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Tuesday Sep 14, 2021
平和を愛する世界人として 第5話
Tuesday Sep 14, 2021
Tuesday Sep 14, 2021
私の人生の明確な羅針盤
私たちの本貫は全羅道羅州の東にある南平です。曾祖父文禎紘は高祖父文成学の息子で、三兄弟の末弟でした。曾祖父にも致國、信國、潤國の三兄弟の息子がおり、私たちの祖父は長兄に当たります。
祖父の致國は学校にも通わず書堂 (日本の寺子屋に似た私塾)にも行ったことがないため、字は一つも知りませんでしたが、聞いただけで『三国志』をすべて暗記するほど集中力がずば抜けていました。『三国志』だけではありません。誰かが面白い話をすると、それを全部頭に入れてすらすらと暗唱しました。何でも一度だけ聞くと全部覚えてしまいます。祖父に似て、父も四百ページ以上ある「讃美歌』をすべて暗記して歌いました。
祖父は「無条件に与えて生きなさい」という曾祖父の遺言によく従いましたが、財産を守ることはできませんでした。末弟の潤國大叔父が一族の財産を抵当に取られて、すっかりなくしてしまったからです。それからというもの、家族、親族の苦労は並大抵ではありませんでした。しかし、祖父も父も、潤國大叔父を一度も怨みませんでした。なぜなら、賭博に手を出して財産を失ったわけではなかったからです。大叔父が家の財産を担保にして借りたお金は、すべて上海臨時政府(一九一九年四月に上海で組織された亡命政府。正式には大韓民国臨時政府)に送られました。当時、七万円といえば大金でしたが、大叔父はその大金を独立運動の資金に使い果たしてしまったのです。
潤國大叔父は朝鮮耶蘇教長老会神学校を卒業した牧師です。英語と漢学に秀でたインテリでした。徳彦面 (面は日本の村に相当する行政区分で、郡の下、里の上に位置する) の徳興教会をはじめとして三つの教会の担当牧師を務め、崔南善先生などと共に一九一九年の三・一独立宣言文を起案しました。独立宣言文に署名するキリスト教代表十六人のうち徳興教会の関係者が三人になると、大叔父は民族代表の立場を自ら降りました。すると、五山学校(民族意識の高揚と人材育成を目的とした初等。中等教育機関) の設立に志を同じくした南岡・李昇薫先生は、潤國大叔父の両手を握って涙を流し、万一、事に失敗したならば、後を引き受けてほしいと頼んだといいます。
故郷に戻ってきた大叔父は、万歳を叫んで街路にあふれ出てきた人々に太極旗 (現在の大韓民国の国旗で、元は一八八三年に朝鮮国の国旗として公布されたもの) 数万枚を印刷して配りました。そして同年三月八日、定州郡の五山学校の校長と教員、学生二千人以上、各教会信徒三千人以上、住民四千人以上と会合し、阿耳浦面事務所の裏山で独立万歳のデモを率いて逮捕されました。大叔父は二年の懲役刑を宣告され、義州の監獄でつらい獄中生活を送りました。翌年、特赦で出監したものの、日本の警察の迫害が激しくて一箇所に留まることができず、あちこちに身を隠していました。
警察の拷問を受けた大叔父の体には、竹槍で刺されて、ぼこっとへこんだ大きな傷跡がありました。鋭くとがった竹槍で両足と脇腹を刺す拷問を受けても、大叔父はついに屈しなかったといいます。激しい拷問にもまるで言うことを聞かないので、警察が、独立運動さえしなければ郡守(郡の首長)の職でもやろうと懐柔してきたりもしました。すると、かえって「私がおまえら泥棒の下で郡守の職に飛びつくとでも思ったのか」とすさまじい剣幕で、大声で怒鳴りつけたといいます。
私が十七歳頃のことです。潤國大叔父がわが家にしばらく滞在していると知って、独立軍の関係者が訪ねてきたことがありました。独立運動の資金が不足して援助を乞いに、雪が降り注ぐ夜道を歩いてきたのでした。父は寝ている私たち兄弟が目を覚まさないように掛け布団で顔を覆いました。すでに眠気が吹っ飛んでいた私は、掛け布団を被って両目を大きく見開いたまま、横になって大人たちの話し声に聞き耳を立てました。母はその夜、鶏を屠り、スープを煮て、彼らをもてなしました。
父がかけた掛け布団の下で息を殺して聞いた大叔父の言葉は、今も耳の奥に生き生きと残っています。大叔父は「死んでも国のために死ぬなら福になる」と話していました。また、「いま目の前に見えるのは暗黒であるが、必ず光明の朝が来る」とも話していました。拷問の後遺症から体はいつも不自由でしたが、声だけは朗々としていました。
「あんなに偉大な大叔父がなぜ監獄に行かなければならなかったのだろう。われわれが日本よりもっと力が強ければ、そうはならなかったのに……」と、もどかしく思った気持ちもよく覚えています。
迫害を避けて他郷を転々とし、連絡が途絶えた潤國大叔父の消息を再び聞くようになったのは、一九六八年、ソウルにおいてでした。従弟の夢に現れて、「私は江原道の施善の地に埋められている」と言ったそうです。従弟が夢で教えられた住所を訪ねていってみると、大叔父はすでに十年前に亡くなっていて、その地には、雑草が生い茂った墓だけが堂々と残っていました。私は潤國大叔父の遺骨を京畿道披州に移葬しました。
一九四五年八月十五日の光復以後、共産党が牧師や独立運動家をむやみやたらと殺害する事件が起きました。大叔父は幸いにも難を逃れ、家族に迷惑をかけないように共産党を避けて、三八度線を越えて南の旌善に向かいました。しかし、家族も親族もその事実を全く知らずにいました。旌善の深い山奥で書を売って生計を立て、後には書堂を建てて学問を教えたといいます。大叔父に学問を学んだ弟子たちの言葉によれば、平素は即興で漢詩を作って楽しんだそうです。そうして書いた詩を弟子たちが集めておいて、全部で百三十首以上になりました。
「南北平和」
在前十載越南州
流水光陰催白頭
故園欲去安能去
別界薄遊為久游
袗稀長着知當夏
闘紈扇動揺畏及秋
南北平和今不遠
候簷児女莫深愁
十年前、北の故郷を離れて南に越えてきた
流水のように歳月が経ち、私の頭は白くなった
北の故郷に帰りたいが、どうして帰ることができようか
しばし他郷に留まるつもりが、長い間留まることになった
葛布の衣を着ると、暑さで夏が来たことを感じ
扇子をあおぎながら、もうすぐ秋が訪れると思う
南北の平和は遠からずやって来るので
軒下で待つ人々よ、あまり心配するな
家族から離れて、見知らぬ旌善の地に生活しながらも、潤國大叔父の心は憂国の真情に満ちていました。大叔父はまた、「蕨初立志自期高 私慾未嘗容一毫(初め志を立てるときは自ら進んで高い目標を掲げ、私欲は体に生えた黒くて太い毛の先程度でも許してはならない)」という詩句も残しました。独立運動に従事した功績が韓国政府から認められたのは非常に遅く、一九七七年に大統領表彰、一九九〇年に建国勲章が追叙されました。
数多い試練に直面しながらも、一心不乱に国を愛してきた大叔父の心が見事に表現された詩句を、私は今も時々口ずさみます。最近になって、年を取れば取るほど潤國大叔父のことを思い出すのです。国の行く末を心配したその人の心が、切々と私の心深くに入り込んできます。私は大叔父自作の「大韓地理歌」をわが信徒たちにすべて教えました。北は自頭山から南は漢ラ山まで、一つの曲調で歌い通すと、心の中がすっきりする味わいがあって、今も彼らと楽しく歌ったりします。
「大韓地理歌」
東半球に突出した大韓半島は、東洋三国の要地に位置し、
北は広漠たる満州平野であり、東は深く青い東海だ。
南は島の多い大韓の海があり、西は深く黄金の黄海だ。
三面の海の水中に積まれた海産物、魚類貝類数万種は水中の宝だ。
北端に鎮座する民族の基、白頭山は、鴨緑江と豆満江の二大河の水源となり、
東西に分流して両海に注がれ、中国とソ連との境界がはっきりと見える。
半島中央の江原道に輝く金剛山、世界的な高原の名は大韓の誇り、
南方の広大な海に聳え立つ済州の漢ラ山、往来する漁船の標識ではないか。
大同、漢江、錦江、全州の四大平野は、三千万民同胞の衣食の宝庫であり、
雲山、順安、扮川、載寧の四大鉱山は、私たち大韓の光彩ある地中の宝だ。
京城、平壌、大邸、開城の四大都市は、私たち大韓の光彩ある中央の都市だ。
釜山、元山、木浦、仁川の四大港口は、内外の貿易船の集中地だ。
大京城を中心として延びた鉄道線、京義と京釜の二大幹線を連結し、
京元と湖南の両支線が南北に伸び、三千里江山を周遊するのに十分だ。
歴代朝廷の繁栄を物語る古跡は、檀君、箕子二千年の建都地平壌。
高麗始祖太祖王建の松都開城、李朝朝鮮五百年の始王地京城。
一千年の文明を輝かせた新羅、朴赫居世始祖の村、名勝地慶州。
山水の風景、絶景の忠清扶余は、百済初代温 王の創造古跡地。
未来を開拓する統一の群れよ、文明の波は四海を打つ。
寒村、山邑の平民は古い頭を拭い去り、未来の世界に猛進しよう。

Friday Sep 10, 2021
平和を愛する世界人として 第2話
Friday Sep 10, 2021
Friday Sep 10, 2021
第一章 ご飯が愛である-幼少時代
父の背におぶさって学んだ平和
私は生涯一つのことだけを考えて生きてきました。戦争と争いがなく世界中の人たちが愛を分かち合う世界、一言で言えば、平和な世界をつくることが私の幼い頃からの夢でした。そのように言うと、「幼い時から平和を考えていたなんて、どうしてそんなことが?」と反問する人がいるかもしれません。しかし、平和な世界を夢見ることがそんなに途方もないことでしょうか。
