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Friday Feb 17, 2023
真の父母経 第56話
Friday Feb 17, 2023
Friday Feb 17, 2023
第三節 八段階の蕩減復帰と霊界での四十三日勝利
真のお父様の縦的蕩減復帰路程
真のお父様は、金百文から祝福された土台の上で、完成格エバの立場の女性に出会わなければならなかったが、それが、「主なる神の夫人」と自称する朴ウルリョンであった。彼女は当時、神様が導き、霊界が従って活動する立場にいた。そのため、真のお父様は、エバからの主管権復帰のため、朴ウルリョンを訪ねていかれたのである。真のお父様は、彼女の子女たちに付き添って世話をすることはもちろん、最低の立場で彼女に仕えながら、犠牲と奉仕の道を歩まれた。その老女は、僕の僕から、僕、養子、庶子、直系の息子、天の国の総理大臣、イエス様の位置、神様の対象実体など、真のお父様を段階的に証した。このようにして、エバからの主管権復帰歴史を締めくくり、縦的八段階の地位を探して立てられたのである。
1 男性から祝福の相続を受けたならば、女性からも祝福の相続を受けなければなりません。そうでなければ復帰ができません。ですから、金百文氏の集団を中心に男性から祝福を受けたので、女性からも祝福を復帰しなければなりません。そのようにしなければ、今まで韓国の地で神様が築いたすべての摂理基盤を相続することができません。
男性の前でそのような基準を立て、そこから分かれて出てきたので、次は女性の前で蕩減復帰をしなければなりません。女性が根本的な堕落をしたので、根本復帰をしなければなりません。ですから、今まで女性たちが受難の道を経てきたのです。僕の門を開け、養子の門を開け、息子、娘の門を開けるために、歴史路程で受難の道を歩んだというのです。
2 平壌に不思議なおばあさんがいる、といううつわさが飛び交っていました。神霊的な集団は、そのような事実を互いに隅々まで連絡し合っていました。その不思議なおばあさんは、自分のことを「神の夫人」と言っているというのです。世間の人たちは、「そのおばあさんは気が狂っている」と言いました。キリスト教でも「気が狂っている」と言いました。しかし、お父様はそのような女性が現れることを願っていました。その知らせを聞いた時、どれほどうれしかったか分かりません。お父様はその知らせを聞いて、「天よ復帰の使命を中心として、天倫の法度の土台をこの三千里半島につこのような女性たちを通して、神様が築いてこられたものを解決すべき問題が残っているので、私は平壌に行きます」と祈ったのです。
結局、キリスト教が従うことができなかったので、再蕩減の役事をしなければなりません。すべてを神様が導いてくださいました。三十八度線を越える時も、虹が前を導いてくれました。十二里の道を直接導いてくれたのです。このような驚くべき導きを受けて、平壌にいる朴というおばあさんに会って蕩減復帰の役事をしたのです。
3 いくら再臨主だとしても、祝福を受ける過程を経なければなりません。「あなたは世界的なアベルです」という祝福を受けなければならないのです。そのように祝福してくれる人に出会い、夜も昼もあらゆる精誠を尽くし、「すべての福を渡しても惜しくない」と思う心をもつようにしなければなりません。そのような基盤の上に、天が共にある世界的な祝福を受けなければならないのです。アベルとしての祝福だけでなく、メシヤとして祝福を受けなければなりません。再臨主になるためには、世界的なアベルの位置、メシヤの後継者の位置に立って祝福を受けなければならないというのです。しかし、息子がメシヤを祝福することはできません。それをするのは母親しかいません。メシヤが生まれるようにする方は母親しかなく、神様しかいません。メシヤは女性を通して生まれるので、祝福してくれる人は母親と神様しかいないのです。
ですから、「神の夫人だ」と言う女性が現れなければなりません。「神の夫人だ」と言う母が現れて、「自分が侍るべきメシヤである」と証言しなければなりません。そのような証言をするためには、その母から「お前は私の愛する子である」と言われるように、絶対服従しなければならないのです。そのような中で上がっていかなければなりません。そのような祝福を受けるためには、僕の僕としての本分を果たさなければなりません。
4 人々がお父様に従って侍りたいと思い、何か貴い物を持ってきてくれると、お父様は、神の夫人と自称する朴というおばあさんの家族にすべて持っていって捧げました。今日、統一教会員がこの民族を復帰するために、農村に行っておじいさん、おばあさんの世話をしたり、赤ん坊の鼻を拭いてあげたりすることは問題にもなりません。女性たちにもできない、そのおばあさんの洗濯の世話までしてあげました。どんな命令でも言うとおりにしなければなりません。復帰路程の公式がそのようになっているからです。
蕩減復帰歴史は僕の基準から上がってきたので、お父様自身も必ず僕のように扱われなければなりません。僕のように扱われるその立場で精誠を尽くせば、ますます復帰されるのです。どれほど心がはずんで楽しいか分かりません。その期間は、お父様が「原理は必ずこうである」ということを大きく開示する時までの試験期間でした。事実がそうかそうでないかを試験する期間だったのです。
このようにしたならば、天は必ず祝福をしなければなりません。僕の僕の位置から祝福復帰をしてくるのです。それが過ぎると、僕の中で最高の僕になります。そうしてさらに精誠を尽くすと、養子の位置で養子の祝福をしてくれるのです。
5 私が、「神の夫人」と語る人を訪ねていってみると、霊的な生活をしているのです。霊界の聖人、賢哲たちを連れて踊りを踊ったりしていました。イエス様が説教し、孔子が出てきて語り、モーセがやって来て話をするのです。
その中に入ったのですが、最初、お父様は僕、天使長の位置に入りました。すべての人たちが、「天が愛する僕の僕が来た」と言いました。その次は、自分たちよりもあらゆる面で優れているので、「ああ、僕だ!」と言いました。そのように証をしなければなりません。その次は「イエス様の弟だ」と言い、そのあとは「イエス様と双子だ」と言います。それが復帰です。その次は「お兄さんだ」、「天の国の総理大臣だ」、このように上がっていくのです。総理の次は神様です。天の国の総理なので「天の国の王だ!」と言うようになるのですが、王になるだけではいけません。
「霊界について教えてくれる先生の中の先生であり、父の中の父である。父であると同時に先生であり、先生であると同時に王である」と、このように神様に代わって呼ばれるようにならなければなりません。その次からは、今まで私が僕の僕として朴というおばあさんに侍ってきた道と、完全に逆の道を歩まなければならないのです。
四十三日の霊界勝利路程
真のお父様は、縦的八段階の位置を探して立てられたのち、四十三日間、霊界の試練を経ていかれた。イエス様と全霊界の聖人、賢哲たちが、真のお父様の原理のみ言に反駁する状況となった。そのため、真のお父様は、天理原則をもって、そのような反対に立ち向かい、独りで決着をつける闘いをされたのである。神様は、真のお父様の主張が復帰の恨を解く原則であり、天倫の秘訣の中の秘訣であると最終的に判定して、御印を押してくださった。
6 お父様は、朴というおばあさんから祝福されたのちに、「私は誰々で、あなたは誰々であるから、復帰の恨を晴らそうとする天のみ旨に屈服しなさい」と言いました。自分の思いどおりに操り、自分の思いどおりに「来なさい、行きなさい」と言うことができていた若い青年がそのように言い出し、とりわけ「私は神の夫人だ」と言っていた局面なのですから、屈服しなければならないとは、唖然としたでしょう。そこでそのおばあさんがおとなしく従っていれば、お父様も苦労しませんでした。そのように従順にするのは大変なことです。千人なら千人が、そこですべて敗れ去っていくのです。屈服せずに反対したその時から、そのおばあさんは気が狂ってしまいました。
内外の祝福基準を兼ね備えるようになるまでの、霊的な試練は言語に絶するほどでした。それは四十三日間にわたる試練期間でした。その時は、霊界のすべての霊人たちが責め立てたのです。
しかし、お父様は、天理の原則をもって彼らと闘いました。一人で四十三日間、今まで生まれては死んでいった数多くの霊界の道人たち、イエス様や神様まで動員された全霊界と闘いました。天地を争いの場にするわけにはいかないので、神様は四十三日の期間が満ちれば、そこで判定を下さなければなりません。天理の原則でなければ天と地が滅びるのです。お父様が探し求めてきたこの道は、間違いありません。結局、お父様は、最後の勝敗を決める闘いで、勝利したという判決を受けたのです。
7 再臨主がしなければならないこととは何でしょうか。キリスト教の反対によって、天上世界と地上世界、霊肉の版図を備えた勝利的覇権が完全に崩れました。それで、それを再び創建しなければなりません。個人、家庭、氏族、民族、国家の四千年間の復帰歴史を、霊界から再び整理していかなければならないのです。ですから、霊界に入っていって大勢の霊人たちを中心として闘いました。ここにおいて、霊界が反対しました。サタン側の立場で、「異端だ」と言って反対したのです。
蕩減復帰は避けることができません。それを個人から収拾しなければなりません。真理をめぐって理論闘争するのです。地上天国は拳をもってつくるのではありません。理論闘争と真の愛をもってしなければなりません。ですから、四十三日間にわたって霊界に大混乱が起きました。教主たちを中心として、宗教指導者たちが責任を果たせなかったことや、復帰の過程では心情を中心として、血統転換していくことを知らずにいたのです。このようなことをお父様が発表することによって、霊界も知るようになり、このような過程において、彼らのほうが理論闘争で負けたのです。
8 再臨主になろうとすれば、霊界に入って神様の御印をもらってこなければなりません。お父様は、霊界に入って四十三日間の闘いをしました。地獄のどん底から天上まで、皆が「文先生は異端者だ!」と言いました。それを下から整理していかなければなりません。最後には、聖賢たちと神様のみ前で談判して、正義の主人は誰かを決する闘いをしなければなりません。
その時、「霊界に来たすべての人々は血統が違っている。血統転換をしなければならないことを知っているのか」と言いました。二つ目は所有権転換です。「地上で暮らしながら自分の所有意識をもっている人は、天の国の背信者である!」と言ったのです。教主たちがいくら偉いといっても、ここに引っ掛かっています。ですから、お父様は霊界で闘う時、自信満々に「異端がどうした」と言い張りました。
最後には、霊界に大混乱が起きそうなので、神様が審判長として判決を下さなければならないのですが、神様まで反対したのです。アダムが天に背いたので、蕩減復帰の原則によって神様もアダム完成者に背かなければなりません。そのようにしてこそ、神様の心に築かれた壁が崩れるのです。そうして全体が反対し、神様まで向こう側に立っている中で、たった一人、お父様だけが残りました。
かといって、混乱の渦中にある霊界を、そのままにしておくことはできないのです。神様が最後の判決を下さなければなりません。神様は、お父様が言う血統転換、所有権転換、心情圏転換をしなければならないというのは事実だと言ったのです。そのような勝利の覇権者として御印をもらって、降りてこなければなりません。
9 解放直後、自由世界を中心として、韓国とキリスト教全体が一つになってお父様に反対しました。イエス様の命を奪い、洗礼ヨハネの命を奪ったのと同じことが韓国で起こったのです。サタンがアダムの命を奪ってアダムの家庭が滅び、イエス様の命を奪ってキリスト教文化圏が延長したように、世界時代が来たので、全権を駆使して平面的に攻撃するのです。肉的に攻撃するのも恐ろしいことですが、霊的に攻撃するのです。霊的世界と肉的世界を総合してお父様を攻撃します。神様がサタンに、「お前が望むことは何でもしてみよ!すべてしてみよ!」と言われたのです。
サタンが望むのは、霊的世界全体と肉的世界全体が一つになって、父になれる資格があるかないかを、自分が試験するということです。サタンが「私は世界と天地に私の子孫を通して基盤を築きました。それから抜け出すためのものが真の父母なので、この二つの陣営の闘争圏内から解放されなければ真の父母にはなれません!」と言えば、神様も原理的な面から「そうだ」と言わざるを得ないのです。それを知っているお父様は、世界の攻撃を受ける前に、まず霊界に入り、数多くの段階の霊界を統一しなければなりません。
10 アダムが神様に反逆したことを蕩減復帰しなければなりません。蕩減復帰の法則は本当に冷酷です。容赦がありません。人間が神様を打ったので、「終わりの日」に再臨主として登場するためには、アダムが神様に反逆したことを蕩減復帰しなければなりません。ですから、神様は、愛するのではなく、打ってしまうのです。
