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Sunday Feb 26, 2023
真の父母経 第63話
Sunday Feb 26, 2023
Sunday Feb 26, 2023
第三章「世界基督教統一神霊協会」の創立
第一節 協会創立の背景
協会創立の摂理的背景
真のお父様は、一九五三年九月十七日に上京されたのち、ソウルを中心とした本格的な活動を模索されると同時に、大邱と釜山の教会を訪ね、開拓の最前線で苦労する食口たちを指導し、激励された。そして、不信に陥ったキリスト教と国家指導者たちの代わりに多くの精誠を尽くしながら、再出発のための信仰基台を立てられた。自ら、摂理的アベルの使命基準を探して立てられたのである。このような縦的蕩減復帰基台の上に、ソウル、釜山、大邱など、三つの地域の教会基盤を中心として、実体基台復帰のための横的摂理の活路を模索された。そして、一九五四年五月一日、ソウル市城東区(ソンドング)北鶴洞(プッカクトン)、現在の中区(チュング)新堂洞(シンダンドン)三九一の六番地にある、いわゆる三つの門の家で「世界基督教統一神霊協会」を創立された。協会の創立は、イスラエル民族とキリスト教、ひいてはイエス様ができなかったことまで蕩減した土台の上に、彼らに代わって真のお父様が一人、立つようになったことを意床する。結局、キリスト教団の不信によって歩むことになった蕩減復帰路程を勝利した基盤の上で、協会が立てられ、真のお父様を中心に新しい神様の主流摂理が始まり、新しい変革が社会と国家、世界全般にわたって現れ始めたのである。
1 お父様が解放直後、キリスト教と手を握って出発しようとした時、キリスト教の牧師たちが反対することによって、それが失敗してしまいました。その次は、大韓民国と手を握らなければなりませんでした。イスラエルの国とユダヤ教がイエス様を迎え入れなければならなかったように、大韓民国とキリスト教は、お父様を迎え入れなければならない立場であるにもかかわらず、反対の立場に立つことによって、教会と国が分立されていったのです。
ですから、イエス様が追い出されて、キリスト教が異邦の宗教になったことを蕩減復帰しなければなりません。それで、キリスト教がサタン世界を経て発展したように、お父様も世界的サタン圏の共産主義である北朝鮮に入ったのです。そこから再び復帰してくるので、個人的蕩減が必要であり、家庭的蕩減が必要であり、氏族的蕩減が必要です。ですから、今まで苦労してきたのです。一度でできることを何度もひっり返しながらやってきました。
それゆえ、統一教会を中心として、ユダヤ教の代わりをさせるのです。ユダヤ教の代わりにキリスト教をつくったのですが、そのキリスト教が責任を果たせなかったので、責任を果たすことができる基盤としてつくったのが統一教団です。
2 大韓民国政府が樹立されてからは、神様のみ旨の中でキリスト教や神霊的な団体が立ったのではなく、お父様が立ちました。反対され始めたその時から、一人で神様のみ前に立ったのです。聖書の聖句に「家の者が、その人の敵となるであろう」(マタイ一〇・三六)とあるように、キリスト教が同じ家の家族であるにもかかわらず、怨讐の立場に立つことによって、その時まで築いた基盤をすべて投げ捨てて、神様のみ旨は、ひとえにお父様を中心として、新たな次元で出発しなければならない悲惨な運命に立つようになりました。
その時からキリスト教も神様のみ旨から遠ざかり、民主世界も神様から遠ざかって、結局、逆に落ち始めました。ですから、お父様は受難の過程を経なければならないので、一九四八年から三年間、監獄生活をすることになりました。結局、北朝鮮も韓半島の地なので、サタン側の一線に行き、そのような闘いをしなければならず、韓国もサタン側なので、韓国でもそのような闘いをしなければなりませんでした。南北を中心として、そのような闘いをせざるを得なかったのです。北朝鮮は旧約時代に相当し、韓国は新約時代に相当すると考えます。それで、以北(現在の北朝鮮)に入って三年間、監獄生活をし、一九五〇年十二月に以北から出てきて、四年間、韓国で基盤を固め、一九五四年五月一日に、「世界基督教統一神霊協会」を創立するようになったのです。
3 イエス様が連行され、獄中生活を経て十字架で亡くなっていったので、復帰路程においても獄中から出発しなければなりません。栄光の座から出発しようとしていたすべての道が、反対に十字架の路程へと展開されたので、統一教会の歴史も獄中から出発し、新しい次元へと前進するようになったのです。
イエス様が監獄にいる時に十二弟子を失ったことを、実体的に復帰すべき歴史的使命があったので、神様は、私が語らずにいる中でも、監獄にいる囚人たちを通して、失われた数の基準を取り戻すために霊界を動員したのです。二十四人のメンバーが、獄中で、天命によってひそかに結束して出発しました。監獄から出てくる時、四人が一緒に来ました。四位基台の復帰の原則に一致する歴史的条件を、神様が立てたのです。そのように興南の監獄から出て平壌に行き、昔、失った食口たちを再び糾合して出発したのが、現在の統一教会です。
4 統一教会は、今まで六千年の歴史をかけて神様が摂理してきた復帰路程を蕩減しなければなりません。個人的な問題、家庭的な問題、国家的な問題を蕩減復帰しなければなりません。イエス様が国家を中心として成し遂げるべきだった全体的な問題を蕩減復帰しなければならないのです。神様の摂理が、今日、韓国を中心として動いています。解放前まで神様は、預言者的な使命をもつたくさんの人物を送って準備してきました。ここには、婦人たちを中心として摂理した一面があると同時に、男性たちを中心として摂理してきた一面もあります。神様は、摂理のみ旨を立てるために、この民族が知らず、信仰者たちが知らずにいる中で、特別に選んだ人たちを立てて、内的、外的に役事をしてきました。ですから、この国、この民族は、解放後に新たな発展的内容をもって出発しなければなりませんでした。そして、このみ旨を伝えるために統一教会が出発したのです。
5 サタン側である北朝鮮は、韓国を占領するため、一九五〇年に「六・二五動乱」を起こしました。その時、マッカーサー総司令官が仁川上陸作戦をし、興南を空襲して勝利をもたらすことによって、お父様は興南監獄から出て、韓国に下ってきました。
その時、韓国は完全にばらばらになっていました。それまで、ソウルでもどこでも築いてきた基盤が完全にばらばらになったのです。韓国政府が完全に荒らされてしまいました。
お金のある人は逃げようとし、キリスト教の牧師たちは息子、娘を外国に留学させるなど、国内は混乱時代に入りました。
ここから統一教会は基盤を築いてきたのであり、統一教会の基盤ができるに従って、この国も新たな政府の形態へと収拾されてくるようになりました。それが摂理観です。社会が混乱したのは、むしろ、天の摂理がサタン側を利用して、神様のみ旨を築き得るよう、環境をつくってあげるためでした。それで一九五四年に協会を創立し、そこから混乱した社会環境を経て、新しい基盤を拡大してきました。そうして、政府と対峙し、キリスト教と対峙しながら、統一教会は発展してきたのです。
6 お父様は、口があっても話しませんでした。この民族にしみ込んだ多くの恨があっても耐え忍びました。それは、お父様が意気地なしだからではありません。イエス様が三十数年の生涯を耐え忍んでこられたのを知り、神様がイエス様以降、二千年間も耐え忍びながら、み旨を成就するための基盤と、時を整えるための強固な土台を築こうと、心を砕いてこられたのが復帰の路程であることを知ったので、耐え忍んだのです。「台風よ、吹け。吹雪よ、吹け」と言いながら耐えるのです。そのようなものは一時です。過ぎ去るようになっています。今日の社会において、自分の幸福を自慢する人たちも同様です。過ぎ去るようになっています。それでは、お父様の責任とは何でしょうか。追われながら監獄に入る時、お父様はその立場で何をしなければならないのでしょうか。世界の人類のために打たれ、世界の苦難をすべて引っ張って殲滅(せんめつ)しなければなりません。「世界の苦難の道を開拓していく上で、これくらいの困難がないだろうか」と考えて、苦難をむしろ当然のことと思いました。お父様が愚かだからそのように思ったのではありません。復帰摂理歴史は、必ずそのような場で決着をつけて次の段階に行かなければならないので、私はそのような道を行こうとし、またそのような人が求められたので、「世界基督教統一神霊協会」を創立したのです。
Sunday Feb 26, 2023
真の父母経 第60話
Sunday Feb 26, 2023
Sunday Feb 26, 2023
9 私は、避難時代である三十二歳の時、釜山の草梁に初めて来たのですが、まだ若かった頃です。今よりもっとハンサムでした。私は、釜山鎮区(プサンヂング)第四璋頭に働きに通いました。その埠頭で小豆粥を売っていたおばさんたち、蒸し餅を売っていたおばさんたちのことが思い出されます。また、草梁には労務者収容所があったのですが、そこの小さな部屋で『原理原本』を書いたことが思い出されます。とても小さな部屋だったので、横になってもまっすぐには寝ることができず、対角線に寝なければなりません。対角線に寝ても足が壁についてしまうのです。
10 釜山で避難民生活をする時、私の周囲には人々がたくさん集まってきました。私が興味深い話をしてあげると、彼らは食べ物を持ってきて、分け合って食べました。しかし、ずっとそのように暮らしてばかりはいられないので、小屋を一つ準備したのですが、犬小屋よりは少し良い程度でした。
泥土と岩石を材料にして造った、とてもみすぼらしい住みかでした。家を建てられるような土地は一坪もありませんでした。それで、山の斜面に小屋を建てたのです。建ててみると、床の真ん中を湧き水が流れていきました。屋根は古い箱で覆いました。部屋はとても小さなものでした。また、ぼろぼろの服を四ヵ月間、そのまま着ていました。そのような凄惨な状況でしたが、霊的に選ばれた人たちが、私を訪ねてきたのです。
11 お父様は、この道を出発しながら、釜山の凡一洞につばめの巣のような家を建てることになりました。家を建てるにはシャベルが必要です。シャベルを借りようとしても、誰も貸してくれませんでした。避難民たちはお金になりさえすれば何でも売ってしまうので、そのような人だと思って、貸してくれないのです。家を建てなければならないのに、シャベルもなく、お金もなければ、どうするのでしょうか。仕方なく、火搔きでしました。つるはしもないので、火搔きで地面をならしたのです。また、煉瓦を作る道具を借りようとしましたが、それも貸してくれませんでした。それで、アメリカ軍の部隊に行って戦闘糧食の段ボール箱をもらい、角を広げて貼りつけ、その上にこねた土を塗って家を建てました。とてもたくさんの土を使いました。そのようにして、つばめの巣のような家を建てたのです。
12 以北にいる頃から会っていた食口たちが、韓国に下ってきました。昔のお父様を忘れることができず、訪ねてくるのです。聖日になると、釜山の凡一洞の小さな家で礼拝を捧げました。家は小さいのですが、その家がどれほど有名か分かません。土地がないので、山の斜面を削って建てました。そのようにしても誰も何も言わないので、山の斜面を横に掘って建てたのです。雨が降るとその部屋から水が湧き出ました。どれほど味わい深いでしょうか。二十一世紀の最高の文化住宅です。ですから、仕方ないではないですか。地面をおよそ半尺ぐらい掘り、石を拾ってきて水門を造るのです。水門を造って、その上にオンドルを置きました。そのオンドルの下には湧き水が流れるのです。そのような有名な家です。
13 一九五三年に休戦協定が結ばれましたが、(それ以前の)「六・二五動乱」が続いている時のことです。当時、アメリカから入ってくる軍需物資の船団が、列をつくって釜山港に入ってきました。毎朝起きると、お父様はそれを数えるのです。普通は五十隻で、ある時は百隻を超えることもありました。それを見れば、戦況がどうなるかを知ることができます。軍需物資を補給する船の数が増えているのを見ると、「ああ、この戦争は熾烈になるだろう」と考え、船が少なくなれば、「ああ、もう戦争が小康状態になるのだろう」と考えました。その当時、お父様に従っていた食口たちが何人かいました。霊界を通じて縁をもち、出会った食口たちが、凡一洞に一人で住んでいたお父様を急ぎ足で訪ねてきたのが、ついきのうのことのようです。
14 お父様は昔、避難時代に釜山でたくさんの涙を流していた時がありました。世の中にそのような家はありません。岩の上に家を建てておいたのです。入ってみると、小さなテーブルが一つ、それから絵を描くキャンバスがありました。「六・二五動乱」に参戦したあと、故郷に帰るアメリカ軍部隊の人たちに肖像画を描いてあげたキャンバスが一つあったのです。テーブルとキャンバスの二つしかありません。悲惨なことです。お父様は、左右四ヵ所にポケットが付いたアメリカ軍の作業服を赤褐色に染めて着ていました。また、真っ青に染めた韓国服のズボンを、裾のひもも結ばずにはいていました。靴はゴム靴を履いていました。それも同じ大きさのものではなく、片方は大きく、もう片方は小さいものを引っ掛けて歩きました。そうして、岩の上に独り寂しく座り、祈りながら涙を流したのですが、その岩が涙岩です。
15 私たちが釜山で避難生活をした時、金元弼が絵を描いて売りました。私は枠を作り、紙に線まで引いてあげました。顔に鼻だけ描けば、あとは私がすべて塗りました。共に夜を明かしながら描いたのです。夜の十二時から始めて、一晩で肖像画を三十枚まで描きました。それをすべて描くためには、線を先に引かなければなりません。三十枚ずつ持ってきたら、まず線を引き、その線に沿ってかたどって描くのです。ですから、その線をすべて私が引いてあげるのです。
一枚につき四ドルでした。アメリカ軍の人たちが帰国するとき、自分の妻にお土産にする物があるでしょうか。自分の妻の肖像画が最も良い贈り物であることを知って、その仕事をしたのです。今なら三十ドルや四十ドルどころか、三百ドルくらいはもらえるでしょう。ですから、一晩で二十枚以上描くのですが、それを一人では描けないので、私が手伝ってあげました。夜を共に明かしたのです。