私が生まれた一九二〇年は、日本がわが国を強制的に占領していた時代でした。一九四五年の解放以後も、朝鮮戦争やアジア通貨危機をはじめ、手に負えないほどの混乱を何度も経験し、この地は平和から程遠い歳月を送らなければなりませんでした。このような痛みと混乱はわが国だけが経験したことではありません。二度の世界大戦やベトナム戦争、中東戦争などに明らかなように、人々は絶えず互いに憎み合って、同じ人間だというのに“敵”に銃の照準を合わせ、彼らに向けて爆弾を爆発させました。肉が裂かれ、骨が砕ける凄惨な戦場を体験した者にとって、平和というのは空想に等しい荒唐無稽なことであったかもしれません。しかし、平和を実現することは決して難しいことではありません。私を取り巻く空気、自然環境、そして人々から、私たちは容易に平和を学ぶことができます。
野原をわが家のように思って暮らした幼い頃、私は朝ご飯一杯をさっと平らげては外に飛び出して、一日中、山に分け入り、川辺を歩き回って過ごしました。鳥や動植物の宝庫である森の中を駆けずり回り、草や実を取って食べてみると、それだけで一日おなかが空くのも忘れるほどでした。幼い心にも、森の中にさえ入っていけば体と心が平安になると感じていました。
山で跳び回っているうちに、そのまま眠ってしまったこともよくあります。そんな時は、父が森の中まで私を捜しに来ました。「ヨンミョン!ヨンミョン!」という父の声が遠くから聞こえてくると、眠りながらも自然と笑みがこぼれ、心が弾みました。幼少の頃の私の名前は龍明(ヨンミョン)です。私を呼ぶ声ですぐに目が覚めても、寝ているふりをして父に背負われていった気分、何の心配もなく心がすっと安心できる気分、それこそがまさしく平和でした。そのように父の背中に負われて平和を学びました。
私が森を愛したのも、その中に世界のすべての平和に通じるものが宿っていたからです。森の中の生命は争いません。もちろん互いに食ったり食われたりですが、それは空腹で仕方なくそうしているのであって、憎しみからではありません。鳥は鳥どうし、獣は獣どうし、木は木どうし、互いに憎むことはありません。憎しみがなくなれば平和がやって来ます。同じ種どうしで互いに憎しみ合うのは人間だけです。国が違うといっては憎み、宗教が違うといっては憎み、考えが違うといってはまた憎むのです。
私はこれまで二百ヵ国近い国々を回りましたが、空港に降りた時、「ここは実に平和で穏やかだなあ」と感じた国は多くはありませんでした。内戦のさなかで、銃剣を高く上げた軍人たちが空港を監視し、道路を閉鎖し、銃弾の音が昼も夜もなく聞こえる所もたくさんありました。平和を説きに行った場所で、銃のために命を失いそうになったことも一度や二度ではありません。今日、私たちが生きる世界では、相も変わらず大小の紛争と葛藤が絶え間なく続いています。食べ物がなくて飢餓に陥った人々が数億人もいるのに、軍事費に使われるお金は数百兆円に上ります。銃や爆弾の製造に使うお金だけでも節約すれば、多くの人が飢えの苦しみから救われることでしょう。
私は理念と宗教の違いのゆえに相手を憎み、互いに敵となった国どうしの問に、平和の橋を架ける仕事に生涯を捧げました。イスラーム(イスラム教)とキリスト教が融和するように交流の場を設けたり、イラクをめぐって対立する米ソの意見を調整したり、北朝鮮と韓国の和解に尽力したりしました。名誉や金欲しさでしたのではありません。物心がついて以来、今に至るまでの私の人生のテーマはただ一つ、世界が一つになって平和に暮らすことです。他のことは眼中にありません。昼夜を問わず平和のために生きることは容易ではありませんが、ただひたすらその仕事をする時、私は幸福でした。
東西冷戦時代、私たちは理念によって世界が真っ二つになる経験をしました。当時は共産主義さえなくなれば平和がやって来ると思っていましたが、そうはならず、冷戦が終わった後に多くの争いが生じました。世界は人種と宗教によってばらばらになってしまいました。国境を接した国どうしが反目するにとどまらず、同じ国の中でも人種間、宗教間で反目し、出身地域の違いでも反目しています。このように分裂した人々は、互いに敵対感情が甚だしく、全く心を開こうとしません。
人間の歴史を振り返ってみると、最も残忍かつ惨たらしい戦争は、国家間の戦争ではなくて人種間の戦争でした。それも宗教を前面に出した人種間の戦争が最も残酷です。二十世紀最悪の民族紛争といわれるボスニアの内戦では、いわゆる民族浄化の一環でイスラーム信者を一掃する政策が採られ、ある地域では子供を含む七千数百人以上のイスラーム信者が虐殺されました。ニューヨークの百十階建て世界貿易センタービルに飛行機が突っ込み、二棟を倒壊させた九・一一テロも記憶に新しい大惨事です。これらはみな民族・宗教問の紛争がもたらした惨憺たる結果です。今もパレスチナのガザ地区では、イスラエルが敢行したミサイル攻撃によって数百人が命を失い、人々は寒さと空腹、死の恐怖の中で身震いしています。
一体何のためにそうまでして互いを憎み、殺し合うのでしょうか。表面的な理由はさまざまでしょうが、その内幕を詳しく調べてみると、間違いなく宗教が関与しています。石油をめぐって繰り広げられた湾岸戦争がそうだったし、エルサレムを占有しようとするイスラーム勢力とイスラエルの紛争がそうです。このように人種対立が宗教という衣を身にまとうと、問題は本当に複雑になります。中世で終わったと思っていた宗教戦争の悪夢が、二十一世紀にも相変わらず私たちを苦しめています。
宗教紛争が頻繁に起こるのは、多くの政治家が自らの利己的な欲望を満たそうとして、宗教間に潜む反感を利用するからです。政治的な目的を前に、宗教は方向性を見失ってよろめき、本来の目的を喪失してしまうのです。宗教は本来、平和のために存在するものです。すべての宗教が世界平和に責任を負っています。それなのに、反対に宗教が紛争の原因となったのですから慨嘆するほかありません。その醜悪な様相の背後には、権力と資本を握ったどす黒い政治が隠れています。指導者の本分はすべからく平和を守ることであるのに、かえって逆のことをして、世界を対立と暴力へと追い立てているのです。
指導者の心が正しく立たなければ、国と民族は行き場を失って彷徨うことになるでしょう。悪しき指導者は、自らの腹黒い野心を満たすために宗教と民族主義を利用します。宗教と民族主義の本質は悪いものではありませんが、それらは世界共同体に貢献してこそ価値があるのです。私の民族、私の宗教だけを絶対視して、他の民族と他の宗教を無視して非難するとすれば、その価値を失ってしまいます。自分の宗教を押し立てて人を踏みにじり、人の宗教を大したことないと見下して、憎悪の火を燃やして紛争を起こすとすれば、そうした行為はすでに善ではないからです。私の民族だけ、私の国だけが正しいと主張することも同様です。
お互いを認め合い助け合って生きるーこれが宇宙の真理です。取るに足りない動物もそのことを知っています。犬と猫は仲が悪いといわれていますが、一つの家で一緒に育ててみると、お互いの子を抱きかかえ合って親しくなります。植物を見ても分かることです。木に絡まって上に伸びていく葛は、木の幹に寄り掛かって育ちます。だからといって、木が「おまえはなぜ私に巻き付いて上がっていくのか」と葛を責めたりはしません。お互いに為に生きながら、共に生きることがまさに宇宙の原理です。この原理を離れれば、必ず滅亡するようになります。今のように民族どうし、宗教どうしが相互に罵り合って、争うことが続くとすれば、人類に未来はありません。絶え間のないテロと戦争によって、ある日、吹けば飛ぶ埃のように消滅してしまうでしょう。しかし希望が全くないのではありません。もちろん希望はあるのです。
私はその希望の紐をつかんで放さず、生涯、平和を夢見て生きてきました。私の願いは、世の中を幾重にも囲んできた塀と垣根をきれいさっぱり壊して、一つになる世の中をつくることです。宗教の塀を壊し、人種の垣根を取っ払い、富む者と貧しい者の格差を埋めた後、太古に神様がつくられた平和な世の中を復元するのです。飢えた人もなく涙を流す人もない世の中ということです。希望のない世界、愛のない世の中を治療しようとしたら、私たちはもう一度、幼い頃の純粋な心に戻るしかありません。際限のない欲望から離脱して、人類の美しい本性を回復するためには、幼い頃、父の背におぶさって学んだ平和の原理と愛の息遣いを生かすことが必要なのです。

Friday Sep 10, 2021
平和を愛する世界人として 第4話
Friday Sep 10, 2021
Friday Sep 10, 2021
誰とでも友達になる
私は心に決めたことがあれば、すぐに実行に移さなければ気が済まない性格です。そうしないと夜も眠れませんでした。やむなく夜が明けるのを待たなければならないときは、 晩中まんじりともしないで壁をしきりに掻きました。掻きすぎて壁がすっかりぼろぼろになり、夜の間に土の屑がうずたかく積もるほどでした。悔しいことがあれば夜遅くでも外に飛び出して、相手を呼んでひとしきり喧嘩もしたので、そんな息子を育てる両親の心労は重なるばかりでした。
特に、間違った行動は見過ごしにできず、子供たちの喧嘩があると、まるで近所の相談役にでもなったかのように、必ず間に入って裁定し、非のある方を大声で怒鳴ったりしました。ある時は、近所で勝手気ままに横暴を働く子供のお祖父さんを訪ねて、「お祖父さん、お宅の孫がこんなひどいことをしたので、ちゃんと指導してください」とはっきり忠告したこともあります。
行動は荒っぽく見えても、本当は情が深い子供でした。遅くまで祖母のしぼんだおっぱいを触って寝入るのを好みましたが、祖母も孫の甘えをはねつけはしませんでした。嫁に行った姉の家に遊びに行き、姑をつかまえて、餅を作ってほしい、鶏を屠ってほしいとねだっても嫌われなかったのは、私の中に温かい情があると大人たちが知っていたからです。
