Episodes

Thursday Oct 24, 2024
イエス様の生涯と愛 第60話
Thursday Oct 24, 2024
Thursday Oct 24, 2024
ゴルゴタの友となるべきだったペテロと十二弟子
イエス様が死ぬときに抱いたその悔しさとは、何だったのでしょうか。選ばれたユダヤ教がイエス様の胸を痛め、選ばれた民がイエス様を釘付けにしたのです。これが悔しく恨めしいことでした。このようなイエス様は、自分の悲しみが大きかったけれども、四千年間、血の涙の祭壇を築く過程を歩んでこられた神様の事情を考え、四千年間選んで育ててこられたユダヤの民であることを考えるとき、自分の死も忘れて彼らのために祈ることができたのです。
もしイエス様が手を挙げて祈れなかったならば、ユダヤの国が先に審判を受けたはずであり、ユダヤ教徒が先に審判を受けたはずです。死んでいく自分の足跡を追って越えてくることを願いながら、恵みを与えて逝かれたイエス様であることを知らなければなりません。
イエス様の血と肉と共に動くべき群れが正にユダヤ教徒であり、ユダヤの民でなければならなかったのですが、それができませんでした。ゴルゴタの友にペテロがなり、十二弟子がなっていたら、天の恨はなかったはずです。そうなっていたなら、イエス様は死ななかったはずです。
もし十二弟子が団結して、イエス様の死に対して共に死のうと思っていたなら、奇跡が起きていたことでしょう。そうなっていれば、イエス様は死ななかったのです。
ところが三十三年間、選ばれた民族を見つめて悲しまれたイエス様、三年の公生涯の期間に、この地の人類のために泣かれたイエス様、そのイエス様に希望をかけた民族はどこへ行ったのでしょうか。期待していた教会は、どこへ行ったのでしょうか。三年の公生涯の期間に、喜怒哀楽を共にしながら従っていた弟子たちは、どこへ行ったのでしょうか。彼らは自分たちがうれしく楽しいときには、「私はイエス様の友であり、イエス様の弟子である」と言いました。誰よりもイエス様の立場に立とうとしました。しかし最後に至っては、イエス様の行く道とは何ら関係のない立場に立ったのです。
だとすれば、イエス様の恵みは誰が受けたのでしょうか。付き従っていた十二弟子でもなく、天を信じていたユダヤ教徒でもなく、祝福され選び立てられたイスラエルの民でもありませんでした。十字架上で共に血を流しながら死んでいった右の強盗が歴史的な祝福を受けて、一番弟子よりも先に楽園に臨みました。
この事実が悲劇中の悲劇なのです。もし殺人強盗のうち一人でも、イエス様の死の日に共にしなかったとすれば、救いの摂理は挫折していたのです。殺人強盗の流れた血が、イエス様の心情に代わって、地上に福地、楽園を建設する条件を天運とともに立てることができたので、イエス様は復活して地上に再び現れ、不信した民に接することができたのです。
そしてイエス様一人を死の場において新郎として迎えた人がいたので、その基台によって善の実が必ず地上に現れることでしょう。イエス様の代わりに現れるのです。
サタンの勢力がいくら強くても、善を打つにおいて、その善の種の中身まで打ってなくしてしまうことはできないことを知らなければなりません。善のための犠牲と死の立場に立つだけではなく、その善をつかんで倒れる忠節の人がいるとするならば、倒れたその一人によって、何倍にも善が繁殖していくということを知らなければなりません。これが鉄則です。
その当時、反対した人々は、イエス様を十字架で処刑すれば滅びるものと思っていました。イエス様に従う群れが一人もいなかったので、サタン圏では、すべて奪ったものと思ったのです。ところが死んだ右の強盗を条件として、復活の役事を起こしたことを、今日のキリスト教徒は知らずにいます。

Thursday Oct 24, 2024
イエス様の生涯と愛 第59話
Thursday Oct 24, 2024
Thursday Oct 24, 2024
十字架で亡くなったその立場は、すべてを失った立場
それならば、いつ十字架で亡くなることを決定したのでしょうか。ルカによる福音書第九章30節には、「すると見よ、ふたりの人がイエスと語り合っていた。それはモーセとエリヤであったが、栄光の中に現れて、イエスがエルサレムで遂げようとする最後のことについて話していたのである」とあります。変貌山上で決定したのです。
なぜならユダヤ教が反対し、イスラエルの国があのようになり、洗礼ヨハネまでみな反対する立場に立ったので、もはやみ旨を成し遂げる土台はすべて崩れてしまったのです。それゆえ、神様もやむを得ず二次的摂理を中心として、霊と肉を中心に地上天国と天上天国を完成しようとするみ旨を捨てて、肉的世界は切って霊的救いの世界のみを立てるために十字架の道を与えたのです。もし彼が十字架で亡くならなければ、(霊肉)両面共に失ってしまうのです。やむを得ず一つの分野でも残すために、イエス様を十字架に渡さざるを得なかったということを皆さんは知らなければなりません。
もし洗礼ヨハネとユダヤ教徒とイスラエル民族がイエス様を信じていたら、どうなったでしようか。イスラエル民族は、イエス様と一つになって団結していたでしょう。そうなっていたら、そのときにアラブ圏までイエス様と一つになるのです。そうしてローマに対抗し、四十年以内にローマを天の側にすべて引っ張り込んだのです。死んだイエス様が、四百年でローマを征服したのですから、生きたイエス様を中心とすれば、四十年以内に天の国の憲法を宣布するのです。
