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Monday Feb 06, 2023
Saturday Feb 04, 2023
真の父母経 第40話
Saturday Feb 04, 2023
Saturday Feb 04, 2023
22 父、母、村人のすべてが私を信じていました。「文氏家門の恐ろしく、賢い者」とうわさになりました。相撲でもボクシングでも、できない運動がありません。どこに行っても三等以下に落ちることがなかったのです。すべて一等になるようになっています。
一等になる人の二倍、三倍努力するのですから、一等にならないはずがありません。私はそのような人です。ですから未知の人生問題や宗教問題の根本、根っこを掘ってひっくり返したのです。一度手を付ければ、それが終わるまで、御飯を食べることも、寝ることも忘れてしまいます。蕩減復帰に最も必要な性格なのです。
23 私は、泣き始めたら一時間で終わるのではありません。それで、あだ名が「ハルウリ(一日泣く子)」でした。一日中泣いてこそ泣きやむので、ハルウリというあだ名が付いたのです。
また、泣くときも、じっと座って泣くのではありません。村が吹き飛ぶかと思うほどの大きな声で泣きました。村中のおじいさん、おばあさんが出てきて見物せよというのです。こうして村中を大騒ぎにし、寝ていた人まで起こすほど泣いたのです。一大事でも起こったかのように泣き続けました。喉が腫れて声がかれ、しまいには声が出なくなるほどでした。そして、泣いてもじっとしたまま泣くのではありません。バタバタと跳ね回りながら、傷つき、皮膚が裂けて血を流しながら泣きました。
それほどなのですから、私がどんな性格かよく分かるでしょう。よくよく見ると、神様は本当に知恵深い方です。私はそのような性格の所有者なので、一度やると決心すれば、死ぬまで諦めません。
24 私は、性格が積極的で健康なので、活動範囲が普通の人の三倍にはなりました。雪が降るような時は眠りません。夜、いたち狩りに行くのです。おなかがすくのも忘れて歩き回ります。ですから、私の母は相当に苦労しました。私は、並外れた人です。十代になると、既に父と母を意のままにしていました。それほどの子供だったので、私は、このようなことをしているのです。まかり間違えば引っ掛かってしまうのですが、その性根に父母も降参しなければなりませんでした。私は、たとえ骨が折れても譲りません。死んでも譲らないのです。
「間違っていましたと、一言言いなさい」と言っても、答えません。間違っていないのに、どうして「間違っていました」と答えるでしょうか。
25 私は、誰にも負けない粘り強い性格をしています。幼い時には、けんかをして相手を降参させきれなければ、三、四ヵ月、眠れなかった人です。そのように粘り強い男です。恐ろしいといえば、誰よりも恐ろしい男なのです。
人に負けることを絶対に嫌う人です。負けたことがありません。何をしても必ず勝つのであって、負けることは考えもしません。勝つか負けるか、すぐに分かります。私が手を付けた場合には、死なない限り勝つのです。そのような性格の持ち主です。
26 私は、性格がとても性急な人です。一言でも悪口を言われれば、我慢ができない性格です。誰かに一発たたかれたら、耐えられない人です。また、誰に対しても負けるのが嫌いな人です。私はそのような気質と性格をもっているので、できないことがありません。どんな運動をしても、私が勝ってみせるという性格をもっています。私は頭も悪くありません。
そのような私に悲惨な境地、これ以上耐えられないという境地が、何十回、何百回あっただろうかと考えてみてください。恥ずかしいといえば、それ以上に恥ずかしいことはないという境地が、一度や二度ではありませんでした。しかし、それをすべて克服してきたのです。神様がそうされたからです。神様も火のような性格があるはずですが、その性格のままに一度動けば、世界を一掃できる立場にいるにもかかわらず、それを神様は、強い意志で耐えられたので、世界が残っているのです。
27 私が若い時は、同じ年頃の子と相撲をして負けたことがありません。私の村にいる私より三歳年上の人と相撲をして、私が一度負けました。田舎で暮らした人は分かるでしょう。アカシアの木が、春の季節になって水分を吸い上げるとき皮を剥ぐと、松の木の皮のように剥がれます。ですから、春の季節に木が水分を吸い上げるとき、何度もしならせると皮が落ちるので、それを一気に剥がすのですが、これが硬いのです。このアカシアの木と相撲を取るのです。「こいつ!お前を倒すまでは御飯を食べるものか!」と思って、六ヵ月目に彼を倒して馬乗りになりました。そうするまでは、御飯を食べることも忘れ、寝ることも忘れてしまうのです。
28 私は、八歳の時から、姉、遠い親戚、村中の人たちまで、嫁や婿に行く時、写真を見てたくさん結婚させました。幼い時も、私が「きょうは雨が降る」と言えば雨が降りました。また、「一週間以内にこの村で人が一人死ぬ」と言えば死にました。そのような逸話がたくさんあります。
ですから、結婚しようとする人が、私に相手の写真を持ってきて、「これをちょっと見てほしい。良いか、悪いか」と尋ねるのです。ちらっと見て「悪い」と言えば、必ず悪いのです。見るのも、長くは見ません。見て「良い」と言えば、それは良いのです。そのような歴史をもっています。
29 私は、村では五山の家の小さな(目の)子で通っていました。目が小さかったので、村で「五山の家の小さな目」と言えば、私のことだと分かります。目があまりにも小さくて、母が私を生んだ時、「目がない」と言ってしばらく見つめたといいます。目を広げてみると、ぱちぱちまばたきしたので、安心したそうです。そのような目が必要です。
遠くまで見ることができる素質をもって生まれたので、今日の世界はもちろん、神様の心情と事情まで解剖して探り出し、(神様の心情に対する)解剖学を論理的にまとめた男です。そのような価値を知るようになれば、世界は私にだけ付いてこようとするのです。私に会いに行こうという行列が、玄界灘を越えて太平洋の真ん中にまで続くでしょう。
30 私は、牛も見ることができます。販売場で牛を見て、「あの牛は悪い」と一言言えば、その牛は売ることができないのです。牛は、首筋が整っていなければならず、前足が整っていなければならず、後ろ姿が整っていなければならず、腰が整っていなければなりません。この四つが整っていれば、良い牛なのです。
昔、父が牛を買いに行く時には、私も付いていって鑑定してあげました。父が知らない牛に関する話をしてあげると、「お前、どうしてそれを知っているのか」と言われました。
私は、既に生まれながらにして知っていました。ですから、今日、世界で誰もできないことをしているのです。
31 昔、私が子供の頃、通りに出て、行き交う人を見てどのように感じるかを調べたりしました。「あの人は、間違いなくこうだ」と思うと、それが本当に正しいか正しくないか、付いていきながら打診してみるのです。その人に、「あなたは、こうだったでしょう?」と尋ねてみるのです。それは霊界から教えてくれるのではなく、私の心が既に知っているのです。