とりわけ私は、動物を世話することにかけては並外れていました。家の前の木に巣を作った鳥が水を飲めるように水たまりを作ってやったり、物置から粟を持ってきて庭にサーッと撒いたりしました。初めは人が近づくと逃げていった鳥たちも、餌をくれるのは愛情の表れだと分かったのか、いつの間にか私を見ても逃げなくなりました。魚を飼ってみようと思って、魚を捕って水たまりを作って入れておいたことがあります。餌も一つまみ入れてやりましたが、次の日、起きてみると皆死んでいました。きちんと育てたかったのに、力なく水に浮かぶ姿を見ると、ひどく胸がふさがって一日中泣きました。
父は数百筒もの養蜂を手がけていました。大きな蜂筒に蜂の巣の基礎になる原板の小草を折り目細かくはめ込んでおくと、そこにミッバチが花の蜜を運んできて、蜜蝋を分泌し、巣を作って蜜を貯蔵します。好奇心旺盛だった私は、ミツバチが巣を作る様子を見ようと蜂筒の真ん中に顔を押し込んで刺されてしまい、顔が挽き臼の下に敷く筵みたいに腫れ上がったことがあります。
蜂筒の原板をこっそり引き抜いて隠し、きつ叱られれたこともありました。ミツバチが巣を作り終えると、父は原板を集めて何層にも積んでおくのですが、その原板にはミッバチが分泌した蜜蝋が付いていて、油の代わりに火を付けることもできました。ところが、私はその高価な原板をカランコロンとひっくり返しては、石油がなくて火を灯せない家々に、蝋燭に使ってくださいと分け与えたのです。そんなふうに自分勝手に人情を施して、父からこっぴどく叱られました。
十二歳の時のことでした。その頃は娯楽といえるようなものがなくて、せいぜいユンノリ(朝鮮半島に伝わるすごろくに似た遊び)か将棋、そうでなければ闘牋(花札が普及する前に行われていた賭博の一種)があったぐらいです。
私は大勢で交わって遊ぶのが好きで、昼はユンノリや凧揚げなどをし、夕方から近所の闘牋場に頻繁に出入りしました。闘牋場で一晩過ごせば百二十ウォンほどのまとまったお金は稼げます。私は三ゲームもやればそれだけ稼ぎました。陰暦の大みそかや正月十五日頃が闘牋場の最盛期です。そういう日は、巡査が来ても大目に見て、捕まえることはしません。私は大人たちが興じている闘牋場に行って、一休みしてから、明け方頃にぴたっと三ゲームだけやりました。そうやって稼いだお金で水飴を丸ごと買って、「おまえも食べていけよ。おまえもどうだ」と言って、近所中の子供たちに分け与えました。そのお金を絶対に、自分のために使うとか、悪事を働くのに使ったりはしませんでした。
義理の兄が家に来れば、財布のお金を自由に出して使いました。そうしていいとあらかじめ許可をもらっていたからです。義理の兄のお金で、かわいそうな子供たちに飴玉も買ってあげ、水飴も買ってあげました。
どの村でも、暮らし向きがいい人もいれば悪い人もいました。貧しい友達が弁当に粟飯を包んでくるのを見ると、やるせなくて自分のご飯が食べられず、友達の粟飯と交換して食べました。私は、裕福で大きな家に住む子供よりは、生活が苦しくてご飯を食べられない子供とより親しかったし、何としてでもその子の空腹の問題を解決しようとしました。それこそが私の一番好きな遊びだったからです。年齢は幼くても、すべての人の友達に、いや、友達以上にもっと心の奥深くでつながった人にならなければならないと思いました。
村人の中に欲の深い男性が一人いました。村の真ん中にそのおじさんのマクワウリ畑があって、夏になると甘い匂いが漂い、畑の近くを通る村の子供たちは食べたくてうずうずします。それなのに、おじさんは道端の番小屋に座って、マクワウリを一つも分け与えようとしません。ある日、「おじさん、いつか一度、マクワウリを思いっ切り取って食べてもいいでしょ」と私が尋ねると、おじさんは「いいとも」と快く答えました。そこで私は、「マクワウリを食べたい者は袋を一つずつ持って、夜中の十二時にわが家の前にみんな集まれ!」と子供たちを呼び集めました。それからマクワウリ畑に群れをなして行き、「みんな、心配要らないから、好きなように一畝ずつ全部取れ!」と号令をかけました。子供たちは歓声を上げて畑に走って入っていきあっという間に数畝分を取ってしまいました。その晩、おなかの空いた村の子供たちは、萩畑に座って、マクワウリをおなかが破裂しそうになるくらい食べました。
次の日は大騒ぎです。おじさんの家を訪ねていくと、蜂の巣をつついたようでした。おじさんは私を見るやいなや、「この野郎、おまえがやったのか。マクワウリの農作業を台無しにしたのはおまえか!」と言って、顔を真っ赤にしてつかみかからんばかりの勢いでした。私は何を言われても動じないで、「おじさん、思い切り食べてもいいと言ったじゃないですか。食べたくてたまらないみんなの気持ちが僕にはよく分かるんです。食べたい食べたいと思っている子供たちに、マクワウリを一つずつ分けてやるのと、絶対に一つもやらないのと、どっちがいいんですか!」と問い詰めました。すると、かんかんになって怒っていたおじさんも、「そうだ、おまえが正しい」と言って引き下がりました。

Wednesday Sep 08, 2021
平和を愛する世界人として 第3話
Wednesday Sep 08, 2021
Wednesday Sep 08, 2021
人に食事を振る舞う喜び
私の目はとても小さいのです。どれほど小さいかというと、母は私を産んで、「うちの赤ちゃんには目があるのか、ないのか」と言って、わざわざ目を広げて見ようとしたそうです。すると、生まれたばかりの私が目をぱちぱちしたので、「あれまあ、目があるにはあるんだ!」と言って喜んだといいます。そのように私の目が小さかったために、幼い頃は「五山の家の小さな目」と呼ばれました。
それでも、目が小さくて貧相だという話は聞いたことがありません。むしろ少しでも観相の分かる人は、私の小さな目に宗教指導者の気質が現れていると言います。カメラの絞りも穴を狭めるほどより遠くを見ることができるように、宗教指導者は人より先を見通す力がなければならないので、そのように言うのでしょう。私の鼻も変わっているのは同様で、一見して誰の言葉も聞かない頑固一徹の鼻です。観相は決していい加減なものではなく、私が生きてきた日々を振り返ってみると、「このように生きようとして、そのような顔に生まれた」と言うことができます。
私は平安北道定州郡徳彦面上思里二二二一番地で、父は南平文氏の文慶裕、母は延安金氏の金慶継の次男として生まれました。三・一独立運動が起こった翌年の一九二〇年陰暦一月六日が、私が生まれた日です。
上思里には曾祖父の代に引っ越してきたそうです。数千石の農業に直接従事して、独力で暮らしを立てて家門を起こした曾祖父は、酒もたばこも口にせず、そのお金でよその人にご飯一杯でも多く食、べさせようとし、そうすることに生き甲斐を感じる人でした。「八道江山(全国)の人に食事を振る舞えば、八道江山から祝福が集まる」1これが亡くなる際に遺した言葉です。そんなわけで、わが家の奥の間はいつもたくさんの人でごった返していました。「どこそこの村の文氏の家に行けば、ただでご飯を食べさせてくれる」と村の外にまで知れ渡っていたのです。母はやって来る人たちのつらい世話をてきぱきとしながら、不平を一度も言いませんでした。
休む間もなく熱心に働いた曾祖父は、暇ができると草鮭を編んで市場に出して売ったり、年を取ってからは「後代にわが子孫が良くなるようにしてください」と祈りながら、アヒルを数匹買っては放してやったりしました。また、奥の間に漢文の先生を招いて、近所の若者たちに文字を無料で教えるようにしました。そこで村人たちは、曾祖父に「善玉」という号を付けて、わが家を「福を受ける家」と呼びました。
しかしながら、曾祖父が亡くなって私が成長する頃には、豊かだった財産はすべてなくなり、ただ幾匙かのわずかなご飯を食べて暮らす程度になりました。それでも、人に食事を振る舞う家風だけは相変わらずで、家族が食べる分がなくても人を先に食べさせました。おかげで、私がよちよち歩きを始めて最初に学んだことが、まさしく人にご飯を食べさせるということでした。
日本占領期の頃、満州に避難する人々が通った町が平安北道の宣川です。わが家はちょうど宣川に行く一級道路(幹線道路)の近くにありました。家も土地も日本人に奪われて、生きる手立てを求めて満州に向かった避難民が、わが家の前を通り過ぎていきました。母は八道(李氏朝鮮時代、全国を威鏡道、平安道、江原道、黄海道、京畿道、忠清道、慶尚道、全羅道の八道に区分したことに由来する言葉)の各地からやって来て家の前を通る人のために、いつでもご飯を作って食べさせました。乞食がご飯を恵んでくれと言ってきて、すぐにご飯を出さなければ、祖父がまず自分のお膳をさっと持って行きました..そのような家庭に生まれたせいか、私も生涯ご飯を食べさせる仕事に力を注いできました。私には、おなかを空かした人たちにご飯を食べさせる仕事が他のどんなことよりも貴く重要です。ご飯を食べる時、ご飯を食べられない人がそこにいれば、胸が痛く、喉が詰まって、スプーンを持つ手がそのまま止まってしまいます。
十歳の時でした。大みそかの日になって、村じゅう餅を作るのに大忙しだったのに、暮らし向きが困難で食べる物にも事欠く村民がいました。私はその人たちの顔が目に焼き付いて離れず、一日中、家の中をぐるぐる回ってどうしようかと悩んだあげく、米一斗(一斗は十升、約十八リットル)を担いで家を飛び出しました。家族に気づかれないように米袋を持ち出そうとして、袋に縄を「本結んでおく余裕もありませんでした。それでも、米袋を肩に担いだまま、つらさも忘れて、勾配が険しい崖道を二十里(約八キロメートル。十朝鮮里は日本の一里、約四キロメートルに相当する)も跳ねるように駆けていきました。おなかを空かした人たちを腹いっぱい食べさせることができると思うと、気分が良くて、胸がわくわくしました。
