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Wednesday Nov 13, 2024
イエス様の生涯と愛 第78話
Wednesday Nov 13, 2024
Wednesday Nov 13, 2024
パウロを中心とした新たな神様の摂理
パウロは復活されたイエス様に出会い、天の使命を受けました。そうして裏切った使徒ではなく、裏切らなかった生きた使徒の立場で異邦の国であるローマに行き、迫害を受けながら福音を伝えました。
パウロが十二弟子の殉教に代わり、洗礼ヨハネの死に代わって主を探し出したので、地上においては摂理的な軌道が異邦の国に移されました。こうしてパウロは、ローマ帝国に入り、独りで追われるようになります。宗教的に歓迎されない立場に置かれるようになったのです。
しかしパウロは、イエス様が定められた摂理のみ旨一つを抱いて人類の十字架であるゴルゴタの道を行かれたように、ローマのいかなる迫害の矢にも屈せずに貫いて進みました。天のみ旨のためには、死も意に介さずに進んでいく姿がイエス様の姿を彷彿させたのです。
そうしてパウロを中心としてキリスト教は動き、一つの家庭型を経て、部族型、民族、国家、世界型と経てきました。イエス様がゴルゴタの道を行ったように、パウロは天の使命を担い、十二弟子の代わりにサタン世界に対して死のゴルゴタの道を自ら進んで乗り出したのです。そうして、ローマのネロ皇帝時代の激しい迫害と虐殺の過程を経てきたということを知らなければなりません。
また個人的なパウロの犠牲が、その時の部族、または十二弟子のような人たち、イスラエルのような群れを起こすことになりました。そうして個人から全体が一つに団結して、死の立場を越えて戦ったので、ローマの国を奪うことができたのです。そうして約四世紀を過ごす間、キリスト教は繁栄しました。中世封建社会時代においてローマ法王庁を中心として、キリスト教は全盛時代を遂げるようになったのです。そうして全世界をキリスト教徒が支配してきたのです。
これはイエス様が血を流す十字架上において、強盗が友となったように、世界的に打たれるゴルゴタの路程を経ていくその時において、裏切ったユダヤ民族の友ではない一つの群れ、一つの国家が現れるというのです。そのような群れ、そのような国家が現れなければならないということは、歴史的な摂理観に照らして見れば妥当なことなのです。
キリスト教を立てた神様のみ旨
今までの歴史過程について見ると、東洋は精神文明を中心とした道を求めてきたのであり、西洋は物質文明を中心とした道を求めてきました。しかし歴史は、このように相いれない両面の方向に発展していくばかりではありません。神様は西欧文明をアジアの東洋文明に接するようにされ、新しい宗教理念に連結できるその時を求めてこられるのです。神様がいるならば、間違いなくそのようになさるでしょう。
キリスト教思想は、万民を中心として自分たち自らを鼓舞させながら、今まで発展してきたのです。今まで悪なるサタン世界において、キリスト教の歴史がつくられてきた過程を見ると、キリスト教は烈士たちが血を流した殉教の因縁を経ながら土台を固めてきたのです。社会の前で批判や非難を受けながらも反抗もせず、死の代価を払いながら発展してきたのです。もちろんキリスト教以外の宗教もありますが、歴史の全体的な流れの中で、そのような宗教というのはキリスト教だけであるという事実を私たちは知っています。
このように追われ迫害を受け蔑視されたキリスト教が、今日では名実共に世界的な宗教として民主世界を動かす思想的な後ろ盾になったという事実を考えてみたときに、これはキリスト教それ自体の力だけで成し遂げられたのではありません。死の峠を踏み越えることができたその力の母体は、キリスト教自体の力というよりも、背後にいらっしゃる神様の力なのです。その神様の力によって、キリスト教が世界的に発展してきたのです。それならばそのキリスト教は、今後どうなるのでしょうか。それが問題なのです。
神様がキリスト教を立てたとするならば、その目的は新しい国を探し出すためであり、新しい世界を形成するためでしょう。言い換えれば、神様は今までこの地上になかった善を代弁することができ、善の立場を擁護することができ、善の環境を守ってあげることができ、善の主権を行使できる善の祖国ができることを願ったのであり、勝利の時が成就されることを願ったのです。
このような事実を私たちは否定できません。それゆえキリスト教思想は、必ず終末の時代が来るということを予告しているのです。終末になればキリスト教の全盛時代になり、新たな世界をつくると言っています。そしてその時は、悪の勢力を中心としてキリスト教を反対した国は滅びると、端的に結論づけているのです。
Wednesday Nov 13, 2024
イエス様の生涯と愛 第77話
Wednesday Nov 13, 2024
Wednesday Nov 13, 2024
聖霊を恋い慕うべき今日
今、私たちが恋い慕うべき一つのことが残されているのですが、それは何でしょうか。私たちは、地のために代わりに仕事をしている聖霊を恋い慕わなければなりません。これを知らなければなりません。今まで数多くの人々がイエス様を二千年間霊的に恋い慕ってきましたが、今は聖霊も恋い慕わなければならないのです。そうしなければならない聖徒であり、私たち人類であるということを考えなければなりません。このように聖霊を恋い慕うべき時代が来たのであり、新婦の体を完成すべき時が来たのです。
聖霊は新婦の神なので、新婦の姿を備え、新婦の形体を成して、私たちは恋い慕うことができなければなりません。このようになれば、イエス・キリストは霊界に行って休むことができるのです。そして天地に一つの中心を立てて、再び私たちがこの地を中心として探し求めていくのです。
