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Thursday Jun 29, 2023
真の父母経 第185話
Thursday Jun 29, 2023
Thursday Jun 29, 2023
平壌で四十日間、弟子を収拾
興南監獄を出られた真のお父様は、十日後に平壌に到着され、多くの人々が避難の途に就く状況でも、四十日間、散り散りになった弟子たちを一人一人捜し求められた。故郷の定州はそれほど遠くなかったが、父母や兄弟に会いに行かれなかったのは、アベルよりもカインを先に愛さなければならないという、蕩減復帰の道を行かなければならなかったからである。そして、金元弼と朴正華を連れ、南下の途に就いて、ようやく新しい出発をされたのである。
8 考えただけでも身震いをするほどの平壌でしたが、興南の監獄から出てきて、平壌を訪ねていきました。そこに食口たちがいたからです。世の中の人であれば、当然、自分の故郷を訪ねていくでしょう。私が監獄に入ったとき、私のことを考えてくれた何人かの食口が残っていることを知り、また、私がこのような生活をするようになったのは、天が動機となっていたからです。
そうして、以前、平壌にいたときに関係のあった食口たちをすべて捜してみました。反対していた人や離れていった人まで捜してみたのです。その人たちは、私が監獄に入ったから離れてしまったのであって、私がいる時に離れたのではありません。監獄に入る前に、私のことを信じると誓った人たちです。私に「離れる」と報告もせず、通告もしていないので、私には師としての責任があるというのです。彼らは裏切るとしても、天のみ前に「信じる」と誓い、約束した基準があります。その人たちに自ら会って、彼らが冷遇する時は、天もまた諦めるのですが、天がいまだに私に関心をもっている以上、それまでは師として誓った責任を取らなければなりません。
ですから、散らばっているすべての食口たちを捜したのです。私が自ら行くことができなければ、金元弼を遣わして会わせたりしていたので、故郷に行くことができませんでした。一週間、捜し回ったのに見つけられない人もいました。
9 お父様が興南の監獄から出てくる時に付いてきた人は四人です。イエス様は一人で逝きました。しかし、お父様が監獄から出てくる時は、四人が一緒に出てきたのです。咸鏡南道から平安南道まで、最も険しい山岳地帯を歩いてきました。東海岸を中心として、金剛山、雪嶽山のて太白(テベク)山脈、江原道、咸鏡道、平安道の三角地帯を越えてきたのです。
その時、北朝鮮の人民軍が太白山脈を通って逃げていきました。軍隊があちらこちらにいる巣窟を経由してきたのです。人民軍は逃げていくのに、私たちは南の方に行こうとしていたので問題になりました。迂回しようとすれば、四日、五日を無駄にしてしまうからです。(軍隊は、)連れていった囚人たちを銃殺して逃げていく状況でした。そのような危険地帯を経てくる時にも、「監獄から出てきた人にとっては、すべてが危険地帯だ。行けない所がどこにあるか」と言いながら、わざわざそのような所をたどってきたのです。そのようにして平壌に着きました。
避難民生活をしながら、平壌で伝道した時に集まっていた人たちを捜しました。「私が監獄に行く時に涙を流したその人たちを忘れずに捜すのだ」と思って捜したのです。中共軍が平壌に入城するという報道を耳にしましたが、会えずにいた一人のおばあさんを捜しに行きました。そのおばあさんが亡くなったことを知ってから、避難してきたのです。
10 北朝鮮で共産党があらゆる宗教団体を迫害してなくそうとしましたが、最後まで残った団体が私たちでした。当時は統一教会という名前はありませんでした。お父様が教える一つの集団だったのです。監獄から出てきてやるべきことは、教会の活動を続けることでした。ですから、まず平壌にいる昔の食口たちに会ってみました。お父様が三年近く監獄にいて、共産党が迫害をするので、あからさまに宗教生活ができる環境ではありませんでした。そのため、だんだんと地下に入っていったので、監獄から出てきてからも、そのようなことが全くできませんでした。
その時、以南に下る前に、昔、関係を結んでいたすべての食口たちに会ったのです。監獄に入るとき、彼らが涙を流して悲しんだことが鮮明に思い出されます。私が手錠をかけられ、五年の刑を宣告されて、「五年の間、元気に暮らしてまた会おう」と言った時、涙を流したそのことを思うと、今でも(その場面が)鮮明に浮かびます。監獄から出てきて、み旨の中で結ばれた食口たちを再び糾合するために、年老いた人から若い人に至るまで、思いつくすべての人たちを捜しました。
11 私が興南の監獄から平壌に出てきたのちに、三度も人を送って訪ねた人がいます。最初に行った時も門前で断られ、二回目に行った時も、三回目に行った時も門前で断られました。私としては、「背を向けよ」という神様の指示があるまで、最高の精誠を尽くさなければなりません。見捨てることはできないのです。ほかの人たちはみな以南に避難していくのに、十二月二日の夕方まで人を送って連絡させました。
そこで私が果たすべき責任は、すべて果たしました。天下のどこに行っても恥ずかしくないというのです。心情の理念をもって歩み始め、心情に受けた傷、私の胸中に植えつけられたすべての傷を抜き取り、新たな心情を神様のみ前に連結させ得るという自信を得てから、初めてそこを離れました。ですから、夜、平壌を出発したのです。
指導者はこのように、慎重に責任を負わなければなりません。死ぬような立場においても、神様が任せてくれた責任分野を終結させていかなければ、その人の行く道が塞がってしまいます。ですから、そのときに関係を結んだ人に対して、結論を出さなければならないのです。そうして、私が天地を前にして、現世や来世で、彼らの先祖が同情し、子孫が同情し得る場に立たなければなりません。そのようなことを考えたため、その人々を訪ねていったのです。
12 私は、八人の兄弟をすべて捨てた人です。北朝鮮で監獄生活をする時、これからの情勢がどうなるかを予想していた人です。平壌に行って、四十日間滞在していましたが、そこから二十八里だけ行けば私の故郷です。二日あれば故郷に行ってくることもできましたが、故郷にいる親兄弟たちには会いに行かず、み旨と向き合っていた人たちを一人残らず訪ねていきました。天のみ前に誓った人たちに会うために歩き回ったのです。故郷にいる父母や親戚を顧みず、食口一人のために命を懸けて捜し回りました。
13 私が平壌に行っている時、二日だけ歩けば、兄を連れてこられました。しかし、兄以上に国を愛したという条件を立てておかなければ、連れてくることができないのです。父母以上に国を愛するという条件を立てておかなければ、父母を連れてくることはできません。これが完全な蕩獄復帰です。アベルになるためには、カインを愛さなければなりません。
その次に、真の父母を迎えるためには、まずサタン世界の父母に侍らなければなりません。ですから、私はそのような役事をしたのです。それで、おばあさんたちを連れて出てきました。原則がそのようになっています。おばあさんたちを三位基台として結び、母子協助をすることができるサタン世界の三人の息子、娘を立ててきたのです。皆さんもこの原則どおり、そのようにしなければなりません。

Thursday Jun 29, 2023
真の父母経 第184話
Thursday Jun 29, 2023
Thursday Jun 29, 2023
第五節 興南監獄解放と食口収拾
六・二五動乱と興南監獄解放
一九五〇年六月二十五日、六・二五動乱が勃発した。国連軍が結成され、連合軍が参戦した最初の戦争であった。この戦争は、民主世界と共産世界の対決の場であり、アベル型の人生観を集約した神本主義の唯心思想とカイン型の人生観を集約した無神論の唯物思想が対立した戦争であった。真のお父様は、国連軍の爆撃によって、戦争の勃発から百十二日目の十月十四日、興南監獄から解放された。国連十六ヵ国が参戦した六・二五動乱は、摂理から見れば、再臨のメシヤを神様が救出されるための聖戦であった。
1 六・二五動乱は、世界十六ヵ国の人々が血を流しながら、勝利を主張し、標榜した戦争です。そのような出来事は、神様の摂理に従ってきた人類の歴史上、初めてのことでした。一国の内乱のようですが、神様の摂理歴史の中で、このような戦争は初めてでした。それがお父様と連結されれば、天のメシヤ精神と連結されるのです。ですから、この戦争の歴史を明らかにすることで、全世界が受ける影響がいかに大きいかというのです。そのような意味で、メシヤが生まれた所が祖国です。人類の祖国になる韓国を保護し、祖国光復を成し遂げるために、六・二五動乱に多くの国を動員したのです。
2 お父様が興南の監獄にいる時、六・二五動乱が起きたので、共産党は、監獄にいるすべての囚人を、最前線の三十八度線に立てて殺害する計画を立てました。事態がますます緊迫してくるので、そこにいるすべての囚人たちの中で刑期の長い人たちは、より遠い場所に後退させ、残りの約三分の二は最前線に送り出そうとしました。人海戦術を行うために、良くも悪しくもすべて引っ張っていったのです。命令に従わない時には、すべて銃殺してしまう計画でした。
その時、八百人以上を興南から定平(チョンピョン)まで引っ張っていきました。本来、興南から元山までは汽車が通っていましたが、その時は国連軍の爆撃で線路が寸断され、十二里ほどを歩いていかなければなりませんでした。七十人余りしか残さずに、すべて連れていったのです。その時、お父様も連れていかれましたが、夜八時に出発し、夜通し歩いて夜明け頃には八里ほどの所まで行きました。昼は爆撃があるので歩くことができませんでした。汽車もまた夜の時間を利用しなければならないので、早朝四時前に到着するようにしたのです。一日では着かないので、二日かけて行く計画で、初日の夜は夜通し歩き、朝方に立ち止まりました。
ところが、中央から私たちを乗せるために下ってくる汽車に途中で事故が起き、仕方なく数日間そこに停車して留まることになったのです。そこにそのまま滞在すると、かなりの支障を来します。この囚人たちを連れていく途中で、万が一事件でも起きれば、問題が生じるような状況になったというのです。そうして、看守たちはほんの数人しかおらず、囚人たちはたくさんいるので、問題が起きるのではないかといって戻ることになりました。戻ってきてから、また三日後にその八百人以上の囚人を連れていったのですが、その時は、私は残ることになり、監獄から出てくるようになったのです。
3 興南の監獄から解放されて出てくる時、私の後ろに四人の人が付いてきました。「先生が行かれるところに付いていきます」と言ったのです。妻も子もすべて捨てて、私に付いてきました。その中に、文氏の姓をもった人が一人いました。文氏の中にカインが一人できたのです。「自分たちの故郷には帰らない」と言って、出てくる時に四人の人が平壌まで付いてきましたが、その文氏はある所に連絡を取りに行き、その間に私たちが南に下ることになったため、離れ離れになってしまいました。
彼はカインとして以北に残り、私はアベルとして以南に来たのです。私が北朝鮮に行くことになったとき、彼が死んでいなければ訪ねてくるでしょう。もしも死んでいたなら、私が彼の墓を訪ねていって、石碑を一つ建ててあげなければならないと思っています。「あなたの精誠が途絶えることがなければ、韓国と北朝鮮がこれから出会う日があるだろう」と思って、今も祈っています。私は、父や母のためには祈りませんが、彼のためには祈っているのです。
4 興南の監獄から出てくる時に、監獄から私のあとに付いてきた人の中に文氏という人がいます。この人は咸興(ハムン)にある咸鏡南道(ハムギョンナンド)の道庁で課長をしていた人ですが、名前を文正彬(ムンヂョンビン)といいました。部下が過ちを犯して捕らえられたのです。私と同じ監房にいたのですが、霊界から教えを受けて、お父様と縁をもった人です。
興南から平壌に出てくる時、私の後ろに付いてきました。彼には妻がいて、息子、娘がいました。私は監獄から出て、彼の家に立ち寄り、別れの挨拶をしてきたのですが、彼が付いてきたのです。これから平壌から南側に行こうとする時でした。金元弼の母親が教会の食口だったのですが、その母親が順安(スナン)に商売に行っていて不在でした。数日後には出発しなければならないのに、戻ってこないので、仕方なく金元弼の母親を連れてきなさいと、文正彬を送りました。
ところが、そこは、歩いていったとしても一日、二日もあれば戻ってくる距離なのに、戻ってこないのです。事態はますます緊迫してきて、中共軍に完全に包囲されそうだったので、このままでは駄目だと思い、仕方なく先に出発しました。ですから、それこそ「先生のために命を捧げる」と言って付いてきたその文氏という人は、出てくることができませんでした。金元弼の母親を連れてこようとして、南の方に出てくることができなかったのです。
