば、誰でもそこに行って、好きなだけ魚を捕ることができます。畑を耕したり、牛を育てたりしようとすれば、土地を買わなければなりませんが、海はその必要がなく、一隻の船さえあれば、どこまでも行って魚を捕ることができるのです。海の中には食べ物が豊富にあり、海の上では世界を一つに結ぶ海運事業が活発に行われています。世界中で作られるあらゆる物資が船舶に載せられ、海を縫うようにして運ばれていきます。そう考えると、海は私たち人類の未来に責任を持つ無限の宝庫といえるでしょう。
私はアメリカで船を数隻買いました。写真集で目にするような大型船舶を購入したのではなく、34フィート(約10.4メートル)から38フィート(約11.6メートル)程度の大きさの船を買いました。エンジンを切ったままマグロを追いかけ回すこともでき、大きな事故を起こすこともないヨット大の漁船でした。ワシントン、サンフランシスコ、タンパ(フロリダ州)、アラスカに船を出し、船の修理場も作りました。
研究もたくさんしました。1つの地域に1隻ずつ船を出し、海水の温度を測り、日ごとにマグロがどのくらい捕れるかを調査して、図表を作成し、統計を出しました。専門家が作った統計を手に入れて書いたのではなく、信徒たちが直接海に入り、潜水して作成しました。その地域の有名な大学教授が研究した結果は参考にするだけで、私が直接その地で暮らしながら、1つ1つ確認しました。ですから、私たちが作った資料ほど正確なものはありませんでした。
そうやって苦労して作った資料でしたが、独占せずにすべての情報を水産業界に公開しました。それが終わると、今度は他の海を開拓しました。一つの海で捕りすぎると、魚介類が減ってしまいます。そうならないように、急いで他の海に進出します。水産業を始めていくらも経たないうちに、私たちはアメリカの水産業会を大きくひっくり返してしまいました。
次に、私たちはまた新たな仕事を始めました。はるか遠くの海に出ていく遠洋漁業に飛び込んだのです。一隻の船が海に出ていけば、少なくとも半年間は家に戻りません。その間は魚捕りに専念し、船に魚がいっぱいになると、食べ物と石油を満載した運搬船が出ていって、魚と取り替えます。船には巨大な冷蔵庫があり、捕った魚をしばらく貯蔵することができました。「ニューホープ」という名前の私たちの船は、マグロをたくさん捕ることで有名です。その船に私が直接乗って、マグロ捕りに行きました。人々は船に乗ることを恐れます。若い者たちに「船に乗りなさい」と言うと、怖気づいて皆逃げていきました。「先生、私は船酔いが激しいので駄目です。船に乗るだけで吐き気がして死にそうです」と泣き言を言うので、私が先頭に立ちました。その時から一日も欠かさず船に乗って7年以上が過ぎ、それから後も、90歳(数え)になる今でも、時間さえあれば船に乗ります。そうすると今では、「私も先生のようにキャプテンになりたいので、船に乗せてください」と言ってくる青年が増えました。船に乗りたいという女性も増えました。何であっても、まずリーダーが先にやれば、付いてくるようになっています。おかげで私は、すっかり名の通ったマグロ釣り師になりました。
ところで、マグロを捕ってばかりいても始まりません。適切な時間に適切な価格で売らなければ無駄骨に終わってしまいます。私はマグロの加工工場を造って、直接販売までしました。冷蔵施設を備えた大型トラックにマグロを載せて売りました。販売が行き詰まると、シーフード・レストランを建てて、マグロを消費者の元に届けるルートを作りました。ここまですると、誰も私たちを軽んじることができなくなりました。
アメリカは、世界的な四大漁場の中で何と3つを持っている国です。それは、全世界の魚の4分の3がアメリカを囲む海にいるという話です。それなのにアメリカは、魚を捕る人が少ないために、水産業が見る影もなく後れていました。国では、水産業を盛り上げるためにあらゆる振興策を出しましたが、大きな効果はありませんでした。誰でも2年半だけ船に乗れば、10パーセントの値段で船を譲ると言っても、志願者がいませんでした。もどかしいことです。そんな状態だったので、私たちが水産業を起こすと、湾口都市は大騒ぎになりました。私たちが入っていきさえすれば、都市が繁盛するのですから、そうならざるを得ません。私たちがやることは、結局、新しい世界を開拓することでした。単純な魚捕りではなく、人が行かない道を行くのです。人が行かない道を行くのは何と楽しく、胸のすくことでしょうか。
海は本当によく変化します。人の心は朝夕に変わると言いますが、海は刻一刻と変わります。ですから、海はより神秘的で、より美しいのです。海は天を抱いて生きています。蒸発した海の水は上空に集まって雲になり、雨になって再び降ってきます。自然にはトリックのようなものがないので、私は自然が本当に好きです。高ければ低くなり、低ければ高くなります。どんなときでも、バランスを保とうとします。釣り竿を垂らして座っていると、表現できないほどのんびりします。海の上では何者も私たちを妨害できません。私たちを急ぎ立てる者は誰もいません。当然、時間はたっぷりあります。ひたすら海を見て、海と話をしていればよいのです。海にいる時間が長くなるほど、私たちの霊的な世界は広がっていきます。しかし、時として、海は穏やかだった相貌を一変させ、荒々しい波が打ち付けてきます。人の背丈の数倍にもなる大波が、のみ込むように襲いかかり、船の舳先にほとばしります。激しい風は帆を破り、恐ろしい音を立てます。
ところがです。そのように波が荒々しく、風が激しく吹きつける中でも、魚は水の中でぐっすり眠っています。波に体を預けて眠るのです。それで、私も魚に学びました。いくら荒々しい波が押し寄せてきても恐れないことです。波に体を預けたまま、私も船と一体になって波に乗ることにしました。すると、どんな波に直面しても、私の心は動揺しませんでした。海は、私の人生の素晴らしい師です。

Monday Oct 11, 2021
平和を愛する世界人として 第34話
Monday Oct 11, 2021
Monday Oct 11, 2021
海には未来がある ②
広い地球村を巡回しながら、私は人知れず世界を舞台に行う事業について構想を練りました。教会が大きくなり、宣教地が一つ、二つと増えるにつれて、宣教費用もぐんと増えたので、それをまかなうためにさらに大きな事業が必要でした。アメリカ48州を巡っている時も、私たちの教会の支えになる事業は一体何だろうかと考え続けました。