そうなれば、今日のプロテスタントとかカトリックとかはないのです。すべてイスラエル民族の立場としてみ旨が成就していくのです。そのようになっていれば、イスラエル民族はあのように中東で悲惨に滅びなかったはずであり、キリスト教徒たちが悲惨に血を流さなかったという結果になっていただろうと思います。王権を統一して、キリスト教が世界を動かせるようになるのに、誰が捕まえて殺すでしょうか。
そのようになっていれば、世界は既にイエス様の意のままに天の国ができていたのです。世界は一つになっていたのです。主が再び来る必要もないのです。何をしに来るのですか。キリスト教はこのことを知らなければなりません。
それゆえイエス様が十字架で亡くなったその立場は、神様とイエス様がすべてを失った立場であることを私たちは知らなければなりません。十字架は神様の勝利ではなく、悪魔サタンの勝利なのです。神様の息子を捕らえて釘付けにした立場なのです。
それゆえ十字架でイスラエルの国を失い、ユダヤ教徒を失い、世界の歴史を失い、使徒たちをみな失ったのであり、最後には右の強盗までも死んでいなくなったのです。そこにはキリスト教がありません。キリスト教の出発はないのです。すべてを失ってしまったのです。

Thursday Oct 17, 2024
イエス様の生涯と愛 第58話
Thursday Oct 17, 2024
Thursday Oct 17, 2024
イエス様の十字架は第二次の摂理
イスラエル民族の前にメシヤが来た目的は、サタン圏をたたきつぶして人類を神様の前に取り戻すことでした。それにもかかわらず、サタン主権と人類をそのまま残して十字架の道に行くイエス様は、ゲッセマネの園で血のにじむ闘争の祈祷を捧げざるを得なかったという事実を皆さんは知らなければなりません。
イエス様は自分の意思で十字架に行く場合には、四千年間準備したイスラエルの国が滅び、ユダヤ教徒が滅び、洗礼ヨハネや彼の使徒たちが天に負債を負うことをよく知っていたので、談判祈祷をせざるを得なかったという事実を知らなければなりません。
イエス様は肉と霊を中心として、霊的世界はもちろんのこと実体世界でも、神様の王権を回復するために来られました。ところがイスラエルの国の土台がなくなり、ユダヤ教の土台がなくなって、イエス様一人ではできないので、十字架で死んででも第二次の希望の道を開拓せざるを得なかったのです。国が反対し、教会が反対して、十字架に行く道しかなかったので、神様もやむを得ずひとり子を十字架に差し出さざるを得なかったのです。
その四千年の基盤の上に送ったメシヤが十字架で亡くなったことは、神様の絶対予定の中で死んだのではありません。サタンに引きずられていき、十字架で亡くなったのです。十字架はすべてを失った立場であることを知らなければなりません。国を失い、教会も失い、洗礼ヨハネも失った立場です。そこは十二使徒もみな裏切った立場であり、その後、右の強盗までも死んでいった立場であることを知らなければなりません。誰一人としてイエス様の味方に立った人や、天の側に立った人がいない、すべてを失ってしまった立場だったことを知らなければなりません。
民族と教団を失ったイエス様には、これを再び収拾すべき二次的な路程が残っていました。その二次的な路程を行くためには、神様が四千年間苦労された内的な因縁と、教団と民族に残った外的な因縁を決定しなければなりませんでした。このような使命がイエス様にあるにもかかわらず、彼の弟子たちはそのことを全く知りませんでした。その無知な者たちに何が分かるでしょうか。イエス様が、「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない」(ヨハネ一六・12)と語られるとは、どれほどもどかしかったことでしょうか。これは、どれほど物悲しい言葉でしょうか。
イエス様の行く道は、民族の前に追われる道であり、苦難の道であり、迫害の道であり、イスラエル民族を再創建する道でした。神様がイスラエルの国を立て、ユダヤ教団を立てるために四千年間苦労されたその苦労を、短期間のうちに条件だけでも備えて蕩減すべき責任が残っていたにもかかわらず、栄光ばかりを望む弟子たちしかいなかったのです。
ですからイエス様は、やむを得ず一人で天と地と歴史的な因縁に責任を負い、十字架の前に向かったのです。その地上に立てた民族が責任を果たせなかったこと、立てた弟子たちが責任を果たせなかったことを代わりに責任を負おうと踏み出した歩みが、ゲッセマネの園からゴルゴタの山頂までの歩みであるということを、私たちは知らなければなりません。
十字架にかけられていたイエス様の悲しみが、どれほど大きかったかを考えなければなりません。イエス様が亡くなる直前に、全地に暗闇が臨みました。イエス様が十字架にかかって、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ二七・46)と言われました。神様に捨てられたのです。どれほど悲惨でしょうか。
四千年間それほどまでに摂理を率いてこられながら、天の国がこの地に立てられることを待ち焦がれて送ったメシヤが亡くなるその時間は、神様までも十字架から顔を背けなければならなかったのです。神様の王子として来たイエス様が、どうして「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という、悲運の言葉を残さなければならなかったのでしょうか。これは人類歴史の汚点です。歴史的汚点なのです。
