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Tuesday Nov 05, 2024
イエス様の生涯と愛 第70話
Tuesday Nov 05, 2024
Tuesday Nov 05, 2024
十字架上でも天を心配し怨讐を愛したイエス様
イエス様は教団から追われ、民族から追われました。教団の異端者として、律法の破壊分子として見られました。彼は自分の氏族に追われ、家から追い出されました。洗礼ヨハネの一団にも追われました。荒野に出ていきましたが、そこでもサタンに追われました。そこで終わりませんでした。しまいには全体が動員して、十字架の道、ゴルゴタの道に追いやられたのです。
しかし反逆者として追いやる民族のために、むしろ涙を流したイエス様でした。イエス様は、ユダヤ教団から異端者として扱われましたが、イスラエルのいかなる祭司長よりも、彼らのために血の涙を流した人でした。その時代の誰一人として、自分の味方になってくれる人がいなかったけれども、イエス様はその時代の友でした。民族の反逆者として追いやられたけれども、民族の忠臣であり、教団の異端者として追いやられたけれども教団の忠臣でした。
彼の歩みは、いかなる歩みだったのでしょうか。引き裂かれ、追われ倒れる、十字架を背負った惨めな歩みでした。その道だけだったでしょうか。無謀な悪党たちが、むちを持って追い立てる事情に処したりもしました。このような立場で、もしイエス様がエリヤのような人であれば、「父よ、ただ私だけ残りました」(列王紀上一九・10、14参照)というような祈祷をしたことでしょう。
しかしイエス様は、ゲッセマネの園で三弟子を後ろに控えさせて、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・39)と祈ったのです。これが偉大なことなのです。自分の事情もたった一つ、自分の一身は民族の供え物であり、人類の供え物であり、天倫の供え物であることを知っていたのです。
そのようなことを知っているイエス様は、自分の悲しみも悲しみですが、天の悲しみがどれほど大きいだろうかと心配する心のほうがより大きかったのです。民族のために現れたのに、その民族に裏切られるという自分を御覧になる天の悲しみが、どれほど大きいかということを、一層心配されたのです。
イエス様は天の皇太子であり、万宇宙の主人公であり、メシヤでした。そのようなイエス様が、「惨めな十字架の運命だとは、なんということでしょうか」と嘆こうと思えば、この宇宙を動員して嘆くこともできましたが、嘆くことのできない自分自身であることを感じられたので、追われる立場に立つようになったことを面目なく思ったのです。
教団を糾合させ、民族を糾合させ、天の王国を建設して、世界を父の懐に抱かせてあげるべき責任を担ったイエス様は、その責任を果たせず十字架の道を行くことになるとき、恨むようなことは何も感じなかったのです。「この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈られたのも、自分の一身の死が悲しかったからではありません。自分の一身が死ぬことによって、民族の悲しみと天の悲しみが加重されることを知っていたので、そのように祈られたのです。
イエス様は自分が十字架に倒れれば、後代の世界人類の前に加重される十字架が残され、それによって悲しみの歴史、死の道が終わらないことを知っていました。また自分がゴルゴタの道を行けば、自分に従う人々もゴルゴタの道を歩まなければならないということを知っていました。十字架のみならず、さらに困難な道が残されることを知っていたイエス様だったのです。
両手両足に釘が打ち込まれ、わきを槍で突きさされて血を流す立場、茨の冠をかぶる立場に立ったとしても、これが自分で終わらないことを知っていても、イエス様は天に向かって「すべてが終った」と言いました。その言葉は、人間の世界において十字架の道はすべて終わったということではありませんでした。十字架のために泣いて心配する心の訴えが、天に通じたということなのです。
イエス様は、数多くの預言者や烈士が天の前に犯したすべての誤りを担って天を慰労してあげるために、生きた供え物として天の前に捧げられたという事実を知らなければなりません。
それではここにおいてイエス様に対された神様の心情は、どのようなものだったでしょうか。死んでいくイエス様のその姿、天を心配しながら十字架の峠を越えていくその姿を御覧になるとき、人間世界に悔しさがあるとするならこれ以上の悔しさはなく、天の四千年の歴史路程に悔しさがあるとするならこれ以上の悔しさはないでしょう。
しかしイエス様自身は死んでいきながら、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ二三・34)と言われました。神様はすぐにでもノアの時以上の審判をしたい気持ちでしたが、イエス様が民族をつかんで死に、教団をつかんで死に、十字架をつかんで死んだがゆえに、神様は人間たちを捨てることができず、つかんでこられているのです。このような心的な因縁が後代の人間、残されたイスラエル民族と結ばれていたので、裏切る後代の人間を捨てられず、つかんでこられているのです。裏切る後代の教団をつかんでこられているのです。

Friday Nov 01, 2024
イエス様の生涯と愛 第69話
Friday Nov 01, 2024
Friday Nov 01, 2024
サタンを屈服させることのできる秘訣
聖書を見ると、イエス様は完全に個人的、家庭的、民族的、国家的な条件を立てて、サタンと闘って勝ったでしょうか。勝つことができませんでした。イエス様の前でも屈服しなかったサタンが、イエス様を信じる人に屈服すると思いますか。六千年間、神様の前で讒訴し、神様のみ旨を蹂躙し、神様の摂理を滅ぼしてきた知恵深いサタンが、イエス様を信じる人が「引き下がれ」と言ったからといって、簡単に引き下がると思いますか。
