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Sunday Oct 13, 2024
イエス様の生涯と愛 第48話
Sunday Oct 13, 2024
Sunday Oct 13, 2024
弟子たちの不信と無知
イエス様は自分の一身を越え、家庭と社会と国家と世界、さらには無限の霊界まで復帰すべき使命が自分にあることを知っていました。したがって、イエス様が個人を求めてさまよわれたのは民族を求めるためであり、民族を求めてさまよわれたのは世界を求めるためでした。そして世界を求めるために今日まで二千年間苦労されたのは、天上天下すべてを神様が治める所につくるためだったのです。
ところが、このような事実を人々は知りませんでした。したがってイエス様は、天宙的な計画を実現すべき自分の前に現れるそのような群れに、神様の深い心情とみ旨を語ろうにも語れなかったのです。このように哀れな状況に置かれたイエス様であられたことを知らなければなりません。ですからイエス様は、「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない」(ヨハネ一六・12)とおっしゃったのです。
イエス様は、全世界万象を復帰すべき神様の摂理を代わりにするという天宙的な使命感に燃えて、天に対して忠誠の道理を果たそうとしたのですが、当時の人間はそのようなイエス様が分からなかったのです。
では今日、皆さんはどうでしょうか。「私はイエス様を数十年間信じてきました。私は牧師だ。私は長老だ。私のことを神様が知らないはずがない」と主張する人たちがいますか。そのような人がいるならば、その人は神様の前に頭を下げて涙を流さなければなりません。四千年間、選民圏を誇っていたイスラエル民族が滅びるとは、誰が知っていたでしょうか。三年の公生涯過程で、イエス様と喜怒哀楽を共にした十二使徒までもイエス様を不信するとは、誰が知っていたでしょうか。誰も知らなかったのです。
ではどうして、このような矛盾の歴史が起きたのでしょうか。イエス様の観念や願いが、弟子たちの観念や願いとは異なっていたからです。それで弟子たちが、イエス様を不信したのです。
それならば、イエス様の当時に万物のわめき声を聞き、闇の中にいた人間が天に向かって「彼らを解放させてください」と祈った、その悲しい心情を感じ、涙を流したことがありますか。またはあの霊界で、数千億の霊人が嘆いているわめき声を聞いたことがありますか。イエス様は聞かれたのです。イエス様は人類歴史の終末に、審判の硫黄の火が降り注ぐその審判のむちを知って、涙を流されたのです。
Sunday Oct 13, 2024
イエス様の生涯と愛 第47話
Sunday Oct 13, 2024
Sunday Oct 13, 2024
イエス様の教えどおりに行動しなかった弟子たち
イエス様の心情が分からない弟子たちは、イエス様を利用して高い位置に上がろうとしました。それを知ったイエス様は、地をたたいて泣いてもその心を晴らすすべがなく、天に向かって痛哭しても、これを晴らすすべがない悲しい心情をもって生きられたのです。
しかし行くまいとしても、行かざるを得ない使命の路程が残っているがゆえに、その心を抑えて弟子たちに対して、「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」(マタイ二三・12)と言われました。自分の心中、骨肉にしみ込んだ決心の一端を再度証されたという事実を知らなければなりません。
その時この言葉を聞いた弟子たちは、それはイエス様の言葉であって、自分たちとは何ら関係がないと思いました。弟子のヨハネの母が自分の二人の息子を「終わりの日」に、栄光の立場に立ててくれと言ったときの、もどかしく惨憺たるイエス様のその心情をいま一度考えてみてください。イエス様は哀れな方です。イエス様が弟子たちにそのように教えてあげ、そのように訓戒してあげたにもかかわらず、彼らはそのみ意が分からなかったのです。
それゆえ付き従う群れが多くなればなるほど、弟子たちは自分たちがうれしいという行動を表しましたが、イエス様が自分たちに実践して見せ、教え、訓戒してくれたことを見習い、イエス様に従う群れの前に見本となって、イエス様を高めイエス様をあがめるそのような供え物の立場には立てなかったのです。かえって弟子たちによって、他の人たちがイエス様の前に出ていくことが難しくなったのです。
