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Wednesday Aug 11, 2021
自叙伝・人類の涙をぬぐう平和の母 第44話
Wednesday Aug 11, 2021
Wednesday Aug 11, 2021
青年の情熱は燃えたぎる松明
サミュエ•ル.ウルマンの「青春」は、私の好きな詩の一つです。中でも、「青春とは人生のある時期を意味するのではなく、心の姿勢を意味する」という句が好きです。青春とは、必ずしも若い時代だけを意味するのではありません。胸躍る思いさえあれば、年齢を問わず、誰でも青春のように若々しく生きることができるのです。
一九八四年に「世界大学原理研究会(W-CARP)」の会長となった長男の文孝進は、一九八七年、第四回総会を西ドィツの西ベルリンで開催しました。会場の外には共産主義者が集まり、激しく騒ぎ立てながら反対デモを行っていました。総会の最後に、孝進は勇敢に宣言しました。
「これから、ベルリンの壁に向かって行進します!」
反対する者たちの脅しや妨害を押し切り、二時間、行進をしてベルリンの壁に到着した彼らは、もみ合いの末、あとをついてきた共産主義者たちをみな追いやりました。孝進は涙ながらの演説を行って聴衆に感動を与え、二千人以上の若者がペルリンの壁を前にして切実な祈りを捧げて、力強い声で「私たちの願いは統一」の歌を一斉に歌いました。その祈りと歌が種となり、数年後、ベルリンの壁が崩れたのです。
その日、孝進が青年たちと共に歌った歌は、世界の歴史を大きく変える出発点となりました。青年の情熱は国境を超え、障壁も崩します。しかし、最近の一部の青年たちは、チャレンジ精神が衰えているように見えます。チャレンジ精神を持った人こそ、真の青年なのです。
昔、韓国の知恵深い先祖たちが花郎徒をつくり、青少年を修練の場に送って心身を鍛錬させたことは既に述べました。そのような伝統を、過去の遺物だといってなおざりにするのではなく、新たに蘇らせてその真の価値を見いだし、心を浄化する修練の道場としなければなりません。
私たち夫婦は、青年が現実の暗鬱さに埋没し、夢をあきらめたり、目標も持たずにさまよったりする姿を見て、非常に心を痛めました。また、正しい目標を持っていながらも、一人では手に負えずに苦労している姿を見て、彼らを助けようと心に決めました。こうして、世界の青年を一つに束ねる「世界平和青年連合(YFWP)」を創設したのです。
一九九四年、アメリカのワシントンDCに「愛天、愛人、愛国」の精神で正しい価値観を確立し、真の家庭を実現できる人間となるために、活気あふれる青年たちが集いました。このワシントンでの創設大会を皮切りに、世界に広がった世界平和青年連合は、一年も経たないうちに百六十ヵ国で支部を結成しました。短期間でそれほどまでに発展したのを見れば、青年の情熱がどれほど燃えたぎっているかがよく分かります。
これまで世界平和青年連合は、国際交流、倫理道徳の確立、真の家庭の実現に力を注いできました。また、韓国と北朝鮮の青年、世界の青年が共に集い、民族の願いであり世界平和の近道となる南北統一を成し遂げるため、誰よりも先頭に立っています。
二〇一七年二月には、「世界平和青年学生連合(YSP)」という名称で、新たな青年運動を出発しました。
心と体を磨くのは、一生をかけて行うべきことですが、特に青年期にそれを行うことは、非常に重要です。岐路に立たされたとき、利己的な欲望の道に足を踏み入れるのか、善なる夢に向かって進むのか、その方向性を決定する時期が青年期です。第二の人生が開かれるその時期に、光り輝く勇気と夢を持って、「美しい青春」を過ごさなければなりません。
青い海に未来の清々しい夢があります
私の故郷、平安南道の安州の村には、小川が流れていました。あらゆるものが凍りつく真冬を除けば、いつもせせらぎが聞こえてきました。私はその小川の水と友達になり、様々な真理を学びました。
水は常に上から下に流れます。また、水は周りに合わせて自分の姿を変えながら、すべてを包容します。さらに、水は二重性を持っています。穩やかなときは安らぎとロマンを抱かせてくれますが、怒り狂うと、あっという間にすべてを呑み込んでしまいます。ですから、その水が集まってできた海は、まさに恐ろしい存在でもあるのです。しかし私は、その海を心から愛しています。海には神様の深いみ意があり、人類の将来があるからです。
私が水を愛したように、夫も水を非常に好んでいました。私たち夫婦は忙しいスケジュールの合間を縫って、川や海に出掛けました。それは単に素晴らしい風景を楽しんだり、のんびりと釣りを楽しんだりするためではありません。世界の人々に、人類の未来は川と海にあると気づかせるためでした。
私たちは特に、南米のアマゾン川とパラグアイ川、アメリカのアラスカとハワイを海洋摂理の中心として定め、青年たちを訓練しながら、川や海の開拓に誠心誠意、取り組みました。食糧問題を解決する方法の一つとして、魚類やオキアミを利用した高タンパク食糧である魚粉(フィッシュハウダー)を生産し、貧しい国で飢餓に苦しむ人々を助けました。
二〇〇〇年代の初めからは、青く澄んだ海を擁する地、麗水を開発し、世界中の人に韓国の美しさを見てもらえるようにしました。麗水の蘇湖洞に「ジ・才丨シャン•リゾ丨^を建て、韓国を海洋レジャー産業先進国にしていく土台も築きました。麗水から入ってきて大陸に広がっていく経済の流れは、韓半島の統一と世界平和の基盤となるでしょう。
アメリカのグロスター港の近隣海域は、マグロ漁で有名な所です。荒々しいその海で、私たちは明け方から船に乗り込み、大人の背丈よりも大きなマグロと格闘しました。遠海に出てマグロを一匹釣ろうとすれば、一日中、波にもまれなければなりません。その波に身を任せ、朝から晩まで海の上に浮かんでいるのは、途方もない苦行です。
しかし、私たち夫婦はその苦行を生涯かけて行いながら、人類の救いと世界平和の道を探し求め、精誠を尽くしてきました。そのたびに、海は私に包容力を養わせ、平等に対する悟りへと導いてくれました。
また、私たちは信徒にも魚釣りの訓練をたくさんさせました。厳しい海釣りを通して、将来世界のどこに行っても活動できる指導者に育てるためでした。
アラスカのコディアク島に滞在していた時、私たち夫婦の教えを聞こうと、世界の様々な所から青年たちが訪ねてきました。私は彼らに説教や演説はせず、すぐにこう言いました。
「海に出てください。海に神様のみ言があります」
青年たちは夜も明け切らないうちに起き出すと、膝まである大きな長靴を履き、水のように冷たい冬の風に吹かれながら、遠海へ出ていきました。そうして、どこを見回しても何もない海の真ん中で、サヶやハリバットを獲るために死闘を繰り広げたのです。
ハリバットは「ォヒョウ」とも言うのですが、主に、海底に体を伏せて生息している魚です。
私はコディアクで、九十キロを超えるハリバットを釣り上げたことがあります。そこまで大きな魚になると、船に引き上げた時、甲板をものすごい力で打ちつけるのです。まつすぐ吊り下げると、女性が三人後ろにまるまる隠れ、見えなくなるほどです。鳴き声も、どれほどけたたましいか分かりません。
夜が更けてようやく釣りから帰ってきた青年たちは、体こそ疲れてくたくたになっていましたが、心は喜悦に満ちていました。たとえ魚が一匹も釣れていなかったとしても、忍耐心、激しい波に対して挑戦し克服する姿勢、自然の道理を学んだからです。私たち夫婦はそれを「アラスカ精神」と呼びました。