5 私が監獄から出てきて平壌に行く時、付いてきた人がたくさんいました。「自分の故郷には行かない」と言ったのです。監獄から出たら、すぐに自分の故郷に帰らなければならないはずですが、帰らないというのです。彼らをみな帰し、四人だけ連れてきました。平壌に着くと、「自分の故郷に行ってきなさい」と言って、全員送りました。「何日何時まで来るように」と言いましたが、わずかにその日に間に合わずに後退したので、みなが従ってくることはできませんでした。
いつか、その人たちにまた会うでしょう。天のために忠誠を尽くし、天のために精誠を尽くす人は滅びません。天はお父様のことを愛しています。世の中の誰も知らない中で、寂しい時に天がそのように協助してくださった事実を体験しています。そのようなことが一度や二度ではありません。一度や二度ではないそのような過去を回想してみれば、その恩を忘れることはできないというのです。
6 私は、興南の監獄だけでも二年と五ヵ月間いました。そこから出てくるとき、労働しながら着ていた服を持ってきました。服の中で、作業着、ランニングシャツ、パンツ、このようなものはすべて木綿でできたものです。硫酸アンモニウム肥料工場で働いたので、木綿にそれ(硫酸アンモニウム)が付けば、木綿が溶けるのです。木綿は酸に弱いので、引っ張るとすべて破れてしまいます。ですから、長く着ていると穴が開いたり、ぼろぼろに腐食したりして、それを着ると乞食の中の乞食になります。臭いがして、どうしようもありません。服をこすると粉になってしまいます。それを捨ててはいけません。これが統一教会の歴史的な財産として宝物になるのです。
これを捨てることができないので、すべて布団の中にぎゅうぎゅうに詰め込みました。すべて布団の中に詰め込んだのです。そして、寝る時にはそれを敷いて寝ます。布団の綿を抜き取って、二年半の間着ていたぼろの包みを代わりに詰め込んだのです。監獄から出てくる時、持ち出す財産が何かあるでしょうか。興南から平壌までの十日間、それを背負ってきたのです。他の所帯道具はすべて投げ捨てて、それを持って出てきました。
そのようにして出てくる時、それをある食口に預けながら、「絹のチョゴリ、スカート、高級な絹の布団をすべて捨てたとしても、これだけは間違いなく私のところに持ってきなさい」と言ったのですが、それを先に捨てて自分たちの物だけをまとめて持ってきたのです。それで、それをなくしてしまいました。もしも今その(歴史を証する)材料があれば、私が説明をする必要はないでしょう。天下とも交換できない貴い材料です。
7 私が興南の監獄から出てくる時に、それまで着ていたそのぼろを持って出てきました。それを売ったところで一銭にもなりません。廃品回収業者にあげても、見返りに飴の半分もくれないのです。三年近い歳月を送りながら、絹のズボンとチョゴリは人にあげてしまい、その囚人服だけを着て暮らしていました。触るとぼろぼろと綿のように崩れていくそのぼろが、何のために必要だったかというのです。それは、十年、一世紀、あるいは数十世紀が過ぎたのちには、億万のお金を出しても買えない宝物になるのです。
今、エルサレムにイエス様が使っていた箸が一膳でもあるとすれば、それはたとえイギリスを渡すといっても買えず、アメリカを渡すといっても買えないでしょう。このような言葉を、今日の若者たちが聞けば笑うかもしれませんが、千金、万金よりもさらに貴いので、困難な環境を克服してまで、それを持って出てきたというのです。

Thursday Jun 29, 2023
真の父母経 第183話
Thursday Jun 29, 2023
Thursday Jun 29, 2023
21 朝食を食べてから昼の十二時まで、どれほどおなかがすいたか分かりません。舌がすれて高熱が出た時のような臭いがします。そのような環境で、私もおなかがすくのですが、同じ囚人たちを慰労するために、一場の長編小説を話し続けるのです。そうすると、一ヵ月もたたないうちに、彼らが差し入れてもらったものを私のところに持ってきて、「先生の好きなように処理してください」と言ったのです。それは驚くべきことです。
原理は簡単です。ために生きる愛をもって完全投入すれば、そのようになるのです。天理の根本がそのようになっているので、その根本を私が抱き締めていくところには、それを破壊する人がいません。私がそのように行動すれば、出力は強くなります。悲壮な決意と涙が交差する誓いをして、代わりに死の道を行くという旗印を掲げて進み出る群れが現れました。ですから、これは間違いなく真理の道です。
22 私が監獄にいる時、忘れられない出来事がありました。私の誕生日でした。監獄は殺風景な所です。そこに平壌の人がいたのですが、その人が私の誕生日であることを知って、朝、自分が食べ残しておいた一杯のはったい粉をくれたことが、生涯忘れられません。いつか、何千倍にして返してあげなければならないと思います。
私は世話になるのが本当に嫌いな人です。世話になったら、必ず返さなければならないというのです。私は世話をするために来たのであって、世話になるために来たとは考えません。私が「やる」と言って進み出た道では、絶対に最下位にはなりません。
23 私が興南の監獄にいる時、私に従った人たちがいました。その人たちは、食べる物があれば、私に持ってきてくれました。はったい粉を紙に包み、汗の臭いがする股のところに入れて、分け合って食べようとして持ってくるのです。検査をするので、見つかったら大変なことになります。それが、どんなに豪華な晩餐よりも印象的なのです。
生きてきてみれば、それが一生の間、記憶に残ります。すべての認識器官がそこに浸らなければならず、そこで体恤された感覚をもって霊界に行かなければなりません。それが祝福です。自分のために生きるのではありません。自分よりも全体のために生きるのです。
24 私は、北朝鮮の興南の監獄にいる時、共産党の要員たちや囚人など、ありとあらゆる人たちを愛するために先頭に立って闘った人です。ですから、その監獄の共産党要員たちが、私を保護するために気遣ってくれるのが分かりました。自分たちが犠牲になったとしても、お父様の秘密を保護しようとしました。共産世界の極悪性が集約された組織が監獄ですが、そのような監獄の世界でも、私を保護する道があることを発見したのです。そのたった一つの道は、犠牲になって愛する道です。これを私は発見してきました。
その監獄で共産党の幹部だった人は、家からはったい粉が送られてくると、それを練って餅を作り、股の間に隠して、仕事をする所まで一里以上の道を歩いてくるのです。うっかりすると落ちて出てきてしまうので、隠していることが見つかる可能性があります。見つかれば大変なことになるのです。お父様と一緒に分け合って食べようとして、そのようにしたというのです。そのように自分の命まで懸ける危険なことがいくらでもあります。そうしながら、昼食時まで汗を流して働くのです。落ちて見つかると大変なことになるので、股間の奧深いところに隠します。そうすると、汗がしみて臭いがします。新聞紙のような物で包んだからといって、はったい粉に汗がしみ込まないでしょうか。汗がしみたからといって、それを捨てるわけにはいきません。
それを分けてくれるその時は、億万の宇宙を買って余りあるほどの愛の爆発が起こるのです。活火山が噴火するのです。そこでも、天の同志が蘇生するのをはっきりと見ました。ただその愛の道だけが、この世界を消化できることを知ったのです。
獄中の弟子を立てて蕩減復帰を勝利
真のお父様は、獄中の苦難を踏み越えて勝利された。監獄では、自らみ言を伝えて伝道することは不可能だったが、愛を実践することによって夢や啓示など霊界の協助を導き出し、十二人以上の獄中の弟子を立てられた。真のお父様は、イエス様が十字架にかかられるとき、イエス様に背いた十二弟子を復帰する蕩減条件を立てることによって、再臨主としての新しい出発のための基台を造成されたのである。
25 監獄には、私が「脱獄しよう」と言えば、命を懸けて付いてくる人たちがいました。死地においてイエス様の十二弟子が逃げたことを復帰しなければなりません。自動的に復帰しなければならないというのです。私が口を開かなくても、霊界が動員されて伝道してくれました。
お父様の囚人番号は五九六(韓国語の発音では、オ・グ・リユク)番でした。ある意味では、「悔しい(オグル)」という言葉に聞こえる番号です。ある人には、夢に先祖が現れ、差し入れのはったい粉を、少しも手を付けずにお父様のところに持っていくようにと命令をしたこともありました。それで、その人がはったい粉の袋を持ってとぼとぼと歩いてきて、「ここに五九六番はいますか。誰ですか」と言うのです。このように霊界が動員されて、食べる物を持ってきてくれたりしました。
その後、私が何も言わずに、平壌を経由して韓国に避難する際、四人の人が付いてきました。四位基台の復帰です。教会を中心とした四人を連れてきたのです。このように歴史は、復帰の原則を外れることはできません。
26 お父様は監獄で、極悪な死刑囚たちにも天の哀れみがあることを願いました。イエス様は、十字架で亡くなるとき、右の強盗に「あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」(ルカ二三・四三)と言いました。お父様は、涙が重なり合う事情をもった人々に、新しい望みと希望を与えるために闘ってきました。監獄に入っても、そのようなことをしたのです。
その人たちを慰労してあげ、私が監獄を出る時に、親が自分の元を去るよりもさらに切ない気持ちで涙を流す場を、彼らに残してあげなければなりませんでした。そのようにしなければ復帰の使命に責任をもてないことを悟り、そのような気持ちで生きてきました。ですから、監獄を出る時、私にしがみついて痛哭する人たちをたくさん見ました。そのようにしたので、私が興南の監獄を出て韓国に来るときに、四人の人が、自分の親や妻子を捨てて私に従ってくるということが起きたのです。
27 お父様の監房から離れた他の部屋に、私に従う人が十二人以上いました。そのように離れて過ごしていても、工場への出発命令が下れば、十五分間ですべて行列をつくるのです。その時は、出てきてトイレにも行ったり来たりするのですが、ほかの人たちと一緒に大勢で行くとトイレが満員になります。それで、監房別に座るのですが、看守が見張っているので、お父様がいる所に行こうとしても行けません。境界線を越えられないのです。
その人たちにとっては、お父様に会うことが一日の中で最も光栄なことであり、生命の道でした。ですから、看守が立っているその下を腹ばいになり、這いつくばるようにして通過しながら、会いにくるということが起きました。見つかった場合には、逃走を企てたとして銃床の端でたたかれ、独房生活を一週間から三週間しなければなりません。三回見つかれば刑罰が重くなります。問題が複雑になるというのです。そのような中でも彼らは、お父様に会って挨拶をしていくことを一日の栄光と思い、そのように行動しました。また、自分たちに食べる物があれば、自分も空腹なのに、私のところに持ってきて分け合って食べるのを光栄なことと思ったのです。そのような心情的絆が、皆さんの知り得ない歴史的背後の伝統として残っているという事実を知らなければなりません。
28 お父様が共産治下の興南の監獄に行って、残忍な圧制と虐待を受けるようになったのは、実体的な復帰の天命を帯びていたからです。サタンの銃剣の前でも、この獄門を開けて出ていくことができる天の人を、天は探し出せるようにしてくれました。直接語らなくても、霊界の霊人たちが伝道して、お父様に従わせました。私は口を閉じていましたが、自分の先祖たちが直接現れて伝道したのです。そうして、お父様は、イエス様を捨てて逃げていった十二弟子以上の弟子を監獄で探し出したのです。
監獄から工場に出発する時間になると、共産党の物々しい監視の中でも、彼らはお父様に会おうとしました。すべての人々が仕事に行くために外に出て、ざわざわとしているのですが、そこで看守たちが銃を持って見張っているにもかかわらず、床を這って私を訪ねてきたのです。天が選んで会わせてくれた人たちは、そのように這ってきてでも、まず挨拶をしようとしました。神様はそのように役事(働き)されます。そこで蕩減基準、四位基台復帰の基準を立てたのです。

Thursday Jun 29, 2023
真の父母経 第181話
Thursday Jun 29, 2023
Thursday Jun 29, 2023
第四節 模範的な監獄生活と勝利
獄中の聖者
興南監獄の収監者たちにとっては、御飯と休憩ほど大切なものはなかった。しかし、真のお父様は、忠母様が面会の際に持ってきた服と食べ物を、他の収監者たちに分け与えるなど、困難な状況でも、かえって神様を慰労し、蕩減復帰路程を歩むべき孝子、忠臣、聖子としての道を歩んでいかれた。真のお父様は、獄中で最も困難な仕事を一手に引き受けて行うなど、模範的な監獄生活を送られたため、共産党から三度にわたって模範労働者賞を受けられた。サタンからも認定されたのである。