16 私は、金元弼を連れてボムネッコルで暮らしていた時が良かったと思います。その時が良い時だったというのです。幼稚園や小学校の時代が最も良いのです。なぜなら、父母が自分を迎えに来てくれたり、待っていてくれたり、自分のために尽くしてくれる時の(心の)ゆとりが、どの時期よりも多いからです。ですからその時期が、ほかのどの時期よりも良いのです。
その頃は、互いにために生き合う心に満ちていました。そのようなことを感じたので、あの頃が良かったというのです。お父様とみ旨を中心として、心情的な絆が、ほかのどの時期よりも深かったので、あの時が良かったと思うのです。
17 釜山の凡一洞の聖地は、共同墓地の近所にあり、石だらけの谷間のほかには何もありませんでした。そのような所に、お父様はみすぼらしくて粗末な仮小屋を建てました。しかし、その中で暮らしながら、この地上のいかなる宮中で栄光を享受しながら暮らす人よりも、神様の息子として孝行ができる一番の道を歩んでいました。また、誰も及び得ない深い内心の基準に到達することが願いでした。その当時は、外面的に見ると、何もありませんでした。一文の価値もない人のようでした。ひげはぼうぼうと生え、顔は黒ずむままに黒ずんでおり、服装は韓国服と洋服を合わせて着ていたのです。
18 皆さんは、釜山のボムネッコルの聖地で、お父様が岩を抱きかかえて悲痛に思った心情を知らなければなりません。
「六・二五動乱」の時、貨物船で埋め尽くされた釜山港、武器を運ぶための船で埋め尽くされた釜山港を眺めながら、どのような祈りをしたのか、皆さんは分からないでしょう。その時のその祈りが、すべて成就しました。統一教会は、名実共に孤児の立場、世の中の誰も歓迎せずに見捨てられた立場から立ち上がりました。通過しなかったところがありません。忠孝の道理を果たし得る道があるのなら、その道を訪ねていこうと身もだえしながら準備した男が、皆さんが従い、信じ、侍る、お父様なのです。
19 世界の有名な牧師たちが今(一九八六年)、韓国を訪問していますが、何のために韓国に来るのでしょうか。私が座っていた釜山の聖地を訪ねてくるのです。その時は、それこそ避難民として哀れな姿をしていた時でした。そこに座り、「あの大海を渡り、私が心で待ち望んだ心情の絆の種を、あの国に行って蒔いておかなければならない」と考えました。氷山のようなこの世界に、父母がどこにいて、妻子がどこにいて、子女がどこにいるのかというのです。その時が「六・二五動乱」の時です。釜山の海を眺めながら、そのような祈りをしました。神様は、「見てみなさい。この先、世界はこのようになる」と言いながら、大きな商船、天の商船に私を乗せ、数多くの群衆が歓呼するのを見せて、慰労してくださいました。
第三節 『原理原本』の執筆
神様から公証を受けた原理
真のお父様は、一九五一年五月十一日、『原理原本』の執筆に入られ、翌年の五月十日に完了された。食口がそばで忙しく鉛筆を削ってさしあげなければならないほど、執筆に没頭された。『原理原本』を書かれる間、涙を流しながら聖歌を歌われ、また、涙を流しながら祈られた。時には、裏山にある小さな平地まで登り、歌を歌い、瞑想を続けながら心血を注いで書いていかれたのである。「記録第一巻」から「記録第五巻」に分けて記述された『原理原本』は、各巻ごとに四ヵ所の穴を開けて束ねられ、合計六百九十ページ以上に達した。本文の内容は、主に鉛筆でハングルと漢字の横書き草書体で書かれ、校正と校閲作業は、黒と青、茶色のインクを使い、ペンで行われた。薄く下線を引くときには赤い色鉛筆が使われた。特に、中間の十ページほどの分量(二百九十一—三百ページ)の本文は、青色のインクぺンで書かれている。『原理原本』は自筆で作成され、現存する最初の原理記録であるという点で、その意味は甚大である。初期には、この『原理原本』を弟子たちが筆写し、順番に読んでいた。
1 原理のみ言を語るときに、私は聖書を参考にしません。聖書にない内容です。神様から直接伝授されたものです。新約聖書は、イエス様が直接書いたものではありません。使徒たちが編集した内容が多いのです。
真は真のものとして、そのままにしておきなさいというのです。自分の神学観や自分の理論をもってきて、こぶのようにつけ加えてはいけません。神様の公証を受けたのか、自分の理論を加えなさいという許可を受けたのか、というのです。私は許可を受けていないものを発表したことはありません。私が行った上で発表してきました。間違いありません。ですから、滅びないのです。
2 凡一洞にいる時は、粗末な服を着て、頭はぼさぼさのまま、男性二人で土窟のような家で過ごしました。他の人からは、哀れに見えたはずです。金元弼が「お金を稼いでくる」と言うので、私は「そうしなさい」と言いました。その当時は、『原理原本』を書いていましたが、同志一人がどれほど貴く、従ってくる一人の人がどれほど貴かったか分かりません。
皆さんも、このように、人に対する味を知らなければなりません。ですから、金元弼が会社に出掛けるときは、必ず一キロ以上付いていったものですが、そのようにして初めて気が楽になりました。また、夕方になって帰ってくる頃になると、必ず迎えに出たのですが、その会う時の気持ちは、言葉では言い表せないものでした。そのように帰ってきて夜眠るのですが、布団がなくて、おくるみ一枚だけをかぶって寝たものです。その時は、そのように暮らしました。
3 お父様は、埠頭が見下ろせる凡一洞で「原理」を書きました。『原理原本』を起草したのです。詩のように書きました。私が骨子を抜き出して書いたので、説明しなければ、他の人々はよく分かりません。そのように、『原理原本』を起草しておいて、一九五二年五月に『原理原本』の執筆を終えました。『原理原本』以降、『原理解説』、そして、『原理講論』が発刊されました。
4 お父様は、聖書だけを見て原理を探し出したのではありません。「創世記が人間の堕落を記録した章ならば、ヨハネの黙示録は復帰の章である。これが生命の木としてこのようになったのなら、生命の木として復帰されるのだ。それが合わなければ聖書はうそである」と思いました。種を植えて生えたものは、種に返るのです。これが合わなければなりません。種から出た芽は上に伸びるべきであって、横に伸びてはいけません。それが合わなければならないのです。
今日の原理の教えは、推理的な方法を通して摂理史観に一致しているのです。名実共に神様が生きている限り、その神様が愛を中心として摂理のみ旨を展開していく限り、世界は必ずその文化圏を中心として統一時代を迎えなければなりません。そして、天地創造がどのように成し遂げられ、なぜ神様が愛を好むのかなどを明らかにしたのです。
5 神様は、すべての悲しむ人たちを慰労してくださいます。また、神様は、生死禍福を主管される主人でいらっしゃいます。ですから、あらゆることをその方に委ねようとするのです。人のために心配できる心をもったところには、神様の相対的な形態が備わっているので、「いらっしゃらないでください」と言っても、いらっしゃるのです。善なるところには、「いらっしゃらないでください」と言っても、神様がいらっしゃるというのです。ですから、『原理原本』を見れば、対象や対象の価値という内容までも、すべて異なる形で解釈しています。与え合えば、必ず相対性が備わるので、与え合うほど対象の基台ができるようになります。それで、神様や善、真を中心として動けば、それは残るようになっているのです。
6 皆さんが「原理」の本を持ち歩くときは、この上なく大切に扱わなければなりません。この本が一冊しかないと考えてみてください。お父様がこの本の原稿を草案するとき、その原稿の管理をどれほど深刻にしたか考えてみなさいというのです。もしそれがなくなり、私が死んでしまったらどうなるでしょうか。世界が左右されるのです。
この「原理」の本一冊で一族の興亡が決まり、一国の興亡が決まり、この世界の興亡が決まり、天地の興亡が決まり、永遠の生命が左右されることを、考えてみたことがあるのかというのです。そのようなことを考えてもみなかった人たちが、心情世界の様々な人たちとつながろうとすれば、どれほど遠いかを考えてみてください。
7 お父様は原理を中心として、原理とともに今まで歩んできました。苦労で築かれた基盤です。原理の本には、血と汗と涙が入り混じっています。ページごとの内容に入り混じっているお父様の血の涙が、皆さんに訴えかけていることを知らなければなりません。お父様が若い青春を犠牲にしてここに投入したのです。血と涙が皆さんに訴えかけているというのです。そこに引っ掛かってはいけません。無価値な原理ではありません。神様が粛然として頭を下げるのです。仰ぎ見る原理です。
真理の真髄、『原理原本』
真のお父様は、『原理原本』について、真理の真髄を圧縮して記録したものであることに加え、本然の心情を通して愛の力を爆発させることができる歴史性を備えたみ言であるため、論文的表現よりは、詩的表現を用いて記述せざるを得なかったと強調された。様々な宗教の経典を隅々まで探究していた劉孝元協会長は、『原理原本』に初めて接し、驚くべき真理の世界に心酔して、一ページを筆写するのに何日もかかるほど、涙を流し続けたと告白した。
8 お父様は『原理原本』を書く時、詩的に書いたので、一枚の中に数十枚分の解説が必要な内容を編成しておきました。一般の人たちはよく理解できません。
劉孝元が医学を勉強したというので、「その内容について一度説明してみなさい」と言うと、「できません」と答えるのです。そこでお父様が一ページの内容を解説してあげると、その場で敬拝をしました。「いくら説明しようとしても、私の頭では及ばない内容があることが(今までは)分かりませんでした」と言ったのです。
9 釜山に避難してきて、一九五一年五月十一日、『原理原本』を書き始めました。『原理原本』は詩的に書きました。それは、誰が見ても分からないのです。私が劉孝元に説明してあげたので、頭がすっきりしたのです。そうして、「なんと、このような内容だったとは!」と言いながら、その原本を見てページごとに涙を流すので、涙でぬれた原稿になりました。キリスト教の根本、共産主義の根本が、すべて砕けていくというのです。
10 劉孝元協会長は、私の話を聞く前に、『原理原本』を読んで、「自分の体が永遠に天のみ前に捧げられる祭物になったとしても感謝します」と書面で誓ったのです。私が孤独な時に、その人に出会いました。このようなことが神様の役事です。その時のお父様の心情は深刻でした。深刻なので、その場で神様が役事したのです。神様があらゆる役事をしてくれるのです。そのようにして、今まで歩んできました。
11 お父様は、劉孝元協会長に、原理の全幅的な体系を備えることができるように教えてあげました。『原理原本』は詩的に書いたものです。かなり飛躍し、圧縮して書きました。
劉協会長がその本を見て痛哭したのです。『原理原本』の内容に感動した、恐らく歴史的にも、統一教会の原理に接した代表的な人だと見るのです。ですから、劉協会長は、私に会いもしないうちに、「弟子になる」と言ったのです。手紙を書いて、「私はこのみ言をもって永遠に先生に仕える弟子になります」と誓った人です。それで、私はソウルから釜山の影島(ヨンド)に下っていき、二十一日間修練会をしました。修練会をするとき、劉協会長は自分が初めてお父様に会うので、いかにして会うのかという問題について心配していたのです。そして、お父様に会うやいなや、自分の過去の深刻だった事情をすべて話したのですが、私が今でも忘れられない内容がたくさんあります。その時の影島での修練会ですべての人が霊界に通じ、霊的体験をしました。その修練会が終わってから世の中に出てくるとき、修練生たちは、「このような世界があったのか」と思うほどの変化を感じたのです。
Sunday Feb 26, 2023
真の父母経 第59話
Sunday Feb 26, 2023
Sunday Feb 26, 2023
第二節 釜山での新しい出発
釜山に至る路程と避難生活
真のお父様は、ソウルの黒石洞に到着されたあと、明水台の新イエス教会時代に親しかった信仰の同志、郭魯弼(クァクノピル)の家を訪ねたが、既に釜山に避難していた。その家に荷物を置き、数日間,滞在された。一九五〇年十二月三十日には、昔の下宿先である李奇鳳(イギボン)の家族を、人づてに聞いて探し求めた末に見つけ出し、夜遅くまで語り合った。三十一日、郭魯弼の家に帰ってきたところを、突然押しかけた警官の職務質問に遭い、黒石洞の派出所に連行された。そして、真のお父様は、金元弼と同じく、防衛軍の徴集という名目で、昌慶宮(チャンギョングン)で身体検査を受けられた。短く切った髪と、「北朝鮮から下ってきた」という言葉に、検査員は、逃亡兵かスパイかもしれないとの心配から、丙種(免除)判定を下した。このようにして不合格証を受け、金元弼と共に黒石洞の郭魯弼の家に再び戻って、一九五一年、新年の初日を迎えられた。二日後、身体検査の不合格証を持って派出所に行き、避難民証の発給を受け、一・四後退(中共軍参戦による、韓国軍の後退)により一月三日、ソウル全域に避難退去令が下りると、真のお父様一行も、釜山を目的地として再び避難していかれた。
1 私が以北から以南に来る時、丸刈りの頭のままで来ました。昔は軍隊に行くと、頭を刈りました。私も以南に来て、若者なので軍隊に行かなければなりませんでした。昌慶宮で若い軍人たちの身体検査をしていたのです。
私は監獄から出てきたばかりでしたが、体つきはやせていませんでした。それで、兵役調査をしたのですが、私に対して、「どこから来たのか」と聞くのです。当時はスパイと軍人が入り混じって歩いており、見分けるのが難しい時でした。髪の毛を刈っていたのでスパイではないかと思ったのです。もしスパイを軍隊に送ったら、自分の首が飛ぶので、調査後に免除の「丙種」という落第のはんこを押してくれました。それで、それを持ち歩いたのですが、どこに行っても万事に通じました。証明書はそれしかなかったのです。
2 皆さんは、お父様が苦労したことを知っていますが、その苦労をただしたのではありません。人民軍が叫びながら追いかけてくる中、避難地の釜山に到着しました。避難民の中では、私たちが一番遅く到着したはずです。洛東江戦線の戦闘が終わったあと、釜山に到着したのです。