そのような中で、神様が反対するのですが、「これでなければならない」と言って争うのです。これをそのまま放置しておけば、霊界の混乱が継続するので、神様は四十三日以内に「誰が勝利した」という決定的な宣言をしなければなりません。その宣言と同時に、勝利したという御印をもらってこなければならないのです。根は神様です。ですから、全体の勝利的覇権をもったその位置で神様の御印をもらって地上に降りてきました。四千年間継続してきた霊界のあらゆる紛争を収拾したのです。
Friday Feb 17, 2023
真の父母経 第50話
Friday Feb 17, 2023
Friday Feb 17, 2023
第四節 真のお母様の苦難と勝利の道
人知れず歩まれた苦難の道
真のお母様は、天の新婦として立つ聖婚式を前後して、あらゆる苦難を踏み越え、勝利の道を歩まれた。絶対主体であられる神様と真のお父様のみ前に、絶対対象として、絶対信仰、絶対愛、絶対服従の手本としての路程を歩まれた。真のお母様は、いかなる逆境にあっても、摂理であれば、それを貫いて進む強いお姿をお見せになった、真のお母様は、「私が歩んできた道は、考えるだけでも耐え難い苦難の連続でした」と回顧された。
1 お父様がどのような方かを知っているため、皆さんは、それと同じように、ただそのまま、私(お母様)が非常に幸福で、すべての面において完全な人であるに違いないと考えるでしょう。「あなたは神様がそのように創造され、本来、完全な姿でお生まれになった方ですから、御自分では何の努力もする必要がなく、ただその位置に選ばれたのです」と考えるかもしれません。そして、天宙の母として、お父様に出会い、幸せな家庭をもって、人生を楽しんでいるというのが、私に対する人々の一般的な見解でしょう。しかし、お父様がその位置に立たれるために苦難と十字架の道を歩まれたように、私も当然、私なりに、信じられないほどの忍び難く、耐え難い十字架を背負ったのです。
もちろん、私も初めから完全な人間として出発したのではなく、完成まで進まなければなりません。その到達すべき基準があまりにも高く、時には目標までたどり着くのが本当に不可能であると思われたこともあります。その使命を果たし、神様の期待に応えるためには、非常に困難な試練と苦難、そして、絶対的な信仰が必要でした。私は、そのような立場にいたのです。過ぎし日のこのような事情と、私が歩んできた路程に関して振り返って考えてみるとき、涙があふれるのをどうすることもできません。これについて話そうとすれば、苦難と試練の記憶がすべて生き生きとよみがえるので、私はそれを話すのが非常につらいのです。
2 私(お母様)が歩んできた道は、考えるだけでも耐え難い、苦難の連続でした。神様は、選ばれたお父様に試練を与えられたように、私にも何度も試練を下さいました。そして、サタンも、お父様とイエス様を試みたように、私に対して、やはり試みました。メシヤが通過されたような過酷でひどい試練を、このか弱い女性が通過したのです。私は実に、荒々しい海に浮かんだ小さな帆舟のようでした。一方で、その当時は、私に訪ねてこられる神様の恵みを、最も深く感じた時でもありました。
私が苦痛の中にいるときも、神様は、自ら現れて啓示を下さり導いてくださいました。そのような直接的な導きがないときも、私を愛し、守ってくれようとする周囲の人々を通して、(神様は)絶え間なく導き、啓示を下さいました。ですから、当時は、大変に困難な試練と苦難に耐えなければならない時だったにもかかわらず、同時に、その時こそ、最も美しく、神様の恵みに満ちあふれた、本当に神様が共にいてくださることを実感できる時でもありました。このようにして、完成に向かって苦悩しながら歩んだ成長期間が終わり、天が願われる基準に到達した私が、その当時を振り返るとき、その苦難に満ちた記憶がすべて、喜びに変わったのです。
私はいつでも、お父様と深い対話をし、交流することができました。お父様と私の間には、尽きない話題と限りない理解があり、無限の信頼に満ちあふれた対話がありました。お父様とそれほど多くの話を交わさなくても、深く互いの事情を理解することができました。なぜなら、お父様が通過してこられた事情と、私が歩んできた道が、神秘的なほど、非常に似ていたからです。お父様とは、共通の一つの目的を深く理解し、それゆえに不屈の信仰ですべてのことを忍耐し、すべての苦難と闘って完成基準に到達して、今やサタンが一切侵入できない基準まで歩んできたという勝利感があります。お父様と私が向かい合うとき、互いに感じる勝利感によって、私は限りなく慰められ、平安を得ることができました。
3 私(お母様)は、自分自身の体験を通して、神様について、神様がどのようにそのみ旨を成就されるのかについて、多くのことを知りました。人生において、私は、本当に天国と地獄をすべて通過してきましたが、そのどちらも、神様が期待される、完全に成熟した人格を形成するために必要なものだったことを知るようになりました。
もし私が、天国の喜ばしいことだけを享受してきたとすれば、天国の生活をそれほど深く味わい、感謝することができなかったでしょう。私は、地獄のどん底までも通過し、その苦い味も体験しました。「これ以上、このように難しい道を進み続ける力が私にはありません。この道を進み続けるのは絶対に不可能です。神様!なぜ私にこのような道を行けと言われるのですか」と、数え切れないほど尋ねました。私に必要だったのは、真に朽ちることのない不屈の信仰と決意と忍耐であり、それが今日の私自身をつくり上げたと言えます。
皆さんが天国に行く道において、天国的な面だけを期待してはならないというのです。地獄的な面も当然、予期しなければなりません。地獄のどん底の監獄を通過することも、当然、予期しなければなりません。それこそ、神様の恩恵を感じられる最も貴い部分であると言えます。そのような過程を通過するとき、皆さんはより堅固に立つことができ、円満で総合的な人恪と霊性を備えた人格者として、さらに成熟することができるでしょう。そして、天国をより深く体恤できるでしょう。そのような体験が、いつか皆さんの誇りとなるでしょう。勝利と忍耐の記録こそ、いつの日か皆さんの誇りとなるでしょう。
勝利された真のお母様
真のお母様は、満ちあふれる慈愛をもって、時には限りなく崇高な涙をもって、時には少女のような清らかなほほえみで、時には澄み通って地の果てまで響く玲瓏(れいろう)な声で、暗闇を貫く輝かしい光を発せられた。真のお父様は、「真のお母様の勝利によって、復帰摂理を完成、完結、完了することができた」と語られ、真のお母様の勝利に対して、「実に、無私こそが成功の鍵」であることを強調された。
真のお父様が一九九九年六月十四日の「真の父母様天宙勝利祝賀宣布表彰牌」の中で明らかにされたように、真のお母様は、「神様の特命と復帰摂理歴史の結実として結ばれた本然の神様の子女であり、人類の真の母の使命」をもってこの地に来られ、「天のみ前に真の子女の使命、夫の前に真の妻の使命、そして、子女の前に真の父母の使命」を完遂された。そして、真のお母様は、天だけが記憶される中、蕩減復帰の苦難の路程を勝利し、永遠なる真の父母の伝統を立てられたのである。
4 お母様は、家庭の母として、教会の母として、天宙の母として、当然、真の母として、より大きな責任をもつようになります。そのようなお母様が他の人に比べて特別な点は、生まれつき鋭敏な霊的直観力をもっていることです。また、人物や事物に対する洞察力と観察力がとても正確で、直観力も非常に鋭く、明晰ですから、お母様の心に反映されたものはいつでも真実だというのです。その次に、お父様に対する絶対的な忠誠心をもっており、誰が何と言おうと、何でもやると深く決意していることです。それがお母様の信念でもあります。そのような信仰と信念があるので、その苦難の歳月にも、目的達成のため、実に信じ難いほどの忍耐力をもって勝利してきたのです。
5 お父様は、お母様がみ旨に対して特別な性稟をもっていることを深く感謝しています。それは、お母様が常に私心なく、自分の子女だけでなく、皆さん食口に対しても、何でも与えようとすることです。自分の物のうち、何か貴く思う物があれば、いつも誰かに与えたいと思い、与えることを喜びとするというのです。世の中の多くの人々は、真のお母様には多くの喜びがあり、宝石や服などをたくさんもっていると思うかもしれませんが、事実は決してそうではありません。
何でも、自分が良いと思う物は誰かにあげて喜ばせたいと思っています。天候が突然変わったある日などは、お父様と外出しなければならないのに、箪笥(たんす)の中に服があまりなく、その天候に合うふさわしい服を見つけられないときもありました。もちろん、そうでなければ、お父様自身の伝統に付いてくることができないのですが、お母様はお父様以上に質素な生活をしてきたのです。
6 お母様は、ひたすら完成基準に向かって、七年間闘ってきました。この七年という期間に、実に様々な非難と中傷、うわさ、誤解などが真の父母様の家庭を取り囲み、渦巻いていました。非難と中傷と迫害ゆえに血を流すような期間でしたが、それらすべてのものが、必要だったのです。問題は、お母様がこのような試練に耐え非難されてもそれを克服して越えられるかということでした。
お母様はすべてのことに勝利しました。お母様はひたすら沈黙を守って、耐え忍ばなければなりませんでした。このような事情の中で、歳月が流れていきました。しかし、いかなることが起こっても、お母様は最後まで不屈の信仰によって忍耐し、犠牲になりながら、沈黙を守り、信仰し続けてきたのです。そして、ついに、非難されてきた事情がすべて逆さまになり、皆がお母様に頭を下げ、「この方は、本当に天宙のお母様であられる」と考えるようになりました。そのように尊敬し、侍るようになったのです。
7 時には、とても信じられないことが起こったりもしました。お母様を非難していた人々は結局、一人ずつ離れていきました。お父様は原理を知っているので、このような類の事情をいかに主管し、指導者としての使命を果たして、最終的な勝利をもたらすべきか、よく分かっていたのです。もし原理を知らなかったならば、本当に、どのように処理すべきか分からず、うろたえたでしょう。結局は、愛です。愛が中心であり、すべてが愛の問題なのです。そして、愛の問題が極端な方向に行くこともあり得るというのです。お父様は、愛を征服し、復帰するために来ました。そして、それは神様に対する心情復帰でもあります。それこそ、愛の十字架でした。しかし、お母様は、このような困難を経ながらも、ただの一言も弁明しませんでした。お母様自らその苦難の意味を悟って忍耐し、ついに勝利したのです。
8 お母様について話すことができるのは実に勝利的な信仰だったということです。お父様に対する絶対的な信仰でした。お母様も大母様も、共に勝利しました。この天宙的な勝利以降、今やお父様として、そこにふさわしい栄光を(お母様に)与えることにしました。大母様も、生涯を通してお母様の母親にふさわしい、正当な尊敬と栄光を受けなければなりません。もしそれらを受けることができずに亡くなれば、子孫にその結果が現れるでしょう。原理的観点から見るときお父様はお母様に、これまでとは違う形で向き合っています。それが復帰の過程です。それほど難しく、大変なことなのです。これがどれほど難しいことか、皆さんはとても理解できないでしょう。
お母様と大母様は、最も光栄で、責任ある立場に選ばれたのですが、統一教会の最も低い立場で入教し、最も低い位置からその路程を出発しました。このことから、私たちは神様の祝福が、最も高く、光栄で神聖な所で受けるものでは決してなく、人間の悲惨で最低な立場に打ち勝って受けるべきものである、という教訓を学ぶことができます。そのようにしてこそ、祝福が永遠のものとなり全人類を包容できるものとなるのです。
Friday Feb 17, 2023
真の父母経 第49話
Friday Feb 17, 2023
Friday Feb 17, 2023
第三節 天が選んで立てた真のお母様
三代にわたる準備
真のお父様のみ言によれば、新婦基盤全体を代表した女性が人類の真の母になるには、それにふさわしい摂理的条件が具備されなければならない。その第一の条件は、サタン世界の讒訴を越え得る内的な血統的内縁(内的な縁故)である。人類の女性全体を代表する一人の女性が立てられ、真のお母様にまで連結するため、その背後には三代にわたる一人娘の女性がいなければならないというのである。それゆえ、真のお母様の母方の家系は、三代にわたって一人娘をもうけることにより、天の側に聖別されてきた。そして、外祖母の趙元模女史と大母様、真のお母様は、一人娘として、周辺に親戚が多くなく、しがらみのない暮らしを通して分別生活をしながら、天の新婦基盤を準備したのである。
1 誰でもお母様になれるというわけではありません。すべての摂理が、エバの歴史を中心とした摂理と連結された関係を中心として出てくるのです。そのような内外のすべてを合わせ、主が来られて三人の女性の協助を受けて結婚式をするようになるのですが、その時、三人の女性は、蘇生、長成、完成と同じです。
祖母から母、娘まで、三代が一つになったというのは、旧約時代、新約時代、成約時代が連結されたということです。それによって、父母が定着できる時代に入ってくるのです。お母様が中心です。蘇生が中心ではなく、長成が中心ではありません。ですから、歴史時代のあらゆるものが三段階を経なければなりません。平面的時代のあらゆるものは、三番目の段階を完成してこそ、完成の段階に立つのです。
