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Friday Oct 04, 2024
イエス様の生涯と愛 第40話
Friday Oct 04, 2024
Friday Oct 04, 2024
ユダヤ民族の不信
イエス様はこの地上に来られ、十字架にかかって亡くなり、復活されたのちに昇天されたので、再び来なければならない摂理的運命に置かれているのです。
長い間、神様の摂理のみ旨に従ってきたイスラエル民族の中でも、選ばれたユダヤ教は、神様のみ旨を成し遂げ、勝利の基台を準備すべき使命がありました。これが彼らを選んだ神様の願いであり、また彼ら自身の希望でした。
このようなみ旨がかなえられるその時を願って、神様は御自身が信じることができ、創造理想を実現する全体の任務を遂行し得る一人息子であるイエス様を送りました。したがって神様は、イエス様を人間の前に主人として現れるようにされ、イスラエルを通して祝福を成し遂げなければならず、また歴史的な神様の救いの摂理のみ旨を終結させなければならなかったのです。
ところがそのようなイエス様が、どうしてこの地で摂理のみ旨を成就できず、神様の栄光を謳える理想の園を成し遂げられずに逝ったのでしょうか。これが今日、私たちに悲しみを呼び起こさせる内容であらざるを得ません。
イエス様がこの地に来られて亡くなる時までの路程は、今日この地上に生きている人間たちの行く、そのような生涯の路程ではありませんでした。誰よりも困難な立場、誰よりも孤独な生涯を経て逝かれました。またイエス様は、神様のみ旨と人間の理想を一身に携えて、一世代圏、一時間圏内の一存在として現れた方です。
けれども、そのようなイエス様の価値を、天が見るのと同じ価値として認める人がこの地には一人もいませんでした。それだけでなく人間は、全人類に神様の愛を連結してくれる愛の中心存在として、イエス様に侍ることができませんでした。
それゆえイエス様は、言うに言えない悲惨な生活をされたのです。誰か一人でも友人として立たせて、自分の悲しみを吐露することができなかったイエス様でした。このようにイエス様は、どこの誰よりも哀れに生きて逝かれたことを、今日知らなければならないのです。
神様のみ旨を成就させ、神様の栄光のためにイエス様が来られたことがイスラエル民族の喜びとなり、ユダヤ教団と世界人類の喜びとならなければなりませんでした。また神様のひとり子であるその方は、全人類の主人公として現れなければなりませんでした。ところが、どうしてそのイエス様は、飢えと悲しみを受ける哀れな生活をされたのでしょうか。
時代は変わり、歴史は経過しても、イエス様が生存時に感じられた悲しみと孤独さを体恤し、彼の哀れさを感じ得る人にならなければなりません。もし皆さんが天地に代わってサタンと戦い勝利することによって、神様に栄光をお返しできる息子、娘になることができないならば、悲しみと孤独さによって残されたイエス様の怨恨を解いてさしあげるすべがないのです。
イエス様の願いは、自分自身の欲望を満たすことではなく、自分自体を犠牲にしてでも神様の創造理想を実現してさしあげることでした。被造世界の中心存在に立てられた人間が堕落したので、神様は創造理想を実現するために、四千年間復帰摂理をしてこられたのであり、イエス様は堕落した人間始祖の誤りに責任を負って、そのような神様のみ旨を自分の理念、自分の目標として現れた方でした。
ところがイスラエル民族は、そのようなイエス様を知りませんでした。それだけではありません。ユダヤ民族は、イエス様の一身が歴史的な願いの代わりであると同時に、当時、神様の全体的なみ旨の代わりである方だったことも知らなかったのです。
イエス様は孤高な一個人ですが、それ自体は歴史に代わることができ、現実に代わると同時に、天倫のみ旨に代わり得る永遠なる神様の理想をもった方でした。けれども、神様のみ旨に従ってきたイスラエル民族とユダヤ教団は、イエス様がそのような方であることを知り得ませんでした。それゆえ彼らは、イエス様の行かれる道を協助するどころか、公然と妨害し、迫害したのです。

Friday Oct 04, 2024
イエス様の生涯と愛 第39話
Friday Oct 04, 2024
Friday Oct 04, 2024
内的三十年の準備期間と外的三年の公生涯路程
イエス様が三十年間に準備したのは、何だったのでしょうか。今まで神様が、内的に摂理した世界において絡まった多くの曲折をすべて解き、これを外的な世界にそのまま横的に展開させて蕩減復帰するための準備期間でした。三十年の準備期間は内的であり、三年の公生涯路程は外的期間であって、三十三年の期間を通して、完全なアダム復帰、個体完成を完結するために戦ってきたことを知らなければなりません。
メシヤとして生まれたその日から、メシヤの振る舞いをするのではなく、先祖たちが誤っていれば、誤ったすべてを完全にサタンの前に蕩減して、分別された勝利的基盤を築いた基台の上で、メシヤとして出発できるのです。この地上に、そのような出発のできる土台があったならば、イエス様は苦難の道を行く必要がないのです。
もし東方の博士、あるいは羊飼いなどが、イエス様が準備時代として内的な闘争をする三十年の準備期間に、イエス様の垣根になり、外的な闘争の基盤を築き上げていれば、イエス様は外的三年の公生涯路程において、内的なそのすべての天的な恨を地上に横的に展開して蕩減するに当たって、苦難の道、迫害の道、苦労の道を行かずに土台を築けたでしょう。
