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Wednesday Nov 20, 2024
父の祈り 第2話
Wednesday Nov 20, 2024
Wednesday Nov 20, 2024
お父様の本然の美を表せるようにしてください
創造主なるお父様!
あなたの美しさが
すべての万物万象に現れ、
あなたのみ手が伸べられた形状の上には、
玄妙なる顕現の美が
満ち満ちています。
人間に対する創造目的である美を、
きょうも休まず探し求められる
お父様の切ない心を、
私たちが体と心で体得でき、
あなたの愛のみ前に
美しさをもって対することができますよう
お許しください。
私たちの心が、お父様がお造りになった時の
本然の心でもって現れるよう許してくださり、
私たちの体が罪に染まらない
創造直後の体として、
その美を表せるようお許しください。
私たちの心と体が
神様の愛と心情に代わり、
神様が動ずれば私たちも動じ、
神様が静ずれば私たちも静ずることのできる、
完全無欠な本然の姿として立つことができますよう
お許しください。
これが、お父様が
今まで復帰摂理歴史を経ながらご苦労された、
一つの目標であったことを知るものでございます。
今、私たちが探すべきものは自らの心であり、
成すべきものは体でありますので、
それを探し立てることができるようにしてください。
そうして、お父様の本性の美を代表し、
敬拝を捧げることのできる一個体として
立ててください。
お父様のみ前に感謝と栄光の歌を捧げることができますよう
許してくださり、
これがご苦労されるお父様の目的であったことを、
私たちが骨身にしみて感じることができるよう
許してくださいますことを、
お父様、
切にお願い申し上げます。
私たちは堕落の血統を受け継いだがゆえに、
自分でも分からない間に
天を離れ、自分を重視する
生活をするようになり、
天倫を離れ、自分を中心として
動く者となりましたので、
これを回復して天倫に対することのできる
本然の心の叫びに導かれるよう
許してくださり、
本心の動きが私の体を刺激し、
天が取ることのできる本熱の自我を探し出せるよう
お許しください。
そうして、
億兆蒼生(=数多き未完成の霊人たち)に対する嘆息を私たちが解怨し、
天地のすべての嘆息を解怨して、
お父様のみ前に謙遜にひれ伏して敬拝を捧げることができ、
お父様の愛を受けることのできる子女として
立ててくださいますことを
心からお願い申し上げながら、
主のみ名によってお祈り申し上げました。アーメン。
(一九五六・六・一〇)

Wednesday Nov 20, 2024
父の祈り 第1話
Wednesday Nov 20, 2024
Wednesday Nov 20, 2024
はじめに
私たちは、全くそのお方を推し量ることができません。知っているようでも知らないのは、そのお方の心情世界があまりに深く、広く、大きいためです。人間は絶対者ではなく相対者であり、無限者の前に有限者であることを徹底して告白するようになるのは、そのお方をどんなに推し量ってみても、どんなに近づいてみても私たちの限界を痛感するからです。
神様が人間の親であられるのを、そのお方を通して知りました。神様の本体は愛であり、子女を失ったかわいそうな親になられ、蕩児を探して苦難を被られたことも、そのお方を通して知りました。父母の心情で僕の体として投入されるそのお方の人生の中から、真の愛の価値を悟るようになりました。
そのお方は私たちの祖父として、父として、時には兄のように、友達のように近づいてこられました。親が失ってしまった子女を探し、千万里を走ってきた燃える喉の渇く姿で、この世のすべての罪を一人で蕩減する重大な立場として、時には視線さえも合わせるのが恐ろしいほど厳粛で敬虔な姿で語られながらも、また、まぶたが合わさるほど大笑いされるお方です。
童謡の「春が来れば」を好まれ、大衆歌謡の「虚空」も聖歌のように愛されるお方です。過ちがあっても、ただ抱くことのできる安らかなお方です。そばから離れていっても、再び帰ってくれば裸足で走ってきて迎えてくださるそのお方を、私たちは何と呼ぶことができるでしょうか。神様の解放のために、人類の救援のために一生涯、昼夜を忘れて生きられるお方です。私たちはそのお方を「お父様」と告白します。
私たちは文鮮明先生の折様を主題別に区分して十二冊にまとめました。一編一編ごとに神様の安息のための苦闘、人類救援のための絶叫、神の国実現のための血と汗と戻が染み込んでいます。
読者の皆さん、そのお方の精神と思想、そして全生涯を本書を通して理解され、そのお方のように深く高く、雄々しく生き、祝福された人生となることをお祈りいたします。
一九九八年五月一日
世界基督教統一神霊協会韓国会長黄善祚

Friday Nov 15, 2024
イエス様の生涯と愛 第84話
Friday Nov 15, 2024
Friday Nov 15, 2024
イエス様の志操を受け継ぐべき我々
私たちがイエス様の三十年余りの生涯の人格を探ってみると、イエス様は当時に限定された一個人の人格者ではありませんでした。彼の人格は、自分の一身の人格というだけではなく、四千年の歴史に代わる天的な価値の人格であったのです。このことを皆さんは悟らなければなりません。