私たちには、歴史的な相続権がなければなりません。アダムからノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、イエス様以後までの伝統と基盤を受け継ぎ、歴史的な供え物の代わりとなった相続者にならなければなりません。そうしてサタンに、「お前は歴史的な路程の中で、ノアに負け、ヤコブに負け、モーセに負けなかったか。私は彼らの勝利の基盤の上に立っていて、摂理歴史のすべての伝統を相続したので、サタンよ!お前は引き下がりなさい」と言ってこそ、引き下がるようになっているのです。
ただ単に「サタンよ、引き下がれ」といくら祈ってみたところで、サタンは引き下がるでしようか。六千年間、神様の前で讒訴し、蹂躙し、復帰摂理を破綻させたサタンなのに、イエス様を信じる者が「引き下がれ」と言ったからといって、簡単に引き下がると思いますか。とんでもないことです。
イエス様には、神様から心情を受け継いだ「相続譜」があります。四千年の間イエス様を送る時までの心情的な「相続譜」がありました。次にはイエス様の対象の「相続譜」がなければなりません。「私は、間違いなく歴史的な神様の心情を通して、神様が探し求めていた者だ。私はイエス様の聖なる体に接ぎ木された者だ」と言えなければなりません。
それでサタンに十字架上で勝つのではなく、十字架にかからずにサタンを屈服させなければなりません。それゆえ肉身をもって、実体として復活しなければなりません。このような実体の相続者として認められてこそ、この天国に行けるのです。
霊的基盤だけを築いたキリスト教
キリスト教会は霊肉の地上天国を願ってきたのではなく、肉的世界を放棄して霊的救いを目標として霊的王国、霊的メシヤとしてのイエス様に仕えてくるしかありませんでした。言い換えれば、イスラエル民族は国があり、選民的国権をもつことができましたが、今日全世界のキリスト教は、第二イスラエルの霊的国家であって主権国家、国がないのです。
キリスト教徒は霊的第二イスラエル圏内に立っているので、肉的基盤をもつことができず、霊的基盤のみをもっているのです。ですから霊肉を中心とした地上天国を完結すべき神様の本然のみ旨を成就することができなかったので、主は再び来ざるを得ないという事実を知らなければなりません。
十字架の場は、神様が勝利したのではなくサタンが勝利したのです。イエス様がゲッセマネの園で、今は「やみの支配の時」(ルカ二二・53) であると宣布したことは否定できません。十字架の場は、四千年間、神様が準備した国を失った場であり、イスラエルの教会を失った場であり、洗礼ヨハネ一団と十二弟子、右の強盗などすべてを失った場であることを知らなければなりません。
十字架上には、キリスト教がなかったことを知らなければなりません。キリスト教はいつ出発したのでしょうか。死んでから三日後に復活して、四十日間、失ってしまった弟子たちに会い、聖霊が降臨したのちに出発したのがキリスト教であることを知らなければなりません。
それゆえ二千年間、キリスト教徒は十字架の道理ではなく、復活の道理によってキリスト教が生じたことを知らずに信じてきた事実を皆さんは悔い改めなければならないのです。イエス様が復活した土台の上からキリスト教が始まったので、キリスト教は霊的です。
十字架でイエス様が亡くなることが神様のみ旨を成し遂げることであるならば、ゲッセマネでの祈祷は誤ったものです。そうだとすれば、メシヤの資格はないのです。実にあきれたことです。メシヤとして一度ならず三度も、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ・二六・39)という祈祷ができるでしょうか。
キリスト教が言うように、最初から死ぬために来られたとするならば、イスカリオテのユダに賞金をあげなければならないのです。それなのに、「その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう」(マタイ二六・24)と言われたみ言をどのように解釈するのでしょうか。
イエス様自身が死ななければ、どうなっていたかというと、先ほど言ったようにイスラエルの国が延長されてそのまま残り、ユダヤ教徒がそのまま残ることを知っていました。しかし自分が十字架で死ねば、ユダヤの後代の数多くの人々が十字架の道に従って行かなければならないので、血を流さずには行くことができず、また数多くのキリスト教徒が苦労し、また主が再び来て苦労するだろうということを知っていたのです。
それゆえゲッセマネで、そのような祈祷をせざるを得なかったということを皆さんは知らなければなりません。今日キリスト教徒たちは、「イエス様は肉身があったので、死の苦痛を心配してそのような祈祷をした」と言うのですが、それはばかげた話です。
それから十字架上で亡くなりながら、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ・・・・・・わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ二七・46)というイエス様の言葉は、どのように解釈するのでしょうか。
十字架上で亡くなりながら、「すべてが終った」(ヨハネ一九・30)と言ったのは、どういうことなのでしょうか。霊肉を中心とした使命を果たすために来たのですが、基盤のないこの地上で神様のみ旨を完全に成し遂げることができなかったので、十字架を背負ってでも霊的救いの摂理の土台を残さなければならないというみ旨を知った立場で、霊的救いの摂理の出発の基盤を築くために、自分のすべてを捧げたので「その基盤をすべて成し遂げた」と言ったのです。
神様のみ旨を成し遂げるために、サタンの国を滅亡させ、生きた立場でサタンの王権をなくして、人類を取り戻そうとされた主が、このように悲惨に死んでいったという事実を今からでも知って、キリスト教とユダヤ教は悔い改めて一つにならなければなりません。一つになって、来られる主を迎え得る準備をしなければならないのです。
真理は理論に合わなければなりません。盲目的な信仰時代を捨て、新しい世界に向かってこの世界を収拾し、救いのために全世界のキリスト教徒たちは一つに団結すべき時が来ました。それゆえ「統一」という言葉が、必要な時になったということを知らなければなりません。