青年が度胸をつけたければ、海に出ればよいのです。陸地では道に沿って進んでいれば安心ですが、海はそうではありません。昨日までは穏やかな湖のようだった海が、今朝には凶暴な波が荒れ狂う海に変わるのです。その波の上で自らを厳しく訓練する青年であってこそ、遠大な夢を成し遂げることができます。
西洋に、「一匹の魚を与えれば一食食べられるが、魚の獲り方を教えれば一生食べられる」ということわざがあります。釣りさえできれば、飢え死にすることはありません。飢えに苦しむアフリカにも川や湖があります。ですから、魚の獲り方を教え、養殖する方法を教えてあげればよいのです。私たち夫婦は、そのような仕事にずっと前から取り組んできました。
私が海を愛する理由は、それが強靱な心と体を育ててくれるからだけではなく、人類の未来
がまさに海にあるからです。海は陸地よりもはるかに広大です。深い海の底には、私たちがいまだ知らない宝物が眠っています。海を開拓する人が、世界を導く人になるのです。
海は青いです。青春も青いです。この二つが出合えば、未来が変わります。私がそうだったように、青年は腕をまくって海に飛び込む、勇猛な人にならなければなりません。

Wednesday Aug 11, 2021
自叙伝・人類の涙をぬぐう平和の母 第43話
Wednesday Aug 11, 2021
Wednesday Aug 11, 2021
第七章
青春の苦労は明日の太陽です
胸躍る夢に向かって青春を捧げる
今日の若者は多くの傷を抱えています。他の人と比べて自分が劣っており、見せられるものがないと嘆くことが多くあります。そうして、自暴自棄になったり、あきらめてしまったり、他人のせいにしたり、さらには今の時代を恨んだりするのです。しかし、直面している状況が厳しく、困難であればあるほど、自らを省みなければなりません。
青春時代には誘惑も多く、悩みも多く、欲求も多くあります。それらに克つ方法は、志を立てることです。青春時代に志を持つことは、非常に重要です。また、若さはいつまでも続かないということも、知らなければなりません。
胸躍る夢に向かい、自分の青春を何の未練もなく完全に捧げなければなりません。その際、どのような志を持ち、誰と共にその志を果たしていくかが大切です。一日一日、人生を開拓し、能動的に生活することができなければ、悲観と落胆の沼にはまって抜け出すことができません。
ある青年はいつも不平不満をこぼしています。
「努力すればよい、と大人たちは言うけれど……。努力していない人なんていますか?努力してもうまくいかないからさっさとあきらめるんです」
「私は悪くありません。社会が間違っているんだと思います」
悲観的な青年たちの不平不満は、常に自分自身ではなく、他者に向かっています。しかし、社会のせいにする前に、自分は燃え尽きるほど努力したことがあるのか、謙虚に振り返ってみなければなりません。青年が歩むべき道は、不平不満の道ではありません。犠牲と奉仕、愛を実践する、純粋な道でなければなりません。
私は韓国の大学生や青年を正しい道に導くため、大学巡回講演を何度も行いました。特に一九九三年の秋、大学四十力所を巡回して講演をしたのですが、その路程は非常に長く険しいものでした。•いくつかの大学では、反対する学生たちによって校門で追い返されることもありました。しかし、最終的に四十力所すベての大学で講演をして、青年時代の志をどのようにして成し遂げていくのかについて、大学生に話したのです。
また、モスクワ、北京、ワシントンDCなどで青年大学生セミナーを開いたり、韓国と北朝鮮の大学生および教授たちを参加させて互いを理解し、統一を模索する意義深い場を持ったりもしました。
私は何より、人材育成を大切に思っています。未来の指導者を育てるために全世界の情熱的な青年たちを集め、「グローバルトップガン」という名のもと、人類の救いと世界平和に貢献するよう教育しています。
私は聖書に出てくる人物の中で、ヨシュアとカレブが好きです。二人とも名家の出身であり
八十歳を超えても天の前に忠誠を尽くした人物です。特にカレブは、不自由なものなど何一つない恵まれた境遇にありましたが、ョシユアに謙虚に侍って一つとなり、国と民族のために忠誠を尽くしました。私は、グローバルトップガンの人材をョシユアとカレブのように、天の前に精誠を尽くすことのできる人材となるよう育てています。
新羅は国の将来を見据えた上で、指導者を育てました。指導者層の子女たちで構成された「花郎徒」という団体を組織し、国のリーダ—となる人々を育てたのです。「花郎」という言葉には、「花のように美しい若さ」という意味が込められており、「忠節」、および「未来に向けた挑戦」を象徴しています。
花郎徒では、青少年に学問や武術はもちろん、自然の中に入って心を治める術まで教えていました。彼らは階級間の葛藤を調整する役割を果たすとともに、戦に出れば絶対に退かず、最後まで戦い抜いたのです。このような潔く誇らしい花郎徒精神により、新羅は三国を統一することができました。
未来を担う人材を育成するためには、時を逃してはいけません。自分の両親よりもさらに大きく天の前に忠孝を尽くす人になるという覚悟のもと、勉強はもちろん、熱心に信仰生活に励むように導かなければなりません。そこで私は、「天宙平和統一国(天一国)」を建設する未来の人材を育成するため、花郎徒を凌駕する「孝情郎」という名で、特別教育を行っています。
未来の主人は、青少年です。どのような困難が迫ってきても、自分を磨いて必ず勝利し、自
らの置かれた場所で心身の限りを尽くして、天の父母様と歴史に末永く記憶される孝子、孝女、忠臣となる青年を輩出しなければなりません。今、経験している苦労は、明日の揺るぎない礎石になるということを、しつかりと伝えなければならないのです。

Wednesday Aug 11, 2021
自叙伝・人類の涙をぬぐう平和の母 第42話
Wednesday Aug 11, 2021
Wednesday Aug 11, 2021
痛むおなかを優しくさする母の手
「お母さん、おなかが痛い!」
子供がぐずると母親は何も言わずにその子を膝に乗せ手でおな力をさすってやります。それがガサガサに荒れた手であっても、しばらくするとおなかの痛みは、洗い流したように治まってしまいます。理屈では説明のつかない、最も原始的な方法ですが、それは最も効果的な愛の医術でもあるのです。私たちは誰もが、温かい母の手の感触を覚えています。その手こそすなわち、宇宙の母、平和の母として、全世界と人類を抱く私の手なのです。
人は体の具合が悪いとき、特に悲しみを感じるものです。幸福について語るとき、最も重要なものの一つが健康です。私たちが願う「清福」とは、たとえ財産や権力がなくても、自足しながら幸せに暮らす生活を意味します。「財産を失えば少しを失うこと、名誉を失えば多くを失うこと、健康を失えばすべてを失うこと」という言葉を、私たちは胸に刻まなければなりません。
しかし、誰にとっても生涯、病気にかからず生きていくというのは簡単なことではありません。具合が悪いとき、切実に思い出されるのは、母親の温かい手です。しかしその母親が、常に自分のそばにいてくれるわけではありません。
私は日本統治下の貧しい時期に、栄養失調で苦しむ人々を数え切れないほど見てきました。韓国動乱の最中、怪我と病気によって生活に支障を抱えた無数の人々を目撃しました。聖ョセフ看護学校に入学した際には、私がすべきことを見つけたという喜びと誇りを感じました。しかし、人類と宇宙の母、平和の母になる中で、その天職はしばし後回しにするほかありませんでした。