2 お母様は、世界の女性たちの代表です。その人類全体の女性を代表して一人の女性が受け継ぎ、お母様にまで連結されたのです。ですから、お母様の背後には、三代が連結されなければなりません。本来は一人娘にならなければなりません。アダムも一人息子であり、イエス様も一人息子です。再臨主も、神様のみ旨から見れば、一人息子です。一人息子のみ旨を立てていくので、一人娘でなければなりません。ですから、復帰摂理から見ると、男性と女性が相対的な立場で一つになって結ばれ、世の中のサタン世界を越えて天の国へと行かなければなりません。
3 お母様お一人がお生まれになるためには、三代が一人娘であると同時に、三代が、来られる主のために生きた功績の基盤がなければなりません。お母様の背景を見ると、趙元模おばあさんから洪順愛おばあさん、そして、お母様まで、三代が一人娘です。また、洪氏おばあさんは、再臨主を迎えるための神霊教団の重要な幹部として教育されてきました。そうして、南に避難してくる頃に、お母様が許浩彬氏の母親から「天の花嫁になるだろう」という祝福を受けたのです。お母様がそのような祝福を受けた基盤は、天が準備したのです。
4 お母様の三代が再臨主を迎えるための準備をしました。歴史は、そのようにして上がっていくのです。プロテスタント教会から反対され、カトリック教会からどれほど反対を受けたでしょうか。李龍道牧師を中心として新イエス教会をつくったといって、どれだけ迫害を受けたでしょうか。神霊的な役事と韓国の中心人物たちをすべて連結させて、お母様が祝福を受けました。お母様の家系は、十二人を超えてはいけないのです。
5 腹中教は、主が人として来て母を選定し、十二使徒を立てるという信仰をもっていて、主に侍る訓練をさせました。お母様は、その特定集団を通して訓練を受けました。その腹中教の教主の母親がお母様を呼び、祝福してくれました。気づいてみると、祝福をすべて受けていたというのです。そこに男性がいてはいけません。できるだけ一人娘でなければならないというのです。
6 来られる再臨主を歓迎するために準備した代表者が李龍道牧師です。李龍道牧師は、既成教会から追い出されて新イエス教会をつくり、鉄山の金聖道と連結され、白南柱を通して東と西が連結されたのです。ですから、大母様の家庭を中心として、一つは新イエス教会へと進み、もう一つは女性を中心とした腹中教へと進んだのです。
腹中教において、主を迎えるために、先導的な代表として家を出て歩んだ人が大母様です。新イエス教会から祝福を受け、腹中教から祝福を受けたのです。お母様の家門を見ると、そのようにしてきたというのです。そうでなければなりません。
天の新婦としての準備生活
神様は、ひとり子として再臨主を送られ、ひとり娘である天の新婦をあらかじめ準備してこられた。真のお母様は、幼少時代に周辺から「天の新婦になるだろう」という霊的な証を、数回受けていた。「小羊の婚宴」が近づくと、真のお母様が天の新婦になるという夢の啓示が、多くの食口にも現れ、特に、大母様も夢で啓示を受けた。白い礼服を着た女性食口たちがピンク色の花を手に持ち、真のお父様の部屋に入っていくのだが、後ろを振り返ると、食口ではない女性たちも花を持って立っていた。その時、大母様は、「神様は女性を失ってしまったので、六千年間、女性を探し求めてこられたのだな」と考えた。そこで、真のお母様が、お座りになっている真のお父様の前に歩いていくのが見えた。その間、天から雷鳴と稲光が起こり、一ヵ所に集まった。そして、大勢の人々がその光景を羨ましそうに眺めているのだった。その時もやはり、大母様はそれが何を意味するのか分からなかった。それでも、大母様は、夢の啓示が実現されるように精誠を尽くしながら、真のお母様を養育してきたのである。
7 大母様が主を迎えるために歴史的な受難の道を歩んできたので、お母様もそのような訓練を経た歴史があるのです。み旨のために真心を尽くす夫の道であるならば、それ以上に熱心に従う女性と、そのような家門が必要です。そのように考えて、お母様を迎えたのです。
8 大母様は、迫害を受け、新イエス教会から腹中教を経て、統一教会まで来ました。三つの教団に仕えた歴史がなければ、お母様の先祖になることはできません。大母様がお母様を生んだのも、霊界の命令があって生んだのです。そのような歴史があります。そうでなければ、お母様として誰でも連れてきて立てることはできないのです。
9 母になるためには、三時代の祭物的な家庭にならなければなりません。一人娘の歴史を残さなければなりません。大母様がお母様を身ごもって、一人でこの道を出発したのです。純潔な夫を探し求める三時代の女性たちが歩まなければならない、十字架の峠を越えて育てなければなりません。お母様として、誰を選んでもいいのではないのです。お母様にとってお父様は、祖父の代わりであり、父の代わりであり、夫です。ですから、お父様と向き合うときは、兄のように思い、父のように、祖父のように、王のように思ったというのです。それゆえ、お父様がそれを知って、そのような妹の位置から育てていかなければなりません。婚約者の位置、夫婦の位置、母の位置、祖母の位置、女王の位置まで上がっていくようにしなければならないのです。
10 お母様を尊敬せざるを得ません。三つの教団を経てきました。大母様から、「主が来られるので、主に侍ろうとするなら、このように侍らなければならない」と何回も聞いたので、それが骨髄にしみ込んでいるのです。そうでなければお母様になることはできません。
この十七歳の娘が、女王にならなければならないのです。天の国の女王の位置まで進んでいかなければなりません。ですから、結婚したのちに、統一教会において、相対の位置、母の位置、祖母の位置、その上の女王の位置に上がらなければなりません。母と言えば、その母は国を代表する母です。妻と言えば、その妻は王の代身の妻なので、王として侍るのです。
Friday Feb 10, 2023
真の父母経 第45話
Friday Feb 10, 2023
Friday Feb 10, 2023
10 私は二十歳(数え)になるまで、血の涙の過程を経ながら生きてきました。乞食たちと友になり、彼らを自分の兄のように、自分の母のように愛する心をもつことができなければ、神様の心情圏に入れないことを知っていたので、そのような修練過程を経るために、日本に行っても、民族を越えてそのようなことをしました。私は、土木現場に行ってお金を稼ぎ、友人の学費を出してあげたりもしました。皆さんもその道を行かなければなりません。なぜそのようにしたのでしょうか。困難な曲折の道を自ら願って歩もうとしたからです。
11 雪の降る日や、台風が来た日は学校に行かず、土木現場に出掛けて働きました。そのような時は、とても気持ちが良かったのです。台風が吹いていた時なので、そこで手が真っ黒になっても、雨に当たって、きれいになってしまいます。そのような中で汗を流しながら働きました。その気分は本当に爽快です。
また、その中に悪い人がいれば、こらしめてあげました。時には大男をやっつけたりもしました。また、土木現場には班長がいて、搾取するのですが、給料の三割をかすめ取っていきます。ですから、「そのようなことをしてはいけない」と強く抗議しました。私は、普通の人が恐れるような人たちに対しても、「そのようなことをしてはいけない」と言って、彼らの言うことに従いませんでした。かえって彼らが私に降伏したのです。
12 昔、東京にいた時、二十七の区域にリヤカーで配達する配達夫の仕事をしました。自ら訪ねていってしたのです。お金が必要だったからではありません。訓練が必要だったのです。運送会社ならば、運送会社の人々を説得しなければなりません。知らなければ説得できません。夏に電信柱をリヤカーに載せて十字路を通るとき、電信柱が横に傾いたのですが、人々がそれを見て、大騒ぎになりました。十字路を渡っていて横に傾き、リヤカーがぐるっと回ってしまったのです。それで、男女の別なく逃げていった姿が、ありありと目に浮かびます。
また、今記憶に残っていることは、貧民窟での生活です。そこでぼろをかぶってしらみを取っていた生活が、今も生々しく記憶に残っています。神様の息子が最前線の将兵になり、サタン世界を征服するためのゲリラになったのです。
13 日本にいる時、土木現場に通ったことと、銀座でリヤカーを引いて歩いたことが、今でも生き生きと記憶に残っています。それは、私が御飯を食べるためにやったわけではありません。若い頃に苦労することにおいて、私が模範にならなければならないと思ったのです。
学校に行けなくなった学生を卒業させるために、私が何ヵ月間か学校を休んで、彼らの父や母の役割までしました。夜もありませんでした。夜中の二時に起きて、そのような仕事をしたりもしました。ありとあらゆることをすべて経験したのです。何のためにそのようにしたのでしょうか。私が人より愚かだったからではありません。会社に行って仕事もしてみて、字を書いて売ってみたりもしました。ある時は、会社で現場監督もしてみたのです。
14 私は、世の中についてよく知っています。既に幼い頃から八道江山(パルドガンサン)(韓半島全土)で行かなかった所がありません。
日本に行っても、行かなかった所がありません。困難な所はすべて回りながら、ありとあらゆる仕事をしてみました。大きな会社の使い走りから何から、すべてやってみました。そこでどんな扱いを受けても、私は一言も言いませんでした。通りすがりの一人の留学生にすぎないのですが、何を考えているか分からないというのです。貧民窟からすべて通過していきました。結局は自分の実力を備えなければならず、実力をもって実績を残さなければなりません。
自己主管と真の愛の道を体験
真のお父様の日本留学時代は、「宇宙主管を願う前に自己主管を完成せよ」という標語を自ら実行する期間であった。特に、体をむやみに見せたりせず、五官の統制訓練などを重ねられた。そして、人情を越えて天情を立て、留学時代は、一貫して「日本人を誰よりも愛する条件を立てよう」という思いで、怨讐の国の人を兄弟のように、父母のように切々と愛する修練過程を経ていかれた。
15 私は、少年時代にこの道を修めてくるとき、自分を主管するまでは映画館の前も通りませんでした。酒場の前も通りませんでした。自分が自分を主管するまでは、何をしてもすべて失敗します。主管するのが一番難しいことは何でしょうか。
眠りの問題が一番難しいのです。その次に空腹です。そして、情欲の問題です。これが三大怨讐です。ですから、徹夜しながら、それを主管するための修養過程と考えてきたのです。
おなかをすかせながら、修養過程と考えて歩んできました。一人で暮らしながら、修養過程を通ってきたというのです。自分を主管する前に宇宙主管はできません。自分を主管してこそ宇宙主管ができるのです。自分を主管してこそ神様を呼ぶことができるのであり、神様の主管圏を願うことができるのです。これが原理観です。アダムは、自分を主管できなかったので堕落したのです。
16 日本が戦争をするとき、東京の新宿の裏通りなどを見て回りました。そういう所について研究し続けました。どこに行っても、自分にプラスになるものを得てくるのです。悪い所に行っても、消化できることは消化します。そのような主義です。良い環境を探し回る人ではありません。
修養するときは、必ず静かで荘厳な場所や、深い山のような所に入らなければならない、ということでは話になりません。静かな所でなければ勉強できないというのは、私には通じません。モーターやエンジンが動く工場でも勉強しました。そのようなことが得意です。様々なことをしながら準備するのです。腕っ節の強い人が弱い人をいじめる時には、彼らを単独で片づけます。私一人で闘うのです。それは、公のためにそのようにするのです。これは人生哲学に必要な問題です。
17 私は、皆さん以上に希望が山のようにあります。しかし、皆さんを僕の道に追いやらなければならない時が来るので、私自身も先に僕の立場で歩みました。そのようにしなければ、僕の生活をさせる資格をもつ人になることができないのです。
他人に僕の生活をさせようとすれば、自分自身が先に僕にならなければなりません。この国の僕にならなければなりません。私は、忠実な僕になって、三歳の幼子にまで朝晩侍ったことがあります。その幼子に神様のように侍ったのです。また、日本留学時代、しらみが湧く貧民窟でも暮らし、石炭も背負い、塩も背負ってみました。やらなかったことがありません。そのような歴史があったのです。
その恨を皆さんが解かなければなりません。それでは、感情的あるいは心情的な決意の基点をどこでつかむのでしょうか。そのような基点をつかむ場に、皆さんは私の代わりに行かなければなりません。皆さんがそのような場で涙を流し、迫害を受けるなら、皆さんの血管でお父様の血が躍動するのです。
18 私は、人々がしないことは何かを研究しました。「私は食ベずに我慢できるだろうか」と考え抜いた末、「できる」という信念をもって訓練に臨みました。御飯が出てくれば、いつもどんぶりで三、四杯を一気に食べてしまいます。それくらいおなかをすかせていました。ある日、「どれほど食べられるか試してみよう」と思いました。