心から霊界を恋い慕った私たちは、今や私たち自身に役事なさる聖霊を恋い慕わなければなりません。それで私たちは、霊的な象徴であるイエス様を恋い慕い、肉的な象徴である聖霊を恋い慕い、私たち一個体において霊的なイエス様を恋い慕う心と肉的な聖霊を恋い慕う体が一つになることによって、初めて天の中心と地の中心が、私の一つの心と体で合わさり得るのです。そうなることによって、イエス様も私の代わりに立つことができ、聖霊も私の代わりに立つことができ、私はその真ん中でイエス様と聖霊のみ旨に代わって万民を代表して現れ得るのです。これを知らなければなりません。
それならば、今やこの地上に来るべき主は、どのようなみ旨をもって来られるのでしょうか。イエス様と聖霊のその中心を、皆さん自体につくり上げなければなりません。生きた肉体をもっている皆さんが、霊界を象徴し、肉界を象徴したイエス様と聖霊を見習い、霊肉を合わせた一つの実体の中心体として完成しなければなりません。そうでなければ、神様の全体創造の理念が、皆さん一人において完結されないのです。このような一つの中心の使命が、イエス様と聖霊の使命なのです。この一つの中心をつくるために、イエス・キリストは再臨されるのです。
二、イエス様復活後のキリスト教
キリスト教の使命
イエス様を中心として、その十二弟子と七十門徒が完全に一つになれば、歴史過程で失敗したその時代ごとに蕩減できなかったすべての男性たちの失敗が蕩減されるのです。
それゆえイエス様は、彼らと完全に一つになって、歴史的な失敗を収拾できる実体圏を横的につくらなければなりません。完全に金城鉄壁のような垣根をつくって、サタンが攻撃しようにも攻撃できない一人の男性としての勝利的基盤を決定づけなければならないのです。その垣根の使命を果たすべき人が、十二弟子であり、七十門徒なのです。
このような土台、すなわちこのような背景の上に強固に立ち、女性を求めて母の基準をつくらなければならないのです。そのためには、歴史路程で戦ってきたように一大決戦を通過しなければならなかったのです。そうせざるを得ない内的な事情がイエス様にはあったという事実を、その時代の十二弟子や七十門徒は知らなかったのです。
ですからイエス様は、このような環境の土台を一度ももてませんでした。そのようにできる一人の相手も見つけられず、そのような内情を通告させ得る一人の弟子も見つけられないまま三十余年の生涯を送る中で、結局、十字架に釘付けにされて亡くなったのです。
そのようにして十字架で亡くなったイエス様であるがゆえに、恨があるとするならば誰よりも多い恨があるでしょう。神様は四千年間歴史をつづってきながら苦労した土台の上にイエス様を送られて、その時を迎えさせたにもかかわらず、神様が願われたすべての内容が根本的に破綻してしまいました。またイエス様は、神様が男性の歴史としてつづってきた四千年の歴史に、一つの勝利的な基盤を立てるために来たにもかかわらず、それを立てることができずに逝かなければなりませんでした。そのようなイエス様だったので、その事情はどれほど哀れなものだったのか知らなければなりません。
イエス様は自分一人が死ぬことは気にもかけませんでした。そのようなことよりも、自分一人が死ぬことによって、四千年という長い歳月の間、男性を通して役事してきた神様の摂理のすべてが水泡に帰すという事実を悲しまれたのです。自分が死ぬその悲しみよりも、神様の摂理が失敗に帰す悲しみのほうが大きいことを感じて、内情的に深く悲しまれたイエス様でした。そのようなイエス様の心情を知らなければなりません。
しかしイエス様は、「自分は死んだとしても、歴史的なすべての土台をもう一度収拾するのだ」という信念と決意と覚悟のもとで、十字架の道を堂々と突破したので、神様の心情と一致点をつくることができ、霊的に弟子たちを再び収拾することができたのです。
これによって第二の垣根をつくり、今日、男性を中心としたキリスト教の歴史を再編成することができたという事実を知らなければなりません。このようにして霊的な基準を中心として、今まで二千年間数多くの殉教の歴史を経ながら発展させてきたのが、キリスト教の歴史なのです。
Monday Nov 11, 2024
イエス様の生涯と愛 第76話
Monday Nov 11, 2024
Monday Nov 11, 2024
聖霊の苦労に対する人間の責任
私たちは今まで、イエス・キリストを迎えるために自分だけが苦労してきたものと思っていましたが、自分の背後で自分以上に苦労された聖霊がいることを知らなければなりません。
イエス様が願われることは、人間の苦労よりも聖霊の苦労が大きいので、この聖霊を立て、イエス・キリストの栄光に代わって人間を糾合しようとされるのです。そのような一日を迎えられなければ、イエス様はこの地に再び来て万民の主人公に立つことができないのです。
それゆえ私たちが悪に対して立ち上がるようになるとき、私たちが犯した罪によって聖霊が代わりに地で苦労されるようになったのであり、イエス様が十字架にかかられるようになったということを知らなければなりません。また私たちは、天地のどこに行っても天の怨恨から抜け出すすべのない罪人であることを知らなければなりません。
この罪を悟って今や私たちは、心と体をすべて捧げなければなりません。そうしてまずは聖霊の苦労に頼り、イエス・キリストの苦労の度数を満たすことによって、その苦労の荷を下ろしてあげなければなりません。このように私によって聖霊の苦労が終わり、イエス様の苦労が終わり、神様の苦労が終わってこそ、私たちのために罪を引き受けて苦労された天の復帰摂理のみ旨が終結するのです。そして私たち自体は、そのとき初めて一人の主人公を得るようになるのです。これを皆さんは知らなければなりません。