Friday Nov 01, 2024
イエス様の生涯と愛 第68話
Friday Nov 01, 2024
Friday Nov 01, 2024
願われた時と環境を残して逝ったイエス様
イエス様は逝きました。どのようにして逝ったのでしょうか。使命をもって来られて、すべてを残して逝きました。イエス様が探し求めていたその時を残し、イエス様が見ようとしたその環境を残し、イエス様が行使しようとしたその主権を残して逝ったのです。
それゆえにイエス様は、「時が来れば、比喩では話さないで、あからさまに、あなたがたに話して聞かせるだろう」(ヨハネ一六・25参照)とおっしゃいました。イエス様は時について語ることができませんでした。なぜでしょうか。怨讐の前で、自分が万王の王として来たと言えば、ローマ帝国の植民地であるイスラエルが耐えられないからです。ですからイエス様は、時が差し迫っていることを感じてはいたのですが、時について語ることができず、環境を築くために戦わなければならなかったのですが、それができなかったのです。
イエス様の心情を一度考えてみてください。時を探し求めようと、どんなに全力を尽くしたことでしょう。ヨセフとマリヤの家庭で育つ時も、何度も天倫のすべてのことについて語りたかったのです。マリヤは処女として身ごもり、イエス様を生んだあと育て、乳を飲ませる時には、それでも神様の息子であることを知り、神様が選んだ貴公子であることを知っていましたが、日がたてばたつほどその心があせて、イエス様に対して普通の子のように接するようになりました。
イエス様はヨセフの家庭において、食べるべき物も食べられず、着るべきものも着ることができずに、心情の王子として働きました。しかし、その心の奥底には、時を恋い慕う心情があったのです。
イエス様は神様が許した一時のために準備し、神様が許した一つの環境のために内的にも外的にも、または人格的な分野においても備えるべきすべてを備え、自分自ら、神様あるいは万民の前に現れ得る時を待ち焦がれたのです。十二歳のときに、両親の知らない間に神殿を訪ねていったイエス様でした。しかし、エルサレムの多くの人々の前で、証すべき彼の兄弟たちまでも、からかい、ばかにしたのです。
イエス様は今日、人々の考えるとおりの空想的な人格者ではありません。聖書にも、イエス様に対して、食べ物をむさぼり、ぶどう酒をたしなむ人であり、病人の友であり、罪人と取税人の仲間であると当時の人々が非難したというのですが、どうしてそのようなことがあり得るでしょうか。なぜそうだったのでしょうか。
それを考えると痛哭しなければなりません。なぜイエス様は、罪人と取税人の友になったのでしょうか。彼らとだけ友になりたかったイエス様ではなかったのです。仕方がなかったからです。
イエス様は祭司長たちが謙虚になり、自分の前に出てきてひざまずき、「あなたは万王の王であり、私たちの指導者です」と頭を下げて、敬拝してくれることをどれほど待ち焦がれたでしょうか。しかし、かえって彼らに後ろ指をさされたのです。モーセの律法を蹂躙し、神殿を汚す者だと悪口を言われました。それで仕方なく罪人の友になり、取税人の友になったのです。四千年間、築き上げた祭壇が崩れてしまったので、やむを得ずそのような状況になったのです。当時の祭司長は、大いなる審判の時に最初に呼ばれて審判を受けなければならないでしょう。
今まで人々は、イエス様を盲目的に信じました。盲目的に「イエス様は私たちの罪のために死んだので、私たちはその十字架を信じさえすれば救われるのだ」と単純に信じたのです。しかしイエス様は福音のみ言を伝えるとき、食べられず着られませんでした。いちじくの実を取って食べようとして、いちじくを呪うとは、どれほどおなかがすいていたのでしょうか。気楽でのんきで、満腹だったイエス様ではありません。神様の息子の身の上が、このように落ちぶれるとは......。
時を失ってしまったイエス様でした。また環境を失ってしまったイエス様でした。居場所がなくて、あの家この家と転々としながら、マグダラのマリヤのような寡婦の家を訪ね歩きました。今日のような自然な時にそうだったのではなく、二千年前にそうだったのです。一人の女性が三百デナリにもなる香油をイエス様の足に塗って髪の毛で拭きました。そのようなことが受け入れられるでしょうか。到底考えられないことなのです。
イエス様は、どれほど残念がったことでしょうか。そのような立場にまで追い出されたイエス様の心情が、いかばかりであったでしょうか。「四千年の歴史が蹂躙されていく。ここで神様が苦労をなさり、数多くの預言者たちが血を流しながら築いてきた歴史的な土台が崩れていくところなのだ」と考えるときに、呪いたい気持ちを身にしみて感じていたのですが、口をつぐんだイエス様だったのです。
呪えば四千年間続けてこられた神様の苦労が途切れてしまうので、自分のために準備してきた土台が崩れたとしても、自分が責任を負おうとして口をつぐんだのです。イエス様は悲しく困難な立場に立つたびに、オリーブ山をさまよいながら祈られ、ゲッセマネの園をさまよいながら祈られました。これが神様の息子のすべきことでしょうか。
イエス様は、人間の幸福を約束する新しい人生観と世界観と宇宙観をその時代に固く立ててから逝かなければならなかったのですが、そのようにできたでしょうか。イエス様の人格観は、どのようなものだと明確に言えますか。漠然としています。「私がこれこれこのような理念をもってきて、この地を支配した」と語ったでしょうか。「時と環境を整理して、これこれこのように支配した」と語ったでしょうか。語ることができませんでした。まるで敗北者のように消え去ったイエス様なのです。
イエス様はこの地上に来られて、三年間語られました。しかし、その本当に成したかったみ言のうち一つも成し遂げられませんでした。三年間引っ張って歩いた弟子たちは、どうなったでしょうか。のちにみな不信しました。三年間あらん限りの精誠を尽くし、血肉を削って喜怒哀楽を共にしながら育ててきた弟子が、そのような有様でした。師は師なりに進み、弟子は弟子なりに進んでいったのです。結局、イエス様はすべてを残して逝ったのです。

