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Thursday Sep 23, 2021
平和を愛する世界人として 第15話
Thursday Sep 23, 2021
Thursday Sep 23, 2021
労働者の友となった苦労の王様
ソウルにいた時と同様、東京でも行かない所がないくらいあらゆる土地を歩き回りました。友人が日光のような景勝地を見物に行くときも、私は一人残って東京市内の至る所を歩いて回ってみました。見た目はきらきらして華やかでも、東京の街もやはり貧者の天下でした。私は家から送金されたお金を皆、貧しい人々に分け与えました。
その時代は誰もがおなかを空かせていました。留学生の中にも苦学生が大勢いました。私は一カ月分の食券が手に入ると、全部持って行って彼らに渡して、「食べろ。思う存分食べろ」と言って、すべて使いました。自分ではお金の心配はしませんでした。どんな所でも働いて仕事をすれば、ご飯は食べることができたからです。お金を稼いで苦学生の学費を助けるのも私の楽しみでした。そうやって、人を助けたりご飯を食べさせたりすれば、体の奥からふつふつと力が沸いてきました。
所持金をはたいて全部分け与えた後は、リヤカーで荷物を配達する仕事をしました。東京の二十七の区域をリヤカーで縫うようにして回りました。電信柱を載せたリヤカーを引いて華やかな街灯がともる銀座を通った時、交差点の途中で信号が赤になってしまい、その場に立ち止まったため、道行く人々がびっくりして逃げていったこともあります。おかげで、今でも東京の隅々まで手に取るように分かります。
私は労働者の中の労働者であり、労働者の友達でした。汗のにおいと小便のにおいが漂う彼らと肩を並べて、私もまた作業現場に行って、汗を流して働きました。彼らは私の兄弟だったのであり、それゆえに、ひどいにおいも気になりませんでした。真っ黒なシラミが列をなして這っている汚い毛布も、彼らと一緒に使いました。何層にも垢がこびりついた手も、ためらわずに握りしめました。垢まみれの彼らが流す汗には粘っこい情けがあり、私はその情けが面白くて好きでした。
主に川崎鉄工所と造船所で肉体労働をしました。造船所には石炭運搬用の「バージ」と呼ばれる艀があって、ポンポン船がそれを曳航します。私は三人一組になって、午前一時までに石炭百二十トンをバージに積み込む仕事をしました。日本人が三日かけてする仕事を、韓国人は一晩でやってのけます。韓国人の手際のよさを見せてやろうと思い、無条件に一生懸命働きました。
作業現場には、労働者の血と汗を搾り取る輩がいます。労働者を直接管理する班長が往々にしてそうです。彼らは、労働者が汗水たらして稼いだお金の三割をピンはねして、私腹を肥やしていました。しかし、力のない労働者は全く抗議できませんでした。弱い者を苦しめ、強い者にへつらう人間。そんな班長に腹が立って我慢ならなかった私は、“三銃士”の友人を呼び集めて彼の元を訪ねていき、「仕事をさせたなら、させたとおりに金を払え!」と食ってかかったことがあります。一日で駄目なら、二日、三日としぶとく詰め寄りました。それでもまったく話を聞かないので、私の大きな体で足蹴りをして、班長を吹っ飛ばしてしまいました。私はもともと無口でおとなしい人間ですが、怒ると子供の頃の意地っ張りの気質が蘇り、蹴飛ばしてしまうこともよくやります。
川崎鉄工所には硫酸タンクがありました。労働者は硫酸タンクを清掃するために、タンクの中に直接入っていって原料を排出する仕事をします。硫酸はとても有毒で、タンクの中に十五分以上入っていることはできません。そんな劣悪な環境の中でも、彼らはご飯のために命がけで働きます。ご飯というものは、命とも引き換えにできるくらいに重要なものでした。
私はいつも空腹でしたが、いくらおなかが空いても、自分のために食べることはしませんでした。ご飯を食べるときには、はっきりした理由がなければならないと考えました。それで、食事のたびに、おなかが空いた理由を自らに問いただしてみました。「本当に血と汗を流して働いたのか。私のために働いたのか、それとも公的なことのために働いたのか」と尋ねてみました。ご飯を前にすることに、「おまえを食べて、きのうよりもっと輝いて、公的なことに取り組もう」と言うと、ご飯が私を見て、笑いながら喜んだのです。そんなときは、ご飯を食べる時間がとても神秘的で楽しい時間でした。そうでなければ、どんなにおなかが空いても食事をしなかったので、一日に二食食べる日もそれほど多くはありませんでした。
元から食べる量が少なくて一日二食で我慢したのではありません。若い盛りでしたから、私も食べ始めればきりがありませんでした。大きな器に盛ったうどんを十一杯まで食べたこともあり、また親子どんぶりを七杯食べたこともあります。それくらい食欲旺盛だったのに、昼食を抜いて一日に二食しか食べない習慣を三十過ぎまでかたくなに続けました。
おなかが空けば食べ物が恋しくなります。空腹時のご飯の恋しさは嫌というほど知っていますが、世界のためにご飯一食ぐらいは犠牲にできて当然だろうと思いました。新しい服を着てみたこともないし、どんなに寒くても部屋に火を入れませんでした。とても寒いときの一枚の新聞紙は、絹の布団のように暖かいものです。私は一枚の新聞紙の価値をよく知る男です。
ある時は品川の貧民窟で生活してみました。ぼろを被ったまま寝て、日差しの強い真昼になってシラミを捕まえたり、乞食たちがもらってきたご飯を分け合って食べたりしました。品川の通りには、流れ者の女性も大勢いました。一人一人事情を聞いてあげると、お酒を一口も飲めない私が、いつしか彼女たちのかけがえのない友になっていました。酒を飲まなければ本心を打ち明けられないというのは、空しい言い訳です。酒の力を借りなくても、彼女たちを不欄に思う私の心が真実だと分かると、彼女たちも素直な心で胸の内を明かしました。
日本で勉強する間、本当にありとあらゆることをしてみました。ビルの小使いや文字を書き写す筆生の仕事もしました。作業現場で働いて現場監督をしたこともあれば、人の運勢を占ったこともあります。生活に困れば、文字を書いて売ったりもしました。それでも、勉強をおろそかにはしませんでした。私は、そうしたことはすべて自分自身を鍛錬する過程だと考えました。いろいろな人に会ってみましたが、それを通して、人間をより多く知るようになりました。おかげで、人をちらっと見れば、「ああ、何をしている人だな」「この人は良い人だな」とすぐに分かります。頭であれこれ考える前に、体が先に分かってしまうのです。
私は今でも、人間が人格完成しようと思えば、三十歳になるまでは苦労してみなければならないと考えます。三十歳になるまでに、人生のどん底を這いずり回るような絶望の坩堝に一度ぐらいははまってみるべきでしょう。絶望の奈落の底で新しいものを探し出せというのです。そうすれば、「ははあ」と驚きの声を上げながら、「今の絶望がなければ、このような決心はできなかったはずだ」と心を新たにするようになります。絶望の淵から驚きの声を上げて抜け出してこそ、新しい歴史を創造する人に生まれ変わることができるのです。
一箇所だけ、一方向だけ見ていても大事は成せません。上も見て、下も見て、東西南北をすべて見なければなりません。人の生涯はどれも同じ七十年、八十年ではないのです。一度しかない人生であり、その間に成功できるか否かは、自分の目で物事を正しく見られるかどうかにかかっています。それには豊富な経験が物を言います。また厳しい環境にあっては、余裕のある人間味と柔軟な自主性が必ず必要です。
人格者は、一度上がって急降下する人生にも慣れていなければなりません。大抵の人は一度上がると、下がるのを恐れて、その地位を守ろうと汲々としますが、淀んだ水は腐るようになっています。上に上がったとしても、下に下りていって、時を待った後にさらに高い頂に向かって上がっていくことができてこそ、大勢の人から仰がれる偉大な人物、偉大な指導者になれるのです。三十歳になる前の若い時代に、こういったことをすべて経験しておくべきです。
ですから、私は今も青年たちに、世の中のあらゆることを経験してみなさいと勧めています。百科事典を最初から最後まで隈無く目を通すように、世の中のすべてのことを直接、間接に経験したとき、初めて自らの拠って立つ価値観が定まります。価値観とは何でしょうか。それは自らの明確な主体性です。「全国を見回してみても、私を負かす者はなく、私にかなう者はない」という自信を得た後に、最も自信のあるものを一つ選んで、一気に勝負をつけるのです。そうやって人生を生きれば必ず成功するし、成功せざるを得ません。東京で乞食の生活をしながら、私は以上のような結論に達しました。
私自身も、東京で労働者と寝食を共にしながら、また乞食と食うや食わずの悲哀を分かち合いながら、苦労の王様、苦労の哲学博士になってみて、初めて人類を救おうとする神の御旨を知ることができました。それゆえ、三十歳までに苦労の王様になることです。苦労の王様、苦労の哲学博士になること、それが天国の栄光に至る道です。