それで「あなたは、このような人でしょう?」と尋ねてみると、「どうして分かるのですか」と驚きます。間違いなく当たります。じっと座って、あの部屋に誰がいるのか、良いことをしているのか、悪いことをしているのか、良い人が住んでいるのか、悪い人が住んでいるのか、ということがすぐに分かるのです。
第二節 神様からの召命
蕩減の道を行った家族
真のお父様が天から召命を受けられたことを前後して、家族と周囲の人々は厳しい蕩減を払わなければならなかった。十六歳(数え)になる頃までに、あらゆる試練が押し寄せた。サタンの讒訴条件を清算し、完全な天の側の勝利の基点を確定するため、摂理上、不可避な犠牲が伴ったのである。三代にわたって兄弟たちが客死し、行方不明になった。さらに、真のお父様を含む六男七女の兄弟のうち、格別に愛情をかけた五人の弟妹が相次いで夭折(ようせつ)した。天は、真のお父様が世の中で心を寄せ、頼れる関係や、関心をもつ外的環境を、ことごとく切ってしまった。この世のどこにおいても心安らかに過ごせない緊張した日々を、一生の間、経てこられたのである。
1 統一教会のみ旨を引き継ぐためには、誰もが蕩減路程を経ていかなければなりません。私は十六歳(数え)の時、この道を出発することになりましたが、その時には、十三人の兄弟のうち八人だけを残して五人が死にました。また、犬が死に、牛が死に、馬が死にました。奇怪なことが起きたのです。このような理解し難い出来事を、皆さんは知らないでしょう。謎のような出来事が本当に多かったのです。私の家庭を中心として、完全に破綻させるための悪魔の計略があったというのです。これは現実的な内容です。
万国を代表して勝利の覇権をつかむためには、末端の血族においても、その戦場でサタンが讒訴できない内容を提示しなければならず、本人自身の歴史性においても、世界万民、世界人類を代表して歴史的勝利圏を誇り得る条件を提示しなければなりません。統一教会も同じです。統一国を創建するにも同じなのです。
2 霊的な現象は、見えない世界で起こるのではなく、実際に見える所で様々に現れるのです。サタンはあらゆる手段を使って、お父様の一家を滅ぼすことを計画しました。その渦中で、兄と姉が精神的におかしくなり、大変なことになりました。若い頃、そのような霊的背景と霊的世界の問題があったのです。
気が狂ったと思った兄が、よく見ると何か話をしているのです。兄が話すときは独り言のように語るのですが、その内容が途方もないものでした。また、言い方が時によって違いました。何人かの霊が来て、一日中話をするのです。そのことがお父様には、すぐ分かりました。
3 私自身にとって最も親しかった友達、天が祝福してくれる立場にいる友達は、すべて連れていかれました。この世で信じ、頼れるものは、一つ残らず断ち切られてしまいました。その中には、平安北道の人もいて、黄海道(ファンヘド)の人もいました。誰よりも親しかった友達が、全員連れていかれたのです。
また、私が最も愛した妹が連れていかれました。私の家庭には娘が多かったのですが、母方の叔母の家には娘がいなかったので、叔母さんが懇願し、この妹は叔母の家に行って暮らしていました。それで、私はいつも、その妹のために祈りました。その妹は、兄に対して絶対的でした。ですから、妹にとって良いことであれば、兄としてどんなことでもしてあげたいと思っていたのですが、その期待までもすべて断ち切られてしまいました。妹だけでなく、愛する弟も連れ去られてしまいました。このようなことを見ると、蕩減には許しがないのです。そのような過程を経なければなりませんでした。
4 私のことを愛してくれた友達は、すべて霊界に連れていかれました。なぜ彼らを霊界に連れていったのかを、今考えてみると、私が彼らと私情を交わすかもしれないのでそうしたというのです。神様のすべてのみ旨に責任をもって歩んでいく私が、彼らと私情を交わす恐れがあるからです。神様は、私がこの世で関心をもつ人は、すべて連れていってしまいました。
このようなことをよく知っているので、他の道に行こうにも行けないのです。私が愚かなのでこのようなことをしているのではありません。どれほど多くのことを考えたでしょうか。
十六歳(数え)の時、神様からの召命を受ける
真のお父様は、長老派教会に入教する頃、新しい学問の修学とともに、思考の幅が広がってより深く考えるようになり、将来の問題と現実の問題について深刻な疑問に逢着された。理由も分からない中で起こる家の患難とともに、日本統治下における民族の悲惨な姿、そして、弱小民族の苦痛と悲哀を深く体感された。同時に、人生の根本問題について苦悩しながら、解決点を探そうと身もだえされた。そのような中、定州普通学校に転校した直後、十六歳になった年の一九三五年四月十七日の早朝に、長い時間、涙ながらに山上で祈りを捧げていたところ、イエス様の顕現を体験することになる。イエス様は、奥深く驚くべき事実を多く語られ、その後、何回にもわたって直接対話を交わされた。真のお父様は、神様から天命を受けられたのち、故郷とソウル留学、そして、日本の東京留学を経ながら、将来の摂理的使命者として、責任意識の体得と信仰を深化させる準備期間を過ごされた。
Thursday Feb 02, 2023
真の父母経 第39話
Thursday Feb 02, 2023
Thursday Feb 02, 2023
12 私は、靴下を自分で編んで履き、服も自分で作って着ました。寒くなると、帽子も自分で作ってかぶります。私が姉たちに編み物を教えてあげました。皆さんもみ旨のためには、一人で暮らす準備もしなければなりません。パンツなども、綿布を持ってきて、型を取って作ってはけば、ぴったり合うようになっているのです。
母の足袋も作ってあげました。母が「おやまあ、いたずら半分に足袋を作っていると思ったら、足にぴったり合うわね!」と言うほどでした。そのようなことを、すべて研究しておかなければなりません。服も編んで着ることができなければならず、靴下や帽子も作れなければなりません。そうであってこそ、一人で暮らしても、み旨を成就することができるのです。
13 最近、私が懐かしく思う食べ物があります。私が食べたことのない料理がどこにあるでしょうか。世の中の有名だと言われる料理はすべて食べてみましたが、今でも一番懐かしいものは何だと思いますか。昔、田舎では「五月のじゃがいも峠」(じゃがいもが収穫される前の農家の食糧事情が悪化する春の端境期のこと)というものがありました。(普段は)じゃがいもばかり食べていたのですが、(その時期は)麦を収穫し、麦で御飯を作って食べました。麦飯も、最近の平麦飯ではなく丸麦飯です。その丸麦を水にふやかして炊いた御飯は、スプーンでぎゅっぎゅっと押してすくっても、粒がこぼれ落ちるのです。それにコチュジャンを混ぜて食べたことが思い出されます。それが今でも懐かしいのです。
他のものを混ぜるとおいしくないのです。ぴりぴりするほど辛いコチュジャンを混ぜて、薄赤い御飯を一口食べると、歯の間からぼろぼろと出てきます。それで口を閉じてもぐもぐと食べたのですが、そのことが今でも懐かしいのです。
14 田舎に行けば、本当におもしろくて、素晴らしいことがたくさんあります。そこであらゆることを研究し、材料を収集して、将来の大きな人生設計のために準備をするのです。私には、そのような経験がたくさんあります。
