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Thursday Oct 17, 2024
イエス様の生涯と愛 第56話
Thursday Oct 17, 2024
Thursday Oct 17, 2024
第五章 十字架の苦難
一、十字架の贖罪と救いの限界
イエス様の死の原因
イエス様が亡くなったのは、何が原因だったのでしょうか。一番目はヨセフの家庭、二番目は洗礼ヨハネ、三番目は教会が誤ったからでした。これは悔しく無念なことに違いありません。
四千年の歴史を経ながら育ててきたイスラエル民族を信じて神様が息子を送ったのですが、その息子を殺しておきながら、「死ぬために来た」と言うのですか。彼らは、それしか知らないのです。
それならば神様は、何をするために、四千年間もイスラエル民族を中心として摂理をしてこられたのでしょうか。イエス様を殺そうとして摂理されたのでしょうか。生まれながら死んでもイエス様はイエス様であり、また神様の息子になるのに、何のために三十歳にもなってから、成人になってから、やかましく大騒ぎをして、追われて死ぬようにされたのでしょうか。
生まれて何もせず、そのまま死ぬようにしたらよいのに、赤ん坊の時では救い主にはなれないのでしょうか。これはいくらでも理解できることなのに、それを理解できずに信じている人たちがいるのですから、実に恥ずかしいことです。それでいながら、天国に行こうと言うのですか。
ここで語る先生は、それをすべて暴きました。イエス様が死ぬことになった一番の原因とは、どこにあったのでしょうか。ヨセフの家庭にありました。イエス様はこの地に、何を探し出すために来られたのでしょうか。家庭を探し出すために来られたのです。イスラエルの国は平穏な中にあったとしても、ヨセフの家庭だけはイエス様を中心として天の国を立てていかなければならなかったのです。そうしてこそ、イエス様が新郎として新婦を迎えることができたのです。
本来神様は、夫は天国に行き、妻は地獄に行くように創造されたのではありません。創造当時の理想の主人公たち、すなわち父と母と息子と娘が氏族を成し、民族を成し、国を成そうということでした。そうでなければならないでしょう?ところが人間が堕落したので、地獄ができてしまったのです。
このような天倫のみ旨に対してこられたイエス様は、神様が送られたみ旨を成し遂げ得る真の家庭をこの地でもつべきであって、霊界に行ってもつのではありません。
イエス様が十字架で亡くなるようになれば、数多くの弟子たちも十字架で血を流すようになっているのです。ですから天国とは、そのように血を流して死んだ弟子たちを抱いて入れる所ではありません。この地上で自分を信じて従う弟子たちに、血を流させて救うのが本来の救いの目的ではありませんでした。もとより、そのようなことをすべきだったイエス様ではなかったのです。
氏族から無視されたイエス様
もし教会がイエス様に従わなくても、教会の中心となる氏族が従えば、イエス様は死なないのです。道理がそうではないですか。教会が従わず国が従わなくても、イスラエルの国の中心であり、ユダヤ教の中心となるヨセフの氏族が従っていたならば、イエス様は死なないのです。
教会と国が責任を果たさなかったとしても、氏族圏内でイエス様の家庭的土台を準備していたならば、外的にはヨセフの家庭の一派を中心としたカイン一族が現れ、内的にはイエス様を中心とした新しい天の一族が誕生したはずではないでしょうか。
そうなっていれば、イエス様の相手である新婦も決定され、イエス様の願いである四位基台を築き得る息子、娘をもち、家庭での父の立場も決定されていたことでしょう。また、イエス様が年を取っておじいさんになれば、孫ももったでしょう。そうなればイエス様の一族ができたはずではないですか。
ユダヤ教が反対し、イスラエルの国が反対しても影響を受けないのです。これさえ一つになれば、イエス様が死んでもイスラエル教団の中心に立つようになるのです。また、教団の中心に立つのはもちろんのこと、イスラエルの国を収拾するようになるのです。そうなっていれば、今日、キリスト教に悲運の歴史はあり得ないという結論が出るのです。イエス様の前に十字架の道はあり得ないのです。
今日までの二千年の歴史はすべて、イエス様を殺したことに対する蕩減歴史です。蕩減路程を経ずしては、歴史を発展させることはできないのです。個人復帰、家庭復帰もみな、イエス様の所願成就がなされなかったからするのです。その基盤を世界的に開拓しなければなりません。イエス様の願いを成し遂げてさしあげるためには、必ず死の代価を払わなければなりません。イエス様の願いの基盤が霊的にだけ立てられたので、死の代価を払わなくては範囲を広めて世界の舞台まで行くことができないのです。

Thursday Oct 17, 2024
イエス様の生涯と愛 第55話
Thursday Oct 17, 2024
Thursday Oct 17, 2024
聖書を文字どおりに信じたユダヤ教徒
昔、ユダヤ教徒がイエス様のことをなぜ受け入れられなかったのかを、はっきりと知らなければなりません。そうであってこそ、私たちは今後、来られる主を迎え得る道を模索できるのです。