避難してくる中で、ソ連軍が迫ってくる危険、中共軍が迫ってくる危険、北朝鮮軍が迫ってくる危険を経てきました。ですから、避難生活をたっぷりと味わったのです。その中で忘れることのできない出来事がどれほど多いか分かりません。それは、お父様の一生において通り過ぎる歴史の一つの歩みではなく、歴史時代の蕩減という恨の穴を埋めるための歩みでした。私が、後ろを眺めながら、「これから行くべき道は楽に行くことはできない」と、決意して行く人であることを忘れてはいけません。避難生活のとき、家がないので芝生の上や砂場で、空を布団と思って眠り、星を見つめながら、三千里半島に恨の涙をたくさん流したのです。
3 平壌から歩いて釜山まで来るのに、五十五日かかりました。御飯ももらって食べたりしながら来たのですが、おもしろいことに、天は本当によく御存じだというのです。おなかがすいて疲れて、「あさってぐらいに鶏が手に入るだろう」と考えると、そのようになります。それが分かるというのです。
あるおばさんが現れて、「いらっしゃいましたか」と挨拶するのです。それで「どなたですか。私は知りませんが」と言うと、「昨夜、私の何代前のおじいさんが現れて、きょう貴いお客様が来られるから、鶏も料理し、餅も作っておくようにと言うので、準備しておきました」と言います。「その方がどのような顔立ちなのか御存じなのですか」と尋ねると、「見かけはみすぼらしい行人(こうじん)として来るとのことでしたが、見るとあなたの顔とそっくりです」と言うのです。
皆さんはそのようなことを信じられますか。そのようにして、餅も鶏肉も御馳走になったのですが、そのようなことが多くありました。
4 北朝鮮で私に従っていた食口は、積極的な人たちでした。夜も昼も、私がどこに行って誰に会おうと、付いて回りながら大騷ぎした人たちだったのです。しかし、監獄に入って出てくると、みないなくなってしまいました。私が忘れることのできない食口たちまでも、みないなくなりました。私が懇切な手紙を書いて、人を遺わして伝達した人がいたのですが、その人のところに行ってみると、その人も既に変わっていました。「先生が神様の息子なら、どうして監獄に行くようなことがあるのか。先生の教えは、すべてよこしまなものだ」と言って、手紙も何も受け取りもせずに、「異端の人物が現れたな。また異端の行いをしようと訪ねてきたのか」と言ったというのです。それで、その手紙を持って、避難してきました。慶尚北道(キョンサンプクト)の永川(ヨンチョン)に行くと線路があり、その横にできた道路に橋があります。その時、釜山に下るために、永川のその橋を通ったのですが、持ってきたその手紙を、もう一度読んでから、破って投げ捨ててしまいました。その時が一九五一年一月十八日です。
そのような忘れられない事情がたくさんあります。あれほど熱心な信仰をもっていた人も、信じられない背信者となって離れていくことを、私は既に知っていました。監獄にいた時、その人の霊が来て挨拶をすると、泣きながら「私は離れることになりました」と、自分の事情を話すので、「そんなことがあるのか」と思っていたのですが、案の定、その時に離れていったのです。
避難民生活とその苦難
真のお父様は、一九五一年一月二十七日、釜山の草梁(チャリョン)駅に到着され、金元弼と共に、待合室でバター缶を使って御飯を作り、飢えをしのいで最初の夜を過ごされた。当時、釜山は避難民でごった返していた。翌朝から、ソウルの黒石洞の家に住所だけを残して、避難してきていた郭魯弼を探し、三日間過ごされた。そして、一月三十一日、偶然にも日本留学時代の友人である嚴徳紋(オムドンムン)に出会い、嚴徳紋の強い勧めを断り切れず、すぐに富民洞(プミンドン)にある一間の彼の借り部屋に移り彼の妻と二人の子女ら、四人家族と共に、窮屈な生活を始められた。一週間、み言を聞いた嚴徳紋は、ひざまずき、「あなたは私の友ではなく、私の先生であり、偉大な聖人であり、哲人です」と告白した。真のお父様と金元弼は、四月初旬頃、草梁駅の裏にある、労働者の宿所として使われていた狭いバラックに入って十日ほど過ごし、道で偶然出会った、興南の獄中の弟子である金元徳(キムウォンドク)の槐亭洞(クェヂョンドン)の家にも半月ほど滞在され、解放前に電気会社の職員社宅として使われたボムネッコルの入り口の家で、五月から八月まで、四ヵ月ほど下宿された。また、第三埠頭で荷物を運ぶ仕事をしながら半月ほど過ごされた。ある時は、日当たりの良い森の中や、防空壕でも眠られるなど、涙ぐましい避難民生活をされた。そして、もらった御飯を召し上がり、時には見知らぬ家の軒下に身を寄せられた。
5 釜山に着くと人で超満員でした。部屋はどこに行っても空いていませんでした。ごみ箱や空箱のような所にも二、三人の人がいました。韓国の全域から避難してきた人々がすべて釜山に集まったのです。まるで、煮え返る釜のようでした。足の踏み場もないほどでした。町はいつも超満員で、まっすぐに立っていても、押されていくような日常生活だったのです。
釜山に来たのに、着る物もなく、食べ物もないので、一銭でも稼がなければなりませんでした。そのような環境で様々な仕事をしながら、新しい教会運動を始めていきました。また、家がありませんでした。その時は二月なので寒い時期です。夜に仕事をして、夜中の十時から十二時頃に帰ってくるので寒かったのです。ですから、オーバーを膝までかぶせて、海老のように身をすくめて眠ったことが今でも印象に残っています。その時かぶったオーバーを、記念として残しておくようにと食口に預けたにもかかわらず、ぼろぼろのオーバーだといって捨ててしまいました。今それが残っていて、皆さんが目にすれば、見ただけで涙をぽろぽろと流すほど記念になるオーバーでした。そのようなことをしながら、一歩一歩、歩んできて今日の基盤を築いたのです。
6 嚴徳紋氏は学生時代の友人ですが、その友人に、水晶洞(スヂョンド)の十字路にある朝興銀行の前で、雨の降る日の昼の十二時頃に出会ったのです。出会うなり我知らず叫んでしまい、道行く人たちがみな振り返りました。嚴徳紋氏は、私に会うとは思いもしなかったそうです。私が北朝鮮で死んだものと思っていたのです。嚴徳紋氏は私に会うなり、「自分の家に行こう」と言いました。今でもそのことを感謝しています。大勢の人が絶えず避難してきたために、家という家の軒下にまで座り、夜を明かすしかなかったのです。ですから、午後一時、二時の最も暖かい時間にオーバーをかぶって、近くの山に登り、岩の間に座って寝ていた状況で、嚴徳紋氏が家に連れていってもてなしてくれたことは、今も忘れることができません。
お父様の興南監獄以降、釜山までの路程は、四ヵ月という長い期間でしたが、皆さんは、お父様の服がその間にどれほど汚れたか、想像もできないでしょう。服があまりにも汚いので、裏返しに着ていました。また、寝られるような場所もありませんでした。そのように薄手の服を着て下ってきた時が十二月だったので、とても寒かったのです。釜山に着いてからは、寒さを避けるために、夜に基地の埠頭に行って働きました。仕事をするほうが、寝るよりも楽だったのです。そして、昼は山に登って、林の中で寝場所を決めて眠ったり、一人の時間をもったりしました。
8 お父様は、釜山に避難してきて、波止場のほとりでも寝て、山の中でも寝ました。おもしろいというのです。軍人の外套を敷いて寝る時は、二月の初めなので寒かったのです。夜は寒いので、出掛けてお金を稼ぎ、昼は十時から二時の間に寝ます。その時は日当たりの良い所に行き、じっと座って、雉(きじ)のようにしっかりと寝場所を定めて寝れば、それで良いのです。寝て起きて服を着ると、金サッカ(李朝末期の放浪詩人)の詩が思い浮かびます。そうしてお金ができ、お粥を食べたくなったら波止場に出掛けるのです。波止場のほとりのおばさんたちが、冷めるのではないかと布切れで小豆粥を包み、自分のかわいい一人息子を抱いて愛するように、大事に手渡してくれます。このお粥を買って食べるのです。その時は、その人たちが友達でした。
凡一洞の土塀の小屋で新しい出発
真のお父様は、一九五一年八月、釜山市東区凡一四洞一五一三番地、ボムネッコルの一番奥、水晶山の中腹に、小さな土塀の家を造られた。石と土だけを積み重ねて造ったところ二回も崩れ落ち、三回目にようやく完成した。中は二坪に満たない部屋が一つだけだった。別途に台所はなく、外の片側に釜を一つ置いたかまどがあった。その横に足を伸ばし、腰をかがめてようやく出入りできる、高さ一メートルの出入り口があった。腰を伸ばせないほど低い屋根は、戦闘糧食の段ボール箱でつなげてあり、晴れた日は空が見え、天気の悪い日は雨が降り注いだ。雨が降ると、部屋の片隅に小さな泉が湧き、下からは溝を流れる水の音が聞こえた。山のほうの煙突を通って入ってきた水は、部屋の下を通り、かまどへと流れ出てきた。床には何重にもむしろを敷き、その上にかますを三重、四重に広げて敷いたあと、さらに幅と長さのある敷布団を広げて敷いた。真のお父様は、一九五一年の後半期には、金元弼の仕事の世話をしながら内的準備に力を注がれた。朝早く出勤し、夜遅く帰ってきた金元弼は、副業で、アメリカ軍の軍人がもつ写真を見て肖像画を描く仕事をした。一枚四ドルの絵を一日に十枚前後、多いときは三十枚まで描いた。真のお父様は、『原理原本』を執筆しながら、夜には釜山市内や海を眺めて摂理の未来を思い浮かべられ、早朝には山に登って涙の祈りをされた。
Wednesday Feb 22, 2023
真の父母経 第55話
Wednesday Feb 22, 2023
Wednesday Feb 22, 2023
10 私が平壌に行って伝道活動をする時、神様がどれほど多くの準備をされたかということを、知らなければなりません。私に会う二十年前に、「ある家でこのような方に会ってみ言を聞くだろう」と知らせてくれるほどでした。お父様が数えの二十七歳の時に以北に行ったので、七歳の時から天が役事したのです。その時は私も知りませんでした。それをこの世の人たちは信じられるでしょうか。
ですから、多くの人たちがお父様を注視してきたのです。そのような人たちが今、地上で証しています。その人たちは、天使長の立場でお父様について証する使命を担うのです。原理的観点から見ると、私が現れる前に、私以上に精誠を尽くさなければなりません。それで、何世紀も前から、お父様に侍る霊人たちが再臨時代に向けてこの地に協助してこそ、地上のサタン世界へと進んでいける基盤がつくられるのです。
11 おじいさん、おばあさんたちは、お父様のことが好きです。数えの八十歳になるおばあさんたちが、私が平壌にいる時、霊界から教えられて私を訪ねてきました。杖をついて歩くおばあさんたちが、どういうわけで訪ねてくるのでしょうか。霊界から教えられて集まったおばあさんたちは、私の服の裾をただ一度でも触って家に帰れば、その日は自然に踊りを踊るのです。
服の裾でも一度触れるようになれば、帰る時は軽やかに飛んでいくようだというのです。帰ってから、御飯も食べずに一日中踊っても気分が良いというのです。何か妖術を使ったわけではありません。真の愛の雰囲気に接すると、そのようになるのです。無性にうれしいのです。与えてもうれしいというのです。ひっきりなしに与えてもうれしく、悪口を言われてもうれしく、これ以上ないほど誠実に働いてもうれしいのです。
12 玉世賢おばあさんも、誰かが伝道したわけではありません。「主はどのようにして来られるのか」と祈り、霊界に通じてみると、「主は雲に乗って来るのではなく、人として来る」と言うのです。神様がそのように教えてくれたのです。ですから、「信じてはいけない」と誰が言っても、絶対に信じるようになっています。
祈るとき、「主はいつ、どこに来ますか」と言うと、「平壌に来ている」と教えてくれるのです。「景昌里の小さなある家の部屋に隠れていらっしゃる」と教えてくれたのです。お父様はその頃、そこに隠れて過ごしていたのでうわさが立たず、探し出せなかったのです。その時は、景昌里で開拓する時でした。
13 お父様が平壌に行っている時、訪ねてきたおばあさんがいました。その時、私は数えの二十七歳でしたが、そのおばあさんは七十二歳でした。吉善宙牧師の時から李龍道牧師を経て、恩恵を受けたおばあさんなのですが、この世のものとは思えない驚くべき奇跡の役事を数多くしました。このおばあさんは、平壌の牡丹峰で祈りを捧げ、「これから日本は、韓国のキリスト教を完全に排斥するようなことを必ず起こすから、その時に備えて準備せよ」という啓示を受けたのです。
そのおばあさんは、必ず午前二時か三時に祈ります。しかし、そのおばあさんの夫は反対していました。そのおばあさんは、あらゆる反対を退けて、長年にわたって祈ってきたのです。
このおばあさんは、韓国が選ばれた国になることを知り、また、平壌にいる女性たちに、「これからこのような世界になり、韓国に喜びの幸運の時がやって来るだろう」と教えてあげました。
そのように祈ってくれた方がいたので、神様が役事してきたみ旨が残り得るというのです。一人で来て追い込まれ、追われて一人で死んでいってはいけません。地上で自分の生命を祭物にして、神様のために相対的な立場で祈ってくれる女性がいたので、神様の復帰摂理の基盤が、この地上に残り得たのです。
14 お父様が数えの二十七歳の時、平壌に行くと平壌で騷ぎが起き、ソウルに行くとソウルで騷ぎが起きました。当時、町に行くと、町の人たちが夜も眠らず私のいる部屋にしきりに来ようとするので、論難の的になりました。
町の子供たちまでも、私のいる家のトイレに来て用を足そうとしました。どうしてそうなるのかというのです。子供たちに会うと、おもしろいおとぎ話を聞かせてあげます。御飯を食べるのも忘れるほど、ひたすら話してあげるのです。一日の間に数十もの遊びを考え出して、一緒に楽しく遊びました。そうしながら子供たちに、「お前のお母さんはどこに行ったのか。お前のお父さんはどこに行ったのか」と聞いてすべて調べておき、子供たちを連れて遊ぶのです。