それにもかかわらず、イエス様はその弟子たちには弟子たちを越えて、教団が叫んでいることを成就すべき責任があることを知り、教団には教団を越えて、民族が叫んでいることを成就すべき責任があることを知り、民族には民族を越えて世界が叫んでいることを、世界人類には世界を越えて天が叫んでいることを成就すべき責任があることを知りました。
しかし、このような彼の心情を誰一人として知る者がいなかったのです。そのような事情に置かれているイエス様にとって、自分だけに向き合ってほしいという幾人かの弟子たちを見つめることは、どれほど悲しかったことでしょう。イエス様は千辛万苦して真心を尽くす聖徒たちがおなかのすくときには、餅を作って食べさせてあげ、彼らが「時」のために泣くときには、彼らを慰めてあげ、失望するようなときには、八福の教え(山上の垂訓<マタイ五・3~10))を通して天の祝福を紹介しました。
このように彼らを率いて回りながら、失望するのではないか、あるいは離れていくのではないかと心配をされたイエス様の心の切ない事情を表現したものが、正に福音書のみ言であることを私たちは知らなければなりません。
さらには、一つの事情をかけて話せば話すほど、そのみ言を聞いて近づくべき弟子たちであるにもかかわらず、かえって遠ざかる立場に行く弟子を見つめるイエス様の心情を感じなければなりません。
ついには腰に手ぬぐいを巻いて、たらいで弟子たちの足を洗ってあげながら、私の道理は「仕えること」であると主張したイエス様でした。このようにしてこそ、天と因縁を結べることを知っていたイエス様だったので、行くまいとしても行かざるを得なかったのです。このように悲しみを感じながらも、弟子たちを見つめられたイエス様であったことを知らなければなりません。
復帰の路程を歩まれたイエス様が、奇跡を喜んで行われたのではありません。うれしくて安らかなので奇跡を行ったと思ったら、大きな誤解です。この地には身の置き所がなく、この宇宙の中には頼る所がないので、天に向かって訴えまいとしても訴えざるを得ない事情があったのです。このように悲壮な境地にあったイエス様の切なる姿を見つめなければなりません。
イエス様が彼らに同情せざるを得ない悲しい事情に処し、手を挙げて「父よ!」と呼ぶときに、そこで奇跡が行われたのです。骨肉が溶けるような悲しい場面で叫ぶ、その一つの事情を通して現れたものが奇跡であったことを知らなければなりません。その奇跡は、イエス様が怠慢で、あるいは好きで行ったものとは思わないでください。
ベツサイダの町で五千人余りの群衆が、「イエスよ、あなたは復活した預言者の一人であり、選ばれたイスラエルの指導者であられます」と、手を振りながら叫びました。このように、利益になり得る立場のときは訪ねてきましたが、時が過ぎ、イエス様が自分たちと心的基準が変わり、事情が変わり、標準の違う境地へとさらに一歩進むと、彼らはイエス様を裏切って背を向けました。これがイエス様の歩んでこられた路程にあった現象です。
Thursday Oct 10, 2024
イエス様の生涯と愛 第46話
Thursday Oct 10, 2024
Thursday Oct 10, 2024
イエス様の心情を知らなかった弟子たち
変貌山上でのイエス様は、喜びませんでした。この変貌山上であった事件と場面は、神様または人間の誰も知らない悲壮な場面に違いありません。今日この事実を、自分を中心として推し量ってはいけません。
変貌山上の三弟子は、燦爛と輝くイエス様の姿を見て、「先生、わたしたちがここにいるのは、素晴らしいことです。それで、わたしたちは小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」(ルカ九・33)と言いながら、そこに永遠にとどまろうと話しました。このように三弟子は現れる環境で楽しもうとしたのですが、イエス様の心情はそのようなものではなかったのです。
その時に現れた変貌山上の環境は良い環境でしたが、その環境に対するイエス様の心情は、歴史的な内的悲しみと未来の悲しみが身にしみるようでした。ところが三弟子は、イエス様がこのような悲しみの心情に浸っていたことを知りませんでした。
過去の歴史的な悲しみに浸っている背後関係のすべてを乗り越え、最後にはイエス様に橋を架けて、神様をつかんで談判できる立場にまで進まなければなりません。また悲しむこの民族の背後には、民族に代わって隠された祭壇を築き、誠を尽くしている群れがいることを知らなければなりません。