ですから、農村に行けば農作業もでき、海辺に行けば漁夫になって魚を捕ることもできます。私は網打ちをするにしても、明け方に出ていきます。どのみちやるのなら記録を出すのだ、という信念をもってするのです。明け方、一番鶏が鳴く頃に出掛けて、星が出るまでそれをして帰ってきます。私は常に、世界において何であっても、負けるのは駄目だという主義です。どこに行って何をするにしても、絶対に負けないという考えをもっています。ですから、人には絶対に負けません。私が精誠を尽くす時もそうです。
涙が多く情にあふれた少年
真のお父様は、幼い頃から涙の多い方だった。この上なく情が深く、同情心の厚い少年だった。鳥や魚を捕まえ、家で育てているうちに死んでしまうと、親の立場を考えながら涙を流す、切ない童心の情を表された。弱い友達をいじめる人に立ち向かっていったこともあった。御飯を食べられない人がいるといううわさが耳に入れば、両親に隠れて、米の入った甕(かめ)から米を運んであげ、子供が生まれたのに食べる物がない家には、わかめと米を持っていってあげたこともあった。お祝いの日に新しい服も着ることができない貧しい立場にいる友達のために、深い温情を施された。
15 六歳を過ぎて七歳になれば、物心がつく頃です。学校に通う年の頃には、村にいる身重の女性たちのおなかがどれくらい膨れたら、いつ頃赤ん坊が生まれるか分かりました。私は、そのような女性たちについて調べ、米がなければ、一ヵ月前から米を持っていってあげました。妊娠した女性の家にわかめがなければ、わかめを買ってあげたりしました。
ですから、貧しく暮らす人たちは、すべての秘密を私に報告しました。そうなると、秋になれば、とにかく栗でも取って分けてあげたくなり、とうもろこしでも取ってその家に持っていってあげなければ、心が安まりません。そのような訓練をしたので、世界の人たちをみな、食べさせて生かそうとまで考えたというのです。
16 昔、村の中で、私の家は暮らし向きが良かったのです。満足に食べられず、貧しく暮らす村の友人が、弁当に粟飯や麦飯を入れてきて食べるのを見ると、取り替えて食べることはあっても、それを見て、何もせずに自分の御飯を食べることはできませんでした。
また、友人の両親が病気なのに、病院に行くお金がない時には、父や母のところに行って涙を流しながら、「私の友人の誰々の両親が病院に行けるよう、お金を下さい」と言いました。
年が十一歳くらいになった時、「米、大豆一斗(約十八キロ)を売って誰々を助けてあげるのだ」と父に宣布しました。そうして、父に内緒で一斗の米を担いで二里の道を歩いていったことが、今も思い出されます。縄や何かのひもでそれを結んで担いでいかなければならないのですが、そのまま担いでいくので、どれほど息がはずんだか、何度もハアハアと息が切れました。それが今も忘れられません。一生の間忘れられないでしょう。そのすべてが、み旨のために歩むことができる立場に立たせたのです。
17 私は、冬に震えて通り過ぎる乞食を見れば、御飯も食べられず、眠ることもできませんでした。そのような性格でした。それで、父と母に、「部屋に入れて御飯を食べさせてから送り出してあげよう」と言いました。それが、天の愛する根本になり得るものではないでしょうか。
村で御飯を食べられない人がいるといううわさを聞いたならば、どうやって助けてあげようかと考えて、夜眠ることができませんでした。それで、私は両親に内緒で、米櫃{こめびつ)から米を取り出して分けてあげたりもしました。
18 私は餅が好きでした。私が母に「餅を作ってほしい」と言うと、母は「畑仕事もしなければいけないし、息子や娘を結婚させようと思えば、反物も織らないといけない。だから忙しい」と言って、作ってくれません。休む間もない忙しい母でした。それなのに、しきりに「食べ物を作ってほしい」と言うので、簡単な小豆餅や蒸し餅のようなものを作ってくれるのですが、大きな蒸し器に餅を作っておくと、それが三日ももちません。すべて分けてあげるのです。
村で心配なことがあれば眠れません。それをよく考えてみると、天がそのような心情を指導したのではないかと感じるのです。村に貧しく暮らす人がいたりすると、どうにかして良い暮らしができるようにしてあげたいと思うのです。村で何か起きれば、それを人ごとではなく、自分のこどのように思ってするのです。心根がこのようになっていなければなりません。天性がそうでなければなりません。川上の水が澄んでいてこそ、川下も澄んだ水になるのです。人は霊的な存在なので、そのように生きてこそ、他の人たちがその人を頼りにして暮らしたいと思うのです。
19 私が幼い頃、我が家では数百箱規模の養蜂をしていました。養蜂をするときには、巣板をぴったり付けておくと、そこに蜂が巣を作って蜜の貯蔵所を作ります。巣は自分で作るというのです。その巣板は高価なものです。それをキャビネットのような所に積んでおくのですが、それを見つけて、(蜜蠟を)すべてこねるのです。
田舎に行くと、油がなくて明かりをともせない家があります。そのような家には、石油はあげられなくても、ろうそくの火だけでもつけられるように、それをあげました。そうしないと心が落ち着かず、我慢できないのです。ですから、(蜜蠟を)すべてこねて、一つ一つ配給してあげました。
私は世間知らずだったので、その当時のお金にするといくらになるか分かりませんでした。それで結局、父にひどく叱られました。ひどく叱られましたが、絶対に「間違っていた」という言葉は口にしません。父も、結局は途中で諦めて叱るのをやめてしまうのです。
20 ある障害者の夫婦がいました。男性は目が見えず、夫人は体に障害がありました。この夫婦は、村中で模範的な夫婦でした。夫人がいつも足を引きながら杖をついて夫を案内してあげるのです。口も曲がり、様々な障害をもっているのですが、夫はこの上なくその夫人を愛していました。冬になると、どこにも住む所がないので、必ずうちの精米所を訪ねてくるのです。
すると、むしろしかないので、私が布団を持っていってあげ、毛布も持っていってあげたりしました。それで、私のことを随分と気に入ってくれていました。そうこうするうちに、彼らが死んだという話を聞き、悲しくて泣いたことが思い出されます。
21 私も皆さんのように、はつらつとして希望にあふれた青春時代がありました。私は、このみ旨を知る前からかわいそうな人の友達になろうと考えていました。貧しく暮らす人に関心をもちました。子供たちがいても、裕福で力のある家の子供たちとは親しくしようとしませんでした。反対の生活をしたのです。村に御飯を食べられない貧しい人がいれば、私は寝るのも忘れてそれを解決してあげようとしました。こうしてすべての人と友達になって、すべての人の友達以上の道を行かなくてはならないと考えたのです。
不撓不屈の性格と予見能力
真のお父様は、幼い頃から一つのことをとことんまで突き詰める性格と、決して屈しない勝負根性の持ち主だった。正しいと判断すれば、絶対に先延ばしにしたり、待ったりせず、即座に行動に移された。このように幼少時代は、神様の救援摂理を完成すべき真の父母となるための資質と禀性を育てる期間だった。そして、真のお父様は、幼少時代から近隣の人々の病苦と災難を予見するなど、特別な霊力を見せ、周囲の人々を驚かせた。
Thursday Feb 02, 2023
真の父母経 第38話
Thursday Feb 02, 2023
Thursday Feb 02, 2023