わが家の横には石臼を使った精米所がありました。中の小米が外に漏れないように精米所の四方をしっかり囲むと、冬にも吹き抜ける風がなくて、とても暖かでした。家のかまどから炭火を分けてきて火を起こすと、オンドルの部屋よりも暖かくなります。そんなわが家の横の石臼の精米所に居場所を定めて、冬の季節を過ごす者たちが何人かいました。八道を転々として物乞いして歩く乞食たちです。彼らが聞かせてくれる世の中の話が面白くて、ちょくちょく石臼の精米所に足を運んだものです。母は息子の友達となった乞食の食事まで一緒に作って、精米所にお膳を持ってきてくれました。分け隔てなく同じ皿をつつき、同じご飯を食べ、毛布一枚に一緒にくるまって、共に冬を過ごしました。真冬が去って春になり、彼らが遠くへ行ってしまうと、また戻ってくる次の冬が待ち遠しくてなりませんでした。
体がぼろをまとっているからといって、心までぼろをまとっているわけではありません。彼らには、明らかに温かい愛がありました。私は彼らにご飯をあげ、彼らは私に愛を施してくれました。彼らが教えてくれた深い友情と温かい愛は、今に至るも私の大きな力になっています。
世界を回って、貧しさとひもじさで苦痛を味わう子供たちを見るたびに、人々にご飯を食べさせて少しも惜しむことがなかった祖父の姿が脳裏に浮かびます。

Wednesday Sep 08, 2021
平和を愛する世界人として 第1話
Wednesday Sep 08, 2021
Wednesday Sep 08, 2021
序文
乾いた冬の終わりに、夜通し春雨が降りました。どれほどうれしいことでしょうか。朝の間中、庭をあちこちと歩き回りました。湿りを得た地から、冬の間ずっと嗅ぐことのできなかった土の香りが芳しく匂い立ち、枝垂れ柳や桜の木には小さな芽が萌え始めました。至る所から、ぽんぽんと新しい生命の芽吹きの音が聞こえてくるようです。
追いかけるように庭に鹿に出てきた妻は、いつの間にか乾いた芝の上にひょいと突き出したヨモギの新芽を摘み取ります。一晩降った雨で、すべてのものが放つ春の庭園になりました。
世の中が騒がしかろうと、どうであろうと、三月になれば必ず春は訪れてきます。このように冬が去って春になり、春になれば花が満開になる自然は、年を取るほどに、より貴重なものとなってきます。私が何者だからとぃって、神様は季節ごとに花を咲かせ、雪を降らせ、生の喜びを与えてくださるのか。胸の内、その奥深い所から愛があふれ、それが喉元まで込み上げてきて詰まるようです。
生涯、平和な世界を成すために東奔西走し、地球を何周も回しましたが、私は今、この春を迎える庭において真正なる平和を味わっています。平和もまた、神様が何の見返りも求めず、ただで下さったものです。私たちは、それをどこでなくしてしまったのでしょうか。全く見当違い場所で探そうとしているのかもしれません。
平和な世界をつくるために、私は生涯、この世の底辺や辺境の地をたうねまわりました。飢えている息子を前に、なすすべもなく見守るしかないアフリカの母親たちにも、川に魚がいるにもかかわらず、釣り方が分からなくて家族食ベさせられない南米の父親たちにも会いました。
私は彼らに食べ物を少し分けてあげたけですが、彼らは私に愛を施してくれました。私は愛の力に酔って、原始林を伐り拓き、種を蒔き、木を伐って学校を建て、魚を釣って、おなかを空かせた子どもたちに食べさせました。体中を蚊に刺されながら夜を徹して釣りをしても幸せであり、泥土の中に太ももまですっぽりと埋まってしまっても、寂しい隣人たちの顔から陰が消えるのを見るのが喜びでした。
平和な世界に向かう近道を探して、政治に変化をもたらし、世の中を変えることにも熱中しました。ソ連のゴルバチョフ大統領に会い、共産主義と民主主義の和解を試み、北朝鮮の金日成主席と会い、朝鮮半島の平和について話し合いました。さらに、道徳面において崩れゆくアメリカに行き、清教徒(ピューリタン)の精神を目覚めさせるという医者や消防士のような役割も果たし、世界の紛争を防ぐことに没頭したのです。
私たちの運動は、イスラーム教徒とユダヤ教徒の融和のために、テロが頻発するパレスチナに入ることを恐れず、ユダヤ教徒とイスラーム教徒、キリスト教徒たち数千人を一堂に集め、和解の場を準備し、平和行進を行いました。それでも、葛藤は今も続いています。
私はわが祖国韓国で平和の世界が大きく開いていく希望を見いだします。多くの
苦難と分断の悲しみで鍛えられた朝鮮半島で、世界の文化と経済を導く強い機運が、龍が舞い 上がるように巻き起こっているのを全身で感じています。新しい春が訪れるのを誰も抑えることができないように、朝鮮半島に天運が訪ねてくるのを、私たち人間の力ではどうすることもできません。押し寄せる天運に従って、私たち民族が共に飛躍するために、しっかりと心と体の準備をしなければならない時です。
私は、たった三文字にすぎないこの名前を言うだけでも世の中がざわざわと騷ぎだす、問題の人物です。お金も、名誉も貪ることなくただ平和のみを語って生きてきただけなのですが、世の中は、私の名前の前に数多くの異名を付け、拒否し、石を投げつけました。私が何を語るのか、何をする人間なのかを調べようともせずに、ただ反対することから始めたのです。
日本の植民統治時代と北朝鮮の共産政権、大韓民国の李承晩政権、そしてアメリカで、生涯 に六回も主権と国境を超えて、無実の罪で牢屋暮らしの苦しみを経て、肉が削られ血が流れる痛みを味わいました。しかし今、私の心の中には小さな傷一つ残っていません。真の愛の前にあっては、傷など何でもないのです。真の愛の前にあっては、怨讐(深い怨みのあるかたき、敵)さえも跡形なく溶けてなくなるのです。
真なる愛は、与え、また与えても、なお与えたい心です。真なる愛は、愛を与えたということさえも忘れ、さらにまた与える愛です。私は生涯、そのような愛に酔って生きてきました。愛以外には、他のどのようなものも望んだことはなく、貧しい隣人たちと愛を分かち会うこと
にすベて捧げてきました。愛の道が難しくて淚があふれ、膝をへし折られても、人類に向かう愛に捧げたその心は幸福でした。
今も私の中には、いまだすべて与えきれない愛だけが満ちています。その愛が、干からびた地を潤す平和の川となって、世界の果てまで流れることを祈りながら、この本を発表します。最近になって、私が何者かと尋ねる人がぐっと増えました
その方々の少しでも助けとなるうように、これまでの生涯を振り返り、この本に率直な話を詰め込みました。ぺージ数に限りがあるので、語りきれない内容は次の機会にお伝えできればと思います。
これまで私を信じ、私の傍らを守り、生涯を共にしてきたすべての人に、そして、すべての難しい峠を共に克服してきた妻である韓鶴子に、無限の愛を送ります。最後に、この本を上梓するまでに多くの誠を尽くしてくださった金寧社の朴恩珠社長と、私が思いつくままに語った煩雑な内容を読者に分かりやすくお伝えするために、苦労を厭わず尺力してくださった出版社の関係者の皆様全員に、心からあふれる感謝の意を表したく思います。
二〇〇九年三月一日
京畿道加平にて
文鮮明

Tuesday Sep 07, 2021
自叙伝・人類の涙をぬぐう平和の母 第69話
Tuesday Sep 07, 2021
Tuesday Sep 07, 2021
翌二十八日、ついに「神統一世界のための希望前進大会」が行われ、アメリカ全土と世界中から訪れた聖職者おょびキリスト教信徙約二万五千人が集う中、界〇し0が創立されました。
歴史的なWCLC創立に当たって、二人の義人が基調演説を行いました。最初に登壇したのはハデべ預言者でした。
「二〇一九年だけでも、南アフリカで二度、祝福式を開催しました。六月、六万人以上の人々が参加した国家レベルの祝福式の際、真のお母様は、抑圧と不義に立ち向かって自らの命を捧げた青年たちのため、解怨の祈祷を捧げてくださいました。続いて十二月、FNBスタジアムで行われた大陸レベルの祝福式では、『神アフリカ』を宣布してくださいました。それは、神様を中心としたアフリカを意味しています」
もう一人の義人、ノエル•ジヨーンズ牧師も、演説を通して私のビジヨンを証ししてくれました。
「真のお母様はアメリカの聖職者だけでなく、私たち全員に特別なビジヨンを下さいました。ほかに誰が、これほど偉大なビジヨンを実践できるでしょうか?」
この大会に参加した韓国の多くの聖職者が、私たちの運動に対するこれまでの認識と思いを改め始めました。
「今回の行事を通して、これまで聞いてきた家庭連合に関するうわさが、事実と大きく違っていることが分かりました。これまで『異端』という言葉を聞いて、目と耳を塞いでいたと思います。家庭連合の紹介を聞き、実際の現場を目撃してみて、文鮮明総裁、韓鶴子総裁に天の導きがなければ、このような奇跡的な業績は到底成し遂げられないという、強烈な霊的悟りを得ました」
ほかにも、多くの感想が発表されました。
「今回のことで信仰観が変わりました。新しいクリスチャンとして生まれ変わった気分です」
「なぜ今まで、異端だと言って反対していたのでしょうか。自分で知ろうともせず、うわさだけを聞いて反対していたことを後悔しています」
「深く感動しました。家庭連合がすることは神様のみ旨だと思い、これから誠心誠意、サボー卜しようと思います|
「韓鶴子総裁の『独り娘』としての悟りと、真の家庭の原理によって純潔無垢なエデンの園を築くというみ言.に感動しました」
私は登壇し、メッセージを伝えました。キリスト教がイエス様の再臨だけでなく、その相対である独り娘に対して関心を持つべきであったこと、そして天が韓民族を選び、一九四三年に独り娘を誕生させたことを明らかにしたのです。