1 興南の監獄で囚人たちは、少量の食事と重労働で、常に栄養をきちんと摂取できずにいました。胃は常に働かなければならないのですが、次の日の朝、起きると、自分のおなかが板のようになっていることに気づきます。それが共産党の労働者収容所の生活です。
監獄から作業場までの距離は、一里以上の道のりでした。毎朝監獄から作業場まで歩いていく時は、手をつないで四列に並ばなければならず、横には小銃と拳銃で武装した警備員たちが監視しています。もしも、列が乱れたり、手をつないでいないことが発見されたりすれば、その人たちは脱出をたくらんでいるとみなされるのです。ですから、自分の頭をまっすぐに上げることができません。いつもこのような状況でした。
お父様はそのような環境の中で、どのようにして生き残ることができたのでしょうか。人間は肉身だけではありません。もしも囚人たちが、食べ物だけを食べて生きるようになっていたならば、彼らは死んでいたはずです。精神力が重要です。
2 お父様は、興南の監獄にいながら、ほかの人の二倍まで仕事をしようと決心しました。仕事をするたびに、常に試験を受けていると考えたのです。より一生懸命に仕事をするとき、私の肉身がどのような影響を受けるのかを分析し、研究しました。時々速度を上げると、私の体が変化しました。もし普通に仕事をしていれば、私の体はどのように反応していたでしょうか。
私の組の十人の中には、何人か体の弱い人もいました。ですから、自分のノルマを完遂できない人たちの分を補うために、私のノルマ以上の仕事をしました。毎日そのようなことを続けました。作業をする間に御飯のことを考えていれば、働くことができません。ですから、仕事をする時、御飯のことは考えませんでした。常に、そうするような運命に定められている、そのような仕事をするために生まれてきたと考えました。まるで復帰摂理を行うかのように、常にすべての心情と誠意をその仕事に注いだのです。
3 お父様は監獄で作業する間、常に霊界で経験したことを考え、後日、子孫たちや従う人々に見せてあげる映画の主人公であると考えました。お父様に従う人々や子孫たちは、私が仕事をするのを見ながら感動するだろうという思いをもって働きました。
作業は、午前九時から始まり、十時過ぎに十五分間の休憩時間があるのですが、その時間にトイレに行きます。しかし、お父様は決してそのことを考えませんでした。休憩時間を告げるベルが鳴っても聞こえませんでした。周りに誰もいないことに気づいて、初めて休憩時間であることを知りました。体は仕事をしていましたが、霊は休んでいたのです。そのような精神で働いたので、体重が減らず、ほとんどそのままの体重を維持しました。体重がほとんど減らなかったというのです。ですから、看守たちはとても驚きました。
また、働きに行くたびに、常に最も困難な仕事を探して、それをしました。数ヵ月後、最高の労働者と呼ばれるようになりました。脱出の陰謀を企てることができないように毎日組み替えをしたのですが、組を新しく編成するたびに、囚人たちはみな、この最高の労働者と同じ組になることを願ったのです。お父様の後ろには多くの人たちが並んでいました。
4 お父様は、青春時代に疲れ果てそうになる時も多かったのですが、疲れ果てないようにしようとどれほど気をもんだか分かりません。それは、ただ何もせずにできることではありません。囹圄(牢獄・獄舎)の身になったときも、「神様、私に同情なさらないでください」と言いました。困難な状況でも、絶対に祈りませんでした。深刻でした。一週間でも、一ヵ月でも話をしません。これは何を意味するのでしょうか。難しければ難しいほど、「私の最高の知恵を絞り、最高の精誠を込めて、私によって神様がこの難しい環境を打開できる道を、いかにして模索するか」と考えました。
私によって私が救いを受けようと考えたのではありません。「この難しい心情的動機をつなげて、いかにして神様が痛哭し、悔しさと無念な思いをもちながら、これを強く打つことができるようにするか。怨讐の敵陣を撃破できる心情の爆発力をいかにして刺激させるか」という面を考えたというのです。そして、「早くここから出なければならない」とは考えませんでした。おなかがすけば、「腹よ、空腹になるならなってみよ」と思いました。これから世界が行かなければならない蕩減復帰路程を掲げて、空腹以上に深刻な立場で、神様を強く抱き締めて涙を流した時はありましたが、その場を免れるための努力はしなかったというのです。
5 千万の男がみな後退してしまうような峠がいくらでもあります。監獄に入って、「私がこの死の場で生き残るためには、御飯を半分だけ食べても生きようという決心をしなければならない」と思い、二、三週間、私の御飯の半分を他の人に分けてあげました。他の人の半分だけ食べて生きようというのです。ですから、いつでも心理的に御飯を食べなければなりません。半分しか食べられない境遇で、さらに半分もらって食べられるという心理的余裕が、生命を引っ張っていける力になることを発見しました。数ヵ月もすると体に変化が起こる理由が何か、すべて分かるので、死にゆく若い青年たちをたくさん生かしてあげました。
6 自分の体力を保全するためには、運動をしなければなりません。お父様が興南の監獄にいる時に考案した運動法があります。この運動をすれば、とても効果があります。そのようなことを続けたので、私は食べるのは少しですが、精神力で補充しながら体を鍛錬してきました。今の体とそれほど差はありませんでした。少しやつれていただけです。その時、監獄にいても、約七十二キログラムはありました。他の人たちは、ただ骨と皮ばかりになり、背中がやや曲がって、屍のように感じるほどでしたが、私は絶対に、そのようにはなりませんでした。
7 興南の監獄にいる時、普通の人たちは日曜日には休みます。あのきつい重労働をして日曜日になると、どれほどうれしいことか、それこそ安息日だというのです。ただありったけの力を振り絞って土曜日の夕方までは、どうにか我を忘れて働きます。正気ではありません。肥料工場に出掛け、仕事をして帰ってきたあとは、骨の髄から参ってしまいます。ただぐったりとするのです。御飯さえ食べたら、そのあとは倒れて起き上がることもできません。土曜日の夜と日曜日は、それでも自由が与えられるので、その場で食べて寝るのです。
しかし、寝るのが災いのもとです。お父様は三年近くその監獄にいましたが、昼寝を一度もしませんでした。絶対に昼寝をしないのです。心に決めた睡眠、心に決めた食べ物以外は欲しませんでした。
8 人は死ぬ時に、王子なら王子の権威を備えて死ななければならず、忠臣なら忠臣の姿勢を備えて死ななければなりません。のたれ死にすることはできません。お父様は、興南の監獄にいる時も、体を拭き、毎日のように冷水浴をしました。一日中肥料の山で仕事をしたので、硫酸アンモニウムが体に付いていて、皮膚がただれる可能性があります。そのような体を、夕方に飲むように与えられる水を飲まずに、明け方に起きてその水で手拭いをぬらし、冷水浴をしたのです。「出役(働きに出掛けること)!」という声がして準備するその時間に、サッサッサッサッと拭きました。
収容者たちに、便所で使うような水で沐浴させていましたが、私は死んでもその水ではしませんでした。ですから、水を飲むことが問題ではありません。自分の体を保護しなければならないのです。私は監獄にいながらも、ふくらはぎを人に見せたことがありません。いい加減な生活はしませんでした。興南の監獄で「獄中の聖者」という名前を残した人物なのです。
9 天に侍る人は、監獄にいるからといって、体をなおざりにすることはできません。これ以上ないほど疲れる労働をしても、座る場所を選んで座り、土曜日や日曜日には昼寝をしたことがありません。他の人たちは、重労働をして帰ってくると、御飯を食べるやいなや寝てしまいますが私はそのまま寝たことがありません。監獄で一緒に生活する人たちは、重労働で疲れて先に寝るので、お父様の寝る姿を見たことがないという話が出たのです。そして、明け方には誰よりも早く起きます。また、夜は必ず一人で運動をします。そこでは飲み水がどれほど貴いか分かりません。一口の水が命と同じです。
そして、小さな部屋に数十人がいるので、夏の暑い時には、汗をかき、服を脱いで絞れば汗水が出るのです。ですから、ひしゃくで何杯も水を飲まなければ生きられません。自分の体を清めた、その立場で天に侍るのが道理です。
そこでは、どんなに暑くても自分の肌を見せませんでした。肥料工場から出てくる肥料が窯で熱せられて出てくるので、どれほど暑いでしょうか。そのような暑い所でも、下半身を見せませんでした。貞節を守る女性以上の訓練をしてきたのです。いくら監獄での生活が険悪でも、私の行く道を遮ることはできません。
10 興南の監獄に入って肥料工場で仕事をするとき、とても暑い陰暦五月から六月の盛夏でも、お父様はズボンの裾を締めるひもを結んで仕事をしました。すねも出しませんでした。最近は半袖の服も着ますが、昔はそのような服が本当に嫌いでした。私の体を神様のみ前に捧げなければならない神聖な道が残っているので、神様のために精誠を尽くすところでは、誰にもこの体を見せたくないと思ったのです。ですから、一人で寝る時も、手足を広げて眠りませんでした。上に神様がいらっしゃるというのです。寝る時にも礼法があるのです。
11 私が共産党の統治下で監獄生活をしていたときは、要注意人物でした。その監房には、誰々を監視せよという命令を受けた二、三匹の犬がいました。その犬というのは、動物ではなく、「臭いを嗅ぐ人問」だというのです。それが分かったので、私は話をしませんでした。半月たつても話をしませんでした。そして、日曜日は寝ないことで有名でした。また、明け方に起きて冷水摩擦をすることで有名でした。
いくら困難な環境に置かれていても、天に侍る責任があります。地獄に行っても、そこで天国人としての生が光り輝かなければなりません。いくら薄手の服を着て寒くても、いくら追われる哀れな立場にいたとしても、自分が選ぶべき天との関係を優先させてきました。

Tuesday Jun 27, 2023
真の父母経 第180話
Tuesday Jun 27, 2023
Tuesday Jun 27, 2023
22 興南の肥料工場でする仕事は重労働です。一般社会の人でも、一週間に一度ぐらいは豚肉を食べなければなりません。豚肉は脂が溶けていきます。牛肉は脂が固まりますが、豚肉の脂は流れ落ちるので、細胞を洗浄する作用があるのです。肥料の成分が体の中に入って固まってはいけません。ですから、人々は、一週間に一度くらい豚肉の脂身を無性に食べるのです。しかし、そこに肉があるでしょうか。「御飯でもたらふく食べられたらよい」と思うのです。
朝御飯は、お父様なら三さじも食べれば終わりです。口を大きく開けて食べれば、三さじにしかならないというのです。それを食べて八時間、重労働をするのです。
収容者たちは、朝御飯を食べて工場に出掛けるのですが、工場まで一里以上の道のりです。一里を超える距離を歩いていけば、足もふらつきます。そのような状態で八時間労働をしなければなりません。
23 食べることができずに病気になり、死にかかっている人にとって、御飯は救世主です。一握りの御飯は、この世の一軒の家と取り替えても余りあるのです。ですから、御飯を食べている途中で息絶えると、その人の口にある御飯を取り出して食べるほどになります。狂気の沙汰といっても、そのような狂気の沙汰はありません。食べている御飯の中に石があって吐き出したものに御飯が一粒付いていれば、他の人がその石に付いた一粒を拾って食べるのです。生き地獄です。
そうしながら、反動分子を音もなく除去するのです。千人いたら、死んで監獄の後門から出ていく人が、一年で四百人近くになります。三年から四年もすれば、すべて死ぬということです。脂気がすべて抜けて死ぬまで仕事をさせるために、そのような政策を取るのです。無慈悲という程度ではありません。無慈悲なことにも、ある程度の限度があります。冷酷なことにも限度があるというのです。これは、限度をはるかに超えたことです。
24 私が興南の監獄に入っている時、千人近くの人がいました。その千人の中で、一年だけ過ぎると、四〇パーセントほどが死んで出ていきます。ですから、毎日葬式を行うのです。毎日、後門から棺が出ていくのを見なければなりません。自分の部屋にいる人たちも、そのように死んでいくのです。三十人いれば、十人以上死ぬことになります。
看護する人がいて、御飯を食べて死んでいくのではありません。病気になって苦しむことよりも、おなかがすく苦痛のほうが上回っているのです。病気になった人でも、仕事をしなければ御飯は半分しかもらえません。監獄で大きな一握りの御飯をもらうのと、半分をもらうのを比較してみると、大きいのをもらう時は天国のようで、小さいのをもらう時は地獄のようです。いくら話しても、皆さんには理解できないでしょう。