第三章 真のお父様の摂理的準備時代
第一節 自然と共に過ごした幼少時代
自然と共に過ごしながら得た教訓
真のお父様は、定州普通学校を卒業する頃までの十八年間、故郷である定州郡徳彦面上思里の周辺の二里から三里(八~十二キロ)を活動舞台にして、幼少時代を過ごされた。自然などから悟りを得る、重要な期間だった。真のお父様は、好奇心と探究にかける熱意が並み外れており、典型的な農村環境の中で、多彩で多様な情緒と資質を育まれた。特に鳥や昆虫などを通して、子に対する親の愛を観察しながら、人間愛の道理を確かめるなど、すべての事物が真のお父様にとっては情緒的な友となり、教材となったのである。
1 成長していく上で、情緒的に多くの教材を残してくれる所が故郷です。山を眺める時にも、忘れられない情緒的な網の目が張り巡らされています。また、小川を見る時にもそうです。小川には数多くの魚が棲み、数多くの虫たちが棲んでいます。そのようなものをすべて学びの材料として活用した場合には、自分が成長するようになります。そして、あらゆる知識の供給を受けるに当たって、忘れられない基本的な教材になるのです。
山河にいる動物や植物、自然界に関するあらゆるものを教材にして、自分が内的に成長する過程で、豊かさを身につけることができる多くの材料を与えてくれる所が故郷です。ですから、故郷の山川を懐かしく思うのです。
2 私が住む地、私が見ている周辺の村や山の尾根、山の向こうの地域まで、見ようと思えばいつでも行ってみたのです。私は幼い頃そうでした。そこに貯水池があれば、貯水池にいる魚という魚は、すべて捕まえてみます。鳥もすべて捕まえ、虫もすべて捕まえます。捕まえてみなかったものがありません。ですからよく知っています。ざりがにはもちろんのこと、魚がたくさんいる所はどこで、山の獣はどこにいるのかを、残らず知っているのです。そのようなものを何から何まで調査したので、魚を捕りに行くとき、どこに行けばよく捕れるのかを知っているのです。
3 私は毎日のように山に通い、平地では過ごしませんでした。山を歩き回ったのです。山に行けば、花もたくさんあり、鳥も多く、獣も多く、博物館のように、ないものがありません。人が作ったものは、自然から学んで作ったものが多いのです。自然を愛さなければなりません。満月になれば、私は家で寝ようとはしませんでした。松林に行きます。私の育った所は、おおかみもいて、虎もいましたが、月夜がどれほど神秘的か分かりません。
大きな松の木の下は、松葉が多く、草もあまり生えないので、雨が降ったとき、そこに座ったり寝転んだりしてもぬれません。どれほど素晴らしいでしょうか。そのような所に行って明るい月を見ると、吹いてくる風の音が神秘的です。そして、風で大きな木が揺れると、様々な色に反射するのです。それに酔いしれるというのです。不思議なことに、木と木がぶつかると音がするのですが、その音が人の話し声に聞こえるのです。「原理」は、そのような自然の中にすべてあるのであって、他の所にあるのではありません。
4 私は自然が本当に好きでした。ですから、山に行って座ったまま昼寝をすることもありました。大きな木に寄りかかり、自然の中で昼寝をするのです。そのように過ごしながら、山菜を採って食べたりもしました。このようなことが忘れられません。情緒的な人間として育つための、基本的な教材を私に提供したのだと思います。
山川にある木がすべて同じ木でも、それぞれの形が印象に残ります。それが情緒的な面において、追憶となって記憶に残る一つの教材であり、博物館なのです。
5 私の村に訪れる渡り鳥を、私はすべて知っていました。しかし、ある時、初めて見る渡り鳥がいました。まだら模様がどれほどきれいか分かりません。渡り鳥は、雛を産んで故郷に帰るのですが、どこで雛を産むのか、どうしてここに現れたのかを考えてみました。その鳥が現れた理由は簡単です。その周辺に巣があるか、水を飲みに来たか、この二つのはずです。水を飲む場合も、良い水を飲まなければならないので、良い水を探し求めて来たのです。
ですから、泉を探してみます。泉を探して良い泉があれば、間違いなくその泉の水を飲みに来るのです。それで、泉を見つけ出して二週間ほど見張りました。間違いなく水を飲みに来るはずなので、毎日のように朝から行って見張るのです。案の定、その鳥を発見しました。現れたのです。鳥たちを見ると、本当に不思議です。
6 故郷に小川があるのですが、私がそこに棲む魚という魚はすべて捕ってみました。どじょうもいて、鰻もいて、ありとあらゆる数多くの淡水魚がいますが、それらをすべて捕まえてみました。大きな池があれば、これらの魚をそこに投げ入れていたはずです。最近は、家でも魚を育てたりしますが、その時、そのようにできる池があれば、どれほど良かったでしょうか。
その頃は分別がなかったので、水たまりをつくって入れました。魚はどのような水でも、すべて生きていけると思っていました。ところが、一晩寝て起きて見ると、魚がすべて死んでいたのです。その訳も知らず、「精誠を尽くしてお前を生かしてあげようと思ったのに、どうして死んでしまったのか」と悲しみました。
そのようなところを見ると、私は情的な人です。死んだ魚を見ても、「おい、お前のお母さんが泣くだろうな。僕が泣いてあげるよ」と言いながら一人で泣きました。
7 私の家から二里余り離れた所に海がありましたが、私は他の人より短時間で往復しました。また、私は、鰻を捕るチャンピオンでした。私が小さい頃、「小さな目の子」と呼ばれていたのですが、その「小さな目の子」が鰻を一日に数十匹捕って煮込み、豚に食べさせたり、牛に食べさせたりしていると、うわさになりました。ですから、お客さんが来て鰻の話をすれば、私は「準備しておいてほしい」と言って、鰻を捕まえに飛び出していくのです。食事の時間に合わせて鰻を捕り、お客さんが喜ぶ料理を作って接待しました。鰻スープや、鰻の煮込み料理を食べようと口癖のように言っては、それを思う存分食べるのです。
8 万物は、人のためにつくられました。ごく小さな動物にまで真の愛を施すことができる主人の資格を備えるようになれば、恥じることなく堂々と神様の愛を受けることができるのです。子犬も人の愛を願い、すずめも人の愛を願い、くもも人の愛を願います。すべてが主人の愛を受けようとするのです。
昔、私は鳥を捕まえるチャンピオンでした。ですから、私が捕まえたことがない鳥はいません。渡り鳥たちも、捕まえられなければ、夜も眠れませんでした。
幼い頃はそうでしたが、成長してからは、その鳥たちに餌をあげ、泉を掘ってあげました。私が真心を込めて泉を掘れば、鳥がやって来て水を飲むというのです。また、私が食べ物をあげるとそれを食べ、私が行ったり来たりするのを見ても、飛んでいきませんでした。自分たちを傷つけないことが分かれば、人を好きになるようになっています。それは、人が万物の主人だからです。
9 動物たちも、春になれば、愛の相手を求めてさまよいます。鳥たちもそうで、昆虫たちもやはり同じです。夏に昆虫の鳴き声を聞いてみてください。その鳴き声には、二通りあります。一つはおなかがすいて鳴く声であり、もう一つはつがいになる相手に会いたくて鳴く声です。合図は簡単です。「おなかがすいているので、友達と一緒に何か食べに行こう」、それから「良い相手を探しに行こう」の二つです。