「独り娘、真の母が行うこの祝福こそ、六千年間、人類が待ちに待ってきた夢であり、天の父母様の願いであることを知らなければなりません」
私はみ言を宣布する間中、涙を止めることができませんでした。その涙は、参加者の心にしっかりと届いたことでしょう。
文総裁と私はアメリカを救うため、生涯をかけて愛を実践してきましたが、かえってダンべリーの苦難をはじめ、言い表すことのできない迫害を受けてきました。その迫害の路程に加え、
文総裁の聖和後に通過しなければならなかった苦難と苦痛の路程や、国家の復帰を信じて歩んできたこの七年路程、そして最後に、「天一国安着のための天宙的カナン四十日路程」に至るまでの多くの出来事が、まるで走馬燈のように過ぎていきました。

Tuesday Sep 07, 2021
自叙伝・人類の涙をぬぐう平和の母 第70話
Tuesday Sep 07, 2021
Tuesday Sep 07, 2021
心の中に秘めた一枚の写真、袓国光復を目指して
私は一枚の写真を、今も心の中に秘めています。目を閉じると、その写真が鮮明に思い起こされるのです。色あせた写真には、一人の女性が女の子を背負い、手に太極旗を握って立っている姿が写っています。私の故郷、平安南道安州の市場のどこかで撮った写真でしょう。女性はとても気持ちが高ぶった表情で、誰かをつかんで、必死に何かを訴えているかのようです。一九一九年三月一日、祖母の趙元模が、まだ幼かった母の洪順愛を背負って万歳運動に参加した時の写真です。
その写真は残念ながら、北から三十八度線を越えて南に下りる際、持ってくることができませんでした。今も故郷の家のどこかに、大切に保管されていることを願うばかりです。私がその写真をことさらはっきり覚えているのは、叔父から何度もその話を聞いていたからです。
私はまた、似たようなもう一つの光景をよく思い浮かべます。一九四五年八月十五日、祖母が私を背負い、やはり手に太極旗を持って立っている場面です。歓喜にあふれ、誰彼問わず、抱き合って喜びを分かち合いたいというような表情をしています。
国を失って悲憤慷慨する姿と、国を取り戻して飛び上がるように喜んでいる表情は、極めて対照的です。私は生涯、この二つの場面を胸に刻みながら生きてきました。どちらも、私にとって最も大切な人生の土台となり、里程標となったものです。
私が何とか言葉を理解するようになった頃から、「神様が、お前の父親である」と語った祖母は、私の原点とアイデンティティーに気づかせてくれた信仰の手本でした。一方で、国を失い悲憤慷慨する祖母の姿は、私が探し出さなければならない国の象徴であり、解放してさしあげるべき天の父母様のもう一つの姿でした。そして解放を迎え、満面の笑みを浮かべている祖母の姿もまた、私が将来迎えるべき、天の父母様のもう一つの姿なのです。
今から百年以上前、安重根義士は満州のハルビン駅で事件を起こして逮捕され、旅順刑務所に収監されて死刑宣告を受けました。その彼に対して、母親の趙姓女(趙マリア)は簡潔かつ断固とした手紙を送っています。
「老いた母より先に逝くことを親不孝だと思うな。卑屈に生を乞うのではなく、大義に死ぬのが母に対する孝行だ。こちらで作ったお前の寿衣(死装束)を送るから、この服を着て逝きなさい」
息子に、命を乞うて控訴するようなことはしないように強く言い聞かせ、息子の寿衣を自ら作って送るという手紙の内容から、国を思う母親の崇高な志を見て取ることができます。
刑が執行される前、白い寿衣を着て天を仰いだ義士の瞳は、「天下を雄視し、いつ志を果たそうか。東風は次第に冷たくなるが、壮士の志は熱い」という断固とした思いに加え、母親の言葉を胸深く刻むかのように、静かに輝いていたことでしょう。
事件後、日本の憲兵が母親を尋ねて追及した際も、彼女は「国民として生まれた身で、国のために死ぬのは、国民としての義務」と言って、落ち着いた態度で反論しました。百年以上も前、祖国光復のために闘った一人の愛国志士の母親から、死生決断の覚悟を垣間見ることができます。
文鮮明総裁と私は、神様の祖国光復のために一片丹心の生涯を生きてきました。決して振り返ることなく、ひたすら前だけを見つめて歩んできたのです。置かれた状況がいかなるものであれ、それを受け止め、回りに左右されることもありませんでした。昼も夜も、ただの一時も、天の父母様のことを忘れて生きたことはありません。
ソ連のクレムリン宮殿では、「レーニンの像を撤去し、神様を受け入れなさい」と大胆に伝えました。北朝鮮の主席公館でもためらうことなく、金日成主席に談判して、南北統一のための新たな活路を開きました。神様の祖国光復のためであれば、一寸の迷いもなく進んできたのです。そのような私たちに危機が迫るたびに、天の父母様は奇跡的なみ業によって導いてくださいました。
夫の聖体の前で、私は「命が尽きる日までに、この地に天一国を安着させる」と涙で誓いました。この決意を、事あるごとに心に刻んできました。
夫の聖和後、み言を地の果てまで伝え、世の中をかき抱くため、私は一心不乱に駆け回りました。口の中がただれて食事もできず、すぐにでも倒れてしまいそうな状態でも、一時も休むことはありませんでした。夫との約束、「必ず私が成し遂げる」という誓いを、常に心に留めながら生きてきたのです。
私たちは、天上に向かって出発する文総裁を国家レペルで見送ることができませんでした。そのため私は、夫に捧げる聖物として七ヵ国を復帰し、新たな天一国を開くと約束したのです。
今やすベての文明は、大韓民国を中心に結実します。太平洋文明圏も韓国で実を結びます。それは天の摂理です。与えてはまた与える孝情文化として、太平洋文明圏が韓国に結実しているのです。
国際ハイウェイは、アフリカ大陸においては南アフリカの喜望峰から出発して韓国に至り、南米大陸においてはチリのサンティアゴから出発して、やはり韓国に到着します。
二〇一九年元旦を迎えるに当たって、京畿道加平郡の清心平和ヮールドセンターに韓国全土の信徒が集まり、「神統一韓国時代開門汎国民祈祷会」を行いました。大晦日の夜から新年の明け方まで、涙で祈りを捧げ、天の父母様の祖国解放と国家の復帰に向けて前進しょうと決意を固める元旦祈祷会となりました。
私は韓国全土を五つの地区に分け、希望前進大会を開催しました。首都圏では「天運相続国運隆盛」というテーマで南北統一を祈願する十万人の希望前進大会を行ったり、韓国動乱の際の国連軍参戦および十六ヵ国への報恩というテーマで大会を行ったりしました。忠清道では道知事が参加する中、三.一独立運動百周年記念と韓日和合をテーマにした前進大会を、慶尚道では邑面洞の指導者大会を開催しました。湖南では、「真の母を中心とした新たな生命誕生および太平洋文明圏時代安着希望前進大会」を開きました。
全羅南道康津郡には、赤ん坊の泣き声を耳にすることがなくなって何年にもなる地域がありました。最近、農村のほとんどが同じような状況にあります。康津郡の全域で開催した「新生児誕生真の家庭希望前進大会」と共に、全羅道の三つの地域でも祝福式が行われました。すると、それに参加した三組のカップルがみな双子を生むという慶事が起きたのです。さらに、その地域で双子の子牛まで産まれたため、郡全体がお祝いムードに包まれました。祝福式の時、代表家庭として壇上に上がった高齢の夫婦に、私が大切にしてきた聖衣を贈ったのですが、その家庭にもやはり双子が生まれ、感謝のメッセージが届きました。
また、その地域の現職の郡守(郡の長)が、今日のような人口絶壁(超少子化)時代において、家庭連合の祝福式こそが国を生かす真の愛国の道であるといって、地方自治体の代表として感謝の意を伝えるために敬拝をした姿が、映像で届きました。
私は折に触れて、今の時代、本当の意味で天の父母様のために祖国を探し立てることとは何だろうかと考えます。百年前、祖母が木綿の布の中から取り出した太極旗を熱心に振ったように、この時代、天一国のためにすべきことは何だろうと考えるのです。
今、私たちは天の父母様の祖国光復のため、それぞれ胸にしまっていた国旗を取り出さなければなりません。祖母の趙元模が太極旗を振りながら、大声で「大韓独立万歳!」と叫んだように、天の父母様の祖国である天一国億万歳を、世界万邦に向かって力強く叫ばなければならないのです。
新しい歴史の夜明けが近づいてきています。独り娘、真の母の顕現と救いの摂理によって、人類は新たな希望の世界へと向かっています。天の摂理は完全な天一国時代を迎えつつあり、地球村の人類はみな、歓声を上げています。
私たちは「ビジョン二〇二〇」実現の時を迎え、胸を膨らませて、希望の岬に立っています。新たに昇る明るい太陽を、心を開いて迎える瞬間です。明るく希望に満ちた、新たな天一国安着の時代に向かう時なのです。

Monday Sep 06, 2021
自叙伝・人類の涙をぬぐう平和の母 第68話
Monday Sep 06, 2021
Monday Sep 06, 2021
とめどない涙と共に歩む、神国家、神大陸、神統一世界への道
二〇一九年十一月十八日に始まった「天一国安着のための天宙的カナン四十日路程」は、十二月二十八日、アメリカで「世界聖職者指導者会議(WCLC)」を創立し、大団円を迎えました。この路程はまさに、空を巻物にし、海を墨汁にして書いても書き切ることのできない、涙の路程でした。肉体の限界を克服し、身が砕けるほど歩き続け、苦難と苦痛の中で希望と願い、祝福の花を咲かせた、勝利の路程でした。