それで思いついたことは、アメリカ人は毎日のように肉を食べるという事実でした。まず牛一頭の値段がいくらか調べてみました。マイアミで25ドルする牛がニューヨークに行くと400ドルになります。マグロはどうかと調べてみると、驚いたことに、1匹のマグロが4000ドルを超えます。さらに、マグロは一度に150万個以上の卵を産みますが、牛は一頭しか産むことができません。こうなると、牛を育てるべきか、マグロを育てるべきか、答えはおのずと明らかです。
問題は、アメリカ人が魚肉を食べないことでした。しかし、日本人はマグロといえば飛びついてきます。アメリカにも日本人は大勢暮らしていて、日本人が運営する高級レストランは、マグロの刺身をとても高く売っていました。一度刺身の味を覚えたアメリカ人も、マグロを喜んで食べました。
私たちの暮らす地球は、陸地より海がもっと広いのです。アメリカは広い海に囲まれていて、魚が豊富です。また、200海里(約270キロメートル)の外側であれば、誰でもそこに行って、好きなだけ魚を捕ることができます。畑を耕したり、牛を育てたりしようとすれば、土地を買わなければなりませんが、海はその必要がなく、一隻の船さえあれば、どこまでも行って魚を捕ることができるのです。海の中には食べ物が豊富にあり、海の上では世界を一つに結ぶ海運事業が活発に行われています。世界中で作られるあらゆる物資が船舶に載せられ、海を縫うようにして運ばれていきます。そう考えると、海は私たち人類の未来に責任を持つ無限の宝庫といえるでしょう。
私はアメリカで船を数隻買いました。写真集で目にするような大型船舶を購入したのではなく、34フィート(約10.4メートル)から38フィート(約11.6メートル)程度の大きさの船を買いました。エンジンを切ったままマグロを追いかけ回すこともでき、大きな事故を起こすこともないヨット大の漁船でした。ワシントン、サンフランシスコ、タンパ(フロリダ州)、アラスカに船を出し、船の修理場も作りました。
研究もたくさんしました。1つの地域に1隻ずつ船を出し、海水の温度を測り、日ごとにマグロがどのくらい捕れるかを調査して、図表を作成し、統計を出しました。専門家が作った統計を手に入れて書いたのではなく、信徒たちが直接海に入り、潜水して作成しました。その地域の有名な大学教授が研究した結果は参考にするだけで、私が直接その地で暮らしながら、1つ1つ確認しました。ですから、私たちが作った資料ほど正確なものはありませんでした。
そうやって苦労して作った資料でしたが、独占せずにすべての情報を水産業界に公開しました。それが終わると、今度は他の海を開拓しました。一つの海で捕りすぎると、魚介類が減ってしまいます。そうならないように、急いで他の海に進出します。水産業を始めていくらも経たないうちに、私たちはアメリカの水産業会を大きくひっくり返してしまいました。
次に、私たちはまた新たな仕事を始めました。はるか遠くの海に出ていく遠洋漁業に飛び込んだのです。一隻の船が海に出ていけば、少なくとも半年間は家に戻りません。その間は魚捕りに専念し、船に魚がいっぱいになると、食べ物と石油を満載した運搬船が出ていって、魚と取り替えます。船には巨大な冷蔵庫があり、捕った魚をしばらく貯蔵することができました。「ニューホープ」という名前の私たちの船は、マグロをたくさん捕ることで有名です。その船に私が直接乗って、マグロ捕りに行きました。人々は船に乗ることを恐れます。若い者たちに「船に乗りなさい」と言うと、怖気づいて皆逃げていきました。「先生、私は船酔いが激しいので駄目です。船に乗るだけで吐き気がして死にそうです」と泣き言を言うので、私が先頭に立ちました。その時から一日も欠かさず船に乗って7年以上が過ぎ、それから後も、90歳(数え)になる今でも、時間さえあれば船に乗ります。そうすると今では、「私も先生のようにキャプテンになりたいので、船に乗せてください」と言ってくる青年が増えました。船に乗りたいという女性も増えました。何であっても、まずリーダーが先にやれば、付いてくるようになっています。おかげで私は、すっかり名の通ったマグロ釣り師になりました。
ところで、マグロを捕ってばかりいても始まりません。適切な時間に適切な価格で売らなければ無駄骨に終わってしまいます。私はマグロの加工工場を造って、直接販売までしました。冷蔵施設を備えた大型トラックにマグロを載せて売りました。販売が行き詰まると、シーフード・レストランを建てて、マグロを消費者の元に届けるルートを作りました。ここまですると、誰も私たちを軽んじることができなくなりました。
アメリカは、世界的な四大漁場の中で何と3つを持っている国です。それは、全世界の魚の4分の3がアメリカを囲む海にいるという話です。それなのにアメリカは、魚を捕る人が少ないために、水産業が見る影もなく後れていました。国では、水産業を盛り上げるためにあらゆる振興策を出しましたが、大きな効果はありませんでした。誰でも2年半だけ船に乗れば、10パーセントの値段で船を譲ると言っても、志願者がいませんでした。もどかしいことです。そんな状態だったので、私たちが水産業を起こすと、湾口都市は大騒ぎになりました。私たちが入っていきさえすれば、都市が繁盛するのですから、そうならざるを得ません。私たちがやることは、結局、新しい世界を開拓することでした。単純な魚捕りではなく、人が行かない道を行くのです。人が行かない道を行くのは何と楽しく、胸のすくことでしょうか。
海は本当によく変化します。人の心は朝夕に変わると言いますが、海は刻一刻と変わります。ですから、海はより神秘的で、より美しいのです。海は天を抱いて生きています。蒸発した海の水は上空に集まって雲になり、雨になって再び降ってきます。自然にはトリックのようなものがないので、私は自然が本当に好きです。高ければ低くなり、低ければ高くなります。どんなときでも、バランスを保とうとします。釣り竿を垂らして座っていると、表現できないほどのんびりします。海の上では何者も私たちを妨害できません。私たちを急ぎ立てる者は誰もいません。当然、時間はたっぷりあります。ひたすら海を見て、海と話をしていればよいのです。海にいる時間が長くなるほど、私たちの霊的な世界は広がっていきます。しかし、時として、海は穏やかだった相貌を一変させ、荒々しい波が打ち付けてきます。人の背丈の数倍にもなる大波が、のみ込むように襲いかかり、船の舳先にほとばしります。激しい風は帆を破り、恐ろしい音を立てます。