イエス様が主張された理念は、どのようなものだったのでしょうか。数多くの預言者や烈士たちが、歴史的に願ってきた理念であると同時に、摂理の目的を成し遂げるための創造主の理念だったのです。そのような使命を完遂するために、血の涙の出る道を歩んだイエス様の生涯でした。
したがって、不変の心でイエス様の理念と生涯を通して、彼の志操と人格を見習わなければなりません。そしてイエス様が四千年の歴史に代わって、天倫の志操を立てるために無限の闘争も意に介さず戦ってこられたように、皆さんもそのイエス様が残した使命を受け継ぎ、二千年を加えた六千年の歴史に代わって不変なる志操の心を備えた人格者として、天の前に現れなければならないのです。
もし、そのような皆さんになることができないならば、天倫に代わる理念、イエス・キリストが願われた理念、今日私たちが探し求めている理念とは、永遠に関係を結ぶことができないのです。これを肝に銘じなければなりません。
ではイエス様は、どのように生きたのでしょうか。イエス様はひたすら神様のみ旨を自分の生涯の目的として、「そのみ旨が成就するまで、全体に責任を負います」と天倫の前に誓ってからは、自分の安楽を考えず志操を守る生活をされました。
それならば神様は、どうしてイエス様を万民の救い主に立てることができたのでしょうか。四千年の歴史の過程を経てきながら、イエス様お一人だけが、神様のみ旨のために全体の生涯を捧げ、創世以後初めて神様のみ旨のために忠節と志操を守ったからです。そうしてイエス様は、永遠のメシヤとして立てられ、モーセを中心に受け継がれてきた摂理歴史が、イエス様の理念を通して新たな段階に入ったのです。
最後の審判を控え、無限の恐怖のゴルゴタの峠を越えなければならない「終わりの日」に処した今日の皆さんにおいて、皆さんの訴えを何によって終わらせることができるでしょうか。これまでこの地にあった理念ではできないでしょう。それゆえ私たちには、ふさがれている私たちの行く道を切り開いてくれる一つの中心存在が必要なのです。歴史的に見れば、神様も当時の理念としては不可能だということを御存じであったので、神様の摂理を指向する数多くの宗教を通して、摂理の中心人物を送ろうと約束してこられたのです。それがすなわち再臨思想なのです。
今や私たちは、神様に対して、あるいは被造万物に対して、相対的な価値基準に立っていてはいけません。絶対的な神様の人格と絶対的な神様の不変の理念と天的な生活の理念に代わる中心をもった者として、神様のみ旨のとおりに初めと終わりが永遠に関係を結び得る立場に立って、万物万象の前に自分の価値を表すことのできる私たちとならなければなりません。
そしてそのような人間になることができるように、導いてくれる真理を探し求めなければなりません。そのような真理を探し出すために乗り出した皆さんであるならば、何よりもイエス様の願い、イエス様が願われた理念、イエス様の生活の標準を受け継ぎ、そこに新しい理念を加えられなければなりません。さらにまた、活動舞台を自ら探し求めていかなければなりません。
そうして理念的な基準と実践的な基準を備えて、すべての面で統率できる絶対的な位置を自分たちが見つけ、「終わりの日」に天が探そうと願われる人格者、天上の全体目的に代わり得る真の人にならなければなりません。そうでなければ、自ら悔い改める心情をもつ人にならなければなりません。
今日私たちは、個人であっても個人として終わってはいけません。私たちが信じているキリスト教も、民族と国家のための宗教にのみとどまってはならず、世界と人類のための宗教にならなければなりません。また人類歴史に代わることができ、人類の歴史的な願いに責任を負えると同時に、人倫と天倫の理念に代われなければなりません。
そのような歴史と歴史的な願いと人倫と天倫の理念が、皆さんが生活する環境と因縁が結ばれていることをはっきりと感じなければならず、不変の人格者として願いの実体として、二千年前に来られたイエス様の前に恥じることなく現れて、「主よ、あなたの願いはこれではないでしょうか。私がかなえてあげましょう」と言えなければなりません。
そして私たちは、天倫の原則にのっとり、変わることのない志操をもって、天のみ旨のために責任を全うしたのちに、「天よ、お受けくださいませ」と祈られたイエス様を回顧してみなければなりません。

Thursday Nov 14, 2024
イエス様の生涯と愛 第83話
Thursday Nov 14, 2024
Thursday Nov 14, 2024
国を見つけられなかったキリスト教徒たち
イエス様は三年の公生涯路程において、ユダヤ教を中心として失ったすべてを蕩減復帰しようとしたのですが、十字架にかかって亡くなったので、この地上に霊肉を中心とした一つの実体たる神様の土台の国として立てられたイスラエルが、すべて崩れていきました。すなわち四千年間摂理して、準備してきたイスラエルの土台が崩れていったのです。
結局、イエス様が亡くなることによって、キリスト教は霊的な国の土台だけをもつようになり、イスラエル民族は国のない民となって流離彷徨する身の上となり、サタン世界の物笑いの種になってしまったのです。ですから今日、霊肉共のキリスト教の国はどこにもないのです。したがって再び来られる主は、四千年間準備してイスラエルの国をつくられた神様の摂理をイスラエル民族が知らずに不信することによって、失ってしまったものを復帰しなければなりません。