旧約聖書を見ると、主は雲に乗って来られるとあります。ダニエル書第七章13節を見ると、「人の子のような者が、天の雲に乗ってきて・・・・・」とあるので、その時の信仰者たちは、主が雲に乗って来られるものと思っていたのです。ですから、「雲に乗って来ない人は主ではない」と信じていたのです。
それはあたかも今日、雲に乗って来るものと思っているキリスト教徒の前に、主が雲に乗って来るのではなく、人として来て、捕らえられて苦難を受けている。二千年前、捕らえられて死んだイエス様をメシヤではないというユダヤ教徒に対して、イエス様を信じる弟子が叱責したのは、あたかも今日のキリスト教に対する叱責と全く同じものなのです。
このようにイスラエル民族が信じていたものと、イエス様を送った神様のみ旨とは異なっていたという事実を知らなければなりません。それから、信じられない理由として何があったのかというと、マラキ書第四章5節を見ると、「主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす」と、メシヤが来る前に必ずエリヤを送ってあげようと固く約束しました。旧約聖書のマラキ書は新約聖書の(ヨハネの) 黙示録のようなものであり、最後に預言されたものなので、そのようになるものと信じたのです。
エリヤとは、イエス様が来られる九百年前に火の戦車に乗って昇天した方ですが、天に昇っていったので再び天から降りてくるものと思って待ち望んでいたときに、待っていたエリヤは来ず、突然、もじゃもじゃ頭の若者、イエス様が現れて、「私がお前たちが長い間待ってきたメシヤだ。私を信じなさい」と言うのですから、それを信じるでしょうか。
ユダヤ教徒は、聖書のマラキ書にあるようにエリヤが来るものと思って信じるならば、億千万年たってもメシヤに出会えないでしょう。私が霊界に行って調べてみたところ、それは間違いないことなので命を懸けて宣布するのです。もし信じられないなら、事実かどうか皆さんが死んでみてください。レバレンド・ムーンがうそをついたか、死んでみれば分かります。ユダヤ教徒は、二千年前に来られて逝ったイエス様を受け入れなかった歴史的な罪を悔い改め、今からでもイエス様を受け入れなければならないと私は宣言するのです。
これを今日に例えて言えば、天変地異が起きて主が雲に乗って来られるものと信じているのに、一人の青年が堂々と現れて、「私がお前たちキリスト教が二千年間、願ってきた再臨主である」と言えば、それを信じますか。この地上に神様のみ旨を成し遂げるために、万民の前に遣わされたメシヤは、ユダヤ教徒が従わなかったことにより、私たちの知らない中で死んでいった恨めしい歴史があるという事実を知らなければなりません。
キリスト教徒たちに、「イエス様は何をしに来ましたか」と尋ねれば、「万民を救うために来ました」と答え、「どのようにして数おうとして来ましたか」と尋ねれば、「十字架に釘打たれ、救うために亡くなられました」と答えるでしょう。それならば、キリスト教は再臨主が来るのを望んでいますが、キリスト教が滅んで駄目にならせるために、主が来られるのを願うのでしようか。栄えようとして願うのです。
イエス様に従えなかったユダヤ教が恩恵を受けましたか。信じていたなら天理の恩恵を受けたはずなのに、信じないでイエス様を殺したことによって二千年間、国のない、さすらう孤独な旅人の身であったという事実を私たちは知らなければなりません。世界の人を救うことができ、本来の神様のみ旨を成し遂げ得る、その中心存在を殺したのですから、これほど大きな罪はありません。
四千年間準備した民が、もしエリヤが先に雲に乗って来たとするならば、イエス様を捕らえて殺せるでしょうか。殺さないのです。神様が歴史的旧約時代に、このように摂理をされましたが、新約時代にはこのように摂理をしないという保障がありますか。旧約聖書にも、「雲に乗って来る」という箇所と、「エリヤを遣わしてくださる」という箇所と、「人として来る」という箇所があります。そして新約聖書にも、ヨハネの黙示録第一章7節を見れば、間違いなく雲に乗って来るとあるのですが、テサロニケ人への第一の手紙第五章2節を見ると、盗人がくるように来るとあります。両面の預言があります。あのように来るとも言い、このように来るとも言うのです。
ところが自分の都合のよいように、雲に乗って来るということは信じて、盗人が夜くるように来るということは信じないのですか。歴史的事実を推察してみて、今日私たちの置かれている立場を明らかにすることによって、私たちは将来、二度と神様のみ旨の前に罪を犯してはなりません。それゆえ「雲に乗って来ることもあり、人として来ることもあり得る」というふうに信じる人が、賢い人なのです。

Sunday Oct 13, 2024
イエス様の生涯と愛 第54話
Sunday Oct 13, 2024
Sunday Oct 13, 2024
イエス様を不信したユダヤ民族
今日、キリスト教がメシヤの来臨を望んでいることは、あたかも今から二千年前にユダヤ教徒がメシヤを待ち望んだことと全く同じ立場です。今日のキリスト教について見れば、二千年間、メシヤが来ることを待ち望んできましたが、ユダヤ教からすれば、天は四千年間、数多くの預言者を送って犠牲にしながらメシヤを遣わすことを約束したのです。