世界各国を巡回しながら、あと少しだけでも早く治療していれば命を救えたであろう子供たちを、たくさん見てきました。治療のタイミングを逃したために失明したり、手足を切断しなければならなかったりする不幸にも多く遭遇しました。それらの光景は私の心深くにしこりとして残り、どうすれば人々が真に健康な状態で生きることができるだろうかと、長い間悩むことになり1した。また、他の国に行けば、私自身が外国人であり、体調が悪くなってもそのことをうまく伝えることができずに、困つたことが一度や二度ではありませんでした。
普段の生活の中でも経験できますが、母親の耳にはとりわけ、子供の泣き声がよく聞こえます。母の目には、子供の痛みがよく映るのです。子供が泣き出すと母親は直ちに聞きつけ全力で駆けつけます。なぜなら、母親の神経と関心のすべては、ただ子女に向けられているからです。子供を助けるためならば、火の中にでもためらうことなく飛び込んでいくのが母親です。
私は看護学校に通っていた時に抱いた夢を実現しなければならない、と思いました。それは具合が悪かったり、心が傷ついたりしている人をあまねく包む、母親になることでした。そこで、病気によって苦しむ人々や韓国を訪れた外国人が、故郷にいるように安らかな気持ちで、母親の手の温もりを感じられる国際病院の設立を推進したのです。
一九九九年に設立認可を受けた後、約四年間の準備を経て二〇〇三年、美しい山と湖が広がる京畿道加平郡の地に、「HJマグノリア国際病院(旧、清心国際病院)」が開院しました。
HJマグノリア国際病院は、単に一つの新しい病院を建てるということで始まったのではありません。病気を治療することを超え、真の意味での健康を実現するために誕生したのです。
健康とは、体の丈夫さだけを意味するのではありません。本然の人間は、心と体が調和して統一を成した存在です。そのため現代医学は、統一医学の観点から、新しく進むべき道を見いださなければなりません。統一医学は、真の愛と「原理」のみ言—を基盤にしています。この新しい統一医学をどこよりも先駆けて開発し、実践しているのがHJマグノリア国際病院なのです。天の恵みである美しい自然に囲まれる中、様々な国から来た医師たちが父母の心情で、患者のケアを行っているのです。
私たちは、これまであまり問うてこなかった一つの疑問について、考えてみなければなりません。
「信仰は、果たして健康を増進させることができるのか?」
この疑問に答えるのは、難しくありません。健康になるためには、心と体の調和が何よりも大切です。その調和をもたらしてくれるのが信仰です。HJマグノリア国際病院は、世界最高レベルの医術を備えているだけでなく、霊性治癒を通して病気の予防、治療をする技術においてもトップレベルの病院として挙げられています。その土台には、それまで孤児であった人類
を、霊肉共に救おうとする独り娘、真の母の切実な祈りがあるのです。
健康は、健康な時にこそ意識すべきなのですが、私たちはこのシンプルな心得を、いつも忘れて生きています。忙しい日常の中で、心身のことを顧みる機会は、そう多くありません。神様は私たち人間に、「ふえょ」という祝福を下さいました。「ふえょ」とは、必ずしも子孫や物質的な繁栄だけを意味するのではありません。精神的、肉体的な繁栄も私たちの使命であり、私たちが味わうべき喜びなのです。HJマグノリア国際病院は、その喜びのために奉仕することに、大きなやり甲斐を感じています。
毎年、HJマグノリア国際病院医療チームを主軸とし、これに賛同する各界各層の多くの奉仕団員が東南アジアやアフリカへ医療奉仕に行っています。一本の注射、一錠の薬で危機を脱することのできる状況であっても、それを手に入れることができず、絶望の底に落ちる人が多くいます。一本のワクチンがないため、貴い命が失われることもあるのです。
私は彼らの苦痛を少しでも和らげるために、「HJマグノリアグローバル医療財団」を設立しました。それは単に医療事業や病院運営のためではなく、医療の恩恵を受けられずにいる発展途上国の貧しい人たちのためです。そうして、病気や苦痛にあえぐ彼らのために、病院を建てたり、設備を支援したりするなどの医療奉仕を行ってきたのです。
私たち夫婦が医療奉仕事業を始めてから、数十年が経ちました。これまでカンボジアをはじめ、東南アジアの様々な国に保健所を建て、運営してきました。多くの政府から感謝の証しとして、感謝牌が届いています。
人間は、足の指先の小さな怪我であっても、その痛みを全身の苦痛のように捉えるものです。「唯一の神様のもとの人類一家族」である私たちにとって、地球の片隅で感じる苦痛は、地球全体の、全人類の苦痛となることを忘れてはなりません。
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Tuesday Aug 10, 2021
自叙伝・人類の涙をぬぐう平和の母 第45話
Tuesday Aug 10, 2021
Tuesday Aug 10, 2021
天と人と国を愛して
私は日本統治時代の終わり頃に生まれ、抑圧のもとで育ちました。解放を迎えた後は、共産党からの宗教弾圧を受けながらも神様に侍って生活し、自由を求め、命懸けで南に下りてきました。また、戦争が始まるとソウル、大邱、戦争が終わってからも済州、春川などの学校を転々としながら、浮き草のような生活を送りました。ですから、学びに対する渴望は、誰よりも強くあったのです。
韓国動乱後の混乱期、私は困難な中で、ソウルの聖貞女子中学校を卒業しました。この私の母校は、まさに一生忘れられない人生の揺籃でした〇青少年時代に過ごす学校は、人生においてそれほど重要な意味を持つのです。
三十数年後、母校を訪ねてみると、校名は「善正」に変わっていましたが、私を教えてくれた先生方が数名、変わらず勤めていらつしやいました。先生方は私のことを覚えていらつしやり、私もまた、先生方を忘れることはありませんでした。私たちは喜びにあふれ、昔の大変だった時代のことをしばし語り合ったものです。
善正中学校は今や、統一家の一員となりました。私の母校として、真の教えを実践し、教育の模範を示しています。
私たち夫婦は苦学生を見ると、自分たちが苦労した頃が思い出されるので、彼らが空腹に困らずに勉強に専念できるよう、援助しました。さらに、すべての青少年が自分の夢を成し遂げられるよう、韓国はもちろん、六大陸に幼稚園から大学院まで、様々な学校を建てました。アメリカには中学、高校、神学校、四年制の総合大学があり、韓方医学も教えています。南米やアフリカには農業、医学を教える専門技術学校をはじめ、世の中に必要とされる学校を設立しました。
それらすベての学校では、「愛天、愛人、愛国」の建学精神に則り、世界のために献身する人材を育てています。「愛天」とは、神様を愛するということです。真の愛と真理の本体であり、人格の原型であられる神様を正しく知り、そのみ旨に従って生きていくことです。「愛人」とは、ために生きる生活を実践し、共に生きる市民精神を育むことです。「愛国」とは、祖国を愛し、自分に与えられた才能を伸ばして、神の国をつくり上げていくことです。
一九七四年、私たちは韓国に、リトルエンジェルス芸術学校を設立しました。それに先立つ一九六二年、苦労に苦労を重ね、リトルエンジェルス芸術団をつくったのですが、リトルエンジェルスは瞬く間に、世界を巡回するまでに成長し、行く先々で韓国の美しさと伝統文化を披露して、多くの人から拍手喝采を浴びることになりました。その天使たちをさらに育てるため、リトルエンジェルス芸術学校を設立したのです。