教団に代わって涙を流す人は、祭司長と同じ職分をもっている人です。ヤコブが二十一年間、人知れず祈祷をしたのも、神様の摂理がアブラハムから三代にまでつながっていることを知っていたからでした。それで彼は、民族のための蕩減の路程を黙々と歩みました。モーセもまた民族のために、パロの宮中における四十年の生活とミデヤン荒野での四十年間の祈祷生活をしたのです。
今日、民族に対して悲しみの祈祷をする教団と涙を流す人がいるなら、彼らには既に祭司長的な職分が与えられているようなものです。ところが、天が「切迫した心情で天の前に談判の祈祷をしてみたことがあるか」と尋ねるとき、どのような返事ができますか。今からでもそのような決心をもって、「終わりの日」に責任を持ち得る働き手とならなければなりません。
皆さんのいる立場がそのような環境になり得ないとしても、とどまる環境において実践しなければなりません。それぞれの地域に責任を負った、変貌山上のイエス様のような聖徒たちがたくさん現れてこそ、キリストの解怨がなされるのです。今日私たちは、昔の三弟子よりも多くのことを知り、イエス様の心情と神様の悲しい心情を解怨してさしあげられる真なる子女にならなければなりません。
Thursday Oct 10, 2024
イエス様の生涯と愛 第45話
Thursday Oct 10, 2024
Thursday Oct 10, 2024
十二弟子の立場と責任
十二弟子は、イエス様の新しい福音を中心として進まなければならなかったのです。ここでイエス様は父母になり、ユダヤ教はカインになり、イエス様の新しい福音はアベルになるのです。またイスラエル民族がアベルになり、世界国家がカインになるのです。
すなわち先に出てきたのがカインの立場であるユダヤ教であり、またイエス様を中心とした新しい福音運動がアベル的立場なのです。アダムの家庭でカインがアベルを殺したのですが、歴史の流れは蒔いたとおりに刈り入れる立場に立たなければなりません。そうでなくては復帰にならないのです。それゆえイエス様は、排斥されて追い込まれる立場に立つようになったのです。
しかしイエス様は、アベルが殺されたように殺されてはならず、キリスト教もそうであってはいけません。ところがイエス様は殺され、今までキリスト教徒も殺されてきたのです。それでキリスト教は、殉教の宗教になったのです。このようにアベルの歴史について見ると、カインの攻撃を受けるのは避けられないことなのです。
ここで再度編成したイスラエルの歴史を代表した十二弟子は、新しいイスラエルの一族として、カイン的な子女の立場とアベル的なイスラエル氏族の立場にあるので、ほかのすべての支派よりも立派でなければなりません。彼らが備えた内外の内容すべてが立派でなければならず、神様が誇り得る基準に立たなければならないのです。イエス様は死なずに生きて、何をすべきでしょうか。蕩減復帰をしなければならないのです。そのようなイエス様が追われ、追い込まれて死んだので問題が起きたのです。
このように追い込まれた状況で、十二弟子と支派長たちが反対すれば、どうしなければならないでしょうか。支派を編成するためには、家庭がなければならないのに、家庭がなくて支えられますか。それゆえイエス様は、家庭をつくらなければなりませんでした。支派長を中心として世界の土台と連結させて伸びていかなければならないので、家庭をつくらなければならないのです。
そうしてイエス様は、アダムの家庭のカインとアベルが失敗したことを復帰する立場であり、ノアの家庭において三人の息子に代わって復帰する立場にあったのです。それでイエス様は、イスラエル民族を中心としてこのような立場で責任を果たすために、代表的な中心人物として知識の乏しいペテロとヨハネ、ヤコブを立てられたのです。このことは、どれほどあきれることでしょうか。
彼らがいなければ、家庭の基盤も築くことができません。したがって彼らは、死ぬ場にも従っていかなければならず、死ぬとしても共に死ななければなりません。一家庭において父母が逆賊として訴えられて死ぬことになれば、その子たちはみな「逆賊の子」という立て札を立てて死ななければならないのと同じことです。
Thursday Oct 10, 2024
イエス様の生涯と愛 第44話
Thursday Oct 10, 2024
Thursday Oct 10, 2024
弟子を立てるためのイエス様の苦労
神様の作戦法は、どのようなものでしょうか。一人の人を取り戻すには、その一人の価値の分だけ打たれてこそ、初めて取り戻すことができるのです。これが天の摂理です。一つの家庭を取り戻すには、その家庭の価値だけのものを天が代わりに打たれてこそ、その家庭を奪ってくることができるのです。したがって民族を取り戻して立てるには、神様がそれだけの打撃を受けてこそ取り戻して立てることができるのです。イエス様は実践路程において、これが天の作戦法であることを知っていました。