また、築かれたその土台を中心としてこれを動かしていき、苦難に遭うにしてもこれを基盤にして、彼らと連絡できる洗礼ヨハネを中心とした人たちが責任を果たしていたならば、イエス様は外的な苦難にぶつからずに、み旨を成し遂げられたでしょう。
けれども、そのような土台がすべて崩れていくことによって、イエス様は東方の博士や羊飼いたちが追求した人間の代表としての使命を再び収拾し、洗礼ヨハネを立てたすべての準備の基盤を築いてきたものまで収拾して初めて、時代の前に現れることができることを知らなければなりません。
それゆえ、長く見るならば四千年の歴史を収拾しなければならず、御自身の生涯について見るなら、三十余年の生涯路程において、天が準備した横的な地上の歴史的条件までも蕩減しなければならなかったのです。ですからイエス様が蕩減しなければならない期間が、三十年の生涯と三年の公生涯路程であることを知らなければなりません。この三年の公生涯路程というのは、この上なく悲しい路程です。人間が責任を果たせなかったことによって、イエス様が苦難の道を行き、十字架の道を行ったことを私たちは知らなければなりません。
イエス様が三十三年間、この地上で天を代表して戦った目的はどこにあるのかというと、個体完成です。それゆえサタンが、三大試練として試練したのは何でしょうか。イエス様を一時的な一人の怨讐として試練したのではありません。イエス様の全体目的に対して試練したのです。
サタンが試練するに当たって、イエス様の三大試練の内容と同じそのような目的の実体になって試練する人に対して、「サタンよ、退け」と防いでくれる人がいたならば、イエス様には試練は必要ありませんでした。三大試練は必要ないのです。試練を通すことなく、出発と同時に個体完成し、出発と同時に聖殿理想が完成し、出発と同時に世界の栄光を立て得るようになるのです。
そのような基準が出発と同時に一度に起きるはずだったのですが、そのような外的な環境から防いでくれ、サタンと対決して「このサタンめ、お前が知る前に私は知っている。お前が試練するこのような条件は、私にかけようとしても無駄だ」と言って防いでくれる人たちがいなかったので、イエス様は苦難の道を歩んだのです。

Friday Oct 04, 2024
イエス様の生涯と愛 第38話
Friday Oct 04, 2024
Friday Oct 04, 2024
第四章 イエス様の苦難と試練
ー、ユダヤ民族の不信
イエス様の涙と祈祷
神様は四千年の間、悲しみながらもその悲しみを表せなかったのですが、イエス様は、実体的に涙を流して生きられました。聖書には三、四箇所しか出てきませんが、実際イエス様が涙を流された隠された事実は限りなく多いのです。
神様が数千年の間、摂理歴史を通して愛してこられたユダヤの民を見つめると、いかなる瞬間も涙を流さなかったことがなかったのです。イエス様は、神様に祈るたびに涙を流されました。困難で孤独な出来事にぶつかるたびにイエス様は、父だけが分かってくださる中で悲しまれたのです。けれどもイエス様は、このような悲しみを弟子たちに話せませんでした。そのようなイエス様の事情を知らなければなりません。イエス様が、オリーブ山に登って夜を明かして祈られたのは、一度や二度ではありません。ゲッセマネの園においてだけ祈られたのではありません。
困難な道を歩まれながらも、悲しみの事情を申し上げられるのは天しかなかったのです。だからといって、その悲しみを天に任せようとされたのではありません。むしろ、その悲しみを自分が引き受け、背負わせてくださるように祈ったのです。「父よ!私を御覧になって悲しまれるその悲しみを私が引き受けますので、父よ!私を御覧になって慰めを受けてください!父の悲しみを私が耐えますので、悲しまないでください」と訴えたのです。
そして「四千年の御苦労に私が責任を負いますので、父よ、心配なさらないでください。私がいますので、父の希望が残っていますので心配なさらないでください」という祈祷ばかりをしたのです。
開拓者としての決心
イエス様が三十年の準備期間に開拓者として抱いた決心とは、何だったのでしょうか。それは、「死の峠があっても私は行く。迫害の道があっても私は行く。滅びることがあっても私は行く」という決心でした。
そうしてイエス様は、この準備期間に、自分の生活的な環境を清算し、自分のための生涯の理念を清算し、民族的なすべての因縁を清算し、旧約と法度を重視するユダヤ教団の形式までもみな清算するという、一生の覚悟をしたのです。
天国を開拓し、全世界の人類の心を開拓すべきイエス様は、寝ても覚めてもその生活において、神様の理念の境地に、一日に何度も往来しない日がありませんでした。そのようなイエス様であったことを知らなければなりません。
三十年の準備期間における内的な悲しみを、この地上の万民は知りませんでしたが、ただ神様だけはイエス様の味方になってくださいました。イエス様が木に鉋がけをする場でも、手斧を持って木を小さく切る場でも、鋸を持って木を切る場でも、御飯を食べて休む場にいても、彼の心は神様の心情と事情を体恤することを願い、神様の願いだった天国の建設を、一瞬でも忘れたことがなかったという事実を知らなければなりません。
それだけではなく、四千年の歴史を無にすることがあり、選ばれたイスラエルは無にしたとしても、このような価値は無にすることができず、選ばれた教団は無にしたとしても、これは無にすることができず、両親や親戚、いかなるものもすべて無にすることができたとしても、これだけは無にできないと、心の中に、そして骨と肉にしみるように感じたのです。そうして徹頭徹尾、天情を中心として一日を見つめながら準備してきたイエス様の生涯こそ、悲壮な生活の連続であったことを、皆さんは知らなければなりません。