イエス様は、「人の子」としてこの地に来られて逝きました。イエス様は実体の体をもつ一人の人間として、この地に来られて逝きました。皆さんが霊界を通してみれば、イエス様は私たちと一問一答できる体をもっておられるので、皆さんの霊眼が開かれれば、私たちのために亡くなったイエス様を慰労して、感謝を捧げることができますが、聖霊に対してはそのようなことができないのです。なぜならば聖霊は体をもっていないからです。
イエス様は実体をもった天の主人公として、また被造世界の中心としてこの地に来られました。ところが聖霊は、いまだに体をもてずにいるので、聖霊の苦労に対して直接慰労してあげることができないのです。それならば、新郎であられる天上のイエス様の前に新婦となれる地上の実体聖霊は、いつこの地に現れるのでしょうか。
私たちが犯した罪は、イエス・キリストだけ死の峠を越えさせたのではなく、聖霊までもそのような苦労の峠を越えさせたのです。ところが私自体を通して、その苦労の怨恨を解怨するようになれば、その喜びと栄光をイエス様にはお返しできますが、聖霊にはお返しできないのです。
私たちが罪を委ねれば、まずは聖霊が私たちの罪を引き受けられます。そうしたのちにイエス・キリストが引き受けられ、そのあと神様から清算を受けるのです。今日、私たちはこれをよく知らずにいます。このようなこと、このような使命を知る聖徒たちが現れるならば、聖霊の感動の役事は、その人たちを通して全人類に現れることでしょう。
今や私たちは、どのようにすべきでしょうか。私たちはイエス様と同じ立場の新郎格主人公と、聖霊と同じ立場の新婦格主人公を見つけなければなりません。そうして贖罪の恩赦を受けなければなりません。そして聖霊とイエス様をつかんで、「聖霊と聖子(イエス・キリスト)、そして神様よ!祝福してくださいませ」と言えなければなりません。そのような皆さんとならなければ、イエス・キリストの二千年の苦労と聖霊の二千年の苦労は、この地上で完結させることができないのです。
イエス様は、どうして「世の罪」を担当されたのでしょうか。それは私たちのために、私たちをして自由を所有できるようにするためでした。そして主人を求めさせたのは、人間に本然の姿を備えさせ、サタンの支配を受けた立場からサタンを支配できる立場へと移してあげるためでした。
Friday Nov 08, 2024
イエス様の生涯と愛 第75話
Friday Nov 08, 2024
Friday Nov 08, 2024
一体となった百二十門徒
百二十人の門徒がマルコの屋上の間に集まり、イエス様が生前「聖霊を送ってあげよう」と言われたその約束を心に信じ、一つになって祈ることがなかったら、今日キリスト教は、世界的な宗教にはなれなかったことでしょう。
そのとき身を伏して祈った百二十人の門徒には、恐れの心がありませんでした。自分の威信や体面、そして家庭もすべて忘れ、ひたすら主の約束がある時、ある場所に現れることを信じて百二十人の門徒が一つとなって祈ったとき、四千年間、天地の間で遮っていた死亡の圏を打ち破って、聖霊が地上に臨むようになったのです。
これは偶然なことではありませんでした。このことによって人間を再び出産してあげることのできる新しい道が切り開かれたのですが、この一つの事実は誰によって起きたのでしょうか。
これは百二十人の門徒が終始一貫した心、終始一貫した誠意、終始一貫した供え物の精神によって、父のみ旨、神様を見つめた切実なその心によって起きたのです。このように地に対して摂理できなかった聖霊の役事が、初めて新しい歴史的な出発をし得たことを知らなければなりません。
百二十人の門徒は天地が震動し、炎のような舌が分かれる聖霊の役事を体恤するようになるとき、天に向かう切実な心に徹し、いかなる怨讐に対したとしても死を覚悟して行こうという心をもつようになったのです。ここに天によって力がさらに加えられると、その力はいかなる者が切ろうとしても切ることができなかったのです。このような力が土台になったがゆえに、彼らが語る言葉が天地を動かし得る能力を行使したということを知らなければなりません。
それならば当時、使徒たちは、どの程度まで一つになったのでしょうか。有無相通じるぐらいに一つになりました。彼らは、自分のものと相手のものとの区分がありませんでした。彼らは神様のみ旨を中心として、「私はあなたであり、あなたは私である」という一体の心情によって、二人が一つに十人が一つに団結したのです。ですから彼らは、誰かがある困難なことにぶつかるようになったときにも、それをある個人の困難としてほうっておいたのではなく、自分の困難として考えたのです。
このように兄弟の困難を自分の骨と肉、骨髄までしみ込む困難として感じるようになったとき、天も動いたのです。ですから皆さんも、お互いが自分のすべてを忘れ、ただ父のみ旨一つだけのためにいかなる犠牲が伴ったとしても、自分のすべてを捧げようという心、兄弟の困難を自分の困難として感じられる心の所有者にならなければならないことを心に銘じてください。
イエス様と聖霊の愛を通した霊的重生
イエス様が来られ逝きながら、「私は成し切れずに行くので、私を信じる代わりに聖霊を信じなさい」と言われました。イエス様さえ信じれば救われると思っているのですか。とんでもないことです。聖霊を信じても救われるのです。神様の息子を信じさせるのが聖霊なので(コリントⅠ一二・3参照)、聖霊も信じなければなりません。