Friday Nov 01, 2024
イエス様の生涯と愛 第67話
Friday Nov 01, 2024
Friday Nov 01, 2024
死の場で唯一の新婦の立場に立った右の強盗
イエス様の時代において、どちらがカインで、どちらがアベルでしょうか。国について見れば、イスラエルがアベルでありローマがカインです。本来イスラエルの国とイエス様が一つになっていれば、ローマを四十年間で屈服させることができました。死んだイエス様が四百年で屈服させたのを見ると、イエス様が生きていらっしゃるときに一つになっていたら、四十年で完全に屈服させて征服したはずなのです。しかしイスラエル民族は、イエス様と一つになれなかったので、これを成し遂げられなかったのです。
イスラエルの国が反対すれば、ユダヤ教がアベルになり、イスラエルの国はカインになるのです。またユダヤ教が反対すれば、ユダヤ教がカインになり、イエス様の氏族がアベルになるのです。しかしその氏族も反対することによって、イエス様の氏族がカインになり、イエス様の家族がアベルになるのです。ところが、家族たちまでも反対しました。
ではカインとアベルは、どこで探さなければならないのでしょうか。カインとアベルを復帰しなくては、イエス様の立つ位置がありません。父母の位置に上がることができないのです。これは原理原則なので否定できません。
イエス様の親や兄弟姉妹もイエス様を捨て、また十二弟子、そのうち三弟子までもがみなイエス様を捨てて逃げてしまいました。イエス様が十字架で亡くなるとき、イエス様を中心として右の強盗と左の強盗が争いました。このみ言をよく聞かなければなりません。イエス様は父母の立場なので、イエス様を中心としてカインとアベルを復帰しようとすれば、カインの立場にある人がアベルの立場にある人に屈服しなければなりません。ここで右の強盗はアベルの立場であり、左の強盗はカインの立場です。
そうして十字架にいるイエス様を前に争うのです。すなわち父母の位置を復帰できるか否かの戦いが起きたのです。まず左の強盗がイエス様に向かって、「おい、うわさになって大騒ぎしたと思ったら、手首に釘を打たれたのか。おれとどこが違うというのか。お前はキリストではないのか。それなら自分を救い、またおれたちを救ってみろ」と言って非難しました。
そのとき右の強盗が左の強盗に向かって、「おい、こいつ、おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。当然おれたちは死ぬべき罪を犯したのだから、それに対する報いで死ぬのだが、イエス様はその行いが正しくないものはない」と叱責したのです。もし右の強盗がイエス様を証しながらここで後退していたら、イエス様は復活することができなかったはずです。
イエス様は家庭をもてなかったので、家庭的な基盤を築くことができませんでした。けれども右の強盗が最後までイエス様の味方に立って、左の強盗の陣営を押さえつけたので、アベル的な立場でカイン側を屈服させたという条件を立てたことになったのです。したがって復帰したという条件は立てたのですが、これは霊肉を中心とした復帰の基盤ではなく霊的な復帰の基盤だったのです。
そこでイエス様は、自分を証する右の強盗の立派な信仰を見て、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」(ルカ二三・43)とおっしゃいました。ここで初めて霊的な世界を中心とした楽園に入ることができるようになるのです。これは霊肉を中心とした地上で起きることではありません。ですからキリスト教は、地上の楽園ではなく、霊界の楽園を中心として歩んできているのです。

Friday Nov 01, 2024
イエス様の生涯と愛 第66話
Friday Nov 01, 2024
Friday Nov 01, 2024
三、イエス様の十字架での愛とその遺産
民主、共産、イスラーム圏に分かれた背景
イエス様を中心として見ると、右の強盗と左の強盗、バラバがそれぞれ種を蒔きました。歴史がこのように蒔かれ、蒔いたとおりに刈り入れられるのです。最初に現れたのが、右の強盗型と左の強盗型である右翼世界と左翼世界、すなわち民主圏と共産圏です。その次に現れたのが、イエス様の十字架を中心として登場したバラバ型であるイスラーム(イスラム教)圏です。イエス様によって恩恵を受けられるようになったバラバ型のイスラームは、キリスト教の旧約を中心として出発しました。
このように蒔かれた歴史は、世界の形態が三大陣営に結束する時代の運勢に入るようになりました。アラブ圏のナセル(一九一八~一九七〇、元エジプト大統領)は、イスラーム圏を統合してアラブ統一国家を夢見ました。それに備えてキリスト教は今、「すべての宗教を統合しよう」という世界的な新しい趨勢に入りつつあります。このような世界的な傾向を見つめるとき、悲運によって植えられた歴史が、ついに神様を中心とした善の結果として現れていることが分かります。
歴史の終末時代になれば、これが露骨になり、初めに蒔かれたものをこの時に結実したそのままの形で刈り入れられるようになるのです。これは摂理の法度によって現れざるを得ない、不可避的な傾向なのです。
民主世界が内的ならば、共産世界は外的です。右翼が内的ならば、左翼は外的なのです。それゆえ、今後メシヤは、神様を尊重する民主世界の内的基盤の上に来られて、外的な環境圏を吸収して、キリスト教文明圏を中心として統合する運動をしなければなりません。最後には、このような運動が起きるのです。このようなことは、偶然とばかりは言えません。そのような動機が植えられたので、そのような結果がもたらされたのです。
右の強盗の功労
十字架で亡くなったイエス様について見ると、殺人強盗である右の強盗がイエス様と共に逝きました。もし右の強盗がその場にいなかったとすれば、イエス様は地に対して、人間に対して関係を結べる何の因縁もなかったでしょう。けれども右の強盗が死ぬ立場でイエス様の味方に立って、イエス様を擁護しました。人間歴史においてイエス様の味方になった最後の人は誰でしょうか。ペテロでもなく、イエス様の親でもなく、イスラエルの国でもなく、ユダヤ教でもありませんでした。ただ一人、右の強盗でした。