今日、世界中に散らばる数多くのクリスチャンたちが行くべき道とは、どのような道でしょうか。イエス様がゴルゴタの山頂で残された恨を清算するために、涙と血と汗を流さなければならないのです。イエス様が十字架を背負ってゴルゴタの山頂に登るとき、その後ろをついてきた女性たちが涙を流すのを見て、「わたしのために泣くな。むしろ、あなたがた自身のため、また自分の子供たちのために泣くがよい」と言われました。
もっともな言葉です。「私の涙は人類に残る。私が行く十字架の道は、これで終わるわけではなく、歴史的な十字架の道になる」ということを予告なさったのです。「私が個人的に行くならば、私の責任は終わるが、私が行ったのちにあなたたちの責任は残るのだ」というのです。したがって個人的な責任、家庭的な責任、氏族的な責任、民族的な責任、国家的な責任、世界的な責任、天宙的な責任が残っているので、その責任を果たすためには今後、数多くのキリスト教徒たちが涙の道、十字架の道を行かなければならないというのです。
そのような大変な十字架を背負って行くイエス様は、歴史を探り、世界を探り、あるいは過去を悔い改め、時代を批判しながら、審判の一基点を残さなければならない悔しい立場にあっても、苦労なさる神様をこの地に迎え得る一つの土台を準備するために、厳粛に黙々とゴルゴタの山頂まで行ったことを知らなければなりません。
イエス様が十字架上で、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と言ったその言葉は、自分個人だけを中心として言ったものではなく、この上なく大きな使命を帯びて来たメシヤとして言った言葉なのです。「私は捨てられても構いません。しかし私と共にした数多くの人は捨てないでください」ということなのです。ペテロを捨てず、洗礼ヨハネを捨てず、十二弟子を捨てず、イスラエルの国を捨てず、今後やって来る数多くのキリスト教徒を捨てないでほしいとお願いした言葉なのです。これがイエス様の歴史的な最期の一言だったのです。

Thursday Oct 17, 2024
イエス様の生涯と愛 第57話
Thursday Oct 17, 2024
Thursday Oct 17, 2024
ゲッセマネの園での祈り
イエス様はユダヤの国を越え、ローマに行く道をはっきりと見つめられたのです。「もしユダヤ教がイスラエル民族と一つになったら、ローマは私の手に入ってくる」と思いながら、見つめられたのです。死んだイエス様は、四百年間かかってローマを征服しましたが、神様の息子として来られたイエス様が生きておられたとすれば、ローマが問題だったでしょうか。イスラエルを基盤として、ローマを征服することができたイエス様だったのです。これが私たちの原理であるがゆえに、そうならざるを得ないのです。
イエス様が二十歳になるころ、イスラエル民族はだんだんと疲弊していきました。ローマの圧政下に苦しんでいたのです。このように将来の希望がすべて遮られ、たそがれの道をたどっていくイスラエル民族を見つめるとき、イエス様は言うに言えない民族に対する愛に燃えました。イスラエルを前に、民族に対する愛ゆえに泣きながら、神様の前にどれほど訴えたことでしょうか。イスラエル民族は、そのようなことを知らなかったのです。ですからイエス様は、時がたてばたつほど、だんだんと焦りを感じるようになりました。
イスラエルの主権者が、イスラエルを統治して動かすべきであるという信仰をもったイエス様は、ユダヤ教を踏み越え、さらにはローマまでも踏み越えなければならないことを知っていました。イエス様は新しい人生観と新しい世界観、そして新しい理念を中心として、ローマを一度に片付けてしまうことができたのです。
四千年間、神様が苦労して準備されたイスラエルが、家庭と民族と教団が一つになれなかったので、イエス様の心の中にできた怨恨は大きかったのです。イエス様は自分の立ち得る土台がないことを嘆きました。
ユダヤ教は誰を待ち、探し求めなければならないのでしょうか。それは神様が送られた人ではないでしょうか。歴史的に数多くの先祖たちが、犠牲の供え物となって死の道を行きながら築いてきたその土台というのは、イスラエルを幸福の土台にするためのものではなかったのでしょうか。そのような民族がメシヤである自分のことを知らないのですから、それを見つめるイエス様の心情は、どれほど孤独で悔しかったかということを知らなければなりません。
イエス様は民族を愛する心が大きければ大きいほど、いらだちを感じる反面、神様がどれほど哀れな方かということを知ったのです。そのような立場でも神様を恨まず、神様を抱き締めて孝行の道理を果たそうとしたイエス様の切なる心情を知らず、四方八方どこにも彼を引き止めてくれる人はおらず、目の前に現れるものはすべて、かえって神様にとって悲しみとなるものばかりだったのです。
そのような悲しみを抱いて、神様を慰めてさしあげなければならないイエス様の事情は、どれほど不憫なものだったでしょうか!またユダヤ民族の前で追われるイエス様を見つめられる神様は、どれほど悲しまれたでしょうか!イエス様は、そのようなことを考えて痛哭せざるを得なかったのです。