私は田舎で暮らしたので、昆虫を本当にたくさん捕まえました。また、捕まえてみたことがない動物はいません。山猫からたぬき、うさぎなど、すべて捕まえてみました。それは興味が尽きません。それらは一匹で住んでいると思っていましたが、すべて相手がいました。すべてつがいです。昆虫の世界も、鳥類の世界も同じです。
10 私は五葉松を愛しています。五葉松には、人間が食べられる実がなるからです。また、五葉松の実は、誰でもむいて食ベられるというものではありません。石で割らなければならないからです。どのように割ればよいか、その方法を知って割ろうとしても、正確にたたいてこそ割れるのです。ですから、誰もがむいて食べられるわけではないのです。
またこれは、植えても、凍ってひびが入ってこそ、初めて芽が出ます。普通のものとは正反対の時に植えるのです。春に植えるのではなく、秋に植えなければなりません。凍らなければならないのです。どのようにしても、その本質の素性は変わりません。その環境や与えられた条件に支配されることがなく、反対に環境全体を爆発させ得る内容をもっているので、そこから春を迎え、芽が出て、五葉松の木として育つのです。それが五葉松です。
これは、東西南北を中心にして、一つの中央線があります。そのような意味で、私は五葉松を愛するのです。また、この木はとてもよく育ちます。まっすぐに上がっていきます。根もまっすぐで、芽もまっすぐに上がっていくのです。
自給生活の訓練
真のお父様は、幼少時代、田畑の耕作、苗植え、草取りなど、田舍のあらゆる農作業を経験された。特に稲、豆、とうもろこし、さつまいもなどを上手に育てる秘訣、畑への肥料のまき方、山での落ち葉のかき集め方などを身につけながら、少年期を過ごされた。そして靴下や服、帽子も手作りで編んで使うなど、自給生活に強い一面をお見せになった。
11 私は学校に行って帰ってくると、もろ肌を脱ぎ、先頭に立って仕事をします。兄や姉たちと競争しても、いつも私が一歩先を行きました。農村で王のような勝利的農夫の称号を受けられなければ、その農夫の世界では指導者になれません。ですから、どのような土地に大豆を植えなければならず、小豆を植えなければならないのかをすべてよく知っています。
土地を見て、「ここは、さつまいもがよくできるのに、なぜこれを植えているのですか」と言えば、「そのようなことがどうして分かるのか」と言われます。すべて経験を通して知っているのです。私が農村に行けば、農夫の中の農夫です。漁村に行ってもそうです。船も造り、鮪(まぐろ)を捕まえるシステムも開発しました。
Thursday Feb 02, 2023
真の父母経 第37話
Thursday Feb 02, 2023
Thursday Feb 02, 2023
9 許浩彬女史は、大母様に「再臨主が履かれる革靴と紗帽(サモ)を安州で作ってきなさいと、天がおっしゃっています」と言いながら、自分が受けた啓示を伝えてくれました。大母様はその話を聞くやいなや、安州で革靴と紗帽を上手に作ることで有名な家を訪ねていって、「精誠の限りを尽くして作ってください。お金は欲しいだけあげますから、最高の物を作ってください」と言い、サイズを書いて帰ってきました。一週間ほどしてから行ってみると、革靴は上手に作ってあるのですが、紗帽が気に入らないのです。その紗帽を受け取るやいなや、腕がしびれ始め、目がぐるぐる回り、身動きすることもできなくなりました。挙げ句の果てには、その家の床に足がくっついてしまったのです。そこで、「もう一度作ってほしい」と言ったところ、体が少しずつ動くようになりました。大母様が目をむいて紗帽を作った人を叱ると、(その人は)ぶるぶる震えながら、「きちんと作り直します」と言いました。一週間後にもう一度行ってみると、今度は本当によく作ってあり、気に入ったといいます。お金を払って平壌に持っていくと、心が落ち着きました。その話を許浩彬女史にすると、笑って喜んだといいます。それから約一ヵ月後に、また夢を見ました。大母様は、夢のお告げを非常にはっきりと受ける方ですが、一ヵ月前に(夢で)会ったその方がまた出てきて、「私はもっと北に行って勉強しなければならないので、あなたが一番大切にしている掛布団と敷布団、それから洋服を一着、背負い袋に入れてほしい!」と言われるのです。それで、「そのようにいたします」と答えて家に入ると、不思議なことに、掛布団と敷布団がきれいに準備されていました。洋服も、淡い色の服でしたが、良い布でできた物が準備されていました。ですから、「本当に有り難く、驚くべきことだなあ!」と思いながら、真心を込めてそれを包み、背負い袋に入れてさしあげました。すると、それを担いで「私は三年したら来るから、あなたは三年間、心変わりせず、待っていなさい」と言われ、北に向かって、口笛を吹きながら独り寂しく行かれるのです。その後ろ姿を見つめながら、大母様はいつまでも泣きました。独り、勉強しに行かれる姿が、この上なく寂しく見えたのです。もちろん、その間に心変わりすることはあり得ませんが、「取るに足らない私に向かって、三年間、変わらずにいなさいという、畏れ多いみ言を下さって行かれるのだなあ」と言って泣いている途中で、夢から覚めました。そのように、大母様は再臨主と既にお会いしたのです。
10 一九四六年八月、腹中教信徒の中の一人が共産党当局に密告して、許浩彬女史と腹中教の幹部たちが警察に捕まり、大同保安署に拘禁されました。内務署員が許浩彬女史に、「お前の腹中にいるイエスはいつ出てくるのか」と尋ねると、彼女は「数日後に出てこられる」と答えました。天から、しきりにそのような指示が下りたのです。許浩彬女史は、再臨主が監獄において出てこられる日時を話していたため、二、三十人の信徒が白い服を着て、毎日監獄の門の外に立っていました。また、内務署員は、それまで作っておいた服を、一つ残らず持っていってしまいました。
天から「再び作りなさい」という指示が下り、一年間以上、精誠を尽くしてもう一度その分を作りましたが、その時もまだ、許浩彬女史は出獄できずにいました。
11 一九四六年六月頃、お父様はソウルを離れ、北朝鮮の平壌に行き、景昌里で集会所を開き、伝道をされました。その頃、北朝鮮の共産党当局は、宗教団体に対する弾圧を始めました。腹中教の許浩彬女史などが、宗教の名を語って人をだましたという罪で立件された時、お父様も、それと類似した団体の指導者であり、李承晩政権のスパイであるなどの容疑で、大同保安署に拘禁されました。特に、摂理的新婦格として準備された腹中教が、新郎格であるお父様のところに自ら訪ねてくることができなくなるや、お父様は二度にわたって人を送り、勧告されました。それでも、最後まで拒否した結果、神様は獄中にまで訪ねていかれたのです。
お父様は、八月十一日から百日間、獄中での苦難に遭いながら、許浩彬女史と接触しようと数度にわたって手を打たれましたが、許浩彬女史は、最後までお父様が誰であるか気づかず、そのような摂理的に適切な(天の)処置に対して、顔を背けたまま不信の道に行ってしまいました。お父様は十一月二十一日、過酷な拷問により瀕死状態に陥ったまま、放免されました。天の加護が共にあったのです。しかし、その頃、腹中教幹部の多くは拷問を受けて死亡し、その後の六・二五動乱でも戦没しました。天の祝福と恩賜に対して、責任を果たせなかった摂理的使命者の結末が、どれほど過酷で厳しいかを教訓として教えてくれる、生きた歴史です。