私の家に来て遅くまで遊べば、疲れて寝るようになっています。そうなれば、伝道するためにその家を訪問することができるのです。それはどれほど良いでしょうか。子供たちが夜遅くまで遊んで眠ったら、お父さん、お母さんのところにおんぶしていきます。自分の子供をおんぶしてきてくれるので、有り難いことではないですか。そこで、「お茶でも飲んでいってほしい」と言うようになれば、役事が起きるのです。
15 私が以前、平壌で下宿していた家で、三歳になる子供と出会った際、敬拝したこともあります。幼い子供に対して、天のように侍りました。幼子のようでなければ天国に行けないというので、まず、子供たちにそのようにしたのです。その子が涙を流しながら「やめてください」と言う立場まで高めてあげるのです。
幼い子供に対して詩を詠み、歌を歌い、神様の息子だと称賛できるようにするためには、尊敬語を使ってたたえることができなければなりません。そうなる時に、神様の公認を受け、その子供がたたえることができるようになるのです。
天地の法度において、上下関係がねじれてしまったので、これを正して、このように復帰の道を選別してくるのです。そのようにして相対圏をつくっておき、彼らが喜んでそのようなことを相続して行える基盤が築けたので、初めて先生の位置に立つようになったのです。
キリスト教指導者たちの不信と大同保安署での受難
平壌で真のお父様の教会が、恩恵深い役事によって活気を帯びるようになると、篤実なクリスチャンたちが自分の教会に行かず、真のお父様がいらっしゃる所にばかり来るようになったため、彼らが所属していた教会の牧師と長老たちが、真のお父様の集会所にまで来て、狼藉(ろうぜき)を働き、一部の教会員を拉致していったこともあった。のちに、彼らは、自分たちの思うとおりに解決されないと見るや、共産党当局に、真のお父様が南から来た怪しい人物であり、不法集会を行う者であると告発し、真のお父様は、一九四六年八月十一日、大同保安署に収監された。そのような中でも、大同保安署の中で神霊教団の教主に会うことを霊的に察知され、そこに入られたのである。大同保安署には、腹中教の教主である許浩彬と、その人に従う幹部たちが収監されていた。許浩彬は女性で、真のお父様とは違う監房にいたが、男性の幹部は真のお父様がいらっしゃる監房に入っていたため、その人と多くの会話をされた。当時、腹中教は、主が許浩彬の腹中にいると考え、おなかが振動するたびに出てくる言葉を通して、信徒たちを指導していた。真のお父様は、その信仰を否定して監房から釈放されなければならないと伝えたが、許浩彬は真のお父様の言葉を信じなかった。そのため、真のお父様は、最後の手段として、秘密裏に紙切れを許浩彬に送られた。許浩彬は、真のお父様の言葉を信じるか、無視するか、二つに一つを選ばなければならない立場に立たされた。しかし、彼女は、真のお父様に会ったこともなかったため、結局、真のお父様のみ言より、自分の信仰を守ることが、自分の侍っている主に対する道理であると考え、その紙切れを捨てようとした。真のお父様のことをメシヤと分かれば、その紙切れを大切に保管したはずだが、それが分からず、無情にも捨てようとしたのである。そうして、その紙切れが保安署当局に発見され、真のお父様は厳しい拷問を受けて、瀕死の状態で保安署の外に放り出されてしまった。このような真のお父様を、景昌里教会の食口たちが教会にお連れして、この上ない精誠で看護したのである。これにより、真のお父様は健康を再び取り戻すことができたが、許浩彬と幹部たちは、その後、獄死するなど、凄惨な最期を迎えた。
16 一九四六年六月、共産党は以北の全域で、新しい宗教団体に対する弾圧を始めました。ですから、それと類似する団体があれば、糾弾されざるを得ない立場でした。当時、お父様は平壌の景昌里で伝道活動をしていました。なぜ以南(現在の大韓民国)にいた私が以北に行ったのでしょうか。
その当時、韓国の信仰の中心地は平壌であり、またそこで信仰の闘争歴史が綴られてきたからです。このように、天が準備した基盤の上で新たな出発をすべき使命があったので、以北に行ったのです。そうして、そこで伝道活動をしていたところ、八月十一日に共産党に捕まって大同保安署に入ることになりました。
17 一九四六年にお父様は、共産党に捕まって平壌の大同保安署に入りました。当時は、平壌で、キリスト教界が解放を迎えて、教会を再建しながら歴史的な使命を果たすために新しく出発していた時でした。このような環境の中で、平壌に行って新しい運動を展開したのです。当時のキリスト教界では、この民族に訪れた解放の喜びとともに、日本統治下で圧政を受けながら悲痛な信仰生活をしてきたすべての恨を取り除き、新しい望みと希望にあふれた教会の再建と信仰の革新運動が起こっていました。
そのような新しい再建の火が広がる状況の中で、景昌里教会が出発することになりました。このような環境の中で活動をしているうちに、キリスト教の中心となる信徒、または特別な恩恵を受けた人たちが、自分の所属教会に行かずにお父様のところに集まってきました。それで、当時、平壌で問題になり始めたのです。その時、お父様は西門(ソムン)から近い景昌里で伝道をしながら、教会出発の基盤を立てていました。
18 お父様が許浩彬氏の集団と関係があるとして監獄に入っていた時、許浩彬氏に紙切れに書いた手紙を送りました。お父様は「この手紙を書いた人は天の使命をもった人物である。あなたは祈ってその人がどのような人なのかを調べなければならない。もしあなたが啓示を受けたすべてのことを否認するなら、あなたは釈放されるだろう」という内容を書いて送りましたが、その紙切れが看守に発覚しました。それで、お父様はひどい拷問を受けました。一九四六年九月十八日、午後二時のことです。
その時、韓国にいるアメリカ軍のスパイとしても告発され、ソ連の調査官によって尋問を受けましたが、無罪であることが判明しました。それで、お父様は、一九四六年十一月二十一日の午後に釈放されました。許浩彬氏とその追従者たちは、お父様の言葉に従いませんでした。一九五〇年に「六・二五動乱」が起こった時、彼らはすべて虐殺されてしまったのです。その集団の失敗ゆえに、お父様はほかの人たちを探し求めなければなりませんでした。条件的な数を探し出せるまで、活動したのです。
Monday Feb 20, 2023
真の父母経 第54話
Monday Feb 20, 2023
Monday Feb 20, 2023
21 お父様は解放後、金百文氏と共に出発しようとしました。金百文氏と私は、カインとアベル、洗礼ヨハネとイエス様のような立場にいました。彼は、キリスト教を信仰していましたが、「イエス様は神様と同位である」と言いました。根本をよく知りませんでしたが、その人が神霊的な面では、当時のキリスト教で、最高の信仰基準にいたことだけは間違いありません。そして、金百文氏の一番弟子や神霊的な信徒たちは霊界に通じていたので、霊界から「文先生に従っていきなさい」と教えられたのです。しかし、私はそこに入って一言も語りませんでした。なぜなら、他人の基盤に入ってその基盤を崩してはいけないからです。彼らを自然に屈服させなければなりません。
ですから、私は、涙もたくさん流しながら、模範的な信徒の一人として黙々と過ごしたのです。その信徒たちがお父様に従おうと決心するので、ここから問題が起こりました。
第二節 平壌での伝道生活と大同保安署での摂理
「平壌に行きなさい」という神様の命令
真のお父様は、一九四六年五月二十七日頃、「三十八度線を越えなさい」という天の命令を受け、北朝鮮に進駐したソ連軍によって共産主義体制が構築されている平壌に、六月六日に到着された。東洋のエルサレムと言われた平壌では、キリスト教信仰の中心地として、崩れ落ちた教会の再建を夢見ていた。真のお父様は、イスラエル修道院で信仰的な交わりをもっていた、平壌・景昌里(キョンチャンニ)の信徒の家にとどまりながら、み言を伝えられた。
1 内的な基準において代表的な使命を担った人と、外的な基準において代表的な使命を担った人が出会える一時があります。言い換えると、今までの六千年歴史の頂上で、必ずカインとアベルが出会うことになるのです。ですから、カインとアベルが出会う、その頂上の位置で蕩減復帰しなければなりません。カインが天道に従い、アベルに順応する基準を備えるようになれば、カインとアベルが一つになって蕩減の峠を越えることができます。カインとアべルがこの峠を正常に越えれば、互いに相手の位置へと進んでいくのです。このように越えなければならないのですが、カインとアベルがこの基準を立てることができず、アベルだけが越えるようになりました。
本来、お父様がこの道を出発する時、李承晩博士と協力して進んでいくのが神様のみ旨でした。摂理的に見れば、そのようになり得たのですが、その時、キリスト教が過ちを犯すことによって失敗してしまいました。それで、高い基準を失ってしまったので、低い基準へと下がってしまったのです。下がる時は、必ず最低の位置まで下がらなければなりません。ですから、すぐにお父様は以北(現在の北朝鮮)に行きました。以北に行って、再び上がらなければならなかったのです。
2 お父様は、この道を出発する時、生命を差し出す覚悟ができているかを考えました。言い換えれば、死ぬ時はどのように死ぬのかということも考えたのです。銃殺されることも考え、五車(オチャ)(車裂きの刑)によってずたずたに引き裂かれて死ぬことも考えました。そうして、死ぬ時にはどのような言葉を残していくのかということも考えました。
どうすれば生きられるのかを考えたのではありません。大韓民国を中心として役事しなければならないので、死の場を求めていったのです
怨讐と対決する場、つまり怨讐を訪ねていきました。怨讐の本拠地を訪ねていったのです。韓国のキリスト教を中心としたみ旨の基盤がサタン側に回ったので、それを取り戻すためにサタンの巣窟である以北に行ったのです。
3 お父様は、世界的な共産党と闘わなければならないので、そのために以北を訪ねていきました。手錠をかけられて囹圄(牢獄・獄舎)の身になることを覚悟して、訪ねていったのです。いくら暴悪な試練が私に襲いかかってきても、私はそれに屈服しませんでした。いくらひどい飢えの状況でも、神様の威信を失うことはしませんでした。組織的な生活圏内でいくら切迫した生活をしたとしても、天の法度を破りませんでした。お父様はすべてのことにおいて、拘束されても、すべてを取り戻すことができ、さらに神様のみ前に新たな出発の動機と新たな生き甲斐を探し出してきました。そのようにして出発したのです。「生きよう」というところから出発したのではなく、「死のう」というところから出発したのです。
4 イエス様が、反対を受けることによって異邦の宗教を通し、異邦の民族を経て再び戻ってきたように、お父様もそのようにしなければなりません。そのようにして怨讐の国を復帰しなければならないのです。それで、以北に入りました。
以北では、すべてが怨讐です。敵国です。足の踏む所すべてが怨讐でした。国や教会はもちろん、民衆までもお父様を打ち倒そうとしました。そのような場で生き残る方法とは何でしょうか。拳で対抗すれば滅びます。犠牲になって奉仕しなければなりません。十回打たれても彼らのために福を祈ってあげ、千回冷遇されても彼らのために祈ってあげる作戦を立てたのです。このような作戦を実行してきました。千回、一万回、悔しさを味わったとしても、神様が愛していて、神様が耐え忍んでこられたので、そのようにしなければならないのです。
5 お父様は一人でした。一人ぼっちでした。新教を中心に基盤をつくろうとしたのですが、失敗しました。反対を受けたのです。驚くほどの反対を受けました。
弟(アベル)を打って始まった歴史だったので、弟を迎え入れるということは、神様を正しく知らなければ難しいことです。自分が置かれた環境に基づく因習的な教理や内容をそのままもっていては、とても難しいのです。ですからお父様は、既成教会から反対される立場に立ったのです。それは追い出されたイエス様と同じ立場です。実体のイエス様の立場を受け継いだのと同じです。ですから、お父様は、復帰路程を経なければなりませんでした。二千年の歴史を二十年で蕩減しようと闘いました。そのような蕩減をするために、サタンの本拠地である以北に行きました。サタン世界の共産圏に行ったのです。
み言の伝播と押し寄せる信徒
一九四六年六月六日、平壌に到着された真のお父様は、景昌里に一間の部屋を借り、そこで祈りの精誠を捧げながら教会活動を再び開始された。その時まで平壌には多くのキリスト教会があり、篤実なクリスチャンが大勢いた。真のお父様は、周囲から刺すような目で見られていたが、早く、多くの生命を救うためにみ言を伝えなければならないという一念で、新しい食口を探し求められた。終日、門の外を見つめながら、食口たちが来るのを待たれたことも多かった。自分の足で真のお父様がいらっしゃる所に訪ねてきた人々がおり、また、彼らを通して他のクリスチャンたちが集まってきた。特に、真のお父様が到着されたのちに、真のお父様に関する啓示を受ける人たちが現れた。霊界の導きによって、篤実な信徒たちが訪ねてきたのである。それで、真のお父様は、彼らを中心に礼拝を導かれた。真のお父様のために、以前から準備された人々が大勢おり、その中には、真のお父様の聖誕前から、真のお父様に出会うために準備されていた人もいた。霊界は時空を超越するため、心情世界の絆がそのように奥妙に結ばれていたのである。そのようにして縁をもった人々は、真のお父様の裾に触れさえすれば、飛び上がるほど感激し、踊りを踊るほど真の愛に感化された。真のお父様は、老人はもちろん、誰が訪ねてきても、夜を徹してみ言を語ってくださった。
6 解放後、三年間、混乱時代が訪れました。キリスト教の混乱、政治界の混乱など、混乱時代が訪れて、すべてのものが定着できませんでした。キリスト教自体も、主が来るのか、み旨がどのようになっているのか、分かりませんでした。その時、再建(チェゴン)教会や高麗(コリョ)派などと称して、様々な教派が現れました。互いに自分たちが正しいと主張しながら、競争した時期でした。お父様が、地下から出てきてキリスト教徒たちを収拾しなければならなかったのですが、彼らは「主は雲に乗って来る」と信じていました。「人として来る」と信じている人は一人もいませんでした。ところが、許浩彬派と金聖道派と白南柱派は、既にそのことを知っていました。彼らは成約的準備派です。その人たちは、主が人として来ることは知っていますが、会うことはできません。いくら主に会ったとしても、その人が主のようには思えないのです。それが難しいのです。直接教えてあげることはできません。