神様がメシヤを遣わすことを約束したので、その民族は四千年間、その方が来ることになれば鉄石のように固く一つになり、神様のみ旨を成し遂げようと誠を尽くして信じてきたのです。
そうして神様は、メシヤたるイエス・キリストを約束どおりその民族に送りました。また、約束どおりその民族は、受け入れなければならない立場に立っていました。ところが、メシャが来ることを望んでいた民族が、メシヤを受け入れるどころか、むしろ迫害して捕らえ、殺してしまいました。それはなぞではないでしょうか。
例えるならば、今日、キリスト教徒が主メシヤが来ることを待ち望んでいるところにメシャが来たのですが、そのキリスト教の最高指導者であるローマ法王や、カーディナル(枢機卿)、ビショップ (司教)、牧師のような者たちが総動員して、メシヤを捕らえて、殺したことと同じなのです。そのような結果をもたらしたのです。簡単に「死ぬために来た」ということは通じないのです。理論的に合わないのです。死ぬためならば、何をしに来るのでしょうか。四千年間、数多くの預言者を殺し、イスラエル民族をあれほどまでに苦労させて送ったメシヤが、死ぬために来たのでしょうか。
ですから今からは、ユダヤ民族があれほどまでに待ち焦がれたメシヤを神様が送ってくださったにもかかわらず、どうして彼らは捕らえて殺したのかを、はっきりと知らなければなりません。
なぜ捕らえて、殺すことになったのでしょうか。第一に、旧約聖書が捕らえて殺すようになっています。なぜでしょうか。旧約聖書のマラキ書は、新約聖書のヨハネの黙示録に該当します。マラキ書第四章5節以下を見ると、「主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる」と明確に預言されています。
エリヤというのは、イエス様が来られる九百年前に火の戦車に乗って昇天した人です。神様が、この民を愛し、このように時を決めてエリヤを送ってあげようと言われたので、火の戦車に乗って天に昇ったエリヤが先に降りてくるだろうと思っていたのです。
エリヤが再び来ると聖書には固く預言されているのに、エリヤは来ませんでした。聖書というのは、どのような本かというと、四千年間イスラエルの民族思想の基調になり、ユダヤ教の信仰の中心になっており、四千年の間、命のすべてを注いで信じてきた本です。そのような聖書を、イエス様の話を聞いて捨てられるでしょうか。
主が雲に乗って天から降りてくるのを待ち望んでいるのに、ある人が来て「私が主だ」と言うことと同じです。それを今のキリスト教が信じられるでしょうか。
そのような事件ゆえに、イエス様はひどい目に遭ったのか、遭わなかったのかということを、イエス様のみ言を通して調べてみましょう。マタイによる福音書第十七章10節以下に、次のような場面があります。イエス様の弟子たちは、聖書をよく知りません。無知の者たちがみな、イエス様は救世主だと信じて伝道に出掛けたのです。
「メシヤが来たので、メシヤを信じなさい」と言うときに、信じない祭司長たちが「お前たちの先生がメシヤなら、聖書のマラキ書には間違いなくメシヤが来る前にエリヤを送ってくださるとあるのに、そのエリヤはどこにいるのか」と言ったのです。無知の弟子たちは分からないので、イエス様に尋ねる場面が出てきます。
もしエリヤが来たとするならば、イエス様は目の不自由な人でもよく、耳の不自由な人でもよく、足の不自由な人でもよいのです。エリヤが来なかったがゆえに問題なのです。
聖書には次のようにあります。「弟子たちはイエスにお尋ねして言った、『いったい、律法学者たちは、なぜ、エリヤが先に来るはずだと言っているのですか』。答えて言われた、『確かに、エリヤがきて、万事を元どおりに改めるであろう。しかし、あなたがたに言っておく。エリヤはすでにきたのだ。しかし人々は彼を認めず、自分かってに彼をあしらった。・・(中略)...』。そのとき、弟子たちは、イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだと悟った」(マタイ一七・10~13)
洗礼ヨハネがエリヤですか。皆さんならば信じますか。エリヤは来ていなかったのですが、エリヤを洗礼ヨハネに取って付けたのです。「お前が、洗礼ヨハネのことをエリヤだといって取って付けたのは、メシヤを装った詐欺師だからだ」というのです。
そうしてイエス様のことを、四千年間、神様が立てられたイスラエル選民を滅ぼし、イスラエル、ユダヤ教を滅ぼす頭だ、ベルゼブルだと決めつけてしまったのです。

Sunday Oct 13, 2024
イエス様の生涯と愛 第53話
Sunday Oct 13, 2024
Sunday Oct 13, 2024
三、メシヤ降臨に関する旧約の預言とその結果
両面で預言されたメシヤの再臨
メシヤが雲に乗って来ると思っていたユダヤ教徒たちの前に、イエス様が人として現れたので信じなかったのです。それゆえ、このように旧約聖書に対し誤った解釈をすることによって、来られたメシヤを捕らえて殺したというこの途方もない事実を、今からでも知って悔い改めなければなりません。
さらに一つ、はっきりと知っておかなければならないこととは何かというと、聖書は両面から預言されているということです。なぜ両面から預言されているのでしょうか。堕落した人間は、責任を果たすことも果たさないこともあるからです。神様と一つになっていた人が背を向け、サタンと組んで神様を滅ぼしたり、サタンと組んでいた人が神様のところに戻ってきて、サタンを滅ぼしたりするのです。それゆえ人を、神様も恐れ、サタンも恐れているのです。