ところがです。そのように波が荒々しく、風が激しく吹きつける中でも、魚は水の中でぐっすり眠っています。波に体を預けて眠るのです。それで、私も魚に学びました。いくら荒々しい波が押し寄せてきても恐れないことです。波に体を預けたまま、私も船と一体になって波に乗ることにしました。すると、どんな波に直面しても、私の心は動揺しませんでした。海は、私の人生の素晴らしい師です。

Sunday Oct 10, 2021
平和を愛する世界人として 第32話
Sunday Oct 10, 2021
Sunday Oct 10, 2021
深い山奥に細い道を通した平和の天使たち
私たちが死ぬ前に、必ず子孫に残しておかなければならないものが二つあります。一つは伝統であり、もう一つは教育です。伝統のない民族は滅んでしまいます。伝統とは、民族を結ぶ魂であり、魂の抜けた民族は生き残ることができません。もう一つ、重要なものが教育です。子孫に教育をしなければ、その民族は滅びます。教育は、学問・芸術など新しい文物を吸収することを通して、世の中で生きていく力を得るものです。人は教育を通して生きる知恵を学びます。文字が分からないときは誰もが幼稚なままですが、教育を受ければ、世の中の知恵を活用できるようになります。また、教育は世の中の仕組みを理解する英明さをもたらしてくれます。数千年間続いた私たちの伝統を子孫に伝える一方、新しい文物を教育することは、民族の未来を開くことにつながります。受け継いだ伝統と新しい文物は生活の中で適切に融合され、独創的な文化として再生します。伝統と教育は、どちらがより重要で、どちらがより重要でないと言うことはできません。二つを適切に融合させる知恵を教育から得られるのです。
私は、舞踊団を作った後、「リトルエンジェルス芸術学校」(その後、仙和芸術学校と改称)も作りました。学校を作ったのは、芸術を通して私たちの理想を広く世界に連結させるためです。私たちに学校を運営する能力があるかどうかは二の次の問題でした。私はまず実行から入りました。意義が明確で良いことなら、当然始めなければならないでしょう。天を愛し、人を愛し、国を愛する教育をしたいと思ったのです。
私は仙和芸術学校を作り、「愛天、愛人、愛国」というとても大きな揮毫を残しました。すると、ある人が「韓国固有の文化を世界に誇ると言いながら、どうして愛国を最後にしたのか」と尋ねてきました。私は「ある人が、天を愛し、人類を愛したなら、その人はすでに、そのことによって国を愛したのです。愛国はおのずと完成します」と答えました。
全世界から尊敬される人は、すでに韓国を世界万邦に伝えたといえます。世界各国を訪れ、韓国文化の卓越性を見せながらも、リトルエンジェルスは一度も「コリア」を叫びませんでした。しかし、リトルエンジェルスの踊りを見て拍手を送る人たちの心の中には、「文化と伝統の国、韓国」というイメージがしっかりと根を下ろしています。そういう意味で、リトルエンジェルスは、他の誰よりも韓国を広く世界に知らせて、愛国を実践したのです。仙和芸術学校出身で世界的なソプラノ歌手となった冑秀美(スミ・ジョー)と申英玉、そして世界最高のバレリーナとなった文薫淑(ジュリア・ムーン)と姜秀珍の公演を見るたびに、私は心が満たされます。
リトルエンジェルスは、1965年のアメリカ公演をはじめとして、今に至るまで世界を駆け巡って韓国の美しい伝統を披露しています。イギリス王室に招待され、エリザベス女王の御前で公演を行い、アメリカ独立200周年の行事に招待され、ワシントンDCのジョン・F・ケネディ・センターの舞台に上がったこともあります。ニクソン大統領の前で特別公演も行い、ソウル・オリンピック文化芸術祝典にも参加しました。リトルエンジェルスは、すでに世界的に名のある平和の文化使節です。
1990年にソ連を訪問した時のことです。ゴルバチョフ大統領との会談を終え、その地を離れる前夜、リトルエンジェルスの公演が開かれました。共産主義の牙城であるモスクワのど真ん中に、韓国の幼い少女たちが立ったのです。韓服を着た天使たちは、韓国の踊りを終えた後、美しい声でロシア民謡を歌いました。客席から「アンコール!」が連呼され、いつまでたっても舞台を下りることができませんでした。結局、準備した合唱曲をすべて歌い終えてから下りてきました。
客席には、ゴルバチョフ大統領令夫人のライサ女史が座っていました。当時、韓国とソ連は正式な国交を結んでおらず、そのような国の文化公演にファーストレディーが出席するのは、極めて異例なことでした。さらに、客席の前方に座ったライサ女史は、公演の間中、終始大きな拍手を送ってくれました。ライサ女史は、公演が終わると舞台に上がってきて、団員に直接花束を渡し、「リトルエンジェルスこそ平和の天使です。韓国にこれほど美しい伝統文化があるとは知りませんでした。公演を見ている間、幼い頃に帰って夢を見ているようでした」と韓国文化の素晴らしさに賛辞を惜しみませんでした。そして、リトルエンジェルスの団員を一人一人抱き寄せて「My Little Angels!」と言いながら頬にキスしてくれました。
1998年には、純粋な民間芸術団体として初めて北朝鮮の平壌を訪問し、3度も公演を行いました。かわいらしい新郎新婦の踊りも踊り、華やかな扇の舞も踊りました。公演を見ている間、北朝鮮の人たちの目には涙がにじんでいました。この時、新聞記者は、こらえきれずに涙を流す北の女性の姿をカメラに収めています。公演を見終えた金容淳・アジア太平洋平和委員会委員長は、「深い山奥に小さな細い道を開いた」と称賛しました。
リトルエンジェルスがしたことはまさにそれです。これまで背を向け合っていた南北が一箇所に集まり、一緒に公演を見ることができるという事実を初めて証明したのです。人々はよく政治や経済が世の中を動かすと考えますが、そうともいえません。文化や芸術も世の中を動かす力を持っているのです。人々の心の最も深い所に影響を与えるのは、理性よりも感性です。受け入れる心が変われば世の中が変わり、制度が変わります。リトルエンジェルスは、韓国の伝統文化を世に知らせる役割を果たしただけでなく、自由圏と共産圏という異なった世界の間に小さな道を作る役割も十分に果たしました。
私はリトルエンジェルスに会うたびに、「心が美しければ踊りが美しくなる。心が美しければ歌が美しくなる。心が美しければ顔が美しくなる」と言っています。真の美しさは内側から滲み出るものです。リトルエンジェルスがそうやって全世界の人々に感動を与えたのは、韓国の踊りの中に溶け込んでいる韓国の伝統や精神文化が美しいからです。ですから、リトルエンジェルスが受けた拍手喝采とは、つまるところ韓国の伝統文化が受けた拍手喝采なのです。

Saturday Oct 09, 2021