今やそれが仙和芸術中•高等学校へと発展し、芸術分野のグローバル人材を育成する学校に成長しました。その校門に入ると、「GatewaytotheWorld(この門は世界に通じる)」という言葉が、真•っ先に出迎えてくれます。この学校出身の世界的な声楽家やバレリーナなどが、今この時間にも、地球のあちらこちらを飛び回りながら活動しています。
リトルエンジェルス芸術学校の設立から数年後には、景福小学校を引き継ぎ、その後も善正中学校と善正高校、善正国際観光高校が、統一家の誇る学校となっています。
景福小学校は一九六五年に開校した、歴史と伝統のある学校です。
善正中学校と善正高校は、知識教育を超え、人格教育と心情教育を行うためにあらゆる努力を傾けています。さらに、世界的な人材を育成するという目標のもと、様々な国から来た留学生が一緒に学んでいます。
善正国際観光高校は、「観光産業をリードする人材の育成」に目標を置く特別な学校です。この学校では毎年五月十五日の「師匠の日」に、脱北した教師を招請して「南北の教師が共に迎える師匠の日」という行事を開催し、迫りつつある統一に脯えています。
清心国際中•高等学校は、青々とした水をたたえる清平湖のほとりにある、私立としては韓国初の国際中•高等学校です。世界的指導者として活躍する人材を育てるため、長い間、精誠を尽くして最高の学校を設立しました。二〇〇九年に送り出した最初の卒業生をはじめ、多くの卒業生が国内の優秀大学はもちろん、アメリカのアィビーリーグや日本の名門大学など、世界的な大学に進学しています。将来、清心が育てたグローバル人材が世界平和に寄与すれば、それが清心にとって大きな功績となり、誇りとなるでしょう。清心の卒業生たちが世界の舞台で活躍する日がすぐそこまで近づいています。その時、韓国は教育先進国としてその名を轟かせることでしょう。私たちは何よりもまず、教育に心を尽くし、精誠を込めなければなりません。人材は、自然にでき上がるものではないし、テストの点を取るための勉強をさせれば育つというものでもありません。そのため、私は青少年向けの人格教育の教材を開発し、世界的に普及させるということもしました。
私たちは彼らが'強靱な体力と優れた人格と共に、知識と知恵を兼ね備えられるよう、導いてあげなければなりません。そのような真の人材を育てる責任が、私たちみなにあるのです。

Tuesday Aug 10, 2021
自叙伝・人類の涙をぬぐう平和の母 第41話
Tuesday Aug 10, 2021
Tuesday Aug 10, 2021
愛は国境を超えます
「多文化家庭(国際結婚をした家庭)はますます増えているのに、生活はみな楽ではないようです」
すぐに、隣の人がさらに胸の痛む話をします。
「中には家庭の経済状況が厳しく、学校に通えない子供もいます」
「それだけではありません。韓国に嫁いできた外国人妻が、文化に馴染めず、自分の国に帰って_^まうことも^なくないようです」
世の中の様子についてあれこれ話を交わしていると、しばしば多文化家庭の苦しみについて教えてくれる人がいます。深い事情を聞かなくても、私には彼らの痛みがよく分かります。一九七〇年代の初めにアメリカに渡り、宣教生活を送った私もまた、少数民族に対する差別とその悲しみを十分に体験しました。多民族国家であるアメリカでさえそうだったのに、長い間、単一民族国家であると自負してきた韓国では、言わずもがな、でしょう。
今や韓国の地方の農村はもちろん、都市でも多文化家庭が増えています。一般的に、多文化家庭は夫が韓国人、妻が発展途上国などからお嫁に来た女性、という構成になっています。はるか遠い異国の地から嫁いできた女性たちが、言語も生活習慣も違う見知らぬ土地に定着することは、容易ではありません。多文化家庭を見つめる視線には無意識のうちに差別が含まれていることもあり、彼らは言葉にできない悲しみを少なからず経験しています。
その苦しみと悲しみは、私が経験したこととあまり違いはないでしょう。ですから私は、韓国に定着した異国の女性たちがみな幸せな家庭を築いていけるよう、支援を惜しまなかったのです。その支援は、国境を超えた祝福結婚式が行われた一九六〇年代末から行われています。
韓国で多文化家庭が急激に増えたのは、オリンピックが開かれた一九八八年に行われた六千五百組の祝福結婚式の時で、多くの韓日.日韓国際家庭が誕生しました。
韓国では既にその時から、農村に住む男性と結婚しようという女性があまりおらず、社会問題になっていました。しかし、韓国内では民族感情が非常に高まり、排斥的になっていた時期だつたので、日本人を嫁や婿として迎え入れるのは非常に困難なことでした。同様に日本でも、子供を経済的な発展が遅れている韓国の男性や女性と結婚させようとする親は、あまりいませんでした。
しかし、絶対信仰と絶対愛、絶対服従を信条とする統一教会の日本女性たちが大勢、韓国の農村の家に嫁ぎ、献身的に尽くしながら暮らしました。日本だけでなくフィリピンやベトナム、タイなど様々な国の女性信徒が韓国に来て、家庭を築いたのです。
彼女たちは義父母に真心で侍り、子女をたくさん生んで、幸せな家庭を築きました。中には、苦しい生活をしながらも病気の老親に尽くし、孝婦賞をもらった者もいれば、障がいのある夫に付き添いながら、村の婦女会長や学校の父母会長を務めて農村を引っ張っている者もいます。今では韓国の農村、漁村になくてはならない、重要な役割を果たしているのです。
私たち夫婦は、韓国で生活をする国際家庭の婦人たちに韓国語を学ぶ場を提供しながら、すべきことが本当に多いことを知り、二〇一〇年、「多文化総合福祉センター」を設立しました。韓国社会へ.の適応に苦労している異国の女性たちが、故郷にいるかのように心安らかに生活で
きるよう、サポ^・・・・・^するためです。さらにもう一歩進んで、障がい者や一人親家庭も支援して
います。また、様々な事情で学校に通えない青少年たちが夢を持って勉強できるよう、「真の愛平和学校」も運営しています。
時々、一部の薫人や地位の高い人々の子息の軍入隊忌避に関するニユ—スを耳にしますが、一方で、二〇二五年には韓国軍が「多文化軍隊」になるだろうという見解が出ています。
これまでに、国際祝福結婚をした家庭の子女で、既に兵役義務を果たしたか、あるいは現在果たしている人の数が、いつの間にか四千人を超えました。多文化家庭の子女には二重国籍が与えられますから、他の国の国籍を選択すれば、軍隊に行かなくて済みます。しかし、祝福結婚をした多文化家庭の子女の場合、その多くが自ら入隊を選び、神聖な国防の義務を果たして
いるという事実は、非常に誇らしいことです。
このような状況で、私たちがまず何より優先すべきことは、多文化家庭に対する認識を変えることです。いずれは、「多文化家庭」という言葉すらもなくなるようにしなければなりません0その言葉には、既に差別的なニュアンスが含まれているのです。家庭はただ「家庭」であって、その前にどのような修飾語も付けてはいけません。国籍が違う男性と女性が結婚したからといって「多文化家庭」と呼ぶのは、人類の普遍的な価値観に合いませんし、神様のみ意にもそぐわないことです。
早くから世界的な祝福結婚を主宰してきた文総裁と私は、既に三十年前から本格的に、結婚を通した人種和合を推し進めてきました。韓国と日本の間で国際祝福を行い、国家間、民族間の壁を崩したのです。それはドィツとフランスの間でも同様です。
祝福結婚をした新郎新婦たちは世界のどのような所でも、神様のみ言と共に幸せな生活を営んでいます。それらの家庭はすべて、それぞれが幸せな一つの家庭なのであり、国際結婚か、そうでないかは関係ありません。