必ず、このような窮地に入っていって自分で探し求めなければなりません。神霊的な人も神霊的でない人も同じなのです。神霊的な人は、霊界から教えられて初めて動くのであって、教えてくれなければ微動だにしません。また、通じることができない人は、み言を聞いて歩まなければなりませんが、み言といっても、キリスト教ではすべて「雲に乗って来る」と言うのに、一方では「人として来る」と言うのです。ですから、その言葉もまた信じられません。このような渦中で問題が起きたのです。お父様は、平壌に行って、キリスト教の四十以上の教会から最も賢い人たちを引き抜きました。当時は、聖書のみ言で教えてあげなければなりませんでした。別な話ではいけません。その時は霊界が役事してくれました。霊界が連結してくれるのです。天があらかじめ準備して、神霊的な人たちを送ったのです。
7 平壌にいる時、サタンの役事がどれほど多かったか分かりません。そのような中でも、お父様は食口のために精誠を尽くしました。朝、ある食口のために祈ってから、その食口が来るか来ないか待ってみると、間違いなく来るようになっています。このように神霊的な雰囲気の中で祈ってみると、祈りには、どれほど価値があり、どれほど効果が現れるのかが分かります。それでこそ、仕事をしてもおもしろく、神様が共にあるという信念をもつようになるのです。
8 聖書のみ言については、私にかなう人はいません。私が平壌に行ったのは数えの二十七歳の時であり、若々しい青年でした。当時、北朝鮮のエルサレムと言われた平壌市内の大きな教会の賢い人たちが、私のところに来て、みな心を奪われました。
聖書の「ローマ人への手紙」や「ヨハネの黙示録」について解釈するのを見て、その人たちの目がひっくり返りました。今もその人たちが生きていれば、「千年史についてすべて精通している。どうすればそのように分かるのか」と言うでしょう。
9 私が以北の平壌に行っている時、一人のおばさんに会ったのですが、私より年が三十歳ほど上でした。そのおばさんが、「霊界から教えられて先生に会いました」と話しながら、「不思議です」と言うのです。「何が不思議なのですか」と尋ねると、「そんなことはあり得ないのに、本当に不思議です」と言いながら首をかしげるのです。それで「何が不思議なのですか」と再び尋ねると、「自分には全くの謎です」と言って、「自分が数えの二十四歳の時に先生の指導を受けた」と言うのです。私はまだ生まれてもいなかった時なのに、指導を受けたというのです。
それは、平面的には理解できない話です。しかし、立体的な面から見るとき、神様は縦的父母なので、その父母の心情を追い求める人は、いつも神様と一緒にいなければなりません。ですから、姿形は今、現れたのですが、心情の世界は昔も今も同じです。このように、心情を主管する神様は、未来でも会える関係を常にもっているので、霊界は時間を超越しているのです。
そのような心情の世界観があるので可能なのです。仮に神様の心の中に、これこれこのような男性がある時に生まれるだろう、という考えがあれば、その心情を通してその人を教えることができ、関係を結ぶことができるというのです。それは、心情世界の関係があるから可能なことです。
Monday Feb 20, 2023
真の父母経 第52話
Monday Feb 20, 2023
Monday Feb 20, 2023
第一章 真のお父様の公式路程出発
第一節 公式路程の出発とキリスト教団の不信
世界大戦における天の側の勝利と公式路程の出発
第二次世界大戦で、キリスト教文化圏を中心とした天の側が勝利することにより、再臨主を中心とした摂理的基台が造成された。そして、韓国が一九四五年八月十五日、日本の植民統治四十年を締めくくり、解放を迎えたことは、神様の摂理史に大きな区切りをつける出来事だった。韓国が日本の圧政から抜け出すとともに、摂理が新たな段階に進むことができるようになったのである。
1 第二次世界大戦は、イギリスとアメリカとフランスなどが連合し、日本とドイツとイタリアに対して戦った世界的な戦争です。堕落する時に蒔いたので、蒔いたとおりに刈り取らなければなりません。アダム、エバ、その次に、カイン、アベルによって蒔かれたので、世界も二つに分かれます。天の側もアダム、エバ、カイン、アベル、サタン側もアダム、エバ、カイン、アベル、このように二つのグループに分かれるです。
個人によって蒔かれて結実したものが、世界的な国として現れるのです。ですから、イギリスは天の側のエバ、アメリカは天の側のアベル、フランスは天の側のカインです。日本はサタン側のエバ、ドイツはサタン側のアベル、イタリアはサタン側のカインです。第二次世界大戦で天の側とサタン側が戦って、サタン側が負けました。
2 第二次世界大戦の間、韓国は日本の統治下にありました。韓国の愛国の志士たちは、日本の圧制に対抗して闘いました。人間始祖が堕落することにより、神様は四位基台を失ってしまいました。ですから、神様の復帰摂理の目的は、この四位基台を復帰することでした。それで、聖書や神様の摂理の中に四数が多いのです。聖書には、四十年と四百年の蕩減期間が何度も出てきます。すべての復帰と蕩減が、この原理に従って成し遂げられたのです。
韓国が、神様の摂理においてアダム国家になろうとすれば、エバ国家の統治下に置かれなければなりません。エバ国家に打ち勝つことによって、独立を勝ち取らなければならないのです
当時日本は、ドイツやイタリアと結合していたのですが、これらの国は、摂理的にすべてサタン側の国家です。天の側には、アメリカとイギリス、フランスがありました。第一次世界大戦の時、ドイツはほぼ破壊されました。しかし、ドイツが二十年のうちに復旧できたのは、第二次世界大戦において、神様の摂理の中で果たすべき大きな役割がドイツにあったからです。
(人類歴史においては、)先に攻撃した国が常に敗れてきました。(第二次世界大戦においても、)アメリカ、イギリス、そして、フランスが連合して、サタン側の国家に勝利したのですが、韓国は四十年間、日本から支配を受けなければなりませんでした。日本はサタン側のエバ国家でした。その四十年期間に、日本は、韓国の文化的伝統や、甚だしくは韓国の言語までなくそうとしたのです。
3 イスラエルの国とキリスト教が、霊肉を中心としてサタン圏に支配されながら闘ってきたのと同じように、韓国も四十年間、肉的な面において怨讐に支配されながら、霊的な面においては、この国のために生命を捧げることを覚悟した群れを中心として、独立運動をしてきました。このような気概を中心として、神様は摂理の縁を打ち立ててきました。そうして民族を糾合、結束させ、キリスト教を中心とした人々が主導して、国を建てるようになったのです。
そのように、キリスト教徒たちが霊的な面において、日本占領期四十年の弾圧の中で、国もない立場で死の道を自ら進んで歩み、国を愛する忠節の道理を立てたことは、摂理史的に重大な意義があるのです。
4 韓国の独立とともに新しい摂理的運動が、第二次世界大戦で勝利したアメリカを中心として始まらなければなりませんでした。キリスト教とアメリカを中心とした世界的勝利基盤の上に、新しい歴史時代における神様の摂理が出発しなければならなかったのです。
お父様は、新しい原理を中心として地下活動をしてきたのですが、第二次世界大戦の直後は、お父様が表に現れなければならない時でした。
そして、韓国には、アメリカ軍が駐屯して軍政が立てられるようになりましたが、その軍政に従事する人たちの中には、外国留学から帰ってきた人たちが大勢いました。そのような人たちが軍政と一つになり始めました。また、神社参拝を中心として日本政府の手先の役割を果たしていた人たちが、アメリカの軍政と結託していました。しかし、地下運動をしたキリスト教徒たちは国内派だったため、外国に対してはあまりなじめず、アメリカの軍政と関係を結ぶ立場にはなれませんでした。それで、日本政府を支持していたキリスト教徒と、日本政府に反対していたキリスト教徒が、分かれるようになったのです。
5 宗教の目的は、アダムを完成することです。また、神様の救援摂理の目的は、アダム完成です。エデンの園で神様が創造をするとき、天使はアダム完成を協助しました。神様は、天使を頌栄と協助の対象者として造りました。神様の目的や天使長の目的が、アダムを完成することなので、その基準を世界、霊界と肉界を前にして再蕩減しなければなりません。ですから、霊肉を中心とした天の側に立った天使圏の宗教がキリスト教です。キリスト教を中心として、全世界が動き得る環境がつくられたのが、第二次世界大戦の直後でした。全世界が天の側に引き渡されたというのです。その時にアダムが現れるようになっています。
霊肉を中心としたサタン世界と、天の側の天使圏が闘って勝敗を競ったのが、第二次世界大戦です。聖書上で見れば、ハルマゲドン戦争だというのです。第二次世界大戦が天の側の勝利で終わったという事実は、霊界の天の側の天使圏と地上の天使圏が、サタン世界に対して勝利したということです。ですから、アダムが現れ得る時が来るのです。それゆえ、第二次世界大戦の直後に、再臨主顕現時代が来るというのです。
6 第二次世界大戦も終わりに近づく頃、日本帝国の圧迫によって篤実なキリスト教徒たちは信仰生活が困難になり、彼らは、韓国の地に決定的な審判や判決を下してくれることを神様に祈りました。
神様によって、または霊界によって直接導かれた多くの人たちがいましたが、彼らは日本の警察が捕まえようとするとき、逃げたり、脱出したりすることができました。彼らのほとんどは、日本がいつ敗北するのかを知っていました。また多くの人たちが、「第二次世界大戦後は、世界の歴史が韓国を中心に展開するだろう」という啓示を天から受けました。
お父様もそのようないくつかの団体とつながりましたが、たとえお父様がそのような団体とつながったとしても、その時のお父様は、皆さんが今学んでいる原理のいかなるものも、決して語ることができませんでした。なぜならば、神様からのみ言もあったのですが、「韓国が解放され、このことを始められる環境ができた時に動き出す」と神様に約束していたので、その時には語れなかったのです。神様のみ旨は、一人だけでは成就できません。共に働き得る対象がいなければなりません。
さらに神様は、第二次世界大戦後にすべてのキリスト教会が分裂することを教えてくれました。
7 一九四五年の解放直後に、お父様を中心とした統一運動は、一度に世界を統合できるキリスト教文化圏を中心として出発しなければなりません。その立場においては、既に国家基準を越えるようになるのです。
その時、韓国には主権がなく、キリスト教文化圏を中心としたアメリカが、天使長の勝利圏基盤の上で養子の基盤を受け継ぎました。その土台の上に世界的版図の基盤を造成していれば、天使世界の完成と養子世界の完成が成就して、直系の子女を迎えられる世界文化圏の時代へと入っていくのです。
イエス様を中心としたアベル文化圏を築いたので、天使長圏と養子圏がつながり、実子圏と連結できます。縦的な歴史が横的に一つになるのです。これを収拾して統一しなければ、サタンの基点を取り除けません。
8 お父様が(一九四五年)八月十五日の光復節の前に、キリスト教を中心にすべての基盤を築いていれば、神社参拝を拒否して監獄に閉じ込められた再建派は、お父様の信仰の基盤の上で中心になっていたでしょう。そのようになっていれば、キリスト教が私の言うことをすべて受け入れて、連合軍を迎え入れる立場に立つのです。世界全体が連結され、連合軍が入ってくるのを、監獄に入った人たちが迎えるようになったはずです。
その時、連合軍が入れば、以北(現在の北朝鮮)で直接歓迎するようになります。そうなっていれば、韓半島は南北に分かれなかったはずであり、神霊的な人たちが連合軍を中心として一つになれば、サタンが侵犯するところがなかったのです。ところが、このような状況が崩れてしまったので、仕方なくこのすべてのものを条件的にでも、再び探し求めなければなりませんでした。
しかし、この時に、この神霊的な集団が受け入れなかったので、お父様は孤独な立場で人を送って三度以上通告し、天のみ前に報告してから、彼らに、「あなたたちが受け入れなかったときには、あなたたちの国家と世界が破壊され、今まで立てられた功績は天がもっていってしまうだろう」と言いました。そのように通告し、お父様が刈り取ることのできる基盤を築いて、韓国の解放を待ったのです。解放が訪れるときには、世界のどこにでも出ていかなければならないのです。
9 お父様は、日本帝国の統治下で、圧制を受けていた時代を過ごしてきました。ですからいくら大きな抱負をもち、いくらあふれんばかりの希望を胸に抱いていたとしても、自分の内的心情を吐露できる環境が与えられていませんでした。何か斬新な考えをもっていたとしても、それを口にして語るためには、必ず周囲を窺い、内外に鑑定しなければなりませんでした。「これなら安心だ」とはっきり感じることができなければ、いくら立派な思想や理念をもっていたとしても、語れる時代ではありませんでした。不自由な時代だったのです。
そのような環境で、お父様は人知れず復帰の路程、今まで原理の中に現れた復帰路程をたどり、闘いながら準備してきました。そうして、一九四五年に解放を迎えました。二十六歳の時でした。
その時、解放を迎えて、民族全体が祝いながら喜びました。万歳を叫びながら大騒ぎし、我々の天地になったといって世界を揺さぶり、ひっくり返すような喜びが天を突くほどの騷ぎでした。私もまたうれしく思いました。
しかし、私は解放を迎えたその日以来、「この国が解放された」といって万歳を叫んだことはありません。うれしくても喜ぶことはできませんでした。その理由は、この民族には新しい出発をすべき使命があると同時に、お父様も新しい歴史的な出発をしなければならなかったからです。復帰世界に向かって第一歩を踏み出さなければならなかったのです。それで、まずは韓国の地に立っていたので、韓国の地を中心として、さらにはソウルを中心として、復帰の道を開拓するために全力を尽くして出発しました。