結局、仕事に出掛けて帰ってきて、やっと御飯がもらえるので、病気でも仕事をするのです。門を出る時に座り込んでいたとしても、這ってでも仕事に出掛けます。仕事をするふりでもしなければなりません。もう半分の御飯のために、あがきながら、仕事が終わるまで我慢するのです。帰って御飯をもう半分もらうことが、最高の理想だというのです。
ですから、御飯をもらう時間には、具合の悪い人はいません。自分のノルマに相当する御飯は、すべてしっかり食べるのです。そのように御飯をもらって戻り、死に物狂いでその御飯を食べている途中で、結局スプーンを落とし、目を閉じて死んでいく人が一人や二人ではありませんでした。
25 今でもお父様が一番忘れられないことがあります。私が興南の監獄にいるとき、母が一ヵ月に一回、面会に来ながら持ってきてくれたはったい粉を、監房にいる囚人たちと分け合って食べました。一つの監房に三十人以上いたので、たくさん分けてあげることはできず、新聞紙の切れ端に一さじずつ盛って、分けてあげたのです。
それは、牛カルビなど問題になりません。そこでの豆一粒は、外の世界での大きい雄牛十頭に勝るのです。いくら体面をつくろって威信をかざしたてる人でも、一粒の豆が落ちれば手を伸ばすようになっています。三十以上が一斉に手を伸ばし、互いに豆を拾おうとするのです。恐らく皆さんは,そのような境地を想象することもできないでしょう。
26 監獄にいる時、はったい粉を分けてあげる日は、正に祝宴の日です。お父様は、それをあげるのが惜しいからといって一人では食べません。絶対に一人では食べないのです。このはったい粉を水でこねて、はったい粉餅を作り、新聞紙に包んで作業場に持って出掛けます。食べたいのを我慢して、昼食の時間まで耐えなければならないのですが、その食べたい思いがどれほど切実か分かりません。それでも、それを分け合って食べたいので我慢するのです。汗を流して仕事をしながらも、一日中、そのことしか考えません。そうこうするうちに、昼食の時間になれば、それを分けて食べるのです。
私たちが働いていた肥料工場は大きいので、第一作業場と第二作業場に分かれていて、大きな肥料の山がそれぞれいくつかあります。作業時間にはそこで仕事をしますが、休み時間の十五分間は、それこそ天国です。その世界の生活というものは、体験してみたことがない人には分かりません。このような体験は、億万のお金とも交換することができません。それは血の涙で染まっているからです。自分の生涯のすべてを投入しなければならない世界が、正にその世界です。
27 監獄にいると、みな、おなかがすいて死にそうになります。肝油はどれほど生臭いでしょうか。その生臭い肝油に御飯を混ぜて食べても、生臭さが感じられないのです。それをコップに一杯そのまま注いで飲んでも、生臭くありません。それだけ体に脂気が不足しているということです。それがどれほど芳しいか分かりません。それだけ飢えているのです。ですから、(普通の人なら)仕事をしていても御飯が恋しく、自分が死ぬことも知らずに、ただ御飯ゆえに苦労して働くのです。働かなければ御飯を半分しかくれませんでした。御飯を半分しかもらえないというのは、死ぬほどつらいことです。そのような世界で彼らを慰労してあげ、彼らを教育してあげなければなりません。
私はたくさんの人を生かしました。「この工場で働けば、何ヵ月間はこのような症状が起き、また、このような症状も起きる。何ヵ月間はこれこれこのようになるが、この峠を越えられなければ必ず死ぬことになる。だから私の言うことを聞きなさい」と話し、大勢の人がお父様の言葉どおりに生活したおかげで、死にゆく環境の中で生き残りました。その人たちが弟子になったのです。ですから、監獄に行っても、教えてあげなければなりません。
28 興南の監獄にいる時、人々は御飯が恋しいので、どんなに具合が悪くても仕事に出掛けます。そうして帰ってきては、御飯をもらって三さじも食べられないまま、口に入れてかみながら死んでいく人もいます。すると、周りにいた人たち同土でけんかが起こります。口に入っていた御飯粒までも取り出して食べるのです。
お父様はそのような中でも、二、三週間も(御飯の)半分を人に分け与え、半分だけを食べて生きました。三年ではなく、五年、十年でも生きるのです。自然の中には目に見えない波長があります。自然が私を生かすために何かをあげたいと思うのです。私が自然を好むからです。近くの丘にりんご畑があれば、そのりんご畑から香りが漂ってきます。その香りをりんごのように感じて、ごくりとのみ込めば、本物のりんごを食べるのと同じなのです。
29 お父様は、りんご一つを握り締めて本当に感謝したことがあります。共産圏の監獄にいた時のことです。一年に二回、五月一日と一月一日には果物をくれます。りんごが一つ配給されるのですが、自分で良い物を選ぶのではなく、順番に分けてくれるのをもらうのです。虫食いの物でも、どんな物でも、ただ配給してくれる物を受け取らなければなりません。りんごを分けてもらうと、普通の人たちは受け取るなりむしゃむしゃと、一分もかからずにすべて食べてしまいます。
しかし、お父様は、「この色は、どれほどきれいなのだろう!この色を味わおう」と考えました。そして、「色を味わい、それから味を味わってみよう」と考えました。そうすると、口を開けて食べようという思いが湧かないのです。食ベずに取っておいてこそ、目の保養にもなり、匂いも嗅いだりできるので、食べようという思いをもつ自分になれないことを感じました。
かといって、それを持って行き来するような状況でもあません。ですから、食べることは食べるのですが、食べる時は、神様のみ前に祈りながら、「りんごを食べますが、私が世界で最初にこのような思いをもって食べます」という自負心をもって食べたことがありました。
30 お父様は、監獄で御飯をもらっても、「おかずがない」と不満を言うことはありませんでした。水を置き、おかずのない御飯を食べても、天の父を呼びつつ「あすの希望をもって歩んできたお前ではなかったか」と言って食べました。そこでは、おかずがあったとしても御飯と一緒に食べることはできません。
監獄の中は、食事をする人が千人近くいるので、お汁と御飯を一緒に与えることはできません。一時間以内に御飯を食ベなければなりませんが、お汁は向こうで、御飯はこつちでと、別々にくれるので混雑するのです。御飯だけ受け取るのに三十分かかります。そのように御飯とお汁を受け取っていれば、食事の時間が過ぎてしまいます。また、食事の時間が終わるやいなや、三分以内に作業場に出発しなければなりません。ですから、一方の手にお汁を受け取り、もう片方の手に御飯を受け取ってこのようにそろえて食べる余裕がありません。手当たり次第に、お汁はお汁で、御飯は御飯で列に並び、受け取ってすぐに食べるのです。御飯を先にもらえば御飯から食べます。おかずなしの御飯を食べるのです。
そこで、おかずなしで御飯を食べる方法を学びました。御飯だけでも本当においしいのです。私は昔から、おこげがとても好きです。神様はよくぞ私を訓練してくださったと思います。昔、私が食べたおこげの味が、その御飯の味です。そこにこげた味が少し加われば、普通の御飯には見向きもしなくなるほどおいしくなります。いつもそのように、お汁はお汁だけで、御飯は御飯だけで食べました。そのような場でも、私はみ旨を中心として生命を捧げる覚悟をし、神様のために孝の道理、忠の道理を尽くすのだと思って生活しました。

Monday Jun 26, 2023
真の父母経 第179話
Monday Jun 26, 2023
Monday Jun 26, 2023
11 興南は、冬に零下二三度まで下がる所です。そのような所でお父様は、単衣の服を着ていても寒いとは考えませんでした。その場で、「もっと寒くなれ。もっと寒くなれ。もっと寒くなれ」と思いながら、それを克服する闘いをしました。寒ければ寒いほど、綿入れのズボンと上着はすべて人にあげ、単衣の服だけを着て仕事をしました。厚い服は人に与え、単衣の服を着ようとしたのです。
また、最も困難な仕事はどこにあるのかと考えて、その場所を訪ねていこうとしました。ほかの人たちは最も易しい仕事を求めるのですが、最も困難な仕事を探し回ったのです。これを越えられなければ死ぬと考えました。そうでなければ、共産党やこの世界を制覇するという考えをもつことはできないのです
12 お父様の歯を見ると、割れているところがあります。監獄で針を作ろうとして割れました。監獄では針が本当に貴重です。手に入れることができないので、作って使わなければなりません。その時、肥料工場に肥料を入れるかますを結ぶために使う手かぎがありました。その手かぎの端を非常に軽く、百回でも千回でもたたくのです。突然強くたたいてはいけません。軽くたたくと平らになります。その平らになったところを、ガラスで裂くのです。
その次に、それを研いで針を作ります。その時、穴が丸いといけないので、歯でぎゅっとかんで細長く作るのです。その次には、これを切らなければならないのですが、切る道具がないので、歯でかみ切るのです。そうしようとしたところ、歯がこのように割れました。今でもこの歯を見るたびに、監獄での生活が思い出されます。
そのようにして針を作っておくと、そのうわさが監獄全体に広まり、土曜日になると針を借りに来るのです。すると王様のように座って、「あなたも受け取っていきなさい。あなたも受け取っていきなさい」と言いながら貸してあげるのです。そうしてから朝、出ていくとみな挨拶をします。そのような時には、針も作れなければなりません。私が精誠を込めて作った針なので、世の中で作った針よりもよく鏠うことができると考えました。
13 皆さんは、共産党の監獄での生活がどのようなものか、よく知らないでしょう。ソビエト革命後、多くのソ連人が強制労働に苦しみました。共産主義理論では、彼らの前に、何らかの有産階級や反共産主義分子たちがいてはいけません。共産党は反対者たちをすべて粛清したいのですが、世界の世論のゆえにそうすることができないのです。そこで共産党は、彼らを強制労働に動員して、厳しい労働によって彼らが死ぬ時を待つのです。
北朝鮮で監獄にいた時、お父様は強制労働収容所に収監されました。北朝鮮の共産党は、ソ連の経験に倣って、すべての囚人たちを厳しい労働に動員し、彼らが死ぬまで放っておきました。
14 重労働をさせて死なせるのが共産主義の作戦です。興南の監獄に入ってから三年過ぎると、ほとんどがみな死んで出ていきます。間違いなく三年以内にそうなります。食べ物をろくに与えずに重労働をさせるので、ここに入ってきた人は、まず死んだも同然です。
この世の普通の人の基準では、一日三食、脂気のある食べ物を食べて精いっぱい仕事をしても、十人で一日に七百かますしかできません。しかし、この工場では、その倍近くの量をしなければならないのです。食べる御飯は少なくて、大きな口で、三口も食べれば終わってしまいます。そうして重労働をするので、朝食を食べて工場に向かうその道で、既に足がふらつきます。そのような足を引きずっていって朝から仕事をするのです。その姿は、本当に悲惨極まりないものです。
15 私が仕事をした興南の硫酸アンモニウム肥料工場に、大きな広場があります。白い硫酸アンモニウムが生産されて出てくると、ベルトコンベアを通ってその大きな広場の真ん中に積もるのですが、滝の水が落ちるように、白いものが落ちてきます。その高さが二十メートルほどになります。そのように高い所から広いコンベアを通って落ちる様子は、滝のように壮観です。それが地面に落ちると冷めるのです。
熱いと固まりになるので、固まらない程度に冷ますために、そのように高い所から落とさなければなりません。落ちて積もった大きな肥料の山はピラミッドのようですが、それをすくって入れるのです。
しかし、時間がたったものは、熱で溶けて、岩山のように固まってしまいます。まるで氷山のように青白くなるのです。そのような肥料の山を中心として、それをすくって袋に入れる作業をします。大きな広場に八百人から九百人が出ていって仕事をするのですが、大きな山を二つに分けて積み上げるのと同じようなことをするのです。
16 お父様は、北朝鮮の共産政権の(興南)監獄に入って、二年五ヵ月の間、重労働をしました。何の労働かというと、肥料工場でする仕事です。硫酸アンモニウム肥料工場で、肥料がベルトコンベアに載せられて、広場の真ん中に落ちるようになっています。その肥料をかますに入れて秤に掛け、貨車に積む仕事をするのです。熱処理をして作るものなので、生産されて出てくる硫酸アンモニウムは熱いのです。それが冷めると塊になります。それを何年もの間放っておくと、岩のようになってしまいます。本当に大変な重労働でした。
一日八時間の労働時間に、一人一人の責任分担があります。十人一組になって仕事をするのですが、一組の一日のノルマは千三百かますです。これを八時間以内に終わらせなければ、食事が半分に減らされることになっていました。