聖霊とは何の神でしょうか。母の神です。聖霊は母の神であり、イエス様は人類の真の父です。真の父は完成したアダムです。アダムが堕落して人類の先祖になれなかったので、私たちはみな、真の先祖ではなく偽りの先祖の子孫です。ここに真の先祖として来られた方がメシヤです。真の父ということです。ところがキリスト教では、三位一体の神がどうだこうだと言っています。イエス様は真の父であり、聖霊は母なので、この霊的な父と母の愛を受けてこそ、霊的に重生されるのです。子女は父母の愛がなくて生まれることができますか。
それゆえ、黙示録には、「御霊(聖霊)も花嫁(新婦)も共に言った、「きたりませ」。また、聞く者も『きたりませ』と言いなさい。かわいている者はここに来るがよい。いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい」(二二・17)とあります。そのような日は、聖霊が実体をもつ日です。そのときが再臨時代です。新婦の着飾りを終える日です。
「小羊の婚宴」(黙示録一九・9参照)とは何でしょうか。失った真の父母を迎え入れる日です。そうなると名詞的な神様、信仰的な対象として必要だった神様は過ぎ去ります。名前だけの神様を信じたり、外形的にだけ信じたりする信仰生活は必要ありません。実体の神様が必要なのです。
それでは、信仰の実体の主体は誰だったのでしょうか。イエス様でした。希望の実体の主体は誰だったのでしょうか。イエス様でした。愛の実体、愛の主体は誰だったのでしょうか。イエス様でした。
Friday Nov 08, 2024
イエス様の生涯と愛 第74話
Friday Nov 08, 2024
Friday Nov 08, 2024
復活の栄光を表されたイエス様
復活は、四千年の歴史において初めて天の栄光に代わったものであり、四千年間のサタンとの闘いに勝利した栄光に代わったものでした。イエス様がこのような勝利的な基準を霊的にも実体的にも示したので、神様は死んだイエス様を再び起こして、新たな摂理を展開するようになったのです。イエス様が十字架にかかることによって、四千年の摂理歴史の責任を引き受け、先祖たちの責任を引き受けて天の栄光に代わってあの世に行ったのが、復活、昇天だったのです。
このようにイエス様は、内的な神様の栄光をこの地上に実体的に成し遂げるため、すなわち神様の完全な栄光を表すために来られた方です。なぜならば完全な栄光というのは、内的な栄光と外的な栄光が合わさってこそできるからです。イエス様は、正にこの使命を果たすために来られたのです。
神様の栄光が完全に表されるには、神様の内的な栄光の実体として来られたひとり子であるイエス様とユダヤ民族が遠ざからずに一つになることによって、イエス様の中にある神様の内的な栄光が地上の栄光とならなければなりませんでした。しかし神様の四千年の摂理歴史を引き受けて、神様の栄光を地上で実現させるべきイエス様がユダヤ人の不信によって十字架で亡くなることによって、天の内的な栄光は霊的な栄光になったのです。それゆえイエス様は、未完の栄光を成して昇天されたのです。
昇天したのちに霊界でイエス様は、神様が四千年間サタンに対して繰り広げた天の闘いと、人間を復帰するために繰り広げた真の闘いと、み旨を成し遂げるための摂理の闘いと、聖霊に代わって愛の闘いをしているのです。すなわちイエス様は、霊界に行って神様が続けてこられたその戦いを引き継ぎ、神様の代わりに闘ってきていらっしゃるのです。
では四千年間摂理してこられた神様の前に、人間に代わり、万物に代わり、天の愛に代わったイエス・キリストが、真に勝利しなければならない土台とはどこでしょうか。ほかでもない、この地なのです。
本来、キリスト教の教理は、十字架ではなく復活の教理です。イエス様が復活することによって救いが成立したのであって、死ぬことによって成立しましたか。キリスト教は復活の宗教なのです。
亡くなって三日後に復活されたイエス様の復活の権能によって、私たちは救いを受けるのです。復活後の四十日期間の基盤の上に、初めて新たな第二イスラエル、すなわちユダヤ教に代わる新しいキリスト教が出発したのです。キリスト教は十字架の教理ではなく、復活の教理なのです。信じられない人は祈ってみてください。自信をもって話すのです。
Friday Nov 08, 2024
イエス様の生涯と愛 第73話
Friday Nov 08, 2024
Friday Nov 08, 2024
イエス様のみ旨を引き継ぐべきだった弟子たち
復活された直後、イエス様はどのような心情だったでしょうか。三日目に復活した彼の心情は、天の前に面目ない祈祷を捧げざるを得ない悲しい心情でした。四千年間苦労された父と、多くの苦労をした預言者や烈士たちに対すると、一方ではうれしく思いながらも、一方では限りなく悲しく涙を流さなければなりませんでした。このようなイエス様の心情を知らなければなりません。
天の聖徒たちは喜びましたが、イエス様は悲しかったのであり、神様もうれしくもありましたが一面悲しい心ももたれたのです。今日この地に生きている人々の中には、このようなイエス様の心情を知る人は一人もいません。けれどもこれを知って、心の中で新たに決心をしなければなりません。
決心をするものの、何を決心するのでしょうか。イエス様がこのようになった原因と動機は、民族のせいでも天のせいでもありません。ただサタンのせいでした。イエス様はこのサタンを踏みにじり、失った使徒たちを捜すために乗り出したのです。一時は命を懸けて誓いまでした使徒たちが、イエス様の死体や墓までも悪なる人たちに守らせてしまったことを考えると、イエス様が普通の人であったならば、彼らを捜しに行かなかったでしょう。