キリスト教指導者の不信と神霊教団
復帰摂理は、世界史的な転換期である一九四五年の解放直後、キリスト教の指導者たちを中心に天の主権を立て、世界を復帰できる絶好の機会を迎えた。しかし、キリスト教がこのような摂理を担当する真のお父様を受け入れないことにより、新たな摂理的基盤を整えなければならない困難な状況に直面することになった。このように、ソウルを中心とした第一次の出発摂理が挫折し、一九四六年六月以降、平壌を中心に第二次の出発摂理が進められた。しかし、真のお父様は、神様が長い歳月をかけて準備したすべての摂理的基盤が崩れるとともに、獄中の受難の道を歩まなければならなくなったのである。
そして、韓国のキリスト教の中には、日本帝国の神社参拝強要に屈した教団もあったが、信仰の貞操を守り、解放の日を待ちながら闘った愛国的な地下教会の信徒も多くいた。神霊教団は、このような状況の中で、解放の十四年前から活発な活動をし、再臨主を迎えるための基台を築いていった。
特に、韓半島の東の元山を中心に男性たちの神霊役事(働き)が起き、西の鉄山を中心に女性たちの神霊役事が起こった。その中で、女性の代表は聖主教の金聖道、腹中教の許浩彬、「主なる神の夫人」と称する朴ウルリョンであり、男性の代表は新イエス教会系統の李龍道、金百文であった。
特に、洗礼ヨハネの使命をもっていた金百文は、真のお父様について「全世界のソロモン王の栄光が臨むようになるだろう」と証したが、真のお父様に侍って従わないことによって、摂理的な出発をすることができなかった。
Sunday Feb 19, 2023
真の父母経 第51話
Sunday Feb 19, 2023
Sunday Feb 19, 2023
第三篇 公式路程の出発と「世界基督教統一神霊協会」の創立
真のお父様は、一九四五年八月十五日、韓国の解放とともに、復帰摂理のための公式路程を出発された。神様の解放と人類の救援、平和世界の実現に向けた大長征の始まりであった。何よりも待ち望んだ新時代が開幕したが、摂理の道には、形容し難い苦難が横たわっていた。真のお父様が新しいみ言を発表できない状況で、牧師や長老に会わなければならなかったため、彼らから摂理の新しい主人として認められるのは、ほぼ不可能なことであった。そのため、真のお父様は、神様と直接、交流できる神霊教団を訪ねていかざるを得なかった。当時、霊的なレベルが最も高い位置にいた金百文が率いる、イエス教会イスラエル修道院を訪ねていき、一九四五年十月から六ヵ月間、あらゆる精誠を尽くして奉仕活動をされたのである。金百文は、翌年の三月初めに、真のお父様について、「ソロモン王の栄光により来られた方」と証したが、その後は、侍って従わなかったため、真のお父様は、「これ以上、金百文を中心として神様のみ旨を成し遂げることはできない」と判断されそこを離れていかれた。
真のお父様は、このように韓国で摂理の基盤を築くことができなくなったため、北朝鮮の平壌に行きなさいとの啓示を受け、一九四六年六月六日、平壌に到着し、祈りによる精誠の祭壇を築かれた。平壌では、天の導きにより、篤実なキリスト教徒たちが集まり、彼らの伝道により、多数の礼拝参加者が来るようになった。しかし、教会員を真のお父様に奪われたと考えた牧師や長老たちの反対と告発により、真のお父様は、その年の八月十一日に、平壌の大同保安署に収監されることになった。そのような中でも真のお父様は、大同保安署で神霊教団の指導者と出会うことを知り、希望を抱いて入っていかれたのである。そこには、肉身再臨の啓示を受けていた腹中教の教主、許浩彬(孝彬)が捕らわれていた。
真のお父様は、許浩彬に、「私が誰か、祈ってみなさい。すべてのことを否定して出ていきなさい」と書いた紙切れを秘密裏に送ったが、彼女の不信によってその紙切れが看守たちに発覚し、共産当局の激しい拷問を受け、瀕死の状態で釈放された。結局、真のお父様は、朝鮮半島の南と北のどちらにおいても、キリスト教の指導者たちと神霊教団から反対を受けることにより、イエス様がユダヤ選民とユダヤ教の反対によって、四十日断食と三大試練を経たように、大同保安署での容赦のない拷問と、三大試練の路程を行かれるようになった。
その第一は、「主なる神の夫人」と語る朴ウルリョンを通した試練である。真のお父様は、僕の僕の位置から、神様の実体対象の位置まで上がっていく縦的八段階の蕩減復帰路程において勝利された。第二の試練は、霊界において、聖賢たちを中心とするあらゆる霊界の代表者たちを対象に、四十三日間にわたる真理闘争の路程であった。真のお父様は、血統転換、所有権転換、心情圏転換の三大主題についての熾烈な論争ののち、「文鮮明の主張が正しい」という神様の公認と御印を改めて受け、勝利された。第三の試練は、イエス様の使命継承者として再出発するため、イエス様が十二弟子を失って十字架の苦難を経たことを蕩減復帰する路程であった。真のお父様は、十字架にかけられた位置と同じ興南特別労務者収容所(興南監獄)で、十二人以上の弟子を復帰して勝利された。
特に真のお父様は、一九四八年五月二十日から二年四ヵ月と二十五日間、興南監獄で強制労働の苦役を受けることになった。興南監獄は、劣悪な食事と環境、苛酷な強制重労働により一年に囚人の四〇パーセントが死んでいくという、生き地獄だった。真のお父様は、そこで生き残らなければならず、言葉も行動も思いどおりにできない立場で、弟子たちを探して立てなければならなかった。伝道の方法は、天を感動させ、献身的な生活によって霊界を動員する道しかなかったのである。霊界にいる先祖たちが、収容所にいる子孫たちに夢のお告げや啓示を与え、多くの人々が真のお父様に侍り、従うようになった。
六・二五動乱の渦中、国連軍の上陸進撃により、興南監獄から九死に一生を得て解放された真のお父様は、昔の食口を訪ねるため、徒歩で十日間かけて平壌に向かわれた。最初に、獄中生活をする前に伝道された金元弼を訪ね、食口たちを訪問するようにされたが、彼らはみな、真のお父様の意向に従わなかった。四十日間の平壌滞在ののち、真のお父様は、金元弼と、監獄から先に出てきた足の折れた朴正華を自転車に乗せ、一九五〇年十二月四日に三人で平壌を出発し、徒歩で南下の道を歩まれた。
南下して五十五日目の一九五一年一月二十七日、釜山の草梁(チョリャン)駅に到着された真のお父様は、その年の五月十一日から一年かけて、『原理原本』を執筆された。そして一九五三年七月二十日、姜賢實を最初の開拓伝道師として大邱に送られたが、これが最初の公開原理宣布であった。
真のお父様は、一九五四年五月一日、ソウル北鶴洞の三つの門の家で、「世界基督教統一神霊協会」を創立された。協会の創立は、真のお父様が北朝鮮において蕩減路程を勝利した基盤の上で、キリスト教に代わるアベル的教団を立てたということであり、神様の復帰摂理が、協会を中心に新たに始まったことを意味する。
Sunday Feb 19, 2023
真の父母経 第53話
Sunday Feb 19, 2023
Sunday Feb 19, 2023
10 世界のキリスト教文化圏を中心とした民主世界は第二イスラエル圏であり、キリスト教は、民主世界の思想的な指導を受け持つべき立場、すなわちイスラエルの国に対するユダヤ教と同じ立場です。イスラエルとキリスト教は、このように霊的につながるようになっています。
したがって、再臨の役事は、霊的なイスラエル圏を相続し得る勝利的基盤を整えた上でしなければなりません。霊的な個人から霊的な家庭、氏族、民族、国家、世界圏まで、勝利的な基盤を整えて地上に現れなければなりません。
そうでなければ地上収拾作戦ができないというのが再臨の役事です。
霊界を屈服させて指揮下に置き、神様のみ旨に従って地上に君臨しなければなりません。このようになれば、地上では実体的な再蕩減路程を経ていけばよいのです。
このような点から見て、霊的に世界的なイスラエル圏が勝利しました。霊的に勝利したこの世界的イスラエル圏は、世界的な天使世界に該当します。したがって、再臨主は第三アダムなので、第二アダムであるイエス様が霊的に勝利した霊的イスラエル圏の足場を、相続しなければならないのです。
11 韓国は、解放後、キリスト教圏である民主世界の保護によって、世界が一つになったところに建てられました。その時にお父様は、新しい歴史的な使命を果たすため、建国当時の要人たちと手を結んで、最高の位置から出発することを期待しました。そのようにならなければならないにもかかわらず、キリスト教を代表した幾人かの牧師が反対することによって遮られ始めたのです。キリスト教を中心とした国家形態ができなければならなかったのですが、キリスト教の最高指導者たちが反対することによって、韓国のキリスト教が反対する道が生じるようになりました。
12 日本の帝国主義が、韓国のキリスト教を抹殺するために神社参拝をさせたのですが、そこには神社参拝を受け入れた群れと、神社参拝を拒否した群れがありました。神社参拝をしなかった人は獄中や地下に入り、神社参拝を受け入れた人は表に出るようになりました。
ですから、地下にいた内的な神霊集団の人々が主体となって、外的な人々を再教育して収拾していかなければなりません。その時、彼らは、「主は人として来て、自分たちの団体を指導する」との啓示を受けたのですか、その人がどのような人として現れるのかということは分かりませんでした。
彼らは一つになり、大韓民国が新たに独立する時に、それを主導する役割を果たさなければなりませんでした。ところが、解放後、内的な神霊集団が主体にならなければならないのですが、逆に神社参拝をした群れ、アメリカで勉強し、都合よく社会と接触してきた人たちが主体になりました。神様に対する新しい概念を中心とした再臨思想と連結された概念のもとで、教会の復興運動が起きなければならなかったのです。
解放当時、韓半島のキリスト教会のほとんどが以北にありました。大多数が平壌を中心として存在していたので、以北がキリスト教の中心になりました。ですから、以北の地で行われる教会運動が、国家的な基礎となり、精神的な基調となり得るキリスト教の新しい世界的活動のための神様の摂理基盤にならなければならなかったのですが、そのようにはなれませんでした。
国を中心として、カインとアベルの闘いをしたのです。教会の基地が立つ前に、サタンが先に入ってしまいました。先にカインの国が位置を占めたのです。ですから、仕方なく南側だけでも守るために新しい国を建てたのです。統一を成し遂げることができず、二つの国ができました。キリスト教を中心に統一された国家基盤を形成してこそ、神様のみ旨の基盤になるのですが、完全にサタン圏に移り始めたのです。
13 光復後、韓国では、神社参拝をしたキリスト教派と、神社参拝に反対して監獄に行った再建教会派、それから神霊的な集団、このように三つの部類ができました。キリスト教派は蘇生、再建教会派は長成、神霊派は完成です。
この神霊派がエデン復帰派ですが、旧約的エデン復帰派は朴東基派、新約的エデン復帰派はイスラエル修道院の金百文派です。その次に、成約的エデン復帰派は、婦人たちが主動となった許浩彬派です。彼らは、蘇生・長成・完成型の縦的な復帰をします。旧約時代、新約時代、成約時代の横的な復帰をするのです。再建教会派と神霊集団が完全に一つにならなければなりません。
そのような基盤の上に、お父様が立たなければならないのですが、洗礼ヨハネがイエス様を信じられなかったように、神霊集団の責任者たちは、主が人として来ることは知っていたのですが、その人が誰なのかは知りませんでした。
14 金聖道氏は、エバ的使命者であり、許浩彬氏はマリヤ的使命者です。許浩彬集団は、イエス様がこの地上に来て三十三年間生き、み旨を成し遂げられずに、(本来)願わない十字架の死の道を行ったため、それを復帰するためのあらゆる準備をしました。そして、「再び来られる主は、韓国人として来られるだろう」と言いました。その方の背丈はどれくらいで、体格はどうだということまで啓示を受け、衣服から寝具に至るまで、一切を準備したのです。
本来、そのようなものをすべて準備しなければなりません。それを準備した人が地上にいなければ、主を送ることができないというのです。昔、イスラエル民族が、主が横になる一間の部屋を準備できず、イエス様は飼い葉桶に寝かされるようになりました。そのような恨をもった神様なので、神様は一人を選んで、生活のあらゆる物、すなわち服と部屋と家庭用品の一切を準備させたのです。この時代に文化生活を営む東洋、西洋の誰にも負けない最高の水準で、すべての物を準備させました。
15 韓半島の東海岸地方で起きた霊的な運動集団には、李龍道牧師がいました。彼は、人々に多くの聖霊の火を受けさせました。そのようなことをすることによって、天は霊的な働き手を一つにまとめようとしたのです。霊的な運動も、二つの形態に分かれました。一つは内的で、もう一つは外的でした。
李龍道牧師を中心として新イエス教が出てくるようになりました。当時、許浩彬氏の腹中教と新イエス教を統一せよという、天からの指示がありました。それで、西の集団が一つになるために、東の集団がいる所を訪ねていきましたが、東の集団は西の集団を受け入れませんでした。この二つの集団が統一に失敗することによって、神様は一つの新しい運動、新しい分野の開拓者を必要とするようになりました。
神様は、御自身の指示を受け入れられる、他の一人の人を願われました。その人が金百文氏でした。白南柱氏は蘇生段階であり、李龍道氏は長成段階、そして、金百文氏が完成段階でした。李龍道牧師はイエス様と同じ立場であり、一九三三年に三十三歳で亡くなりました。このことから、神様が主のためにどれほど多くの準備をされたのかを知ることができます。神様は、日本の圧制に耐え抜けるようにしようと、そのように早くから準備をしていました。このような環境の中で、お父様は、自分が行くべき道のために準備を始めたのです。
16 お父様は数えの二十五歳前後の時に、全国にいる神霊的な人たちを訪ねて回りました。名のある牧師や名のある僧侶、易者などをすべて訪ねたのです。そうして、彼らの信仰観と私の信仰観を比較したり、理論的に討論したりしました。そのような牧師たちに、「堕落とは何か」と尋ねましたが、分かっている人はいませんでした。人間がどのように堕落したのかを知らないのです。根本が曖昧な基盤から出発したものは、いくら過程が驚くべきもので、結果が世界的だとしても、完全な完成の終着点に帰着することはできません。