Thursday Sep 23, 2021
平和を愛する世界人として 第14話
Thursday Sep 23, 2021
Thursday Sep 23, 2021
ぐつぐつと煮えだぎる火の玉のように
京城商工実務学校を終え、一九四一年に日本に留学しました。日本をはっきりと知らなければならないという考えから出発した留学でした。汽車に乗って釜山に下っていくとき、なぜか涙があふれて、外套を被っておいおい泣きました。涙と鼻水が止まらず、顔はぱんぱんに腫れ上がっていました。植民統治下で陣吟する孤児に等しいわが国を後にする心は、これ以上ないほど悲しいものでした。そうやって泣いた後で窓の外を見ると、わが山河も私以上に悔しく悲しそうに泣いていました。山川草木から涙がぽろぽろと流れ落ちる様を、私はこの両目ではっきりと見ました。痛突する山河に向かって、私は約束しました。
「故国の山河よ、泣かないで待っていろよ。必ず祖国光復を胸に抱いて帰ってきてやるからな」釜山港から関釜連絡船に乗り込んだのは四月一日の午前二時でした。強い夜風に打たれても、私は甲板を離れることができず、次第に遠ざかっていく釜山を眺めて、一睡もせずに夜を過ごしました。
東京に到着した私は、早稲田大学附属早稲田高等工学校電気工学科に入学します。現代科学を知らなくては新しい宗教理念を打ち立てることはできないと考えて、電気工学科を選びました。
目に見えない世界を扱う数学は、宗教と一脈相通ずる面があります。大事を成そうと思えば数理の力に優れていなければなりません。私は頭が大きいせいか、人が難しいと言う数学に長けており、数学を好みました。頭に合う帽子を探すのが大変で、直接工場に足を運んで二度も合わせ直して作ったほど、頭が大きかったのです。一つのことに集中すれば、普通なら十年かかるところを三年もせずにやり遂げてしまえるのも、大きな頭のおかげかもしれません。
日本留学時代も、韓国にいた時と同じように、先生方に向かって質問を浴びせました。一度質問を始めると、先生の顔が赤くなるまで質問し続けました。そのせいで、「これをどう考えますか」と質問しても、ある先生などは最初から無視して私を見ようともしませんでした。しかし私は、疑問が生まれると、必ず根っこまで掘り下げて解決しなければ納得できないのです。先生を窮地に追い込むのが目的ではありません。どうせ勉強するなら、それくらい徹底してやらなければ意味がないと思いました。
下宿した家の机には、常に英語、日本語、韓国語の三種類の『聖書』を並べて広げておき、三つの言語で何度も何度も読み返しました。読むたびに熱心に線を引いたりメモを書き込んだりして、『聖書』はすっかり真っ黒になってしまいました。
入学と同時に参加した韓人留学生会の新入生歓迎会で、私は祖国の歌を力強く歌って、熱い民族愛を誇示しました。警察官が居合わせた席でしたが、かまわず堂々と歌い上げました。その年、早稲田高等工学校の建築学科に入学した厳徳紋は、その歌声に魅了されて、私の生涯の友人になりました。
東京には、留学生で構成された地下独立運動組織がありました。祖国が日本の植民統治下で呻吟していたのです。独立運動は当然のことでした。大東亜戦争が熾烈を極めるにつれて、弾圧は日に日に激しさを増していきました。日本政府が韓国の学生たちを学徒兵という名目で戦場に追い立て始めると、地下独立運動も次第に活発になっていきました。日本の天皇をどうけるかについて色々と討論したこともあります。私は組織上、留学生を束ねる責任者となり、金加先生の大韓民国臨時政府 (金九は当時主席) と緊密に連携しながら、同臨時政府を支援する仕事を受け持ちました。いざとなれば命を投げ出さなければならない立場でしたが、正義のためという考えから、ためらいはありませんでした。
早稲田大学の西側に警察署がありました。私の活動に感づいた警察は、絶えず目を光らせて私を監視しました。夏休みに故郷に帰ろうとしても、先に警察が嗅ぎつけて、埠頭や駅に私服警官を送って見張るほどでした。そのため、警察に捕まって、取調べを受けたり、殴られたり、留置場に拘禁されたりしたことも、数え切れないほどありました。追いかけてきた警察と四ツ谷の橋で、欄干の柱を抜いて戦ったこともあります。この当時、私はぐつぐつと煮えたぎる火の玉のようでした。

Monday Sep 20, 2021
平和を愛する世界人として 第13話
Monday Sep 20, 2021
Monday Sep 20, 2021
巨大な秘密の門を開ける鍵
故郷で山という山は全部足を運んで登ったように、ソウルも隅々まで行かなかった所がありません。その頃、ソウル市内を電車が走っていました。電車賃は五銭でしたが、それさえもったいなくて、いつも歩いて行きました。蒸し暑い夏の日は汗をたらたら流して歩き、極寒の冷たい冬は肉を抉るような風をくぐり抜けるようにして歩きました。もともと足が速い私は、黒石洞から漢江を渡って鍾路の和信百貨店まで四十五分あれば着きました。普通の人には一時間半ほどの道のりですから、どれだけ早足だったか想像がつくでしょう。浮いた電車賃は貯めておいて、私以上にお金に困った人に分け与えました。出すのが恥ずかしいくらいの微々たる金額だとしても、大金を出せなくて申し訳ないという気持ちで、そのお金が福の種になるようにと思って渡しました。
四月には故郷からきちんと学費を送ってきましたが、生活が苦しい周囲の人たちを見過ごしにできず、五月になる前に全部なくなりました。学校に行く途中、息も絶え絶えの人に出くわしたことがあります。かわいそうに思うと足が止まってしまい、その人を背負ってニキロほど離れた病院に向かって走り出しました。運良く財布に入っていた学費の残りで治療費を払うと、あとはもうすっからかんです。今度は自分の学費が払えなくなり、学校から督促を受けることになりました。それを見て、友人がお金を一銭、二銭と集めてくれました。その時の友人は生涯忘れられません。
助け合うこともまた、天が結んでくれる因縁です。その時はよく分からなくても、後で振り返ってみて、「ああ、それで私をその場に送られたのか」と悟るようになりました。ですから、突然私の前に助けを乞う人が現れたら、「天がこの人を助けるようにと私に送られたのだ」と考えて、心を込めて仕えます。天が「十を助けなさい」と言うのに、五しか助けないのでは駄目です。「十を与えよ」と言われたら、百を与えるのが正しいのです。人を助けるときは惜しみなく、財布をはたいてでも助けるという姿勢が大切です。
ソウルに来て、ケピトック(風餅)というお菓子を初めて見ました。色や模様が美しいので、「ああ、こんなに美しい餅がたくさんあるなあ」と言って、口に入れて噛むと、中の空気が抜けて、ぺちゃんこに潰れるではありませんか。その時思いました。ああ、ソウルという所はそのままこのケピトソクのようだ、と。「抜け目のないソウルっ子」という言葉がなぜ生まれたのか、分かった気がしました。ソウルは外から眺めると、地位の高い立派な職業の人ばかりいる富者の世の中に見えますが、その実態は貧者の天下です。漢江の橋の下にはぼろぼろの服を着た乞食があふれていました。私は漢江の橋の下の貧民窟を訪ねて行き、彼らの頭を刈って心を通わせました。貧しい人は涙もろいのです。胸の中に溜まりに溜まった思いが高ずるのか、私が一言声をかけても泣き出して、大声で泣き叫びました。手には、ぽりぽり掻くと白い跡ができるほど、べっとりと垢がこびり付いています。物乞いでもらってきたご飯をその手でじかに私にくれたりもしました。そんな時は、汚いとは言わずに喜んで一緒に食べました。
ソウルにいた時も熱心に教会に通いました。最初は黒石洞五旬節教会に通い、漢江の向こう側 (北側)にあった西氷庫五旬節教会にも通いました。その後、内資洞 (現在のソウル特別市鍾路区内)のイエス教会と黒石洞にあった明水台イエス教会に通いました。西氷庫洞(現在のソウル特別市龍山区内) に行こうとして漢江の橋を渡ると、寒い冬の日は「パーン!ジジジジー!」と氷が割れる音がしたものです。
教会で日曜学校の先生を務めたことを思い出します。私の話は抜群に面白くて、子供たちがとても喜びました。今は年を取って冗談を言う才能もなくなりましたが、その当時は面白おかしい話もよくして、子供たちは打てば響くように反応してくれました。私がアーンアーンと泣けば子供たちもアーンアーンと泣き、私がハッハッハと笑えば子供たちもハッハッハと笑います。私の後ろをぞろぞろ付いて回るほど人気がありました。
明水台の裏側に瑞達山があります。瑞達山の岩に登って、しばしば夜を徹して祈りました。寒くても暑くても、一日も休まず祈りに熱中しました。一度祈りに入れば涙と鼻水が入り混じるくらい泣き、神様から受けたみ言を胸に抱いて、何時間も祈りだけに集中しました。神様のみ言はまるで暗号のようで、それを解こうとすればより一層祈りに没頭しなければなりません。今考えると、その時すでに、神様は秘密の門を開ける鍵を親切に与えてくださったのに、私の祈りの不足ゆえにその門を開けることができませんでした。そういう訳で、ご飯を食べても食べた気がせず、目を閉じても眠れませんでした。