神様の代わりになるべきイエス様だったがゆえに、民族を探すためには個人の供え物になり、家庭の供え物になり、教団の供え物になり、民族の供え物になって、打たれる犠牲の開拓路程を歩んでこられたことを知らなければなりません。
このような理念の実践方法をもって現れたイエス様は、準備したユダヤ教団から自分の同志を求めようとしましたが、一人も歓迎する人がいませんでした。民族から裏切られたイエス様は、労働者の姿で現れて、漁夫の友の姿で、彼らと事情を共にする友となり、心情を共にする友となり、願いを共にする友となって、彼らの願うものは何でも死を覚悟して、かなえてあげようという心で戦われたのです。このような心的な内容と、心的な理念をもって証して戦ったがゆえに、ペテロのような漁夫たちがついてくることができたのです。
それでは無知な弟子たちを選んで、三年間、何をなさったのでしょうか。神様がイスラエル民族を立てるために四千年間苦労して奉仕したように、イエス様は彼らを立てて奉仕の生活をされたのです。
十二弟子を選んだイエス様は、彼らに対して大きな希望をもっていました。ユダヤ教団を動かし、祭司長たちとすべての律法学者たちを主管するために、天が送られたイエス様です。それゆえ彼の理念は大きく、彼のもつ欲望も大きく、彼の心的基準も高かったのです。このような神様の理念をもって、一人の開拓者の立場に現れたイエス様のことが分からなかった当時の祭司長や律法学者は、堕落直後のアダムとエバよりも哀れな人々であったことを知らなければなりません。
このような群れを御覧になって、イエス様はどうされたのでしょうか。天が四千年間、選民を立てるために奉仕の路程を通過し、サタンに対して犠牲と供え物の路程を通過してこられたその歴史的な伝統を、イエス様は三年の公生涯路程として通過されたことを知らなければなりません。
それゆえイエス様は、食べたいものがあっても、それを忘れて弟子たちを探し求め、着る物があれば自分がぼろを着ていることも忘れて弟子たちに上げたのです。安らかな立場があれば、弟子たちをその立場に置いて、自分は卑しい立場にいました。天と結びついたこのような心と理念をもって生活したイエス様の三年公生涯の路程が、必然的に勝利的な成果を上げるべきだったにもかかわらず、そのような成果を得ることができなかったその事情を知らなければなりません。
Thursday Oct 10, 2024
イエス様の生涯と愛 第43話
Thursday Oct 10, 2024
Thursday Oct 10, 2024
二、イエス様の嘆きと憂い
イエス様が対した人々
イエス様が対した人々は、たかだかペテロのような漁夫でした。ペテロに向かって愛について話したのです。「あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」と三度も尋ねました。それからイエス様が対した人の中には、マリヤという女性がいました。寡婦であり、良くない背後をもった人です。それから誰かというと、サマリヤの女です。ヤコブの井戸のそばで水をくれと言ったその場で、弟子たちが疑うほど親しげに話したサマリヤの女がいました。それからほかに誰がいますか。
この地上に愛の主人公として来て・・・・・・。新郎ですから、愛の主人公ではないですか。その愛の主人公であられる方の前に相対として現れた人たちが、どうしてそれほどまで役立たずの者たちだったのでしょうか。それがイエス様の願いだったのでしょうか。違います。神様の願いだったのでしょうか。違います。
出来の悪い人も、優れた人を要求するし、いくら不細工な女性だとしても、ハンサムな男性を新郎にしたいと思うでしょう。不細工な男性も、きれいな女性を妻に迎えたいと思うのです。
死亡圏内に生きている人間たちも、そのように反対の立場を望むのに、ましてや天の国の王子として生まれたイエス様が、そのようにとても愚かな漁夫たちを集めて、何かの大将のように振る舞ったというのでしょうか。娼婦の群れが、何か愛しているという表示をしたというのでしょうか。サマリヤの女は、夫が五人もいるとか聖書には記されています。あきれてしまうのです。