戦時中だった当時は、食券というものがありました。その食券があったので、「何杯食べられるか、よし一度試してみよう」と思い、友達を連れて食堂に入りました。そこで食事をしたのですが、親子丼を七杯も食べました。七杯も食べると、首が回らないのです。それはおなかがすくよりもさらに苦痛でした。動くこともできませんでした。そのようなこともしたのです。
しかし、いつもそのようなことをしていたと思ったら大間違いです。私は、いつもおなかがすいていました。それでは、なぜそのように過ごしたのでしょうか。自分のおなかだけを満たしていれば、自分から民族が遠くに逃げていってしまうからです。神様も自分から遠くに逃げていってしまいます。おなかがすいて食べたくても、それ以上に民族と神様を愛さなければならないと考えました。それが真理であり、信条でした。このようにしながら、この道を開拓してきたのです。
19 東京にいた学生時代、雨が降る日は、学生服を着ていましたが、できるだけびしよぬれになった労働者の横に行きました。一番ひどい臭いがする所に行くのです。行って、「この方が私の兄、私の父だったらどうしただろうか。私のためにこのような悲惨な状態にいるとすれば、私はどうすべきなのだろうか」と考えました。
また、電車に乗れば、車中の学生たちのうちで、身なりのいい学生たちを見ながら比較するのです。「君たちが笑って過ごしているうちに、君たちの青春が流れていき、君たちの一生が流れていくが、私の思いの中では、私の一生が輝き、将来、希望の太陽が昇るのだ」と思いました。「私には未来が保障され、希望があるが、君たちには未来の希望がない」と考えるのです。
一生の間、真の父母の名を立てることは、極めて難しいという事実を知らなければなりません。すべての人に対して、主体性をもち得る自分自身を発見しなければならないのです。
20 お父様は、日本で勉強していた学生時代、故郷の家に行く際には、電報を打ちませんでした。また、定州駅から家まで、およそ二里になるのですが、できるだけ風が吹いて寒い日や、雨が降る日に歩いていくのです。歩きながら祈ってみると、「実に素晴らしい方が世の中をつくられたな!」と悟るようになります。
日が傾いて夜になった時や、白い雪が降った晩に、一人で歩きながら感じたその思い出は、一生の間忘れられません。小さなお土産を両手に交互に持ち替えながら家に向かうとき、両親がどのような顔で迎えてくれるだろうかと思うと、とても感傷的になります。それを考えると、その期間がどれほど幸せな期間だったか分かりません。
早期卒業と帰国
真のお父様は、当時の戦時状況の変化により、学期が半年短縮され、一九四三年九月三十日、早稲田高等工学校電気工学科を第二十五期生として卒業された。真のお父様は、卒業と同時に、故郷の家に帰郷の日程を知らせる電報を打ち、十月四日発の関釜連絡船乗船チケットをあらかじめ購入された。
出発当日、友人たちの見送りを受け、東京駅のチケット売り場に入ろうとした時、どういうわけか、心が不安になり、足まで動かなくなったため、悩み抜いた末に出発を保留された。
その日、真のお父様が乗船しようと予約した関釜連絡船・崑崙丸は、十月五日午前一時十五分頃、沖ノ島の北東約十海里の海上で、アメリカ軍の潜水艦による魚雷攻撃を受け、沈没した。帰郷日を延期したとの通知を受けていなかった故郷の本家では、事故の知らせに接するやいなや、大騷ぎになった。真のお父様は、「今は、民族の恨を解いてあげられないまま帰るが、近いうちに、必ず日本の青年たちに対して命じ、教える時が来るだろう。その時、もう一度会おう」という内面の誓いを立てながら、十月中旬、帰国の途に就かれた。
21 卒業する当時は、太平洋戦争中でしたが、兵役問題もあり、六ヵ月短縮して、九月に卒業しました。故郷の家には、関釜連絡船で帰り、何時に到着すると電報を打っておきました。ところが、その船が戦争のため、沈没してしまったのです。故郷では、乗船者名簿を調査しましたが、私の名前はありませんでした。それで、皆、死んでしまったと思い、大騒ぎになって、村全体がひっくり返ったのです。
22 私が日本から帰る一九四三年、崑崙丸(こんろんまる)が沈没しました。卒業を六ヵ月短縮したので、下関を経由して、韓国のソウルまで行くチケットを買ったのですが、その時に乗るべきだった船が崑崙丸です。汽車に乗ろうと、東京駅に入ったのですが、気分がおかしいのです。それで、その汽車には乗りませんでした。家には、間違いなく何日に到着すると連絡しておきました。チケットを買って、既に何時の便で行くと連絡しておいたので、故郷ではその日、その時間に来ると思っていたのです。ところが、東京駅で私が引き返したのです。その船が沈没してしまいました。その時、私は東京駅に見送りに来ていた友人と、熱海かどこかに行きました。ですから、故郷では、「帰る」という連絡があった人が来ないので、死んだものと思ったのです。
その時、私の母は、気が動転したのです。定州からソウルまで五十八里の道のりですから、汽車では十時間かかります。それを、釜山まで行こうとするのですから、どれほど気が動転していたでしょうか。チマもはかず、薄手のズボンだけはいて飛び出したのです。靴がいつ脱げたかも分からずに走り続けたので、アカシアのとげが足の裏に刺さって固くなっているのも分かりませんでした。それを、私が帰ってきたあとに抜いたという話を聞いて、私は「ああ、父母の愛はそのように偉大なのだなあ!」と悟りました。
Wednesday Feb 08, 2023
真の父母経 第44話
Wednesday Feb 08, 2023
Wednesday Feb 08, 2023
明水台教会設立と教会学校の生徒指導
真のお父様は、ソウルの黒石洞(フクソクトン)時代の初期、日本統治体制の影響下にあった教会の独善的教会行政と教理中心の信仰形態に異を唱え、韓国的聖霊運動を主導したペンテコステ教会と交流をもたれた。そして、西氷庫(ソビンゴ)ペンテコステ教会に通われ、一九三九年の秋、黒石洞に新イエス教会を建てるに当たって、主導的な役割を果たされた。平壌から李浩彬、朴在奉(パクチェポン)牧師が頻繁に訪ねてきて、復興会と聖書写経会を行ったときには、そこに同参され、彼らと深い交流をもたれた。そして、新イエス教会の教会学校の生徒たちを格別な愛情で指導され、長期の休みの際に平壌に行けば、教会学校で説教をされた。
25 私は、学校に通いながら教会学校の学生たちも指導しました。黒石洞教会でも、西氷庫教会でも、そのようにしました。当時は、夜になると寒いので、漢江が凍り、水の割れる音がしました。一人でいると恐ろしいのです。そのような漢江を渡りながら、西氷庫教会の教会学校の学生たちを指導しました。私は、教会学校の学生たちを上手に指導したのです。涙を流しながら話をしました。
一度そのように泣きながら話をしてあげれば、学生たちがもう十分だと言うはずなのに、追いかけてきて「また話してほしい」と言うのです。
26 私は、三人の友達と力を合わせて、ソウルの黒石洞に明水台・新イエス教会を造りました。私が学費をはたいて投資したのです。今も教会の跡は、すべて残っています。そして、新しい教会が始まる前、多くの人々をそこに連結させるために、西氷庫を中心として伝道したことが思い出されます。冬になると漢江がかちかちに凍り、水面の氷が割れて、とても恐ろしい音がしました。恨の多い歴史時代でしたが、思い出もたくさんあります。
27 私は、幼い子供にも敬拝した人です。三歳の子供を天の王子のように思い、精誠の限りを尽くして侍りました。私は、公証できる内外のあらゆる歴史的勝利の基台を築いて話すのです。幼い子供から勝利してきました。これを三代以上できなければなりません。そのような伝統をもたなければならないのです。幼い子供たちを私自身の希望の相対とみなし、教会学校の学生たちを指導した名指導員です。彼らを誰よりも愛しました。その子供たちが、学校にも行かずに、私のあとを付いて回ろうとしたのです。カインを愛する歴史を開拓することが私の使命だからです。
28 李浩彬牧師、朴在奉牧師、韓俊明(ハンヂュンミョン)牧師が新イエス教会の主な責任者でした。それで、彼らが建てた平壌の新イエス教会には、数千人の学生がいました。その教会は名が知れ渡っており、教会堂も非常に立派に建てられていました。
私が教会に寄るときは、いつも学生会に責任をもち、指導しました。それで教会学校の学生たちを指導することで私は有名になりました。ですから、教会の牧師たちをよく知っていて、また青少年を中心に有名になったので、誰もが自分の家に私を招待しようとしました。
29 私は、平壌にある新イエス教会の李浩彬牧師、韓俊明牧師、朴在奉牧師に対する秘密の内容を、誰よりもよく知っています。
彼らに、「あなたはこのような召命的責任を中心として、このように生きることを分かっているのですか」と尋ねると、答えられなかったのです。「そのような行動をしてはいけない」と忠告しました。ですから、私のことを最も恐れたのです。旧約・新約聖書の秘密をすべて知っていました。
学生だった私がそこに立ち寄れば、数千人の教会学校の学生たちが、「話をしてほしい」と私のところに来るほど、有名な学生指導者でした。子供たちがすっかり夢中になり、私が帰るときは、停留場にあまりにも多くの人が集まるので、牧師たちがみな、防御線を張って私を保護しました。ですから、その三人の牧師は、いつでも私の言うことを聞くのです。
第四節 日本留学と原理の究明
神様解放の志を抱いて
真のお父様は、未来の摂理のためにより大きく、広く準備しようと、日本留学に旅立たれた。一九四一年三月三十一日、京釜(キョンプ)線のひかり号列車に乗ってソウル駅を出発し、四月一日、関釜連絡船・昌慶丸に乗って釜山を離れ、下関に向かわれた。そして、四月初旬、早稲田大学附属早稲田高等工学校電気工学科に入学された。
1 私は小さい頃から、「この国が日本よりも強い国だったら、このようにはならなかっただろう」と考えていました。問題はそれです。弱いから、弱い背景と弱い基盤に立っているから、悲惨な運命の道を避けられない、ということを切実に感じました。その時に思ったのは、「世界で一番の強国はどの国か。アメリカだ」ということでした。
その時、既にアメリカについて知っていました。「それならば、アメリカは日本よりも大きな国だが、アメリカも、日本がするように、自分の国権を拡張するために、弱小国を占領してこのようなことをするだろうか、しないだろうか。同じだ。している。だとすれば、正義の国家、この世界を代表し、正義の立場に立って弱小国を保護し、育ててくれる正義の国はないのだろうか」と幼い頃から考えていました。もしそのようなことができる何かがあるとすれば、それは何かと考えたのです。歴史的に見るとき、人間世界では不可能ですが、もし創造主がいるとすれば、創造主なら可能だというのです。
ですから、「創造主、絶対者がいるなら、私はその絶対者を通して国を生かし、圧迫を受けている民族の解放を成し遂げよう」と思いました。それで、神様がいるかいないかという問題に取り組み、宗教を探査しました。神様がいるのなら、その神様に自分が一度会わなければならないと思ったのです。そうして十代を過ごし、二十代に向かいながら、信仰路程において様々なことにも悩みました。
そのような中で、「日本に行ってみなければならない。日本を経てアメリカに行ってみなければならない。現地に行って、弱小民族が悲痛な目に遭い、迫害を受けるとはどのようなことなのかを体験しなければならない」と考えたのです。
2 漢江の鉄橋を通り過ぎる時、涙をぽろぽろ流したのがきのうのことのようです。孤児のごときこの民族を置いて日本に行く時、汽車の中で外套を頭からかぶり、釜山まで痛哭しながら行きました。
ある日本人のおばさんが汽車の中で泣いている私を見て、「学生さん、親御さんでも亡くしたのですか。そのような悲しみは、人なら誰にでもあることではないですか」と言いました。しかし、私の悲しみは、ひとえに国を愛する気持ちでいっぱいになってあふれ出た悲しみでした。国を愛せない人は、天を愛することができないのです。
3 私は、日本留学に行くため、ソウルから「ひかり」という汽車に乗って釜山に行く時、「私が日本に行って学んでくることは何か。この国を解放し、成長しつつある次の世代が、希望にあふれて前進と出世ができる道、自主的独立国家を備えられる道を、私が築かなければならない」と決心しました。
汽車が漢江の橋を通り過ぎる時、手すりをつかんで、とめどもなく涙を流したことを今も思い出します。「私が帰ってくる時は、涙を流して帰ってくる男にはならない」と考えました。
4 私は、釜山から船に乗って日本に行ったのですが、その時、連絡船の中で、とめどなく涙を流したのが、ついきのうのことのようです。当時は日本統治時代です。ですから、哀れなこの民族を、誰がその束縛から救ってくれるのかというのです。私は星を見つめながら夜を明かし、この民族の解放の一日のために、涙を流して精誠を捧げました。この民族のため、神様のみ前に「私はこれから旅立ちますので、帰ってくるまで、神様、この民族をお守りください」と祈ったのです。そのように涙を流しながら恨の心情を残したのが、きのうのことのようです。