こうして、文総裁の聖和以後における七年路程の中で、七ヵ国の国家の復帰の基準が立ったのです。さらに進んで、国家の復帰による「神国家」創建はもちろん、大陸復帰による「神大陸」創建への驚くべき摂理的跳躍が可能になりました。ついに摂理史において、後にも先にもない「神国家、神大陸時代」を迎えたのです。
このような実体的勝利の土台の上で、私たちが歩むべき最後の路程である「神統一世界」に向けて前進することを決意し出発する、歴史的な一日を迎えることになったのです。
キリスト教は、西暦三一三年にローマで公認された後、イタリア半島から出発し、ヨーロッパ大陸を経て、島国であるイギリスにまで広がりました。イギリスは、のちに「太陽の沈まない国」と言われるほど、世界各地に植民地を広げ、繁栄しました。彼らは宣教という名目で、世界を席巻しようとしていたのです。
イエス様は、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」(マタイによる福音書ニニ章三九節)とおっしゃいましたが、彼らはこの本来のみ旨を捨てて、自分たちの利益だけを考えたため、結局は略奪する文化だけが残ってしまったのです。経済的には豊かな強国を築きましたが、霊的な面では多くの人々を傷つける歴史を生み出しました。キリスト教はそれ以上、発展することができなくなったのです。するとその中で、信仰の自由を求めた清教徒の人々がアメリカ大陸に移住し、彼らによって、今日のアメリカが誕生しました。
一九八一年十月、文総裁はアメリカの一部の指導層の索制を受けて脱税の容疑で訴えられ、一九八四年の七月から獄苦を味わうことになりました。その背後には、アメリカに大きな影響を与えていた私たち夫婦に対する、共産主義者の妨害もありました。
すぐにアメリカの多くの聖職者が、文総裁の投獄に抗議するデモを起こしました。さらに一部の聖職者は、ホワイトハウスの裏庭に即席の監獄を用意し、「獄苦同志会(同苦の会)」を結成して、自発的にその中に入ったのです。
彼らはまた、文総裁が無念な獄中生活を余儀なくされていることに対し、これは宗教の自由を侵害する反宗教的行為であるとして、マスコミやアメリカ政府に向かって問題提起をしました。当時、延べ七千人以上の聖職者が宗教の自由のための集会に参加し、さらに、文総裁の生まれた信仰の祖国である韓国を訪問したのです。
その後も、私たちは「米国聖職者指導者会議(ACLC)」を結成し、アメリカの五十州で巡回講演を行いながら、宗教間の葛藤や白人と黒人の間の人種問題の解決のため、平和運動の先頭に立ってきました。
私は二〇一九年六月、ACLCの大会で宣布しました。
「私は、天の父母様と人類のために来た独り娘です。私と共にみ旨を成し遂げましょう」
すると、多くの聖職者が歓声を上げて応えてくれました。
「このような真実を、なぜ私たちは今になって気づいたのだろう!こんな当然のことを、なぜ今まで考えることすらできなかったのたろう!」
彼らは感慨深く、自らの思いを吐露しました。私は改めて、ACLCの大会に参加した一千人以上の聖職者に尋ねました。
「二十一世紀、真の父母の時代において、選民とは誰でしょうか?」
そして、このように宣言したのです。
「皆さんこそ、まさに二十一世紀における、真の父母を中心とした選民です」
さらに私は、選民の責任とは真の父母に侍ることであると話しました。
同年の四月にはアメリカのロサンゼルスで祝福式が行われ、六月にはラスベガスで希望前進大会が行われました。オバマ元大統領のメンター(助言者)を務めたシティー•オブ•レフュージ教会のノエル•ジョーンズ牧師が、私を「平和の母」として証ししてくれました。
「神様は特別に、韓鶴子、真のお母様を送ってくださり、人類が一つになれるようにしてくださいました」
彼は自分の教会の五千家庭以上の信徒を、祝福結婚に導きました。その後、シティー•オヴ・プ・レフュージ教会は、家庭連合の旗と看板を掲げるようになったのです。
同年十月三十一日には韓国のソウルで、アメリカから来たACLCの聖職者約四十人と韓国のキリスト教聖職者約四百人など、総勢七百人以上のキリスト教関係者が集まる中、「韓国聖職者指導者会議(KCLC)」の創立大会を開きました。
このような基盤の上で、アメリカにおいて思いを一つにし、WCLC創立に向けて準備を進めたのです。「夫の遺業を完成する」という私の決意は、まずキリスト教をはじめ、諸宗教を一つにすることでした。
二〇一九年十二月二十七日、WCLC創立大会を翌日に控え、アメリカの聖職者約四百人と世界七十ヵ国以上から集まった聖職者約六百人、合わせて一千人以上の聖職者が、天の父母様を中心とした「神統一世界」を実現するための会議の場を持ちました。韓国からは約百六十人が参加し、日本、中南米、アジア、アフリカなどからも、著名な聖職者が大勢参加しました。キリスト教出発の地であるヨーロッパからは、キリスト教界で最大の協議機関である世界教会協議会(WCC)の著名な聖職者たちが参加しました。
会議では、まずアメリカのドナルド•トランフ大統領のメンターでもあるポーラ•ホワイト牧師が、私に対する感謝とアメリカ政府の進むべき方向性について述べました。続いて、各大陸を代表する六人が登壇し、基調演説を行いました。そのうち、アメリカの代表としてはジョージ•スターリングス大司教が、韓国の代表としてはKCLC共同議長の金スマン牧師が、アフリカの代表としてはハデべ預言者が、それぞれ演台に立ちました。

Sunday Sep 05, 2021
自叙伝・人類の涙をぬぐう平和の母 第67話
Sunday Sep 05, 2021
Sunday Sep 05, 2021
神統一世界の始まり、オセアニアに勝利の旗を立てる
パラオとドミニカ共和国の希望前進大会には、私の代理を特使として送りました。国家の復帰勝利の路程を歩ませることで勝利圏を相続させ、天の父母様と夫に対して七ヵ国の国家の復帰と氏族復帰という贈り物をするための精誠を、共に捧げようという思いがありました。
このような理由から、パラオ大会には天上(霊界)を代表して長男の文孝進(文妍娥)家庭、次男の文興進(文薫淑)家庭を、ドミニカ共和国の大会には地上(肉界)を代表して五女の文善進(朴仁渉)家庭を特使として送ったのです。
パラオは約三百八十の美しい島々から成る、創造本然の美しさを残した国です。私たち夫婦は二〇〇五年、天宙平和連合を創設するため、パラオを初めて訪問しました。また、二〇〇六年にも再びこの国を訪れ全国民にみ言を伝えました。
私は二〇一九年のパラオでのサミットを、特に「ファーストレディサミット」として開催することにしました。パラオは母系社会で、家庭をはじめ、あらゆる伝統文化において、母親が中心の位置にいるからです。パラオの大統領夫妻は、一九九二年から私たちの運動を積極的に支持していました。特に大統領夫人は、私の夫である文総裁が聖和した時も韓国を訪問してくれ、哀悼の意を表してくれました。
太平洋文明圏の安着を、女性が先頭に立って進めなければならないという摂理的要請を考えるとき、神統一世界の出発となるオセアニアの、母系社会であるパラオでサミットと祝福式が開催されるのは、本当に意味があることです。しかし、このパラオにおける私たちの基盤は、まだ微々たるものでした。そのため、このサミットと祝福式を行うことは、実に驚くべき挑戦だったのです。
二〇一九年十二月九日、翌日にサミットを控え、世界中から訪れた>1卩たちを迎えて特別歓迎晩餐会が行われました。その場には、パラオのトミー•レメンゲサウ大統領とデビー夫人、元.現職の首脳夫人八人とトンガの国会議長夫妻、ブータンとスリランカの国会議員など、三十六ヵ国から総勢三百人以上の貴賓が参加しました。
澄み切った夜空に浮かぶ星々の饗宴の中で行われた歓迎晩餐会は、大統領夫妻をはじめ、すベての参加者が真の母を慕う、まさに「慕情の晩餐会」でした。レメンゲサウ大統領は、「私はこの国の大統領ですが、きょうは今回のサミットの主催者である私の妻から招請を受け、ゲストとして来ました」と親しみを込めて挨拶しました。皆が家族のように、和気あいあいとした時間を過ごしました。
翌十日、パラオのアマヨン文化会館で、歴史的な「アジア•太平洋ファ—ストレディサミット二〇一九」が開催されました。開会式は、デビー大統領夫人による開会の辞から始まりました。私の名代として、世界平和女性連合の世界会長である文薰淑が創設者特別メッセージを代読しました。私はメッセージを通して、パラオはもちろん、太平洋文化圏の出発地であるオセアニアに対する格別な愛を伝えました。
かって文総裁は、「環太平洋時代の到来」を宣布し、アジア•太平洋の摂理を何度も強調しました。一九九二年には、「統一世界はオセアニア(大洋州)から」と揮毫し、オセアニアの復帰のために多くの精誠を尽くしました。
私はこの「環太平洋時代」を、地理的な概念から、文明圏の概念に拡張しました。そうして、「天一国安着のための天宙的カナン四十日路程」において、カンボジアの希望前進大会では国家次元の支持を、台湾の希望前進大会では中華圏からの支持を得ました。さらに、ニジH—ルでは国家の次元を超えてアフリカ大陸次元の支持を受け、パラオの希望前進大会を通しては、環太平洋諸国からの支持を得たのです。
その場に参加した各国の首脳夫人たちは、真の母の心情で世界の根本問題を解決するために、みなで力を合わせょうと決意しました。参加者たちはこの日を、人類の独り娘、真の母が成し遂げた「女性解放の日」と命名しました。他のサミットとは違い、この日は、男性たちが女性のために大会を準備してサポートした、まさに女性が主役の日だったのです。
サミットの勝利の土台の上で、十二月十一日、国家主催の祝福式を挙行しました。しかし、