ゆえに旧約聖書のイザヤ書第九章、第十一章、第六十章、この三つの章には、栄光の主として堂々と来ることを預言していますが、第五十三章においては苦難に遭うことが預言されています。ところが信じて迎えることができなかったので、イザヤ書第五十三章の預言が成就したのです。信仰によって成就すべきことが、不信仰によって成就しなかったので、それが延長されて再臨の時を迎えなければならないのです。
それでは、新約時代に来るべきメシヤの立場を、新約聖書はどのように預言しているでしょうか。新約聖書もメシヤが来ることに関する預言は、旧約聖書と同じです。ヨハネの黙示録第一章7節を見ると、再臨するメシヤは間違いなく雲に乗って来るとあります。しかし、テサロニケ人への第一の手紙第五章2節を見ると、メシヤは「盗人が夜くるように来る」と預言しました。雲に乗って来るのに、盗人のように臨めるでしょうか。
今日のキリスト教徒は、自分勝手に雲に乗ってくることは信じ、盗人のように来ることは信じないのでしょうか。自分勝手にそのように信じられるのでしょうか。ですから私たちは、知恵深くなければなりません。旧約時代の実情を推し量ってみるならば、主が雲に乗って来ることもあり、人として来ることもあり得るということを知らなければなりません。

Sunday Oct 13, 2024
イエス様の生涯と愛 第52話
Sunday Oct 13, 2024
Sunday Oct 13, 2024
ペテロの痛悔と新しい決心
天に向かう信仰路程において、永遠、不変の姿で宇宙的な使命を少しも疑わずに推し進めるイエス様を見つめる瞬間、ペテロの心が一変して、一生の間、主のために生きようという衝動感が起きたことを知らなければなりません。不信の自我を悟ったときから、ペテロはイエス様と自分との関係、あるいはお互いの生涯を比較しながら、自分の足りなさをより強く感じるようになったのです。
イエス様が天のみ旨一つのために、この地上の万民のために自分の幸福を求めず、自分のすべてを天の前に供え物として捧げられました。十字架に引かれていかれながらも、恨まないイエス様の姿を見守りながら、三弟子は自分たちの生涯があまりにも自分中心的であったことを感じるようになりました。そうして自分を中心としないイエス・キリストの前に、弟子たちは自ら自己を反省し、イエス様が常に願われたみ旨を引き継いで、この地上でそのみ旨を実践しようと、心に確認して誓うことができたのです。
それからペテロは、どのようなことを感じたのでしょうか。自分の不信を感じると同時に、周囲の不信を感じたのです。罪のないイエス・キリスト、どこの誰に尋ねてみても罪がないというイエス・キリストを、悪なる周囲の人々が縛り、むちで打って喜ぶのを見ながら、ペテロは迫害されるイエス様の視線の中で、イエス様の悲しく孤独な心を見抜くことができました。
このような悔しい立場でも、天の道を守っていく姿を見せるイエス様の熱い視線の前に、ペテロは周囲の人々の不遜さを感じたのです。そこからイエス様の弟子ペテロは、イエス・キリストの味方になり得ない悪なる群れを滅ぼすために、主が再び来られるまで、周囲の不遜な勢力と戦おうと、正義感あふれる覚悟をしたのです。
天に向かって歩んでいくイエス様の善なる不変の姿と、周囲の人々の不遜さは、天地の差がありました。それゆえ、瞬間的に振り返るイエス・キリストの視線を通して、ペテロは自分の愚かだった生涯を清算することができ、周囲の環境を浄化して善の基準を立てなければならないと決心をし、より一層神様に向かったのです。
言葉なく、天のため地のため、万民のため、み旨のために亡くなったイエス・キリストの死を通して、ペテロはおのずと主を尊敬するようになり、その死の前に懺悔の涙を流して痛哭したのです。
この事実が、最後に振り返られたイエス・キリストをして、自分を認めてくれる使徒がいることを感じさせ、途絶えた天と人間の因縁が回復する瞬間であることを感じさせたのです。ペテロー人だけが、天と地、そして万民と数多くの使徒を代表して、神様のみ旨の前で亡くなったイエス様に対して、自分の足りなさを感じ、痛悔(心の底から悔やむこと)の涙を流したのです。
このように主が十字架で亡くなる前に苦難を受けられる姿を見て、ペテロだけが痛哭しながら悲しく泣いたのです。このようなことがあったからこそ、イエス様が使徒たちを中心として役事することができる基準、イエス様と人間たちが互いに因縁を結べる新しい基準が造成されたことを、皆さんは知らなければなりません。
イエス様が十字架に亡くなってから今日まで、キリスト教徒が神様のみ旨だけをつかんで、復活と再臨の時を待ち焦がれたことと同じ立場を、皆さんもいずれ経なければならないのです。
そして、ペテロのような立場も蕩減復帰しなければならないのです。これが皆さんの信仰の路程に残された最後の運命であるとするならば、深刻な立場で真剣にイエス様と自分との間を振り返ってみながら、イエス様の志操を見習うことができなければならず、イエス様のその姿勢の前に身をかがめ、痛悔できなければなりません。