5 私は、早稲田大学附属高等工学校に入って、夜間部に通いながら勉強しました。それは、苦学生たちの費用を援助してあげるためでした。私は労働者生活をしながら暮らしたのです。それを皆さんは知りません。今、生きている人たちがこのことを涙で訴えなければ、日本は立つことができません。日本の人たちが、姿勢を正して立つことができない恥ずかしい歴史を抱き、痛哭とともに謝罪しなければならない日が残っているというのです。
6 日本統治時代の時、日本の友人もたくさんいました。その友人たちにも、分け隔てなく接してあげました。彼らは、難しい事情があると、私のところに相談に来ました。「韓国はどうなのか」と言いながら、大勢の友人たちが訪ねてきたのです。そのような日本の友人たちに負けたくないと思いました。彼らが一言話せば、私は二言話すのです。私は本当に早口です。日本人に話す時も、迅速に話します。素早く話せるように研究して訓練しておきました。今後、日本の青年たちまで自分の手で消化し、世界のために用いると誓ったのです。普通の日本人以上の常識をもって弁論ができる能力を備えなければならないと思って訓練しました。
7 昔は、言葉を速く話さず、ゆっくりと話しました。日本に来て、日本語を学びながら、一分間で誰がより多く話せるかを日本人と競争したりもしました。彼らに負ければ眠れませんでした。三十分ほど話をするのに、ゆっくり話せば千語しか話せないところを、ある時は倍以上速く話し二千語以上も話しました。ですから、訓練が必要なのです。
「原理」の究明と心身訓練
真のお父様は、日本留学時代から、原理の究明と体系化に没頭された。聖書全体を反復して読破し、新たに究明された原理と照らし合わせて検証された。下宿先の机の上には、いつも韓国語、日本語、英語の聖書が置かれていた。特に、韓国語と日本語の聖書には、文字を判別するのが難しいほど、傍線などが引かれていた。膨大な天倫の拫本真理を体系化する過程は、誰も道案内できない、ただ独り、孤独に歩む探究の道であった。そして、学業のほかにも、下層の生活から中流層と上流層の生活まで、等しく経験しながら、つらい修練をされた。将来、途方もない使命を完遂するため、いかなる環境においても限界線を突破し、目的地点まで進もうと、万事に対処できる力を蓄えられた。特に、家から送られてきた生活費は、貧しい人々のために使い、背負子(しょいこ)や荷車で物を運ぶ仕事などもされた。労働者の友人であると同時に、兄弟ともなり、一緒に血と汗を流しながら苦楽を共にした。「萬苦の勝者、栄高の王者」になることを、訓練を通して自ら体得されたのである。
3 私は人々に、自分がどのような思想をもっているのか、全く話しませんでした。友達も知りませんでした。私は、聖書を研究したり、宗教関係の書籍や、普通の人があまり読まない哲学書も読みました。早稲田大学の政経学部に通う友人がいたのですが、共産主義を勉強していたその友人と激論を交わしたことがあります。
また、路傍に立って大声で演説したこともあります。桜の花が満開で、多くの人が集まっている所でも演説をしました。その時代に対する批判をしたのです。「あすの青年は、これこれこういうようにしていかなければならない」と叫びました。その時に預言したことが、今になってそのまま的中しつつあります。その時、友人たちが見物に来て、私が演説しているのを見て仰天したのです。
9 ソウルの学校から推薦を受けて、早稲田大学附属高等工学校に入りました。学校の勉強の代わりに、教会関連の勉強をし、また、聖書にある未知の事実を突き止めるため、聖書を深く読みました。聖書の一つの章を中心として、五年間研究しても、解決できないことがあります。その一つの章が問題だというのです。それが根です。そのように、聖書の中で最も難しく、難解な問題をすべて明確に解かなければなりません。そのようにして解き明かしたのが「原理」のみ言です。天と共にこれを解き明かしたので、天が無関心ではいられないのです。天はすべて知っているというのです。
Wednesday Feb 08, 2023
真の父母経 第48話
Wednesday Feb 08, 2023
Wednesday Feb 08, 2023
真のお父様との出会い
聖主教の金聖道は、長男の鄭錫天(チョンソクチョン)に、「神様が任せてくださったこのみ旨を、私が成就できなければ、他の人を通してでも成し遂げる。その代身者も、私と同じように淫乱集団として誤解され、迫害を受け、獄中での苦しみを味わうだろう。そのような教会が現れれば、真実の教会であると思って、訪ねていきなさい」という遺言を残した。そのため、鄭錫天は、姉の鄭錫溫(チョンソゴン)と共に、母親の代でこのみ旨が成し遂げられなくても、次の代、あるいはその次の代になれば、必ず成し遂げられると信じ、南下したあと、家庭で熱心に礼拝を捧げながら、このみ旨が成し遂げられているところを探し回った。その頃、新聞に報道された梨花女子大学退学事件の記事を読み、鄭錫溫が娘と共に奨忠洞(チャンチュンドン)のソウル統一教会を訪ねるようになった。その後、真のお父様は、一九五五年十月四日、西大門刑務所から無罪で釈放されたのち、鄭錫天の消息を聞き、大邱の東城路(トンソンノ)にある鄭氏の家を自ら訪問された。これにより、のちに大母様と真のお母様が、真のお父様に出会うことになったのである。
10 真のお父様が西大門刑務所から出監され、復興会の激励のために大邱に来られた一九五五年十一月頃、春川にいらっしゃった大母様は、鄭錫天氏から手紙を受け取りました。聖主教とそっくりな教会がソウルにあるというのです。そして、真のお父様が今、大邱に来てみ言を語られるから、早く来て聞きなさいということでした。しかし、大母様は、事情があってすぐには大邱に行くことができず、翌月、十二月に行かれました。大母様が大邱に行くと、鄭錫天氏は、「ようやく主を探し出しました。腹中教で服を準備してお迎えしようとしていた方を、ようやく探し出したのです。その方が、大邱に来てみ言を語られました」と語り、その方が既にソウルに上京されたと伝えました。また、腹中教で教えていたことと全く同じことを教えていると話しました。大母様は、今からソウルに上京すれば、お慕いしていた方にお会いできるという思いでうれしくもありましたが、なぜかしきりに不足さばかりを感じたといいます。このように、心の準備をしていると、その日の晩、黄金の龍が一双、ソウルの方に向かってひれ伏している夢を見たのです。大母様は心の中で、「大邱に来る時は白い龍を見たが、大邱を発とうとする時には黄金の龍が一双現れるとは、本当に不思議だ」と思ったといいます。そして、すぐにソウルに上京し、青坡洞一街の旧本部教会で真のお父様にお会いして、挨拶をお捧げしました。驚くべきことにその方は、腹中教時代に二回夢でお会いした、正にその姿であり、夢にまで慕い求めた主の姿だったのです。大母様は、あまりにも畏れ多い気持ちになり、身の置き場がなかったといいます。
11 私(お母様)は、北朝鮮ではお父様にお会いすることができず、南に下ったのち、ソウルで初めてお会いしました。その時、私は満十三歳で、小学校を終えたあとでした。当時は、大母様と共に入教してから、いくらもたっていない時でした。その頃、私は江原道の春川に住んでおり、お父様はソウルにいらっしゃったため、互いに遠く離れていました。一九五六年三月、大母様に連れられて青坡洞教会に行き、初めてお父様にお会いしたのです。私は、お父様と出会ったあと、青坡洞教会に通いながら中学校を卒業し、高校に進学しました。
12 お父様が学生服を着た私(お母様)を御覧になったのちに、じっと目を閉じて感嘆されたことが、今も記憶にはっきりと残っています。すべては天が準備なさっていたと常に感じます。私の性格から見ても、生きてきた背景から見てもそうです。
イサクがアブラハムと、祭物を捧げるために山に登っていく時、アブラハムに「祭物はどこにあるのですか」と尋ねるのですが、アブラハムは「神様が既に準備されている」とだけ言いました。しかし、幼いイサクは、既にそこで状況判断をしていたのです。
それと同じように、私も、「私が何かをしなければならないようだ」という状況判断を、幼い頃からしていました。再臨主の相対として準備された自分であることを、それとなく感じていたように思います。
私は、既に私に定められた道を行かざるを得ないように生まれついたのです。他の女性であれば耐え難い立場でしたが、私はすべてのことに打ち勝ってきました。
13 皆さんは、お父様が聖婚を決心されて、初めて私(お母様)に出会った時、最初の会話がどのような内容だったのか、最も気になるでしょう。当時の食口たちはみな、お父様のことを慕っていましたが、同時に近寄り難く感じてもいました。しかし、私は近寄り難いとは思いませんでした。私が何を言っても怒ることがないといった印象で、まるで私の母方の祖父にお会いしているかのように感じました。
周辺の人たちの中には、恐らく「あの人(お母様)は、年は幼いがとても肝が据わっている」と感じていた人もいたと思います。私は当時、祖父のようにも感じ、父のようにも感じ、そして、夫のようにも感じ、兄のようにも感じ、息子のようにも感じたのです。
14 アダムとエバは、神様のみ言に背いて堕落しましたが、私(お母様)は、「神様が警告しなかったとしても、当時は神様と一問一答していた時代なので、本心の作用によってみ言を守れたのではないだろうか」と考えたこともあります。私は、神様の摂理歴史を思いながら成長してきました。私が満十七歳でお父様に出会った時、「神様が大変な苦労をして歩んでこられた蕩減復帰摂理歴史を、私の代で終わらせる。私が終わらせる」と自ら決心しました。私は、そのような内容を誰かに教育されたわけではありませんが、そのような決心をしたのです。そのように決心することができたのは、私が神様を知ったからです。
15 私(お母様)は、お父様に会った時、摂理歴史を知りました。「原理」を勉強したわけでもないのに、蕩減復帰摂理歴史が分かったのです。ですから、私は、「お父様が再臨主として使命を完成、完結したと宣言するためには、私の力が絶対的に必要だ。私は誰にも任せることなく、私自ら責任を果たす。私が生きている限り、このみ旨は発展し、成功する。サタンを必ず追い払う」と決心しました。このために、私は心と体をすべて捧げて犠牲になったのです。
韓国における信仰生活
真のお母様は、外祖母の趙元模女史と洪順愛大母様と共に、一九四八年に南下されたあと、ソウルと大邱、西帰浦、春川などの地を転々としながら、信仰生活をされた。大母様が、大邱で過ごしていたとき、見知らぬ一人の男性が真のお母様を見て、「天地において貴い娘」と証をするなど、真のお母様はどこに行っても注目の的であり、多くの霊的な証を受けられた。
16 聖主教の金聖道氏は、獄中の苦難に遭ったあとに他界し、残った家族が中心となって命脈を保ち、許浩彬氏を中心とした腹中教がそのあとを継ぎました。しかし、聖主教は、北朝鮮の共産党治下で定着することができなくなりました。特に、金聖道氏の長男の鄭錫天氏は、南に下り、鉱山事業をしばらくしたあと、大邱の東城路(トンソンノ)に家を構え、米と石油の商売を始めました。その大邱で、六・二五動乱を経る中、鄭氏の家族と大母様の一行が出会うことになったのです。大母様は、鄭錫天氏の家族と集まって話をし、「私たちが北朝鮮にいたとき、聖主教の新しい主(金聖道氏)と腹中教の許浩彬氏を通して多くの恵みを受け、大きな役事(働き)が起きました。再臨主は韓国に来られるでしょうから、この道を探し求めるため、集まって一生懸命に祈りましょうと、心を合わせました。鄭氏の姉である鄭錫溫(チョンソゴン)氏も、釜山から来るようにさせ、大母様は、大勢の食口たちと共に、熱心に祈りながら信仰生活をしていくようになりました。
17 大母様が大邱で小さな店を出していたある日、笠をかぶった通りすがりの道人が、小学生だった幼い私(お母様)を見て、驚くべき証をしました。「この娘は、十人の息子にも勝るので、しっかり育ててください。数えの十七歳になれば、年の差が大きい人と結婚する貴い娘です。陸海空の財産をもつ富者として暮らすでしょう」と言うのです。
大母様がその言葉を聞いて驚き、どういうことかと尋ねると、(その人は)「生まれる時から、そのような運命に生まれたのです」と言いました。大母様は、その言葉を聞いてから、真理のみ言を求めて、さらに一生懸命に信仰しなければならないと決心されました。そして、「再臨主に出会うまでは、世俗に染まらないよう、正しく育てなければならない」と考え、済州道に行って生食をするなど、厳しい霊的な鍛錬生活をされました。
その後、真のお父様に出会ってからは、私を統一教会の重要な働き手として育てようと思われました。そのように、一つのほこりも付かないようにされたのです。それほど、天のみ旨に捧げるための摂理には、極端で、かつ涙ぐましい事情が秘められていたのです。
18 趙元模おばあさんは、家庭礼拝を捧げながら聖別された生活を送り、私(お母様)に聖書の話もたくさん聞かせてくださいました。大母様は、聖書を熱心に奉読し、真心を尽くして信仰生活をされたため、私の周辺には常に聖書がありました。私は、自然に聖書を読むようになり、天の父母様が導かれる生活をしました。このような生活は、大邱に避難した時や動乱後、済州道と春川に転校してからも、そのまま続きました。大邱で教会学校に通う時は、学生代表として歌もよく歌いました。