しかしイエス様は、ただただ怨讐サタンに対する憤慨心と、怨讐サタンの懐にある弟子と民族と人類を取り返さなければならないという一途の心をもっていたので、彼らを探しに出たのです。また四千年の間、裏切った人間に対する悔しさを耐えに耐えながら摂理してこられた父を見つめたとき、哀れな人間を探さなければならないという悲壮な決心を抱いて、イエス様は彼らを捜しに出たのです。このようなイエス様の悲壮な決心を抱かなければなりません。
また残っている使徒たちに、もう一度サタン対して闘うべきであるという心の決心を鼓舞させたイエス様は、いつまでも彼らと共にいるわけにはいきませんでした。み旨を引き継いで、長い歴史路程を行かなければならない弟子たちが、言うに言えない血の路程とゴルゴタの十字架の峠を越えなければならない状況を見つめるイエス様の悲しい心情と心の苦しみは、十字架を越える時と同じものでした。またイエス様は、四十日が経過すると愛する弟子たちを怨讐の地に残したまま、行かなければならない悲しい心情を抱かれたのです。
では、地にいた聖徒たちは、果たしてどのような気持ちだったのでしょうか。来られたイエス様の悲しみと、行かざるを得なかったイエス様の悲しみが分からなければならなかったのに、彼らはただ愛する先生と別れることだけを悲しがったので、それを見つめるイエス様の心情は、言葉では言い表すことができないほど悲痛なものだったのです。
では、どのような心をもたなければならないのかというと、イエス様が逝かれたのちのことを自ら引き継いで、サタンと生死を駆けた闘いをすることがあったとしても、一寸の譲歩もしないという覚悟のもとに、鉄石のように変わらない心の所有者にならなければなりません。そうしてイエス様が亡くなりつつも、安心できず、心配なさったその心情を、皆さんが直接体恤して、代わりに解いてさしあげなければならないでしょう。
もし、その当時の使徒たちが終始一貫した心をもって、イエス様と共に十字架にかかったとすれば、神様はイエス様一人だけを復活させるということはできなかったことでしょう。そうなったとすれば、全使徒たちが復活したはずであり、今日のようなキリスト教にはならなかったはずです。
それならば、今やこのような使徒たちが残した使命を自分が引き継ぎ、サタンに憤慨したイエス様の心を皆さんの心とし、十字架を越えたイエス様の決心を皆さんの決心としなければなりません。
そうして十字架を死なずに生きて越えることによって、復活の姿で現れる第二の使徒にならなければなりません。そうして六千年間神様を困らせてきたサタンを、一朝一夕に打ち破ってしまえる使徒にならなければならないのです。そして悲壮な決心をもって、死の道を歩むようになっても、サタンと闘って勝利し、その痕跡を残すことができなければなりません。
Thursday Nov 07, 2024
イエス様の生涯と愛 第72話
Thursday Nov 07, 2024
Thursday Nov 07, 2024
第六章 イエス様の復活と神様の願い
ー、イエス様の復活と聖霊降臨
イエス様の苦痛の三日路程
イエス様が死んだのち、三日間苦痛を受けたという事実はどういう意味でしょうか。天地が死亡圏に残っていて、地獄も死亡圏の因縁をもっているので、イエス様が天地を主管するためにはこの死亡圏を下からも越え、上からも越えなければならなかったのです。それゆえ地獄のような最もどん底の境地に行って苦痛を受けたとしても、それを越えて生命の因縁を追求し、神様を慰め得る希望の道を行かなければならなかったのです。
したがって、イエス様が地獄のようなその環境を経ることによって、希望の天国に向かって再出発できる道が整えられたのであり、地上でも捨てられ、追い込まれて死の道を行きましたが、希望の道を残せたのです。それゆえイエス様が、三日路程を行かざるを得なかったのです。このような事実を私たちは知らなければなりません。
三日間イエス様は、地獄を見物しに行ったのではありません。地獄を知らない彼ではありませんでした。そこに行って判決を下し、死亡の世界から生命の世界へと行ける道を開いたのです。そうして死亡の地獄世界であるこの地上に、勝利の基盤を築いたのであり、天国に行ける起源をつくり上げたのです。
指導者を失った弟子たちの悲しみ
イエス様は復活されたのち、四十日間この地に聖霊を送ることを約束して昇天されました。イエス様に従った弟子たちは、イエス様の復活された栄光の姿を見て、神様の約束のみ旨が成就するものと思って喜んだのですが、イエス様は彼らにいつ再び来るのかという、はっきりとした話をされないまま昇天してしまったのです。
では当時の弟子たちの心情は、どうだったのでしょうか。愛する主を釘付けにした不信のイスラエル民族とユダヤ教の一団に対する、言うに言えない敵愾心が煮えくり返っていたでしょう。復活された主のみ旨、神様のみ旨ならば、身が粉となり骨が溶けることになろうとも、最後の勝利のために、復活された主に従って行こうという覚悟をもったことでしょう。
そのような覚悟、すなわち主が去っていかれたのちに、天に対して切に敬い慕ったその心、死ぬようなことがあっても、あるいは困難な十字架の道が遮られていたとしても、この道を打開しなくてはならないという覚悟をもって、弟子たちはあの人この人に対するたびに、お互いに激励し合ったことでしょう。それでこのような心情に徹していた弟子たちにイエス様は現れて、聖霊を送ってあげることを約束されたのです。
その後、マルコの屋上の間に集まった百二十人の門徒は、背後で天が役事するという想像もつかない体験をしてから、歴史的なすべての摂理のみ旨を抱くことができ、またイエス様の三十年の私生涯路程と三年の公生涯路程で感じた内的心情を体恤し得る段階に入るようになったのです。