宗教が目指すべき最後の目的地は、宗教の要らない世界です。人類がみな善良な人間になれば、宗教は自然と必要なくなります。同じように、「多文化家庭」という言葉が消え、「神様のもとの一家族」、「皆が兄弟」になるとき、真の平等世界、平和世界が築かれるのです。その平和世界の最も根底、礎にあるのが、真の家庭、真の愛なのです。
私力持てるものをすべて与えても
「ショーシャンクの空に」は、私が印象深く観た映画の一つです。無念にも殺人の濡れ衣を着せられ、獄中生活をしていた主人公が、千辛万苦の末に脱獄し、自由を手に入れるというストーリーです。文総裁も無念な獄中生活を六度も経験したので、監獄に入れられた主人公の苦しみに深く共感し、感銘を受けた映画でした。
その映画の最後に、手紙を読み上げるシーンが出てきます。
希望は良いものだ。たぶん最高のものだ。良いものは決して滅びない。
希望、真の愛、真の友情などは、どんなに時間が経っても変わらず、その価値は消えません。真の愛は最も絶望的な状況においても、希望と勇気を呼び起こします。しかし今日、人々は道徳心を失い、物質万能主義に陥って、苦しみあえいでいます〇これらすベての痛みは、自分を捨て、他のために生きる真の愛によってのみ、治癒されるのです。
私は毎朝、目を覚ますと、祈祷と瞑想で一日を始め、きょうは誰のために何をするかをじっくり考え、実践します。宗教的な教えや政治•社会改革も重要ですが、それだけで幸せな世界を築くことは難しいのです。寒さに震える隣人に一足の靴下を真心込めて履かせ、さらには全く見知らぬ人のために自らを完全に犠牲にしながらも、代価を求めず、与えて忘れてしまうのが真の愛です。
家庭連合は今、世界宗教になっていますが、ほんの三十年ほど前までは、まともな建物一つありませんでした。信徒が献金をすれば、そのお金は社会と世界のために使われたのです。宣教師が海外に出るときも、古びたトランクを一つだけ持って行きました。彼らは任地で働き、自分で稼いだお金で何とか教会を切り盛りしていったのです。信徒たちの献金は様々な国に学校を設立し、病院を建て、奉仕活動をすることに使われました。これらの活動はこの六十年間、うまずたゆまず続けられました。
このような奉仕をさらに体系的に行う必要性を感じ、私たちは一九九四年、社会団体「愛苑銀行」を設立して、全信徒が本格的な奉仕活動に取り組めるようにしました。炊き出しから始め愛苑芸術団の公演、国際救援活動などを続けることで、国からも大きく認められました。
これをさらに広げていくために設立したのが、HJ世界平和財団の「圓母平愛奨学苑」です。「圓母」とは、「円い母」という意味ですが、母親は、あらゆる人の中で最高の存在です。同じ家族だとしても、それぞれ性格の違う一人一人を愛で抱き、睦まじい家庭を築いていく人が、まさに母親です。「平愛」とは、疎外されている人のために尽くしながら、高いも低いもなく水平にして、全宇宙を真の愛で満たすことを意味します。真の愛の種をまず蒔いてこそ、のちのち真の愛の芽が生え、すくすく育つのです。
私は文総裁が聖和した際、世界中から届けられた弔慰金をすべて、圓母平愛奨学苑の基金としました。また、宣教用のへリコフターを売封し、その基金をさらに増やしました。私が最も重点を置いているのが、青年の人材を育て、奉仕と分かち合いを通して、平和の夢を実現していくことです。奨学事業は、圓母平愛奨学苑の最優先課題です。教育が人をつくり、人が未来をつくるという真理は、決して変わりません。知恵と徳を兼ね備えた人材を育て上げるというのは、地球■の明るい未来のために絶対に必要なことです。私は夢とビジョンを持った世界の青少年に毎年奨学金を支援し、彼らを未来の指導者として育てています。
このような事業をするには、自分自身のことを忘れてしまわなければなりません。自分ではなく、他の人のことをまず考えるようになるとき、真の人生が始まります。持てるものをすべて与えても惜しくないという心で、隣人のために献身的に尽くさなければなりません。そうするとき、真の喜びが訪れるのです。その喜びすら忘れてしまえたとき、神様が私たちの元に訪ねてこられるのです。

Tuesday Aug 10, 2021

Saturday Aug 07, 2021
自叙伝・人類の涙をぬぐう平和の母 第39話
Saturday Aug 07, 2021
Saturday Aug 07, 2021
命を預けて訪ねた場所
私は一九四八年、自由を求め、三十八度線を越えて韓国の地に来ました。一方、夫の文総裁はその頃、興南監獄に囚われていましたが、一九五〇年十月に国連軍が監獄を爆撃する中で解放され、自由の身となりました。
興南監獄では、国連軍の爆撃が激しくなると服役期間の長い人からどこかに連れ出され、処刑が始まったといいます。そして、ちょうど文総裁の番が回ってくるという中で、解放されたのです。天はこの切迫した状況をしっかりと目に留め、国連軍を通して、文総裁が南に下りていけるように導かれました。しかしその後、四十年以上経って一九九一年になるまで、私と夫は一度も故郷のある北の地に行けなかったのです。
私たち夫婦は世界を隅々まで回り、神様のみ言を伝えましたが、ほんの一時間で行ける北朝鮮には行けませんでした。北から南に下りてきた失郷民であれば、誰もがそうでしょうが、慕わしい故郷を目の前にしながらもそこに帰れないという切なさは、何をもってしても慰められません。しかし、私たち夫婦が北朝鮮に行こうとしていた理由は、単に「故郷が恋しいから」ではありませんでした。
韓半島は、私たちの思いとは全く関係なしに、二つに分かれてしまいました。それを嘆いてばかりいるわけにはいきません。私たちには分断を終わらせ、平和統一を成し遂げる責任があります。韓半島から対立と葛藤をなくすことが、世界平和を実現する第一歩です。ゴルバチョフ大統領との会談を終えて帰ってきた私たち夫婦は、一九九一年が終わる前に、北朝鮮の金日成主席に会うことを決心しました。その決心は、普通の人から見れば現実的には不可能な、夢物語でした。
文総裁は第二次世界大戦が終わった直後、北に行って伝道をしていたところ、李承晩のスバィだと疑われ、大同保安署に収監されました。過酷な拷問を受け、死ぬ一歩手前で釈放されましたが、しばらくするとまた、社会秩序の紊乱というでたらめな罪状で逮捕され、興南監獄に服役しながら強制労働をさせられました。そこで自由の身となるまで二年八力月の間、言い表せない苦難を味わったのです。
私の母と祖母もまた、ただ神様を信じているという理由から、共産主義統治下で監獄に入れられ、あらゆる苦難を経た末にようやく釈放されました。その後も、自由を求めてついには故郷を離れざるを得なくなり、家族とも別れなければなりませんでした。あの困難な脱出の旅を、私は忘れません。
また、一九七五年六月に百二十万を超える人々をソウルの汝矣島広場に集めて開催した救国世界大会をはじめ、私たちは世界各地で勝共運動を展開してきましたが、その中で、金日成主席が私たちを暗殺しようとしているという情報が何度も入りました。
しかし私たち夫婦は、それら数え切れないほどの事情を、すべて胸に納めました。そして、ただ南北の和解のために休まず祈っていたところ、一九九一年に入って動きがあり、金日成主席が私たち夫婦を招請したのです。
しつかりと封がされた招請状を、私たちはアメリカで秘密裏に受け取りました。私は誰に何を言うこともなく、冬服をトランクに詰め、文総裁と共にハワイの修練所に向かいました。周りの人々は不思議に思うばかりでした。
「ハワイは年中、暖かいのに、なぜ冬服を持って行かれるのだろう?」
私たち夫婦は、冬服をたくさん詰めたトランクを修練所の隅に置いておき、祈祷に専念しました。北朝鮮に行く前に、心の片隅に残っていたしこりをすべてほぐさなければならなかったのです。四十年以上前から、私たちを迫害してきた金日成主席を許さなければなりませんでした。