イエス様はこの地に責任を負って、行くべき最後の運命の道が迫ってきたことを思い、ゲッセマネの園に行って神様の前に、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・39)という祈りを捧げました。この時のイエス様は、自分自身が生きるか死ぬかは問題ではありませんでした。自分が十字架の露となって犠牲になることが恨みになって神様に祈ったのではなく、神様が四千年間、イスラエル選民を探し立てるために苦労なさったことを思って祈られたのです。
苦労の道、苦難の道を歩みながら、長い間、イスラエルのために泣きながら、苦難の道を歩んでこられたその過程が、今や自分が死ねばすべてばらばらに崩れていってしまうことを知っていたイエス様は、神様が苦労された歴史的な悲しい事情を抱いて泣かれたことを知らなければなりません。
自分が死ねば、イスラエル民族が神様の前に逆賊になってしまうという事実を知っているイエス様は、死ぬ瞬間にもイスラエル民族を見つめられて、「父よ、彼らをおゆるしください」と祈られたのです。

Thursday Oct 17, 2024
イエス様の生涯と愛 第56話
Thursday Oct 17, 2024
Thursday Oct 17, 2024
第五章 十字架の苦難
一、十字架の贖罪と救いの限界
イエス様の死の原因
イエス様が亡くなったのは、何が原因だったのでしょうか。一番目はヨセフの家庭、二番目は洗礼ヨハネ、三番目は教会が誤ったからでした。これは悔しく無念なことに違いありません。
四千年の歴史を経ながら育ててきたイスラエル民族を信じて神様が息子を送ったのですが、その息子を殺しておきながら、「死ぬために来た」と言うのですか。彼らは、それしか知らないのです。
それならば神様は、何をするために、四千年間もイスラエル民族を中心として摂理をしてこられたのでしょうか。イエス様を殺そうとして摂理されたのでしょうか。生まれながら死んでもイエス様はイエス様であり、また神様の息子になるのに、何のために三十歳にもなってから、成人になってから、やかましく大騒ぎをして、追われて死ぬようにされたのでしょうか。
生まれて何もせず、そのまま死ぬようにしたらよいのに、赤ん坊の時では救い主にはなれないのでしょうか。これはいくらでも理解できることなのに、それを理解できずに信じている人たちがいるのですから、実に恥ずかしいことです。それでいながら、天国に行こうと言うのですか。
ここで語る先生は、それをすべて暴きました。イエス様が死ぬことになった一番の原因とは、どこにあったのでしょうか。ヨセフの家庭にありました。イエス様はこの地に、何を探し出すために来られたのでしょうか。家庭を探し出すために来られたのです。イスラエルの国は平穏な中にあったとしても、ヨセフの家庭だけはイエス様を中心として天の国を立てていかなければならなかったのです。そうしてこそ、イエス様が新郎として新婦を迎えることができたのです。
本来神様は、夫は天国に行き、妻は地獄に行くように創造されたのではありません。創造当時の理想の主人公たち、すなわち父と母と息子と娘が氏族を成し、民族を成し、国を成そうということでした。そうでなければならないでしょう?ところが人間が堕落したので、地獄ができてしまったのです。
このような天倫のみ旨に対してこられたイエス様は、神様が送られたみ旨を成し遂げ得る真の家庭をこの地でもつべきであって、霊界に行ってもつのではありません。
イエス様が十字架で亡くなるようになれば、数多くの弟子たちも十字架で血を流すようになっているのです。ですから天国とは、そのように血を流して死んだ弟子たちを抱いて入れる所ではありません。この地上で自分を信じて従う弟子たちに、血を流させて救うのが本来の救いの目的ではありませんでした。もとより、そのようなことをすべきだったイエス様ではなかったのです。
氏族から無視されたイエス様
もし教会がイエス様に従わなくても、教会の中心となる氏族が従えば、イエス様は死なないのです。道理がそうではないですか。教会が従わず国が従わなくても、イスラエルの国の中心であり、ユダヤ教の中心となるヨセフの氏族が従っていたならば、イエス様は死なないのです。
教会と国が責任を果たさなかったとしても、氏族圏内でイエス様の家庭的土台を準備していたならば、外的にはヨセフの家庭の一派を中心としたカイン一族が現れ、内的にはイエス様を中心とした新しい天の一族が誕生したはずではないでしょうか。
そうなっていれば、イエス様の相手である新婦も決定され、イエス様の願いである四位基台を築き得る息子、娘をもち、家庭での父の立場も決定されていたことでしょう。また、イエス様が年を取っておじいさんになれば、孫ももったでしょう。そうなればイエス様の一族ができたはずではないですか。
ユダヤ教が反対し、イスラエルの国が反対しても影響を受けないのです。これさえ一つになれば、イエス様が死んでもイスラエル教団の中心に立つようになるのです。また、教団の中心に立つのはもちろんのこと、イスラエルの国を収拾するようになるのです。そうなっていれば、今日、キリスト教に悲運の歴史はあり得ないという結論が出るのです。イエス様の前に十字架の道はあり得ないのです。
今日までの二千年の歴史はすべて、イエス様を殺したことに対する蕩減歴史です。蕩減路程を経ずしては、歴史を発展させることはできないのです。個人復帰、家庭復帰もみな、イエス様の所願成就がなされなかったからするのです。その基盤を世界的に開拓しなければなりません。イエス様の願いを成し遂げてさしあげるためには、必ず死の代価を払わなければなりません。イエス様の願いの基盤が霊的にだけ立てられたので、死の代価を払わなくては範囲を広めて世界の舞台まで行くことができないのです。