死の場で自分の事情を通告し、死を越えて全面的にイエス様の前に希望をかけた、ただ一人の人がいたのですが、その人が右の強盗なのです。もし右の強盗がいなかったとしたら、イエス様が再び復活して、地上の摂理の因縁を再開させることはできないという事実を皆さんは知らなければなりません。
四千年の歴史を締めくくり、三十年余りの生涯を締めくくるその場において、人間が初めて一つの生命でもイエス様と因縁を結び死の道を共にしながら、そこでイエス様を希望の主体として迎えることのできた人が右の強盗でした。彼が中心になっているという事実は、彼が使徒たちよりもましだということを物語っています。ペテロよりもましなのです。
なぜなら右の強盗は、内容は知らなかったとしても死ぬ立場で命が尽きるまで、イエス様に侍り得る方向性を備えました。しかしペテロやヤコブのような十二使徒は、内容を知り方向性を備えると誓った者たちでありながらも、方向性を備えられませんでした。それゆえ右の強盗が、人類歴史上において地に代わって、未来を再起させ得る中心的な存在になった事実を、皆さんは知らなければなりません。

Sunday Oct 27, 2024
イエス様の生涯と愛 第65話
Sunday Oct 27, 2024
Sunday Oct 27, 2024
従順の道理を教えられたイエス様
この地上で権勢を握っていたサタンは、神様の栄光を自分たちで享受してきたのであり、また神様が主管すべき人間を主管してきました。このように人間は、サタンの圧迫のもとで生きてきたのです。ですからイエス様は、この地に来られて、まず反対する人よりも、人をしてイエス様に対して反対させる霊的なサタンと対決しなければなりませんでした。このような闘いからキリスト教の歴史が始まったことを知らなければなりません。
ではサタンの本質と対決するために現れたイエス様は、彼の生活圏内において、まず何を表示して現れたのでしょうか。サタンができないことをしなければなりませんでした。このような責任を完遂するために、彼が生活圏内で実践的な行動を提示したのが、今日のキリスト教の福音なのです。
み言も、彼の心も、彼の生活も、彼の生涯も、彼の死までも、サタンができない条件を探し立てるためのものでした。このようなイエス・キリストの生涯路程を皆さんは知らなければなりません。天理法度が厳然としてあるので、言い換えれば、法度を中心としてすべてを治める神様がいらっしゃるので、イエス・キリストは、この天理法度によってサタンを分立したのです。
サタンの本質は、驕慢と血気です。このような性質によってこの世の人に対するサタンでしたが、イエス様は温柔と謙遜によって、この世の人の前に現れたのです。
イエス様は、愚かさから、温柔、謙遜な立場に立ったわけではありませんでした。どこの誰よりも最高に高くあり得る栄光を享受することができたのですが、イエス様はこれをすべて捨てて、温柔、謙遜な立場に立たれたのです。サタンは、このようなイエス・キリストと対決し闘おうとしましたが、サタンには、神様の前に屈服しなければならない条件があることを知っていたので、イエス様は最後まで温柔、謙遜であられたのです。それで、サタンの本質である驕慢と血気とは反対の温柔、謙遜をもって現れたのです。
また、厳然として天理法度があることを知っているサタンなので、ついにイエス・キリストを認めるようになったのです。すなわち言うなれば、温柔と謙遜をもって進めば、サタン世界も自然屈伏するのです。このような原則を知っていらっしゃるイエス様は、サタンができない温柔、謙遜の立場を取ったのです。このように温柔、謙遜な立場に立ってこそ、中心を通して役事する神様に行く、新しい道を開拓し得ることを皆さんは知らなければなりません。
また、イエス様は何を見せてくださったのかというと、従順と服従です。従順とは応じ得る環境で命令に従うことであり、服従とは応じられない環境で従うことです。イエス様は、不信する人々にこのような従順と服従の道理を教えてくださいました。これもまた、サタンの本質、サタンのすべての生活的な要素を遮るためのものです。
サタンは自分を中心として、人がどうしようと関係しない存在です。これがもう一つのサタンの本質です。それゆえ、サタンのあとを追えば、不幸になるのです。それでイエス様は、すべての人間が自分を信じ、自分に従順に従い、天に従うように教えられたのです。人々は、そのようなイエス様のみ意を知らず、かえってイエス様のことを神様のみ旨の前に不義なる人だと思いました。このような立場で、言葉では表し難い蔑視と迫害を受けながらも、イエス様は従順の道を開拓していったのです。
またイエス様は、犠牲と奉仕の精神をもって現れました。実際のところ、天の栄光に代わって、神様のひとり子としてこの地に来られたイエス様は、万民と万物、サタンまでも主管し、彼らの犠牲と奉仕を受けるべき立場でしたが、その反対の立場に立たれたのです。サタンがイエス様御自身の前に従順に従い、奉仕し犠牲になるようにするために、すなわちこのようなサタンのすべての勢力を屈服させるために、イエス様は、無限の犠牲と奉仕の供え物を捧げる路程を歩まれたのです。これを知らなければなりません。
サタン世界は、人に対してもあるいは被造物に対しても、無限に利用して搾取しようとするのですが、イエス様はその反対の立場を取りました。このようにサタンができない生活をイエス様は代表的にしたのです。すなわち、温柔、謙遜であり、従順に従い、服従し、犠牲と奉仕の生活をされたのです。ですからサタンも、そのような面では屈服しなければなりませんでした。
我々は自分を、イエス様が教えられた温柔と謙遜、従順と服従、犠牲と奉仕に照らしてみて、彼の教えを自分の生活圏内で実践できていないと思うならば、いまだにサタンの一族であることを悟らなければなりません。

Sunday Oct 27, 2024
イエス様の生涯と愛 第64話
Sunday Oct 27, 2024
Sunday Oct 27, 2024
心情を吐露しきれなかったイエス様