一緒に下宿していた友人たちは、私が山に登って夜通し祈っていることはよく知らないようでした。それでも、他の人とは違う何かが感じられたのか、私に一目置いていました。しかし私は、平素はおどけた言動をして仲良く過ごしたものです。私は誰とでも気持ちがすっと通じます。お婆さんが来ればお婆さんと友達になり、子供たちが来れば子供たちとふざけたりして遊びます。相手が誰であっても、愛する心で接すればすべて通じるのです。
黒石洞の頃、早朝祈禧会で私の代表祈疇に感化され、私を訪ねてきて親しくなった李奇完おばさんとは、この世を去る時まで四十数年間、友情を分かち、友として交流しました。妹の李奇鳳おばさんは、私が下宿した家の女主人でした。下宿の掃除で何かと忙しそうにしていましたが、いつも私に温かく接してくれました。私によくすれば自分の心が楽になると言って、おかずの一つでももっと食べさせようと気を配ってくれました。無口で、別段面白みもない私を、なぜそんなふうにかわいがってよくしてくれたのか分かりません。後日、私が京畿道警察部に収監された時は差し入れもしてくれました。今も李奇鳳おばさんを思えば胸が温かくなります。
自炊の家の近所で小さな店を出していた宋おばさんも、その頃の大事な恩人です。おばさんは、故郷を離れて暮らすのはおなかが空いて大変だろうと言って、店の売れ残りがあると何でも持ってきてくれました。小さな店を切り盛りしてやっと食べている立場なのに、私にはいつも厚い情けをかけてくれて、食べ物を用意してくれました。
漢江の川辺で礼拝を捧げた日のことです。昼食時間になって、会衆はばらばらに座ってご飯を食べ始めました。昼食を取らない私は、その中にぼんやり座っていても仕方ないので、一人だけすっと後ろに離れて、川辺の石の小山に座っていました。それを見た宋おばさんが、パン二個とアイスケーキを二個持ってきてくれました。それがどれだけありがたかったかしれません。一つ一銭で、全部で四銭にしかならないものでしたが、おばさんの心遣いは今も私の心に刻まれています。
いくら小さなことでも、いったんお世話になったら生涯忘れることができません。年が九十歳になった今も、いつ誰が何をしてくれたか、また、いつ誰がどのようにしてくれたか、すらすら話すことができます。私のために労苦を惜しまず、陰徳を施してくれた人たちを生涯忘れることはできません。
陰徳を受けたときは、必ず、もっと大きくして返すのが人の道です。しかし、その人に直接会えないこともあるでしょう。恩恵を施してくれた人に直接会えなかったとしても、大事なのはその人を思う心です。ですから、その人に会えなくても、受けた恵みを今度は他の人に施そうという一途な心で生きるのがよいのです。

Monday Sep 20, 2021
平和を愛する世界人として 第12話
Monday Sep 20, 2021
Monday Sep 20, 2021
刀は磨かなければ鈍くなる
定州普通学校を終えたあと、住居をソウルに移した私は、黒石洞 (現在のソウル特別市銅雀区内) で自炊しながら京城商工実務学校に通いました。ソウルの冬はとても寒かったです。零下二○度まで気温が下がることも珍しくありませんでした。そのたびに漢江の水が凍ったりもしました。自炊の家 (下宿) は井戸が深くて十尋 (約一八・二メートル。一尋は六尺で約一・八二メートル)以上もありました。紐がよく切れるので鎖をつないで使いましたが、井戸水を汲み上げる時に釣瓶縄に手がペタペタくっつき、口で息をハーハー吹きかけて水を汲んだものです。
寒さ対策に、持ち前の腕を生かして編み物をよくしました。セーターもたくさん着て、厚手の靴下や帽子、手袋もすべて自分で編んで作りました。私が編んだ帽子はとてもかわいくできて、その帽子を被って外に出れば、みんなが私を女性と思うほどでした。
しかし、真冬でも自分の部屋に火を入れたことはありません。火を入れる余裕はなかったし、極寒の中、家もなく道端で凍りついた体を温める人に比べれば、貧しくても屋根の下で横になって眠ろうとする私の立場が贅沢だと考えたからです。ある日は、あまりにも寒くて、裸電球を火鉢のように布団に入れたまま、その布団をすっぽり被って寝て、熱い電球で火傷して皮膚が剥がれてしまいました。今でもソウルと聞けば、その時の寒さがまず頭に浮かびます。
ご飯を食べる時は、おかずを二品以上お膳に並べたことがありません。いつも一食一品、おかずは一つあれば十分でした。自炊の時の習慣で、私はおかずはたくさん要りません。やや塩辛く味付けしたものが一つあれば、ご飯一杯をさっと平らげることができます。今でもお膳におかずがたくさん並んでいるのを見ると、無性に煩わしい気持ちがします。ソウルで学校に通っていたこの頃、昼食は食べませんでした。山を歩き回った昔の習慣のおかげで、一日二食あれば空腹を気にしないで生活できたのです。そういう生活を三十歳になるまで続けました。このように、ソウルの生活は私に、暮らしのつらさを痛感させました。
一九八〇年代に黒石洞を訪ねてみたことがあります。驚くべきことに、当時下宿した家がそのまま残っていました。私が生活した玄関脇の部屋や洗濯物を広げた庭は数十年前のままでした。ただ、手に息を吹きかけて冷たい水を引き上げた井戸はなくなってしまい、それが残念でした。
「宇宙主管を願う前に自己主管を完成せよ」これは、その頃の私の座右の銘です。先に身心を鍛錬してこそ、次には国を救い、世の中を救う力も持てる、という意味です。私は、食欲はもちろん、一切の感性と欲望に振り回されないで、体と心を自分の意志どおりにコントロールできるところまで、祈りと瞑想、運動と修錬によって自分を鍛錬しました。そこで、ご飯を一食食べる時も「ご飯よ、私が取り組む仕事の肥やしになってほしい」と念じて食べ、そういう心がけでボクシングもし、サッカーもし、護身術も習いました。おかげで、若い頃よりもかなり太りましたが、今でも相変わらず体の動きだけは青年のように身軽です。
京城商工実務学校に通っていた時、学校の掃除は自分一人でやりました。問題を起こした罰としてやらされたのではなく、人よりも学校をより多く愛したい心がおのずとあふれてきて、そうしたのです。誰かが手助けしてくれるのも申し訳なくて、一人で仕上げようと努力し、人が掃除した場所ももう一度自分でやり直しました。すると友人たちは皆、「それじゃあ、おまえ一人でやれ」と言って、自然と学校の掃除は私の役目になりました。
私はめったに話さない学生でした。他の友達のようにぺちゃくちゃ話すこともなく、一日中一言も話さないこともよくありました。だからなのか、拳骨を食らわしたり、力で脅かしたりしたこともないのに、同級生は私を怖がって、むやみに馴れ馴れしくすることはありませんでした。トイレで並んでいても、私が行けばすぐに場所を空けてくれたし、悩みがあればまず私のところにやって来て、私の意見を聞くということが頻繁にありました。
先生方の中には、私の質問に答えられず、逃げていった人が少なくありません。数学や物理の時間に新しい公式を学ぶと、「その公式を誰が作ったのですか。正確に理解できるように初めから丁寧に説明してください」と先生に噛み付いて、授業を引き延ばしました。そうやってかき回し、追い散らしてはほじくり返し、ほじくり返しするので、先生方はすっかり降参してしまいました。私は世の中に存在する論理を一つ一つ検証して確認するまでは、どんなことも受け入れることができませんでした。「その素晴らしい公式をなぜ私が先に考えつかなかったのか」と思うと、おおっぴらに腹を立てたりもしました。幼い時、夜通し泣いて、我を張って譲らなかった性格が、勉強に対してもそっくりそのまま表れたのです。勉強する時も、祈る時と同じように全精力を傾け、誠を尽くして取り組みました。
私たちはあらゆることに精いっぱいの誠を尽くすべきです。それも一日、二日ではなく、常にそうすべきです。刀は一度使っただけで磨かないと、切れ味が悪くなってしまいます。誠も同じです。毎日刀を鋭く磨き、刀を研ぐという心で、絶え間なく継続すべきです。どんなことでも誠を尽くせば、我知らず神秘の境地に入っていくようになります。筆を握った手に誠心誠意の一念を込めて、「この手に偉大な画家が降りてきて私を助けよ」と祈りつつ精神を集中すれば、天下の耳目を驚かすような絵が生まれます。
私は発声練習に誠を尽くしました。人よりも速く、正確に話すためです。小さな部屋に籠もって、「カーギャーコーギョー、カルナルタルラル……」と声を出して練習しました。「フィリリーリックー」と、話したい言葉を雨あられのように降り注ぐ訓練もしました。その成果で、ひとこと人が一言言う問に十の言葉を言うほど早口で話せるようになりました。すっかり馬齢を重ねた今でも、私は本当に言葉が速いのです。速すぎて聞き取りにくいと言う人もいますが、気が急くので到底ゆっくり話すことができません。胸の内に話したい言葉がいっぱいあるのに、どうしてゆっくり話せるでしょうか。