イスラエルの国の大祭司長を中心として、「あなたは、この人たちよりも私を愛したでしょう?」と言うとき、「はい、主は私の愛することをすべて見ました」という返事を聞いたなら、どれほどよかったことでしょうか。ピラトがイエス様の門徒たちを訪ねるために、自分の侍従たちを前に立てて通告し、「今やっと、訪ねてまいりました」と言ったならば、神様がそれを御覧になって気分が悪かったでしょうか。あれほどまでひどく滅びるとは、誰が知っていたでしょうか。
そのように滅ぼそうとして、四千年間、預言者たちを通して、「メシヤを送ってやろう」と言ったのでしょうか。預言者も楽な立場で預言者になるのではありません。殺されたり、あらゆる犠牲に遭いながらも、「将来このようになる」と話したことが風習化し得る基盤として築き上げられるまで、どれほど千辛万苦したことでしょうか。それほどまで価値もなく、それほどまで孤独に死なせるために、その道を築いたのでしょうか。とんでもないことです。それを知らなければなりません。哀れなイエス様なのです。
イエス様がその目で見つめた父母は、いかなる標準の父母だったのでしょうか。神様の前に「私の父と母は、天上天下に二つとない父と母なので、神様、この父母を私以上に愛してください」と言える祝福の、その時間はどこへ行ったのでしょうか。自分の愛する兄弟たちに関して、「神様、私の愛する兄弟たちは、天上天下のいかなる兄弟よりも高貴な兄弟です。私が人間に生まれて、このような兄弟をもったことは天の誇りであり、人類の誇りです」と称賛し得るその立場はどこにあったのでしょうか。
あるいは弟子たちに関して、「私は人の世の師の中の大いなる師として、師弟間を中心として天下に誇り得る権威をもって、私自身を愛する以上の立場で弟子を愛しました」と言える立場はどこにあったのでしょうか。
自分の一族を中心として、「私の祖父母、あるいは遠い親戚、私の一族全体は、天が愛さざるを得ない一族であり、あなたの前に紹介せざるを得ない一族ですので、この一族を手放しては天の行く道がありません」と喜びの立場で誓いの心情をもって、神様の前に紹介し、神様の祝福を望み得る時間があったでしょうか。なかったのです。
「あなたが四千年間受難の交錯する道を経てこられながら、悪なる群れと悪なる国の迫害を受けつつ残しておかれた、あなたが愛したかったこの教会とイスラエルの国を、私が愛することのできる立場に立ったので、この日をあなたが喜ぶことのできる所願成就の愛の日として迎えてください」と言うことができたでしょうか。全くできなかったのです。
イエス様の立場から考えると、マリヤのような卑しい者が来て、足に香油を塗って髪の毛で拭くとき、あきれたことでしょう。この世の男性であれば、足でけ飛ばしたはずなのに、そのようにしなかったことだけでも幸いなのです。その国で特別な祭司長の家門に生まれた美女が来て、同じことをしても迷惑だったはずなのに、そのざまは何でしょうか。
けれども、イスカリオテのユダがその行動を見て戒める場において、イエス様はかえって味方にならざるを得なかったのです。「イスカリオテのユダ、あなたには、私の命をねらう悪賢い心が宿っているが、この女性はあなたよりもましである。あなたよりもましな人をどうして戒めるのか」と叱責されたのです。
このように自分のすべてを犠牲にする道によってのみ、「全世界のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」(マタイ二六・13)とまで予告しながら、念を押したことを私たちは知っています。それが良い立場であるから、そう言ったわけではありません。もしそこで、イスカリオテのユダがとがめなかったら、イエス様はどうしていたでしょうか。そのようなことは言わなかったことでしょう。
Friday Oct 04, 2024
イエス様の生涯と愛 第42話
Friday Oct 04, 2024
Friday Oct 04, 2024
四十日断食
イエス様は天に代わって来られ、救世主として万民を救おうとされたのですが、救いを受けるべき民族の中に、そのイエス様の心中を推し量って現れた人は一人もいませんでした。彼の心中はおろか、彼の三十年の苦労の路程も知ることができませんでした。荒野生活をして、民族に責任を負うべき立場にあった洗礼ヨハネ一党さえも反対してしまいました。
このように悲しみの心情で民族を御覧になりながら、洗礼ヨハネに対する一縷の望みをかけたのですが、洗礼ヨハネまでもがイエス様のことを無視していくようになる時、イエス様においては悲しみがより一層、深まったという事実を私たちは知っています。
民族の前に、天の福音をもって現れるべき時が近づいているにもかかわらず、民族が行方知れず、民族の前に天が立てられた洗礼ヨハネも行方が知れなくなり、イエス様は、人々の前に現れることができなくなりました。それで荒野で四十日間の断食路程を経ることになったのです。