聖書について、研究に研究を重ねるその目的とは何でしょうか。私たちの主、イエス様はどうだったのであり、イスラエル民族の救い主であるモーセはどうだったのであり、家庭的救い主であるヤコブはどうだったのであり、個人的救い主であるアブラハムはどうだったのか、ノアはどうだったのか、アダムとエバはどうだったのかを知るためです。それが正に、頭を抱えて悩む信仰の道です。
人生の根本問題は、どこで解決されるか分かりますか。今日の科学文明を通じて形成されたこの世界観を、うまく説明するところから解決されるのではありません。実証的な論理を立てて、実証的な価値を論じるところから人生の問題が解決されるのでもありません。原点に立ち返らなければならないのです。失ったものを取り戻すには、失った所に行ってこそ取り戻すことができるので、その場所に立ち返らなければなりません。
立ち返るためには、聖書のみ言だけを通して立ち返ってはいけません。聖書のみ言の内幕に隠されている骨髄の心情を通して立ち返らなければなりません。これが道人たちの求めていくべき道なのです。
二千年前に来て亡くなられた、イエス様の心情を通して立ち返ろうというのです。そのイエス様はどのような方だったのでしょうか。四福音書に語られているそのイエス様では、あまりにも足りません。あまりにも不十分で足りないのです。話をされたイエス様の背後、言いたくても言い表せなかったその心情を知らなければなりません。
孤独な身でも、ローマを征服しようとする心情を抱いて見つめたイエス様の胸には、しみ込んだ怨恨の心情、罵倒したい心がどれほどあったでしょうか。しかしイエス様は、語ることができませんでした。一言も言えなかったのです。
本来、イエス様は、十二弟子、あるいは何千人の群衆を連れて回りながら、社会の反逆者、時代の反逆者として訴えられなければならない物悲しいイエス様ではありません。もしイエス様が世界的な反逆者として訴えられる立場に立ったとしても、全世界が動員されて殺されるような立場に立ったとしても、イエス様は死ななかったでしょう。
ところが、イエス様は路地裏を歩きながら、あっちの路地から追われれば、こっちの路地へと避けて回っていた立場で、そのみ言に、イエス様の理念と心情がすべて吐露されているのでしょうか。とんでもないことです。それをもってしては、イエス様が語られたみ言は理解できたとしても、言いたくても言えなかったイエス様の内密の心情は理解できないのです。
イエス様の悲しみと神様の悲しみ
天の恨を解くために来られたイエス様は、幸福をもって現れることができず、自由をもって現れることができませんでした。彼は神様の前に最高に善なる立場にありながらも、罪人の中の罪人のように現れたのです。これほど悲しいことがどこにあるでしょうか。
全天上が歓喜し得る天の王子であるにもかかわらず、地上では踏まれる王子であり、迫害される王子であり、消え去っていく王子のように生きられたイエス様の悲しみ以上の悲しみはないのです。
自己の威信や自己の身の振り方、そして受けた使命を成し遂げられず、逆境にぶつかり言葉なく消え去っていったイエス様以上に悲しい者が、どこにいるでしょうか。イエス様は四千年間、天が苦労して選民に選び立てたイスラエル民族に排斥されたのです。摂理のみ旨に従わせるために、長い間愛してこられたユダヤ教団に迫害されました。
それだけではありませんでした。愛する氏族に追われ、愛する弟子に追われたのです。このとき、もしイエス様が人間的な恨をもったとするならば、彼らを呪うことしかできなかったでしょう。民族のために来たのに教団から裏切られ、氏族や親戚、あるいは選ばれた者たちのために来たのに、彼らからも裏切られた立場だったのです。
このような立場でイエス様が、怨恨を抱いて彼らに対して呪おうとするなら、言葉では表現し切れない呪いとなり得たことでしょう。それにもかかわらず、イエス様はむしろ歴史路程を経てきながら、被ってきた彼らの悲しみの恨をつかみ、自分を忘れて心配しなければならなかったのです。このようなイエス様の事情を知らなければなりません。
イエス様が天国建設の王子だと思ったのですが、そうではありません。それはのちにすることです。イエス様はこの世のすべての悲しみを取り除くために、数多くの預言者や烈士が善を願い、み旨を願ってきた歴史路程の哀切な心情、身にしみた怨恨の心情を体恤して現れた、歴史を代表した悲しみの王子でした。
暗闇の世界で、サタンの主管下で呻吟し、行き先も分からず、苦痛の中にいる世界人類に代わって、彼らのすべての荷を背負わなければなりませんでした。内的には悲しみの心情に責任を負い、外的には苦痛の荷に責任を負い、これをサタンの前で解決し、天の前に勝利の土台を立てるべき悲しみと苦痛の王子だったのです。
そしてそのようなイエス様がこの地に来られて、人間のためにそれほどまでに悲しみと苦痛の中で生きる姿を見つめる神様の心情は、イエス様の悲しみ以上、イエス様の苦痛以上、イエス様が感じる恨めしさ以上の恨に徹していることを知らなければなりません。

Thursday Oct 24, 2024
イエス様の生涯と愛 第63話
Thursday Oct 24, 2024
Thursday Oct 24, 2024
神様に対するイエス様の愛・忠誠・忍耐
イエス様はいくら血を流す立場、悲しみと苦痛に受ける立場、恐怖にとらわれる立場に置かれていたとしても、その中心だけは変わりませんでした。もし天の理念を引き継いで、地上に一つの不変の道を開拓する全体的な使命を担当すべきイエス様が、そのような環境で中心が変わったとしたなら、勝利的な天倫の役事は始まらなかったことでしょう。
イエス様は困難な環境、希望が途絶えた立場、サタンから讒訴される立場でも、そのすべてに打ち勝って乗り越え、勝利的な天倫の道を開拓していったのです。
イエス様は、このような道を開拓するために、歴史上になかった愛を強調したのです。そしていかなる困難な環境にぶつかっても、その環境を克服するためには忍耐心をもたなければならないと主張し、罪人が悪に対して忠誠を尽くす以上に、神様のみ旨のために忠誠を尽くさなければならないと語られたのです。これがキリスト教でいう御霊の九つの実(ガラテヤ五・22、23 参照)の根本です。愛の生活をするようになれば喜びと平和が生まれ、忍耐(寛容)を通しては慈愛と善意が生まれ、忠誠(忠実)の生活をすれば柔和と謙遜(自制)が生まれるのです。