一日、一時を探し求めて準備したイエス様の心情とその姿を、皆さん、もう一度描いてみてください。彼の着ている物はみすぼらしく、彼の姿は悲しく見えたとしても、彼の視線だけは、地のいかなる征服者や開拓者にも負けないものでした。
天の心情と通じる彼の視線であり、宇宙を貫いても余りある途方もない視線をもっていたという事実を、私たちは考えざるを得ません。したがって、そのような心情と視線をもって見つめる彼は、試練を受ける不憫な人の姿になるまいとしてもならざるを得ず、悲しみを抱いた姿になるまいとしてもならざるを得なかったのです。
このような事実を回顧してみると、イエス様は、歴史路程を通して苦労してこられた神様をつかむ心情が強くなれば強くなるほど、不信のイスラエル民族になるのではないかと心配する気持ちが大きくなり、不信の使徒、不信の弟子たちになるのではないかと限りなく心配したという事実が分かります。イエス様は、このような心を抱き、黙々と三十年の準備期間を過ごしました。
天の側に立って燃え上がるイエス様の心情がいくら強くなっても、それは自分の一身のためのものではありませんでした。天の願いに燃え上がり、世界を見つめる視線がいくら深刻であっても、それは自分の一身の欲望のためのものではなかったことを、私たちは知らなければなりません。
ただイスラエル民族のために生きようとしたのであり、全世界のために生きようとしたことを知らなければなりません。それでイエス様は、限りなく悲しい涙を流したのです。そのような準備期間に、イエス様は十字架の峠を一度だけ覚悟したのではありません。誰かが死ぬといううわさがあれば、彼を回生させるべき人は正に自分であると、感じることが何百回もあったのです。
誰かが無念にも迫害を受け、無念にも追われ、不憫な立場でひどい目に遭っている人がいれば、その事情を自分の事情として考えました。当時、起こっていた社会の凄惨な現象を、自分の一身の実路程の上に展開されている実証的な供え物のように考えながら見つめた、イエス様の心情を知らなければなりません。

Wednesday Oct 02, 2024
イエス様の生涯と愛 第37話
Wednesday Oct 02, 2024
Wednesday Oct 02, 2024
洗礼ヨハネは霊界が役事していたときは、我知らずイエス様を証しました。しかしイエス様が本当に主、または救世主であるということは、夢にも思わなかったのです。洗礼ヨハネは三十年の間、彼の生涯のほとんどを捧げて主のための道を準備してきながら、彼はしばしば人々の想像するように、主は素晴らしく見える人であり、外的にできないことがない人だろうと期待しました。様々な面で、主は実際の自分よりもはるかに優れていなければならず、はるかに崇高でなければならず、はるかに立派な人でなければなりませんでした。彼は、自分の親族が主になり、世界の救世主になるだろうとは夢にも思わなかったのです。
イエス様は様々な面で、ヨハネとは比較にもなりませんでした。洗礼ヨハネは信仰の道を歩み、高い教育を受け、人々に多くの驚くべきことを見せました。大工の助手であるイエス様からは、人々は何も特別なものは発見できなかったのです。
イエス様が洗礼を受けようと洗礼ヨハネの所に来たとき、洗礼ヨハネは霊的に感動してイエス様を証しました。洗礼ヨハネは、聖霊が鳩のようにイエス様の上に降りてくるのを見て、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」(マタイ三・17)という声を聞いたときは、イエス様を証しました。しかし彼が、元の精神状態に戻ったときは違いました。聖霊が自分から去ってしまうと、それは夢のようでした。
洗礼ヨハネの使命は、イエス様が来る時まででした。そしてイエス様を証したのちには、喜んで自分のすべての弟子を連れて、イエス様に従わなければなりませんでした。イスラエル民族はみな、彼のことを最も偉大な預言者であると信じました。ではイエス様を証したのちに、何が洗礼ヨハネをイエス様に従えないようにさせたのでしょうか。そこには大きな理由がありました。彼は、「イエスは庶子である」といううわさを聞きました。洗礼ヨハネは、イエス様のことを「いとこ」にも考えていなかったのです。彼の母エリサベツが、彼にそのように話したのです。
エリサベツとマリヤ、そして洗礼ヨハネとイエス様との間には、ある感情がありました。洗礼ヨハネは高等教育を受け、尊敬され、偉大な預言者として認められていましたが、イエス様は日常的な問題に対しても無知で、十分に教育も受けていない人として知られていたのです。
私たち人間は、どのような者として生まれたのでしょうか。神様の嫡子として生まれず、サタンの嫡子として生まれました。それが今までの内容です。このような内容を復帰するために、イエス様が来られたのです。このような使命を果たすために生まれたのです。
ユダヤの国は、どうなっていたのでしょうか。神様は、父母はいないけれど、子女の形態を中心とした家庭形態、親成形態、氏族形態、民族形態、国家形態をすべて築き上げていたのです。これが選民思想です。この選民圏を築き、そこに一つの主権を中心として、そこにメシヤが来て一つの国家主権さえもったならば、天と地が連結するのです。