Thursday Oct 17, 2024
イエス様の生涯と愛 第55話
Thursday Oct 17, 2024
Thursday Oct 17, 2024
聖書を文字どおりに信じたユダヤ教徒
昔、ユダヤ教徒がイエス様のことをなぜ受け入れられなかったのかを、はっきりと知らなければなりません。そうであってこそ、私たちは今後、来られる主を迎え得る道を模索できるのです。
旧約聖書を見ると、主は雲に乗って来られるとあります。ダニエル書第七章13節を見ると、「人の子のような者が、天の雲に乗ってきて・・・・・」とあるので、その時の信仰者たちは、主が雲に乗って来られるものと思っていたのです。ですから、「雲に乗って来ない人は主ではない」と信じていたのです。
それはあたかも今日、雲に乗って来るものと思っているキリスト教徒の前に、主が雲に乗って来るのではなく、人として来て、捕らえられて苦難を受けている。二千年前、捕らえられて死んだイエス様をメシヤではないというユダヤ教徒に対して、イエス様を信じる弟子が叱責したのは、あたかも今日のキリスト教に対する叱責と全く同じものなのです。
このようにイスラエル民族が信じていたものと、イエス様を送った神様のみ旨とは異なっていたという事実を知らなければなりません。それから、信じられない理由として何があったのかというと、マラキ書第四章5節を見ると、「主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす」と、メシヤが来る前に必ずエリヤを送ってあげようと固く約束しました。旧約聖書のマラキ書は新約聖書の(ヨハネの) 黙示録のようなものであり、最後に預言されたものなので、そのようになるものと信じたのです。
エリヤとは、イエス様が来られる九百年前に火の戦車に乗って昇天した方ですが、天に昇っていったので再び天から降りてくるものと思って待ち望んでいたときに、待っていたエリヤは来ず、突然、もじゃもじゃ頭の若者、イエス様が現れて、「私がお前たちが長い間待ってきたメシヤだ。私を信じなさい」と言うのですから、それを信じるでしょうか。
ユダヤ教徒は、聖書のマラキ書にあるようにエリヤが来るものと思って信じるならば、億千万年たってもメシヤに出会えないでしょう。私が霊界に行って調べてみたところ、それは間違いないことなので命を懸けて宣布するのです。もし信じられないなら、事実かどうか皆さんが死んでみてください。レバレンド・ムーンがうそをついたか、死んでみれば分かります。ユダヤ教徒は、二千年前に来られて逝ったイエス様を受け入れなかった歴史的な罪を悔い改め、今からでもイエス様を受け入れなければならないと私は宣言するのです。
これを今日に例えて言えば、天変地異が起きて主が雲に乗って来られるものと信じているのに、一人の青年が堂々と現れて、「私がお前たちキリスト教が二千年間、願ってきた再臨主である」と言えば、それを信じますか。この地上に神様のみ旨を成し遂げるために、万民の前に遣わされたメシヤは、ユダヤ教徒が従わなかったことにより、私たちの知らない中で死んでいった恨めしい歴史があるという事実を知らなければなりません。
キリスト教徒たちに、「イエス様は何をしに来ましたか」と尋ねれば、「万民を救うために来ました」と答え、「どのようにして数おうとして来ましたか」と尋ねれば、「十字架に釘打たれ、救うために亡くなられました」と答えるでしょう。それならば、キリスト教は再臨主が来るのを望んでいますが、キリスト教が滅んで駄目にならせるために、主が来られるのを願うのでしようか。栄えようとして願うのです。
イエス様に従えなかったユダヤ教が恩恵を受けましたか。信じていたなら天理の恩恵を受けたはずなのに、信じないでイエス様を殺したことによって二千年間、国のない、さすらう孤独な旅人の身であったという事実を私たちは知らなければなりません。世界の人を救うことができ、本来の神様のみ旨を成し遂げ得る、その中心存在を殺したのですから、これほど大きな罪はありません。
四千年間準備した民が、もしエリヤが先に雲に乗って来たとするならば、イエス様を捕らえて殺せるでしょうか。殺さないのです。神様が歴史的旧約時代に、このように摂理をされましたが、新約時代にはこのように摂理をしないという保障がありますか。旧約聖書にも、「雲に乗って来る」という箇所と、「エリヤを遣わしてくださる」という箇所と、「人として来る」という箇所があります。そして新約聖書にも、ヨハネの黙示録第一章7節を見れば、間違いなく雲に乗って来るとあるのですが、テサロニケ人への第一の手紙第五章2節を見ると、盗人がくるように来るとあります。両面の預言があります。あのように来るとも言い、このように来るとも言うのです。
ところが自分の都合のよいように、雲に乗って来るということは信じて、盗人が夜くるように来るということは信じないのですか。歴史的事実を推察してみて、今日私たちの置かれている立場を明らかにすることによって、私たちは将来、二度と神様のみ旨の前に罪を犯してはなりません。それゆえ「雲に乗って来ることもあり、人として来ることもあり得る」というふうに信じる人が、賢い人なのです。

Sunday Oct 13, 2024