19 大母様は、避難していた大邱で聖主教の金聖道氏の長男である鄭錫天氏に会ったのち、新しい主が韓国に来られるという信仰をもって祈りに励み、松葉を食べる生食をしながら暮らしました。
当時、小学生だった私(お母様)は、かわいらしくて勉強もできたので、周囲の人々に人気がありました。しかし、大母様は、私が注目の的になることを負担に思われました。私について「主の娘」という啓示や証がたくさんあったからです。結局、大母様は、再臨主に出会うため、一九五四年に済州島に渡っていかれました。私は、ひどい船酔いで苦労したことが思い出されます。
20 大母様の関心は、いつも「天の花嫁である」という祝祷を受けた私(お母様)を、世俗に染まらず純粋に成長させることに集中していました。「六・二五動乱」が終わった翌年、混乱した地を離れ、済州道で約九ヵ月間過ごしました。当時、済州道には、聖主教の金聖道おばあさんの次男、鄭ソクチン(鄭平和-チョンピョンファ)氏がいました。その人は、イエス様の苦難を体恤するために、茨の冠をかぶって十字架の苦痛を再現するほど、熱烈な信仰をもった人でした。
大母様は、その方と共に、より一層篤実な信仰生活に励みました。昼は畑を耕して生食をしながら、夜は祈りと精誠を尽くす日々でした。
Wednesday Feb 08, 2023
真の父母経 第47話
Wednesday Feb 08, 2023
Wednesday Feb 08, 2023
12 ソウルで母方の叔父を捜す時も天の保護がありました。やっとのことで三十八度線を越え、苦労の果てに以南に下っては来たものの、叔父を見つける見通しが立ちませんでした。祖母と大母様は、どう捜したらよいか分からない状況で、あちこちさまよいながら訪ね歩きました。とても難しいことでした。そうこうしているうちに叔父の友人に出会い、便りを知ることができました。天佑神助(天の神の助け)でした。
その時、叔父はソウル近郊の軍隊の幕舎に住んでいましたが、私たちが訪ねていくと、とても喜び、「いつも故郷にいる家族を思って心配していたところに、このように訪ねてきてくれたので、とてもうれしい」と言いました。それで、急いで家を一つ借りて暮らすようになったのですが、あとで分かったのは、そこが正に青坡洞の旧本部敎会からとても近い所だったということです。
13 私(お母様)が数えの八歳の時、「六・二五動乱」が勃発しました。それで、ソウルから避難することになったのですが、その時、叔父が私たちを助けてくれました。当時、陸軍本部の医務将校だった叔父が、漢江の橋が爆破されるという情報をあらかじめ入手したのです。漢江の橋の通過証を持っていた叔父は、軍用車に乗ってきて、祖母と私を乗せて南の方に避難することになりました。大母様は、ただひたすら主に出会うことだけを思い、絶えず精誠を尽くしながら過ごされたのですが、その避難の途に最初は同行できませんでした。
漢江の橋を渡る時、叔父は私たちに「橋を渡ったらすぐに降りなさい」と言いました。私たち一行は、叔父に言われるがまま、橋を渡るやいなや降りて身を伏せたのですが、その瞬間、漢江の橋が「ドカーン」と爆発して、崩壊したのです。その時、漢江の橋を渡っていた多くの軍人が川に落ちて亡くなりました。幸運にも私たち一行は、叔父の助けで命を取り留めることができたのです。
今も漢江の橋を渡る時は、あの日のことが思い出されて心が痛みます。私と同年代の韓国人のほとんどは、戦争と厳しい受難時代を経てきていますが、私は、すべてにおいて絶えず天の保護があり、無事に過ごすことができました。大母様は、避難生活で私が風邪をひいた時は、飴を口に入れて咳を抑え、けがをした時は、アロエに御飯を擦り潰して傷口に塗り、治療してくださいました。
14 私(お母様)たち一行は、一九五〇年六月二十八日の午前三時に漢江の人道橋が爆破されたのち、南の方に避難してきました。そして、全羅道にある軍人家族避難収容所に留まり、九・二八ソウル収復後に帰京し、空き家になった日本家屋で過ごしました。そのような中、中共軍が介入することによりソウルは再び共産軍の手中に落ちるようになりました。そして、一九五一年の一・四後退の時、再び避難の途に就いたのです。軍人の家族は、他の避難民より先に特別列車に乗ることができ、そのお陰で、ソウルを発ち、大邱に降りてきました。その時、陸軍本部が大邱に移され、そこに勤務していた叔父の家の近くに住むことになりました。私は、このような避難路程において、いつでも神様が共にいらっしゃることを実感しました。神様は、北朝鮮から韓国に来るときも、韓国での避難の渦中でも、常に保護してくださったのです。
第二節 学生時代と真のお父様との出会い
天の導きのとおりに生きてきた学生時代
真のお母様は、ソウルの孝昌小学校をはじめ、大邱、西帰浦(ソグィボ)、春川などの地を経ながら学業を続けられた。特に、春川の鳳儀(ボンウィ)小学校の生活記録簿には、「非常にしとやか、親切で、どこか高尚な態度も見られ、級友の中で最も女性らしい」と記録されており、この学校を卒業する時には優等賞を受賞された。
その後、真のお母様は、一九五六年四月から一九五九年三月まで、聖正(ソンヂョン)女子中学に通われた。真の父母様は、善正中学校に校名が変わったこの学校を、一九八七年四月に引き継がれている。また、真のお母様は、一九五九年三月、現在のカトリック大学看護学部の前身であるソウル聖ヨセフ看護学校に入学された。
1 私(お母様)は、南に渡ったあと、ソウルの孝昌洞(ヒョチャンドン)に部屋を借りて過ごし、孝昌小学校に入学しました。そして、大邱と済州道に移ってからも、勉強を続けました。大母様が、私をより清く育てようという意図から、一九五四年に済州道に渡ったあとは、西帰浦の新孝(シニョ)小学校、すなわち今日の孝敦(ヒョドン)小学校の五学年に転校しました。その後、江原道・春川の補給廠長(しょうちょう)として発令を受けた母方の叔父が、手紙を二度も送ってきて春川に来るようにと言うので、そこに行くことになりました。
そして、春川・孝子洞(ヒョヂャドン)の叔父の家と近い薬司洞(ヤクサドン)で部屋を借りて暮らしながら、一九五五年二月、春川の鳳儀小学校に転校し、すぐに六学年に進級したあと、翌年の一九五六年三月二日に、第十一期として卒業しました。その後、叔父の助けで一九五六年四月十日、ソウルの鍾路区(チョンノグ)社稷洞(サヂクトン)にある聖正女子中学校に入学して、一九五九年三月二十五日、第三期として卒業しました。この期間は、叔父の家族と共に、敦岩洞(トナムドン)と新堂洞(シンダンドン)で生活しました。いとこと共に生活しながら、社稷洞に通学したのです。
2 私(お母様)が中学生の時、学校で運営委員長をした記憶があるのですが、その時、全校生徒のいる前で壇上に上がり、決定事項を話さなければなりませんでした。その話を終えて下りていくと、国語の先生をはじめ幾人かの先生が、「いやあ!鶴子は大したものだ!」と言うのです。いつも周囲の人々には、静かでおとなしい学生という印象を与え、気安く近づけない感じを与えていたのですが、そのように発表するので、驚かれたのです。しかし、私はただ説明しただけなのです。それが、私が大勢の人々の前で話をした初めての経験でした。
3 最近、私(お母様)を訪ねてきた一人の友人がいます。同じ地域に住んでいて、一緒に中学校に通ったのですが、彼女のお父さんは、私にとてもよくしてくれました。また、一年上の先輩が私を見て、端正できれいだと言って、多くの関心をもってくれました。その先輩は、カナダに住みながら、たびたび私に手紙を送ってくれたり、韓国に来ると会ったりもしました。いつだったか、私が通っていた学校に行ってみると、当時の国語の先生がまだいらっしゃいました。その国語の先生のお顔が思い出されます。また、数学の先生も、私にとてもよくしてくださいました。
4 私(お母様)が高校に進学する頃は、戦争が終わったあとで、道路という道路が負傷者であふれていました。戦争孤児や子供たちは、飢餓と疾病でとても苦しんでいました。病気になったとしても、すぐに治療を受けられる人はまれでした。彼らは、とてもかわいそうでした。彼らの痛みを治癒してあげたいと思い、看護学校に入ったのです。彼らを助けてあげられる道を探すためでした。
5 私(お母様)は、どの学校に行っても先生から愛され、よく面倒を見てもらいました。まじめに見えたからか、先生たちがよく面倒を見てくれたのです。また、先生たちから「君は今どきの学生とは違うね。少し外に出て歩いてみてはどうだ」と言われたりもしました。ただ、悩みが多いなどの理由からそのようにしていたのではなく、静かに座っているのが好きだったのです。
思春期や、成長期にも、私は生きることに対する悩みはもちませんでした。母方の祖母や大母様が、常に天に侍って生きる信仰を植えつけてくださったからです。大母様の厳格な指導のもとで、様々な本を熟読しながら過ごしました。そうして、気の合う一人、二人の友人と一緒に果物の木を育てて、田園生活をしながら暮らしたいとも考えていました。友人たちとの会話では、「あなたはまじめな人だけど、お嫁には先に行くでしょう」と言われたこともありました。
聖婚したのちは、過去の学生時代のことを考えることがなかったので、特別に思い出せることがありません。また、考える暇がありませんでした。最近になって、時折訪ねてくる友人たちがいて、その時の記憶が少しよみがえったりするのす。
6 私(お母様)は、平安で静かな雰囲気の中で読書や音楽を楽しむ学生として知られていました。また、かなり知的なイメージの学生としても知られていました。極度に感情的でもなく、極度に怒りを表に出すこともなかったのですが、初めて会う人には、むしろ少し冷たい印象まで与えていたと思います。
私は寄宿舎で、修道女のような生活をしました。さながら温室の中に咲く一輪の花のように、完全に外の環境から自分自身を隔離していたのです。今になって初めて、それがいつか主にお会いして、主の花嫁になる人として聖別するための天の準備過程だったことを知りました。
7 私(お母様)は、一九六〇年まで、衣服で包むように、自分自身をほとんど現さない生活をしました。天が私を世の中と妥協することのない生活へと導かれるので、簡素な生活環境の中で暮らしたのです。神様は、私がサタン世界の空気を吸うことも嫌うほど徹底的に保護してくださり、そのような環境の中で、私は、私自身の考えをすべてなくし、天が導く生活だけをしました。
そして、常に日記を書きましたが、不思議なことに、何げなく書き綴っていたことが、「私たちの願いは統一」など、ほとんどがそのような言葉だったのです。後日、お父様のみ言を聞いてから、そのようなことが意味のあるものとして思い出されました。
8 お母様は、壇上でもとても有名です。壇上で初めて歌を歌ったのが、高校二年生の時です。歌がうまいことでとても有名になりました。誰を前にしても、壇上に上がればチャンピオンのように堂々としていました。
9 お母様には一つも欠点がありません。とても良いお母様です。それは、ただ自然にそうなったわけではありません。男性たちに対するとき、お父様と比較して、「お父様がこうだから、あの男性たちもこうだろう」と考えるのです。そのたびに心が広くなるので、良く見えるというのです。お母様の目と手を見てください。どれだけ鋭敏か分かりません。一言語ると、主語がどうなっていて、目的語がどうなっていると指摘するのです。鋭敏なのですが、よく分析するというのです。十代の時、友人たちから印象的な女性、記憶に残る女性と思われたという話を聞きましたが、鋭敏だからそうなのです。ですから、行き来する道も、何の考えもなしには通りません。自分の心が向く所だけを通るのです。
Wednesday Feb 08, 2023
真の父母経 第46話
Wednesday Feb 08, 2023
Wednesday Feb 08, 2023
第四章 真のお母様の摂理的準備時代
第一節 信仰的な環境の中で過ごした幼少時代
精誠と祝福の信仰生活
真のお母様は、洪順愛(ホンスネ)大母様が再臨主を迎えるための信仰生活に専念するにつれ、幼少時代を主に母の実家で過ごされた。そうして、外祖母である趙元模(チョ・ウォンモ)女史と大母様を通して、信仰の精髄を習得されたのである。大母様は、真のお母様が以北(現在の北朝鮮)にいらっしゃった六歳の時まで、サタンがあらゆる方法を用いて危害を加えようと付いて回るのを、夢の啓示を通してたびたび目撃し、乳母のような立場で、精誠を尽くして真のお母様を養育した。したがって、真のお母様は、天の新婦としてお立ちになるまで、大母様と共に苦難の道を歩まざるを得なかったのである。
1 私(お母様)が生まれてから一ヵ月ほどたって、大母様の夢に「新しい主」、金聖道おばあさんが白い雲に乗り、白い服を着て現れました。そして、「順愛、その赤ん坊のために心配しただろう。心配するな。この赤ん坊は主の娘であり、あなたは乳母と同じである。お乳だけしっかり飲ませて養育しなさい」と語られました。大母様は、その命令を心にしっかりと刻んで生きていきました。私は幼少の時、普通の赤ん坊とは違いました。一歳になる前に歩き、言葉まで話しました。一言一言、非常にはっきりと話したのです。ですから、母方の祖母も、「この子はやはり違う」と言ったといいます。そのように賢く、少しも欠けた所がなかったというのです。