国家を代表して、この基準を連結させるためには、復帰歴史なのでカイン的な、言い換えれば養子のような国家型であれば、その国家を収拾するためには養子の代表的な人がいなければなりません。それが誰でしょうか。養子代表国家の預言者として現れた人が洗礼ヨハネです。この洗礼ヨハネとは、どのような人でしょうか。アダムが堕落してサタン世界に引っ張られていきましたが、洗礼ヨハネは、再び捜し出されたアダム型の人物です。
その捜し出されたアダム型の人物とイエス様とを見るとき、どちらがサタンの防御陣をつくらなければならないのかというと、堕落はアダムがしたので、捜し出されたアダム型である洗礼ヨハネが完全に防がなければならないのです。これを完全に防いできていたならば、イエス様は堕落しない本然の息子の立場に立ち、長成期完成級を越えた神様の愛を中心として誕生した方なので、サタンの侵犯を受けないのです。
ところが洗礼ヨハネは外的基準において、堕落したアダムを復帰する使命を完結することができなかったのです。サタンを防ぎ民族を率いて、イエス様の前に屈服させ得る主導的な役割をすべきなのに、洗礼ヨハネが責任を果たせず挫折することによって、長成期完成級まで…。
長成期完成級、ここで堕落したので、イエス様はどこで生まれたかというと、堕落したアダムの基準以上の位置で誕生したのです。堕落する前、長成期完成級に上がったそれ以上の位置で、イエス様が神様と関係を結んだのです。しかしながら、蘇生、長成、完成級の圏内まで堕落の侵犯圏にあるので、ここにおいてサタンを完全に防いで神様のみが干渉できる、そのような権限を備えることができなくなるようなときは、この圏は再び、サタンの侵犯を受けることは自動的な結論なのです。
ところでイエス様が神様の愛する息子であるならば、なぜサタンから三大試練を受けなければならないのでしょうか。この完成圏を抜け出していなかったからです。完成圏を抜け出していたとすれば、サタンは神様の息子を試練することはできないのです。長成期完成級圏内から完成圏内に向かって乗り越えなければならないその基準で堕落して、三段階圏内が侵犯を受ける圏内にあるので、洗礼ヨハネが挫折することになれば、サタンはイエス様までも試練できるのです。イエス様までも打ちのめすことができるのです。イエス様までも堕落させることができるのです。
洗礼ヨハネを中心として、それをなぜ復帰しなければならないのでしょうか。それは縦的歴史を横的に展開させようというのです。今までイエス様とアダムは縦的でしょう?この縦的歴史を横的に連結しようとすれば、昔、堕落したアダムを復帰した型を横的な代表者として立てることによって、縦的歴史を横的に蕩減できる基盤が成立するのです。
なぜ洗礼ヨハネを選び立てたのでしょうか。縦的な歴史型を横的に蕩減するためです。横的に広がったこの地球星の上で、洗礼ヨハネが防御することによって、サタンが侵犯し得る圏を解放させることが目的です。それで民族を代表した代表者、国家を代表した代表者の権限をもってイエス様を証したのであり、イエス様に従うことができたのですが、洗礼ヨハネが責任を果たせなかったことによって、サタンがイエス様にまで再侵攻できる道を開いてしまったのです。これが、今まで数千年の悲運の歴史を延長させた原因になったのです。

Friday Sep 27, 2024
イエス様の生涯と愛 第36話
Friday Sep 27, 2024
Friday Sep 27, 2024
使命を完遂できなかった洗礼ヨハネ
ユダヤ教徒たちは、エリヤが雲に乗ってくるものと信じ、知らずにイエス様に反対しましたが、イエス様を証した洗礼ヨハネは、イエス様のことを信じたのかどうか調べてみましょう。マタイによる福音書第十一章2節以下を見ると分かります。洗礼ヨハネの弟子たちが出掛けて伝道していたところ、洗礼ヨハネから洗礼を受けたイエス様のもとに人がみな集まっていくのを見ました。それで弟子たちが洗礼ヨハネに、「先生から洗礼を受けたイエスのところに、人がみな行きます」と報告したのです。
それで監獄にいる洗礼ヨハネが弟子を遣わして、イエス様に尋ねたのです。ヨルダン川のほとりでは、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と言っていたのに、今さら弟子を送ってイエス様を疑ったではないですか。彼はすぐに王の恋愛事件に巻き込まれて、獄中で死んでしまいました。イエス様に人を送って尋ねるその言葉を見ると、洗礼ヨハネはイエス様を信じたでしょうか、信じなかったでしょうか。「『きたるべきかた」はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」という言葉を聞く、イエス様の心情はどのようなものだったでしょうか。
この世の天地にある教会と国と民のすべてが反対し、誰一人として支持する人がいない中で、それでもヨルダン川のほとりで自分のことを証した洗礼ヨハネ一人だけは、自分を支持するものと思っていたのに、洗礼ヨハネさえもこのような状態なのであきれてしまったのです。
マタイによる福音書第十一章6節を見てください。イエス様は、「わたしにつまずかない者は、さいわいである」とおっしゃいました。それは誰を指摘しているのでしょうか。洗礼ヨハネを指摘したのです。そのあと洗礼ヨハネの弟子たちが立ち去って、イエス様が群衆に向かって、洗礼ヨハネについて風刺的に非難したのです。「あなたがたは、何を見に荒野に出てきたのか。風に揺らぐ葦であるか。では、何を見に出てきたのか。柔らかい着物をまとった人か。柔らかい着物をまとった人々なら、王の家にいる。では、なんのために出てきたのか」と非難したのです。