平和を愛する世界人として 第31話
Saturday Oct 09, 2021
Saturday Oct 09, 2021
世界を感動させた素晴らしい踊りの力
私たちの教会は裕福な教会ではありません。満足に食べることもできない者たちが集まって始めた貧しい教会です。ですから、他の教会のように真っすぐに聳え立つ教会堂もありませんでした。よその人が米のご飯を食べているとき、麦のご飯を食べながら1銭、2銭と節約して集めたお金を、私たちよりもっと貧しい人たちに施しました。伝道師は、コンクリート剥き出しの冷たい部屋で、火も焚かないまま毛布を敷いて暮らしています。食事どきになると、ジャガイモをいくつか焼いて食べ、飢えをしのぐのが普通でした。どんなときでも、自分たちのためには1銭も使わないように努力しました。
1963年のことです。そうやって集めたお金で17人の子供たちを選んで、「仙和児童舞踊団」(後に「リトルエンジェルス」と呼ばれる)を創設しました。当時、韓国の文化的土壌は悲惨なものでした。私たちが見て楽しむものはもちろんのこと、人に見せられるようなものもありません。人々は、韓国の踊りとはどんなものか、五千年続いた韓国の文化とはどういうものかを全部忘れて、ただただその日一日を生きることにあくせくしていました。
私の計画は、17人の子供たちに韓国の踊りを教え、世界に送り出すことでした。韓国と言えば、戦争と貧困ばかりを思い浮かべる外国人に、大韓民国の美しい踊りを見せて、韓民族が優れた文化を持つ民族だと知らせようと考えたのです。私たちがいくら五千年の歴史を持つ文化民族だと主張したところで、彼らの前に見せるものがなければ、信じてくれるはずがありません。
美しい韓服を着て軽やかに回っていく韓国の踊りは、足を出して飛び跳ねる踊りに慣れた西洋人の目に新鮮な衝撃として映るにちがいない優れた文化遺産です。私たちの踊りには、韓民族の悲哀の歴史が余すところなく込められています。押さえつけられた頭を俯かせ、目につかないようにひっそりと動く踊りは、恨の多い五千年の歳月を生きてきた私たちの民族だけが作り上げることのできる仕種です。
白い朝鮮足袋の足を一歩踏み出し、顔をさっと回して白い手を上げる姿を見ると、心がすっかり奪われます。力強い声でたくさん話して相手を感動させるのではありません。その見え隠れするような一つの踊りが人の心を動かします。それこそが芸術の力です。言葉を語らずとも言葉が通じ、彼らが生きてきた歴史を知らなくても、自然とその心が分かるようにする力が芸術にはあるのです。
しかも、子供たちの汚れのない表情と明るい笑顔は、戦争を経た国の暗いイメージを一度に洗い流してしまいます。私は20世紀最高の文明国アメリカに行き、五千年の歴史を持つ韓国の踊りを初公開するつもりで舞踊団を創設しました。ところが、世の中は再び私たちに向かって非難の声を浴びせました。リトルエンジェルスの踊りがどのようなものが、見る前に非難したのです。
「統一教会の女たちは夜昼なく踊りを踊って、しまいには踊る娘らを生んだ」という呆れてものも言えないような悪口を浴びせてきました。しかし、私はどのような種類の噂にも動じませんでした。リトルエンジェルスを通して、韓国の踊りはこういうものだと世人の目を開かせる自信がありました。私たちに向かって「裸踊りをしている」と悪罵を投げつける人たちに、朝鮮足袋でひらりひらりと走り出す美しい踊りを見せてやりたいと思いました。体をねじるでたらめな踊りではなく、全身を韓服で包み、つつましく踊る本当の韓国の踊りのことです。

Friday Oct 08, 2021
平和を愛する世界人として 第30話
Friday Oct 08, 2021
Friday Oct 08, 2021
大事に稼いで大事に使う
商売をして集めたお金は神聖なお金です。しかし、商売で得たお金を神聖なものにするには、それに携わる者が嘘をつかず、暴利を貪らないという条件が必要です。商売をするときは、常に正直でなければならず、3割以上の利益を取ってはなりません。そうやって大事に稼いだお金は、当然貴い目的のために使うべきです。目的が明確で、志のあることのために使わなければならないのです。私は生涯、そのような心がけで事業を展開してきました。事業の動機は、単純にお金を稼ぐことではなく、神様の仕事である宣教活動を支えるところにありました。
事業を通して宣教資金を得ようとした理由の一つは、信徒たちに負担を強いて宣教活動費を充当したくなかったからです。いくら神の御旨のためだからといって、海外に宣教師を派遣することは、思いだけで何とかなるようなことではありません。宣教費用が必要でした。そして、その費用は、当然自分たちの手で稼いだお金でなければなりませんでした。堂々と商売をして稼いだお金を宣教費用に投じてこそ、何の活動をしても胸を張っていることができるのです。
何かお金になることはないかと悩んでいたとき、切手が目に入ってきました。当時、私は信徒に一月に少なくとも3回は互いに手紙を出すように勧めていました。手紙を出すには40圜の切手を貼る必要がありますが、1枚の切手を貼らずに、1圜切手を40枚集めて貼るようにしました。そうやって一月に3回送った手紙に付いている切手を剥がして売ると、最初の年だけで100万圜くらい儲けることができました。何でもない古切手が大きなお金になることを経験した信徒たちは、それを7年間も続けました。また、名勝地や俳優の白黒写真に色を塗ったブロマイド写真の販売も、少なからず教会運営の助けとなりました。
しかし、教会が大きくなってくると、切手収集や写真販売だけでは十分な宣教費用を捻出することが難しくなりました。世界各地に宣教師を送ろうとすれば、もっと大きな規模の事業が必要です。私は、日本人が使い捨てていった旋盤機械を、1962年の貨幣改革前に72万圜を投じて購入しました。貨幣改革後の価値では7万2000ウォンになります。それを教会として使っていた家屋の奥まった練炭倉庫に入れて、会社を起こし、「統一産業」と命名しました。「皆さんの目には、この旋盤機械が価値のないものと見えるかもしれません。やっとのことで1台の古びた機械を入れて、一体何の事業を起こすのかと思うでしょう。しかし、皆さんの前に置かれたこの機械が、遠からず7000台、いや7万台の旋盤機械になって、大韓民国の軍事産業から自動車産業まで相次いで発展するのです。きょう入ったこの機械は、間違いなくわが国の自動車産業を引っ張っていく礎石になるでしょう。ですから、信じてください。必ずそうなるという確信を持ってください」