2 母方の祖母の趙元模おばあさんと洪順愛大母様は、再び来られる主を迎えるための準備と信仰で一貫した生涯を送られました。世の中と妥協されず、安逸な家庭環境の枠にはまった信仰ではなく、二十四時間すべてを天のみ前に奉仕し、主を迎えるための準備に、この上ない精誠を尽くされました。
大母様は、そのような信仰生活を送ったので、ほとんど家にいらっしゃらず、私(お母様)は幼い頃、主に祖母と一緒に多くの時間を過ごしました。それで、祖母を通して、自然に、かつ当然のように信仰を受け入れるようになったのです。
3 母方の祖母は、私(お母様)に対する天のみ旨を御存じで、私が世の中に染まらず、純粋に育って天のみ前に用いられ得る貴い娘として成長できるよう、多くの精誠を注がれました。祖母は、いつも私に「お前の父親は天のお父様だ」と言われました。ですから、父親と言えば、肉身の父のことを思わず、いつも天のお父様のことを思ったので、神様のことを思うと、いつも心が温かくなるように感じました。また、外的に見ればすぐには理解し難い環境で育ちましたが、特別な不平不満はありませんでした。いつも何かが私のことを包んでくれているような感じがあり、常にゆとりのある心で過ごしていました。
大母様や祖母にも、肉身の父親に関してや、お二人がどうしてこのような生活をしているのかなどといった質問は、全くしませんでした。肉身の父母に対する恨みや不満は、私の人生には全くなかったのです。
4 私(お母様)は、六歳(数え)の時まで平安南道の安州で過ごしましたが、その六年間、大母様の夢にはいつもサタンが現れ、私の命を奪おうとして付きまといました。ですから、大母様は、サタンと六年間、闘い続けられたのです。それでも深い意味は分からないまま、「なぜサタンがこれほどまでに追い回しながら、この子の命を奪おうとするのだろうか」と、ただ不思議に思っていたそうです。
5 大母様は、新イエス教会と聖主教を訪ね回り、最後は腹中教で、再臨主が来られることを待ち望みながら祈りに没頭しました。当時、私(お母様)は数えの四歳ぐらいでしたが、私も大母様に従って敬拝を捧げるなど、精誠を一緒に捧げました。朝と晩には公式的な敬拝の時間があり、各自、黙想祈祷を捧げつつ、たびたび敬拝を捧げました。以南(現在の大韓民国)に下ってきた数えの六歳まで、その生活は変わりませんでした。
6 私(お母様)の幼少時代は、主の花嫁になる者として聖別するための期間だったと思います。本来、私の性格は外向的ではなく、世の中から離れて、自分自身の世界を楽しむほうでした。真のお父様も、趙元模おばあさんや大母様について、天情の道理を私に引き継がせるために骨身を削るのも意に介さず、一片丹心、神様のみ前に絶対服従し、絶対従順する道を行ったと語られたことがあります。そして、ありとあらゆる誘惑の環境に触れさせないようにするため、天が私を世の中から離して聖別生活をさせたのであると語られました。
南下後、戦争と受難を克服
外祖母の趙元模女史と洪順愛大母様と真のお母様は、腹中教に行き来された一九四八年、北朝鮮の共産党当局の宗教弾圧により、十一日間、共に収監された。このように、共産党が次第に猛威を振るうようになるや、趙元模女史は、「以南に行こう」と提案した。その頃、「以南に行きなさい」という天の啓示があった。以南は、三人にとって非常に不慣れな場所だったが、ちょうど、鉄山・聖主教の金聖道の長男の鄭錫天(チョンソクチョン)が先に南に行ったという話を聞いたため、彼を訪ねていこうと決心した。また、大母様の弟の洪順貞(ホンスンヂョン)は、日本留学中、戦時状況に伴って中途帰国することになり、陸軍士官学校の薬剤官教育を受けたのち、中尉として任官し、軍に服務中であった。その弟に会うことも兼ねて、三人は一九四八年、真夜中に出発し、死線を越えて、千辛万苦の末、南に渡ったのである。
7 私(お母様)が安州に住んでいた時、大母様は信仰的惰熱ゆえに、ほとんど家を空けていました。そのような状況だったので、私は常に、母方の家族たちが面倒を見てくれる中で育ちました。キリスト教を信仰していた父は、共産党当局の脅威を避けて、一九四六年、やむなく先に南へと下りました。その頃、父が家に訪ねてきて、大母様に「一緒に行こう」と言ったことをかすかに覚えています。
8 共産治下で信仰をもつことはとても困難でした。趙元模おばあさんは、韓国にいる息子の洪順貞氏に会うため、大母様と私(お母様)と共に南下の途に就きました。私たち三代の母子は、南下する途中でも、主に向かって敬拝を捧げました。洪唯一おじいさんは、平壌がエデン宮であるという啓示を受けて、これを守るために残られ、それ以降、会うことはできませんでした。
9 私(お母様)が南に下る道は容易ではありませんでした。すき返した田畑に沿って歩いていこうとするので、足を取られ、寒さに震えながら南へ南へと移動しました。私たち一行が、やっとのことで三十八度線の近くに到着した時のことです。物々しく警備に就いていた北の人民軍に捕まってしまったのです。彼らは、私たちを空き家の物置に閉じ込めました。そこには、既に捕まった人たちがいました。人民軍は、男性には乱暴に対しましたが、女性と子供にはきつく接することはありませんでした。
大人たちは、寒さに震えながら歩哨(ほしょう)に立っている人民軍に食べ物を持っていってあげなさいと、私を使いに行かせました。私は震える心を抑え、笑顔で食べ物を人民軍に渡しました。何度かそのようにしたところ、人民軍の人たちの心がとても穏やかになりました。ある日の夜、人民軍が、「故郷に帰りなさい」と言って私たちを解放してくれました。生死の岐路において、温かい愛の力が生命の道へと導いてくれたのです。
10 母方の祖母は、私(お母様)といつも一緒にいらっしゃったのですが、祖母と通りを歩くと、人々が私のことを「とてもかわいい」と言って誰もがかわいがってくれました。それで、当時は、人々があまり出歩くことができない時だったのですが、私はあちらこちら歩き回りながら、人のお使いもたくさんしてあげ、多くの愛を受けました。韓国に下ってくる過程でも、子供や女性たちの中に幼い私がいたので、無事に南に渡ってくることができたのです。
やっとのことで三十八度線を越えたばかりの時でした。韓国の軍人たちが人の気配に気づき、こちらに銃口を向けて撃とうとした瞬間、私が歌を歌ったのです。すると、軍人たちはその歌声を聞いて銃口を下げました。そして、私たちを温かく迎えてくれたのです。「こんなにかわいい娘さんを連れてくるとは、大変な苦労だったでしょう」と言って、南側へと導いてくれました。
11 大母様が腹中教に通っていた頃に、母方の叔父である洪順貞氏が日本留学から戻り、南に下って軍に入隊しました。叔父は知識人で、とてもおしゃれな方でした。当時、知識人たちの間では、共産主義理論に同調する人がたくさんいました。叔父もまた共産主義思想が良いと思っていましたが、理論とは違う北朝鮮の共産体制を見て失望しました。理論と矛盾する体制を見て、親がいる北には行かず、南に行って軍に入隊したのです。
(その後、)母方の祖母が、軍隊にいる叔父にどうしても会いたいというので、大母様と私(お母様)と一緒に、叔父に会うために南下したのです。その時からソウルにとどまり続けることになりました。
南下した当初はソウルの孝昌洞(ヒョチャンドン)にいました。そこで小学校にも入学しました。その後、私は行く先々で羨望の的になり、周囲の大勢の人たちから愛されて育ちました。もし私が早く結婚しなければ、この世に奪われる可能性が高かったので、幼い年で聖婚させて、天が先に私を抱かれたのではないかと思いました。
Wednesday Feb 08, 2023
真の父母経 第42話
Wednesday Feb 08, 2023
Wednesday Feb 08, 2023
4 五山普通学校では、日本語を使ってはいけませんでした。皆さんも知っているように独立万歳運動の三十三人のうちの一人で、日本と怨讐の立場で闘争した代表的な人物である李昇薰(イスンフン)氏が建てた学校であり、そのような学校の伝統があるので、日本語を使わせなかったのです。
ところが問題は、私たちが敵を知らなければいけないということでした。敵について詳しく知らなければ、敵と闘っても対策を立てられないという思いがしました。それで、定州普通学校の四学年に、編入試験を受けて入りました。そこに入ってから、日本語が流暢にできるようになって卒業したのです。そのような過程を経ながら、信仰の道や人生の根本など、難しい問題について考えるようになりました。
5 定州普通学校に編入し、学校で日本語を習いました。片仮名、平仮名を勉強したのが、ついきのうのことのようです。それを一晩ですべて覚えてしまいました。学校に行ってみると、三年生、四年生、五年生の子供たちが日本語で話していました。
その当時の私は、年がいってから学校に入ったので、背が高かったのです。それなのに、日本語が一言も分からないのですから、他の人たちが踊っているその真ん中で、何もできずに一人でただ見物ばかりしているのに、恥ずかしいことさえ分かっていないというような状況でした。その時の気まずさは、感じたことのない人には分からないでしょう。ですから、稲妻のように、一年生、二年生、三年生、四年生のすべての本を半月ですべて覚えてしまいました。そうすると、聞き取れるようになったのです。
6 私は、頭が悪くないので、どんな勉強をしても世界的な学者になっただろうと思います。そのような頭をもったからといって、私が勉強して世界に名だたる学者になって何をするのか、そのような問題を深刻に考えました。
そのような学者になったところで、黒板の前でチョークの粉を吸い込み、一生の間、腰が曲がるまでひたすら研究ばかりして死ぬのです。そのようにしてすべての根本問題を解決できるのかといえば、それはできないというのです。
それならば、人間として行くべき道のうち、どんな道が最も困難で大変な道かを考えました。歩むのが大変といわれる道を私は行きたかったのです。人間として今まで歴史時代において、過去、現在、未来に誰もできなかったこと、できないことを、私が一度しなければならないと考えました。
7 私が勉強する時は、稲妻のように勉強しました。数年かけてすることを、瞬く間にやってのけました。私の故郷は、定州から北東方向に約八キロメートルの距離にある農村です。灯蓋(とうがい)(灯火用の油皿を載せるもの)に明かりをともして勉強したのが、ついきのうのことのようです。
午前二時、三時まで夜を明かしながら勉強していると、父や母が、「おい!もう寝なさい。体をあまり無理させてはいけない」と言いました。いつもそうでした。その時、私が常に友としたのが夜の虫たちでした。夏は夜の虫を友としたのです。そのように座って、午前二時、三時まで勉強しました。田舎の夜は本当に静かです。昆虫たちが月夜に鳴く声は、とても神秘的なのです。
ソウル留学生活
真のお父様は、定州公立普通学校を卒業され、一九三八年四月十二日から一九四一年三月八日まで、ソウル黒石洞の京城商工実務学校に通われた。真のお父様は、誰よりも早く登校され、教室の掃除を一手に引き受けてされるときも多かった。そのため、同級生たちも気兼ねし、むやみに接することができなかった。か弱い学生は保護してあげ、力があっておごりたかぶる者たちとは正面から向き合い、是非を正された。闊達であられたが、普段は寡黙で真面目だった。天道を明らかにし、人格の完成を目指して、常に沈黙された。真のお父様の学籍記録には、「明朗で活発、飾り立てることなく真面目、そして、強靭、健全であり、自ら率先してあらゆることに熱心に取り組む」、「身体が健康で、出席状況は良好、特にサッカーを好む」と評価されている。
8 謙遜な人は上がっていくのです。学校の友達の中でも、自分の位置や境遇も分からず、拳を振るう学生たちがいます。しかし、謙遜な人、自分に実力があってもおごり高ぶらない学生もいます。そのような人には、何かしら威圧感があります。主管性が宿っているのです。近づきたいと思うのですが、彼がじっとしていても、なぜか近寄り難いのです。皆さんの友達の中にも、そのような人がいるというのです。
私は学生時代、あまり話をしませんでした。学校に行っても絶対に饒舌にはなりませんでした。一日中、話をしない日もありました。ですから、同級生たちは、私のことをとても近寄り難く思っていました。学校の先生よりも近寄り難かったのです。かといって、私が彼らを恐喝したり、脅迫したのでもなく、たたいたりしたのでもありません。
それでも、彼らは私に対して、むやみに接することはできませんでした。
また、彼らは、悩みがあると、私のところに来て相談したのです。
9 学校の友達は、私のことを恐れていました。同じクラスの友達とは、会えば遊んだりしながら過ごしましたが、私のことを恐れたというのです。私は、余計なことは話しませんでした。困っている友達がいれば、私は人知れず、その友達を助けてあげたことがたくさんありました。
また、私は運動選手でした。相撲選手であり、サッカー選手でした。鉄棒もできました。体は大柄ですが、敏捷でした。黒石洞の我が物顔でいる人たちと、一週間のうちに全員会ってみました。そこで誰が親分なのかを調べて、彼らを私が教育すると考えながら暮らしたのです。