それから、マタイによる福音書第十一章11節にある聖句を見てください。イエス様があきれて、再び洗礼ヨハネを攻撃します。「女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起らなかった。しかし、天国で最も小さい者も、彼よりは大きい」と非難したのです。それならば、霊界に行った人々は多いのに、なぜそのような反対の現象が起こるのでしょうか。
すべての預言者の使命は、来られるメシヤを証することです。過去に現れては去っていった預言者は、メシヤを証するにも、遠い歴史的距離をおいて証をしたのですが、洗礼ヨハネはメシヤを証するに当たっては直接証しました。ですから証するという立場から見れば、最も大きくあらざるを得ないのです。ところがなぜ、天国で最も小さい者なのでしょうか。天国にいるすべての預言者は、この地上で迫害を受けるイエス様がメシヤと知って、信じ、侍っているのです。ですから小さくあらざるを得ないのです。
同第十一章12節を見ると、「バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている」とあります。ですから、イエス様と洗礼ヨハネの間で天国争奪戦が行われたということなのです。努力しなかったということを証しているのです。もし努力していたら、どうなっていたでしょうか。努力していたならば、一番弟子にはペテロではなく、洗礼ヨハネがなっていたのです。これを知らなければなりません。
もし洗礼ヨハネが一番弟子になっていたら、十二弟子である使徒と洗礼ヨハネの弟子と七十門徒、百二十門徒、洗礼ヨハネに付き従っていたすべての人々も、メシヤたるイエス様と一つになっていたので、イエス様を捕まえて殺すということは起きなかったはずなのです。
そうなっていたら、誰が殺すでしょうか。神様が準備した預言者たる洗礼ヨハネが、ユダヤ教の高い地位の人々とすべての律法学者を合わせて、イエス様と一つになるようにしなければなりませんでした。そのことをするように準備した代表者が、洗礼ヨハネではなかったでしょうか。それは間違いありません。それでは洗礼ヨハネには、そのような資格がなかったのでしょうか。それを調べてみましょう。
同第十一章14節までずっと読んでみると、「すべての預言者と律法とが預言したのは、ヨハネの時までである。そして、もしあなたがたが受けいれることを望めば、この人こそは、きたるべきエリヤなのである」とあります。洗礼ヨハネのことを「旧約聖書の結実」であるとイエス様が言ったのです。旧約聖書の結実である洗礼ヨハネがイエス様と一つになったならば、新約が出発していたのです。万人の主になったとすれば、無知な人々を弟子にはしなかったということを知らなければなりません。やむを得ずそうしたのです。
ヨハネによる福音書第三章30節を見ると、洗礼ヨハネが弟子たちに、イエス様について話して、「彼は必ず栄え、わたしは衰える」と言いました。そのように答えた洗礼ヨハネの言葉に対して、今日のキリスト教徒は、洗礼ヨハネは謙虚であり、穏やかな人なのでそう答えたのだと言って、偉大な預言者として敬ってきました。けれども事実は、正反対の内容であったということを私たちは知らなければなりません。
キリスト教徒は、彼を善良で高い方と見るのです。その言葉は何ですか。洗礼ヨハネがメシヤと行動を共にしていたならば、メシヤが栄えれば洗礼ヨハネも栄えるのであり、メシヤが衰えれば、洗礼ヨハネも共に衰えるはずです。それなのに、どうして二股に道が分かれるのでしようか。それは、洗礼ヨハネがイエス様と行動を共にしなかった、はっきりとした証拠であることを知らなければなりません。

Friday Sep 27, 2024
イエス様の生涯と愛 第35話
Friday Sep 27, 2024
Friday Sep 27, 2024
エバを復帰すべきだった洗礼ヨハネ
それでは、その国家と教会を代表し、平面的な立場において歴史を代表した実体的天使長は誰でしょうか。洗礼ヨハネです。洗礼ヨハネと新婦とアダムの代わりとなるイエス様が一つになっていたら、イエス様の前にエバが帰り、エバの前に天使長の代わりとなる洗礼ヨハネが帰ったことでしょう。
エデンの園で堕落するときに、天使長を中心としてエバを引っ張っていき、エバを中心としてアダムを引っ張っていったのとは逆に、天使長の代わりの実体である洗礼ヨハネを中心として、ヨハネとヨセフがマリヤの斡旋によって一人の新婦をイエス様の前に取り戻してあげていれば、その新婦を中心としたユダヤ教もイエス様の前に返ったはずです。そしてユダヤ教を中心としたイスラエルの国も、イエス様の統治圏内に立ち得る国になっていたはずです。
そのようになっていたら、どうなっていたでしょうか。イエス様と新婦が一つになり得る因縁を結んだならば、エデンの園で天使長とエバとアダムが失敗したことをこの地上で、すなわち平面的な立場で蕩減復帰して、初めて新しい家庭の出現にまみえることができたでしょう。
摂理歴史の中心とは誰かというと、個人の中心はイエス様です。そのイエス様ゆえに、その時まで宗教を立ててきたのです。その宗教は、イエス様の前に吸収されるためのものです。吸収されるにも、ただそのまま吸収されるわけではありません。原理的な蕩減内容に従って吸収されなければなりません。吸収されるためには、天使長がエバを誘引するに当たって動機になったので、必ずそれを逆にしてエバを探し求めなければなりません。
エバを探すに当たって動機になるべき人が、イエス様になってはいけません。天使長の立場に立ったヨセフや洗礼ヨハネが、動機にならなければならないのです。家庭的天使長の立場がヨセフであり、教会的天使長の立場が洗礼ヨハネであり、国家的天使長の立場がその時の総督にならなければなりません。