17 硫酸アンモニウム肥料工場で仕事をしたのですが、そこはアンモニアガスが充満しています。ですから、硫酸アンモニウムが皮膚に溶け込み、絞ると水が出るほどです。どこを絞っても水が出てきます。細胞が、半分は死んでいるというのです。そのような環境では、精神力でなければ持ちこたえられません。
そこでは、いくらしっかり食べている人たちでも、三年も仕事をすると肺病になります。ならなければうそです。そのようなアンモニアガスが工場の中に満ちているのです。ですから、大体六ヵ月過ぎて咳をすれば、血の混じった痰が出ます。必然的に、そうなるようになっています。そこできつい仕事に疲れ果てず、自分の精誠の基盤を築き、蘇生した体をもってこそ持ちこたえられるのですが、普通の若者たちはそれを知りません。ですから、お父様が経験を通してそれを指導し続けてきたのです。
18 肥料工場でする仕事は、かますに肥料を入れ、秤に掛けて縛り、引っ張っていって貨車に積むことです。どんどんと肥料をすくい出すので、肥料の山の近くに場所を取ってはいけません。およそ十メートル、十五メートル離れた所からしなければなりません。ですから、その距離の分だけ、引っ張っていかなければなりません。
そうやって、それを港で待っているソ連の船に積み込むのです。数万トン積み込むのですが、それを毎日計算しながら、行わなければなりません。それが間違った場合は、大きな問題になります。国家間の外交問題がかかっているからです。ですから、ノルマは絶対に完遂しなければなりません。
そのような中で、仕事ができなければ二級に落ちるのです。かますを縫う仕事をする二級に落ちると、御飯は半分しかくれません。その次に、それもできなくなれば、縄をなう所に行くことになります。縄をなう所に行くと、御飯は三分の一にしかなりません。それは死ねということです。
結局、一握りの御飯をもらうために、必死になって働きに出るのです。夕方、帰ってきて、ほかの人と同じように一握りの御飯をもらうことが一番の希望なのに、その半分や三分の一をもらうことになれば、茫然とするのです。
ですから、死に物狂いで、御飯のために死ぬまで働かざるを得ないというのです。
19 お父様は、監獄でマラリアを患っても祈りませんでした。かえって、そのような時には断食をしました。「ようし、やるぞ!」と言って、薬も飲むことができずに二十四日間患っても、責任量の仕事を完遂していきました。朝、働きに出掛ける時に、監房から出るように言われます。広場に全員集めておいて、不法な所持品を持っていないか、すべて身体検査をします。そうすると、そこで一時間から二時間が費やされます。こうして九時に作業が始まるとすると、一里以上の道のりを歩いていくのに一時間から一時間二十分かかります。御飯を食べる時間を入れれば、二時間以上はかかるというのです。
ですから、働きに出るとなると、普通明け方の四時半に起きて、九時に作業場に到着するのです。そうやって出掛けて座り込むと、頭が非常にくらくらします。頭がくらくらして、立つことができません。ですから、横の人の肩をつかんで立ち上がるのです。作業場に行っても、自分の力で働くのではありません。
限度を超えた冷酷な監獄の食事
収監者たちには、少量の雑榖御飯と塩の汁物が配給された。御飯は粘り気がなく、大口で食べると、三口ほどにしかならなかった。それでも、仕事をしなければ配給量が半分に減るため、具合が悪くても作業場に出ていかざるを得なかった。御飯を食べながら死んだ人の口の中から、御飯を取り出して食べることもあった。正に、興南監獄は冷酷さの限界線を越えた場所だった。このような所でも、真のお父様は、最初の二、三週間、配当された給食の半分を収監者たちに分け与えられたのである。
20 監獄でお父様は、決して一言も話しませんでした。共産主義者たちの組織を知っていたからです。お父様にとって最も大変だったことは、虚偽の演説を聞いたあとに感想文を書くことでした。監視員たちは監視の目をお父様に集中させて、告発する条件を探し求めていました。共産主義者たちは、お父様の部屋にスパイを入れておきました。ですから、お父様は一言も話さなかったのです。
監視員たちは、一人の囚人に御飯を少し多めに与えて、その囚人を手先として利用しました。これは、とても簡単にできることです。共産主義の世界では、御飯で人々を操るのです。皆さんが御飯を食べながら、時々、石が入っているときがあると思いますが、ある人はそれを吐き出すでしょう。しかし、囚人たちは、吐き出したものまでも、ことごとくなめて食べるほどでした。このような状況が続いたのです。
21 お父様は、一九四九年十二月十七日から二十一日までの期間を、一生忘れることができません。当時、監獄に入っている人には、大概とうもろこし御飯や燕麦御飯、それから豆かすのようなものが与えられました。殺すことができないので食べさせるのです。
その期間には、そばを半分しかひいていないもので作られた御飯が与えられました。そのようなものを配給して食事にしたのです。それを最初に食べたときは、肌がむくみました。そばの御飯だけを食べると腫れるのです。その御飯を食べるとき、御飯に気をとられた人たちは、胃がどうなろうと食べます。胃のことを考えません。おなかがすいているので、それが食べづらくても、そのままごくりとのみ込んでしまい、病気になったのです。
お父様はそのことを既に知っていました。ですから、普段、御飯を食べる時間よりも三倍ゆっくり食べました。すべて一つ一つ皮を剥いて食べたのです。ほかの人たちは、その食べ物を食べて、消化できないので顔が腫れました。ですから、食べる時は、唾を倍以上も出すようにして、長時間かんで食ベなければなりません。その時、そば一粒一粒、すべて皮をむいて食べたのですが、それが一生忘れられません。
またその上、仕事は重労働をしました。その時、この世で御飯がどれほど貴重なものかを知りました。米一粒がどれほど貴いかを、その時に知ったのです。食膳が出されると、その時のことが思い出されます。

Monday Jun 19, 2023
真の父母経 第172話
Monday Jun 19, 2023
Monday Jun 19, 2023
9 皆さんは、世界に行ける主導的な運動を起こすべき、主体的な一つの団体をつくらなければなりません。これが、一九七五年を中心として出発する国際(伝道)機動隊です。
これから、(伝道)機動隊を先頭に立てて全世界を席巻していくでしょう。イエス様の時代において、百二十門徒は世界的代表の国家型なので、百二十ヵ国に宣教部を設置しなければなりません。ですから、一九七五年からは、その数に該当する私たちの宣教部をつくります
今までは、外国に宣教に行くとき一人で行きましたが、これからは三人ずつ一緒に送り出そうと思います。日本人、アメリカ人、ドイツ人を送りますが、お父様を中心として見れば四人と同じです。このようにして、私たちは超民族的であり、新しい国家の民族になるのです。なぜかというと、既に世界的時代を越えたからです。
私たちは、国家的基準の前に、アダム国家、エバ国家、天使長国家をもてる圏内に立っているので、世界が共同で出発できる時を迎えました。ですから、宣教師を三人ずつ送るのです。天使長国家であるアメリカから出発して日本に行き、その次には韓国で活動をするのです。アジアの天使長国家である中国、ヨーロッパのエバ国家であるイギリスと、天使長国家であるドイツなど、七ヵ国さえ連結させれば、どんな国でも私たちが自由に往来できる道が開かれると見るのです。
10 日本の若者たちにとって、アメリカは第二次世界大戦のときの怨讐国家です。ドイツの若者たちも、やはり同じです。ですから、日本とドイツの若者たちを、最も多くアメリカに来るようにさせました。日本人とドイツ人が、怨讐の国であるアメリカにおいて、自分の国よりもアメリカをさらに愛するようになれば、ここから世界の超民族的な新しい国が誕生するからです。全世界のために、誰かがこのような目標を立てて働かなければならないようになっています。
日本の若者たちが、日本を超越してアメリカでそのようなことをやり遂げることを考えるとき、これは日本の誇りとなるに違いありません。歴史的に、日本とアメリカの関係は非常に複雑です。ところが、彼らが今していることが歴史に残るようになるとすれば、これは将来、日本とアメリカを一つに束ね得る動機となります。このようなことを目標として、日本の若者たちが先頭に立ち、「ために存在する世界」建設のために活動しているのです。これは、皆さんと日本人全体の誇りに違いありません。そして、韓国人と日本人と台湾人この三ヵ国の人々を、アメリカで一つに束ねるのです。そうして、東洋に影響を与え、アメリカを抱えて動き始めるとすれば、日本が救われる道が開かれるかもしれません。台湾や大韓民国の現況を考慮するとき、そのような道を模索する以外には、共産圏から追われる緊急な立場にいるアジアを再生させる道はないと考えるのです。
11 アメリカは天使長国家です。アメリカは、堕落した世界で失ったものをすべてもってきてくくりつけなければならない復帰的天使長なので、すべて抱えているというのです。アメリカは、ヨーロッパを中心として、アベルの立場にあります。ですから、アメリカを中心として、韓国、日本、アメリカ、ドイツの四ヵ国を一つにするのが、神側にとって最も容易な道だという結論が出てきます。それゆえ、お父様が、韓国ではこれを一つにすることができないので、世界的舞台を中心として、自由世界の中心であるアメリカに来て基地を築かざるを得ないというのが原理観です。
私はここに来るとき、日本人を連れてきました。その次には、ドイツ人を連れてきました。その次には、お父様とアメリカ人です。ですから、四ヵ国を連結させる作戦をせざるを得ません。ところが、ドイツ人、アメリカ人がするのではなく、日本人がするのです。日本人がすべてしなければなりません。エバがしなければならないのです。日本は母の立場です。日本が二人の息子の国家を復帰しなければなりません。その国々の中で、アメリカは天の側であり、ドイツはサタン側です。ですから、アメリカで、日本の食口たちがアメリカの人たちとドイツの人たちを抱いてあげるのです。お父様はアダムの立場です。日本はエバの立場です。これは自動的なペアです。(アメリカ人とドイツ人を抱いた)そののちに、アダムとエバが一つになるのです。そのようになれば、アダムであるお父様が、その三人を抱くのです。そうして、二人の息子の立場にある国々を抱いてこそ、私たちは本郷に行くことができます。それが原理観です。お父様が百二十七ヵ国に宣教師を送り出すときも、アメリカ人ドイツ人日本人を送ったのですが、「あなたたちは一つにならなければならない。日本人を中心として一つになりなさい」と言いました。それは、命令されてするのではなく、自動的にしなければなりません。日本人宣教師は、アメリカと一つになり、ドイツを一つにしなければなりません。
12 今や全世界は、秋の季節の収穫を待っています。今までは統一教会に反対しましたが、これからは統一教会に反対してはいけません。統一教会に反対する雰囲気が、完全に消えています。世界は収穫の役軍を呼び求めています。神様は今回の機会に、収穫の役軍を動員することを願っています。人類は収穫の役軍を待っており、神様は収穫すべき役軍を送り出すことを願っています。ですから、皆さんの決心の上にお父様の決心を連結させ、代わりに行こうという決意をしてほしいというのです。お父様の伝統的な思想を受け継いで、新しい第二のレバレンド・ムーンになろうという決心をしなければなりません。そうすれば、お父様はいなくなっても問題ありません。ですから、全世界の統一教会の責任者たちと、宣教部で生活している宣教国の代表たちが、皆さんのような決意をすることにより、天地と霊的世界が連結されるという事実を宣布します。このような契機が設定されたという事実は、世界史的なことです。これは目に見えませんが、世界史的な出来事です。今からは、皆さんが第二のレバレンド・ムーンです。ですから、迫害を受け、困難なことがあるとしても、自分を中心として考えるのではなく、お父様を中心として考えなければなりません。第二のレバレンド・ムーンとして、「お父様はこのような立場で、どのようにされただろうか」と、常に考えなければならないのです。これが生活様式です。
13 世界に広がっている数多くの統一家の子女たちは、天の父母様を中心として、心情的な絆を結束させなければなりません。ここで与え合うその思いは、人間世界のいかなる心情の内容よりも、国家や天宙を中心とした膨大な心情的絆によるものでなければなりません。そのようになれば、自分を中心として神様と与え合うその心情的基盤は、「万民が通過しても、その方向が交わることはない。進み行く途中で切れることがない」と言える確固たる場になることができます。言い換えると、韓国と外国の宣教本部を中心として見れば、韓国を通した摂理の関係がその宣教本部を通して伝達されるときには、支障がないというのです。そのように伝達されることを願い、また伝達されれば、それを自分の国の全土に拡張させたいと思うのです。このように確固不動たる心情の橋が連結されているとすれば、その橋を通して、歴史と世界に新しい天運を引き入れることができます。このような点で、韓国であれば韓国を中心として、摂理的な立場から見るとき、中心は一点しかありません。その中心の支え、あるいは基盤が傾いてはいけません。これが傾けば、かえって破綻の要因になるのです。