12 大母様と趙元模おばあさんは、生涯にわたって再臨主を迎えるための準備をする信仰生活を貫かれました。世の中と妥協したり、安逸な家庭環境に安住したりせず、全面的に天のみ前に奉仕しながら、至誠を尽くされました。大母様が主を迎えるために、歴史的な受難の道を歩んできたがゆえに、私(お母様)もそこに同参(一緒に参加すること)したのです。私もそのような訓練をしました。み旨のために行く道であれば、何であれ犠牲にしてきたので、私たちの家門に神様が共にあったのです。
13 大母様の生涯のように、皆さんも誇ることができる一生を送らなければなりません。真の父母様の両家の父母のうち、大母様が最も高齢までお父様に侍られた方でした。それで、お父様は、「大母様」という称号を下さったのです。そのように「大母」の称号を受けるまで、天のみが知る血の涙の精誠祈祷をされました。
お父様に侍る前は、再臨主に会わせてくださいと祈り、お父様にお会いしてからは、真の父母様の家庭のために一層精誠を尽くされたのです。なぜなら、霊的によく御存じだったからです。真の父母様の家庭を守るために、サタンとの闘いをされたのです。大母様は、十年間、闘病生活をしながらも、真の父母様の家庭のために祈られました。
14 今後皆さんは、自分のために財物を積み上げておいてはいけません。節約するのは良いのです。しかし、み旨のために節約しなさいというのです。自分の一族と一国家、南北統一のために、皆さんがもっているものをすべて投入することができなければなりません。自分の家ばかり保護してはいけません。ただもつべきものは、神様の愛によって真っ赤に燃え上がる、その一つの心情だけです。
ですから、大母様のように、二十四時間、神様のみ旨と父母様のみ旨を成就させることを考えて生きなければなりません。大母様には、その考えしかありませんでした。それ以外のことは考えもしなかったのです。私たちが尊敬すべき方です。ですから、「大母」という名前を私が授けたのです。
15 大母様は、父母様の聖婚以降、労働者の妻から皇族まで、ありとあらゆる女性がお母様を打つという局面を収拾するために苦労しました。お母様一人では、これに耐えられないので、三代にわたって打たれなければなりません。その代を受け継ぐために、責任を果たしたおばあさんであることを知っているので、お父様は「大母」という名前を与えたのです。女性たちが行く愛の道で、泰山峻嶺(大きな山と険しい峰)のように立ち塞がっている垣根を崩してしまわなければ、お母様に降りかかってくるので、「あらゆる重荷を私に背負わせてください」と痛哭し、そのことをしてきました。「父母様の家庭のあらゆる心配を解消してください」と言ったのです。
そうして、今や恨多き犠牲の道を通じて、国家基準を越え、世界基準を越えて、統一天下に向かい、解放に向かって前進できる時代に来たのです。
この転換期に自分の責任を果たして逝き、すべての人が忠心で奉るべき資格をもったので、「大母様」としたのです。皆さんは、この方の一片丹心の心情を引き継ぎ、自分の子孫に対して、神様に侍る伝統を正しく立てなければなりません。このおばあさんは、神様に侍るために生きました。神様を皆さんの家庭に迎えるには、それ以上の一片丹心、忠情の道理を尽くさなければなりません。
一九八九年十一月四日、揮毫を「忠心奉身」としましたが、忠誠に満ちた一片丹心の心をもって、生畜の祭物になる道を歩みきったこのおばあさんのように歩むとき、迫害なく神様から福を受けることができるでしょう。
16 大母様は、生涯にわたり、ただ一つの所に向かって信仰生活をしてこられた方です。その中で私たちが特別に記憶すべきことは、新たな摂理歴史において「再臨主が人として来られる」と宣布し、新しい教団を準備したすべての役事に、最初から参加してきたということです。聖主教を中心として母の系統を引き継いだのは金聖道であり、それが一代目です。
そして、もう一つの系統が腹中教の許浩彬です。その系統で信仰の主流的歴史の伝統を引き継ぎ、来られる再臨主を迎えるために、選抜走者として走ってこられた方が大母様です。
お母様を生んで三代のエバの役事を経たのですが、お母様の時代に来て実を結ぶことができるというみ旨を暗々裏に知って、準備してきたおばあさんなのです。その間にあった苦労というものは、とても言い表すことができません。周辺にいる兄弟や親戚、仲間など、誰も理解できないこの道を独りで歩み、生食をしながら、ありとあらゆる役事を経てきたのです。
しかし、最後まで自分の中心思想を曲けずに歩んでくることによって、お母様がお父様と出会える基台を造成しました。
Tuesday Jan 31, 2023
真の父母経 第36話
Tuesday Jan 31, 2023
Tuesday Jan 31, 2023
10 「韓民族」という言葉は、その源流を尋ねてみれば、「韓」に由来します。「韓民族」とは、古代から私たちの民族を呼ぶ固有の名称です。その意味は、最も秀でた民族であり、偉大な民族として、天のみ旨を立て、世界を一つにする天孫民族ということです。そして、韓氏は悠久な歴史をもった王族の血統であり名門の血統として知られています。このような血統を通して、天は母を求めてきたのです。
11 「한(「韓」も同音)」とは、一つという意味であり、神様も意味し、宇宙万象の合一も意味します。また、大きいという意味があり、宇宙万象を包容するという意味もあります。満ちるという意味で、充満していることを意味します。そして、神聖で立派であり、世界の「最上」と、万象の「太初」であることも意味しています。私たち韓(한)民族は、神様の天命を受けて歴史の主体となり、真理の主体となって、神様のみ旨を地上に実現する役割を担う民族なのです。
12 私たちの民族は、倍達民族です。「倍達」というのは、光明の国、輝く国、天をあがめ尊ぶ国を意味します。それで檀君を倍達王ともいうのです。数千年前の上古時代から、既に私たちの民族のことを倍達民族と言ったのです。
聖書の歴史を見ると、天はノアやアブラハムなどの中心人物を立てて役事(働き)をしてこられ、結局はイスラエルを選民として選んでイエス様を送られたのと同じように、大昔から天孫民族として、弘益人間(ホンイクインガン)(広く人間世界に利益を与えること)の思想をもつ天民として、韓民族を選んで準備されたというのです。結果的に、再臨主を送る摂理をされたと言うことができます。
したがって、私たちは、後天開闢時代に、平和王国創建の先鋒に立てるため、天が選んだ選民の血族が韓民族であることを、肝に銘じなければなりません。
13 訓民正音(フンミンヂョンウム)とは何でしょうか。正しい音を聞いて学び、訓(おし)える国民は、千年の歴史、万年の歴史においてすべてが滅んでも、残るというのです。それが東夷民族であることを、私は知りました。古朝鮮から四千年の歴史と見ていますが、古朝鮮の前に三千年の間、「韓」があったのです。その「韓」の韓半島における根拠地が清州であると考えています。私は今、東洋史における古代韓国の歴史書を編纂し、年代的関係が途切れている歴史をつなげようとしているのです。
第三節 真のお母様と神霊教団
新しい天の摂理を準備した神霊教団