私たちが今までの信仰生活の中で、主が私たちのことを心配するように、私たちも主のためにどれほど心配しながら生きてきたのかが問題です。自分はイエス様のことを心配しながら一生涯生きてきたとしても、どうして死の立場を克服しながら、ペテロを見つめたイエス様の生涯と比較できるでしょうか。
今や蕩減復帰原則によって、イエス様が死の道で群衆を振り返られたように、私たちも死の道でイエス・キリストを振り返る自分とならなければなりません。そのような立場で、イエス様に代わる立場に立つと同時に、イエス様を栄光の場に迎えてさしあげるために、イエス様の苦痛を代わりに受け、イエス様の心配を代わりにしなければならないのです。皆さんに、そのような時があったのかということが問題なのです。
もし皆さんに、そのような時がないとするならば、「終わりの日」すなわち復活の栄光を迎えるときに、マグダラのマリヤが復活されたイエス・キリストをつかもうとしたように、皆さんが復活の主をつかんで、「私の主よ、私の新郎よ」とは言えないでしょう。
イエス様が十字架への道を歩むなかでペテロを振り返られることによって、初めてペテロと三弟子を探し出すことができたのですが、イエス様を直接つかんで天国まで行っている聖徒はいないのです。
四位基台が造成されれば、サタンが侵犯できる圏内から抜け出すことになるので、イエス様は昇天せずにこの地上で家庭の基盤を築くことができるのです。
家庭基盤を備えるためには、イエス様が新婦である聖霊を迎えなければなりません。実体聖霊を迎えるようになれば、平面的な基準を中心として思いのままに活動ができます。ところが弟子たちが息子、娘の基準を立てられなかったので、イエス様は霊的に条件だけを立てることになったのです。これがイエス様の恨なのです。このように地上で完全蕩減の基準を立てられなかったので、やむを得ずイエス様は昇天することになったのです。

Sunday Oct 13, 2024
イエス様の生涯と愛 第51話
Sunday Oct 13, 2024
Sunday Oct 13, 2024
ペテロを振り返られたイエス様の心情
イエス様が十字架の道、ゴルゴタ山上の孤独な道をたどっていこうとするとき、愛する十二使徒の代表であるペテロを再び振り返られました。それは、自分のあとに一番先に従うべきペテロの心が変わるのではないかと心配したからです。このように神様のみ旨を心配する自分の心が悲痛であるにもかかわらず、愛する心でペテロを顧みられたイエス様のその視線を、今日再び感じる者とならなければなりません。
しかしペテロは、三度もイエス様を知らないと否認しました。それゆえ天のみ旨とは完全に分離された立場に立つようになり、イエス様とは関係のない立場に立つようになったのです。
そのようなことを知っているイエス様でしたが、死の道に向かっていく自分のあとを死守して、同情してくれる一人の人を探そうとされたので、愛する一番弟子であるペテロを振り返られたのです。このように一人の真の人を探そうとされたみ旨が、愛弟子ペテロを見つめるその視線の中にしみ込んでいたことを知らなければなりません。
神様の全体的な摂理に責任を負って来られたイエス様においては、このような立場に立つようになるとき、これほどの悲しい場面はないでしょう。なぜならば人間の不信によって、ゴルゴタの道、死の道を行く自分の使命を引き継ぎ得る一人の人を探そうとするイエス様は、言うに言えない悲しみに浸ったのです。ただ神様だけが、イエス様のつらい心情を分かってくださり、イエス様の悲しい事情を心配してくださいました。
イエス様はその三十年余りの生涯に、ひたすら天の悲しい事情に代わって歩んできた苦労の路程を回顧してみるとき、人間に対して叱責したく、地に対して呪いたい心が身にしみていたのです。ところが、自分のそのような心を押さえつけ、自分の足取りを止めて、従っているペテロを見つめたのです。このようなイエス様の内的心情を感じられないならば、イエス様を中心とした神様のみ旨を代わりに引き継いで、万民の前に堂々と立てないことを、はっきりと知らなければなりません。
それならば、このように孤独に苦難の路程で一生を締めくくられるイエス様を見つめるペテロの心は、どのようなものだったでしょうか。彼は過去にイエス様と結んだ本性の愛の因縁を忘れられず、孤独な中で呻きながらこの上なくわびしい立場に置かれたことでしょう。哀れなイエス様を侮辱し、罪のないイエス様を恨み、罪のないイエス様が縛られ引っ張られていくその姿を見つめるペテロの心も、もちろんとても痛かったことでしょう。
しかしペテロは、イエス様が全人類を取り戻すための代表的な使命を帯びて来られたメシヤであることを悟れなかったので、弟子たちの代わりに乗り出すことができず、自分だけを考える立場に立ってしまったのです。このような立場に置かれているペテロの前に女性の僕たちが現れて、ナザレ人イエスの群れではないかと問われたとき、三度も「知らない」と言いました。このようなペテロー人の姿は、地上の人間を代表した立場であったことをはっきりと知らなければなりません。

Sunday Oct 13, 2024
イエス様の生涯と愛 第50話
Sunday Oct 13, 2024
Sunday Oct 13, 2024
イスカリオテのユダの不信