イエス様は、この地上に国を探し出すために来られました。一つの国を探しに来られたのです。しかしイエス様は、その国を霊肉合わせて探し出すことができず、ただ霊的にのみ探し出しました。それゆえ、今日キリスト教は、この地上に実体の国がないのです。これは神様がこの地上において、いかなる国、いかなる民族を中心としても、「愛する私の国、愛する私の民族」と呼べないことを意味します。
いまだに神様の国の土台が、この地に立てられていないということを意味するのです。もしその当時、イスラエルの国がイエス様を中心として一つになっていたならば、息子であるイエス様を中心としたその国が神様の国なので、神様はその国を中心として世界を復帰されたはずです。しかし、この地を中心として霊肉合わせて連結させようとした土台が、イエス様が死ぬことによって、つまり実体を失うことによって霊的にのみ復帰されたのです。
したがって、今までキリスト教徒たちは、国がなく主権のない民のような立場なので、どこに行っても殺されたのです。殉教の血を流すことによって発展したのです。それはなぜでしょうか。そのように植えたキリスト教であるがゆえに、そのように殉教の血を流さなくては発展できないのです。今や血を流しながら迫害された時期は終わったのですが、それはそのまま死んでなくなるのではなく、キリスト教の霊的基盤を中心として失った実体の国を世界的に探し求めて築くために、その国を敬い慕い、主を待ち焦がれながら生まれたのが、正に再臨思想なのです。
したがって主は、この地に来られれば何をすべきでしょうか。一つの国を中心として世界的な蕩減を成し遂げなければなりません。そのためには、主を中心として一家庭をつくり、神様がその家庭を愛することができなければなりません。さらにはその家庭を中心として一つの氏族をつくって、神様がその氏族を「私の氏族」、その氏族を中心としてつくった民族を「私の民族」、その民族を中心としてつくったその国もまた「私の国である」と、サタン世界に打ち出せる国につくり上げなければなりません。それが正に、神様の摂理歴史であることをはっきりと知らなければなりません。
悲惨な犠牲の代価を払うキリスト教
神様は今まで、堕落した人間に対して救いの摂理をしてこられました。言い換えれば、神様は言うに言えない怨讐の子女たる私たち人間をして、神様が願われる歴史的なある完成基準、すなわち救いの摂理の目的基準を超えることのできるその一箇所に到達させるために、今まで摂理の方向を推し進めていらっしゃるのです。
そのような過程で、アダムの家庭、ノアの家庭、アブラハムの家庭、モーセの家庭、ザカリヤの家庭、イエス様の家庭などが現れ、第二イスラエル圏をつくるためにキリスト教を中心とした摂理歴史が現れたのです。ところが第一イスラエル圏から残された摂理歴史を再蕩減しようとすれば、その摂理史に現れた内容よりもよくなければなりません。
それゆえ第一イスラエル圏が成就できずに失敗したその基準を、霊的にだけでも勝利の基準としてつくるために、キリスト教は歴史を通して多くの犠牲の代価を払ってきたのです。ここには個人が動員され、家庭が動員され、氏族が動員され、民族が動員され、国家と世界が動員されたのです。
ローマ帝国はその当時、全世界を指導できるいかなる国よりも強い勢力をもった国家でした。そのようなローマ帝国に支配を受けたイスラエル、植民地のようなイスラエル圏においてキリスト教が出発し、ローマに対して戦っていくのですが、ローマは個人的に見ても世界的であり、家庭的な面においても世界的であり、民族的な面、国家的な面、すべての面から見ても世界的な権威を備えたただ一つの国家でした。
そのようなローマに対して、国もなく、一族もなく、氏族もなく、家庭もない状態で、キリスト教が分立した個々人の生命を導き、個々人が一身を投ずる犠牲の代価を払い、四百年間闘争してローマを負かしたのです。その期間にキリスト教徒が払った蕩減的な犠牲というのは、歴史上に類を見ない悲惨な事実として残っていることを私たちは知っています。そのような歴史過程を経て国家的な土台を築いたキリスト教は、その基盤の上で初めて希望の光を見いだすようになり、世界的な発展の土台を整えてきたのです。
キリスト教はローマ帝国に一つの基盤を築きましたが、ローマの一国家と国民だけを中心としては、摂理の全体を成し遂げられないので、それを基盤として世界へ伸びていきながら、個人的に迫害を受け、家庭的に迫害を受け、国家的に迫害を受けました。これはキリスト教がつづってきた悲惨な運命であると同時に、悲惨な歴史であることを私たちはよく知っています。

Thursday Nov 14, 2024
イエス様の生涯と愛 第82話
Thursday Nov 14, 2024
Thursday Nov 14, 2024
イエス様は殺されました。イスラエル民族から追放されました。寄る辺がありませんでした。それでイエス様が死んだのです。そうなったので、やむを得ずどこへ行くのでしょうか。神様のみ旨が、本来祝福を受けるべき所で失敗した場合には、怨讐の世界に移されるのです。それが公式です。サタンがもっていったということです。ですからサタン世界に入らなければならないのです。そうではありませんか。失敗したらサタンに渡るのです。ですからこれを取り戻すためには、怨讐の国に入っていかなければならないのです。そうして戦って勝利して、怨讐がもっていったものを取り返さなければなりません。そのような勝利者になれば、世界を支配するということなのです。