イエス様は堕落圏内にいる人間のすべての悪の要素を除去するために、天的な愛と天的な忍耐、天的な忠誠を強調したのです。これらが天国の理念を達成し得る実践的な理念なのですが、今日、皆さんの心にこのようなキリストの愛がありますか。また忍耐と忠誠心がありますか。イエス様は神様の心情に代わって現れた愛の化身体であり、悲しいゴルゴタの道でも万民の苦痛を心配された忍耐の主人公であり、歴史上の誰よりも天に対して忠誠を尽くした忠誠の代表者でした。
それならば、このようなイエス様の愛、忍耐心、忠誠心の起源はどこにあるのでしょうか。これらは、イエス様自身が起源ではありません。ただイエス様は、その神様の愛を人間につなげる仲保の役割をされるのです。無知な人間を救うために来られたイエス様は、神様の愛の化身であり、神的な価値の実体でした。
それならばイエス様は、どのようにして歴史上になかった神様の愛を表すことができたのでしょうか。彼は神様とみ旨のために、そのすべての困難を克服でき、自分の生命までも捨てることができました。ですから、イエス様に神様の愛が臨むことができたのであり、歴史上初めて神様の愛を直接再現することができたのです。
イエス様はこの地に来られて、神様の愛を探し求めるとき、論理的な面を前面に出したのではありません。イエス様は、愛に対する定義や愛に対する論理を語りませんでしたが、愛の実践的な面において歴史を代表したのです。イエス様は、自分が感じることができず、行動できないことは語られませんでした。イエス様は、実践的な行動を通してのみ、神様と永遠なる関係を結べることを知っていたからです。
では、このようなイエス様の実践的な愛は、どこから生まれたのでしょうか。イエス様自身から生まれたのではありません。神様の内的心情を探ることができたので、イエス様はそのような内的心的基準を立てることができたのです。これを私たちはよく知りませんでした。
では神様の愛とは、どのようなものなのでしょうか。今日この地上の人は、千万回裏切り、変わるかもしれませんが、神様は、そのようなことはできないのです。神様の愛は永遠不変なのです。このような神様の愛の心情を人は知らなかったので、人間は互いに裏切り合って不信してきたのです。
では神様の忍耐心は、どこから生まれたのでしょうか。神様が闘争の歴史を経てこられたのは、愛を成すためでした。また悪に対して限りなく耐えてこられたのは、善の生活理念を立てるためでした。すなわち、一人の人間を立てるための変わることのない天理、法度の基準を立てて六千年を忍んでこられたのです。
神様はこのように真のみ旨を成し遂げるために、御自身と同じ人、全体の価値に代わり得る人を探すために、人間が神様に対して忠誠を尽くす前に、先に神様が人間に対して忠誠を尽くし、限りなく忍耐してこられたのです。
したがって天倫を中心として運行なさる神様と、そのみ旨を成就するために限りなく人間に対して忠誠を尽くしてきたその事情を体恤しなければならず、このみ旨を立てるために限りなく犠牲になってこられた神様の心情、また未来の理念を立てるために限りなく御自身を超越なさった神様の心情、限りなく与えようとなさる神様の愛の心情を体恤しなければなりません。また自分のいかなる主義、主張、自分のいかなる観念をもってしても、神様の前に立つことができないことを知らなければなりません。
無限の愛を与えるために、四千年間忍んで神様の愛を受ける者は誰だったのでしょうか。そのような者は、イエス様しかいませんでした。これを知っているイエス様は、孤独なときもその愛を感じながら、神様の前に感謝することができたのです。
そして四千年間悲しまれ、四千年間闘いながら耐えてこられた神様であることを知って、その忍耐心の価値の結果を表すことによって、サタンの前に誇り得る一人の人格者は、どこにいたのでしょうか。やはりイエス様お一人しかいませんでした。そうして自分を通して人間の行くべき道を導くことを願われる神様の願いを担い、神様に代わって忍耐し、独り天倫の道を行かなければならなかったイエス様は、悲嘆に暮れたのです。これを知らなければなりません。

Thursday Oct 24, 2024
イエス様の生涯と愛 第62話
Thursday Oct 24, 2024
Thursday Oct 24, 2024
イエス様が立てられた愛の基準
イエス様は宇宙的な人生の価値を実現するために、何を打ち出したのでしょうか。イエス様は愛を打ち出しました。すなわち、宇宙的な人生の価値を天地において完結させるために新しい福音を伝えましたが、その福音の中心が正に愛だったのです。
個人が自分の一身の人生を永遠なる価値の基準に結びつけ得る最も重要なものとは何かといえば、イエス様が語られたように、人のために自分の生命を捧げられる愛なのです(ヨハネ一五・13参照)。実際にイエス様は、自分自身のための愛ではなく、人を自分以上に愛することに人生の価値基準を立てられたのです。
このように天的な全体の人生の価値を代表して現れたイエス様は、人間に自分の個体の救いのためには、人のために命を捨てることのできる愛を所有しなければならないと教えられたのです。自分のための愛よりも同僚のための愛、同僚のための愛よりも世界のための愛、世界のための愛よりも神様と霊界にいる千万の聖徒たちのためにも生きる愛をもって現れた方が、イエス・キリストであることをはっきりと知らなければなりません。
イエス様は自分の人生の価値を求めるための個体的な観念、あるいは個体的な愛をもって生きられた方ではありません。イエス様は友を愛されるときも、単にその友人関係だけで愛されたのではありません。その裏には世界の代わりに愛するという観念をもち、また神様の代わりに愛するという気持ちで愛されたのです。
このようにイエス様の愛は、一対一の関係ではありませんでした。イエス様がいかなる個人を愛したとしても、そこには神様の愛が内包されており、宇宙的な愛が内包されており、個人的な愛が内包されていたのです。これを体験する皆さんにならなければなりません。そのような皆さんになってこそ、イエス様の人生の価値を正しく知ることができるのです。