このような立場で、ヨセフとマリヤは一緒に暮らさなければなりませんか、暮らしてはなりませんか。暮らしてはなりません。ヨセフは天使長と同じ立場です。ですから彼らが一緒に暮らすということは、アダムとエバの堕落を継承して繰り返すのと同じことなのです。
ここでマリヤはイエス様と一つになって、いかなる犠牲を払ってでもイエス様の相手を求めてあげる使命を果たさなければなりませんでした。しかしその使命が果たせなかったことによって、すべてを失ってしまったのです。ヨセフを中心とした家庭において、すべてを失ってしまったのでイエス様は家を出て、相手を探し求めなければならなかったのです。
それならば、家を出てこのことをしなければならないという場合に、ヨセフと同じ立場に誰を立てるのかということが問題なのです。これは正にイスカリオテのユダが適格者でした。
またマリヤの立場に立ち得る人をどこから探さなければならないのでしょうか。家庭において、マリヤとヨセフが失敗したので、これを再び取り戻さなければなりません。これを復帰しなければ、イエス様は使命をつなぐことができないので、このことを外的にするためにイエス様は家を出たのです。そうして十二弟子を探し立て、イスカリオテのユダを中心として、このことをしようとしたのです。それにもかかわらず、彼のみ旨は成し遂げられなかったのです。
では、その原因は何でしょうか。イスカリオテのユダは、なぜイエス様を銀貨、三十枚で売ってしまったのでしょうか。イスカリオテのユダがイエス様を売り飛ばしたのは、お金ゆえでしようか。イスカリオテのユダは、愛する妻を、昼夜イエス様に仕え、忠誠を尽くせるように協助しなければなりませんでした。
妻と別れることがあったとしても、その妻をイエス様の母と同じ立場に立たせ、イエス様に協助できる基台を準備してあげなければならなかったのです。それにもかかわらず、その責任が果たせなかったのです。このような基台がすべて崩れたので、イエス様は行く所がなく、やむを得ず十字架で亡くなられたのです。このようにイエス様は、悲運の歴史を背負って亡くなったので、今日、我々統一教会ではこのような歴史を解怨しなければならないのです。
責任を果たせなかった三弟子
イエス様がイスラエル民族を中心としてローマ帝国を屈服させていたならば、その地でキリスト教の主権を中心として新しい理想世界が出発していたはずです。しかし、イスラエル民族がイエス様と一つになれなかったことによって、イエス様が亡くなったのちに地の基盤を完全に失ってしまい、さまよう雲のように東から追われれば西に行き、西から追われれば東に行くという立場に立ったのです。このように国のない民として、霊的な国を追求して二千年、民主世界を発展させ、その基盤に代わり得る道を探し求めてきたのが、今までのキリスト教の歴史なのです。
聖書を通して知らなければならないことは、アダム家庭のカイン、アベル、セツの三人の息子が互いに一つになれずに落ちてしまったので、アダムの代わりに父母の立場で来られたイエス様に対して、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを立てたということです。アダムの家庭を中心として、三人の息子が一つになれなかったので、これを再び取り戻して一つにしなければ、父母の立場、アダムの基準を復帰することができないのです。したがって死地でさえも一つになって連れていかなければならないイエス様の運命なので、ペテロ、ヨハネ、ヤコブをゲッセマネの園に連れていって、徹夜しながら祈らなければならなかったのです。
ここで父母の立場であるイエス様が十字架で亡くなる前に、誰が先に死ななければならないのかというと、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの三弟子です。イエス様よりも彼らが先に死ねば、どうなるのでしょうか。復活させるときに、ペテロ、ヨハネ、ヤコブも復活するのです。そうなると、どうなるのでしょうか。地上で四位基台が形成されるのです。

Sunday Oct 13, 2024
イエス様の生涯と愛 第49話
Sunday Oct 13, 2024
Sunday Oct 13, 2024
変貌山での悲壮な決心
変貌山に登るとき、三弟子がイエス様のあとについていきました。彼らは外見からすれば民族を代表して選ばれた弟子の立場でしたが、イエス様にとっては何の助けになる条件も立てられない弟子たちでした。
イエス様が荒野を訪ねていくときは、それでも天使が来て仕えたのに、民族のために戦い、民族のために死を覚悟して変貌山を登るときは、民族を代表してついてきた三弟子でさえも、イエス様に仕えられなかったのです。それを考えると、悲しみで始まり悲しみで終わったイエス様の生涯は、悲痛なものであったことを、私たちは感じざるを得ないのです。
そのイエス様はひざまずいて天を仰ぎ、「私の力の及ぶ限り、私にあるすべての精誠を尽くして、願われるみ旨に従ってまいります」と祈られました。歴史的ないかなる先祖たちよりも、固い志操と忠義と誠心と努力を傾けて三年の公生涯路程を歩まれましたが、民族から追われ教団から追われました。親戚や弟子たちが、誰一人として自分の味方になってくれない中で、イエス様は天に向かって祈祷する生活をしたのです。