宣教師たちの試練
世界の至る所に宣教師が派遣されるとともに、迫害も伴った。特に共産圏国家では、宣教師たちが地下で命を懸けて闘った。一九七六年一月二十三日、フランス・パリのヴィラ・オプレ教会で爆破事件が発生し、多くの食口が重軽傷を負った。フランスの食口たちは、エッフェル塔からトロカデロまで力強い抗議行進を行うなど、ヨーロッパの各教会の支援を受けて、三月まで講演と屋外集会を開催した。このような渦中で、一月二十九日、三百人以上の市民デモと襲撃により、一つの伝道所の器物が破損したこともあった。一方、一九八〇年十二月十八日には、笹本正樹・タンザニア宣教師が殉教するなど、宣教師たちが各国で相次いで苦難を受けたのである。
14 一九七六年(当時)、アフリカまで百二十七ヵ国に宣教師が出掛けています。しかし、四ヵ国からは追放されました。それは、共産党と闘ってそのようになったのです。ほとんどが共産国家です。ですから、百二十三ヵ国に行っているのですが、出ている最前線の宣教師たちは、困難なことに遭うときに涙を流して祈れば、すべて啓示で教えられるのです。
皆さんも啓示を受けますか。そのような体験がなければ、統一教会員ではありません。一〇〇パーセント、教えてくれるようになっているのです。統一教会を信じない人は、いくら説明しても分かりません。
15 一九七五年と七六年は、私たちに最高の迫害があった時でした。七五年に宣教師をすべて送り出しました。このようなことが摂理を短縮させるのです。一九八一年までにすべきことを、七六年までに短縮させるのです。その時は、全世界が統一教会に反対しました。百二十七ヵ国に宣教師を送ったところ、父母様が反対を受けると同時に、宣教師が監獄に行くという出来事も起きました。
16 お父様が皆さんを苦労させればさせるほど、神様は助けてくれます。霊界が助けてくれるというのです。外国の宣教師たちが監獄に入れば、神様が教えてくれます。それは本当です。事実です。私はよく知っています。私が一生の間、そのような困難にぶつかるたびに、神様が現れて、助けてくれました。その時が、私には誇らしい時であり、黄金時代でした。私には最も秘密めいた時でした。それは、私だけが知っているのです。
17 一九七五年に全世界的に派遣された宣教師たちが迫害を受けましたが、それは、一気に越えていくための出来事です。「統一教会はアメリカだけにあると思っていたのに、私たちの国にもあるのだな」と言われ、話題になりました。日本人、アメリカ人、ドイツ人、この三ヵ国の人々は、互いに怨讐です。彼らが一つにならなければなりません。また、今や新しい時代において、摂理的な立場から、その人々が使命を果たさなければなりません。ですから、世界を代表して、迫害を受けるのです。アメリカで立ったうわさが、各国に伝わります。アメリカで「良い」と言えば、みな「良い」と言う時代になりました。ですから、今や、一九七七年からは、すべて方向を変える運動をするのです。このようにして方向を変えれば、伝道するのは簡単です。そのようになれば、八十四人ほどなら、私であれば一週間以内にみな伝道してしまいます。一週間、修練さえすれば、すべて終わるのです。できるだけ、そのような時をつくり、皆さんが伝道を簡単にできるようにするために、今、このことをしているのです。
18 一九七六年まで、世界が統一教会に反対しました。世界全体が反対しなければなりません。ユダヤ教からキリスト教、その次にはイスラーム、ヒンドゥー教など、すべての宗教とすべての国の国民、共産世界までがそこに力を合わせ、総攻撃を仕掛けなければならないのです。そのようにしなければ、全体から勝利したという条件を探し出すことはできません。それが、一九七六年を中心として、アメリカで統一教会が繰り広げた一大闘争の歴史です。
一九七五年に世界の百二十七ヵ国に宣教師を送ると、世界がくるっとひっくり返りました。アメリカが大使館を通じて各国で反対させることにより、世界の統一教会の宣教師たちは、十字架の試練を受けるようになるのです。追いやられ、ありとあらゆることをされるのです。それは、サタン世界を否定することになります。私が否定しなくても、サタン世界が私を攻撃することによって、否定された立場に立つようになるのです。

Sunday Jun 18, 2023
真の父母経 第171話
Sunday Jun 18, 2023
Sunday Jun 18, 2023
21 今まで、皆さんが父母様のみ意を受け入れ、内外的に様々な方面で努力しながら苦労してきたことを、日本をよく往来する指導者たちの話を通してたくさん聞いています。私は本当に、どのようにすれば皆さんを慰労し、励まして、少しでも力になれるのか、たくさん考えてみました。
人類歴史は栄光で出発しなければなりませんでしたが、アダムとエバの堕落によって、恨多き復帰歴史として出発しました。このような歴史を考えてみるとき、一人の生涯が、迫害と苦難と絶え間ない受難の路程を経て、今日の世界の統一教会の基盤として広がるまで、言葉では表現できない隠された事情が多くあったというのです。一言で言って、涙が止めどなく流れる中で、身の置き場もない血と苦痛の歴史であることを、皆さんは体験したでしょう。サタンは私たちに余裕を与えません。少しも譲歩することがありません。今回、アメリカにおける裁判を、皆さんは詳細に知っているでしょう。必ず、天が勝利されるというのです。
22 一九九二年に父母様が日本を訪問したのは、韓国と日本、アダム国家とエバ国家が一つになり、アメリカとドイツが一つになるようにするためです。それ以外のすべての国々は、地上天国の一族王国です。今まで、長子権、王国権をもっていませんでした。直系の長子権をもって、万人の歴史を指導して余りある伝統的な基準を立てなければならないというのです。天的な愛、真の愛を植えて定着することにより、一万年を越えても変わらない基盤を残すことが、神様の理想です。そのことを日本国民に再教育しなければなりません。
日本は国にとどまらず、真の父母と一つになって、世界に跳躍することができなければなりません。日本が今から、経済的に祝福を受けた基盤の上で、精神的な内容を備えるようになれば、心身分裂の悲劇の歴史が終わり、心身が統一されて完成実体を成し遂げた国になるでしょう。
第三節 世界宣教師の派遣と受難
世界宣教国の拡張
一九五八年に日本、五九年にアメリカで開拓伝道が行われたのに続き、世界宣教が本格化したのは、六五年の真の父母様の第一次世界巡回以降であった。第一次世界巡回をきっかけに、イギリス、イタリア、ドイツ、オーストリア、オランダ、ヨルダン、ブラジルなどの地に宣教師が派遣された。その後も宣教師の派遣は続いたが、一九七五年二月、日本巡回中に日本の教会本部で開かれた世界宣教師会議で、真の父母様は、世界九十五ヵ国に宣教師を派遣することを決定された。これにより、五月五日付で本格的に宣教師が派遣され、百二十七の宣教国が確定し、その後、百九十五ヵ国に統一教会が設立されるなど、世界宣教の歴史に新たな記録を打ち立てたのである。
1 私たちは、世界を救わなければなりません。一九七四年までに、百二十ヵ国に宣教師を派遣しなければなりません。これは必ずしなければならないのです。それを準備するために、お父様は世界四十ヵ国に百二十ヵ所の聖地を定めました。第二次七年路程中に、そのようなことを果たさなければなりません。
誰が派遣されるのでしょうか。祝福家庭を送れば、迫害がより少ないでしょう。ですから、他の食口たちよりは、祝福家庭を送らなければならないと考えています。しかし、もしふさわしい祝福家庭がいなければ、その国で生まれた父母や祖父母がいるなど、その国と特別な関係がある食口を選抜して送るでしょう。その国と何かしらの血統的関係を結んでいる食口がいれば、その食口を派遣します。
第三次七年路程に入れば、私たちはこの百二十ヵ国を基盤として、世界に進んでいかなければなりません。ですから、この第二次七年路程の間に、第三次七年路程を準備しなければならないのです。
2 一九七五年には、百二十ヵ国に三百六十人の宣教師を送るでしょう。今までは一人で送り出しましたが、これからは三人ずつ送るでしょう。一人は日本人、一人はヨーロッパ人、一人はアメリカ人で構成します。ヨーロッパ人千人で一チーム、アジア人千人で一チーム、その次に、南北のアメリカ人千人で一チームとして、国際(伝道)機動隊をつくります。そうして、三千人の国際(伝道)機動隊が回りながら、一つの国に一ヵ月ずつ行って、千人ずつ伝道する運動を強力に推し進めるでしょう。一チーム千人ずつですから、三千人が一ヵ月に一人ずつ伝道しようというのです。少なくとも、三ヵ月に一人ずつは問題ないと考えます。いくらできなくても、三ヵ月に一人ずつは伝道できるのです。ですから、急進的に統一教会の食口が増えていきます。
そうして、現在、国際(伝道)機動隊の中で、ドイツ人であるとか、フランス人であるとか、優秀な人々を、今後、国際的な宣教事業に輩出できるように準備しています。彼らは三年間、宣教活動をしなければなりません。三年あれば、完全に基盤を築くことができるというのです。
3 宣教師を送るとき、一国の人だけを送るのではありません。ドイツ人、日本人、アメリカ人、三ヵ国の人を一度に送って問題を起こす宣教運動は初めてです。ですから、その国で問題になれば、これは世界的な問題になります。その国が日本人に反対すれば、日本人もその国の人に反対するのであり、ドイツ人に反対すれば、ドイツ人もその国の人に反対するのです。全世界的に引っ掛かっていくというのです。ですから、全人類の讒訴条件から免れることができません。私は人類を救ってあげ、人類に希望を与え、善の運動を展開するために送るのです。ところが、それに反対するようになれば、反対した人が引っ掛かるのであって、善のために生き、善を支持するように導いた人は、引っ掛からないというのです。
4 イエス様が百二十門徒を中心として出発した基盤のもとで、キリスト教が世界的な出発をしたのと同じように、統一教会も百二十ヵ国に三人ずつ宣教師を送って、世界的な出発をしなければなりません。一九七五年四月、遅くても五月中旬までには、すべて送り出すでしょう。イエス様を中心とした三弟子のような四位基台の形態を形成したものを、全世界に広げておく作戦をするために、一九七五年に、百二十ヵ国に宣教の道を開かなければなりません。
そのようにしてこそ、今から国家基準を中心とした基盤と世界の横的基盤が相対的関係を結び、すべての霊が再臨して世界に協助できる基盤ができるのです。ですから、国家基準がなければなりません。そのようなことをここで総括的に蕩減してあげてこそ、すべての霊たちが地上全体を自らの活動舞台にして、自由に活動できるのです。
5 世界のキリスト教全体が一つになり、強力な組織を整えて国をコントロールできる基準になってこそ、神様のみ旨が成就されます。神様のみ旨の前に立てるのがアベルなので、アベルの立場にさえ立てば保護を受けるのです。ですから、そのキリスト教を中心として神様のみ旨を成就できるのですが、そうでなければ神様は離れてしまうというのです。
神様が打つとすれば、キリスト教を先に打ちます。今がそのような時です。カイン・アベル問題を中心として、世界の問題がこのように解決されていかなければなりません。それが神様の観点です。滅びてはいけないので、神様は、一つの団体がこのような使命に責任をもつことを願うのです。その団体が統一教会です。
このような実情が私たちの目の前に迫ってきたのですが、この事実に体と心でしっかりとぶつかり合って防ぐ責任を、誰が負うのかというのです。私たちが世界百二十ヵ国に宣教師を送りこのことをしようというのです。ですからアメリカを中心として、強力な体制を形成していかざるを得ないのが私たちの立場です。アベルの世界的版図を再確保しようというのです。
6 統一教会は、今まで国家的な使命を目標としてきましたが、これからは世界的な使命をもって展開する時なので、私たちの本部にいる祝福家庭の皆さんが責任を果たさなければなりません。ですから、三十六家庭から七十二家庭、百二十四家庭は、可能な限り第三次七年路程で、世界を代表して十字架を負うための先頭に立たなければならないのです。
三十六家庭、七十二家庭、百二十四家庭は、イエス様を中心とした国家的基盤の十二使徒と七十門徒、百二十門徒を象徴するのです。七十門徒は国家代表であり、百二十門徒は世界代表なので、百二十四家庭までは世界的責任が内外に連結されています。ですから、世界的な受難の途上で先頭に立って進まなければなりません。それゆえ、世界宣教は、み旨から見れば、本来、百二十四家庭、七十二家庭、三十六家庭が行かなければならないというのです。