私は練炭倉庫の前に信徒を集めて堂々と語りました。たとえみすぼらしい出発だとしても、目標は高く、遠大でした。彼らは私の意志に従い、献身的に仕事に取り組んでくれました。そのおかげで、1983年には、もう少し大きな規模の事業を始めることができました。その年は、「天勝号」という船を建造して、仁川市万石洞の埠頭のほとりで進水式を行っています。信徒ら200人以上が列席した場で漁船を海に送り出しました。
水は私たちに命を与えてくれる特別なものです。私たちは皆、母親のおなかの中から誕生します。母親のおなかの中とはまさに水であり、私たちは全員、水から出てきたのです。人間が水から命を得たように、水の中の試練を経てこそ陸地で完全に生き残ることができる、という願いを込めて、私たちは海に船を送り出しました。
私たちが建造した「天勝号」は、とても良い船でした。西海(黄海)を素早く縫うように進み、たくさんの魚を捕まえてくれました。しかし、そんな時でも、信徒たちの反応はぱっとしませんでした。陸の上でもやることが多いのに、あえて海にまで出て魚を釣る事業をするのはどうしてかというのです。私はすぐに海洋時代がやって来ると直感していました。海に浮かべた「天勝号」は小さな一歩だとしても、海洋時代を開くことになる貴重な一歩でした。私は、その時すでに、もっと広い海やもっと大型で高速の船を頭の中に思い描いていました。
![]() |

Wednesday Oct 06, 2021
平和を愛する世界人として 第29話
Wednesday Oct 06, 2021
Wednesday Oct 06, 2021
第四章 私たちの舞台が世界である理由
決死の覚悟で行くべき道を行く
ソウルの西大門刑務所から釈放された1955年は朝鮮戦争の休戦協定が結ばれた直後であり、食べていくのがとても大変な時でした。しかし、当座は食べていくのが大変だとしても、将来の計画を立てる必要がありました。今はまだ大勢が共に集って礼拝を捧げる大きな教会もありませんでしたが、遠い未来のことを準備しなければならないと思ったのです。
世界情勢を見たとき、日本を憎い敵とばかり考えて、無条件に排斥してはならないと思いました。そこで、何度か宣教師の派遣を試みましたが、いずれも成功には至りませんでした。最後に使命を果たしてくれたのが崔奉春(日本名は西川勝)です。
1958年、甲寺(忠清南道の鶏龍山にある)の裏山に崔奉春を呼んで、私は言いました。
「おまえは、今すぐ玄界灘を渡っていかなければならない。勝利するまで戻ってくることはできない」
彼は少しもためらわずに「はい!」と答え、「召されて出で立つこの身はゆくぞ。……」という統一教会の聖歌を歌いながら、意気揚々と山を下りていきました。日本に行って生活はどうしたらいいのか、宣教はどうやって始めたらいいかと尋ねることもしませんでした。崔奉春はそのように豪胆な男でした。
当時は日本とまだ国交がなかったので、密航するしかありませんでした。密航は国法を破ることでしたが、日本宣教は必ずやらなければならないことでした。したがって、何があろうと困難はすべて耐え忍ぶしかなかったのです。
崔奉春は決死の覚悟で密航船に乗り込みました。私は、彼が無事に海を渡ったと知らせてくるまで、他のことは一切せず、小さな部屋に籠もって座り、ひたすら祈り続けました。何も食べず、寝ることもしませんでした。彼を送り出すのに必要な資金150万圜は、借金をして充てました。満足にご飯を食べられない信徒が大勢いる中で、大金を借りてでも彼を送ったのは、それだけ日本宣教が急を要することだったからです。
しかし、崔奉春は、日本に到着するとすぐに逮捕されてしまいました。広島と山口の刑務所に収監され、韓国に強制送還される日を待つ身となったのです。約9ヵ月間の刑務所生活の後、思い詰めた彼は、韓国に帰るくらいならむしろ死を選ぼうと腹を決めて、断食を始めました。食を断つと熱が出ました。警察は治療が必要と判断して本国送還を延期し、入院させたところ、彼はその機に乗じて病院から逃げ出しました。
こうして生きるか死ぬかの苦労を1年半ほど続けた末に、崔奉春が日本に教会を創立したのは1959年10月のことでした。その時代、韓国と日本は正式に国交を結んでいないばかりか、圧制政治のつらい記憶ゆえに、誰もが日本との修好に激しく反対していました。そのような怨讐(深い怨みのあるかたき、敵)の国日本に、密航させてまで宣教師を送ったのは、日本を救うためであると同時に、大韓民国の未来を開くためでもありました。日本を拒否して関係を断絶するよりも、日本人を教化した後、私たちが主体となって彼らを味方につけなければならないと考えました。何も持たない韓国としては、日本の為政者と通じる道を開いて日本を背景にしなければならず、また何としてもアメリカと連結されてこそ、未来の韓国の生存の道が開かれると見通したのです。崔奉春の犠牲によって宣教師の派遣に成功した後、日本教会は久保木修己という優れた青年指導者を得て、彼と彼に付き従う若者たちによって、しっかりと根を下ろしました。
日本に宣教師を派遣した翌年(1959年)、今度はアメリカに宣教師を送りました。この時は密航ではなく、堂々とパスポートとビザの発給を受けて送りました。西大門刑務所を出てから、私の収監に加担した自由党の長官らと接触し、パスポートを得ることができました。私に反対した自由党を逆に利用したのです。当時、アメリカはあまりにも遠い国でした。私がその遠いアメリカに宣教師を送ると言うと、まず韓国でもっと教会を大きくして、それから送っても遅くはないと誰もが反対しました。しかし、「大国アメリカの危機を早く収拾しなければ韓国は滅びる」と言って、私は信徒たちを説得しました。1959年1月、梨花女子大を追われた金永雲宣教師が最初に派遣され、その年の9月、金相哲宣教師がアメリカに到着して、全世界に向けた宣教史の第一歩を踏み出しました。

Wednesday Oct 06, 2021
平和を愛する世界人として 第28話
Wednesday Oct 06, 2021
Wednesday Oct 06, 2021
大切なのは真実の心
三カ月ぶりに釈放されて出てきた私は、神から愛され、生命を与えられている喜びをいま一度噛みしめました。私は神の愛と生命に負債を負った者だということです。その負債を返すために、一からやり直すことを決め、新しい教会の場所を探すことにしました。しかし、「神様、私たちの教会を建ててください」とは、私は祈りませんでした。小さくて何の値打ちもない建物だとしても、それまで不便だとか恥ずかしいとか思ったことはありません。祈る場所があればそれだけで感謝であり、広くて静かな場所までは望みませんでした。