それならばイエス様は、自分の人生の標準をどの基準まで立てたのでしょうか。世界のために自分が存在するという基準を立てたのです。イエス様は自分を犠牲にしながら、友を愛するときにも、その裏には世界のために愛するという観念をもっていらっしゃったのです。
イエス様が十字架上で世界的な救いの愛の基準を立てることができたのは、個人のために死ねると同時に、全体のためにも死ねる犠牲と愛の心があったからです。このようにイエス・キリストが、愛と生命と人格の主人公であったことを知らなければなりません。単にそれだけではありませんでした。
イエス様はそのとき天に向かって、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・39)と祈られたのです。このように死の峠を越えて、父のみ意のままにのみ生きることを願われたイエス様であったので、神様の愛を人間に紹介することができたのです。このようにイエス様の路程には、驚くべき愛が内包されていることを私たちは知らなければなりません。
また宇宙的な生命を復帰する使命をもって来られたイエス・キリストが、人生の価値を求めるために打ち出したものとは何だったのでしょうか。それもやはり愛でした。その愛は、人間個々人のためのものではなく、世界のためであると同時に、神様のためであり、永遠なる世界、すなわち霊界にいる霊人たちのためにも生きる愛だったのです。
それならば、今や全体復帰の人生を成し遂げなければならない私たちが、一日一日の生活で神様の愛に代わるイエス様の人生の価値を実現するためには、いかなることにぶつかってもその日、その時間に感じる感情だけで対してはいけません。宇宙的な全体の性稟に代わったイエス・キリストの人格の代わりをしようという覚悟と決心で、すべてのことに対さなければならないのです。そのような一日一日の生活を経てこそ、世界的な人生を完結でき、永遠なる人生と関係を結べるのです。
言い換えれば皆さんの一日一日の生活というのは、皆さん自体だけに及ぶ瞬間的な生命の価値をもっているとするならば、永遠とは関係を結べないのです。それゆえ、永遠無窮なる神様の愛と関係を結ぶ生活をしなければならないのです。そのような時に、永遠なる神様が皆さんと共にあるようになるのです。
そしてイエス・キリストが、一生の間、毎日、神様と関係を結びながら生きたので、イエス様は亡くなったとしても、イエス様を通して成そうとされた神様のみ旨はずっと成し遂げられてきたのです。

Thursday Oct 24, 2024
イエス様の生涯と愛 第61話
Thursday Oct 24, 2024
Thursday Oct 24, 2024
二、十字架の贖罪を中心としたイエス様の心情と事情
父を慰められたイエス様
イエス様は宇宙的な使命をもってこの地に来られましたが、一生の間、苦難を受けられました。しかし、その悲しみのために祈るのではなく、かえって心を痛めて心配なさる父を慰められました。そうしながら地を眺めて、人間の無知を容認してあげるために苦しまれたイエス様だったのです。
しかしイエス様の生涯は、三十余年の涙の生涯にだけ終わったわけではありませんでした。彼は神様の代わりに苦労をしてきたので、死のうが生きようが父のみ旨だけを栄光となるようにしてあげようという思いをもって生きました。イエス様は神様がたとえ分かってくださらなくても、地上の人間が分かってくれなくても、そのようなことにはかかわりなく、み旨のために生きられたのです。
み旨を完全に成し遂げようとして来られたイエス様でしたが、十字架に亡くなることになったからといって、腐心や失望はしなかったイエス様でした。死の場まで行っても、イエス様は自分について弁明しませんでした。ピラトの法廷を通過し、ゴルゴタの山頂を経て十字架に釘付けにされて亡くなる立場まで行きながらも、イエス様は弁明しなかったのです。弁明しなかった主人公でした。
人間があのように反対するのも、自分の責任であると感じられたイエス様でした。イエス・キリストを信じている私たちは、誕生されたイエス様から、生きられたイエス様を経て、逝かれたイエス様の友とならなければなりません。
イエス様は何と友になったのかというと、生と友にならず、死と友になられた方でした。歴史過程で数多くの人々が死の道を行きましたが、万民の死に代わって死の友になり、万民に代わって亡くなった方は、イエス様だけだったのです。
それゆえキリスト教というのは死と犠牲の宗教であり、キリスト教の真理は死に勝つものです。またイエス様の活動は、自己の一身を破壊させることでした。その一方で恨むことなく愛するイエス様の行路だったことを、皆さんは認識しなければなりません。
イエス様は死の友だったので、死を早めるときにも死を意に介しませんでした。怨讐のために死ねる余裕の生涯を生きたことを、皆さんは知らなければなりません。
のちには十字架にかかったイエス様を、神様までもが「知らない」としました。そのときイエス様が、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ二七・46)と叫びましたが、これは願いが絶望に帰し、生涯のすべてが水泡に帰すかもしれないので叫ばれたのではありません。
自分の死によって、父のみ旨を成し遂げて逝けなかったことを心配して叫ばれたのです。イエス様は自分としては果たすべき責任を果たしたので、父が自分を天国に送ろうが地獄に送ろうが意に介さなかったのです。死の友になるべき立場にあったイエス様は、死ぬことに満足し、死ぬことで自分の使命を完遂しようとしたのです。
イエス様は宇宙的な愛をもって来られましたが、それを知った者はいませんでした。このように驚くべき恩賜をもって来られたのですが、いったん死の友になるために乗り出したからには、何の未練ももちませんでした。天の願いを果たすために来られたにもかかわらず、そのような存在として対してくれなくても、反駁したり恨んだりはしなかったイエス様であったのです。