そういう面で、私は話が大好きだったわが祖父によく似ました。祖父は奥の間に集まった来た客を相手に、三時間でも四時間でも時の経つのも忘れて四方山話に花を咲かせました。私もそうです。心が通う者たちと席を共にすると、夜遅くなろうと明け方になろうと、そんなことはどうでもよくなります。胸中に積もった言葉がすらすら流れてきて止めることができません。食事の時間も迷惑に思うくらい、話をするのが好きで好きでたまりませんでした。話を聞く方も力が入って、額にぶつぶつと汗が吹き出します。それでも私が汗をたらたら流して話し続けるので、「もう帰らなければ……」とどうしても言い出せずに、私と一緒にうとうとしながら、夜を明かすのが常です。

Monday Sep 20, 2021
平和を愛する世界人として 第11話
Monday Sep 20, 2021
Monday Sep 20, 2021
胸が痛ければ痛いほどひたむきに愛せ
私は非常に激しく混乱しました。両親にも打ち明けられず、かといって、心の中にぎゅっとしまい込んでおくわけにもいかない大きな秘密を抱えてしまったのです。どうしていいか分からず、途方に暮れました。明らかなことは、私が天から特別な任務を託されたという事実です。しかし、一人でやり遂げるにはあまりにも大きな責任でした。しかもその内容たるや驚くべきものがありました。到底自分には果たし得ないと思って、不安と恐怖におののく毎日でした。混乱した心を何とかしようと、以前にもまして祈りにすがりつきましたが、それすら役に立ちません。いくら努力しようとも、イエス様に会った記憶から少しも逃れられなかったのです。泣き出したい気持ちをどうすることもできなくて、私はその恐れを詩に書きました。
人を疑えば、苦しみを覚え
人を裁けば、耐えがたくなり
人を憎めば、もはや私に存在価値はない
しかし、信じてはだまされ
今宵、手のひらに頭を埋めて、苦痛と悲しみに震える私
間違っていたのか。そうだ、私は間違っていた
だまされても、信じなければ
裏切られても、赦さなければ
私を憎む者までも、ひたむきに愛そう
涙をふいて、微笑んで迎えるのだ
だますことしか知らない者を
裏切っても、悔悟を知らない者を
おお主よ!愛の痛みよ
私のこの苦痛に目を留めてください
疼くこの胸に主のみ手を当ててください
されど
裏切った者らを愛したとき
私は勝利を勝ち取った
もし、あなたも私のように愛するなら
あなたに栄光の王冠を授けよう
イエス様に会った後、私の人生は完全に変わりました。イエス様の悲しい顔が私の胸中に烙印のように刻まれ、他の考え、他の心は全く浮かびませんでした。その日を境に、私は神様のみ言に縛られてしまいました。ある時は、果てしない暗闇が私を取り囲み、息つく暇さえないほどの苦痛が押し寄せたし、またある時は、昇る朝日を迎えるような喜びが心の中に満ちあふれました。そういう毎日が繰り返されて、私は次第に深い祈りの世界に入っていきました。イエス様が直接教えてくださる新しい真理のみ言を胸に抱いて、神様に完全に捕らえられて、以前とは全く異なる人生を歩むようになりました。考えることが山ほどあって、次第に口数の少ない少年になったのです。
神の道を行く人は、常に全力で事に当たり、心を尽くして、その目的地に向かっていくべきです。この道には執念が必要です。生来、頑固一徹な私は、元から執念の塊です。生まれつきの性質そのままに、苦難にぶつかっても執念で克服して、私に与えられた道を進んできました。試練に遭って翻弄されるたびに私を深いところで支えてくれたのは、「神様から直接、み言を聞いた」という厳粛な事実でした。しかし、一度しかない青春をかけてその道を選ぶことが、たやすいことだったでしょうか。逃げたい気持ちになったこともあります。
知恵のある人は、どんなに困難でも、未来への希望を抱いて黙々と歩いていきますが、愚かな人は、目の前の幸福のために未来を無駄に投げ捨ててしまいます。私も若い盛りには愚かな考えに染まったこともありましたが、結局は、知恵ある人が行く道を選択しました。神が願うささ道を行くために、一つしかない命を喜んで捧げました。逃げようとしても逃げ場がなくて、私が行く道はただその道以外にありませんでした。
ところで、神はなぜ私を呼ばれたのでしょうか。九十歳(数え) になった今も、毎日、神がなぜ私を呼ばれたのかを考えます。この世の中の無数の人の中から、よりによってなぜ私を選ばれたのか。容貌が優れているとか、人格が素晴らしいとか、信念が強いとか、そういうことではありません。私は頑固一徹で、愚直で、つまらない少年にすぎませんでした。私に取り柄があったとすれば、神を切に求める心、神に向かう切ない愛がそれだったと言えます。いつ、いかなる場所でも最も大切なものは愛です。神は、愛の心を持って生き、苦難にぶつかっても愛の刀で苦悩を断ち切れる人を求めて、私を呼ばれたのです。私は何も自慢できるものがない田舎の少年でした。この年になっても、私はただひたすら神の愛だけに命を捧げて生きる愚直な男です。
私は自分では何も分からなかったので、すべてのことを神に尋ねました。「神様、本当にいらっしゃいますか」と尋ねて、神が確かに実在することを知りました。「神様にも願いがありますか」と尋ねて、神にも願いがあるという事実を知りました。「神様、私が必要ですか」と尋ねて、こんな私でも神に用いられるところがあると知りました。
私の祈りと至誠が天に届く日には、イエス様は必ず現れ、特別なみ言を伝えてくださいました。切実に知りたいと願えば、イエス様はいつでも穏和な顔で真理の答えを下さいました。イエス様のみ言は鋭い矢のように、一直線に私の心深くに突き刺さりました。それは単なるみ言ではなく、新しい世界を開く啓示のみ言、宇宙創造の真実を明かすみ言でした。イエス様は風が傍らを通り過ぎるようにお話しになりましたが、私はそのみ言を胸に抱いて、木の根っこを抜く思いで切実な祈りを捧げ、宇宙の根本と世の中の原理を少しずつ悟っていきました。
その年の夏休み、私は祖国巡礼の旅に出ました。一文無しでもらい食いをして、運が良ければトラックに乗せてもらいながら、全国津々浦々を巡ってみました。祖国はどこに行っても涙の坩堝でした。飢えた民衆の苦痛に満ちた息遣いが絶えることはなく、彼らの凄絶な悔恨の涙が川のように流れました。
一日も早くこの悲惨な歴史を終わらせなければ。もうこれ以上、わが民族を悲しみと絶望に陥るままにしておいてはならない。何としてでも日本にも行き、アメリカにも行って、韓民族の偉大さを世界に知らせる方法を探し求めなければならない」
祖国巡礼を通して、私はもう一つの新たな課題を得て、今後の志をさらにしっかりと立てました。
「必ず民族を救い、神様の平和をこの地に成し遂げます」
両拳をぎゅっと握るや心も引き締まり、進む道がはっきりと見えました。

Thursday Sep 16, 2021
平和を愛する世界人として 第10話
Thursday Sep 16, 2021
Thursday Sep 16, 2021
第二章 涙で満たした心の川―神の召命と艱難
恐れと感激が交差する中で
私は物心がついてくると、「将来何になるのか?」という問題について熱心に考え始めました。自然を観察し研究することが好きだったので、科学者になろうかと考えましたが、日本の収奪に苦しめられ、日に三度の食事さえままならない人たちの惨めな有様を目にして、考えを変えました。科学者になってノーベル賞を取ったとしても、ぼろを身にまとい、飢えた人たちの涙をぬぐい去ることはできないと思ったからです。
私は人々の流れる涙をぬぐい、心の底に積もった悲しみを吹き払う人になりたかったのです。森の中に横になって鳥たちの歌声を聞くと、「あのさえずりみたいに、誰もが仲良く暮らせる世の中を築こう。一人一人の顔をかぐわしい花のように素晴らしくしてあげたい」という思いが自然と沸き上がってきました。一体どんな人になればそうできるのか、それはまだよく分かりませんでしたが、人々に幸福をもたらす者になろうという心だけは固まっていきました。
私が十歳の頃、牧師である潤國大叔父の影響で、私たち一家は全員キリスト教に改宗しました。次姉と兄の精神的な病が按手祈疇を通して治癒したことから、猫頭山(標高三一〇メートル)のふもとにある徳興長老教会に入教し、熱心に信仰生活をしたのです。その時から、私は真面目に教会に通って、礼拝を]度も欠かしませんでした。礼拝時間に少しでも遅れると、あまりにも恥ずかしくて顔を上げることができませんでした。まだ子供なのに何を思ってそうしたかというと、私の心の中には、その時すでに神の存在がとても大きな位置を占めていたのです。そして、生と死や人生の苦しみと悲しみについて、深刻に悩む時間が増えていきました。