信徒たちが集まって礼拝を捧げる家はどうしても必要です。そこで、二百万圜 (圜は一九五三年から一九六二年にかけて使われた韓国の貨幣単位) の借金をして、青披洞(現在のソウル特別市龍山区内)の丘にあった、すっかり荒れ果てた日本式の家屋を買いました。非常に小さな家で、真っ暗な洞穴のような一本道をかなり歩かないと辿り着かない路地裏にありました。その上、それまでに何があったのか、柱といわず壁といわず真っ黒に汚れていました。建物をきれいにしようと、教会の青年たちと一緒に、洗濯用の苛性ソーダを溶いて三日かかって拭いたので、黒い汚れはほとんど落ちました。
青披洞の教会に移っていった後、私はほとんど眠りませんでした。奥の間に身をかがめて座り、明け方の三時か四時になるまでお祈りをして、服を着たまましばらく背中を丸めて寝ると、五時にはもう起きる生活を七年間続けました。毎日一、二時間しか寝なくても、うとうとすることもなく、明けの明星のように目を輝かせて、疲れを知りませんでした。
やろうと思うことが心の中にいっぱいあって、食事の時間も削りました。いちいちお膳を準備しないで、部屋の床にご飯を置いて、しゃがんだま

Monday Oct 04, 2021
平和を愛する世界人として 第27話
Monday Oct 04, 2021
Monday Oct 04, 2021
苦難よ、私たちを鍛えてほしい
人々は私が伝える新しい真理に異端と言っては石を投げましたが、ユダヤ教の地で生まれたイエス様もまた、異端の罪を被せられて十字架に付けられました。それに比べれば、私の受けた迫害は痛いことでも悔しいことでもありませんでした。体に加えられる苦痛はいくらでも我慢できます。ただ、私たちの教会に対する異端審問、こればかりは悔しくてなりませんでした。草創期から私たちの教会を研究した神学者の中には、独創的で体系的な新しい神学であるとして、高く評価する人が多かったのです。にもかかわらず、私たちをめぐる異端論争がかくも騒がしく広がったのは、神学的な問題というよりは現実的な状況がそうさせたのでした。
私たちの信徒の大部分は、それまで通っていた既成キリスト教会を去って私たちの教会に来た人たちです。まさにこの点が、既成キリスト教会から敵視された原因でした。梨花女子大の梁允永講師が警察の取り調べを受けた際、警察は、金活蘭総長や多くのキリスト教牧師から統一教会を非難する投書が届いたと明かしています。要するに、私たちが何か誤ったわけではなかったのです。既得権層の漠然とした恐れと危機感、そして度を越した教派主義が引き起こした明らかな弾圧でした。
新しい教えを伝える私たちの教会には、さまざまな宗派の人が集まっていました。私がいくら「またどうして来たのか?すぐにあなたの教会に戻りなさい!」と言って、半ば脅迫するように追い出しても、彼らはすぐにまた戻ってきました。
私を求めて集まってくる彼らは、誰の言葉も聞きませんでした。学校の先生の言葉も聞かず、両親の言葉も聞きませんでした。ところが、私の言葉はよく聞きました。お金をあげるとかご飯を与えるわけでもないのに、私の言葉だけを信じて、私を捜し求めてきました。その理由は、私が彼らの行き詰まった心に道を開いてあげたからです。真理を知る前には、私もまた天を見てももどかしく、横の人を見てももどかしかったので、彼らの心は十分に理解できました。答えを得られずに苦しんでいた人生のすべての疑問が、神のみ言を悟ることによってきれいさっぱりとなくなりました。私を求めてくる青年たちは、私が伝える話の中に、ふだん心に抱いていた問題への解答を初めて見いだしたので、私と共に行く道が険しくつらいと分かっていても、私たちの教会に来たのです。
私は道を切り開く人です。崩壊した家庭を訪ね求め、氏族を訪ね、国を訪ね、世界を訪ねて、究極的にはそれらが神に立ち返っていく道を道案内する人です。私の元に来たのは、その事実を知って、私と一緒に神を求めていこうと決意した人ばかりです。それのどこがいけないというのか、およそ納得のいかない話です。神を求めただけなのに、世の中のありとあらゆる迫害と非難を受けなければなりませんでした。
異端騒動に巻き込まれる困難を味わっていた頃、私をさらに困らせたのが当時の妻でした。彼女は釜山で再会した後、実家の家族と一緒になって私を追いかけ回し、離婚をせがみました。教会を直ちにやめて家族三人で暮らすか、さもなければ離婚したいということでした。彼らは私が収監されていた西大門刑務所までやって来て、離婚書類を押し込んで判を押せと脅迫しました。しかしながら、神の願う平和世界を築く上で結婚がいかに重要かをよく知る私は、彼らからどんな侮辱を受けてもじっと耐えました。
彼女は私たちの教会と信徒にも言葉で言えないような乱行に及びました。むやみやたらと私の悪口を言うのはいくらでも我慢できましたが、教会と信徒にまで乱暴狼籍を働くのは耐えがたいことでした。彼女が来るたびに、教会を訪れる信徒たちに悪口を浴びせかけ、教会の器物を壊し、教会にある物を勝手に持ち去ったばかりか、人糞を振りかけることまでしました。彼女が現れると礼拝をすることができないほどでした。最終的に、西大門刑務所を出た後、彼らが準備した離婚状に判を押さざるを得ませんでした。私の信念を守る間もなく、私の背中を押して離婚させたのです。
先妻のことを思うと、今も気の毒な気がします。彼女がそこまでするようになった背景には、キリスト教一家であった実家と既成教会の煽動がありました。結婚する前はしっかりした女性だったのに、がらりと変わってしまったことを考えると、世の中の偏見と固定観念の恐ろしさというものを再認識せざるを得ません。
離婚の痛みと異端として後ろ指をさされる悲しみを味わいましたが、私は少しも屈しませんでした。茨の道を踏み越えていくこと、それはアダムとエバが犯した罪を蹟罪し、神の国に向かって行く私が、きちんとやり遂げなければならないことでした。もともと日が昇る直前が最も暗いといいます。私は神様にすがりついてお祈りすることで暗闇に打ち勝ちました。しばらくは目を閉じる時間を除いて、一日のすべての時間を祈疇に捧げました。

Monday Oct 04, 2021
平和を愛する世界人として 第26話
Monday Oct 04, 2021
Monday Oct 04, 2021
焦げた木の枝に込新芽は生える