今日キリスト教徒は、イエス様にとって四十日の断食期間は栄光の期間であり、イエス様に必ずなければならない期間だと思っていますが、そのようなものではありません。イエス様が四十日断食期間を経ることになったのは、イエス様の前に民族が消え去ってしまったからであり、洗礼ヨハネー派が消え去ってしまったからでした。
さらには、東方の三人の博士とアンナ、シメオン、そしてみ旨を抱いてイエス様を身ごもったヨセフ家庭のマリヤが、イエス様が実践路程に出るときに、彼のことを分かってあげられなかったからでもありました。地の主人公として来られたイエス様であり、万民の生命を救うために来られた天の皇太子であられるイエス様であり、また万民の救い主であられるイエス様が、このように不憫な身の上になったことを私たちは知らなければなりません。
四千年の歴史を終結して、イエス様が築き上げるべき新しい天の祭壇は、栄光の祭壇であり、喜びの祭壇であり、勝利の祭壇でした。ところが新しい祭壇を築くために乗り出したイエス様は、不憫な境遇になってしまいました。おなかをすかせたイエス様になり、サタンの試練を受けるイエス様になってしまいました。サタンに試練を受けるその場面は、全人類が最も悲痛に思わなければならない場面です。
イエス様が四十日間断食をしたのち、サタンにもてあそばれ、そのサタンが提示した様々な条件の試練を受ける悲しみの時間は、そもそも民族が受けるべき試練期間でなければならなかったのですが、むしろイエス様の悲しみとして引き継がれたのです。このようなことを考えると、イエス様はその民族を断ち切り、恨み、呪うべき立場であったにもかかわらず、御自身の空腹の身を起こし、天の心情をつかんで、民族のためにサタンと戦われたのです。
そのときイエス様が置かれた立場は、イスラエル民族も知らない立場でした。そのような立場で覚悟をして、天の前に現れるときのイエス様の心情は、「いかなる悲しみの立場を経たとしても、自分が来た目的と自分が抱いた父のみ旨に対する一途な心は変わり得ない」というものでした。
本来の父のみ旨は、民族を通して万民を救うことであると御存じであるイエス様であり、そのみ旨を尊重なさるイエス様であったがゆえに、飢えやぼろを着ることも、迫り来るいかなる迫害や試練も、彼が三十年余りの間、み旨を待ち焦がれて願った心を、崩そうにも崩すことができませんでした。
それゆえみ旨を抱いて現れるたびに、イエス様は天に代わって御自身が受ける悲しみと、天が受ける悲しみを同時に感じざるを得ませんでした。またそのような立場からみ旨に対して、より一層固い決心をしたので、裏切った民族と裏切った群れを再び探し出せたことを、私たちは知らなければなりません。
イエス様は御自身が生きているとき、イスラエル民族が探してくれることを願われたのですが、そのようにしてくれなかったので、反対に死んだのちに探してあげなければならないイエス様になりました。民族がイエス様に侍れなかったことによって、生きた立場で人類を救うべきだったイエス様は、死んで救いの役事をするようになったのです。
Friday Oct 04, 2024
イエス様の生涯と愛 第41話
Friday Oct 04, 2024
Friday Oct 04, 2024
メシヤを迎える準備
ユダヤ教はイエス様のために神様が準備されたものでしたが、そのようなユダヤ教徒はイエス様がベツレヘムに生まれたことを知りませんでした。むしろ東方の博士が先に知って、黄金、乳香、没薬をラクダに乗せて国境を越え、イエス様が誕生した場所をヘロデ王に尋ねたのです。こうしてイエス様の生まれたことがヘロデ王に知られると、ヘロデ王はイエス様を捕らえて殺そうと計画を立てます。
ですから国家を中心としてチャンピオンの候補までつくっておいたなら、イエス様が誕生したというとき、駆けつけなければならないでしょうか、駆けつけなくてもよいでしょうか。駆けつけなければなりません。ところが駆けつけなかったのです。また人類歴史上、数千年を経て一度しか来ない大事なお客さん、すなわちメシヤを迎えるための一等ホテルを準備しなければなりませんか、しなくてもよいでしょうか。準備しましたか。しませんでした。
神様の一人しかいない王子であり、万世に一人しかいない大事な王子様が君臨されるのに飼い葉桶とは、話になるでしょうか。四千年間、神様が準備され、苦労されて立てたイスラエルの民は、みなどこに行ったのかというのです。彼らは、メシヤがユダヤのベツレヘムに生まれると大々的に言いふらしたのです。それで三人の東方の博士がベツレヘムに行って、黄金と乳香と没薬を贈り物として捧げたので、隣にあるエルサレムにもうわさが立ったのです。