歴史的な行事であるだけに、試練が続きました。サミットがスムーズに行われたため、この日もすベて順調に進むだろうと思っていたのですが、祝福式の当日を迎えた深夜零時に突然連絡が入り、レメンゲサウ大統領が祝福式に参加できなくなったことが分かったのです。大統領が参加できなくなった理由は、国会の予算会議が、祝福式の行われる午前十時から十一時三十分の間に重なったから、ということでした。まさに青天の霹靂であり、スタッフはただただ、戸惑うばかりでした。
ところが当日、デビー大統領夫人と元・現職の首脳夫人たちが祝福式の会場に入った時、司会者が意外なことに、レメンゲサウ大統領が到着したことをアナウンスしたのです。そして、本当に大統領が入場し、舞台に上がってきたのでした。
太平洋文明圏の安着において、オセアニアの出発となるパラオの希望前進大会の勝利は、摂理的に大変重要な意味を持っていました。この大会のために、私の子女やアジア•太平洋圏の指導者たちは「至誠感天」の精神で臨み、無事に勝利したのです。
私たちは一家族であり、食口(韓国語で「家族」の意)共同体です。「中断すれば失敗であり、中断せずに前進すれば、勝利に至る」という信念のもと、いかなる困難にぶつかっても毅然とした態度で前進しなければなりません。私はこのすベての内容を、大洋のように大きな母の心で受け止め、過ちを包みこむ「愛なる母」、「慈愛の母」でなければならないのです。ですから、夜中、子供に布団をかけてやる心情で、きようも眠れぬ夜を過ごしているのです。
神中南米の偉大な前進、希望の花を咲かせる
「中南米は、忘れようとしても忘れられない場所です」
「私たちはそこである時期を、そつくりそのまま捧けました」
「そこにかけた願いが水の泡になってしまったようで、胸がとても痛みます」
私たち夫婦が最も精誠を尽くし、汗を流した場所の一つが中南米です。炎天下の中、土ぼこりをかぶりながら、希望の土地を耕すために超人的な精誠を捧げた時期がありました。今も目を閉じれば、中南米で摂理を進めた地域がはっきりと思い出されます。
そのような私たち夫婦の汗と涙がにじんでいる中南米の地で、いくつかの訴訟が起こっていることを思うと、胸が締めつけられるようです。希望を抱くのが難しい荒れ址のような中南米の地。しかし私はこの地に、希望の花を再び咲かせました。
二〇一八年八月、文総裁の聖和六周年記念行事を前にして、私は十二年ぶりにブラジルのサンパウロを訪れました。そして、中南米サミットと希望前進大会を行うことを通して、国家を復帰する摂理のために火を点したのです。
さらに二〇一九年、十二月十四日から十五日にかけてドミニカ共和国で行われた希望前進大会を通して、それまで蒔いてきた希望の種がついに成長し、花を咲かせました。不毛の荒野のような中南米の地に一輪の花を咲かせ、実を結んだ中南米希望前進大会は、まさに偉大な挑戦であり、偉大な勝利でした。
カリブ海地域のドミニカ共和国で開催された希望前進大会は、同国第二の都市であるサンティアゴの州政府庁舎おょびホデルパ•グラン•アルミランテ.ホテルで開催された「ラテンアメリカ•カリビアンサミット」をもって、幕を開けました。この行事にはブラジル、メキシコ、アルゼンチン、コロンピア、グアテマラなど、中南米の三十三ヵ国を含む四十三ヵ国-Rら五百人以上が参加しました。
グアテマラのジミー•モラレス大統領(当時)をはじめ、トリニダード.トバゴ、ニカラグア、エクアドル、ボリビア、ハイチなどの元首脳六人が参加する中、ドミニカ共和国からはダニー口•メデイーナ大統領の公式的な名代として、サンティアゴ州のアナ•マリア•ドミンゲス知事が参加しました。そのほかにも元•現職の国会議長十人、国会議員三十人以上、そして中南米各国から政界、経済界、宗教界の著名な指導者が参加したのです。
サミットの開会式では、元ニカラグア大統領夫人のマリア•フローレス女史が私を紹介し、続いて世界平和女性連合の世界副会長である文善進が、基調演説として私のメッセージを代読しました。
「世界の難問題を解決し、恒久的な平和を安着させるためには、天の父母様に保るしかありません。天の父母様と一つになって、共に平和を実現しましょう」
基調演説を聴いた参加者たちはみな立ち上がり、大きな拍手で応えてくれました。
サミットの最後に、「世界平和頂上連合(ISCP)」を創立する意義深い決議の時間を持ちました。天宙平和連合のトーマス.ウォルシュ世界議長が世界平和頂上連合の趣旨と目的を紹介した後、トリニダード•トバゴのアンソニー•カルモナ元大統領、エクアドルのロザリア.アルテアガ元大統領、ハイチのジョスレルム•プリヴェル元大統領、ボリビアのハイメ.パス.サモラ元大統領などが、世界平和頂上連合を積極的に支持する演説を行いました。
続いて、世界平和国会議員連合の共同議長であるアメリカのダン•パートン元下院議員の提言に従い、サミットに参加した元•現職の首脳がみな立ち上がって、世界平和頂上連合の創立決議文に署名したのです。
サミットに続き、十二月十五日にはグラン.アレナ.デル.シバオ•スタジアムで、「天の父母様のもとの人類一家族」理想に基づいた平和理想世界を実現するため、「家庭平和フェスティバル」が開催されました。会場を立錐の余地もなく埋め尽くした人々が、フェスティバルを熱く盛り上げました。
このフェスティバルには、サミットに参加した元•現職首脳など、多くのリーダーが同席するとともに、ドミニカ共和国の自治体警察官約四千人やドミニヵ国立警察官約六百人を含む、一万二千人以上が参加しました。
文善進副会長夫妻が主礼を務め、六千組以上の祝福家庭が誕生したこの日の祝福式では、特に警察官を代表する参加者十人に、主礼から特別賞が授与されました。また、グアテマラのモラレス大統領が祝辞を述べ、祝福式の場を一層、輝かせてくれました。
困難な環境の中でも、中断なき前進を続けた中南米の指導者や信徒たちの精誠が、この「神中南米」の地に希望の花を咲かせたのです。今後、この花がしっかりとした希望の実を結ぶことを、私は確信しています。

Friday Sep 03, 2021
自叙伝・人類の涙をぬぐう平和の母 第66話
Friday Sep 03, 2021
Friday Sep 03, 2021
イスラム原理主義の国ニジェールで、アフリカを動かす力を持つエリートたちが見守る中、私は天の父母様が六千年間、語ることのできなかった真実を宣布しました。
「独り娘と一つになるとき、天の父母様の祝福を受ける」
この宣布は、まるで雷鳴のごとく、ニジェールを越え、アフリカ全体に響き渡りました。
サミットの最後に、五十四ヵ国を代表する現職の首脳やその公式的な名代が並ぶ中、私はイスフ大統領と共に二千人の参加者全体を代表して、サインをしました。イスフ大統領は、「お母様、私のことを信じてくださり、ありがとうございます」と述べ、このサミットの大勝利を天の前に奉献しました。
私は預言者ムハンマドの苦労をよく知っています。ですから、私はイスラームの最高指導者を、息子としてたくさん受け入れたのです。このたびの行事を通して、イスラームの信仰を持つアフリカの首脳や指導者たちがみな一様に、私が「真の母」であり、「平和の母」であると悟りました。家庭連合の歴史においていまだかって経験したことのない、驚くべき奇跡を目の当たりにした大会でした。
翌日、ついに歴史的なニジエールの国家主催の祝福式およびアフリカ大陸レベルの祝福式の日を迎えました。ムスリム国家で初めて行う国家レベルの祝福式であるため、私はいつにも増して、深刻に精誠を尽くしました。
当日の朝、大統領に会うと、「ニジェールで、御自宅のようによくお休みになれましたか」と挨拶してくれました。私はほほ笑んで、「大統領の温かい歓待のおかげで、よく眠れました」と答えました。前日のサミットについてしばらく歓談した後、私は大統領に案内されて、会場に向かいました。
よく、外交上のプロトコル(儀礼、手順)は、「銃声のない戦争」だと言われます。私は、真の父母を中心としたプロトコルを「ヘブンリー.プロトコル」と名付けました。
祝福式ではもともと、国家を代表してニジェールの首相が祝辞を述べる予定になっていたので、私が入場する際、一緒に入場するのは首相一人の予定でした。ところが国会議長が、「国民を代表する自分は、真のお母様に続いて必ず首相と共に入場しなければならない」と強く求めてきたのです。首相もどうすればよいか分からない様子でした。そのため、首相と国会議長がそれぞれ国家と国民を代表する立場で、私と共に入場するようにプロトコルを調整したのです。真の母を思うニジエールの指導者たちの情熱を垣間見ることのできた出来事でした。
祝福式の会場は、ムスリムの伝統衣装を着たカップルで既にいっぱいでした。そして、当初の心配をよそに、ムスリムの指導者たちもまた、この行事を神聖な祝福式として受け入れたのです。サミットに参加した元.現職の首脳や国会議長、大臣、国会議員、宗教団体のリーダーなどアフリカを動力しているVIPも大挙して参加しました。
祝福式はムスリム固家の主導の中、まず聖水式から始まりました。ィスラー^文化圏では、
聖水を撒くようにしてかけるとキリスト教の洗礼に誤解されかねないため、聖水の入った大きな器を用意して私が手を浸し、新郎新婦のつないだ手に私のその手を重ねて、濡らす形で式を進めました。その光景があまりにも神聖で感動を呼んだのか、聖水式が行われる間中、場内からは感嘆の声が上がり、拍手が鳴りやみませんでした。まさに宗教の壁、人種の壁、文化の壁を超えて、天の父母様を中心とした人類一家族の夢を実現する、祝福結婚の場となったのです0
ニジエールは、国土の八〇パーセントが砂漠です。天はこれほど厳しい環境にあるこの国に義人を立て、祝福をすることのできる環境をおつくりになったのです。今回の大会のために最も苦労した人物の一人が、カッスム議員です。彼は、私が飛行機から降りる姿を見るや否や、自分の願いがかなったといって多くの涙を流した、ニジェールにおける孝子の中の孝子です。ムスリム国家における初の国家レベルの祝福式において、彼は勝利を祝う花束を捧げてくれました。