イエス様の心情は、自分が孤独な立場で悲しみを感じること以上に、神様が人間に対して四千年間苦労してきた歴史の結果がこの有様なのかと思い、神様に自分の心情を告げるにはあまりにも心苦しい気持ちであったことを知らなければなりません。
そのような心情に徹したイエス様には、民族に対する恨みの心や、教団に対する恨みの心、あるいは堕落したアダムとエバに対する恨みの心がわき出ることはありませんでした。人を恨む余地がなかったイエス様であったことを、私たちは知らなければなりません。
昔、先祖たちは、悲しいとき天から慰めを受けましたが、イエス様は悲しい立場にあっても、「悲しい」と祈れない自分であることを悟っていたのです。祈ろうとする前に、既にすすり泣きの涙がイエス様の膝をぬらしていただろうと私は思います。
その姿は、天地の上に罪人の中の罪人同然でした。四千年間、苦労の歴史を繰り返して摂理された神様の前に、勝利の条件を立てられずに敗北の一路で悲しい事情を抱き、変貌山上に独り現れて、天に対して訴えざるを得ない立場に立ったイエス様は、とても口を開いて祈ることはできなかったのです。
その姿と事情が哀れだったので、神様はエリヤとモーセを送られ、エルサレムでのイエス様の死について話し合わせました。弟子だけでなく、神様が悲しみに浸ることを知ったイエス様は、民のために、またこの後代のために天を心配されて、過去と現在と未来を前に悲しまれたのです。
死の道を歩んででも希望がなく、行く手が遮られた中に置かれたユダヤの民を生かさなければならないことを感じたイエス様は、かつてのエリヤのように「アバ、父よ!ただ私だけが残りました」と訴えるそのような祈りの心情で、神様の前に現れたのです。このようなイエス様の心情は実に悲痛なものだったのです。
エルサレムで死ぬことを予告されたイエス様は、その死の一日を人知れず準備しました。イエス様は自分の死の日がだんだんと差し迫り、事態が入り乱れていくのを感じました。また愛する弟子が自分を売ることを知り、自分が十字架に進む前に、まず世の中の万事を終結させなければならないと、深刻な思いをもちました。そのような心情が、彼の身と、心にしみ込んでいたのです。
死を前にして、最後の道を行くべき救世主の使命を負った自分であることをイエス様は知っていたので、死の道を経たのちの行くべき方向を設定しなければならなかったのです。イエス様は自分のこのような死によって、歴史的な悲しみと時代的な悲しみ、そして未来の悲しみがなくなるどころか死の峠を越えたあとまでも、もつれたまま残っているのではないかと心配したのです。このようなイエス様の心情は、いかなる時よりも悲壮なものであったことを知らなければなりません。
このような心情にとらわれているイエス様のことを分かってあげた人は、地上に一人としていませんでした。その事情を分かってあげた弟子は一人もいなかったのです。イエス様の事情が分かる方は、神様しかいませんでした。
そうしてイエス様は、人には分からない悲しい心情をもつようになり、歴史的、時代的、未来的な怨恨を抱くようになり、悲運の障壁と黒い雲が目の前を遮る環境、死に追い込まれる悲惨な環境に処したのです。このようなイエス様の心情は、悲しいと言えばこの地上のどこの誰よりも悲しい心情であり、悔しく無念であると言えば、どこの誰にも比べものにならないほど悔しく無念であったことでしょう。

Sunday Oct 13, 2024
イエス様の生涯と愛 第48話
Sunday Oct 13, 2024
Sunday Oct 13, 2024
弟子たちの不信と無知
イエス様は自分の一身を越え、家庭と社会と国家と世界、さらには無限の霊界まで復帰すべき使命が自分にあることを知っていました。したがって、イエス様が個人を求めてさまよわれたのは民族を求めるためであり、民族を求めてさまよわれたのは世界を求めるためでした。そして世界を求めるために今日まで二千年間苦労されたのは、天上天下すべてを神様が治める所につくるためだったのです。
ところが、このような事実を人々は知りませんでした。したがってイエス様は、天宙的な計画を実現すべき自分の前に現れるそのような群れに、神様の深い心情とみ旨を語ろうにも語れなかったのです。このように哀れな状況に置かれたイエス様であられたことを知らなければなりません。ですからイエス様は、「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない」(ヨハネ一六・12)とおっしゃったのです。
イエス様は、全世界万象を復帰すべき神様の摂理を代わりにするという天宙的な使命感に燃えて、天に対して忠誠の道理を果たそうとしたのですが、当時の人間はそのようなイエス様が分からなかったのです。
では今日、皆さんはどうでしょうか。「私はイエス様を数十年間信じてきました。私は牧師だ。私は長老だ。私のことを神様が知らないはずがない」と主張する人たちがいますか。そのような人がいるならば、その人は神様の前に頭を下げて涙を流さなければなりません。四千年間、選民圏を誇っていたイスラエル民族が滅びるとは、誰が知っていたでしょうか。三年の公生涯過程で、イエス様と喜怒哀楽を共にした十二使徒までもイエス様を不信するとは、誰が知っていたでしょうか。誰も知らなかったのです。
ではどうして、このような矛盾の歴史が起きたのでしょうか。イエス様の観念や願いが、弟子たちの観念や願いとは異なっていたからです。それで弟子たちが、イエス様を不信したのです。