自分を殺そうとした怨讐としてのみ相手を考えてしまえば、許すことはできないでしょう。しかし、父母の立場、母の心情に立てば、許すことができるのです。刑場に出ていく息子を救うためなら、母親は国の法すら変えたいと思います。それが本然の父母の心です。私はそのような父母の愛をもって、怨警を許そうと決意しました。北朝鮮から無事に帰ってこられるようにしてほしい、という祈りはしませんでした。
祈りに没頭する、重い時間が流れました。ョシュアが堅固なエリコ城を崩すため、その周りを七周したように、私たち夫婦はハワイの島を行き来しながら精誠を尽くしました。そして、心の中に積もり積もっていたしこりがすべて消え去った後、ようやく何人かの信徒に、北朝鮮に行くことを伝えたのです。
「怨讐に会うため、そんな所にまで行くなんて……あまりに危険です」
「北朝鮮に行くというのは、モスクワに行くのとは全く訳が違います」
「金日成主席は絶対に入国を許可しないでしょう」
「たとえ入国できたとしても、北朝鮮から出国できるという保証はありませんI
周りの人々は万がIのことを考え、あらゆる心配をしてくれました。
しかし、過ぎし日の私的な感情にとどまっているわけにはいきませんでした。聖書には、ヤコブが彼を殺そうとした兄エサウを、千辛万苦の末、知恵と真心によって感動させたと記されています。そのように、私たち夫婦は金日成主席を心から許し、愛で抱きかかえなければならないことが分かっていました。それは、真実なる父母の心情でなければ、不可能なことでした。
数日後、私たちは澄み切った心で中国の北京に向かいました。北京空港の待合室で待機していると、北朝鮮の代表が来て、公式の招請文書を手渡してくれました。招請状には平壌の官印が鮮明に押されていました。そうして十一月三十日、私たち一行は金主席が送ってくれた朝鮮民航特別機JS215便に乗り込み、北に向かったのです。
飛行機は私たちのために、夫の故郷である定州の上空を通過した後、平壌に向かいました。飛行機が平安道を通る時、窓の外を見下ろすと清川江が見えました。青々とした水の流れが、まるで手でつかめるようでした。確かに私たちの山河ではあっても、南北に分かれ、訪れることのできなかった四十年余りの歳月に、心が痛んで仕方がありませんでした。
平壌の順安空港に到着すると、冷たい木枯らしに吹かれながら、夫の家族と親族が待っていました。夫が「私の妻です」と言って、私を紹介してくれました。彼らはみなずいぶん年を取っており、私たちの手を握つたまま、ただ涙を流すばかりでした。しかし、私と夫は泣きません
でした。心の中では滝のように涙があふれていましたが、唇を嚙み、ぐっとこらえたのです。
牡丹峰迎賓館に到着後、夫は北朝鮮の人々を前にして演説を行いました。夫と私は平和と統一のためなら、命を差し出すことも辞さないという覚悟でした。
翌日の十二月一日、私たち夫婦は日頃の習慣どおり、明け方に起き、祈祷をしました。もし迎賓館に監視カメラがあったならば、韓半島の統一のために慟哭しながら祈る姿が、すべて録画されているでしょう。朝食を食べてからは、平壌市内を見て回りました。
訪朝三日目となる十二月二日に万寿台議事堂で行った演説は、今や伝説となっています。主体思想の王国である北朝鮮の心臓部で、主体思想を批判し、「主体思想では南北を統一することはできない。統一教会が提示する神主義と頭翼思想によってのみ、南北が平和裏に統一され、全世界を主導する国になれる」と、誰にはばかることもなく、大声で語つたのです。さらに、彼らの常套句となっていた「韓国動乱は北への侵略である」という主張に対して、「南への侵略だ」と、正面から反駁しました。
誰もが驚かずにはいられませんでした。拳銃を腰に付けた北朝鮮の警護員が、すぐにでも銃を抜いて駆け寄ってきそうな雰囲気でした。同行していた信徒たちは、一様に冷や汗を流したことでしょう。これまで私は、夫と世界中を歴訪し、各国で多くの首脳に会いましたが、平壌では本当に悲壮な覚悟と深刻な決意を固めざるを得ませんでした。
訪朝六日目となる十二月五日には、へリコプタ—二台に分乗して、定州に向かいました。金
主席の指示で道路がよく整えられており、夫の両親の墓には芝が敷かれ、石碑も立てられていました。生家はペンキが塗られ、土間や庭には砂が敷き詰められるなど、しつかり補修されていました。夫は両親の墓を訪れ、献花しました。
私の故郷である安州の空が、彼方に望めました。温かく私を包んでくれた故郷の家はそのままあるだろうか、裏畑には今もトウモロコシが育っているのだろうか、祖父の墓はどこにあるのだろうか……。様々なことが気になりましたが、そんな素振りは見せないように努めました。
私たちが北朝鮮に来たのは、故郷に来たかったからでも、金剛山を見物したかったからでもありませんでした。金日成主席に会い、祖国の将来について談判するために来たのです。その歴史的な使命を前にして、個人的な感情を見せるわけにはいきませんでした。いつか、誰もが自由に故郷を訪れることのできる日が来るだろう。そう信じました。

Saturday Aug 07, 2021
自叙伝・人類の涙をぬぐう平和の母 第38話
Saturday Aug 07, 2021
Saturday Aug 07, 2021
モスクワに行く少し前、私たち夫婦は統一教会の元老信徒たちに会って時間を共にしました。多くの信徒が、何とかして私たちを引き止めようとしました。
「なぜ危険な共産主義の本拠地に、あえて行こうとされるのですか?」
しかし何ものも、私たち夫婦の意志を曲げることはできませんでした。文総裁は信徒の顔を一人一人眺めた後、思いがけない言葉を発しました。
「統一教会の第二教主を決定する時が来ました」
突然出てきた「第二教主」という言葉に、誰も、何も言えませんでした。文総裁はもう一度信徒を見回した後、ゆつくり口を開きました。
「私がいなくても、お母様がいればいいのです」
この瞬間、「統一教会の第二教主」としての、私の重大な使命が明確になったのです。人々は驚いていましたが、私は静かにその言葉を受け止めました。世を救う独り娘、平和の母としての使命は、既に三十年前から与えられたものでしたが、私は文総裁が最前線で摂理を率いていけるよう、内助に最善を尽くしていました。その日、第二教主を発表したのは、モスクワで起こり得る不測の事態に備えながら、今後のことを念頭に置いた上での措置でした。
一九九〇年三月二十七日、統一教会の名節(記念且の一つである「真の父母の日」を迎え、アメリカのニユーョークで行われた記念礼拝で「女性全体解放圏」が宣布されることで、私は統一教会の第二教主となりました。
その後、一九九四年十一月二十七日には、ニユーョークのべルべディアで第二教主としての私の公的使命が改めて公表され、その意義が強調されました。十六万人の日本人女性教育と各国での大会が終わり、私の役割がさらに重大になっていた頃のことです。その日、私は信徒たちの前で、「みな一つとなり、真の父母の伝統を立てる家庭になることを誓いましよう」と決意を促しました。
また、一九九一年六月には、カナダのクレアストーンの本館で「顧命性宣誓宣布」が行われました。「顧命」とは、「王の遺言」を意味する言葉です。文総裁は御自身が聖和した後も、私が神様の使命を引き継いで果たしていけるよう、日本の女性代表が責任を持って真の母を支えていくべきことを、顧命として宣布されたのです。この宣布には、日本が真の母と一つになり、