一九五五年七月四日、私はソウルの中部警察署(治安局特殊情報課)に連行されました。屈辱的な扱いを受けたのに、思いの丈をぶちまけて抗弁一つしようとせず、ぐっとこらえる私を見て、「意気地なし」と決めつける人もいましたが、これもまた私に与えられた道であると受け止めて、我慢に我慢を重ねました。それが私に与えられた天の御旨に向かっていく道だとすれば、仕方のないことだと考えました。いかなる困難があろうと私はその道を行かなければなりません。それがそのまま私の存在価値、生きる理由だったので、絶対に挫けないで、困難であればあるほど、誰の前であっても威風堂々と振る舞いました。
そう決意すると、警察には私を打ち負かす方法がありませんでした。調書を書く際には、まず私から、こう書きなさいと教えてやりました。「おい君、この言葉をなぜ書かないのか。そこにはこう書かなければならないのだ」と言って、初めて刑事は次に進みました。私が教えたとおりに調書を書いてみると、一つ一つの句や節に間違いはないのに、もともと彼らが意図した内容とは正反対になっていました。そのことに気づいた刑事は、腹を立てて調書をびりびりと破いてしまいました。
私はソウル地方検察庁に送致され、西大門刑務所に収監されました。手錠をかけられても、恥ずかしいとか寂しいとか思うことはありませんでした。監獄生活が私の行く手を遮る障害になるでしょうか。そんなことはあり得ないことです。憤怒の思いが沸き上がることはあっても、私を挫折させる罠とはなりませんでした。私としては、むしろ商売の元手を得た気分です。「監獄で消える私ではない。ここで死ぬことはできない。これは解放の世界に向けて跳躍するための踏み台にすぎない」と考えて、監獄生活に打ち勝ちました。
悪は滅び善が栄えるのが世の道理であり、天の法です。泥まみれになっても、純粋で真実の心を失わなければ絶対に滅びません。手錠をかけられていく時、通り過ぎる女性たちが私を流し目で見て、顔をしかめました。淫乱の似非教祖だから見るのもおぞましいという表情でした。しかし、私は怯えることもなく、恥だとも思いませんでした。彼らが汚い言葉で私と教会を罵っても、私は決して動揺しませんでした。
しかしながら、そういう私であっても、痛みがなかったわけではありません。外では堂々としましたが、喉が締めつけられ、骨身に沁みて悲しかったことが一度や二度ではありませんでした。心が弱くなるたびに、「私はこんな監獄で死んでしまう男ではない。必ずもう一度立つ。きっと立って見せる」と言って、歯を食いしばりました。「すべての痛みを自分の中に隠したまま抱えていくのだ。教会のありとあらゆる重荷を私が背負っていくのだ」と心に誓いました。
世間は、私が捕まって刑務所に行けば、教会は潰れて、信徒たちはすぐにばらばらになって去っていくとばかり思っていましたが、そうはなりませんでした。収監されている問、毎日、信徒たちの誰も彼もが私に面会に来ました。面会の順番をめぐって争うことさえありました。面会時間は朝の八時からです。それなのに、彼らは明け方から刑務所の塀の所に並んで待っていました。人々が私の悪口を言えば言うほど、私が寂しければ寂しいほど、私を慰労し、私のために涙を流す人も、次第に多くなりました。
私は面会を必ずしも歓迎したわけではありません。「こんなに騒々しく来るとは。何しに来たのか」と叱ることも多かったのです。それでも、彼らは涙をぽろぽろ流しながら私に付いてきました。信仰とはそういうものであり、愛もまた同様です。私が言葉巧みに話すから私を慕うのではありません。私の心の深い所にある愛を知ったがゆえに慕うのです。彼らは私の真実の心を理解してくれました。手錠をかけられて裁判を受けに行く時、私を捜してあちこち歩き回った信徒たちを死んでも忘れることができません。被告席に座った私の姿を見てしくしく泣いたその顔は、いつも私の記憶の中にあります。
「いくら人を狂わせようとしても、あれほど狂わせることができるだろうか」
刑務所の看守らが、押し寄せる信徒たちを見て、そう言いました。
「あの人は自分の夫でも妻でも子供でもないのに、なぜあんなふうに真心を込めることができるのか」と感嘆した人もいましたし、「なんだ、文鮮明は独裁者で搾取する者だと聞いていたが、すべてでたらめだった」と考えを変えて、私たちの教会に来た人もいました。結局、収監されて三カ月ぶりに無罪で釈放されました。私が釈放される日、刑務所長と課長らが丁重に見送ってくれました。彼らは三カ月後に私たちの教会の信者になっていました。彼らの心が私に向いた理由は簡単です。近くでじっと眺めたので、噂とは全く違うことが分かったのです。世の中の騒がしいデマが、かえって伝道の手助けになったようでした。
捕まっていく時はマスコミと世間が大騒ぎしたのに、いざ無罪となって刑務所を出て行く時は、静かなものでした。新聞に文鮮明教祖が無罪で釈放されたという記事が小さく載っただけです。私に対する凶悪なデマは全国に騒々しいほど広まりましたが、その噂が丸ごとデタラメだったという事実は静かに葬られました。信徒たちは「先生、腹が立って悔しくてたまりません」と言って、私を見て泣きましたが、私はただ沈黙して彼らをなだめました。
デマによって後ろ指をさされ、弄ばれた痛みを忘れることはできません。大勢の人が私を激しく責め立てて、三千里半島に私の体が立つ場がなくなっても、一切を耐え忍んで乗り越えてきましたが、その悲しみは今も心の片隅に物寂しく残っています。風雨に曝され、火に焼かれても、絶対に燃えて死ぬ木になるわけにはいきませんでした。焦げた木の枝にも春が訪れるように、新芽は必ず生えてきます。強い信念を心に抱き、堂々と歩いて行けば、世の中も正しく私を理解してくれるでしょう。

Monday Oct 04, 2021
平和を愛する世界人として 第24話
Monday Oct 04, 2021
Monday Oct 04, 2021
教派ではない教会、教会でもない教会
悪口を言われると長生きするといいますが、悪口を言われた分だけ生きるなら、私はこの先、あと百年は長生きできるでしょう。また、ご飯でおなかを満たす代わりに、ありとあらゆる悪口をのみ込んだので、私は世の中で最もお腹の膨れた人です。平壌に行って教会を始めた時に反対し、石を投げた既成キリスト教会が、釜山でもまた私に反対しました。教会を始めて以来、何から何まで言い争ってきました。「異端」「似非」は私の名前の前に付ける固有名詞でした。いえ、私の名前の「文鮮明」は異端、似非と同じ意味でした。異端、似非という接頭語のないそのままの名前で呼ばれたことがないほどでした。