このような三大天使長圏が、家庭と教会と共に国家が一致してイエス様の前に一致したならば、そこから天の摂理として探し求めてきた中心個人が決定され、中心個人として定着して立ち得る位置が決定されることによって初めて、家庭が決定されるのです。それゆえ、個人であるイエス様について見ると、彼はイスラエルの国の中心的な存在であり、ユダヤ教の中心的な存在なのです。そして家庭を中心として見ても、イエス様と新婦が一つになるその家庭は、すべての家庭の中心になるのです。
すべての個人の中心が決定されたので、すべての家庭の中心が決定されるのです。その中心家庭と中心個人は、サタン世界よりも上に立った家庭であり、個人です。ここから初めて、天国が形成されるのです。そこから一つの国家が形成されるのです。そうなったとすれば、この国家は天が探し出そうとしている摂理的中心国家として残っていたはずなのに、すべてが反対することによって、イエス様が立ち得る家庭がなくなり、イエス様が立ち得る教会がなくなり、イエス様が立ち得る国がなくなってしまいました。
イエス様のために立てられたイスラエルの国であり、イエス様のためにつくられたユダヤ教であり、イエス様のために立てられたヨセフの家庭、ザカリヤの家庭だったにもかかわらず、その国が反対し、その教会が反対し、その家庭が反対したのです。
言い換えれば、エデンの園で天使長を中心として堕落したことを、アダムとエバの前に、家庭的天使長と、教会的天使長と、国家的天使長を一度に屈服させようとしたその基台が、イスラエルの国とユダヤ教とヨセフの家庭がイエス様と一つになれない立場に立つことによって、完全に崩れてしまいました。
そのような立場に追い込まれ、イエス様はやむを得ず十字架で亡くなることになったのです。十字架で亡くなるイエス様の運命の立場は、イスラエルの国の終末を告げる立場であり、ユダヤ教の終末を告げる立場であり、祝福して立てたヨセフの家庭とザカリヤの家庭、その家門の終末を告げる立場であって、地上においてこの上なく悲痛な立場であり、場面であったということを我々は知らなければなりません。
それゆえ神様の摂理の中で探し立てたその国は、跡形もなく消えてしまいました。教会も跡形もなく消え、家庭も跡形もなく消えてしまいました。この一つの国と教会と家庭を立てるために、四千年の間サタンと対決し、数多くの戦いを経て、数多くの逆境を重ねて残したものがすべて崩れてしまったので、サタンはその国とその教会とその家庭をことごとくのみ込まざるを得なかったのです。

Friday Sep 27, 2024
イエス様の生涯と愛 第34話
Friday Sep 27, 2024
Friday Sep 27, 2024
イエス様と洗礼ヨハネを中心とした摂理
イエス様は、血筋を清めて生まれた神様の最初の息子なので、ひとり子といいます。神様から見ると、神側で血筋を清めた一番目の息子として生まれたので、ひとり子というのです。四千年を通して、このようなことをしたのです。マリヤがすべきことは、アベルの立場であるイエス様とカインの立場である洗礼ヨハネとを一つにすることでした。
カインとアベル、エサウとヤコブはみな争いましたが、イエス様と洗礼ヨハネは一つにならなければなりません。洗礼ヨハネはカインの立場の兄であり、イエス様はアベルの立場の弟です。イエス様と洗礼ヨハネが一つにならなければならなかったのに、分かれてしまったのです。これを一つにする責任をマリヤが果たしていたら、イエス様は苦労する必要がありませんでした。
エデンの園でカインとアベルが分かれたように、歴史時代にイエス様を中心として右翼と左翼とに分かれたのです。カインとアベルに分かれたのです。また、宗教もカイン宗教であるイスラーム(イスラム教)とアベル宗教であるキリスト教とに分かれました。洗礼ヨハネの母とイエス様の母は、レアとラケルと同じように姉妹の間柄です。レアとラケルが一つになってカインとアベルを一つにすべきなのに、レアとラケルは二人で争いました。そうしてイスラエル十部族とユダ二部族とに分かれ、歴史的に怨讐同士になったのです。
洗礼ヨハネの母とマリヤは親族なので、イエス様を早く結婚させていたら、一つになることができました。洗礼ヨハネの妹とイエス様が結婚していたら、分かれずに一つになることができたのです。天の側の女性がいないので、カイン側の女性を奪ってこなければならないのです。
天の側には女性がいません。イエス様がアダムの代表者として生まれましたが、女性がいませんでした。ですから、カイン側、サタン側が奪っていったものを取り戻さなければなりません。取り戻す場合には、どこが最も近いでしょうか。洗礼ヨハネの妹をイエス様の相手として結婚させれば、それが最も近いのです。そうなっていれば、洗礼ヨハネもイエス様と自然に一つになるのです。そのように結婚が成されていたならば、その時、イエス様を通して清い血筋がつながり、イエス様の子孫がキリスト教をすべて統一し、教派もなく世界が統一されて久しいのです。
母たちがしなければ、イエス様が洗礼ヨハネと一つになって、母を選ばなければならないのです。カイン・アベルを復帰して母を復帰するように、イエス様と洗礼ヨハネが一つになっていたら、母を探し立て得る道が開かれるので、そこで一つになることができたのです。アベルの立場にあるイエス様と、カインの立場にある洗礼ヨハネが一つになったとしても、母を探し立てることができ、反対に母たちが闘わずに一つになっても、単一民族が始まっていたのです。統一し得たのです。母たちが一つとなって息子たちに協助したとしても、母を立てることができたし、息子たちが一つになったとしても、母を探し立てることができたのです。しかし、それができなかったことが、イスラエルの悲運だったのです。