世界を抱いていかなければならないという使命も含まれていました。このように文総裁は、幾度にもわたって、御自分が不在となる万一の場合に備えられたのです。
一九九〇年四月、モスクワで「世界言論人大会」が開かれました。ゴルバチョフは、大会に参加した世界の指導者たちをクレムリン宮殿に招待したのですが、その中で女性は私一人だけでした。ソ連の大統領執務室は出入りを厳しく制限していましたが、私は特別待遇を受けたのです。私たち夫婦は、ゴルバチョフに「中南米統合機構(AULA)」が制定した「自由と統一のための大十字勲章」を授与した上で、彼の手を握り、祝祷しました。
「この大統領を神様が祝福してくださいませ」
無神論を主張する共産主義世界の宗主国、ソ連。そのソ連の大統領執務室で、神様の祝福を願う祈祷をするということ自体が、共産主義の体制上、異例のことでした。
祈祷を終えて談笑していると、ゴルバチョフが私に向かって言いました。
「韓服がょくお似合いですね、本当にお美しいです」
私もすぐに返しました。
「ラィサ夫人こそ本当にお美しいです。世界中の女性が尊敬しています。明日、ラィサ夫人にお会いできるのを楽しみにしております。夫も申し上げましたが、大統領は本当にハンサムでいらつしやいますね|。
お互いに賛美し合う中で、雰囲気が次第に和やかになっていきました。ゴルバチョフは気分が舞い上がったのか、豪快に笑いました。私はこれが祈祷の力であり、役事だと思いました。
その後に行われた会談により、世界の歴史が変わりました。文総裁はためらうことなく、ゴルバチョフに向かって忠告をしました。
「ソ連の成功は、神様を中心とするか否かにかかっています。無神論は自滅と災いを招くだけです」
ソ連が生き残る道は、共産主義革命の父と呼ばれるレーニンの銅像を撤去し、宗教の自由を認めることだけである。さらに、共産主義を終わらせ、神主義を受け入れなさい、と堂々と語ったのです。ゴルバチョフの顔には困惑の色がありありと浮かびましたが、最後には私たち夫婦の言葉を受け入れました。それまで、クレムリン宮殿でそのような話をした人は一人もいませんでした。
世界が固唾を飲んで見守った会談は、成功裏に終わりました。その時から、ソ連は急速に変わり始めたのです。それは単なる変化を超え、もはや革命とも言えるものでした。特に、私たち夫婦と統一教会に対する、ソ連およびゴルバチョフの信頼は、次第に大きくなっていきました。私たちは三千人を超えるソ連の青年や教授をアメリカに呼び、教育を受けさせました。
その後、ソ連にクーデターが起き、しばらく混乱が続きました。ゴルバチョフが改革と開放を勢いよく進める中、共産主義体制における保守派がクーデターを起こし、大統領をクリミア半島のフォロスに軟禁したのです。しかし、幸いにも彼は九死に一生を得て、帰ってくることができました。
また、開放政策を通してソ連が民主主義に向かう中で、私たちが教育した大学生や青年たちがクーデタ1派の指揮下にあった戦車に立ち向かい、身を挺して阻止するということもありました。彼らはゴルバチョフとエリツィンが再び手を取ってソ連を解体し、冷戦を終息させるに当たって、牽引車の役割を果たしたのです。文総裁と私がゴルバチョフの執務室で捧げた「この大統領を神様が祝福してください」という祝祷が、天運をもたらしたのです。
一方で、私たちは会談ょりずっと前から、ヨ—ロツバの若者を中心に、ソ連と東ヨーロツバに地下宣教師を密かに派遣していました。青年メンバーがある日突然、姿を消すので、周りの人々は気掛かりに思ったことでしょう。彼らは東ヨ—ロツバの主要都市に入り、地道に活動を続けて、ソ連を崩壊させるとともに民主主義を定着させるに当たって、一翼を担ったのです。
ゴルバチョフとの会談から一年八力月後、ソ連共産党が解体され、凍土の王国は歴史の表舞台から消え去りました。一九一七年の十月革命以来、七十数年の間、世界の三分の二を支配下に収め、数億に上る人々の血を流し、人類を恐怖に追いやった共産主義の宗主国、ソ連が、ついにその赤旗を下ろしたのです。これは、神様を否定する無神論の世界観が敗北したことを意味しました。さらに、葛藤と闘争、憎悪の哲学の限界を暴き出し、共産党の独裁体制の崩壊を宣言したことになったのです。
振り返れば、私たち夫婦のソ連入国、およびゴルバチョフとの会談は、薄水を踏むような一世一代の冒険でした。しかし、それが共産主義の力を失わせ、世界の版図を変えるに当たって、決定的役割を果たしたのです。
ゴルバチョフとの会談後、私たちはこれから大きく変わりゆく世界において、実質的に平和をつくり上げていける団体が必要だと考えました。その頃、世界に暗い影を落としていたのは、宗教の衰退と道徳性の喪失、そして共産主義の浸透でした。
その中で共産主義は、私たち夫婦の三十年以上にわたる努力により、宗主国のソ連ですら解体され、力を失うという結末を迎えました。しかし宗教問題は、いまだ非常に深刻な状況にありました。宗教指導者たちが解くべき宿題とは、いかにして宗教紛争を防ぎ、疲弊していく宗教が再び人生の羅針盤となるようにするか、ということでした。その土台の上で、道徳性を回復していく必要があったのです。
私たちはこの使命を果たすために百二十ヵ国を巡回し、「天宙平和連合(UPF)」を創設しました。真の平和世界をつくるために汗を流す人々と団体を一つに束ね、地球村の毛細血管のような役割を果たせるようにしたのです。
各界各層の名だたる人々が私たちの志に共感し、平和大使になりました。二〇〇一年に韓国の十二都市でスタートした平和大使活動は、すぐに世界各地へ広がっていきました。彼らの純粋さと、その意義深い活動に感銘を受け、今や百六十以上の国で百万人を超える平和大使が、真の平和を根づかせるため、それぞれの分野で様々な行動を起こしています。また、国連の経済社会理事会から特殊諮問資格を得たNGoにもなっています。
さらにそこから発展して、国連に加盟した国々が自国の権益だけを主張し合い、地球上で起こっている紛争をいまだに解決できていない現実において、真のビジョンを提示する「真の父母国連」をつくり、世界各地で奉仕活動を展開しています。
平和大使は、様々な専門分野の人々が参加し、世界の隅々まで訪ねていって平和を実践しています。紛争のある所、貧困によりまともに教育が受けられない人々がいる所、宗教的対立がある所、病気で苦しんでいても治療を受けられない人々がいる所を訪ねてその痛みを治癒し、より良い生活ができるように、献身的に活動しているのです。

Saturday Aug 07, 2021
自叙伝・人類の涙をぬぐう平和の母 第37話
Saturday Aug 07, 2021
Saturday Aug 07, 2021
第六章
平和の母、凍土を越えて世界の果てまで
地球が一つの村になるために
日本の九州には、唐津(佐賀県)という港湾都市があります。玄界灘に面しているこの地域は、特に唐津焼が有名ですが、壬辰•丁酉の乱(文禄•慶長の役)の時に日本に連れていかれた朝鮮の陶工たちの優れた技術によって発展したという、胸の痛い歴史を持っています。
私たちは一九八〇年代からここでプロジェクトを開始していましたが、二〇一六年の秋、私はこの地を訪れ人類の/:.めの重要なミッションの一つを再スタ—卜することを決意_}ました。それは、韓国と日本をつなぐ海底トンネルを完成させることです。唐津はその海底トンネルの出発地であり、到着地なのです。
世界地図を見ると、ほとんどの大陸を一つにつなげられることが分かります。その日が来れば、地球は一つの村となり、全人類が隣人として仲睦まじく生きるょうになるのです。