それならば、イエス様を死なせた張本人は誰でしょうか。ユダヤ民族です。牧師はこのような摂理的なみ旨をよく知って語らなければなりません。イエス様が本当に死ぬために来たとするならば、何ゆえに神様は四千年の歴史を準備されたのでしょうか。王になるという預言者たちの預言はみなうそでしょうか。苦難を受けるという預言はありますが、神様がイエス様を殺すようにと預言されたでしょうか。考えもせずに信じているのです。
イスラエル民族がイエス様のことを信じられなかったので、イエス様は死ぬことになったのです。ヘロデ王を中心としたイスラエルの最高幹部たちとカヤパをはじめとする祭司長たちが、組んでイエス様を殺したのです。「あのイエスは、我々の生活基盤をすべて奪っていく危険分子だ」と判断したのです。ですから「あのイエスを、ただではおかない」と考えて、イエス様を十字架にかけて殺したのです。ユダヤ教団とイスラエル民族が一つになって、イエス様に仕えるチャンピオンになるべきだったのに、かえってイエス様に十字架の道を行かせたのです。
もしイエス様と彼らが一つになっていたならば、イエス様は死ぬことはなかったのです。イエス様の才能が、サタンの才能よりも劣っているでしょうか。良い内容をもってきたのですが、結局、彼らがイエス様と一つになれなかったので、十字架で亡くなることになったのです。
Friday Oct 04, 2024
イエス様の生涯と愛 第40話
Friday Oct 04, 2024
Friday Oct 04, 2024
ユダヤ民族の不信
イエス様はこの地上に来られ、十字架にかかって亡くなり、復活されたのちに昇天されたので、再び来なければならない摂理的運命に置かれているのです。
長い間、神様の摂理のみ旨に従ってきたイスラエル民族の中でも、選ばれたユダヤ教は、神様のみ旨を成し遂げ、勝利の基台を準備すべき使命がありました。これが彼らを選んだ神様の願いであり、また彼ら自身の希望でした。
このようなみ旨がかなえられるその時を願って、神様は御自身が信じることができ、創造理想を実現する全体の任務を遂行し得る一人息子であるイエス様を送りました。したがって神様は、イエス様を人間の前に主人として現れるようにされ、イスラエルを通して祝福を成し遂げなければならず、また歴史的な神様の救いの摂理のみ旨を終結させなければならなかったのです。
ところがそのようなイエス様が、どうしてこの地で摂理のみ旨を成就できず、神様の栄光を謳える理想の園を成し遂げられずに逝ったのでしょうか。これが今日、私たちに悲しみを呼び起こさせる内容であらざるを得ません。
イエス様がこの地に来られて亡くなる時までの路程は、今日この地上に生きている人間たちの行く、そのような生涯の路程ではありませんでした。誰よりも困難な立場、誰よりも孤独な生涯を経て逝かれました。またイエス様は、神様のみ旨と人間の理想を一身に携えて、一世代圏、一時間圏内の一存在として現れた方です。
けれども、そのようなイエス様の価値を、天が見るのと同じ価値として認める人がこの地には一人もいませんでした。それだけでなく人間は、全人類に神様の愛を連結してくれる愛の中心存在として、イエス様に侍ることができませんでした。
それゆえイエス様は、言うに言えない悲惨な生活をされたのです。誰か一人でも友人として立たせて、自分の悲しみを吐露することができなかったイエス様でした。このようにイエス様は、どこの誰よりも哀れに生きて逝かれたことを、今日知らなければならないのです。
神様のみ旨を成就させ、神様の栄光のためにイエス様が来られたことがイスラエル民族の喜びとなり、ユダヤ教団と世界人類の喜びとならなければなりませんでした。また神様のひとり子であるその方は、全人類の主人公として現れなければなりませんでした。ところが、どうしてそのイエス様は、飢えと悲しみを受ける哀れな生活をされたのでしょうか。
時代は変わり、歴史は経過しても、イエス様が生存時に感じられた悲しみと孤独さを体恤し、彼の哀れさを感じ得る人にならなければなりません。もし皆さんが天地に代わってサタンと戦い勝利することによって、神様に栄光をお返しできる息子、娘になることができないならば、悲しみと孤独さによって残されたイエス様の怨恨を解いてさしあげるすべがないのです。