家庭がこのようになっているように、国家的な次元で見るとイスラエルの国がカインで、ユダヤ教がアベルでした。これが一つにならなければならないのです。イスラエルがカイン、ユダヤ教がアベルとして国家的次元で一つになっていたならば、そこで母を迎えるのです。カイン・アベルが一つになって、母を探し求めるのです。

Friday Sep 27, 2024
イエス様の生涯と愛 第33話
Friday Sep 27, 2024
Friday Sep 27, 2024
エリヤの代わりとして来た洗礼ヨハネ
ヤコブの家庭で、十二人の兄弟が一つになりませんでした。またレアとラケルが闘いました。レアが欲張ったために自分の召使にも四人の子供を生ませ、それを合わせた十人兄弟が北朝イスラエルになり、ラケルの子ヨセフとベニヤミンの部族を中心として南朝ユダになりました。家庭的に一つにならなかったので、民族的に分かれていくのです。
それでイエス様の時代に至って、エリヤを送り、これを一つにしなくてはいけないのです。本来はエリヤを中心として、氏族時代の時に一つにしようとしました。それで八百五十人のバアル神とアシラ神をあがめる預言者を焼き殺し、生きた神様を中心としてすべてを糾合しようとしたのですが、自分たちの預言者と神々が殺されたので、エリヤを捕まえて殺そうとしたのです。ですからエリヤが逃げて、「私を連れていってください」と願うと、神様が「バアルにひざをかがめなかった七千人を、わたしのために残しておいた」(ローマ一一.4)とおっしゃったのです。
神様の立場からすれば、カインとアベルが一つにならなければなりません。長子権復帰ができなければ、大変なことになるのです。これが氏族的に成し遂げられなかったので、イエス様の時代、国家時代において、エリヤの代わりの者として召したのが洗礼ヨハネです。
イエス様の時代において、洗礼ヨハネが失敗したのです。エリヤが洗礼ヨハネとして来たということを誰も考えられなかったのです。エリヤは九百年前に火の戦車に乗って霊界に上っていったので、火の戦車に乗って来ると思ったのですが、火の戦車も来なかったのです。
その時代において旧約聖書を信じるユダヤの民はマラキ書によって、エリヤが火の戦車に乗って来て、メシヤが来る前にすべてを準備して、行くべき道、捷径(近道)をならして、すべてを教えてくれるものと思っていました。ところがエリヤも天から降りてきていないのに、イエス様が「洗礼ヨハネがエリヤである」と語ったのです。
旧約聖書には、エリヤが来るなら火の戦車に乗って来るとあるのに、火の戦車に乗って降りてこなかったではないかというのです。それを信じるわけがありません。それで洗礼ヨハネのところに行って尋ねると、「自分はエリヤではない」と話したのです。しかし、洗礼ヨハネはヨルダン川で洗礼を与えるとき、イエス様のことを「神の小羊」と言い、聖霊が鳩のように臨んだので、間違いなくメシヤであることを知って証したのですが、よく考えるとイエス様はそのような人ではないと思えたのです。イエス様の族譜(家系)を洗礼ヨハネはすべて知っていたのです。彼の父は誰かということを知っていたのです。「そんな人がメシヤにはなれない」と否定せざるを得なかったのです。
洗礼ヨハネは、妾をもったヘロデを非難して首を切られて死にました。彼はそのように死ぬべき人ではありません。イエス様と一つになっていれば、どうして彼が死ぬでしょうか。それは蕩減法によって、そうならざるを得なかったのです。

Friday Sep 27, 2024
イエス様の生涯と愛 第32話
Friday Sep 27, 2024
Friday Sep 27, 2024
三、イエス様と洗礼ヨハネ
洗礼ヨハネの使命
今日キリスト教信者は、イエス様が天使長のラッパの音とともに雲に乗って再び来られると言うのですが、そのようなことはありません。その前に、この地上に天使長の使命を完結し得る天の忠臣が現れなければなりません。そうして「私が来たのは、私の志のためではなく、神様の息子のみ旨のためだ」と、宣布する者が現れなければならないのです。
そのようなことが、イエス様の当時にも起きました。その使命の代表的な中心存在が、洗礼ヨハネでした。ですから彼は「悔い改めよ、天国は近づいた!私が来たのは、私のためではなく、彼を証するためである」と言いました。
その洗礼ヨハネは僕として来て、イスラエルの国全体を代表して堕落した直後のアダムの立場を復帰しなければなりませんでした。堕落直後のアダムの立場、堕落していないアダムの立場に連結できる、その立場を復帰しなければならなかったのです。堕落したこの世で、堕落していないアダムの立場を復帰して、この世のすべての権限を彼に相続させることを約束すべき代表者が、洗礼ヨハネだったのです。
「悔い改めよ、天国は近づいた」という言葉は、洗礼ヨハネ個人の言葉ではありませんでした。それは全イスラエルの歴史を代表し、イスラエル民族を代表した言葉であり、四千年の歴史を代表し、この地球上に生きている全人類を代表する言葉だったのです。また、洗礼ヨハネがイエス様に洗礼を与えたその場は、歴史的なすべての責任を相続させる場でした。そのあとにイエス様は出発することになるのです。