私たち夫婦はずっと前から、すべての大陸を一つに結ぶ平和の道を構想してきました。問題は、アメリカのアラスカとロシアを隔てるべーリング海峡と、韓国と日本の間に広がる玄界灘です。この二力所に道を造ることができれば、人類は一つにつながっていきます。
もちろん、決して簡単なことではありません。もしかすると、人間の歴史が始まって以来の、最も困難なことかもしれません。しかし、それは私たちの時代に必ず成し遂げなければならな
い、最後の課題でもあるのです。
韓国と日本をつなげるに当たっては、両国の間にある暗い歴史が大きな障害物として横たわっており、世論の反対を覆すのは簡単ではありません。しかし、韓国の釜山と日本の唐津を結ぶ海底トンネルが開通すれば、韓国は世界経済の中でさらに重要な位置を占めるようになります。日本力らの物資をユーラシア大陸に運ぶとともに数多くの旅行者を呼び込むことガできますさらに重要なのは、このトンネルがアジアに平和を根づかせる役割を果たすという点です。葛藤し、反目し合うことで互いに足を引っ張っていた両国が協力の道に進む、歴史的な和解のきっかけにもなるのです。
世界を一つにつなげる「国際ハィウェィ(世界平和高速道路)」構想については、既にはるか昔、一九八一年に発表していました。日韓トンネルは一九八六年に唐津で工事が始まりましたが、様々な事情により中断されていました〇私はこのプロジェクトを放置してはならないということをよく分かっていたので、その現場を訪れたのです。
島国は大陸を慕います。私たち夫婦は、日本と韓国が一つになって日韓トンネルを造り、さらに南北が一つになれば、それがユーラシアを経て、全世界に広がっていく平和高速道路になるように祈りました。
現在、いくつかの強大国は、自国の利益だけを計算しているのが現実です。しかし、イギリスとフランスは百年戦争を起こしたにもかかわらず、互いに手を取り合い、ドーバー海峡にユーロトンネルを造りました。韓国と日本も真の許しと和解によって心を開けば、私たちの当代に海底トンネルを造ることができます。
私たちは三十年間、このフロジェクトを準備してきました。これからは、皆が心を大きく開き、未来を切り開いていかなければなりません。
国際ハイウェイの実現を妨げているもう一つの障壁は、べーリング海峡です。ここには、日韓トンネルよりもさらに難しい課題が横たわっています。ベーリング海峡は、かってアメリカとロシア(ソ連)の両国が力を競う中、民主主義陣営と共産主義陣営を分かつ海峡となっていました。ここをつなぐことが、世界を一日生活圏とし、人種、宗教、国家の垣根を崩して人類を大和合へと導く一歩となるのです。
このため、私たちは一九八〇年代から、海底トンネルプロジェクトを地道に遂行してきました。この計画が実現すれば、南アフリカの喜望峰から、アフリカ大陸、ユーラシア大陸を通って韓国までつながります。また、南米のチリのサンティアゴからは南北米大陸を通り、べーリング海峡、アジアを通過して、韓国までつながります。韓国は、人類が待ちわびた真の父母が誕生した中心国家であるため、まさに世界で最も重要な地となるのです。
このようになれば、南アフリカの喜望峰からチリのサンティアゴまで、イギリスのロンドンからアメリカのニュ^―ョークまで、誰でも自動車で、または自転車で旅行することができるようになります。愛する人と、あたかも故郷を訪ねるように、世界中を回ることができるのです。
このような途方もないことを、どうやって実現するのかと疑問に思う人は多くいます。しかし、私たちが成してきたことを振り返ってみれば、それはすべて、困難の中で実現されたものです。神様のみ意があるところには、必ず道があります。現代の科学技術は、べーリング海峡に十分トンネルや橋を通すことができます。その費用も問題にはなりません。世界が戦争に虚しくつぎ込んでいるお金を考えてみてください。各国が武器を買い入れるお金の半分でもあれば、ベjリング海峡に一本の道を通すことができるのです。
聖書のィザヤ書の教えのように、今や銃や刀を溶かして、すきとくわを作る時です。これ以上、戦争のための戦争に命を犠牲にし、天文学的なお金を費やす愚行を繰り返してはなりません。
唐津の海底トンネルはまだ工事中で、開通していません。しかし、決してあきらめたわけではありません。そこは世界を一つにつなぐ和合の門です。私はその門を大きく開け放ち、人種、宗教、国家の壁を崩して、神様が切に願ってこられた平和世界を成し遂げるでしょう。
凍土の王国を崩した勇気ある一歩
「いずれ冷戦という言葉は過去のものになるでしょうね」
「表向き、そう見えるだけですよ。ソ連はいまだに持ちこたえているし、共産主義はまだ多くの国で勢力を伸ばしているのに、平和がそれほど簡単に訪れるでしょうか?」
「簡単ではないでしょうが、誰かが必ず、平和をもたらしてくれると信じています」
一九九〇年になり、人々は今後、世界がどのように変化していくかについて、様々に意見を交わしました。確かに、表向きは和解の時代に入りましたが、水面下ではなおも冷戦の不気味な潮流がうごめいていました。また、世界の三分の二を支配していたソ連は、自由主義の国々を共産化しようとする野心を捨てていませんでした。
私たち夫婦は、世界をじわじわと締めつけ、苦しめている冷戦を、もう終わらせなければならないと決心しました。たとえ命を懸けることになったとしても、凍りついた大地、モスクワに入り、ゴルバチョフ大統領に会うことにしたのです。
その決断は、既に当時から遡って十四年前に下されていました。一九七六年、大成功で終わったワシントン•モニュメント大会の翌日である九月十九日に、私たち夫婦は重大な発表をしたのです。それは共産世界を解放するため、モスクワで大会を開くという宣言でした。モスクワのクレムリン宮殿を切り開いてこそ、神#と人類を解放することができるのです。しかし、人々の反応は冷ややかでした。ある人は、まさに無謀なドン.キホーテの虚言だとあざ笑いましたが、私たち夫婦は、「モスクワに行く」と言ったことを一度たりとも忘れませんでした。
共産主義との戦争は、政治体制や単純なスロ—ガンの闘いではありませんでした。「神はいるのか、いないのか」という問題だったのです。その戦争の真の目的は、共産世界を解放して神様を迎えるようにすることでした。
冷戦時代、自由主義世界の人々が何も知らないうちに、もしくは知っていても知らないふりをし、恐怖に捕らわれて戸惑っている間に、共産主義世界では数え切れないほど多くの人々が、苦痛に満ちた生活を強いられていました。彼らを救うため、私たち夫婦はソ連を凌駕しなければならなかったのです。
しかしソ連は、決して与しやすい国ではありませんでした。ゴルバチョフが改革を掲げていたとはいえ、クマが国を象徴する動物であることからも分かるように、依然共産主義圏のトップとして鉄の力—テンの奥に構える、冷血で屈強な国でした。
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Saturday Jul 31, 2021
自叙伝・人類の涙をぬぐう平和の母 第36話
Saturday Jul 31, 2021
Saturday Jul 31, 2021
私たちが日本やアメリカ、南米、中東で創刊した新聞は大好評を博していましたが、いざ韓国となると、様々な制約により、新聞を作ることができずにいました。言論が自由化され、ようやく「セゲイルボ」を創刊できたのは一九八九年のことでした。統一教会が新聞を作るとい>っことで、世間でも話題になりましたが、やはり激しい反対が起こりました。アメリカと日本で新聞を作る際に浴びせられた非難の矢は、韓国でも当然のごとく向けられたのです。案の定、根拠のない憶測が飛び交いました。