神様が再臨のメシヤを韓国の地に送るための摂理を急がれる中、一九〇〇年代初頭から、このような神様の摂理を、先立って知っていた篤実なクリスチャンの間で神霊運動が起こり始めた。その神霊運動は、李龍道師を中心とした新イエス教会、金聖道の聖主教、許浩彬の腹中教に脈々と受け継がれた。このような基盤の上に、天の新婦を迎えるための摂理が、神霊教団を中心に、同時に進められてきたのである。
1 神様は、今まで韓国の地で、キリスト教を中心に神霊の役事をしてきました。解放前の一九三〇年代と一九四〇年代に、神様はこのための準備をさせてきました。神様のみ旨に従うべきキリスト教は、そのような立場で神様の内的な事情に従い、内的なみ旨を立てなければなりません。神様は、数多くの家庭を通して、あるいは数多くの開拓者を通して、このような役事をしてこられました。
鉄山、平壌、または元山のすべての動きは、その時代的環境に対応させるためでした。キリスト教が従わなければならなかったので、それを一歩前進した環境で、神様は準備させてこられたのです。
2 神霊的な役事をした人の中で、鉄山に金聖道という方がいました。そして、咸興(ハムン)には白南柱という人がいました。白南柱氏は、総督府から聖主教の認可を得た人です。霊界からすべて教えられてそうしたのです。
「裸足で鉄山に行きなさい」という霊界の指示を受けた白南柱氏は、鉄山に行きました。咸興から平壌まで六十里から七十里にもなります。裸足で鉄山に行って金聖道女史に会いました。そのようにして東と西が会ったのです。会って、来られる主がこの地に来た時に、苦難を受けないように準備したのです。そうして、聖なる「聖」の字と主人の「主」の字を入れた「聖主教」がつくられました。
しかし、金聖道女史の主張と、その他の人の主張との対立が表面化するようになりました。金聖道女史は、「天が私を中心として、エバの使命について教えてくれたのだから、主が来られれば私がお迎えしなければならない」と主張したのです。
3 金聖道女史の家庭が責任を果たせないことによって、その使命は至誠を尽くして金聖道女史に侍っていた許浩彬という婦人に引き継がれました。その婦人は、すべて主を中心として生活をしてきました。天は、その婦人にまず罪を脱ぐ方法を教えてくれ、その次に生きていく方法を教えてくれ、またその次には、主が来られたあとに子女を育てる方法を教えてくれました。
その許女史は、主に侍って生活し得る法度と全体的な規則を立てて準備しました。許女史は、解放前からそのような準備をしなければなりませんでした。七年前からそのような準備をしてこなければならないというのが原則です。そのようになっていれば、韓国の解放を中心として、再臨理念が出発するようになっていました。そうしてこれを引き継いで、新しい役事をしていかなければなりません。その時は一段階離れます。「自分が主である」と言うのではなく、「主を生む」と言います。腹中を通して主が生まれるというのです。それは、復帰だからそうなのです。それがマリヤ的使命です。
4 二千年前、イエス様がイスラエルの地にお生まれになるまで、天は多くの準備をされました。イエス様が天の家庭を形成し、一つになった国家をつくり、世界へと出ていくことができるよう、あらかじめ準備させました。しかし、その当時、準備されて責任をもっていた中心人物たちは、天の深いみ旨や事情よりも現実問題に汲々とし、イエス様のことをきちんと理解できず、イエス様に侍ることもできずに、ついに十字架に送ってしまったのです。ですから、イエス様の復活後、二千年間続いてきたキリスト教文化を中心として、新しく来られる主を迎える新婦としての準備がすべてできるよう、天は無知な人間たちを悟らせながら役事してこられました。
天は、韓国を選民の国として選ばれ、韓国のキリスト教の歴史がまだ浅いにもかかわらず、解放前後を通して、新しい主を迎えるための内的な準備をする団体を立てられました。腹中教を立てた許浩彬夫婦を通して、天は内的にどのように再臨主に侍るべきかを直接的に教えてくださいました。イエス様が生まれてから、三十三年の生涯路程を歩み終えるまでの不幸だった恨を解いてさしあげるため、すべての衣服をそれぞれの年齢に合わせて作るようにするなど、あらゆる準備をさせたのです。
真のお母様に結実した神霊役事の基盤
真のお父様は、「金聖道を中心とした聖主教と、許浩彬を中心とした腹中教が、大母様を経て、お母様にまで連結されてきた」と語られた。特に、洪順愛大母様は、来られる主を迎えるために、神霊教団である聖主教と腹中教に通って多くの精誠を尽くし、献身した。そのような過程で、許浩彬の母親が真のお母様に対して、「天の新婦になられる方」と祝福したのだが、これはあらゆる神霊役事の精誠基盤が、大母様を経て真のお母様に承継されたことを意味するのである。
5 根のない木がないように、お父様とお母様が真の父母様の名前をもつに至るまでの過去の根を知らなければなりません。人は誰でも、良い環境、良い家族、良い血統を、どのようにして最後まできちんと整えるかが重要です。
大母様は、一九一四年、陰暦二月二十二日、平安北道の定州で出生され、来られる主をお迎えし侍るために、一生の間、渾身の力を尽くして生きてこられた方です。今までのすべてのキリスト教徒たちは、主を迎えるために生きましたが、大母様の一生は、それとは異なる道を歩まれました。主を迎えるために、実践の道を歩まれたのです。
6 二千年前のイスラエルの国においても、主を迎えるための内的な準備が多くあったように、解放前の韓国においても、再臨主を迎えるために準備した団体が数多くありました。そのように、復帰摂理の役事を内面的に果たしてきた団体も数多くあったのですが、母方の祖母と大母様は、そのような団体を訪ね回りながら、ひたすらみ旨のためだけに、ひたすら主に出会うその日を準備するために生きてこられたのです。結局、そのような信仰生活が、私(お母様)をこの場にまで導きました。
母方の祖母と大母様は、絶えず深い信仰生活をされました。常に分別され、清潔な生活、清い生活をされました。私は、生活のほとんどを大母様から学びましたが、母方の祖母からも影響を受けました。
7 趙元模おばあさんは、キリスト教の家庭で生まれました。信仰心と愛国心が篤く、すべてのことに熱心でした。一九一九年、三・一万歳運動が起こった当時、満五歳になった大母様を背中に背負い、その隊列に加わって万歳運動をしている写真を見た覚えがあります。それほど、素晴らしい方でした。大母様も、このような祖母の熱心な信仰生活の影響を受けて、十九歳までは長老派教会の信仰をもっていらっしゃいました。
鉄山で、金聖道女史が教主をしている聖主教が活発に集会を行っていましたが、祖母と大母様は、そこで熱心に信仰生活をされたのです。
8 私(お母様)が生まれた翌年の一九四四年頃、大母様は、趙元模おばあさんと共に腹中教に入り、主を迎えるための準備をしました。ある日、許浩彬女史が、「女性はみな、服を一着ずつ作ってこそ、再臨主が顕現されても恥ずかしくない」と言いながら、午後一時くらいになっていたのですが、大母様に向かって、「夜になるまでに服を一着作りなさい」と言いました。普通の人の服であれば、数時間で作ることができますが、主の服を作るというので、いい加減にはできませんでした。しかし、大母様は従順に従いました。手がぶるぶると震えましたが、感謝の思いでその仕事をやり遂げました。