10 私の中学校時代は、一人で掃除をすべてやりました。学校を愛することにおいては、私が先頭に立ちたいという気持ちがあったので、全校生徒に代わって私が掃除しようと考えたのです。そのような時は、人が手伝ってくれることを嫌いました。一人できれいにしようとしたのです。それで、人がした所をまたやり直すことになります。そのように何度かしているうちに、友達が「お前が一人でやれ」と言うのです。それで自然に一人で掃除をするようになりました。
11 私は、一度つかんだら放しません。若い時もそうでした。村中から見えるものでも、私がすべて検証するまでは信じませんでした。学校で数学の先生が公式を教えてくれると、それを中心としてその先生を追い込んだ人です。誰がこのような公式をつくったのかというのです。ですから、暴いて、かき分けて、掘ってはまた掘り返しました。適当にではありません。何であっても、適当にしては通じないのです。
12 私が学校に通っていた時は、試験問題に何が出るのか分かりました。学校の先生が講義をする時、どれほど深刻かを見ます。自分の気に入った学生の目をまっすぐに見ながら語るのです。その学生が隅にいれば、隅のほうを見ます。「誰を見るだろうか」と思いながら、学校の先生に注目するのです。「先生が勉強のできる学生を見て強調しているのを見ると、これは間違いなく試験問題に出る」と思えば、A、B、Cと印を付けておきます。
一冊の本の中で十ヵ所だけ印を付けたあと、それだけ勉強しておけば落第しません。その周辺まで見ておくので、答えを書けば、三〇パーセントから四〇パーセントは当てられます。講義をよく聴いたので、そのようにできるのです。
自炊生活と涙の祈祷
真のお父様は、ソウルで過ごされた学生時代の三年間、自炊しながらの下宿生活を通して、苦行に近い生活訓練と多様な経験を積みながら、学業と信仰に精進された。当初、しばらくの間はソウルの銅雀区(トンヂャクク)鷺梁津(ノリャンヂン)から通学し、主に黒石洞で自炊しながら下宿をされた。特に、故郷の家からは十分な学費が送られてきたが、井戸のつるべの鎖が手に張り付くほどの酷寒の中でも、火の気のない部屋で過ごし、冷たい水をくみ上げて御飯を作るなどの自炊生活を通して、貧しい中で生きていく人々の生活を直接、体験された。この時から、昼は常に断食をされた。常に一食一品だった。空腹の時こそ、神様の心情に近く接することができるからである。そして、一日に十二時間以上、祈りに没頭されることもあった。そのため、膝と肘にたこができるほどだった。特に、学校の近くの松林、そして、教会の裏側にある瑞達山(ソダルサン)の岩の丘と、山の向こう側、銅雀洞の麓で、深刻かつ凄絶な談判祈祷もされた。そのような中で、神様の心情を体恤しながら心情的一体を成し遂げられたのである。
13 ソウルに来て自炊生活をしていた頃、冬はとても寒かったのです。平均気温が零下一七度から二一度ほどでした。若かった頃は、それくらい寒かったのです。真冬に火の気のない部屋で暮らし、冷たい水で御飯を炊くのです。
そして、今も私が忘れられないことがあります。山の尾根に掘ってある深さが十尋(約十八メートル)以上の井戸があったのですが、この井戸水は本当に良いものでした。つるべは、緒が切れるので、鎖でつないでいます。それをつかむとき、手が張り付いて「ふうふう」と息を掛けたことが、ついきのうのことのようです。そのような生活をして、人が生きていくことを、身をもって知ったのです。
14 私は、女性がいなくても一人で生きようと、あらゆることを研究しました。一生、独身生活をするとしても、このみ旨を私の一生の事業とすると定めて出発した人なので、できないことがありません。私に必要なものは、誰の世話にもならずに、自らの手で解決するというのです。私は、食事を作るのも上手です。包丁さばきを見れば、素人かどうか、すべて分かります。また、おかずを作るのを見れば、腕前が良いか悪いかすぐに分かるのです。私は七年以上、自炊生活をしました。
私には、たくさんのおかずは必要ありません。地方に行くと、おかずをたくさんお膳に並べますが、それは好きではありません。一種類でも口に合えばよいのです。私は、一つのことに向き合えば、その終わりまで見届けてしまう気質です。おかずもそうです。いくらおかずが多くても、箸は付けてみますが、食べるおかずは一種類だけです。一種類だけ買い、料理して食べるのです。
Tuesday Feb 07, 2023
真の父母経 第43話
Tuesday Feb 07, 2023
Tuesday Feb 07, 2023
15 統一教会の歴史を訪ねていく人は、黒石洞を訪ねざるを得ません。黒石洞が白石洞(ペクソクドン)になるのです。私が昔、暮らしていた暗い谷間のような所が、世界万民に明るい日の光を照らしてくれる伝統の基地にならなければなりません。ノドゥル(漢江の南にある地域の昔の地名)もそこにあります。しかし、昔の姿が今は一つもありません。
昔、その時代に黒石洞で暮らしていた人には会えませんが、子孫たちが大勢います。その父母と関わりのある私が、彼らと会えば、どれほど感激的でしょうか。そうなれば、そこから歴史が復活します。昔のことを語りながら、歴史を復活させて、時代を花咲かせるのです。
16 私が今でも忘れられないことがあります。私が黒石洞に住んでいた頃、上道洞(サンドドン)に越えていく所に松の木が生い茂っていて、その向こうには草花を育てている日本家屋がありました。そちらの方に回っていくと田んぼがあり、その向こうに村があるのですが、そこに開拓伝道のために通った家がありました。
ある時、見知らぬ人が病で道に倒れていました。それは、新学期が始まり、学費を持ってきた時だったので、三月末頃でした。よくよく聞くと、その人は息子のいないかわいそうな人でした。「天安(チョナン)に自分の娘の家がある」と言うので、私が学費をすべてはたいて、旅費と病気の治療費まですべて出してあげました。その時、私の足が離れませんでした。背を向けられなかったのです。そのようなことを見ると、その人の先祖は悪くない先祖なのです。
ですから、私が財布にあった、本を買うお金と下宿代をすべて持たせて行かせたのです。そこから三キロメートルほど背負っていったことが、ついきのうのこどのように思い出されます。
そのような人と天が会わせてくださったのなら、天が「同情してあげなさい」と言われる以上に同情してあげたからといって、絶対に損にはなりません。天が十くらい助けてあげなさいと言うことに、百くらい助けてあげるようになれば、九十は、私が天のみ前に功績を積んだものとして扱われるのです。天が十くらい助けることを望んでいるのに、五だけ助けてあげるのではいけません。天が十くらい助けてあげることを望むときは、十以上助けてあげなければならないのであって、十未満ならば、皆さんの恩恵の道が塞がってしまうのです。それが原則です。公式がそのようになっています。
17 私は、おなかがすかない日がありませんでした。お金がないからではありません。四月初旬に家から学費が送られてくると、五月にはすべて使ってしまいます。すべてかわいそうな人に分けてあげるのです。そのようなことが多かったというのです。そうして何をするのかというと、新聞配達をしたり、物を売ったり、何でもするのです。蕩減の道を行かなければなりません。また、平安道の故郷を離れてソウルにやって来て、言葉にも慣れず、風習にも慣れず、最初の夏休みがどれほど待ち遠しかったか分かりません。
母が私のことをどれほど愛したか分かりません。み旨を知ってからは、その母をどのようにして振り切るかというのです。また、妹たちはお父様のことを愛しています。それをどのようにして引き離すかというのです。ですから、その父や母が現在の立場で望む道とは、反対の行動を取らなければなりません。それで、夏休みに入った日、すべての学生たちが自分の故郷に帰るといって町が慌ただしく、学校が慌ただしくなっているにもかかわらず、一人、部屋に鍵をかけ、「私は、今からこの部屋で、誰々や誰々が帰ってくるまで、私のすべきことをするのだ」と言って、休みの期間を過ごしたのです。
18 すべての人は、宇宙を主管することを願っていますが、自己主管もできていません。それで、お父様は、「宇宙主管を願う前に自己主管を完成せよ」と言ったのです。まず、食欲から主管しなければなりません。食欲は、断食によって克服できます。一週間は問題ではありません。普通の人であれば死地を越えてしまう、そのような境地の訓練を受けなければなりません。
空腹を克服しなければならないのです。日本統治下で自炊生活をしていたとき、米が貴重だったので、友人たちは先を争って御飯をもっと食べようとしていましたが、お父様は、そのようにしませんでした。さじと箸を先に置く人が、あとに置く人の主人になります。原則がそのようになっています。お父様の生活は、毎日が新しいのです。きょうよりあすが新しくなければなりません。天は新しいことを願っていると信じて、実践してきたのです。そのようにしたところ、誰も成し遂げられない世界的な版図を備えるようになったのです。
19 私は、物心がつく頃から昼食を食べませんでした。国もない立場で、三食欠かさず食べる資格があるかと思ったからです。御飯が慕わしくなる生活を本当にたくさんしました。御飯を慕うより、民族を慕う道を行きました。「御飯より民族と国をもっと愛さなければならない」と考え、故郷を離れてソウルにいる時は昼食を食べなかったのです。そのような生活をしました。ポケットにお金がなかったわけではありません。お金があれば、貧しい人たちに分けてあげたのです。
20 私は、一日に四時間以上眠りません。それが習慣になりました。忙しい時は、一日一時間だけでも構いません。眠ることにおいて、人類歴史の中で一番短く眠る代表者が私だと思います。一生をそのように暮らしてきました。また、私ほどひもじい思いをした人はいないはずです。御飯がないわけではありません。おなかをすかせた人々の、救いの手を願い、解放を願う叫び声が聞こえてくるので、御飯を食べることができないのです。
三十歳までは、昼食を抜いて二食だけ食べる二食主義でした。一日に御飯を五杯食べても軽く消化して余りある壮健な体格の人が、二杯も食べずに青春を過ごしました。御飯に対する慕わしさよりも、愛することを優先させる訓練をして、神様を愛し、国を愛する生活の基準を立てようと努力してきたのです。
21 私は、どこに行っても涙を流しながら祈る立場にいたので、その事情が何か知らないのに、同情する人たちがたくさんいました。また、皆さんが私に接するように、行く先々でそのように接してくれる人たちがたくさんいました。下宿先の主人のおばさんは、祝祭日のような時に夜通し準備した料理、あるいは夫のために準備した料理を、私がいる部屋に持ってこなければ自分の部屋に戻れないということもありました。何もせずに自分の部屋に戻ると、突然目の前が真っ暗になるというのです。自分たちも、どういうことか分からないのです。神様は、女性たちの精誠を込めたその料理までも、私に食べさせるために、彼女たちの心を動かしたのです。そのような役事(働き)がたくさんありました。
ですから、私は、神様の愛を夢にも忘れたことがありません。千回、万回、この身が砕け、骨が粉と化すことがあったとしても、忘れることができません。過ぎ去った歴史過程において、神様は、私がいかなる場にいようと共にいてくださり、私のためにそれほどまでに苦労してくださったのです。
22 祈るときは、背が曲がり、膝にたこができるほど祈らなければなりません。私の膝には、祈りながらできた昔のたこが今でも残っています。祈りは床の上でしなければなりません。涙も流さなければならないというのです。私は、祈りながら流した涙の跡が乾かないほど、涙を流す境地を何度も越えた人です。流れていく男ではありません。
23 復帰の道は、たやすいものではありません。私は皆さんのように食べて、寝て、気楽でいたでしょうか。「原理」自体が、どれほど深刻でしょうか。私は、祈るために膝にたこができました。どれほど多くの涙を流したか分かりません。人生の行く道を解決できずに死んでいく人々が大勢いることを知り、それを解決するために、常に目を赤くして祈りました。祈りながらあまりにも涙を流しすぎて、日の光も見られないほどになることもありました。そのようなことをしながら、この道を尋ねてきたのです。
24 皆さんは、毎日のように祈らなければなりません。祈祷生活においても、一日の十分の一を捧げなければならないのです。(一日の)十分の一に当たる二時間二十四分は、毎日祈らなければなりません。私が最も長く祈った時は、身を伏せて十七時間、十八時間、普通でも十二時間祈りました。昼食は食べません。そうして痛哭するのです。そのようにしなければ、生きていくことができません。四方が完全に塞がれて出口がないときは、祈って初めて針の穴ほどのものが見えるのです。
そのような試練の過程を経て「原理」を探し出しました。皆さんは「原理」の本を握りしめて泣いたことがありますか。一生は大切なものです。一度過ぎ去れば二度とやって来ません。結婚して息子、娘を生み、荷物を背負って、リヤカーを引いてあくせくしているうちに、そのまま終わってしまうのです。深刻です。そのように生きていては、善の世界はやって来ません。