十二歳の時、曾祖父のお墓を移葬するのを見たことがあります。本来は一族の大人だけが参列する場でしたが、人が死ねばどうなるのか直接見たいという欲求に駆られて、必死に割り込んで入れてもらいました。墓を掘り起こして移葬する様子を見守った私は、驚きと恐怖に襲われました。儀礼作法を弁えた大人たちが集まって墳墓を開けた時、私の目に飛び込んできたのはか細い骨の欠片だけでした。両親から聞いていた曾祖父の姿は跡形もなく、白い骨だけがぞっとするような醜い姿を現しました。
曾祖父の骨を見てから、私はしばらくの間、その衝撃から抜け出すことができませんでした。「曾祖父も生きておられた時はみんなと全く同じ姿をしていたはずなのに……。そうすると、父や母も亡くなれば曾祖父のように白い骨だけが残るのか。自分も死ねばそうなるのか。人はみんな死ぬけれど、死んだ後は何も考えられず、そのまま横たわってばかりいるのか。思いはどこにいくのか……」
そうした疑問が、頭の中を離れませんでした。
その頃、家の中でおかしな出来事がたくさん起きました。今もはっきりと思い出すことが一つあります。礼装を仕立てようと、機織りで作る反物の出来上がったところまでを甕に入れておいたのに、ある晩、その白い布地が上の村の古い栗の木に掛かっていました。できた部分は一疋(二反)ほどの量になるまで少しずつ集めておいて、その木綿の生地で子供らの婚礼衣装を縫うのですが、これを故郷では「礼装」と呼びました。ところで、誰が夜中に家から遠く離れた栗の木に掛けたのか、それが分かりませんでした。到底人の仕業とは思えないので、近所の誰もが恐れたのです。
十五歳の頃、十三人の兄弟姉妹のうち五人の弟妹が、わずか一年で相次いでこの世を去るという悲劇も経験しました。一度に五人もの子供を失った両親の傷ついた心は言葉で表現しようがありません。ところが、ぞっとすることに、不幸はわが家の塀を越えて一族にまで及びました。丈夫だった牛が急に死に、続いて馬が死に、一晩のうちに豚が七匹も死んでいきました。
家族の苦難は民族の苦痛、世界の苦痛と無縁ではありません。次第にひどくなる日本の圧政とわが民族の悲惨な立場を見つめて、私の苦悩もただ深まるばかりでした。食べる物がなくて、人々は草や木の皮もあるだけもぎ取って、それを煮て食べるほどでした。世界的にも戦争が絶えませんでした。
そんなある日のことです。新聞で、私と同じ年の中学生が自殺したという記事を読みました。
「その少年はなぜ死んだのだろう。幼い年で何がそんなにつらかったのか……」
少年の悲しみがまるで私自身の悲しみであるかのよう感じられて、胸が締めつけられました。新聞を広げたまま三日三晩泣き通しました。とめどなく涙が流れて、どうしようもありませんでした。
世の中でなぜこれほど異様なことが相次いで起こるのか、なぜ善良な人を悲しみが襲うのか、私には全く理解できませんでした。曾祖父の墓を移葬する際に遺骨を目撃してからというもの、生と死の問題に疑問を持つようになった上、家の中で起こる理解しがたい出来事によって、私は宗教に頼るようになりました。しかしながら、教会で聞くみ言だけでは、生と死に関する疑問をすっきりと解くことができません。もどかしく思った私は、自然と祈りに没頭するようになりました。
「私は誰なのか。どこから来たのか。人生の目的は何か」
「人は死ねばどうなるのか。霊魂の世界は果たしてある のか」
「神は確実に存在するのか。神は本当に全能のお方なのか」
「神が全能のお方であるとすれば、なぜ世の中の悲しみをそのまま見捨てておかれるのか」
「神がこの世をつくられたとすれば、この世の苦しみも神がつくられたものなのか」
「日本に国を奪われたわが国の悲劇はいつ終わるのか」
「わが民族が受ける苦痛の意味は何なのか」
「なぜ人間は互いに憎み合い、争って、戦争を起こすのか」
等々、実に深刻で本質的な問い掛けが私の心を埋め尽くしました。
誰も容易に答えられない問いなので、答えを得るには祈るしかありません。私を苦しめる心の問題を神様に打ち明けてお祈りしていると、苦しみも悲しみも消えていって、心が楽になります。祈る時間は次第に長くなりました。祈りで夜を明かす日も、一日また一日と増えていきました。そしてとうとう、神様が私の祈りに答えてくださる日がやって来ました。それは何物にも代えがたい貴重な体験で、その日は、私の生涯に最も大切な記憶として残る、夢にも忘れることのできない一日です。
十五歳になった年の復活節(イースター)を迎える週でした。その日も、いつもと同じように近くの猫頭山に登って、夜を徹して祈りながら、神様に涙ですがりつきました。なにゆえこのように悲しみと絶望に満ちた世界をつくられたのか、全知全能の神がなぜこの世界を痛みの中に放置しておられるのか、悲惨な祖国のために私は何をしなければならないのか。私は涙を流して何度も何度も神様に尋ねました。
祈りでずっと夜を過ごした後、明け方になって、イエス様が私の前に現れました。風のように忽然と現れたイエス様は、「苦しんでいる人類のゆえに、神様はあまりにも悲しんでおられます。地上で天の御旨に対する特別な使命を果たしなさい」と語られたのです。
その日、私は悲しい顔のイエス様をはっきりと見、その声をはっきりと聞きました。イエス様が現れた時、私の体はヤマナラシの木が震えるように激しく震えました。その場で今すぐ死んでしまうのではないかと思われるほどの恐れ、そして胸が張り裂けるような感激が一度に襲いました。イエス様は、私がやるべきことをはっきりとお話しになりました。苦しんでいる人類を救い、神様を喜ぶようにしてさしあげなさい、という驚くべきみ言でした。
「私にはできません。どうやってそれをするのでしょうか。そんなにも重大な任務を私に下されるのですか」
本当に恐ろしくてたまらず、何とか辞退しようとして、私はイエス様の服の裾をつかんで泣き続けました。

Thursday Sep 16, 2021
平和を愛する世界人として 第9話
Thursday Sep 16, 2021
Thursday Sep 16, 2021
「日本人はどうぞ日本に帰りなさい」
誤解のないように付け加えておくと、私は野山を歩き回って四六時中遊んでいたわけではありません。兄を助けて野良仕事も熱心にやりました。農村には、季節ごとにやらなければならない仕事がたくさんあります。田や畑を耕し、田植えをし、田畑の草取りもしなければなりません。草取りの中で最もつらいのが、粟の畑で雑草を取る作業です。種を蒔いた後、畝間の除草を三回はしないといけないのに、粟畑の除草は重労働で、一回やり終えるごとに腰が曲がるほどでした。サッマイモは赤土に植えて育てると味がなく、砂土に赤土を三分の一ほど混ぜた土壌で育てると甘いサツマイモを収穫できます。トウモロコシを育てるには、人糞の堆肥が最も良いため、手で糞をこねまわして粉末を作ることもしました。野良仕事を手伝ってみて、どうやれば良い豆や良いトウモロコシができるのか、どんな土に豆や小豆を植えればいいのか、自然と分かるようになりました。ですから、私は農夫の中の農夫です。
平安道はキリスト教文物が早くから入ってきた所で、一九三〇年代、四〇年代にすでに農地が真っすぐに整理されていました。田植えをするときは、一竿を十二間に分けて一間 (普通、一間は六尺で約一・八ニメートル) ごとに目印を付けておき、この長い竿を少しずつ移動させて、二人で六列ずつ動きながら整然と苗を植えていきます。後に韓国に来てみると、竿もなく、ただ列の線を引いただけで、一列に数十人ずつ入って、じゃぶじゃぶと行ったり来たりして植えるやり方で、実にもどかしく見えました。足を指尺二つ分の幅に開けて立ち、素早く植えるのがコツです。私が農繁期に田植えを手伝っただけでも学費程度は十分稼ぐことができたのです。
九歳になると、父は私を近所の書堂に送りました。書堂では、一日に本一ページだけ覚えればよいとされていました。三十分だけ集中して覚えて、訓長(先生)の前に立ってすらすら詠ずれば、その日の勉強は終わりです。
年老いた訓長が昼食の前後三時間ほど昼寝に入ると、私は書堂を出て、野山を歩き回りました。山に行く日が増えれば増えるほど、草や実など食べ物の在り処にも精通するようになり、そうなると次第に食べる量が増えて、それだけで食の問題を解決しました。ですから、昼食や夕食は必要ないのです。その時から、私は家で昼食を取らずに山に行くようになりました。
書堂に通って『論語』『孟子』を読み、漢字を学びましたが、文字はかなり上手に書きました。おかげで十一歳の時から、訓長に代わって、子供たちが手本にする書を書くようになりました。ところで、実を言うと私は書堂より学校に通いたかったのです。世の中は飛行機を造っているのに、「孔子曰く」「孟子曰く」でもないだろうと思ったからです。その時が四月で、父がすでに一年分の授業料を全額払った後でした。それを知りながら書堂をやめると決心して、父を説得しました。祖父も説得し、叔父までも説得しました。当時、普通学校に移ろうとすれば編入試験を受ける必要があり、試験に合格するには塾に入って勉強しなければなりませんでした。私はいとこまでけしかけて、圓峰の塾に入って、普通学校編入のための勉強を始めました。