イエス様の生涯と愛 第54話
Sunday Oct 13, 2024
Sunday Oct 13, 2024
イエス様を不信したユダヤ民族
今日、キリスト教がメシヤの来臨を望んでいることは、あたかも今から二千年前にユダヤ教徒がメシヤを待ち望んだことと全く同じ立場です。今日のキリスト教について見れば、二千年間、メシヤが来ることを待ち望んできましたが、ユダヤ教からすれば、天は四千年間、数多くの預言者を送って犠牲にしながらメシヤを遣わすことを約束したのです。
神様がメシヤを遣わすことを約束したので、その民族は四千年間、その方が来ることになれば鉄石のように固く一つになり、神様のみ旨を成し遂げようと誠を尽くして信じてきたのです。
そうして神様は、メシヤたるイエス・キリストを約束どおりその民族に送りました。また、約束どおりその民族は、受け入れなければならない立場に立っていました。ところが、メシャが来ることを望んでいた民族が、メシヤを受け入れるどころか、むしろ迫害して捕らえ、殺してしまいました。それはなぞではないでしょうか。
例えるならば、今日、キリスト教徒が主メシヤが来ることを待ち望んでいるところにメシャが来たのですが、そのキリスト教の最高指導者であるローマ法王や、カーディナル(枢機卿)、ビショップ (司教)、牧師のような者たちが総動員して、メシヤを捕らえて、殺したことと同じなのです。そのような結果をもたらしたのです。簡単に「死ぬために来た」ということは通じないのです。理論的に合わないのです。死ぬためならば、何をしに来るのでしょうか。四千年間、数多くの預言者を殺し、イスラエル民族をあれほどまでに苦労させて送ったメシヤが、死ぬために来たのでしょうか。
ですから今からは、ユダヤ民族があれほどまでに待ち焦がれたメシヤを神様が送ってくださったにもかかわらず、どうして彼らは捕らえて殺したのかを、はっきりと知らなければなりません。
なぜ捕らえて、殺すことになったのでしょうか。第一に、旧約聖書が捕らえて殺すようになっています。なぜでしょうか。旧約聖書のマラキ書は、新約聖書のヨハネの黙示録に該当します。マラキ書第四章5節以下を見ると、「主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる」と明確に預言されています。
エリヤというのは、イエス様が来られる九百年前に火の戦車に乗って昇天した人です。神様が、この民を愛し、このように時を決めてエリヤを送ってあげようと言われたので、火の戦車に乗って天に昇ったエリヤが先に降りてくるだろうと思っていたのです。
エリヤが再び来ると聖書には固く預言されているのに、エリヤは来ませんでした。聖書というのは、どのような本かというと、四千年間イスラエルの民族思想の基調になり、ユダヤ教の信仰の中心になっており、四千年の間、命のすべてを注いで信じてきた本です。そのような聖書を、イエス様の話を聞いて捨てられるでしょうか。
主が雲に乗って天から降りてくるのを待ち望んでいるのに、ある人が来て「私が主だ」と言うことと同じです。それを今のキリスト教が信じられるでしょうか。
そのような事件ゆえに、イエス様はひどい目に遭ったのか、遭わなかったのかということを、イエス様のみ言を通して調べてみましょう。マタイによる福音書第十七章10節以下に、次のような場面があります。イエス様の弟子たちは、聖書をよく知りません。無知の者たちがみな、イエス様は救世主だと信じて伝道に出掛けたのです。
「メシヤが来たので、メシヤを信じなさい」と言うときに、信じない祭司長たちが「お前たちの先生がメシヤなら、聖書のマラキ書には間違いなくメシヤが来る前にエリヤを送ってくださるとあるのに、そのエリヤはどこにいるのか」と言ったのです。無知の弟子たちは分からないので、イエス様に尋ねる場面が出てきます。
もしエリヤが来たとするならば、イエス様は目の不自由な人でもよく、耳の不自由な人でもよく、足の不自由な人でもよいのです。エリヤが来なかったがゆえに問題なのです。
聖書には次のようにあります。「弟子たちはイエスにお尋ねして言った、『いったい、律法学者たちは、なぜ、エリヤが先に来るはずだと言っているのですか』。答えて言われた、『確かに、エリヤがきて、万事を元どおりに改めるであろう。しかし、あなたがたに言っておく。エリヤはすでにきたのだ。しかし人々は彼を認めず、自分かってに彼をあしらった。・・(中略)...』。そのとき、弟子たちは、イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだと悟った」(マタイ一七・10~13)
洗礼ヨハネがエリヤですか。皆さんならば信じますか。エリヤは来ていなかったのですが、エリヤを洗礼ヨハネに取って付けたのです。「お前が、洗礼ヨハネのことをエリヤだといって取って付けたのは、メシヤを装った詐欺師だからだ」というのです。
そうしてイエス様のことを、四千年間、神様が立てられたイスラエル選民を滅ぼし、イスラエル、ユダヤ教を滅ぼす頭だ、ベルゼブルだと決めつけてしまったのです。

Sunday Oct 13, 2024
イエス様の生涯と愛 第53話
Sunday Oct 13, 2024
Sunday Oct 13, 2024
三、メシヤ降臨に関する旧約の預言とその結果
両面で預言されたメシヤの再臨