7 なぜ日本人、アメリカ人、ドイツ人を宣教師として送るのでしょうか。今、統一教会が大韓民国を中心として、平面上で復帰すべき国家があるとすれば、それは日本、アメリカ、ドイツです。これらの国家を連結させれば、共産圏までも世界から追放できると考えるのです。
ですから、このような世界史的な責任を背負わなければならない国々が日本、アメリカ、ドイツなので、これらは今まで、復帰の使命において家庭が備えられなかった、言い換えれば、三十六家庭ができず、七十二家庭ができず、百二十四家庭ができなかったことを、世界的に出ていって代わりに蕩減しなければなりません。そうして、今後、それらの家庭が立つ位置のために、犠牲を覚悟して、代わりに進み出なければならないというのです。
国家が違い、民族が違いますが、彼らが私たちの家庭を代表して宣教の最前線に立ったという事実を知って、第三次七年路程が終わる時まで、皆さんの家庭が一致団結し、彼らと一つにならなければなりません。そうして、世界の運勢を回しておかなければならないのが、摂理的な観点から見た第三次七年路程です。ですから、できれば、彼らを代表し、彼らを総括的に指導できる体制を三十六家庭からつくらなければなりません。
韓国で、世界の六大州を巡回できる巡回師制度をつくり、それを次第に拡大して、その宣教部が発展するに従って三十六家庭を代表として投入し、七十二家庭を代表として投入し、百二十四家庭を代表として投入して、七年路程で、内外で一つになるようにし、世界復帰の運勢を回しておかなければなりません。これが、皆さんの家庭を中心とした第三次七年路程です。このような緊迫し、息詰まる歴史的な転換期に置かれているというのです。
8 私たちが世界的基盤を築くために、百二十ヵ国に宣教師を派遣する時、日本人、ドイツ人、アメリカ人を送りました。韓国人を送れば良かったのですが、その時、韓国はパスポートを取得するのが難しく、外国に送り出すことができませんでした。統一教会で「何々をする」と言えば、「駄目だ」と言われるのは明白です。ですから、仕方なく日本人、ドイツ人、アメリカ人を送ったのです。
彼らはすべて、第二次世界大戦の時には、互いに怨讐関係でした。彼らは、世界各国に派遣されていくのですが、煉瓦造りの家や豪華なビルに住むようにはなっていません。小さなテントで身をかがめて暮らすのです。「あなたたちがその国の民族の生命を指導しようとすれば、彼らよりもっと苦労しなければならない。あなたたちはいかなる困難があっても、一つにならなければならない」と話しました。そのようにして、その三人のうち一人は教会の責任者、一人は経済の担当者、一人は言論界の責任者として活動しなさいと訓示して送ったのです。

Sunday Jun 18, 2023
真の父母経 第170話
Sunday Jun 18, 2023
Sunday Jun 18, 2023
一九七四年、四度にわたる日本訪問
真の父母様は、一九七四年二月一日、アメリカのホワイトハウスでニクソン大統領と会談されたのち、イギリスのロンドンを経由し、五日に日本を訪問して、二月八日まで滞在された。そして、四月二十二日には、二度目となる日本訪問をされ、四月二十五日まで滞在された。続いて五月六日から十三日まで、三度目となる日本訪問をされ、七日に東京の帝国ホテルで「希望の日」晩餐会を主宰された。この日の行事では、大蔵大臣と農林水産大臣などの閣僚と、四十人の国会議員をはじめとする千八百人以上の各界主要人士が参加する中、真のお父様は、「ために生きる」というタイトルで講演をされた。また、アメリカで四十ヵ都市大講演会を終え、この年の十二月二十五日から二十九日まで、四度目の日本訪問をされた。
13 世界の問題は、各国が互いに求める中心的基準が立っていないために生じます。もし、世界万民が慕い、求める核心を得られるとすれば、そこから新しい方向を見いだすことができます。統一教会は、日本で最も難しいことに責任をもとうとしています。動揺する日本で、動揺しない希望をもち得る基準を今、立てなければ、もう遅いのです。
ソ連やアメリカも解決できない問題を解決できる道を探し出した人が、正にお父様です。今から何十倍の数を、どのように集めますか。個人伝道も必要ですが、団体伝道も目標に定めて行わなければなりません。今、どれくらい緊急にキリスト教を動かせるでしょうか。団体を動かさなければなりません。日本の将来は、待ってくれません。日本を中心に、伝統の基準をどれほど積み上げるか、世界の中心を誰が養成するかが重要です。日本の若者を立て、世界の中心的伝統基準を立てようというのが、お父様の考えです。
14 今まで、日本の教会では信仰基準が間違って整理されていました。カインがアベルに屈服すればよいのでしょうか。もちろん、絶対服従させるのはよいのです。しかし、それだけでは通じません。カインを服従させようとするなら、自分自身(に投入すること)の三倍以上を投入しなければなりません。そのようなときに、一つ復帰されるのです。これが原理原則です。なぜなら、蘇生と長成はサタンがもっていて、完成基準が神様の基準として復帰の基台になっているからです。三倍投入すれば一つ戻ってくるのが、復帰路程の原則です。
15 父母様が地区長、あるいは教会長に任命した人が、「私はアベルであり、あなたたちはカインだ。直ちに服従せよ」と言ってはいけません。父母様が公職者を任命すれば、「アベルになりなさい」ということであって、アベルになったから任命するのではありません。人事措置は、「アベルになることを期待」する任命であって、「アベルになった」という任命ではありません。そのような理由ゆえに、日本教会が発展できなかったのです。多くの人々が心情的に傷つき、離れるからです。このような現実的問題を確かな原理的観点で解決しなければ、取り返しのつかない問題が起きるでしょう。私たちの行くべき道は忙しいのです。死ぬ前にこの蕩減の道を清算していかなければ、神様の元に行くことができません。まず信仰の基台を勝利した土台の上で、実体基台を勝利しなければなりません。実体基台は、サタンを自然屈伏させなければ、勝利できません。神様が旧約時代、新約時代、成約時代の三時代を通して得ようとされたアダムの実体を、現実世界で成し遂げたという基準を立てようとすれば、迫害を受けても離れない三人の弟子をもたなければなりません。
16 なぜ、日本の統一教会が発展しないのでしょうか。皆さんの信仰姿勢がよく確立されていないからです。地区長たちの観念的意識は、天的に通じる基準に立っていません。地区長は、命令だけしてはいけません。寝るときも、食口たちをまず寝かせる父母の立場に立たなければならないのです。良いものがあれば、食口たちにまず与えなければなりません。良い服があれば、自分が着てはいけません。これが原則です。食口のために真心を尽くして与えたのか、涙を流してみたのか、手を握りながら自分が責任をもって救ってあけようという心情圏に立ってみたのか、反省しなければならないのです。原理的な指導方法をいつも考えなければなりません。カイン・アベルの原理を誤って適用すれば、とんでもない結果が現れるのです。原則的方法を適用し、原則的な発展をするのが原理です。基準を立てなければ、原理的結果が現れません。そのようにするためにも、食口が必要です。
皆さんは、氏族メシヤにならなければなりません。氏族を救うメシヤになることが重要です。開拓伝道をする以上に真心を込めて、父母と兄弟に侍り、必ず一家と一族を復帰しなければなりません。数を増やす重要な位置に立っているのは、青年ではありません。
壮年たちは、社会的基盤をもっています。親族をいつでも導ける基盤があります。男性は男性の親族、女性は女性の親族と基準を合わせれば、数百人まで集められる条件をもっているのです。このような基盤は、青年に期待することはできません。統一教会の使命を果たすためには、これを守り得る数が重要です。数が少なければ、国に影響を及ぼすことができず、十分に防備することもできません。
今後、日本を動かすためには、社会的影響力のある壮年を伝道しなければなりません。ですから、原理を学ぶ以上に、氏族を復帰するために努力しなければならないのです。
18 祖国を離れ、他国でいろいろと環境的に困難な立場で、韓国の同胞の学生である皆さんが闘ってきたことを、お父様も知っています。学生時代、日本で勉強したので、誰よりもそのような心情がよく分かります。主権を失った国の国民が感じる悲しみを、ここにいる人々はよく分からないでしょう。
光復以前に生まれた皆さんの父母たちは、自分なりの考えを通すことのできない苦しい立場に置かれ、環境的にも主体的なビジョンをもったり、主張をしたりすることのできない不遇な立場で、様々な苦労をしてきたことを、皆さんは知らないでしょう。しかし、お父様はよく知っています。お父様は日本統治時代、日本の帝国主義に反対して地下運動をした経歴もあります。
国を愛せない人は、神様を愛することができません。国を失った人は、神の国を継承するようになっても、結局、それを失わざるを得ないことを、学生の時から考えていました。
皆さんは韓民族の血統を継承した人々ですが、この日本の地で暮らしています。皆さんの人生は、疎外され、苦しい生活の連続だったので、本国の韓国人とも少し違うでしょう。日本の中で信頼される人にならなければなりません。
韓国人同士で集まった場合、建設的な話よりは、悲観的で批判的な話ばかりすることが多くあります。そのような不平を口にする前に、まず自分が熱心に働き、周囲から尊敬を受けられるように努力しなければなりません。死の境地を越えても、神様の信頼を受けられる青年になるように、訓練しなければなりません。
一九七五年以降の日本訪問
真の父母様は、一九七五年一月二十日から二十二日まで、千八百双の祝福式に参加する日本食口たちのマッチングのために日本を訪問されたのに続き、二月十日から、日本の東京にある武道館で開かれた「希望の日」フェスティバルで演説するために日本を訪問された。
特に十二日には、世界宣教師会議を開催し、九十五ヵ国に宣教師を派遣することを決定された。そして、一九七八年九月二十日から二十五日まで日本を訪問され、当時の埼玉県の神川村で、千六百十双のマッチングと約婚式を主管された。
また、一九八三年当時、アメリカ政府は、真のお父様を社会的に葬り去るため、脱税容疑で起訴していた。そのような深刻な時に、日本教会の食口たちを激励するため、真のお母様がお一人で日本を訪問され、三月十三日から二五日まで滞在された。一九九二年三月二十六日、真の父母様は、日本の「北東アジアの平和を考える国会議員の会」の招請により、十四年ぶりに日本を訪問された。特に三月三十一日、東京のホテルニューオータニで午前は国家的指導者らと会談するなど、過密なスケジュールをこなし、四月一日に帰国された。
19 家庭教会は、父母様が世界的に勝利し、すべての氏族・民族・国家的基準を統合して縮小した世界を代表する基盤です。それは、世界の主権を縮小した基盤であり、世界人類を縮小した基盤であり、各民族を縮小した基盤です。ですから、ここで勝利した場合は、カイン圏家庭だけでなく、民族、国家、世界まで通じるのです。故郷に帰っても、それは世界まで通じるアベル圏、勝利圏になります。
家庭教会は、今から三年間、皆さんが完遂すべき目標となります。今回、父母様が日本を訪問したのは、そのようなシステムをつくるためなのです。父母様には、これをはっきり教えてあげるべき使命があり、皆さんには、はっきり知るベき使命があります。三百六十家庭の基盤を中心に、氏族復帰、民族復帰へと拡大していかなければなりません。
20 皆さんは、神様のみ前に、果たして面目を立てられる人だったのかを、考えてみなければなりません。復帰の世界的な開拓の道を父母様が歩んでいるのに、自分はどんな基準で父母様に向き合ってきたのか、冷静に批判し、きょうの位置をはっきりさせなければ、あすの勝利を迎えることはできません。国家的な側面で、日本がアダム国家に対応するエバ国家の位置に立っているとするならば、父母様が何らかの嫌疑を受けたり、苦難の道を歩んだりしてはいけないという観念をもっていなければなりません。堕落したエバが歴史的な過ちを犯したことを考えれば、その生涯全体を懸けて、世界を代表し、父母様の心情にたった一つの点でも傷を与えたりしないという思いをもたなければならないのが、エバ国家である日本の立場です。不平を言ってはいけないという意味です。完全否定の姿勢で、伝道の最前線に立たなければなりません。このような原則があれば、今すぐに完成することはできないとしても、未来においては完成できます。それは、父母様が保証することができます。皆さんは、歴史を延長して完成するのがよいでしょうか、父母様が生きている時代に完成するのがよいでしょうか。父母様が生きている時に完成するためには、必死に身もだえして力を養わなければなりません。