祝福式が終わるとすぐに、世界中から祝賀と感謝のメッセージが届けられました。
「平和の母、真のお母様がムスリムをかき抱かれました」
ニジェールの国家主催の祝福式は、感動と奇跡のドラマを見ているようでした。行事を終えた後、アフリカ大陸を代表して、アフリカ連合(AU)執行委員会の代表、西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)の代表であるニジェールの首相、G5サへルの代表、そして、「天一国」の名で家庭連合世界本部事務総長が参加し、協約式を行いました。
この大会は、アフリカ大陸はもちろん、全世界を驚かせ、家庭連合の歴史に永遠に残る大会となりました。困難な環境の中でも、皆が死生決断、全力投球の決意で歩んだために、天が役事せざるを得なかったのです。私も、もう八十歳に近づいています。人間の地上生活には限界があります。しかし、私は独り娘、宇宙の母であるため、私を必要とする所があれば、それがどこであろうと訪ねようとするのです。
アフリカに降り注ぐ激しい雨は、天の喜びの涙
「アフリカで、雨は『祝福』を意味します」
「今、南アフリカに降り注ぐ激しい雨は、天の喜びの涙です」
南アフリカでは、一年を通してなかなか雨が降りません。雨季でも、雨が少し降ってはやんでしまうのです。私が南アフリカのヨハネスブルグに到着した時も、雨は一向にやむ気配がありませんでした。まるでバケツをひっくり返したかのような土砂降りが続いたのです。大会を前にして、みな表情に不安がにじみ出ていました。
「十二月七日、祝福式の日にはやむだろう」
そう思いましたが、その日もやはり、雨が降ったのです。歴史的なアフリカ大陸レベルの祝福式は、まさに困難を極める行事であることを直感しました。
残念なことに、これまで家庭連合と南アフリカ政府の関係は、それほど親密ではありませんでした。実際のところ、南アフリカで友好的な環境が築かれ始めたのは、二〇一八年からと言えます。それまで南アフリカは、家庭連合の宣教地の中で最も厳しい環境にある国の一つでした。
二〇一八年の七月に行われたネルソン.マンデラ元大統領の誕生百周年記念行事と、同年十一月に行われたケ—プタウンでのサミットは、アフリカで唯一のG20国家である南アフリカで、友好的な環境をつくるための取り組みでした。そのような中で、二〇一九年十二月、天が準備された義人のハデべ預言者を通して、ようやく南アフリカの大陸レベルでのサミットと祝福式を行うことができたのです。
FNBスタジアムを舞台に、歴史的な「アフリカ大陸レベルの二十万人祝福式」の瞬間が近づいてきました。しかし暴雨により、行事の開始時間を遅らせざるを得ませんでした。時間が経つにつれて参加者の数はすごい勢いで増えましたが、降り続く雨を避けるため、彼らは屋根が設置されているスタジアムの三階や階段の入り口付近に移動していました。スタジアムをいつぱいに埋めるほどの人々が押し寄せていたのですが、雨のため、なかなか降りてこようとしなかったのです。
私がスタジアムに到着すると、五十四ヵ国を代表して祝福を受ける新郎新婦たちが、タキシードとドレス姿で待っていました。大きな歓声と拍手と共に、「マザー.ムーン、マザー.ムーン」と叫ぶ彼らを見ながら、降り注ぐ大雨はむしろ、喜びと祝福の雨であると思いました。既に現地に到着していたハデべ預言者が私を迎えに出てきたので、私は彼に、「きようも、しっかりやりましよう」と話しかけました。
暴雨などものともせず、会場は祝祭の雰囲気に包まれていました。独り娘、真の母により下賜される歴史的な祝福に感謝し、歌い踊る参加者たち。しかし、行事を準備したハデべ預言者
やスタツフたちは内心、ハラハラしていたことでしょう。
この祝福式には、二十万人が直接会場に来て参加し、インタ丨ネットによる生中継を通して三百万人以上がさらに参加する予定でした。南アフリカの国営放送をはじめ、各種メディアを通してアフリカ全域に生中継され、アフリカの数千万に上る人々はもちろん、ヨーロッバなど、世界中の人々が共に参加する大陸レベルの祝福式でした。
この祝福式のために十万組以上があらかじめ聖酒式に参加し、チケットは既に二十万枚以上売れていたため、会場に集まる人数に問題はありませんでした。しかし、予期しなかった暴雨だけでなく、参加者が乗る予定だったバスニ千台が急にキャンセルになるという事態が、実は起きていたのです。
アフリカの大陸レベルの祝福式となったこの大会には、南アフリカはもちろん、モザンビーク、ザンビア、ジンバブエなど、五十四ヵ国の人々が参加したため、他の国から数日かけて、バスに乗ってきた人も多くいました。ところが、肝心の祝福行事が行われるヨハネスブルグで利用する予定のバスが、式の前日にキャンセルされてしまったのです。ハデべ預言者はその事態を収拾し、追加のバスを確保するために奔走しました。
このような困難の中で、やむことのない暴雨をかき分け、目標人数を達成したのは、まさに奇跡のようなことでした。さらに驚いたのは、祝福式が終わる午後三時まで、二十万の群集が微動だにせず、真摯な眼差しを送りながら行事に臨んだことです。
ハデべ預言者は、式が始まる直前になってもなかなか舞台に上がってきませんでした。あとで知ったのですが、彼は人でぎっしり埋まったスタジアムを私に見せるため、直接ハンドマィクを持って観客席に行き、グラウンドのほうに降りるょうに参加者たちを促していたのです。最後まで最善を尽くす彼に、私は本当に感心しました。
ところが、私が入場する時になって、また困ったことが起きました。私は二階のグリ—ンルームで待機していたのですが、突然、停電が起きたのです。エレべーターも動かなくなってしまったので、私はこの歴史的な大陸レベルの祝福式を迎えるまでに天が味わってこられた数多くの苦難と逆境を思いながら、歩いて会場に向かいました。一階ロビーに到着すると、ハデべ預言者が晴れやかな笑顔で待っていました。
私は才1プンカーに乗って入場することになっていましたが、雨が降り続いていたため、ォープンカーのルーフを半分閉じて入場することになりました。それでも、儀仗隊の敬礼を受けながら入場すると、観客席は熱い歓声であふれ返りました。参加者はみな一様に、「マザー.ムーン!」と連呼していました。
私がスタジアムに入場した途端、驚くべき奇跡が起こりました。数日間続いていた大雨がやんだのです。雨がやむと、観客席の上のほうに残っていた人々がみな続々と降りてきて、スタジアムはあっという間に満席になりました。背後で天の父母様が役事されていることを、私は改めて実感したのです。車のルーフを全開にすると、スタジアムの歓声がますます大きくなりました。本当に驚くような光景でした。
ハデべ預言者が私を見つめ、誇らしげに言いました。
「お母様!スタジアムをいつぱいに埋めました」
私は歴史的な大陸レベルの祝福式を執り行うため、舞台に上がりました。五十四ヵ国を代表して、未婚カップル五十四組、既成カップル五十四組と共に、アフリカの指導者カップル五十四組が舞台に上がりました。彼らのほとんどが、政治指導者や宗教指導者、族長たちでした。
現職の首脳およびその公式的な名代五人をはじめ、アフリカの代表が百人以上、舞台に上がっていました。元首脳六人、国会議長十二人、国会議員百四十人、国王および族長二百十九人、主要な宗教団体のリーダー百二十七人、そして、三十ヵ国から来た八十以上のメディアの代表が、その場を共にしました。
特睾すべきは、南アフリカ最大の部族であるズールー族の王が参加したことです。ズールー族は、南アフリカがヨーロッバの列強国から侵略を受けた際、最後まで抵抗した唯一の部族であり、この部族を中心として、今日の南アフリカ共和国が建てられたのです。そのような英雄が舞台に並んでいたため、祝福式は一層、輝きを増しました。
私は絶望と抑圧に苛まれていた大陸であるアフリカを、希望と憧れの大陸である「神アフリ力」として祝福するため、渾身の力で聖水式を行いました。その際、ハデべ預言者は舞台に上がって聖水の器を持ち、私が主管する聖水式を手伝ってくれました。何百万人もの信徒を擁する宗教団体の指導者として、自身の体面を考えれば、なかなかできることではありません。ただひたすら、「母を助けたい」という思いで喜んで行動する、実に親孝行な息子でした。
その後、聖婚宣布と祝祷を行いました。私はアフリカ大陸のために、真心を込めて祈祷しました。
「アフリカにおける多くの預言者や各国の王、族長たちの願いは、天の父母様に侍る平和な日を迎えることです。この大陸がもはや悲しみの大陸ではなく、天の祝福を受ける大陸になることを願います」
祝祷の途中から、再び雨が降り始めました。南アフリカに滝のごとく降り注ぐこの雨は、天の喜びの涙でした。それは心に積もり積もった恨を、きれいに洗い流す雨でした。
続いて、ハデべ預言者が歓迎の辞を通して、私を切実に証ししてくれました。
「きようは特別な、アフリカ大陸レベルの祝福式の日です。世界の五色人種を一つにされる独り娘、真のお母様を、心より歓迎いたします。きよう、南アフリカはもちろん、アフリカ全土の新しい未来が開かれました。お母様は本当に、真の母であられます」
「ビジョン二〇二〇」の勝利に向けた偉大なフィナーレである大陸レベルの祝福式で、私たちは大勝利を収めました。国家の復帰ができることを信じる人がいない中、誰も歩んだことのない道をかき分けながら、国家の復帰を越え、大陸復帰のために前進し、ついに勝利したのです。実に驚くべき、奇跡の一日でした。