言ってみれば、その時に、イエス様を中心として失ったものを取り返すことができたなら、世界へ行くのです。国家的基準でアジアや中東を動かせるように、世界的基準を手に入れることができるのです。それゆえキリスト教は、本来アジア諸国と共に統一的世界観を形成しなければならなかったにもかかわらず、イエス様が死ぬことによって、本来祝福したすべてのものをサタンに渡してしまったので、やむを得ずローマの懐に入っていかざるを得なかったのです。それがキリスト教の悲惨な運命なのです。
ところがキリスト教というのは、霊的基盤を中心としたものです。イエス様の体が侵犯を受けたので、霊的基準で復活したその復活基準を中心としてキリスト教は出発し、ローマ帝国に行って四百年間戦ったのです。そうして霊的にキリスト教文明をつくり上げたのです。
それでは、キリスト教がすべきこととは何でしょうか。個人的な蕩減と家庭的な蕩減と氏族的な蕩減と民族的な蕩減を、霊的にでも再びしなければなりません。このような問題が起きるのです。
ですからキリスト教全体がローマに入って、個人的に犠牲になり、家庭的に犠牲になり、氏族的に、民族的に犠牲になるそのような供え物の過程を通過しました。イスラエル民族は個人的にヤコブが勝利し、あるいは氏族的にモーセが勝利しましたが、キリスト教徒は、そのような実力以上の実力をもって怨讐に屈せず、自己の生命を捧げ最後まで主体的思想を引っ張っていったのです。そのようにしてローマ帝国をひっくり返したのです。
四千年の歴史を四百年で蕩減したのです。あらゆる犠牲に遭いながら、打たれれば打たれるほど福を奪ってきたのです。四千年の福を引き継いだのです。このようにして、天の側において福を受けられる蕩減条件が立てられたその時から、初めてローマを屈服させ一つのキリスト教中心国家を形成したのです。
その時のキリスト教徒は知りませんでしたが、イエス様が死なずに成し遂げるべきだった福をサタンがもっていったのです。ローマが奪っていった立場にあったのです。それゆえ、それを取り返すためには、それだけの代価を払わなければならなかったのです。そうせずしては、天の側に取り返してこれないことは当然なことです。
キリスト教の思想は、どこにあるのでしょうか。ローマ帝国から戦ってきたその思想、すべての使徒たちが立てたその思想を受け継いで世界的な伝統に移し、一元化されたキリスト教文化圏を形成しなければならないのです。そうすることによって、それからはローマ民族、イタリア民族が、初めて神様のみ旨の前で世界を支配し得る中心民族になるのです。神様はイスラエル民族に世界を任せて失敗したので、イタリア民族を中心として世界を制覇しようとされたのです。

Thursday Nov 14, 2024
イエス様の生涯と愛 第81話
Thursday Nov 14, 2024
Thursday Nov 14, 2024
西に広がったキリスト教
神様の摂理歴史を聖書の歴史を通して伝播してきたものが中心的な教理であるならば、その教理においてこれを未来のものとして残さなければならない一つの最後の言葉が残っていなければならないのです。
イエス様が来て、国家的な基準で一度も勝利できなかったので、国家的基準で勝利できる愛的防衛をしなければならないのです。ユダヤ教を四千年間準備してイエス様を送るとき、ローマ帝国の迫害を受けていた歴史時代に、イエス様を中心としてユダヤ教が協助していたならば・・・・・。中東地方は、本来イスラエル民族の十二部族に割り当てられた祝福された地でしょう?その時に、イエス様をユダヤ教が支持していたならば、中東は一つになっていたのです。
中東が完全に一つになっていれば、中東以外のインドや中国———インドと中国は宗教文化圏です———がそこに吸収されていたでしょう。イエス様が神様の愛の道理をもって来たでしょう?今日、統一教会が現れ、繰り広げていくそれ以上の版図をもって、インドの仏教文化圏を吸収し、中国の儒教文化圏を吸収したでしょう。吸収して余りあるというのです。そうなっていたら、ローマは自動的に屈服したのです。そうしてローマに、西の方に行くのではなく大陸に、東の方に進出して・・・・・・。地球星の中心は大陸ではないですか。大陸を理想的舞台にしようとしたのです。
ローマに入ったキリスト教
本来の神様の計画によれば、キリスト教は東洋に来なければなりませんでした。そのようなキリスト教は、アラブ圏やイスラエル民族がみな反対することによって道がふさがってしまい、またローマ帝国の直接の指揮下にあったので、ローマ帝国に対して勝利しなければならなくなりました。また戦っていかなければならなかったのです。世界のカインと戦って勝たなければならなかったのです。
それですべて冷遇を受けながら、信義の人、心情の人、理想の人になって、下部階級からカタコンベ(ローマの初期キリスト教徒の共同墓地)に入って、一番下から上がってくるのです。上がってきてローマ帝国を消化したのです。そこで初めて、ローマ帝国がキリスト教を歓迎することにより、全世界はローマの指揮下に入ってしまいました。