それはどういうことでしょうか。この地にまだ天の忠臣が現れなかったということです。忠臣が現れるには、この地上に真の神様の息子が現れなければなりません。天使長はその神様の息子に仕えて、天の前に忠臣の道理を果たさなければならないのです。神様の息子を愛することによって、忠臣の基準が決定されるのです。それゆえ歴史的なこの終末時代に、必ず神様が愛し得る息子が現れなければなりません。そうなってこそ忠臣が決定されるのです。
神様が洗礼ヨハネを召して立てられたのは、それまで四千年の間、神様と対決してきたサタンの頭、天使長、神様を裏切ったその天使長ではなく、神様のために忠誠を誓って乗り出した天使長の立場の代わりをさせるためでした。イエス様に忠誠を果たし、イエス様のために生きよということでした。イエス様の困難を自分の困難と思い、それを克服するために、あらん限りの力を尽くせということでした。
ところが洗礼ヨハネは、そのような責任を果たすことができませんでした。ですから歴史的な悲しみは、より一層深まらざるを得なかったのです。洗礼ヨハネの弟子たちは、イエス様の弟子にならなければならず、洗礼ヨハネはイエス様の三弟子に入らなければならなかったのです。洗礼ヨハネを歓迎した数多くの群れは、イエス様を歓迎する群れにならなければならなかったのです。
そうして洗礼ヨハネは、新郎、新婦の本然の名をもった神様の息子、娘に忠誠を尽くす天使世界の代表的実体として現れた者であり、天使世界を導き、実体のサタン世界に対して防備しなければなりませんでした。神様が訪ねてこれる天使長の実体目的を完結した洗礼ヨハネとならなければならないのに、彼がその使命を完結できなかったので、イエス様はその使命までも責任を負わなければならなかったのです。
それゆえ、僕たる道理ができたのです。「私が来たのも、仕えられるためではなく、仕えるためである」と言われたでしょう?神様の息子がそのように語る話がどこにありますか。新郎として、あり得ないことでした。それゆえ、栄光の中で出発すべきだったイエス様は、悲しく恨めしい僕のくびきをかけて出発しなければならなかったのです。そのような歴史的な過程が残っているがゆえに、その峠を越えるために生まれたのがキリスト教の二千年の歴史なのです。
それとともに神様は、民族的摂理を世界的摂理に引っ張ってこられたのです。歴史を導いていくには、歴史の内部をすべて清算しなければなりません。清算するには、個人的、家庭的、国家的、世界的にすべて清算しなければなりません。本来は万民が従って発展させていかなければならないのが天の摂理であるにもかかわらず、人間がその責任を果たせず、歴史はだんだんと発展してきたのです。神様は、そのような外的な歴史に歩調を合わせながら、内的には歴史の目的と時を成し遂げるために準備してこられたのです。

Sunday Sep 22, 2024
イエス様の生涯と愛 第31話
Sunday Sep 22, 2024
Sunday Sep 22, 2024
子孫を残したかったイエス様
問題になるのは、イエス様が独身だったということです。祭司長になるにも独身で、王になるにも独身でなければならないのでしょうか。そんなことはありません。もしイエス様が結婚していたならば、どうなっていたでしょうか。イエス様を中心として、イエス様の家庭が生じていたでしょう。またアダムとエバが堕落せずに成就すべきだった真なる父母の立場を、イエス様が代わりに成就することができたでしょう。
イエス様も男性ですが、新婦を迎えて息子、娘を生みたかったでしょうか、生みたくなかったでしょうか。この地上で「お父さん」という言葉をイエス様は聞きたかったでしょうか、聞きたくなかったでしょうか。もちろん聞きたかったことでしょう。また「おじいさん」という言葉も聞きたかったでしょう。
こうしてイエス様が祭司長になり、イスラエルの王になっていれば、神様が直接支配し得る皇族が生じていたでしょう。そのようになったら、今日のこの世界にイエス様の直系の子孫が残っていたはずです。
では神様は、イスラエル民族よりもイエス様の直系の子孫のほうを愛するでしょうか、愛さないでしょうか。どちらを愛するでしょうか。そうなったらイエス様を中心として、キリスト教徒は一つの王権国家、善の主権国家を成し、世界へと広がっていったはずです。これは常識的に考えても分かることです。皆さんも、男性としてイエス様のような立場に立てば、そのように考えないでしょうか。また、そのようなことを願わないでしょうか。
そのような立場に立ったイエス様がみ旨を成就できず、十字架に行かなければならない急変の事態が起きることによって、イエス様は「アバ、父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」という深刻な祈りを捧げざるを得なかったという事実を、私たちは知らなければなりません。死ぬのが嫌で、そのような祈祷をしたのではありません。
救い主が十字架にかかって亡くなることになれば、救い主を信じる人たちも血を流す道を行かなければならないのです。自分が死ぬことによって、後代の数多くの人たちが虐殺され、世界を流浪しながら悲惨な死に遭う事態になることを思うとき、懇切に三度も天の前に訴えざるを得なかったのです。そのようなイエス様の事情を誰も知りませんでした。
では、イエス様が来て何をすべきだったのでしょうか。サタン主権の国家以上の主権国家を築くと同時に、私たち人類の原罪を取り除かなければなりませんでした。原罪を取り除かなければならなかったのです。イエス様から接ぎ木され、原罪を取り除いた立場で、イエス様と一つになった人の子女は、イエス様を信じなくても天国に行けます。堕落がなかったら、私たちには救い主が必要ありません。宗教とか祈祷とかいうものは、すべて必要ないのです。堕落したから、救い主が必要なのです。