激しい迫害に抗しきれず、一九五三年に私は釜山からソウルに上がってきました。翌年五月、奨忠壇公園に近い北鶴洞のバラックを借りて、「世界基督教統一神霊協会」の看板を掲げました。このような名称にした理由は、いかなる教派にも属したくなかったからです。だからと言って、もう一つ他の教派を作る考えは更にありませんでした。
「世界基督教」は古今東西にわたるキリスト教のすべてを意味し、「統一」は今後行くべき目的性を意味します。「神霊」は父子関係の愛を中心とする霊肉界の調和を暗示した表現で、簡単に言うと「神様中心の霊界を背景とする」という意味です。特に統一は、神の願う理想世界をつくっていくための私の理想でした。統一は連合ではありません。連合は二つが集まったものですが、統一は二つが一つになることです。後日、私たちの名前になった「統一教会」は、実際には人々が付けてくれた名前であり、当時、大学生の間では「ソウル教会」と呼ばれました。
とはいえ、私は教会という言葉をさほど好みません。教会とは文字どおり「教える会」です。宗教は「宗となる教え」ですから、教会とは根本的なことを教える集まりという意味になります。本来、教会という言葉で人と私を分ける理由は何もありません。にもかかわらず、世間は「教会」を特別な意味を持つ言葉として使うのです。私はそういう特別な部類に属したくありませんでした。私が願ったのは教派のない教会でした。真の宗教は、自分の教団を犠牲にしてでも国を救おうとし、国を犠牲にしてでも世界を救おうとするものです。いかなる場合であっても教派が優先にはなり得ません。
仕方なく教会の看板を付けたにすぎず、いつでもその看板を外したい思いです。教会の看板を付けた瞬間、教会は教会でないものと区別されます。一つのものを二つに分けることは正しいことではありません。それは、私が夢見ることでもなく、私の行くべき道でもありません。国を生かし、世界を生かすために、もしも教会の看板を外さなければならないとするならば、今でも私はそうすることができます。
しかしながら当時、現実的にはどうすることもできませんでした。そこで、正門の内側、敷地内に一歩入った建物の入り口に教会の看板を掲げました。少し高い所に掛ければ見栄えが良いのですが、家の軒が低くて、看板を掛けるには不向きでした。結局、子供の背丈ぐらいの高さに看板を掛けておいたので、子供たちがそれを外して遊んで、そのまま二つに割ってしまったこともあります。私たちの教会の歴史的な看板ですから、捨てるわけにもいかず、針金でごちゃごちゃに結んで、釘で入り口にしっかりと打ちつけました。看板をそんなふうにぞんざいに扱ったせいか、私たちも世間から言うに言えないぞんざいな扱いを受けました。
玄関は頭を下げて入らなければなりませんでした。中も狭く、八尺 (約二・四ニメートル) 四方の部屋に六人が集まってお祈りをすれば、お互いの額がぶつかるほどでした。近所の人たちは、看板を見て嘲笑したものです。身をすくめて入っていく家の中で、一体どこの「世界」を語り、「統]」を夢見るのかと皮肉ったのです。名前に込められた意味を知ろうともせず、一方的に私たちを狂人扱いしました。しかし、そんなことは何でもないことでした。釜山では、もらい食いまでして命をつないだ身です。礼拝を捧げる部屋がある今は、何を恐れることもありませんでした。黒い染みが付いた米軍兵士のジャンパーを着て、黒のゴム靴を履いて歩きましたが、心は誰よりも堂々としていました。
教会に来る信徒たちは、お互いを「食口」と呼び合います。当時の食口は、誰もが愛に酔っていました。教会のことを考えて、心の中で「行きたい」と思い続けると、どこにいても私がすることをすべて見聞きできました。神と通じることのできる内的な愛の電線で、完全に一つになったのです。ご飯を炊く準備だけして火を付けずに教会に走ってきたり、新しいチマ(スカート)に着替えると家族に言っておきながら穴の開いたチマのままで走ってきたり、教会に行かせないように丸刈りにされてもその頭のままで教会に走ってきたりしました。
食口が増えてきたので大学街で伝道を始めました。一九五〇年代には、大学生と言えば最高の知性を備えた人々でした。まず梨花女子大学校と延世大学校(当時は前身の延禧大学校)の前で伝道を始めたところ、短期間のうちに私たちの教会に通う学生が増えていきました。
梨花女子大学の音楽科の梁允永講師と舎監の韓忠嘩助教授も私たちの教会を訪ねてきました。
先生だけでなく大学生も多く来ました。ところが、その増え方が一人、二人というのではなく、一度に十人、二十人と幾何級数的に増える状況で、既成キリスト教会はもちろんのこと、私たちでさえも驚かざるを得ませんでした。
大学街の伝道を始めてニカ月で、梨花女子大学と延世大学の学生を中心に教会員が爆発的に増えました。あまりに速い速度でした。春の突風がひゅうと吹き過ぎていったかのように、大学生の心が一瞬のうちに変わってしまいました。梨花女子大学の学生が一日に数十人ずつ荷物をまとめてやって来ました。寄宿舎から出られないようにすると、「どうして?どうして出られなくするのですか。そんなことをするなら私を殺してください!」と言って、寄宿舎の塀を平気で乗り越えて来ました。私が止めても聞き入れません。きれいな学校よりも足のにおいのする私たちの教会の方がいいと言うので、どうしようもありませんでした。
心配した梨花女子大学の金活蘭総長は、社会事業学科の金永雲副教授を私たちの教会に急派しました。カナダで研鐙を積んだ金副教授は、梨花女子大学で将来を嘱望された女性神学者でした。統一教会の教理の弱点を探し出して、学生が私たちの教会に流れないようにしようと、わざわざ神学を専攻した金副教授を送ったのです。ところが、総長特使の資格で教会を訪れた金副教授は、私に会って一週間で熱心な信徒になってしまいました。金副教授まで私たちの教会を受け入れたので、梨花女子大学の他の教授や学生たちが、これまで以上に私たちを信頼し始めました。信徒が雪だるま式に増えたことは言うまでもありません。
事態が手の付けようのないほど拡大してくると、既成キリスト教会は例によって、私が教会員を横取りしていると攻撃を始めました。私は無念で残念な思いになりました。私は、私の説教だけを聞きなさいと強要したり、私たちの教会にだけ通いなさいと言ったりしたことはありません。前門から追い出せば後門から入ってくるし、門を閉めて鍵をかければ塀を乗り越えて入ってくるのです。全く自分の力ではどうすることもできませんでした。
こうなると、困惑したのは延世大学と梨花女子大学でした。キリスト教財団の大学として、他の宗派の教会に教授や学生たちが集まっていくのを、黙って見過ごしにすることだけはできなかったのです。