そのようなことは、イエス様が死なずに果たすべきことだったのですが、死んで果たしたのです。イエス様が死なずに果たしていたら、天下が統一されていたはずなのに、イエス様が死んで果たしたので、霊的キリスト教文化圏世界としてローマに入り、霊的に世界制覇時代に入ったのです。これが中世時代、法王を中心として全世界をローマが統治した時代なのです。カイン王とアベル王が交替していれば、世界がすべて天の側になるはずだったのです。

Thursday Nov 14, 2024
イエス様の生涯と愛 第80話
Thursday Nov 14, 2024
Thursday Nov 14, 2024
キリスト教の受難の歴史
万物を犠牲にしたのは、子女を生かすためでした。子女が生きれば母も生きるので、万物を犠牲にしてきたのです。そこにメシヤが来たのですが、国家を中心として家庭の基盤を築けませんでした。それで子女が、その供え物になったのです。イエス様が供え物として逝ってしまったのです。家庭がなかったのです。家庭がサタンの力によって二つに分かれてしまったのです。そのような嘆きの歴史が、キリスト教の受難の歴史、迫害の歴史なのです。
ローマの兵士によって、家庭が共に氏族が共に滅亡したのです。ローマのカタコンベという所に行ったことがありますか。七代以上の先祖たちの死体がすべて腐って水になり、それが流れるような所を歩きながら、四百年を耐え抜いた偉大な基地として有名です。その後、誰もキリスト教自体を反対しませんでした。考えてみてください。ローマの広場でライオンの餌食になったりもしました。そのような悲惨な歴史を忘れてはいけません。それは、すべてエバのせいなのです。
イエス様が四千年の歴史と万民に代わって、神様が喜んで受け取ることのできる生きた供え物、汚れのないものとして捧げられたように、皆さんもイエス様に汚れのない供え物として棒げられなければならないでしょう。
そして皆さんの生活と生涯において、人倫と天倫の道理を果たさなければならず、み旨を成し遂げるためにこの地に来たキリストの代わりに、天の痛みを代わりに感じることができ、イエス様が感じた天的な愛の心情を体恤しながら、準備された教団から排斥され哀れで貧しい人を訪ねていかなければならなかった、イエス様の事情を分かってあげる新婦にならなければなりません。皆さんがそのような人になるならば、神様の怨恨を解き得ると同時に、人間を救うために来られたイエス・キリストの怨恨を初めて解き得るのです。
愛のイエス様は、この地に悖逆と裏切りの民を訪ねてこられ、自分の理想を話し合わなければなりませんでした。それゆえ裏切った先祖たちをもつ私たちは、天を裏切ってきた路程をさかのぼって、「お父様のみ旨はこういうものではないでしょうか。この身をお受けくださいませ!」と言えなければなりません。
神様は、このように歴史を代表して乗り出し得る汚れのない供え物、どこの誰も触ることもなく見ることもなかった汚れのない供え物として、捧げられる人を探していらっしゃることを知らなければなりません。
皆さんが精神を尽くすにしても、現在、皆さんの精神はサタン世界に容認された精神であり、心を尽くすにしても、サタンとささやいた心であり、思いもまた同じです(「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」マタイ二二・37、参照)。したがって「終わりの日」に処した皆さんは、必ずサタン的な精神と心を変化させなければなりません。人生観と宇宙観も変えなければなりません。それは今まで考えていた信仰観をもっては、サタンに勝つことができず、サタンの讒訴条件に引っ掛かっている舞台を通過できないからです。
イエス様が汚れのない供え物として十字架に亡くなったことは、最初で最後であり、これはイエス様が御自身の精神と心と思いを、この地の人々に紹介してくださったことなのです。
イエス様は歴史を代表し、万物に代わり、神様が貴く御覧になることができ、神様が真実であると言うことができ、神様が喜び愛することのできる方でした。
サタンの讒訴を受けられない、サタンの所有にならない精神を、イエス様から感じる時があるでしょう。そのような精神を感じたとするなら、イエス様の天的な人格を推し量ることができるでしょう。またそのような心を感じたとするなら、イエス様の内的事情を感じることでしよう。イエス様の人格と内的事情を推し量る人がいるならば、神様はその人に働くことができるのです。
このように探し求めなければならない驚くべき歴史的な宇宙の焦点、越えなければならない宇宙的な関門があるということを人々は知らずにいます。したがって、汚れのないものとして捧げられることを望むイエス様の願いが残っているのですが、今や私たちキリスト教徒はその願いをどのようにして見つけ、成し遂げられるかということが問題になります。
今日、皆さんがこの願いを見つけようとするなら、皆さんの過去の足りなさを悟らなければならず、その足りなさを神様に心から悔い改めなければなりません。悔い改めるとしても、涙を流さなければならないだろうし、三十年余りの生涯に流したイエス様の涙に代わることができる心がなければなりません。
またイエス様が三十年余りの生涯に、寝ても覚めても、食べる物がなくても一途な心でその一つの志を立てるために、あらん限りの力を尽くしたその精神を見習わなければならず、死の道を行かなければならなかったイエス様の悲惨な心情を感じなければならないのです。