それならば、イエス様の当時に万物のわめき声を聞き、闇の中にいた人間が天に向かって「彼らを解放させてください」と祈った、その悲しい心情を感じ、涙を流したことがありますか。またはあの霊界で、数千億の霊人が嘆いているわめき声を聞いたことがありますか。イエス様は聞かれたのです。イエス様は人類歴史の終末に、審判の硫黄の火が降り注ぐその審判のむちを知って、涙を流されたのです。

Sunday Oct 13, 2024
イエス様の生涯と愛 第47話
Sunday Oct 13, 2024
Sunday Oct 13, 2024
イエス様の教えどおりに行動しなかった弟子たち
イエス様の心情が分からない弟子たちは、イエス様を利用して高い位置に上がろうとしました。それを知ったイエス様は、地をたたいて泣いてもその心を晴らすすべがなく、天に向かって痛哭しても、これを晴らすすべがない悲しい心情をもって生きられたのです。
しかし行くまいとしても、行かざるを得ない使命の路程が残っているがゆえに、その心を抑えて弟子たちに対して、「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」(マタイ二三・12)と言われました。自分の心中、骨肉にしみ込んだ決心の一端を再度証されたという事実を知らなければなりません。
その時この言葉を聞いた弟子たちは、それはイエス様の言葉であって、自分たちとは何ら関係がないと思いました。弟子のヨハネの母が自分の二人の息子を「終わりの日」に、栄光の立場に立ててくれと言ったときの、もどかしく惨憺たるイエス様のその心情をいま一度考えてみてください。イエス様は哀れな方です。イエス様が弟子たちにそのように教えてあげ、そのように訓戒してあげたにもかかわらず、彼らはそのみ意が分からなかったのです。
それゆえ付き従う群れが多くなればなるほど、弟子たちは自分たちがうれしいという行動を表しましたが、イエス様が自分たちに実践して見せ、教え、訓戒してくれたことを見習い、イエス様に従う群れの前に見本となって、イエス様を高めイエス様をあがめるそのような供え物の立場には立てなかったのです。かえって弟子たちによって、他の人たちがイエス様の前に出ていくことが難しくなったのです。
それにもかかわらず、イエス様はその弟子たちには弟子たちを越えて、教団が叫んでいることを成就すべき責任があることを知り、教団には教団を越えて、民族が叫んでいることを成就すべき責任があることを知り、民族には民族を越えて世界が叫んでいることを、世界人類には世界を越えて天が叫んでいることを成就すべき責任があることを知りました。
しかし、このような彼の心情を誰一人として知る者がいなかったのです。そのような事情に置かれているイエス様にとって、自分だけに向き合ってほしいという幾人かの弟子たちを見つめることは、どれほど悲しかったことでしょう。イエス様は千辛万苦して真心を尽くす聖徒たちがおなかのすくときには、餅を作って食べさせてあげ、彼らが「時」のために泣くときには、彼らを慰めてあげ、失望するようなときには、八福の教え(山上の垂訓<マタイ五・3~10))を通して天の祝福を紹介しました。
このように彼らを率いて回りながら、失望するのではないか、あるいは離れていくのではないかと心配をされたイエス様の心の切ない事情を表現したものが、正に福音書のみ言であることを私たちは知らなければなりません。
さらには、一つの事情をかけて話せば話すほど、そのみ言を聞いて近づくべき弟子たちであるにもかかわらず、かえって遠ざかる立場に行く弟子を見つめるイエス様の心情を感じなければなりません。
ついには腰に手ぬぐいを巻いて、たらいで弟子たちの足を洗ってあげながら、私の道理は「仕えること」であると主張したイエス様でした。このようにしてこそ、天と因縁を結べることを知っていたイエス様だったので、行くまいとしても行かざるを得なかったのです。このように悲しみを感じながらも、弟子たちを見つめられたイエス様であったことを知らなければなりません。
復帰の路程を歩まれたイエス様が、奇跡を喜んで行われたのではありません。うれしくて安らかなので奇跡を行ったと思ったら、大きな誤解です。この地には身の置き所がなく、この宇宙の中には頼る所がないので、天に向かって訴えまいとしても訴えざるを得ない事情があったのです。このように悲壮な境地にあったイエス様の切なる姿を見つめなければなりません。
イエス様が彼らに同情せざるを得ない悲しい事情に処し、手を挙げて「父よ!」と呼ぶときに、そこで奇跡が行われたのです。骨肉が溶けるような悲しい場面で叫ぶ、その一つの事情を通して現れたものが奇跡であったことを知らなければなりません。その奇跡は、イエス様が怠慢で、あるいは好きで行ったものとは思わないでください。
ベツサイダの町で五千人余りの群衆が、「イエスよ、あなたは復活した預言者の一人であり、選ばれたイスラエルの指導者であられます」と、手を振りながら叫びました。このように、利益になり得る立場のときは訪ねてきましたが、時が過ぎ、イエス様が自分たちと心的基準が変わり、事情が変わり、標準の違う境地へとさらに一歩進むと、彼らはイエス様を裏切って背を向けました。これがイエス様の歩んでこられた路程にあった現象です。