メシヤが雲に乗って来ると思っていたユダヤ教徒たちの前に、イエス様が人として現れたので信じなかったのです。それゆえ、このように旧約聖書に対し誤った解釈をすることによって、来られたメシヤを捕らえて殺したというこの途方もない事実を、今からでも知って悔い改めなければなりません。
さらに一つ、はっきりと知っておかなければならないこととは何かというと、聖書は両面から預言されているということです。なぜ両面から預言されているのでしょうか。堕落した人間は、責任を果たすことも果たさないこともあるからです。神様と一つになっていた人が背を向け、サタンと組んで神様を滅ぼしたり、サタンと組んでいた人が神様のところに戻ってきて、サタンを滅ぼしたりするのです。それゆえ人を、神様も恐れ、サタンも恐れているのです。
ゆえに旧約聖書のイザヤ書第九章、第十一章、第六十章、この三つの章には、栄光の主として堂々と来ることを預言していますが、第五十三章においては苦難に遭うことが預言されています。ところが信じて迎えることができなかったので、イザヤ書第五十三章の預言が成就したのです。信仰によって成就すべきことが、不信仰によって成就しなかったので、それが延長されて再臨の時を迎えなければならないのです。
それでは、新約時代に来るべきメシヤの立場を、新約聖書はどのように預言しているでしょうか。新約聖書もメシヤが来ることに関する預言は、旧約聖書と同じです。ヨハネの黙示録第一章7節を見ると、再臨するメシヤは間違いなく雲に乗って来るとあります。しかし、テサロニケ人への第一の手紙第五章2節を見ると、メシヤは「盗人が夜くるように来る」と預言しました。雲に乗って来るのに、盗人のように臨めるでしょうか。
今日のキリスト教徒は、自分勝手に雲に乗ってくることは信じ、盗人のように来ることは信じないのでしょうか。自分勝手にそのように信じられるのでしょうか。ですから私たちは、知恵深くなければなりません。旧約時代の実情を推し量ってみるならば、主が雲に乗って来ることもあり、人として来ることもあり得るということを知らなければなりません。

Sunday Oct 13, 2024
イエス様の生涯と愛 第52話
Sunday Oct 13, 2024
Sunday Oct 13, 2024
ペテロの痛悔と新しい決心
天に向かう信仰路程において、永遠、不変の姿で宇宙的な使命を少しも疑わずに推し進めるイエス様を見つめる瞬間、ペテロの心が一変して、一生の間、主のために生きようという衝動感が起きたことを知らなければなりません。不信の自我を悟ったときから、ペテロはイエス様と自分との関係、あるいはお互いの生涯を比較しながら、自分の足りなさをより強く感じるようになったのです。
イエス様が天のみ旨一つのために、この地上の万民のために自分の幸福を求めず、自分のすべてを天の前に供え物として捧げられました。十字架に引かれていかれながらも、恨まないイエス様の姿を見守りながら、三弟子は自分たちの生涯があまりにも自分中心的であったことを感じるようになりました。そうして自分を中心としないイエス・キリストの前に、弟子たちは自ら自己を反省し、イエス様が常に願われたみ旨を引き継いで、この地上でそのみ旨を実践しようと、心に確認して誓うことができたのです。
それからペテロは、どのようなことを感じたのでしょうか。自分の不信を感じると同時に、周囲の不信を感じたのです。罪のないイエス・キリスト、どこの誰に尋ねてみても罪がないというイエス・キリストを、悪なる周囲の人々が縛り、むちで打って喜ぶのを見ながら、ペテロは迫害されるイエス様の視線の中で、イエス様の悲しく孤独な心を見抜くことができました。
このような悔しい立場でも、天の道を守っていく姿を見せるイエス様の熱い視線の前に、ペテロは周囲の人々の不遜さを感じたのです。そこからイエス様の弟子ペテロは、イエス・キリストの味方になり得ない悪なる群れを滅ぼすために、主が再び来られるまで、周囲の不遜な勢力と戦おうと、正義感あふれる覚悟をしたのです。
天に向かって歩んでいくイエス様の善なる不変の姿と、周囲の人々の不遜さは、天地の差がありました。それゆえ、瞬間的に振り返るイエス・キリストの視線を通して、ペテロは自分の愚かだった生涯を清算することができ、周囲の環境を浄化して善の基準を立てなければならないと決心をし、より一層神様に向かったのです。
言葉なく、天のため地のため、万民のため、み旨のために亡くなったイエス・キリストの死を通して、ペテロはおのずと主を尊敬するようになり、その死の前に懺悔の涙を流して痛哭したのです。
この事実が、最後に振り返られたイエス・キリストをして、自分を認めてくれる使徒がいることを感じさせ、途絶えた天と人間の因縁が回復する瞬間であることを感じさせたのです。ペテロー人だけが、天と地、そして万民と数多くの使徒を代表して、神様のみ旨の前で亡くなったイエス様に対して、自分の足りなさを感じ、痛悔(心の底から悔やむこと)の涙を流したのです。
このように主が十字架で亡くなる前に苦難を受けられる姿を見て、ペテロだけが痛哭しながら悲しく泣いたのです。このようなことがあったからこそ、イエス様が使徒たちを中心として役事することができる基準、イエス様と人間たちが互いに因縁を結べる新しい基準が造成されたことを、皆さんは知らなければなりません。
イエス様が十字架に亡くなってから今日まで、キリスト教徒が神様のみ旨だけをつかんで、復活と再臨の時を待ち焦がれたことと同じ立場を、皆さんもいずれ経なければならないのです。