しかし、彼らは、堕落の根源を全く知らなかったのです。お父様は、どのように堕落したのかという事実をすべて知っている観点から、大勢の神霊的な人たちに会ってみましたが、彼らは知りませんでした。だからといって、時になっていなかったので、発表することもできませんでした。
17 お父様は、少年時代を経て、青年時代を経て、分別がつく頃から聖書の内容を深く探究するうちに、神様の摂理がどのようになっているかを、すべて悟るようになりました。そうして二十六歳の時に、解放とともに新たな出発をすることになったのです。
まず、地下教会を遍歴しました。解放前数えの二十四歳の時から地下教会の遍歴を始めたのです。「神霊的な人たちはどのような道を歩むのか。神様の摂理はこのように進まなければならず、このように準備された団体が必ず存在しなければならないのだが」と思いながら、有名だと言われた神霊的な人々に数多く会ってみました。しかし、彼らは神様のみ旨やその方向を知りませんでした。ですからそのような人々を中心として精誠を尽くしてみ言を伝え、関係を結びました。
地下教会の責任者は知らなくても、その教会の中で霊界に通じる神霊的な人たちは、お父様を証しました。私が一週間だけ立ち寄れば、そこにいた神霊的な人たちが私の後ろに付いてくる現象が起こりました。ですから、地下教会も二つに分かれるようになったのです。神霊的な教会を編成するために、志のある人を集めなければなりません。
その人たちに教えなければならない内容は、主は雲に乗っては来ないということでした。これを十年ほど伏せたのちに発表していれば、数多くのキリスト教徒たちがお父様のもとに来ることを知っていましたが、天はそのようにすることはできません。正面から闘争しなければならないのです。神様は目に見えません。ですから、見える機関となり、見えないサタン世界と対峙し、克服して越えていかなければなりません。
18 お父様は、解放後三ヵ月目となる一九四五年十月に、金百文氏に会いました。私は、彼に大きな使命があることが分かりました。当時彼は、プロテスタントの修道院を一つもっていました。彼は「修道院を一つ所有するように」と天から言われていました。また、「再臨主を迎えられる勢力を準備するように」と言われたのです。それが、彼が天から聞いた内容です。ですから、お父様はその集団を訪ね、彼に会い、六ヵ月間彼と共に過ごしました。その期間に神様は、様々な方法で役事されました。
19 お父様は、金百文氏の集団に行き、僕暮らしをしました。当時、どれほど多くの涙を流したか、皆さんは考えることもできません。皆さんが想像もつかない切なる心情をもって祈ったのです。その時、祈っていた床には涙がしみ込み、流した涙が乾く日がありませんでした。
私は、彼が教えてくれた内容を批判することもできました。口さえ開けば、彼らを完全に屈服させることができたにもかかわらず、そこでは一言も話さずに、奉仕の生活を続けたのです。そのようにしたところ、神様が共にいてくださいました。彼らも霊的に明るい人たちなので、天が彼らに、お父様に従いなさいと命令を下したのです。
20 イエス様が洗礼ヨハネから祝福を受けたように、お父様は金百文氏からすべてを相続する予定になっていました。出会ってから数ヵ月後に金百文氏は天から啓示を受け、彼は私の頭に手を置いて、全世界のソロモン王の栄光が臨むようになるだろうと祝福しました。お父様が金百文氏に会ったことは、大きな意味をもっています。もし、金百文氏が天から、そのような祝福をしてあげなさいという啓示を受けたのなら、彼はすべてのことを知るために、私に質問をしなければなりませんでした。それが彼の五パーセントの責任分担でした。
ところが、当時、彼に従っていた篤実な追従者たちがお父様に従ったのです。彼はそれを知って、そのことを良く思いませんでした。いずれにせよ、お父様は彼から祝福を受け、彼がもっていたものを相続したのです。
Friday Feb 17, 2023
真の父母経 第58話
Friday Feb 17, 2023
Friday Feb 17, 2023
第二章 真のお父様の南下と釜山路程
第一節 真のお父様の南下路程
弟子と共に歩んだ南下路程
真のお父様は、一九四八年二月二十二日から一九五〇年十月十四日まで、二年七ヵ月と二十一日間、平壌内務署と平壌刑務所、興南監獄において厳しい拷問と苛酷な強制労役の中、死の淵を越えて蕩減路程を勝利された。
興南監獄を出獄されたのち、既に大勢の人々が避難していた平壌で、昔の食口の収拾に専念され、四十日後に南下された。
真のお父様は、十二月四日の夜、平壌のキリスト教を代表する新婦格の金元弼と共に、獄中の弟子を代表する天使長格として、負傷した朴正華を自転車に乗せ、大同江の下流から、船便で川を渡られた。黄海道(ファンヘド)の碧城郡(ピョクソングン)に着き、青龍(チョンニョン)半島の南端から龍媒島(ヨンメド)に入ったが、再び戻って凍りついた臨津江(イムヂンガン)を渡り、南下された。
平壌から二人の弟子と共に南下する苦難の路程は、堕落した人類を導き、創造本然の理想世界に率いていく、天の摂理の一面を象徴的に見せてくれるものであった。
1 私は、興南の監獄から出て平壌にまで来ても、両親が故郷にいるのは知っていましたが、故郷に行くことができませんでした。いくらでも行ってくることができたにもかかわらず、行けなかったのです。その時、故郷に行けなかったのは、監獄に入る前に私に従っていた食口たちの安否が気遺われ、彼らに会って収拾し、すべて通告してから故郷に帰らなければならないという考えからでした。それが天に従う正道です。
そうしているうちに、突然戦況が変わり、故郷には行けなくなりました。このような情勢になることは予測していました。それで、故郷に立ち寄らず、その食口たちを急いで捜し回ったのです。ですから、三十八度線を越える時に、「私がこのように故郷をあとにして発つのは、天のためであり、私が再び帰ってくる時は、私の手で以北(現在の北朝鮮)を解放し、私の故郷の地を訪ねて、天の勝利を称賛いたします」と祈りました。その祈りを中心として闘ってきたのです。
2 興南の監獄から出て、平壌に行って何をしたのでしょうか。平壌で事件に巻き込まれて監獄に入る前まで私に従っていた食口たちに、会わなければなりませんでした。それで、一人一人にみな会いました。最後の三人のうち二人は、年を取って亡くなっていました。もう一人は、所在が分かり、人を送って会おうとしましたが、結局会うことができず、避難の途に就きました。一九五〇年十二月四日に平壌を出発しました。
人民軍が(平壌に)入城して粛清をする過程の中で、私たちは出発したのです。その時、私は、足をけがした朴正華という人を自転車に乗せてきました。人民軍の銃声を聞きながら下ってきたのです。国道は人民軍が占領していたので、避難民たちはそのほかの小道や、道のない野原や山を越えて三十八度線まで南下してきました。ですから、人民軍とはわずか三里内外しか離れていない道を通ってきたのです。
朴正華が避難の途中で、「このままでは三人とも死んでしまいます。ですから、私が抜けましょう」と言いました。行く道で足手まといになることを知って自決しようとしたところを、私に叱られ、最後まで付いてきたのです。龍媒島に出る時は、朴正華を背負っていきました。朴正華を背負っていったのですが、潮水が入ってくれば、みな溺れて死ぬかもしれません。あの困難な泥道を歩いたことが忘れられません。
3 三十八度線を中心として、国軍警備隊は南側にいて、人民軍は北側にいました。三十八度線で警備隊が見張っているので、南側に行く道がすべて塞がってしまいました。それで、一般人は一人も三十八度線を越えることができませんでした。ですから、青丹(チョンダン)という所から船に乗って出なければなりません。三十八度線に問題が生じたことを、私が誰よりも先に知りました。
国軍警備隊が道の要所にいるので、三十八度線に問題があれば、彼らがまず先に移動するのです。一日前に国軍警備隊が移動することを知ったので、すぐに三十八度線をあとにしました。歩いて埠頭に行ってみると、埠頭から龍媒島までが一・五里です。(ぬかるみの中、人を背負って)二時間以内に一・五里をどのようにして行くのでしょうか。水が引き始めるのを見て、一・五里の道を歩かなければならないのですが、水が引く時から渡り始めて、水が戻ってくるよりも速く歩いてこそ、一・五里を渡ることができるのですが、危険千万です。天を信じて、あらん限りの力を尽くして走った時の思いが忘れられません。その一・五里の泥道を走ったのです。ですから、体は、頭から足の先まで泥だらけになりながら、潮水が埠頭を越える前に、やっとのことで渡り終えました。
4 私は、以南(現在の大韓民国)の地に下る頃、北朝鮮がどのようになるかということを見通していました。ですから、三十八度線をいかに越えるかという問題をめぐって、相当に苦心しました。
もしその時、私の言うとおりにしていなければ、出てくることができなかったのです。休みなく先を急がせました。警備隊員たちが三十八度線からすべて後退していたので、事態は非常に不利でした。そのような時は、素早く先に動かなければならないのです。
このようにして、龍媒島を通って韓国に向かう船に、一旦は乗ろうとしたのですが、その時、警備隊員がすべて後退していた状況だったので、一般人たちは船に乗ることができませんでした。ですから、龍媒島に行ったのに、私たちの乗れる船がないので、再び戻ってきて、三十八度線を越えて下ってきたのです。
5 私たちが臨津江の近くに到着した日、夜の間に臨津江の川辺まで行かなければならないという、そのような何かを感じました。そういう時、お父様は、非常作戦、非常措置を取るのです。アンテナを最高に伸ばして調べるのです。普通の時には、そのようなことはしません。
ですから、他の人たちは夕方になったといって、他の日と同じようにみな村に入って場所を取るのですが、私たちだけは午前零時を過ぎて一時に、臨津江に隣接する家に到着しました。その家の人は、みな韓国に行って、いなかったので、そこに入りました。ところが、私たちが到着した日まで、臨津江が凍らなかったのです。「今夜この川が凍らなければならないのだが」と心配したのですが、神様が保護してくださり、ちょうどその日の晩に凍りました。それで、明け方早くに越えていきました。
私たちが一番早く来たと思ったのですが、その村に先に来ていた人たちがたくさんいました。そして、国連軍の撤収に伴って、私たちの一行を最後に、道を塞いでしまったのです。そのあとに来た人たちは、みな後ろに引き返しました。このような時に一分でもうろうろしていれば、どうなっていたでしょうか。人の運命は時間が問題だというのです。躊躇していればすべて台無しにしてしまうのです。
そのようなことが私たちの人生にもたくさん起こるのですから、天道をかき分けていく道で、何事も起こらないことがあり得るだろうかというのです。ですから、どれほど深刻でしょうか。
6 興南の監獄から出たあとは、何一つ持っていない旅人でした。平壌から韓国まで下ってくる約二ヵ月間は、乞食をしました。ある時は、言葉で表現できないほど食べたいと思うこともありました。それでも、「神様、きょう食べる物がないので、何か下さい」という祈りは絶対にしませんでした。かえって神様を慰労したのです。
ある時は、「あすは間違いなく、ある美しい婦人が道端で何かをくれるはずだ」と考えると、翌日に間違いなく、考えたとおりに真っ白い服を着た婦人が道端で待っていて、「昨晩、夢で万端の準備を整えて待っていなさいと言われ、このようにお待ちしておりました。どうぞ召し上がってください」と言うのです。そのような出来事がたくさんありました。誰も否定できない生きた実績をもっているのです。
そのように助けてくれた村には、時が来れば、恩を返そうと考えています。神様もそうです。お父様と神様が互いに抱き締め合って泣いたその悲しみは、地上の人々は誰も知りません。その深い深い神様に向かう心情は、推し量ることができません。それを考えると、すべての細胞が締めつけられるようです。
三十八度線を越える時の決意
真のお父様は、三十八度線を越える時、「必ず、この手で自由世界を糾合して共産党を消化し、北朝鮮を解放して、南北を統一する」という、悲壮な誓いの祈りを捧げられた。真のお父様は、その日の祈りと誓いを忘れることなく、一生涯、闘ってこられた。臨津江を渡ったあと、紆余曲折の道のりを、ソウルまで八十数キロ歩くのに、一週間かかった。一九五〇年十二月二十一日、臨津江から出発して汶山(ムンサン)駅に到着し、十二月二十七日に漢江を渡り、平壌を発ってから二十四日目に、学生時代に過ごされたソウルの黒石洞に到着されたのである。
7 私は、三十八度線を越える時に祈った言葉を忘れません。「お父様、私は以南の地にまいります。私は以北に来て、み旨を成し遂げることができず、敗者の悲しみを抱いたまま、獄中の身の上を免れることができずに、追い立てられる群れの歩みに従って以南へとまいります。以南に行けば、また反対を受けるでしょう。十年の道、二十年の道、立ちはだかる道がどんなに遠いとしても私は行きます。行って、またこの道を訪ねてこなければならないことを知っておりますので、三十八度線より北に私が行けなければ、私の思想を植えつけて子孫に行かせるようにし、彼らが行けないのなら、私に従う弟子たちにでも行かせるようにいたします」という決心をして下ってきた人です。十年の歳月を一心不乱に闘ってきたのです。私が天のみ前に誓って進み出た歩みは、皆さんとは違います。
8 私が三十八度線を越えながら心で誓ったことは、誰一人として知らないでしょう。また、以北の興南監獄で三年近い歳月を送り、三十八度線の南側を中心として天のみ前に祈ったことを、誰も知らないのです。「悲しい環境ですが、きょう、三十八度線を越えます」と言って涙ながらに祈ったことを、一緒に来た人も知りません。私のために精誠を尽くした父と母を故郷に残し、「この親不孝者が再び帰ってくる日まで待っていてほしい。死なずに待っていてほしい」と言って出発したことを、私は忘れずにいます。また、私が共産党から拷問を受けながら、「私がこの目の黒いうちに、お前の一族を屈服させ、お前の口で神様の偉大さを称賛するその日を迎えてみせる。私は死なずにその日を迎えるのだ」と誓って決意した事実を、皆さんは知らないでしょう。それは今もなお、骨身にしみる心情として私に残っているのです。