十四歳になった一九三四年、編入試験を受けて私立五山普通学校の三学年に入りました。入った時は人より遅れていましたが、勉強ができて五学年に飛び級しました。五山学校は家から二十里(約八キロメートル)も離れた所にあります。しかし、私は一日も休まず、毎日決まった時間に歩いて行きました。峠を越えると他の子供たちが待っていて、私が先に立ってサッサッサッと早足で歩いていくと、彼らは付いてくるのが大変そうでした。平安道の虎が出てくる恐ろしい山道を、そうやって歩いて通いました。
五山学校は独立運動家である李昇薫先生が建てた民族学校です。日本語を教えないだけでなく、初めから日本語を使えないようにしました。しかし、私の考えは少し違っていて、敵を知ってこそ敵に勝つことができると考えました。それで、再び編入試験を受けて、今度は定州公立普通学校四学年に入りました。公立学校の授業はすべて日本語です。初登校の前夜、辛うじて片仮名と平仮名だけを覚えて登校しました。それでも、日本語が全然できなくて困り、一学年から四学年までの教科書を十五日以内に全部覚えました。そうやって初めて耳が通じたのです。
おかげで、普通学校を卒業する頃には、日本語を流暢に話せるようになっていました。卒業式の日、定州邑 (邑は面の中で人口が多く商工業が盛んな地域を指し、日本では町にあたる) の主立った名士が皆、学校に集まってきました。私は志願して、彼らを前にして演説をしました。感謝の言葉を述べたのではありません。この先生はどうであり、あの先生はどうであり、学校制度にはこのような問題があって、この時代の指導者はこういう覚悟で臨むべきだ等々、批判的な演説を日本語で続けざまにやりました。
「日本人は一日も早く荷物をまとめて日本に帰りなさい。この地は、わが国の者たちが子々孫々にわたって生きていかなければならない先祖から受け継いだ遺産です!」
そういう演説を、警察署長、郡守、面長すべてが集まった前でやりました。潤國大叔父の魂を受け継いで、あえて誰も言えない言葉をぶつけたのです。聴衆がどんなに驚いたかしれません。演壇を降りる時に見てみたら、彼らの顔は灰色に曇り、呆然としていました。
問題はその後です。日本の警察は、その日から私を要注意人物としてマークし、私の行動をあれこれと監視し、うるさく付きまといました。後には、日本に留学しようとした際、警察署長が書類に判を押してくれなくて、ひどく苦労しました。日本に送るわけにはいかない要注意の青年として拒絶したのです。結局、警察署長と激しく争って、強く訴えた後になって、ようやく日本に渡って行くことができるようになりました。

Thursday Sep 16, 2021
平和を愛する世界人として 第8話
Thursday Sep 16, 2021
Thursday Sep 16, 2021
草むらの虫と交わす宇宙の話
森の中にいれば心が澄んできます。木の葉がしきりにカサカサする音、風が葦を揺らす音、水場で鳴くカエルの鳴き声といった自然の音だけが聞こえ、何の雑念も生じません。そこで、心をがらんと開け、自然を全身で受け入れれば、自然と私は別々のものではなくなります。自然が私の中に入ってきて、私と完全に一つになるのです。自然と私の問の境界がなくなる瞬間、奥妙な喜びに包まれます。自然が私になり、私が自然になるのです。
私はそのような経験を生涯大事にしまって生きてきました。今も目を閉じれば、いつでも自然と一つになる状態が訪れます。ある人は無我の状態だとも言いますが、私を完全に開放したところに自然が入ってきてとどまるのですから、事実は無我を超えた状態です。その状態で、自然が話しかける音を聞くのです。松の木が出す音、草むらの虫が発する音……。そうやって私たちは友達になります。
私は、その村にどんな心性を持った人が住んでいるか、会ってみなくても知ることができます。村の野原に出て一晩過ごし、田畑で育つ穀物の言葉に耳を傾ければ、おのずと分かるようになります。穀物が嘆息するのか喜ぶのかを見れば、村人の人となりを知ることができるのです。
韓国と米国、さらには北朝鮮で何度か監獄に入っても、他の人のように寂しいとかつらいとか思わなかったのも、すべてその場所で風の音を聞くことができ、共に暮らす虫たちと会話を交わすことができたからです。
「虫たちと一体どんな話をするんだ!」と疑うこともできますが、ちっぽけな砂粒一つにも世の中の道理が入っており、空気中に浮かぶ埃一つにも広大無辺な宇宙の調和が入っています。私たちの周りに存在するすべてのものは、想像もできないほどの複合的な力が結びついて生まれているのです。また、その力は密接に連関して相互につながっています。大宇宙のあらゆる存在物は、一つとして神の心情の外で生まれたものはありません。木の葉一枚揺れることにも宇宙の息遣いが宿っています。
私は幼い頃から山や野原を飛び回って、自然の音と交感する貴重な能力を与えられました。自然はあらゆる要素が つのハーモニーをなして、偉大で美しい音を作り出します。誰一人として排除したり無視したりせず、どんな人でも受け入れて調和をもたらします。自然は、私が困難にぶつかるたびに私を慰めてくれたし、絶望して倒れるたびに私を奮い立たせました。大都市に生きる最近の子供たちは自然と親しむ機会すらありませんが、感性を教え育むことは知識を養うことより重要です。自然を感じる心がなく、感性が乾いた子供であるならば、誰が教育したところで何が変わるでしょうか。せいぜい世間に広まった知識を積み上げて個人主義者になるだけです。そんな教育では、物質を崇拝する唯物論者ばかりを作り出すことになってしまいます。
春の雨はぽつぽつ降り、秋の雨はぱらぱら降る、その違いを感じることができなければなりません。自然との交感を楽しめる人であってこそ正しい人格が身に付くと言えます。道端に咲いたタンポポ一本が天下の黄金よりも貴いのです。自然を愛し、人を愛することのできる心を備えておくべきです。自然も、人も愛せない人は、神を愛することはできません。神が創造された万物は神ご自身を表す象徴的な存在であり、人は神に似た実体的な存在です。万物を愛することのできる人だけが神を愛することができます。

Tuesday Sep 14, 2021
平和を愛する世界人として 第6話
Tuesday Sep 14, 2021
Tuesday Sep 14, 2021
やると言えばやる「一日泣き」の強情っばり
父はお金を貸して踏み倒されることはあっても、返してもらうことには無頓着な人でした。しかし、自分がお金の入り用があって借金したときは、返済の約束は、牛を売り、家の柱を抜いてでも必ず守る人でした。父はいつも、「小手先の企みで真理を曲げることはできない。真というものは、そんな企みに屈するものではない。小手先の企みで何をしようと、数年も経たずにぼろが出るものだ」と言っていました。父は風采が良かったばかりか、米俵を背負って階段をのっしのっしと上がっていくほど逞しい体の持ち主でした。私が九十歳(数え)になっても世界を股に掛けて活動できるのは、父から譲り受けた体力のおかげです。
讃美歌「あの高い所に向かって」を好んで歌った母も、並の女性ではありませんでした。真っすぐで、豪胆で、荒っぽいのが母の性格でした。額や頭のつるりとしたところに加えて、性格もそのまま受け継いだ私は、我が強く、この母にしてこの息子ありと言えそうです。
幼い頃、私のあだ名は一日泣き」でした。一度泣き始めると、一日中泣いてようやく泣き止むところから付いたあだ名です。泣くときは、一大事でも起こったかのようにわんわん泣いて、寝ている者が皆起き出してくるほどだったといいます。じっと座って泣いたのではありません。部屋の中で、ひっくり返って、跳ね回りながら騒ぎを起こして、体のあちこちに傷ができ、皮膚が切れて、部屋のそこらじゅうが血だらけになるほど泣いたそうです。幼い時からとても気性の激しいところがありました。
一度決心すると絶対に譲歩しませんでした。どんなことがあっても譲歩しませんでした。もちろん物心がつく前のことです。過ちを犯したのは私だと分かっていても、母が何か指摘すると、「違う。絶対違う1」と言ってぶつかりました。「間違っていました」と一言で済むのに、死んでもその言葉を口にしませんでした。しかし母も負けてはいません。「さあ、親が答えなさいというのに答えないのか!」と言って叩くのです。ある時などは、何回叩かれたか分からないほど叩かれて気絶してしまいました。それでも私は降伏しませんでした。すると今度は、目の前でおいおい泣き始めるではありませんか。その姿を見ても、まだ間違っていたとは言いませんでした。
我が強いだけに勝負欲も強くて、どんなことでも、死んでも負けるものかという気持ちでいました。大げさではなくて、「五山の家の小さな目。あいつは一度やると言ったら必ずやる奴だ」と村の大人の誰もが認めるほどでした。何歳の時だったか、私に鼻血を出させて逃げていった子供の家に一月も通い詰めたあげく、その子と会って、親からは謝罪を受け、餅まで一抱えもらってきたのを見て、大人たちも舌を巻きました。