そうして彼らは、イエス様を裏切ったという罪責感に浸らざるを得なかったし、この地に来られたあのイエス様は、自分たちがあのように対してはならない天のひとり子であったことを悟るようになったのです。
さらに彼らは、イエス様がこの地に万民の救い主として来られたということをはっきりと悟れば悟るほど、心の中に鉄石のような固い覚悟と決意をしたのです。そして兄弟と兄弟、使徒と使徒、信徒と信徒がお互いに励まし合って、一つのみ旨を中心として、一つの心で一つの目標に向かって動くようになったのです。自分たちが追求する一つのみ旨のために、お互いが心を交わし合って一つになり、百二十人門徒はそれぞれ違いますが、父のみ旨に対して行く方向とその動く行動は、一つの姿として現れるようになったのです。
このような現象が使徒たちのうちに起こり、彼らの心は燃え上がったのですが、それから彼らはどこに向かって叫ぶようになったのでしょうか。彼らは、イエス様に反対したイスラエル民族に向かって叫び始めました。それだけではなく、イエス様を不信する数多くの人類に対して、新たな決心と覚悟をもって、新たな誓いで、自分たちが一つになっているその心をくじく者はいない、ということを示しました。
このように自分たちが、まず天の前に固く誓って覚悟した姿で現れるときはもちろんのこと、いかに迫害が激しい環境であっても確固たる中心をもって現れるとき、天は彼ら一人一人をイエス様の代わりの存在に立てて、使命を引き継がせたことを知らなければなりません。
このような心をもった人は、一人だけではありませんでした。主を失った悲しみが大きければ大きいほど、その心に徹したのであり、神様のみ旨が強く動けば動くほど、その心には天を裏切った群れに対する敵愾心が強くわき上がり、彼らを一朝一夕に粉砕して、天のみ旨をすぐにでも成し遂げてさしあげようという覚悟でした。天に対してこのように現れるようになるときに、ここには人間の力ではなく、神様の力が現れるようになったのです。
ここで人間としては、到底想像もできない神様の直接的な権能の行使が、無知な民、不信の民、悖逆(謀反)の民に示されたということを私たちは知らなければなりません。
Tuesday Nov 05, 2024
イエス様の生涯と愛 第71話
Tuesday Nov 05, 2024
Tuesday Nov 05, 2024
パンとぶどう酒の意味
四千年間復活の摂理を通して、救いの役事をしてこられた神様は、イエス様を復活させる摂理だけでは天上のみ旨と地上のみ旨を合わせて完結させることができないので、「新しい契約」を立てて、これで天上と地上のみ旨を合わせ、約束された本然の園を探し求める摂理をしてこられたことは、よく知っていることでしょう。
ここにおいて、イエス様が下さった杯(ぶどう酒)とパンは、正に「新しい契約」と言われました(ルカ二二・20参照)。イエス様が逝かれたのちに、私たちはそのイエス様の肉と血を受けたので、これはすなわち成し遂げなければならない全体の生命の代わりであると同時に、全体の真理の代わりであることを知らなければなりません。
イエス様の血とイエス様の肉を受け取ることは、何を象徴するのでしょうか。それはイエス様一個人の肉と血を言うのではありません。大きくは天と地を意味し、小さくは中心と個体を意味するのです。また肉は真理を象徴し、血は神霊を象徴します。
これらすべてのものは、イエス様が私たちに無条件に下さいました。そのように下さったイエス様の一身は、それ自体に限定された問題ももちろん問題ですが、彼を中心として連なっている天上天下のいかなる存在の問題も、すべて彼の問題だったということを知らなければなりません。
神様と人間との間にふさいでいたものとは何でしょうか。天のみ旨が地上に現れ、地上での全体の状況が天のみ旨に帰結されて一つの目的に動かなければならないのに、これがふさがってしまいました。そうして愛の主人公であられたイエス様は、勝利的な天の栄光に代わって現れるその一つのみ旨を表象して、今まで苦労してこられているのです。
神様が四千年間苦労してイエス様一人を立てられたことは、天全体を所有できることと、地全体を所有できることを表象されたのでした。それゆえイエス様を信じる人は、天のすべてを所有でき、地のすべても所有できるのです。ところがそのように所有したものを自分のものとしてのみ帰結させるのではなく、所有して再び天の前に返してさしあげるべき全体的な摂理のみ旨を私たちは委託されているのです。
イエス様が「新しい契約」を立てて逝かれたので、彼が亡くなった以後は霊的な世界と肉的な世界が人、すなわちイエス様に従う使徒たちを中心としてつながらなければならない条件が残されました。イエス様が亡くならなかったならば、イエス様を中心として天と地がつながったはずなのですが、亡くなることによって、イエス様は天の条件の代わりをするようになり、聖霊は地の条件の代わりをするようになったのです。
Tuesday Nov 05, 2024
イエス様の生涯と愛 第70話
Tuesday Nov 05, 2024
Tuesday Nov 05, 2024
十字架上でも天を心配し怨讐を愛したイエス様
イエス様は教団から追われ、民族から追われました。教団の異端者として、律法の破壊分子として見られました。彼は自分の氏族に追われ、家から追い出されました。洗礼ヨハネの一団にも追われました。荒野に出ていきましたが、そこでもサタンに追われました。そこで終わりませんでした。しまいには全体が動員して、十字架の道、ゴルゴタの道に追いやられたのです。