9 お父様は一人、以北の地から追われる身で韓国を目指して下ってきました。それがついきのうのことのようです。その期間に夢のような出来事がたくさん起こりました。
興南の監獄から出て、韓国に下ってきたのは三十一歳の時で、まだまだ若い頃でした。その時、監獄から出ながら決心したことが、再出発でした。いくら困難なことが北朝鮮の地であったとしても、そこでのすべての困難を忘れ、その困難だった事実が、私の行く道に損害をもたらすのではなく、第二の出発をする上で一つの刺激剤になるだろうと考えました。
私は、いかなる道を通ってでも、み旨の道を完成すべき責任を感じていたので、監獄から出てきた三十代の若者として、新たに出発するという決意が強かったのです。(平壌から)三十八度線を越え、慶州を経て釜山まで来るのに、二ヵ月ぐらいかかりました。その時、釜山に来てみると、どこにも身を隠すことができないほど避難民たちでいっぱいでした。それで、仕方なく土窟を掘って避難生活をせざるを得なかったのです。
Friday Feb 17, 2023
真の父母経 第57話
Friday Feb 17, 2023
Friday Feb 17, 2023
11 お父様は、試練の渦中でも不平を言いません。迫害を受けるまっただ中に入っても、不平を言わないのです。国や町や家庭や個人が終局において攻撃してきましたが、私に勝つことはできませんでした。すべて敗れていきました。最後には、神様までもがお父様に反対しました。しかし、神様がいくら理解し難いことをしても、私は神様をつかんでいました。そうして霊界で四十三日間闘ったのです。
神様が反対するので、神様を中心としてイエス様が反対し、孔子が反対し、釈迦が反対し、ムハンマドが反対し、霊界全体が一つになって反対しました。しかし、四十三日間闘いながら、譲歩しなかったのです。神様は、四十三日の間に決裁をしなければならないようになっていました。それで神様は、お父様が天と地において最高の勝利者であると宣布したのです。
第四節 興南監獄とイエス様の使命継承路程
イエス様の使命を全うするための蕩減路程
興南監獄の試練は、再臨のメシヤとして、イエス様の使命を全うしていかれるための蕩減摂理路程である。再臨のメシヤは、クリスチャンたちが反対する中で、イエス様の使命を全うしていくために、十字架によって亡くなられずに、生きて監獄から出てこなければならないだけでなく、イエス様が失ってしまった十二人以上の弟子を、十字架上(監獄)で探して立てなければならない。北朝鮮の興南監獄は、人間を徐々に殺す十字架と同じであったが、真のお父様は、イエス様の使命を全うしていくための蕩減路程を勝利的に締めくくられたのである。特に、周辺の人に対して伝道することはできなかったが、霊界にいる囚人の先祖たちが子孫に夢で現れ、真のお父様に特別に良く接し、侍るようにと教え、真のお父様が監獄から出てこられるときには、十二人以上の弟子をもつようになられたのである。そして、興南監獄に収監されたのち、最初の二、三週間は、食事の半分を他の囚人たちに分けてあげ、定州にいらっしゃる忠母様(実母)が、定州から興南まで来て差し入れしたはったい粉と服も、すべて彼らに分け与えられるなど、人のために自らを犠牲にしながら、収容期間に三度も模範労働者賞を受けられた。毎日配給される飲料水の一部を残しておき、体を清められるなど、神様の息子であるという自覚をもって模範的な生活をされたため、天も感動せざるを得なかったのである。
1 イエス様は、霊界の地獄のどん底に行って、三日間の受難の道を克服しなければなりませんでした。イエス様が霊肉を中心とした勝利の基点をもたなければならなかったのです。ですから、道を切り開いておかなければ讒訴される立場になってしまうので、道を築かなければなりません。それゆえ、イエス様が霊界の地獄に行って開拓し、道を切り開いたのです。
お父様はそのような原則を知っていたので、以北(現在の北朝鮮)に行って監獄に入ったのです。私が平壌刑務所で手錠をかけられて刑罰を受けている中でも、「誰々に会うだろう」ということを、すべて約束されていました。「そこに行けば、イエス様の三弟子のような人に会うだろう」ということを約束されたのです。復帰の運勢圏の中では、そうでなければ天道と合いません。ですから、手錠をかけられて監獄に行く道も、最高の希望の道でした。
「これこれこのような人に会うだろう」という、その希望をもって監獄に入っていったのです。絶望の中で訪ねていったのではありません。私が監獄に入ったので、そこで道を築き、その苦労の功績を通して、その門が自動的に開くようにしなければならないのです。そのようにするには、完全に蕩減しなければなりません。監獄暮らしをして、獄中で祭物にならなければならないのです。それで、監獄に入っても、最も難しいことを私が引き受けて行いました。
2 解放後、お父様は、怨讐たちが群れをなす以北の地でみ言を伝えました。それで、監獄の道から出発したのです。お父様は平壌の監獄に入っていくときも、死なないことを知っていました。その上、「これこれこのような人に会うだろう」ということまで知っていました。お父様に何か必要な物がある時は、無知蒙昧な強盗や窃盗犯、殺人犯などの大勢の囚人たちに、霊界が「どこそこの監房に番号が五百九十六号の人がいるから、その方にこのようなものを持っていってさしあげなさい」と伝えて、来させたりしました。冬になって寒くなるのに、お父様の着る服がなければ、彼らに着る服を持ってこさせたり、また、私が食べることができず、おなかがすいた時には、思いがけない人に、お父様の名前と番号を教えて、食べ物を持ってこさせたりしました。そのようなことが一度や二度ではありません。
平壌の監獄に入れば誰に会うのかを知っていたので希望の中で一九四八年五月二十日まで過ごしました。その時、監房の窓辺をかすめた柳の葉を眺めながら、思いにふけったことが、ついきのうのことのようです。今も記憶が鮮やかです。そこで、天のみ旨に従っていくことを約束した人たちに会いました。彼らに会うことによって、怨讐の地、最も深い谷間から天の密会が始まったのです。そこから天の兵士を募り始めました。家庭と社会から追われ、追い出されたので、そのように監獄から始めたのです。
3 お父様が平壌刑務所から手錠をかけられて興南の監獄に行くのに、十七時間かかりました。それで、その車内で何を考えたでしょうか。深刻でした。唖然とするほど深刻な立場にいるお父様を見る神様は、どれほどかわいそうでしょうか。神様の六千年の摂理歴史を再び蕩減復帰しなければならないのですが、私のほかには誰もする人がいないのです。これを蕩減復帰しようとすれば、数千年はかからざるを得ません。知っている人は私しかいません。
ですから、すべての山野の外景を眺めながらどれほど深刻だったでしょうか。私一人しかいないのです。その時、最も悪辣な強盗と二人組になって手錠をはめられていました。
そのような状況で「いかにしてこの環境で生き残るか」を考えるのですから、どれほど深刻だったかというのです。
お父様は、以北の平壌と興南の監獄で、イエス様の公生涯に該当する二年八ヵ月の期間を送り、十二人の人を復帰することができました。十二人を復帰することによって、イエス様が失ったすべての条件を復帰することができたのです。たとえその人たちがお父様に従わなかったとしても、お父様が釈放される時、彼らの位置に、ほかの人たちを立てることができました。
お父様は、計画していたすべてのことを完遂したので、天は、天使長国家であるアメリカと国連軍を通して北朝鮮を攻撃するようにし、お父様を解放しました。そうして、監獄から出てくるようになったのですが、その時、四人の人が私に従いました。国連軍が韓国を守ってくれたので、その条件によって、天の運勢は再び民主世界に戻ってくることができ、キリスト教を復帰するための役事を始めることができたのです。
5 イエス様が死の道を行くことになった時、イスラエル民族が裏切り、愛する三弟子までも裏切りました。ですから、蕩減復帰の原則によって、監獄にいる時、イエス様が失った十二弟子と同じ数を蕩減復帰しなければならなかったのです。このような立場にいたので、お父様が興南監獄にいる時、口を開かなくても第二イスラエル圏内にいる霊界の霊人たちが伝道して、その数を満たしてくれました。このような歴史的な関係を経てきたのです。
共産党の厳しい監視と注目を受ける獄中生活でも、人知れぬ心情的な団結運動を、神様が責任をもって行ってくださいました。そこでは、あからさまに伝道することはできませんでした。しかし、お父様が口を閉じていても、霊界から伝道してくれたのです。
北朝鮮・興南での蕩減路程において勝利された真のお父様
真のお父様は、興南監獄で、誰よりも遅く休み、誰よりも早く起きる生活をされ、労働現場においても、同僚のために尽くしながら、最も難しい仕事を一手に引き受けられた。「監獄の聖者」と呼ばれるほど模範的な生活をされたため、天が感動せざるを得なかったのであり、すべての蕩減復帰摂理の条件を立てられた。興南監獄では、国連軍が興南に上陸したのち、一九五〇年十月十二日から、囚人たちを処刑し始めた。真のお父様の処刑日は十月十四日だったが、国連軍が、この日、総攻撃を断行すると、北朝鮮の人民軍が退却するとともに、真のお父様と収監されていた人々はみな、解放された。そして、真のお父様は、監獄から解放された直後、徒歩で十日かけて平壌に向かわれた。
6 十月十四日は、興南の監獄から出てきた日です。そこに入っていくとき、私はどれほど深刻だったでしょうか。何としてでも生きていかなければなりません。生き残ろうとすれば、死ぬと思われるような状況を通過しなければなりませんでした。ですから、労働する所で、いつでもその仕事場で模範となる人物として登場する人が私でした。それが生きていく秘法です。
働く人たちは数十人ではなく、千人近くいるのですが、看守たちが私を選定して、最高の実績を上げ得る材料にするのです。そのようになるのはたやすいことでしょうか。そのようにして生き残ったのです。
お父様は、このような道を走ってきて、み旨を成し遂げてきました。恨多き復帰の峠を越える責任者はどこに行ったのかというのです。民族の怨恨、世界のキリスト教が失敗した怨恨、呪い得るそのすべてのことに対して、私が責任をもって消化してきました。神様と共に働く人になり、その方の味方になり、自分の道を再創造して、私を中心としてキリスト教文化圏以上のものを編成してきたのです。
7 私が興南の肥料工場で働くことにおいてチャンピオンになったので、人々はみな私のあとにばかり付いてきました。朝、出ると班を編成するのですが、毎日同じ人たちと仕事をすることはできません。ですから、班を編成するとき、私がトイレに行っていたとしても、戻ってくるのを待って、私の後ろに付くのです。
そうすると、その中で最も仕事ができる人たちが集まり、そこで私が隊長になります。かますを縛ることから、引きずり出して貨車に積むことまで、することがとても効率的で、公式化されているのです。
ですから、仕事をしているとは考えず、他のことを考えます。国家的、世界的なあらゆることを材料にして、未来のプログラムを練るのです。そのようなことを考えながら働いていると、時間が過ぎるのも忘れます。ですから、他の人と同じように汗を流しますが、疲れを知りません。このようにすることが、精神的に力になるのです。このようにしていたところ、表彰があるたびに、毎回模範労働者に選ばれて賞をもらいました。そのようにして生き残ったのです。
8 「六・二五動乱」中の一九五〇年八月一日、アメリカ軍の日29爆撃機が総攻撃をし、興南を大々的に爆撃しました。お父様はこのようになることを予見していただけではなく、お父様を中心に直径十二メートル以内は、神様が守ってくださることを知っていたので、近い人たちに、みな私の周りにいるように告げました。お父様は、その中でじっと瞑想をしていました。爆撃のことは考えずに、今後の理想世界について考えていたのです。
結局、思想や理想をもった人こそ価値があるのです。このように復帰の使命を担った人を霊界に連れていけば、神様にとっては天宙的な損害になるので、神様はいかなる犠牲を払ってでも防備することを願ったのでありそのようにせざるを得ませんでした。
9 連合軍が爆撃をする数日前から、共産党は囚人たちを処分し始めました。ある日、彼らが麻ひもを集め始めたのです。お父様は、直感的に最後の時が近づいてきたことを感じました。お父様は本当に深刻な祈りを捧げました。
看守が、一人一人を呼び出して別の場所に移動すると説明しました。それが最後の道でした。そして、一人一人、井戸の中に逆さまに落として殺害したのです。次の番がお父様でしたが、その日の夜の午前二時頃、国連軍の総攻撃により、生きて興南監獄を出ることができたのです。
10 一九五〇年に国連軍が北朝鮮を爆撃したのですが、最初に興南を爆撃しました。お父様のいた興南監獄がその近くにありました。お父様は、その国連軍によって自由の身になったのです。そうなるまでに多くのいきさつがあります。
お父様は、東海岸にある興南から平壌まで歩いて帰ってきました。西側の平壌まで歩いていったのです。お父様は、以前に従っていたすべての人たちに、私が帰ってきたことを知らせながら弟子を捜してみましたが、ほとんど戻ってきませんでした。しかし、何人かの人を集めることができたのです。
11 一九五〇年十月十四日に釈放され、東海岸から平壌に向かって歩きました。平安南北道の境界線付近に来たとき、人民軍が、逃走しながら、峠を越えるたびに敵対する思想をもつ人たちを粛清していました。数十人ずつ並ばせて処刑していた、その峠を越えてきたのです。
その時は、刑務所から釈放されて、囚人服ではないほかの服を着て出てきていたので、人民軍は(私たちが)自分たちの敵ではないと思いました。死の峠を四回越えたのです。その時、四人の人が一緒に付いてきました。