だからといって、気力だけで勝とうとしたのではありません。同じ年頃の子供たちよりもはるかに体も大きく、力も強かったので、村には腕相撲で私にかなう者がいませんでした。ところが、三歳年上の子に相撲で負けたことがあり、その時はひどく腹が立って我慢がなりませんでした。そこで、毎日山に登り、アカシアの木の皮が剥がれるほど木にぶつかって稽古し、力を付けて、六カ月後にはその子に勝ってしまいました。
わが家は子供が多い家系です。私の上に兄が一人、姉が三人、下に弟と妹が八人いました。幼い頃は兄弟が多くいて、本当に良かったと思います。兄弟姉妹、いとこ、またいとこ、全員呼び集めたら何でもできました。それでも歳月が過ぎてみると、広い世界に私一人が残った気分です。
一九九一年末、北朝鮮に八日間ほど行く機会がありました。四十六年ぶりに故郷に行ってみると、大勢いた兄弟と母はすでに亡くなり、姉一人と妹一人だけが生きていました。子供の頃、母のように私の世話をしてくれた姉は七十を過ぎたお婆さんになっていたし、あれほどかわいかった妹もすでに六十を過ぎて、顔は雛だらけでした。
あの頃は、この妹をなんだかんだとよくからかったものです。「孝善、おまえの新郎になる奴は目が一つしかないそ!」と言って逃げると、「何ですって!そんなこと、お兄さんがどうして分かるの?」と言いながら追いかけてきて、小さな拳で私の背中をパンパン叩きました。十七歳になった年に、孝善が叔母の紹介で見合いをしました。その日、朝早くから起きて、髪をきれいに整え、美しく化粧した孝善は、家の内外を掃除して新郎となるかもしれない人を待っていました。「孝善、おまえそんなに嫁に行きたいのか?」とからかうと、化粧した顔が赤く染まって、その姿が何とも言えずかわいらしかったです。
北朝鮮を訪問して十数年が過ぎた今は、あの時私と会って、胸が痛くなるほど泣いた姉も亡くなり、妹一人が残っているだけというのですから、切なくて、心がすっかり萎れてしまうようです。
手先が器用だった私は、靴下や服の類は自分で編んで着ていました。寒くなれば帽子もすいすい編んで被りました。編み物の腕前は女たちよりも上で、姉にも教えてあげたし、孝善の襟巻きも私が編んでやりました。針仕事も好きでした。熊の足裏のように大きく分厚い手で、下着も自分で作って着たのです。「荒織りの木綿」を置いて、それをさっと半分に折って、型を取って寸法に合わせて裁断した後、裁縫をすると、自分の体にぴったりのものができました。母の足袋もそうやって作って差し上げたところ、母は「おやおや、二番目の子が遊びでしていると思ったら、母さんの足にぴたっと合ってるね」と言って、喜んでくれました。
孝善の下には妹が四人もいました。母は十三人の子供を産んで、五人の子供に先立たれています。母が憔悸したのは言うまでもありません。生活に余裕がない上、子供がそんなにも多くて、母は言葉で言い尽くせないほどの苦労をしました。
その当時、娘を嫁に出すとか嫁をもらうときには、木綿を織らなければなりませんでした。綿花から取り出した綿を糸車に入れて糸を紡ぎますが、糸車に入れる際のほぐした綿の固まりを平安道の言葉で「トケンイ」と言います。子供たちが一人、二人と結婚するたびに、「荒織りの木綿」のように柔らかく美しい木綿が、母の厚ぼったい手を通して作られました。人1 倍手際が良くて、普通の人が一日に三、四枚織る布を、母は十枚も二十枚も織り出しました。姉を嫁に出すというので、速いときは一日に一疋(二反)織ることもありました。決意すれば何でもさっとやってしまう母の性急な性格によく似て、私も何でもさっとやってしまう性分です。
今もそうですが、私は幼い頃からどんな食べ物でもよく食べました。トウモロコシもよく食べ、生のキュウリもよく食べ、生のジャガイモや空豆もよく食べました。二十里(約八キロメートル) 離れている母の実家の畑に蔓が伸びているのがあって、何かと尋ねてみたら「チクァ」という返事でした。その村ではサツマイモを「チクァ」と言ったのです。掘って食べてみると、後味が素晴らしく良くて、籠に入れて持ってきて一人で全部食べました。翌年からは、サツマイモの季節になると、しばしば母の実家に走って行きました。「お母さん、しばらくの問どこそこに行ってきますよ」と言って、二十里の道を一息で走って行き、サツマイモを食べたのです。
故郷では、五月はジャガイモの蓄えが底を尽きかける一番大変な時期です。冬の間はずっとジャガイモばかり食べて、春になって六月頃に麦を収穫するとジャガイモ暮らしは終わりを告げます。麦は最近のように食べやすくした平麦ではなく、丸麦でしたが、それなりに美味しく食べました。丸麦を二日ほど水でふやかしてご飯を炊くと、スプーンでぎゅうぎゅう押さえたとき、飯粒が弾けて散らばります。それにコチュジャン(唐辛子みそ)をさっと混ぜて一口食べると、麦が口の端からしきりに飛び出してきます。そこで、口をむっと閉じて、もぐもぐと食べた覚えがあります。
アマガエルもたくさん捕って食べました。昔の田舎では、子供たちが麻疹にかかるか病気になるかして顔がやつれていれば、アマガエルを食べさせました。太ももがぱんぱんに張った大きなアマガエルを三、四匹捕まえて、カボチャの葉に包んで焼くと、蒸し器で蒸したようにふかふかしてとても美味しいのです。味からすればスズメの肉、キジの肉にも劣りません。広い野原を飛び回っていたクイナはもちろん、まだらでかわいい山鳥の卵もたくさん焼いて食べました。このように、自然界には神様が下さった食べ物があふれていることを、山や野原を歩き回って知っていきました。

Tuesday Sep 14, 2021
平和を愛する世界人として 第7話
Tuesday Sep 14, 2021
Tuesday Sep 14, 2021
牛を愛せば牛が見える
目に入るものはすべてを知り尽くして初めて満足する性格だったので、何でも大まかに知ってそれで終わりということはありませんでした。「あの山の名前は?あの山には何があるのだろう?」という疑問が浮かぶと、必ず行ってみたものです。幼い頃、二十里 (約八キロメートル) 四方にある村々の山の頂という頂には全部登ってみました。その山に行く途中も行かない所がありませんでした。そうやってこそ朝日が照らすあそこに何があるかを心に思い浮かべ、心置きなく眺めることができるのであって、分からないと眺めるのも嫌になります。目に入るものは、その向こう側にあるものまですべて知らなければ気が済まず、我慢できませんでした。
ですから、山に行って触ってみなかった花や木がありません。目で見るだけでは物足りず、花も木も触ってみたり、匂いを嗅いでみたり、口に入れてみたりしました。その香りと食感があまりに心地良くて、一日中草木の匂いを嗅いでいなさいと言われても嫌ではありませんでした。良き自然に魅了されて、外に行けば家に帰るのも忘れてしまい、野山を歩き回りました。太陽が沈んで薄暗くなっても恐ろしいとは思いませんでした。
姉たちが山菜採りに行く時は、私が先頭になって山に登って、山菜をもぎ取りました。おかげで、味が良くて栄養価のある青菜も種類別に全部分かるようになりました。その中で、好物と言えば苦菜です。薬味を加えた醤油で和えて、ビビンバに入れてコチュジャンと混ぜて食べると、味が一級品でした。苦菜は、食べるとき口に含んでちょっと息を止めます。そうやって一呼吸置いてよく蒸らすうちに、苦菜の苦味が消えて、口の中に甘味が染み出してきます。そのコツがうまくつかめると、非常に美味しく苦菜を食べることができます。
木登りも好きで、わが家にあった樹齢二百年の大きな栗の木を登り降りしました。村の入り口の外まで大きく広がった展望がどれだけ素晴らしいことか。木のてっぺんまで上がって、いつまでも降りようとしませんでした。
ある時、夜中まで登っていたら、すぐ上の姉が眠らずに私を捜しに来て、危険だと大騒ぎしたことがあります。
「龍明、お願いだから降りてきなさい。夜遅いから、早く戻って寝なければ」
「眠くなったらここで寝ればいいよ」
姉に何を言われようと、私は栗の木の枝に座ってびくともしません。すると、腹を立てた姉が怒鳴りました。
「こら、猿!早く降りてこい!」
私が木登りを好んだのは申年生まれだったせいかもしれません。
栗の木に毬栗が鈴生りに垂れ下がるようになると、あっちの木こっちの木と、折れた木の枝を使って毬栗をゆらゆら動かして回りました。毬栗がぽとぽと地面に落ちていくので、この遊びも本当に面白いものでした。都会暮らしの最近の子供たちがこういう面白さを知らないのは実に残念なことです。
自由に空を飛び回る鳥も私の関心の対象でした。なかなかきれいな鳥が飛んでくると、雄はどうなっているのか、雌はどうなっているのかと、実地にいろいろ調べて研究しました。その頃は木や草や鳥の種類を教えてくれる本がなくて、自分で詳しく調べてみる以外方法はなかったのです。渡り鳥の後を追って山をあちこち捜し回ろうとし、おなかが空いても気になりませんでした。