そして、ペテロのような立場も蕩減復帰しなければならないのです。これが皆さんの信仰の路程に残された最後の運命であるとするならば、深刻な立場で真剣にイエス様と自分との間を振り返ってみながら、イエス様の志操を見習うことができなければならず、イエス様のその姿勢の前に身をかがめ、痛悔できなければなりません。
私たちが今までの信仰生活の中で、主が私たちのことを心配するように、私たちも主のためにどれほど心配しながら生きてきたのかが問題です。自分はイエス様のことを心配しながら一生涯生きてきたとしても、どうして死の立場を克服しながら、ペテロを見つめたイエス様の生涯と比較できるでしょうか。
今や蕩減復帰原則によって、イエス様が死の道で群衆を振り返られたように、私たちも死の道でイエス・キリストを振り返る自分とならなければなりません。そのような立場で、イエス様に代わる立場に立つと同時に、イエス様を栄光の場に迎えてさしあげるために、イエス様の苦痛を代わりに受け、イエス様の心配を代わりにしなければならないのです。皆さんに、そのような時があったのかということが問題なのです。
もし皆さんに、そのような時がないとするならば、「終わりの日」すなわち復活の栄光を迎えるときに、マグダラのマリヤが復活されたイエス・キリストをつかもうとしたように、皆さんが復活の主をつかんで、「私の主よ、私の新郎よ」とは言えないでしょう。
イエス様が十字架への道を歩むなかでペテロを振り返られることによって、初めてペテロと三弟子を探し出すことができたのですが、イエス様を直接つかんで天国まで行っている聖徒はいないのです。
四位基台が造成されれば、サタンが侵犯できる圏内から抜け出すことになるので、イエス様は昇天せずにこの地上で家庭の基盤を築くことができるのです。
家庭基盤を備えるためには、イエス様が新婦である聖霊を迎えなければなりません。実体聖霊を迎えるようになれば、平面的な基準を中心として思いのままに活動ができます。ところが弟子たちが息子、娘の基準を立てられなかったので、イエス様は霊的に条件だけを立てることになったのです。これがイエス様の恨なのです。このように地上で完全蕩減の基準を立てられなかったので、やむを得ずイエス様は昇天することになったのです。

Sunday Oct 13, 2024
イエス様の生涯と愛 第51話
Sunday Oct 13, 2024
Sunday Oct 13, 2024
ペテロを振り返られたイエス様の心情
イエス様が十字架の道、ゴルゴタ山上の孤独な道をたどっていこうとするとき、愛する十二使徒の代表であるペテロを再び振り返られました。それは、自分のあとに一番先に従うべきペテロの心が変わるのではないかと心配したからです。このように神様のみ旨を心配する自分の心が悲痛であるにもかかわらず、愛する心でペテロを顧みられたイエス様のその視線を、今日再び感じる者とならなければなりません。
しかしペテロは、三度もイエス様を知らないと否認しました。それゆえ天のみ旨とは完全に分離された立場に立つようになり、イエス様とは関係のない立場に立つようになったのです。
そのようなことを知っているイエス様でしたが、死の道に向かっていく自分のあとを死守して、同情してくれる一人の人を探そうとされたので、愛する一番弟子であるペテロを振り返られたのです。このように一人の真の人を探そうとされたみ旨が、愛弟子ペテロを見つめるその視線の中にしみ込んでいたことを知らなければなりません。
神様の全体的な摂理に責任を負って来られたイエス様においては、このような立場に立つようになるとき、これほどの悲しい場面はないでしょう。なぜならば人間の不信によって、ゴルゴタの道、死の道を行く自分の使命を引き継ぎ得る一人の人を探そうとするイエス様は、言うに言えない悲しみに浸ったのです。ただ神様だけが、イエス様のつらい心情を分かってくださり、イエス様の悲しい事情を心配してくださいました。
イエス様はその三十年余りの生涯に、ひたすら天の悲しい事情に代わって歩んできた苦労の路程を回顧してみるとき、人間に対して叱責したく、地に対して呪いたい心が身にしみていたのです。ところが、自分のそのような心を押さえつけ、自分の足取りを止めて、従っているペテロを見つめたのです。このようなイエス様の内的心情を感じられないならば、イエス様を中心とした神様のみ旨を代わりに引き継いで、万民の前に堂々と立てないことを、はっきりと知らなければなりません。
それならば、このように孤独に苦難の路程で一生を締めくくられるイエス様を見つめるペテロの心は、どのようなものだったでしょうか。彼は過去にイエス様と結んだ本性の愛の因縁を忘れられず、孤独な中で呻きながらこの上なくわびしい立場に置かれたことでしょう。哀れなイエス様を侮辱し、罪のないイエス様を恨み、罪のないイエス様が縛られ引っ張られていくその姿を見つめるペテロの心も、もちろんとても痛かったことでしょう。
しかしペテロは、イエス様が全人類を取り戻すための代表的な使命を帯びて来られたメシヤであることを悟れなかったので、弟子たちの代わりに乗り出すことができず、自分だけを考える立場に立ってしまったのです。このような立場に置かれているペテロの前に女性の僕たちが現れて、ナザレ人イエスの群れではないかと問われたとき、三度も「知らない」と言いました。このようなペテロー人の姿は、地上の人間を代表した立場であったことをはっきりと知らなければなりません。