イエス様は地上の不信する人間のために、悔い改めの涙を流される生活をされ、それで終わるのではなくあの国に行っても涙を流していらっしゃるという事実を知らなければなりません。このようなイエス様の内的心情に通じることができ、内的な天性の理念が分かり、内的なイエス様の生活的な姿を知り、涙を流して天地を満たしても足りないその足りなさを感じなければなりません。それだけではなく、涙ぐみ骨肉が溶けるような耐え難い心情を受け継いで、精神を通じ、心と思いを通じたイエス様のすべての愛と人格を私を通じて表現できるようになるとき、そこから天的な因縁を中心としてイエス様と一つになることができるのです。
そのような心情を感じる皆さんであるならば、死の淵から自分を救ってくださったイエス様に感謝の気持ちを感じることでしょう。そしてその感謝の気持ちを皆さんの心と体に満たし、全天地を満たしても足りない、その足りなさを感じるようになるのです。
それではイエス様は、どれほどの悲しみを感じたのでしょうか。イエス様は神様がアダムとエバを失うときに感じられた、天地の崩れるようなその悲しみを解いてさしあげるために、人間を取り戻そうとなさる神様のみ旨に代わって来られたのです。しかし自分を送られたそのみ旨を成し遂げてあげられなくなったとき、神様がアダムとエバを失った時に感じられたその悲しみを感じられたのです。
今日、歴史的な怨恨を解くべき私たちは、神様を失っても悲しむことを知らない人間となり、新郎であるイエス様を失っても悲しむことを知らない人間になってしまいました。また自分には、神様の悲しみを慰めてあげるべき責任があるということも知らない人間になりました。皆さんも、そのような立場にとどまっているならば、神様の摂理の前に立ち上がっていくら父を呼んだとしても、神様は現れないのです。
ですからイエス様が語ってくださったみ言は、無駄ではないということを知らなければなりません。イエス様が真心から神様に向かって、「わが父よ」と言われたように、心を尽くし思いを尽くし精神を尽くす人がいるとするならば、天地が感動するでしょう。

Thursday Nov 14, 2024
イエス様の生涯と愛 第79話
Thursday Nov 14, 2024
Thursday Nov 14, 2024
怨讐までも愛する愛の宗教
この地上に、神様が最も愛することのできる人とは誰でしょうか。イエス・キリストです。そのような意味で、イエス様はメシヤになったのです。それでユダヤの国における方向を提示して現れました。イエス様の哲学とは何でしょうか。ローマとイスラエルが、圧迫国家と被圧迫国家、支配国家と被支配国家というこの二国家間には、高い怨讐の壁があるのを知ったのです。世界で最も高い壁なのです。ローマとイスラエルの間の壁が、その時代において占領国家間の壁としては、最も高い壁だったのです。
イエス様はどのようにしたかというと、「お前は力で私を征服するが、私は反対にお前を愛で征服する」という表題を掲げて現れたのです。十字架で亡くなるときローマ兵に対して、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ二三・34)と祈られました。これは驚くべき歴史的事実です。そのことによって、この世の人が嫌う、怨讐視するそのような国境を越えることのできる、一つの本郷の根拠地を追求していた事実を私たちは知らなければなりません。
怨讐は個人的怨讐があると同時に、家庭的怨讐があります。イエス様はどのように考えたのでしょうか。個人的怨讐があるのです。世界の人をみな、そのように見るでしょう。個人的怨讐があり、家庭的怨讐があり、氏族的怨讐があり、民族的怨讐があり、国家的怨讐があり、世界的怨讐があり、数多くの怨讐が四方に絡まっているのです。それはどういうことかというと、私に従い私の主張に従っていく人の中には、個人的怨讐の前に犠牲になる人もいるだろうということです。
家庭的怨讐の前に犠牲になり、氏族的怨讐の前に犠牲になり、民族的怨讐の前に犠牲になり......。このような戦いで犠牲になることがあるが、「怨讐(敵)を愛せよ」というタイトルによって、いつかは勝利できるその日が来るだろうし、その結果の日を待ち焦がれざるを得ないのです。もしこの世の国、サタンの方向と同じく、神様が復讐して恨みを晴らすとしたら、この世はすべてなくなってしまうのです。
キリスト教を中心とした神様の祖国光復は、どこから始まるのでしょうか。このような思想をもった個人から出発するのは、当然のことです。愛で抱き、国境を取り崩し、すべての環境と文化を越えて消化していきながら、怨讐までも愛し得る運動を提示してきた宗教が、キリスト教だったのです。それゆえキリスト教は、神様がいる限り世界的な宗教にならざるを得ないのです。
大豆を植えれば大豆が生え、小豆を植えれば小豆が生え、赤い花の種を植えれば赤い花が咲くように、悪なる怨讐、恨みを晴らす種を蒔いて、悪魔サタンの種が繁殖したのですが、怨讐を愛する種を蒔けば、それが怨讐を愛する木として繁殖するのです。それが自然の道理です。