ある時、カササギがどうやって産卵するのかひどく気になって、朝な夕なカササギの巣がある木を登り降りしました。毎日のように木登りして観察したので、実際に卵を産む場面も見たし、カササギとも友達になりました。
「カッカッカッカッ」
カササギも初めは私を見ると、しきりに鳴いてやたらと騒いだのですが、後になるとじっとしていました。
周辺の草むらの虫も私の友達でした。毎年夏の終わり頃になると、私の部屋の前にある柿の木のてっぺんでヒグラシが鳴きました。夏の間中ミンミンミンと耳痛く鳴いていたセミの声がぱったり途絶えて、ヒグラシが鳴き始めると、どれだけほっとするかしれません。もうすぐ蒸し暑い夏が去り、涼しい秋が来るという季節の変わり目を告げる鳴き声だったからです。
「カナ、カナカナカナカナ」
そうやってヒグラシが鳴くたびに、私は栗の木に登って考えました。
「そうだな。穴に入って鳴いたって誰も気がつかないさ。やっぱり、どうせ鳴くなら、ああいう高い所で鳴いたら村の人みんなに聞こえていいよなあ」
ところで、分かってみると、ミンミンゼミもヒグラシもすべて(人に聞かせるためではなく)
愛のために鳴くのでした。ミンミンミンもカナカナカナも鳴き声は皆、連れ合いを呼ぶ信号だと知ってからは、虫の声が聞こえるたびに笑いが込み上げました。
「そうか、愛が恋しいというのか。熱心に鳴いて、素敵な連れ合いを見つけろよ」
このように自然界の生き物と友達になって、彼らと心を通わせる方法を少しずつ悟っていきました。
故郷の家から十里(約四キロメートル)西に行くと黄海です。少し高い所に登るだけで広々とした海が見えるほど、海は近くにありました。溜め池がいくつもあって、そこに小川の水が流れ込んでいました。下水のにおいがする池に入り、中をあさって、ウナギとカニを上手に捕まえたものです。池の中のあらゆる場所を探って魚を捕まえてみると、どこにどんな魚が棲んでいるのかよく分かりました。ウナギはもともと広い所に腹ばいでじっとしているのが嫌いで、穴に隠れます。頭を穴に押し込んでも、長い体を全部は入れることができず、尻尾がちょこっと出ているのが普通です。その尻尾らしきものを口で噛んで捕まえれば間違いないのです。カニの棲む穴のような所に、ウナギは尻尾を出してじっと潜んでいました。わが家に来客があって、お客様がウナギの煮詰めたものを所望されたときは、十五里(約六キロメートル)の道をぶっ通しで走っていってウナギを五匹ほど捕まえてくるのは訳もないことでした。夏休みになれば一日に四十匹以上、いつも捕ってきたからです。
私が唯一嫌だったのは、牛に牧草を食べさせることでした。父から牛に食べさせてこいと言われると、向こう側の村の野原に牛をつないでおいて、その場から逃げてしまいました。しばらくの時間逃げて、心配になって戻ってみると、牛は相変わらずその場所につながれていました。半日近く過ぎても自分に食べさせてくれる人が来なければ、牛はモーと鳴きます。遠くで牛の鳴き声が聞こえてくると、私はいたたまれなくなって、「牛の奴め。あいつめ、あいつめ……」と言って苛立ちました。おなかが空いたと私を捜して鳴く声を、気にしないようにしても気になって仕方がなく、胸がつぶれる思いをしました。それでも、夕方遅くに行ってみると、怒って角で私を追い返そうとすることもなく喜んでいました。そんな牛を見るたびに、人間も大きな志の前では牛と同じでなければならないと考えました。愚直に時を待てば良いことに出会うようになるものです。
わが家には、私がとてもかわいがっていた犬がいました。利口な犬で、学校から戻ってくると家の外の遠くまで迎えに来ました。私を見つけるとうれしそうにするので、いつも右手で触ってやりました。そのせいか、犬がたまたま私の左側に来ても、さっと回って右側に来て、私に顔をすりつけてきます。そのときは右手で顔を触って顔や頭をごしごししてやり、背中を撫でてやりました。そうしないと、キャンキャン吠えては付いてきて、私の周りをぐるぐる回るのです。
「こいつ、愛が何であるのか分かるのか。それほど愛がいいのか」
動物も愛を知っています。雌鶏が雛をかえすために卵を抱いている姿を見たことがあるでしょうか。卵を抱いた雌鶏は、深刻そうな目をして、誰も近くに来ないように足を踏みならして、一日中座っています。雌鶏が嫌がるのは承知の上で、私は鶏小屋を随時出たり入ったりしました。入っていくと、雌鶏は怒って、首を真っすぐに立てて私を睨みつけます。私も負けじと睨み返します。あまり頻繁に出入りしたので、後になると、最初から私を相手にしなくなりました。しかし一度だけ、神経が高ぶったのか、卵を守ろうと足の爪を長く伸ばして、ピューンと飛んで私をつつこうとしたことがあります。結局、卵が気になってその場を離れられず、徒労に終わりましたが。
卵を抱いた雌鶏は、私がわざと近くに行って羽を触ってもぴくりともしませんでした。おなかの羽毛が抜けてしまうほど卵を守って座り続け、やがて雛を誕生させます。そうやって母子が愛でしっかりと一つになっているので、卵を抱いた雌鶏の権威の前では雄鶏も好き勝手なことはできません。「誰であろうと、ちょっとでも触ってみろ。黙っちゃいないぞ!」という天下の大王の権威を持っているのです。
雌鶏が卵を抱いて守ることが愛であるように、豚が子を産むことも愛です。豚が出産する様子も見守りました。親豚がウーンと稔って力むと子豚がつるっと落ち、またウーンと捻って力むとつるっと出てきました。猫も犬も同様です。目も開けられない動物の子供たちが、ウーンと力むたびにこの世界に出てくるのを見ると、うれしくて自然と笑みがこぼれます。しかしながら、動物の死を見るのは実に悲しいことです。
村から少し離れた所に屠畜場がありました。牛が屠畜場に足を踏み入れると、白丁(屠畜などに従事する当時の被差別民)が出てきて、腕ほどの太さの金槌で牛をドーンと一撃します。大きな牛がばたりと倒れて、すぐに皮を剥ぎ、足を取り外します。足を取り外した後でも、切られた箇所がずっとぴくぴくしているのです。生命が死にきれなくて生きているのです。それを見ると涙があふれて、わんわん泣きました。
私は幼い時から人並み外れているところがありました。神通力があるかのように、人々が知り得ないことをかなりよく言い当てました。幼い頃から、「雨が降る」と言えば間違いなく雨が降ったし、家の中に座って「あの上の村の誰々お爺さんが危ないだろう」と言えば、そのとおりになりました。そんな能力があったので、七歳の時から村々で見合いをしてあげるチャンピオンになりました。新郎と花嫁の写真を二枚だけ持ってくればすべて分かりました。「この結婚は良くない」と言ったのに結婚すれば、全部壊れてしまいました。そのように良縁を結んであげることを九十歳になるまでしたのですから、その人が座ったり、笑ったりするのをさっと見ただけで、すべて分かるようになりました。
姉が今何をしているのかも、集中して思念してみるとすべて知ることができました。精神を統一し、集中して思念すれば、全部分かりました。ですから、姉たちは私を好きでありながらも、一方で私を恐れました。私が彼女たちの秘密を何でも知っていたからです。凄い神通力のように見えますが、実際のところ、これは別段驚くようなことではありません。取るに足りない蟻でさえも、梅雨の始まりを知って前もって避難するではありませんか。人間も自分の行く道を先んじて知らなければなりません。それを知るのはそれほど難しいことでもありません。カササギの巣を詳しく観察すれば、風がどこから吹いてくるかを知ることができます。どこからか風が吹いてくれば、カササギはその反対側に入口をさっと作っておきます。木の枝をくわえてごちゃごちゃと絡み合わせた後、雨水が入らないように巣の下と上に赤土をくわえてきて塗ります。そうしてから木の枝の端をすべて一つの方向に揃えます。家の軒のように雨水が一箇所にだけ流れるようにするのです。カササギにもこれだけの生きる知恵があるのに、人間になぜそういう能力がないのでしょうか。
父と一緒に牛の市場に行って、「お父さん、あの牛は良くないから買っては駄目です。良い牛はうなじがしっかりして、前足が立派で、後ろと腰ががっしりしていなければならないのに、あの牛は全然そうじゃない」と言えば、必ずその牛は売れませんでした。父に「おまえはそんなことをどうやって知ったのか」と言われたので、私は「お母さんのおなかの中で学んで生まれました」と答えました。もちろんそれは、そんなふうに言ってみただけです。
牛を愛すれば牛が見えるのです。この世で最も力強いのが愛であり、一番恐ろしいのは精神統一です。心を落ち着かせ静めていくと、心の奥深い所に心が安らぐ場があります。その場所まで私の心が入っていかなければなりません。心がそこに入って眠って目覚めるときには、精神がとても鋭敏になります。まさにその時、雑多な考えを排除して精神を集中すればすべてのことに通じます。疑問に思ったら、今すぐにでもやってみたらよいでしょう。この世のすべての生命は、自分たちを最も愛してくれるところに帰属しようとします。ですから、真に愛さないのに所有し支配することは偽りなので、いつかは吐き出すようになっているのです。