しかし反逆者として追いやる民族のために、むしろ涙を流したイエス様でした。イエス様は、ユダヤ教団から異端者として扱われましたが、イスラエルのいかなる祭司長よりも、彼らのために血の涙を流した人でした。その時代の誰一人として、自分の味方になってくれる人がいなかったけれども、イエス様はその時代の友でした。民族の反逆者として追いやられたけれども、民族の忠臣であり、教団の異端者として追いやられたけれども教団の忠臣でした。
彼の歩みは、いかなる歩みだったのでしょうか。引き裂かれ、追われ倒れる、十字架を背負った惨めな歩みでした。その道だけだったでしょうか。無謀な悪党たちが、むちを持って追い立てる事情に処したりもしました。このような立場で、もしイエス様がエリヤのような人であれば、「父よ、ただ私だけ残りました」(列王紀上一九・10、14参照)というような祈祷をしたことでしょう。
しかしイエス様は、ゲッセマネの園で三弟子を後ろに控えさせて、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・39)と祈ったのです。これが偉大なことなのです。自分の事情もたった一つ、自分の一身は民族の供え物であり、人類の供え物であり、天倫の供え物であることを知っていたのです。
そのようなことを知っているイエス様は、自分の悲しみも悲しみですが、天の悲しみがどれほど大きいだろうかと心配する心のほうがより大きかったのです。民族のために現れたのに、その民族に裏切られるという自分を御覧になる天の悲しみが、どれほど大きいかということを、一層心配されたのです。
イエス様は天の皇太子であり、万宇宙の主人公であり、メシヤでした。そのようなイエス様が、「惨めな十字架の運命だとは、なんということでしょうか」と嘆こうと思えば、この宇宙を動員して嘆くこともできましたが、嘆くことのできない自分自身であることを感じられたので、追われる立場に立つようになったことを面目なく思ったのです。
教団を糾合させ、民族を糾合させ、天の王国を建設して、世界を父の懐に抱かせてあげるべき責任を担ったイエス様は、その責任を果たせず十字架の道を行くことになるとき、恨むようなことは何も感じなかったのです。「この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈られたのも、自分の一身の死が悲しかったからではありません。自分の一身が死ぬことによって、民族の悲しみと天の悲しみが加重されることを知っていたので、そのように祈られたのです。
イエス様は自分が十字架に倒れれば、後代の世界人類の前に加重される十字架が残され、それによって悲しみの歴史、死の道が終わらないことを知っていました。また自分がゴルゴタの道を行けば、自分に従う人々もゴルゴタの道を歩まなければならないということを知っていました。十字架のみならず、さらに困難な道が残されることを知っていたイエス様だったのです。
両手両足に釘が打ち込まれ、わきを槍で突きさされて血を流す立場、茨の冠をかぶる立場に立ったとしても、これが自分で終わらないことを知っていても、イエス様は天に向かって「すべてが終った」と言いました。その言葉は、人間の世界において十字架の道はすべて終わったということではありませんでした。十字架のために泣いて心配する心の訴えが、天に通じたということなのです。
イエス様は、数多くの預言者や烈士が天の前に犯したすべての誤りを担って天を慰労してあげるために、生きた供え物として天の前に捧げられたという事実を知らなければなりません。
それではここにおいてイエス様に対された神様の心情は、どのようなものだったでしょうか。死んでいくイエス様のその姿、天を心配しながら十字架の峠を越えていくその姿を御覧になるとき、人間世界に悔しさがあるとするならこれ以上の悔しさはなく、天の四千年の歴史路程に悔しさがあるとするならこれ以上の悔しさはないでしょう。
しかしイエス様自身は死んでいきながら、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ二三・34)と言われました。神様はすぐにでもノアの時以上の審判をしたい気持ちでしたが、イエス様が民族をつかんで死に、教団をつかんで死に、十字架をつかんで死んだがゆえに、神様は人間たちを捨てることができず、つかんでこられているのです。このような心的な因縁が後代の人間、残されたイスラエル民族と結ばれていたので、裏切る後代の人間を捨てられず、つかんでこられているのです。裏切る後代の教団をつかんでこられているのです。
Friday Nov 01, 2024
イエス様の生涯と愛 第69話
Friday Nov 01, 2024
Friday Nov 01, 2024
サタンを屈服させることのできる秘訣
聖書を見ると、イエス様は完全に個人的、家庭的、民族的、国家的な条件を立てて、サタンと闘って勝ったでしょうか。勝つことができませんでした。イエス様の前でも屈服しなかったサタンが、イエス様を信じる人に屈服すると思いますか。六千年間、神様の前で讒訴し、神様のみ旨を蹂躙し、神様の摂理を滅ぼしてきた知恵深いサタンが、イエス様を信じる人が「引き下がれ」と言ったからといって、簡単に引き下がると思いますか。
私たちには、歴史的な相続権がなければなりません。アダムからノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、イエス様以後までの伝統と基盤を受け継ぎ、歴史的な供え物の代わりとなった相続者にならなければなりません。そうしてサタンに、「お前は歴史的な路程の中で、ノアに負け、ヤコブに負け、モーセに負けなかったか。私は彼らの勝利の基盤の上に立っていて、摂理歴史のすべての伝統を相続したので、サタンよ!お前は引き下がりなさい」と言ってこそ、引き下がるようになっているのです。