今日のキリスト教について言えば、キリスト教の数多くの教派はなぜ生じたのでしょうか。キリスト教の中に教派ができたという事実は、「怨讐を愛せよ」というキリスト教の教理とは異なるのです。キリスト教の教理は「怨讐を愛せよ」です。自分の教会内では愛しているかもしれませんが、キリスト教徒同士が戦っているのです。「あなたの兄弟姉妹を愛せよ」と言いました。キリスト教の兄弟とは、キリスト教です。長老派教会、メソジスト教会、ホーリネス教会、すべて兄弟です。
真なる伝統的主流思想に立っているキリスト教はどこなのでしょうか。怨讐を愛する教団になり、怨讐の国を取り戻すために怨讐を助けてあげ、再度生かしてあげようとするそのような教団が真なる教会なのです。そのような教団が、未来に神様の真なる個人と家庭から氏族、民族、国家、世界の版図を受け継ぐことのできる教団だということは、この上なく妥当な結論です。キリスト教が一つにならない限り、世界は一つになれません。数多くの国が一つになるということは、夢にも考えられないのです。

Wednesday Nov 13, 2024
イエス様の生涯と愛 第78話
Wednesday Nov 13, 2024
Wednesday Nov 13, 2024
パウロを中心とした新たな神様の摂理
パウロは復活されたイエス様に出会い、天の使命を受けました。そうして裏切った使徒ではなく、裏切らなかった生きた使徒の立場で異邦の国であるローマに行き、迫害を受けながら福音を伝えました。
パウロが十二弟子の殉教に代わり、洗礼ヨハネの死に代わって主を探し出したので、地上においては摂理的な軌道が異邦の国に移されました。こうしてパウロは、ローマ帝国に入り、独りで追われるようになります。宗教的に歓迎されない立場に置かれるようになったのです。
しかしパウロは、イエス様が定められた摂理のみ旨一つを抱いて人類の十字架であるゴルゴタの道を行かれたように、ローマのいかなる迫害の矢にも屈せずに貫いて進みました。天のみ旨のためには、死も意に介さずに進んでいく姿がイエス様の姿を彷彿させたのです。
そうしてパウロを中心としてキリスト教は動き、一つの家庭型を経て、部族型、民族、国家、世界型と経てきました。イエス様がゴルゴタの道を行ったように、パウロは天の使命を担い、十二弟子の代わりにサタン世界に対して死のゴルゴタの道を自ら進んで乗り出したのです。そうして、ローマのネロ皇帝時代の激しい迫害と虐殺の過程を経てきたということを知らなければなりません。
また個人的なパウロの犠牲が、その時の部族、または十二弟子のような人たち、イスラエルのような群れを起こすことになりました。そうして個人から全体が一つに団結して、死の立場を越えて戦ったので、ローマの国を奪うことができたのです。そうして約四世紀を過ごす間、キリスト教は繁栄しました。中世封建社会時代においてローマ法王庁を中心として、キリスト教は全盛時代を遂げるようになったのです。そうして全世界をキリスト教徒が支配してきたのです。
これはイエス様が血を流す十字架上において、強盗が友となったように、世界的に打たれるゴルゴタの路程を経ていくその時において、裏切ったユダヤ民族の友ではない一つの群れ、一つの国家が現れるというのです。そのような群れ、そのような国家が現れなければならないということは、歴史的な摂理観に照らして見れば妥当なことなのです。
キリスト教を立てた神様のみ旨
今までの歴史過程について見ると、東洋は精神文明を中心とした道を求めてきたのであり、西洋は物質文明を中心とした道を求めてきました。しかし歴史は、このように相いれない両面の方向に発展していくばかりではありません。神様は西欧文明をアジアの東洋文明に接するようにされ、新しい宗教理念に連結できるその時を求めてこられるのです。神様がいるならば、間違いなくそのようになさるでしょう。
キリスト教思想は、万民を中心として自分たち自らを鼓舞させながら、今まで発展してきたのです。今まで悪なるサタン世界において、キリスト教の歴史がつくられてきた過程を見ると、キリスト教は烈士たちが血を流した殉教の因縁を経ながら土台を固めてきたのです。社会の前で批判や非難を受けながらも反抗もせず、死の代価を払いながら発展してきたのです。もちろんキリスト教以外の宗教もありますが、歴史の全体的な流れの中で、そのような宗教というのはキリスト教だけであるという事実を私たちは知っています。
このように追われ迫害を受け蔑視されたキリスト教が、今日では名実共に世界的な宗教として民主世界を動かす思想的な後ろ盾になったという事実を考えてみたときに、これはキリスト教それ自体の力だけで成し遂げられたのではありません。死の峠を踏み越えることができたその力の母体は、キリスト教自体の力というよりも、背後にいらっしゃる神様の力なのです。その神様の力によって、キリスト教が世界的に発展してきたのです。それならばそのキリスト教は、今後どうなるのでしょうか。それが問題なのです。
神様がキリスト教を立てたとするならば、その目的は新しい国を探し出すためであり、新しい世界を形成するためでしょう。言い換えれば、神様は今までこの地上になかった善を代弁することができ、善の立場を擁護することができ、善の環境を守ってあげることができ、善の主権を行使できる善の祖国ができることを願ったのであり、勝利の時が成就されることを願ったのです。
このような事実を私たちは否定できません。それゆえキリスト教思想は、必ず終末の時代が来るということを予告しているのです。終末になればキリスト教の全盛時代になり、新たな世界をつくると言っています。そしてその時は、悪の勢力を中心としてキリスト教を反対した国は滅びると、端的に結論づけているのです。