イエス様の願いは、自分自身の欲望を満たすことではなく、自分自体を犠牲にしてでも神様の創造理想を実現してさしあげることでした。被造世界の中心存在に立てられた人間が堕落したので、神様は創造理想を実現するために、四千年間復帰摂理をしてこられたのであり、イエス様は堕落した人間始祖の誤りに責任を負って、そのような神様のみ旨を自分の理念、自分の目標として現れた方でした。
ところがイスラエル民族は、そのようなイエス様を知りませんでした。それだけではありません。ユダヤ民族は、イエス様の一身が歴史的な願いの代わりであると同時に、当時、神様の全体的なみ旨の代わりである方だったことも知らなかったのです。
イエス様は孤高な一個人ですが、それ自体は歴史に代わることができ、現実に代わると同時に、天倫のみ旨に代わり得る永遠なる神様の理想をもった方でした。けれども、神様のみ旨に従ってきたイスラエル民族とユダヤ教団は、イエス様がそのような方であることを知り得ませんでした。それゆえ彼らは、イエス様の行かれる道を協助するどころか、公然と妨害し、迫害したのです。
Friday Oct 04, 2024
イエス様の生涯と愛 第39話
Friday Oct 04, 2024
Friday Oct 04, 2024
内的三十年の準備期間と外的三年の公生涯路程
イエス様が三十年間に準備したのは、何だったのでしょうか。今まで神様が、内的に摂理した世界において絡まった多くの曲折をすべて解き、これを外的な世界にそのまま横的に展開させて蕩減復帰するための準備期間でした。三十年の準備期間は内的であり、三年の公生涯路程は外的期間であって、三十三年の期間を通して、完全なアダム復帰、個体完成を完結するために戦ってきたことを知らなければなりません。
メシヤとして生まれたその日から、メシヤの振る舞いをするのではなく、先祖たちが誤っていれば、誤ったすべてを完全にサタンの前に蕩減して、分別された勝利的基盤を築いた基台の上で、メシヤとして出発できるのです。この地上に、そのような出発のできる土台があったならば、イエス様は苦難の道を行く必要がないのです。
もし東方の博士、あるいは羊飼いなどが、イエス様が準備時代として内的な闘争をする三十年の準備期間に、イエス様の垣根になり、外的な闘争の基盤を築き上げていれば、イエス様は外的三年の公生涯路程において、内的なそのすべての天的な恨を地上に横的に展開して蕩減するに当たって、苦難の道、迫害の道、苦労の道を行かずに土台を築けたでしょう。
また、築かれたその土台を中心としてこれを動かしていき、苦難に遭うにしてもこれを基盤にして、彼らと連絡できる洗礼ヨハネを中心とした人たちが責任を果たしていたならば、イエス様は外的な苦難にぶつからずに、み旨を成し遂げられたでしょう。
けれども、そのような土台がすべて崩れていくことによって、イエス様は東方の博士や羊飼いたちが追求した人間の代表としての使命を再び収拾し、洗礼ヨハネを立てたすべての準備の基盤を築いてきたものまで収拾して初めて、時代の前に現れることができることを知らなければなりません。
それゆえ、長く見るならば四千年の歴史を収拾しなければならず、御自身の生涯について見るなら、三十余年の生涯路程において、天が準備した横的な地上の歴史的条件までも蕩減しなければならなかったのです。ですからイエス様が蕩減しなければならない期間が、三十年の生涯と三年の公生涯路程であることを知らなければなりません。この三年の公生涯路程というのは、この上なく悲しい路程です。人間が責任を果たせなかったことによって、イエス様が苦難の道を行き、十字架の道を行ったことを私たちは知らなければなりません。
イエス様が三十三年間、この地上で天を代表して戦った目的はどこにあるのかというと、個体完成です。それゆえサタンが、三大試練として試練したのは何でしょうか。イエス様を一時的な一人の怨讐として試練したのではありません。イエス様の全体目的に対して試練したのです。
サタンが試練するに当たって、イエス様の三大試練の内容と同じそのような目的の実体になって試練する人に対して、「サタンよ、退け」と防いでくれる人がいたならば、イエス様には試練は必要ありませんでした。三大試練は必要ないのです。試練を通すことなく、出発と同時に個体完成し、出発と同時に聖殿理想が完成し、出発と同時に世界の栄光を立て得るようになるのです。
そのような基準が出発と同時に一度に起きるはずだったのですが、そのような外的な環境から防いでくれ、サタンと対決して「このサタンめ、お前が知る前に私は知っている。お前が試練するこのような条件は、私にかけようとしても無駄だ」と言って防いでくれる人たちがいなかったので、イエス様は苦難の道を歩んだのです。