今日まで、歴史的に宗教を信じて霊界に行った人々は、いくら努力しても、現代に再び生まれることはできません。今の時代は、他のどの時代とも換えられない価値ある時代です。それを考えるとき、私たちは、この地上で父母様に直接お会し、このように教育を受けながらみ旨を成し遂げていくという事実に、感謝しなければなりません。

Saturday Jun 17, 2023
真の父母経 第169話
Saturday Jun 17, 2023
Saturday Jun 17, 2023
第二節 真の父母様の日本特別巡回
真の父母様家庭の日本特別巡回
真の父母様は、一九六五年の第一次世界巡回(真のお父様のみ来日)と、一九六九年の第二次世界巡回、一九七一年の第三次世界巡回の際に日本を訪問され、それ以外にも、数回にわたって日本を訪ねては、食口たちを激励された。特に、一九六七年六月十二日から八月十日まで、真の子女様と韓国の幹部を帯同し、日本を訪問された。
この日本訪問は、真の父母様の伝統相続に焦点を合わせたものであった。具体的には、第一に真の父母様のみ言、特に『原理講論』の相続、第二に信仰の相続、第三に祝福の恩賜の相続、第四にエバ国家としての使命完遂などであった。真の父母様は、六月十七日から二週間にわたって、中心幹部修練会を開催されたのに続き、七月八日から二十一日まで、地方巡回をされた。
1 私(お母様)は、皆さんに会った時、言葉で表現することのできない切実な心情でした。心は皆さんといつもつながっていましたが、言葉が通じないことが残念です。言語の疎通問題が今後、日本の統一教会内で問題になると思うのですが、ひとまず心を通じ合わせ、親しくなる期間をもって、似ている面を探し出していくように努力したいと思います。言いたいことはあまりにも多くあるのですが、この胸の高鳴る思いを、言葉ではすべて表現することができません。
2 お父様が一九六七年六月十二日、日本に行った時に感じたことは、信仰の本国に対する日本の食口たちの心を単一化しなければならないということでした。今までは、外国に出ていって宣教活動をする宣教師を中心に動いてきたので、一つの方向に向かって一定に進むことができませんでした。これをそのままにしておけば、時間がたてばたつほど、食口全体に良くない影響を及ぼすだろうと思わされ、また心配にもなりました。
今回、本部の幹部たちを日本に連れていったのは、地方ごとに派遣して、日本の食口たちと心情的な絆を結ばせるためでした。それで、日本に到着して二週間、修練会を開催し、その次は地方を十三日間、巡回しました。そのように過ごしたのちには、日本の重要な工場にほぼすべて行ってみたのです。なぜなら、私たちが宗教的な問題を中心として信仰運動を行うことも重要ですが、今後、韓国の国家発展という遠大な目標を念頭に置いて計画を立てなければならないからです。
それで、現在、日本産業界の実際の状況がどのようになっているのかを見ようと、十ヵ所以上の工場を訪問したのです。そこで感じたのは、韓国もこれからは国を挙げて団結しなければならないということでした。
3 一九六七年に日本に行った時、日本の食口たちの祝福問題について考えました。ところが、日本の食口たちは祝福を受けることは夢にも思っていませんでした。彼らは、もう二年ないし三年してから祝福をしてほしいとのことでした。それで、お父様は非常に満足しました。「自分たち個人のためよりも、心から日本のために生きることができず、心から活動することができなければ、神様のみ前に立つことができない」と言うのです。それはもっともな話です。
このような一つの事実だけを推し量ってみても、今、皆さんに新たな姿勢がどれほど差し迫って求められているかが分かります。したがって、神様が皆さんに対してどれほど大きな期待と願いをかけているかを、はっきりと知らなければなりません。
4 統一教会は、今まで日本民族から弾圧を受けてきました。しかし、お父様は一九六七年に日本に行き、大きな旋風を巻き起こしました。お父様が日本に行くというので、日本の新聞記者たちが私に会見を申し込んできました。国家の高官や首脳たちも、「会おう」と言えば快く応じてくれるので、私も会ってくれるだろうと考えたのです。
彼らはお父様のことを知りませんでした。私は、彼らに会ってあげませんでした。門前で追い払ったのです。すると、彼らは悔しく思い、あることないことを言いながら、統一教会について騒ぎ始めたのです。結局、一九六七年の日本言論界で話題の中心になりました。統一教会に関する内容がトップ記事になったのです。
5 お兄さんはお父さんの代わりであり、お姉さんはお母さんの代わりです。そのような気分をどれほどもつかが問題です。兄弟姉妹の間では、自分を中心として相手を批判しやすいからです。このような限界をどのように克服するかが、日本を離れるに当たり、心配されることの一つです。どのようにすれば、教会の指導者を父母様の分身として感じられるのでしょうか。教会の責任者を自己中心的に見つめず、神様と同じ立場から見つめなければなりません。教会責任者の成長過程や学歴などを見るとき、自分より優れていないこともあるかもしれません。ある面では、教会責任者が自分に学ぶ立場に立つべきときもあります。そのようなとき、普通の人々は、責任者を一から十まで批判するものです。お父様はそのような文化になることを憂慮しています。日本の教会に、父母のような心情をもった食口がどれほどいるかが重要です。お父様は、そのような食口たちが多くなることを願っています。
6 共産党が問題です。まず先に、韓国が立ち上がり、共産主羲に対して精神武装をしなければならないので、徹底的に教育させました。今や韓国が勝共の基準を確立したので、日本も今後、勝共問題を解决する出発点をつくらなければなりません。日本は様々な面で、重要な位置にあります。摂理的に見れば、韓国と日本はアダム国家とエバ国家です。堕落は、二人のうち、エバが先にしました。エバが先に、サタンにだまされたのです。現在、日本はそのような立場に立っています。したがって、日本が自分を中心とした思いで動いてはいけません。エバが、エバ自身だけのことを考えて動くのではなく、アダムと相談しなければならなかったのと同じです。日本の若者たちの中には、何も知らずに、共産党や左翼に友好的な人々が多くいます。そのような見解からすれば、私たちは重大な責任を担っています。私たちは共産党に対して、理論的に正面から立ち向かわなければなりません。共産主義に対して、民主主義が優秀であることを見せてあげなければなりません。今までは、ずっとアメリカが後方を守ってくれたために安全でしたが、今後、いつでも無防備状態に置かれ得るのです。そのようになれば、いつやられるか分からないというのです。中共がいて、ソ連がいるので、日本としても、きちんとした計画をもって、至急に対応しなければなりません。
7 東京に行ってみると、日本共産党の看板が赤い文字で書かれ、堂々と掲げられているのを街で目にすることができます。また、彼らは真昼にも東京駅の前や渋谷駅の前で、自信をもって共産党の宣伝をしています。日本の国会でも、共産党員たちは社民党と手を結び、自民党に対して闘争を展開しています。自民党が発議したものにはすべて反対するなど、国会でも共同作戦を行っているのです。彼らがそのようにするのは、日本の共産主義者と労働者、農民全体を扇動して、彼らを一つの道具として利用し、地下基盤を強固にしようというところに、その目的があります。共産主義者たちは、そのようなことに血眼になっているというのです。
8 お父様が日本を巡回するとき、どんなことがあったでしょうか。日本の原理研究会の学生たちが、学校まで辞めて「日本を救わなければならない」と言いながら、開拓伝道の活動をしているのですが、このことについて新聞ごとに大きな話題になっていました。彼らの父母たちが、それについて新聞社に、一方では反対する投書を行い、一方では賛成の投書をしていたのです。特に、ある新聞では、統一教会に反対する内容ばかりを報道しました。
それで、私たちは、「この新聞は左翼新聞なので、勝共路線をとる統一教会が思想的に自分たちと敵対する立場であるがゆえに、私たちの教会を謀略にかけようとしている」と主張しました。すると、また違う新聞は、「統一教会に反対する報道内容は、すべて事実とは相反する」と報道したのです。このように、言論機関にも私たちに反対する側と支持する側があります。
私たちを支持する新聞は、父母たちが私たちに賛成する投書の内容を報道しています。その内容は、「青年男女たちを必ず統一教会に送らなければならない。今まで統一教会に反対した新聞の記事は、すべて偽りだ。私たちの息子、娘は、そこに行って、これこれこのような点が良くなった」というものでした。それで、お父様の名が毎回、出てくるようになったのです
一九七三年、三度にわたる日本訪問
真の父母様は、一九七三年七月八日に日本を訪問され、七月二十二日まで滞在された。この期間中、真のお父様は、七月十一日に狭山公園で静岡以北の食口たちを対象にみ言を語られたのに続き、十二日には兵庫県の宝塚研修センターで、名古屋以西の食口が集まる中、集会を主宰された。また、真の父母様は、八月七日から十日まで、二度目の日本訪問をされた。そして、十一月十七日から二十四日まで、この年、三度目の日本訪問をされ、第二回「科学の統一に関する国際会議(ICUS)」で演説をされるなど、多くの行事と集会を主管された。
9 日本は、二年以内に運命の審判を下さなければなりません。私たちは、いくつかの道を行くべき、重要な時点に立っています。後退することはできません。死を覚悟して、前進しなければなりません。作戦を変えなければならず、方向を転換しなければならない緊急事態に入っているのです。
改めて、決意を固めなければなりません。目的に向かって突進しなければ、日本は危険です。お父様が話したとおり、日本の情勢は流れていっています。アジア情勢も同じです。時間がさらにたてば遅いのです。一時間が惜しいのです。一時間、努力しなければ、数千年が飛んでいってしまう、悲惨な運命に置かれます。この一時間、一瞬が、危機に直面しているのです。皆さんにすべてがかかっています。
10 日本はアジアに連結される大陸を慕っています。その梯子であり、根拠地は韓半島しかありません。しかし、韓半島の上の方には北朝鮮があり、周辺ではソ連と中共が待ちかまえています。日本が被害を受ける瞬間、アジア全体が被害を受ける可能性があるのです。日本の使命は、エバ国家の使命です。自分が飢えても、アジア民族に経済援助、心情的援助をすることのできる国にならなければ、日本の将来はありません。それは当然の話です。「統一思想」を受け入れれば、日本民族は世界的な民族になることができます。日本は世界の先頭に立つ民族になるでしょう。新婦がお嫁に行ってよく尽くす場合、家のすべての世論(支持)が集中する主人になるのと同じです。ですから、日本は真の父母様と天に忠誠を尽くさなければなりません。それしかありません。使命を果たせば、日本は滅亡しないのです。
11 お父様が神様であれば、ここに集まった日本の若者たちを死ぬほど追い立てるでしょう。日本のために死ぬとすれば、その人によって、日本が本当に祝福を受けられるからです。神様は、万民のために死んだイエス様のように、犠牲となる人を祝福することができます。皆さんは歴史始まって以来、誰よりも深刻な立場で、強い愛国心と忠誠心をもって公的な立場に立ち、日本民族のために先頭に立つことを願います。どれほど素晴らしいでしょうか。どのみち一度は死ぬ人生をそのように生き、それ以上の真心を尽くした愛の心で死ぬという人がいるとすれば、永遠にこの一人を通して、神様は日本を祝福せざるを得ません。神の国は、皆さんの中からよみがえるでしょう。
12 日本は、アメリカ、フランス、イタリアなど、西洋文明圏に対して新しい先駆者となる東洋の代表国家になり得るでしょうか。日本は、「エコノミックアニマル」と呼ばれています。これは、気分の悪い言葉です。世界の多くの国が、世界の中に多くの名前を残してきましたが、日本は何を残しているでしょうか。日本は、日本のために生きています。このような日本人が、日本のために生きるのと、世界のために生きるのとでは、どちらが素晴らしいでしょうか。
日本人が世界のために生きようとすれば、過ぎ去った歴史を蕩減し、新しい伝統をつくらなければなりません。先祖たちが誤ったすべてのことを正していかなければなりません。ですから、皆さんは歴史的に先祖が犯した罪を蕩減復帰しなければなりません。現代の日本が犯した罪も、蕩減復帰しなければなりません。そのようにしてこそ、私たちの時代が来るのです。過去を蕩減できなかった人は、自分の理想的な現実を迎えることができません。日本がために生き、血と汗と涙を流しながら真の基準に符合する実績をもつことが重要です。完全投入しなければなりません。