Wednesday Nov 13, 2024
イエス様の生涯と愛 第77話
Wednesday Nov 13, 2024
Wednesday Nov 13, 2024
聖霊を恋い慕うべき今日
今、私たちが恋い慕うべき一つのことが残されているのですが、それは何でしょうか。私たちは、地のために代わりに仕事をしている聖霊を恋い慕わなければなりません。これを知らなければなりません。今まで数多くの人々がイエス様を二千年間霊的に恋い慕ってきましたが、今は聖霊も恋い慕わなければならないのです。そうしなければならない聖徒であり、私たち人類であるということを考えなければなりません。このように聖霊を恋い慕うべき時代が来たのであり、新婦の体を完成すべき時が来たのです。
聖霊は新婦の神なので、新婦の姿を備え、新婦の形体を成して、私たちは恋い慕うことができなければなりません。このようになれば、イエス・キリストは霊界に行って休むことができるのです。そして天地に一つの中心を立てて、再び私たちがこの地を中心として探し求めていくのです。
心から霊界を恋い慕った私たちは、今や私たち自身に役事なさる聖霊を恋い慕わなければなりません。それで私たちは、霊的な象徴であるイエス様を恋い慕い、肉的な象徴である聖霊を恋い慕い、私たち一個体において霊的なイエス様を恋い慕う心と肉的な聖霊を恋い慕う体が一つになることによって、初めて天の中心と地の中心が、私の一つの心と体で合わさり得るのです。そうなることによって、イエス様も私の代わりに立つことができ、聖霊も私の代わりに立つことができ、私はその真ん中でイエス様と聖霊のみ旨に代わって万民を代表して現れ得るのです。これを知らなければなりません。
それならば、今やこの地上に来るべき主は、どのようなみ旨をもって来られるのでしょうか。イエス様と聖霊のその中心を、皆さん自体につくり上げなければなりません。生きた肉体をもっている皆さんが、霊界を象徴し、肉界を象徴したイエス様と聖霊を見習い、霊肉を合わせた一つの実体の中心体として完成しなければなりません。そうでなければ、神様の全体創造の理念が、皆さん一人において完結されないのです。このような一つの中心の使命が、イエス様と聖霊の使命なのです。この一つの中心をつくるために、イエス・キリストは再臨されるのです。
二、イエス様復活後のキリスト教
キリスト教の使命
イエス様を中心として、その十二弟子と七十門徒が完全に一つになれば、歴史過程で失敗したその時代ごとに蕩減できなかったすべての男性たちの失敗が蕩減されるのです。
それゆえイエス様は、彼らと完全に一つになって、歴史的な失敗を収拾できる実体圏を横的につくらなければなりません。完全に金城鉄壁のような垣根をつくって、サタンが攻撃しようにも攻撃できない一人の男性としての勝利的基盤を決定づけなければならないのです。その垣根の使命を果たすべき人が、十二弟子であり、七十門徒なのです。
このような土台、すなわちこのような背景の上に強固に立ち、女性を求めて母の基準をつくらなければならないのです。そのためには、歴史路程で戦ってきたように一大決戦を通過しなければならなかったのです。そうせざるを得ない内的な事情がイエス様にはあったという事実を、その時代の十二弟子や七十門徒は知らなかったのです。
ですからイエス様は、このような環境の土台を一度ももてませんでした。そのようにできる一人の相手も見つけられず、そのような内情を通告させ得る一人の弟子も見つけられないまま三十余年の生涯を送る中で、結局、十字架に釘付けにされて亡くなったのです。
そのようにして十字架で亡くなったイエス様であるがゆえに、恨があるとするならば誰よりも多い恨があるでしょう。神様は四千年間歴史をつづってきながら苦労した土台の上にイエス様を送られて、その時を迎えさせたにもかかわらず、神様が願われたすべての内容が根本的に破綻してしまいました。またイエス様は、神様が男性の歴史としてつづってきた四千年の歴史に、一つの勝利的な基盤を立てるために来たにもかかわらず、それを立てることができずに逝かなければなりませんでした。そのようなイエス様だったので、その事情はどれほど哀れなものだったのか知らなければなりません。
イエス様は自分一人が死ぬことは気にもかけませんでした。そのようなことよりも、自分一人が死ぬことによって、四千年という長い歳月の間、男性を通して役事してきた神様の摂理のすべてが水泡に帰すという事実を悲しまれたのです。自分が死ぬその悲しみよりも、神様の摂理が失敗に帰す悲しみのほうが大きいことを感じて、内情的に深く悲しまれたイエス様でした。そのようなイエス様の心情を知らなければなりません。
しかしイエス様は、「自分は死んだとしても、歴史的なすべての土台をもう一度収拾するのだ」という信念と決意と覚悟のもとで、十字架の道を堂々と突破したので、神様の心情と一致点をつくることができ、霊的に弟子たちを再び収拾することができたのです。
これによって第二の垣根をつくり、今日、男性を中心としたキリスト教の歴史を再編成することができたという事実を知らなければなりません。このようにして霊的な基準を中心として、今まで二千年間数多くの殉教の歴史を経ながら発展させてきたのが、キリスト教の歴史なのです。