ただ単に「サタンよ、引き下がれ」といくら祈ってみたところで、サタンは引き下がるでしようか。六千年間、神様の前で讒訴し、蹂躙し、復帰摂理を破綻させたサタンなのに、イエス様を信じる者が「引き下がれ」と言ったからといって、簡単に引き下がると思いますか。とんでもないことです。
イエス様には、神様から心情を受け継いだ「相続譜」があります。四千年の間イエス様を送る時までの心情的な「相続譜」がありました。次にはイエス様の対象の「相続譜」がなければなりません。「私は、間違いなく歴史的な神様の心情を通して、神様が探し求めていた者だ。私はイエス様の聖なる体に接ぎ木された者だ」と言えなければなりません。
それでサタンに十字架上で勝つのではなく、十字架にかからずにサタンを屈服させなければなりません。それゆえ肉身をもって、実体として復活しなければなりません。このような実体の相続者として認められてこそ、この天国に行けるのです。
霊的基盤だけを築いたキリスト教
キリスト教会は霊肉の地上天国を願ってきたのではなく、肉的世界を放棄して霊的救いを目標として霊的王国、霊的メシヤとしてのイエス様に仕えてくるしかありませんでした。言い換えれば、イスラエル民族は国があり、選民的国権をもつことができましたが、今日全世界のキリスト教は、第二イスラエルの霊的国家であって主権国家、国がないのです。
キリスト教徒は霊的第二イスラエル圏内に立っているので、肉的基盤をもつことができず、霊的基盤のみをもっているのです。ですから霊肉を中心とした地上天国を完結すべき神様の本然のみ旨を成就することができなかったので、主は再び来ざるを得ないという事実を知らなければなりません。
十字架の場は、神様が勝利したのではなくサタンが勝利したのです。イエス様がゲッセマネの園で、今は「やみの支配の時」(ルカ二二・53) であると宣布したことは否定できません。十字架の場は、四千年間、神様が準備した国を失った場であり、イスラエルの教会を失った場であり、洗礼ヨハネ一団と十二弟子、右の強盗などすべてを失った場であることを知らなければなりません。
十字架上には、キリスト教がなかったことを知らなければなりません。キリスト教はいつ出発したのでしょうか。死んでから三日後に復活して、四十日間、失ってしまった弟子たちに会い、聖霊が降臨したのちに出発したのがキリスト教であることを知らなければなりません。
それゆえ二千年間、キリスト教徒は十字架の道理ではなく、復活の道理によってキリスト教が生じたことを知らずに信じてきた事実を皆さんは悔い改めなければならないのです。イエス様が復活した土台の上からキリスト教が始まったので、キリスト教は霊的です。
十字架でイエス様が亡くなることが神様のみ旨を成し遂げることであるならば、ゲッセマネでの祈祷は誤ったものです。そうだとすれば、メシヤの資格はないのです。実にあきれたことです。メシヤとして一度ならず三度も、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ・二六・39)という祈祷ができるでしょうか。
キリスト教が言うように、最初から死ぬために来られたとするならば、イスカリオテのユダに賞金をあげなければならないのです。それなのに、「その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう」(マタイ二六・24)と言われたみ言をどのように解釈するのでしょうか。
イエス様自身が死ななければ、どうなっていたかというと、先ほど言ったようにイスラエルの国が延長されてそのまま残り、ユダヤ教徒がそのまま残ることを知っていました。しかし自分が十字架で死ねば、ユダヤの後代の数多くの人々が十字架の道に従って行かなければならないので、血を流さずには行くことができず、また数多くのキリスト教徒が苦労し、また主が再び来て苦労するだろうということを知っていたのです。
それゆえゲッセマネで、そのような祈祷をせざるを得なかったということを皆さんは知らなければなりません。今日キリスト教徒たちは、「イエス様は肉身があったので、死の苦痛を心配してそのような祈祷をした」と言うのですが、それはばかげた話です。
それから十字架上で亡くなりながら、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ・・・・・・わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ二七・46)というイエス様の言葉は、どのように解釈するのでしょうか。
十字架上で亡くなりながら、「すべてが終った」(ヨハネ一九・30)と言ったのは、どういうことなのでしょうか。霊肉を中心とした使命を果たすために来たのですが、基盤のないこの地上で神様のみ旨を完全に成し遂げることができなかったので、十字架を背負ってでも霊的救いの摂理の土台を残さなければならないというみ旨を知った立場で、霊的救いの摂理の出発の基盤を築くために、自分のすべてを捧げたので「その基盤をすべて成し遂げた」と言ったのです。
神様のみ旨を成し遂げるために、サタンの国を滅亡させ、生きた立場でサタンの王権をなくして、人類を取り戻そうとされた主が、このように悲惨に死んでいったという事実を今からでも知って、キリスト教とユダヤ教は悔い改めて一つにならなければなりません。一つになって、来られる主を迎え得る準備をしなければならないのです。
真理は理論に合わなければなりません。盲目的な信仰時代を捨て、新しい世界に向かってこの世界を収拾し、救いのために全世界のキリスト教徒たちは一つに団結すべき時が来ました。それゆえ「統一」という言葉が、必要な時になったということを知らなければなりません。