ある時、大母様は、夜も昼も霊的に再臨主に侍って暮らす許浩彬女史がとても羨ましくなり、「夢の中でも、再臨主に一度お会いできれば、死んでも恨みはない」と思いました。すると、夢のお告げがあったのです。
夢の中で、大母様はきれいな小屋にいました。上下に白い服を着て、台所で食事の準備をしたあと、ぬれた手をエプロンで拭きながら出てくると、祖母が、「この部屋は、誰も入れない部屋だ」と言うのです。しかし、言い返すわけでもなく、丁寧に扉をそっと開けて入り、おとなしく座ったといいます。すると、壮健な方が、東に向かって机を一つ置き、頭に手拭いを巻いて座って勉強していたのですが、さっと向きを変えて座るのです。そして、「私は、あなた一人を探し求めるため、このように勉強しているのだ」と言ったというのです。そのみ言が非常に有り難く、畏れ多くて、涙が自然と流れ、言葉が出なかったといいます。それで、その方の手を握って泣いているうちに、目が覚めたというのです。起きて初めて、「本当に不思議だ。あの方が恐らく、再臨主なのだろう」と思ったといいます。そのように、大母様は夢のお告げを通して、真のお父様に初めて会われたのです
Sunday Jan 29, 2023
真の父母経 第35話
Sunday Jan 29, 2023
Sunday Jan 29, 2023
第二節 真のお母様の家系
天が準備された家系
真のお母様の父親である韓承運(ハンスンウン)氏は、一九〇九年一月二十日、父・韓炳健(ハンビョンゴン)と母・崔基炳(チェギビョン)のもと、五人兄弟の長男として生まれ、教鞭生活を送る中、一九四六年五月頃に南下した。そして、南下後はソウルと京畿道の小学校で奉職するなど、一九七四年二月まで、四十一年にわたって教育界で活躍した。洪順愛大母様は、一九一四年、陰暦二月二十二日、篤実なキリスト教信仰をもった父・洪唯一(ホンユイル)と母・趙元模(チョ・ウォンモ)(一八八九年、陰暦十一月七日—一九六二年九月三日)のもと、一男一女の長女として、平安北道の定州で生まれた。母方の祖母、趙元模女史は、勤勉で活動的な新時代の女性だった。その先祖の中の一人である趙漢俊(チョハンヂュン)が、私財をはたいて平安北道定州の撻来江(タルレガン)に大きな石橋を造ったという話が伝わっている。
1 私(お母様)は、一九四三年、陰暦一月六日の明け方、平安南道の安州で生まれました。私の村は、都会から遠く離れた所ではありませんでした。家の裏には小さな山があり、小川が流れる、とても穏やかで、温かい感じを与える所でした。ちょうどめんどりがひなを抱くような感じです。裏庭には、家族が食べるために栽培していたとうもろこし畑がありましたが、そのとうもろこしがとても大きかったことを覚えています。お父様の故郷である定州と、私の故郷である安州の間には、川が一つあります。
2 私(お母様)の故郷である安州は、昔から軍事的にも政治的にも、とても重要な所でした。それで、平安道という地名は、平壌と安州から一文字ずつ取って付けられたのです。その地域は平野なので、農業に適していて、食べ物が豊富でした。古朝鮮の時期には、既に町を形成していたといいます。
そこを流れる清川江(チョンチョンガン)を中心として、平安北道と平安南道とに区分されますが、お父様の故郷である定州までは約六十キロメートルで、平壌までは七十五キロメートルほどです。大母様は、聖主教があった鉄山(チョルサン)まで行って、新しいみ言を求め続け、毎日のように精誠を尽くしましたが、鉄山は実に百二十キロメートルも離れている所でした。
3 真のお母様の母方の祖母である趙元模おばあさんは、趙漢俊の直系の子孫です。この趙氏は、国の名に使われる「趙」の字です。ですから、国の母になる方が大母様の母親でした。このように、伝統のある歴史がつながっています。それは実話です。
定州にある撻来江(タルレガン)の橋は、数十年過ぎても誰も修理せず、放っておいたために崩れだし、人が渡れなくなりました。その橋を通っていく道が塞がってしまったのです。そして、それを放っておいたので、洪水が起こって橋が崩れ、土砂が押し寄せてきて埋まってしまいました。
そこに預言がありました。「岩を削って撻来江の橋に立てたチャンスン(村の入り口に立てた村の守り神の像)のような標石が埋まってしまう日には、国がなくなり、現れる日には、韓国に新天地が広がる」という預言があったのです。
4 中国の使臣が韓国に来ようとすれば、定州にある撻来江を渡らなければならないのですが、その当時は橋がありませんでした。橋を架けるお金が国になかったのです。そこで国は、その橋を架けてくれる人物を探すために、公示文を貼り出しました。その時、私(お母様)の母方の先祖に当たる趙漢俊おじいさんが、私財をはたいて橋を架けたのです。橋は石橋でしたが、その下を船が通れるほど大きな橋だったといいます。そのおじいさんは、橋を造るのに全財産を使い果たし、銅銭三文だけが残ったそうです。それで、「あすは橋の竣工式に行く」と言って、その残ったお金でわらじを買っておいて眠りにつきました。すると夢の中に白い服を着たおじいさんが現れて、「漢俊よ、お前の功労は大きい。それでお前の家門に天子を送ろうとしたが、残しておいた銅銭三文が天に引っ掛かったので王女を送ろう」と言ったというのです。その夢を見てから撻来江に行ってみると、その丘の上に石の弥勒仏ができていたといいます。
5 橋の竣工後、撻来江の河岸の土の中から、石の弥勒仏が勢いよく出てくると、村の人々は小屋を造って、雨風を浴びないようにしました。その弥勒仏が次第に大きくなり、屋根を突き破るようになると、改めて新しい小屋を造りました。ところが、不思議なことに、この弥勒仏はおなかがふっくらと出ていました。問題は、趙氏一族に生まれた娘たちもみな、弥勒仏のようにおなかが出て、結婚もしていない乙女が、妊娠していると誤解を受けたことです。それで、ふっくらと出ている(弥勒仏の)おなかを削ったところ、そこから血が出てきたそうです。石から血が出てきたのですから、不思議で霊妙でもあり、恐ろしくもなってきて、急いで石灰を塗って塞いだといいます。そして、馬に乗って弥勒仏のそばを通り過ぎるときは、馬から降りて礼を尽くさなければ、馬の足が地面にくっついて動かなくなる、という話も伝え聞きます。
このように、衷情(ちゅうじょう)に満ちた趙氏の家門を通して、天は趙元模おばあさんを送られたのです。そのように神様の環境創造が、その趙漢俊おじいさんの時から始まり、私(お母様)にまで連結されたのです。
6 お母様の母方の祖母は趙氏ですが、その趙氏たちが住んでいる所は、裕福な村でした。国の官職に携わった人たちが集まって住む、瓦ぶきの家が立ち並ぶ村です。そこに趙漢俊というおじいさんがいたのですが、お母様の母方の祖母が、その直系の子孫です。ですから、そのような伝統を中心として、母方の祖母と大母様が、お母様をとても愛しました。真心を込めてお母様を育てたのです。
大母様が、来られる主をお迎えしようと、八道江山(パルドガンサン:韓半島全土)を駆け回るのに忙しく、満足に家庭生活をすることができないので、母方の祖母がお母様を育ててくれました。そして、霊界についてのあらゆる秘密を、誰よりも知ろうとしたのがこの家門です。
7 母方の祖父である洪唯一おじいさんは、背が高くて美男子でした。初めてお父様にお会いした時も、容貌がそっくりで、同じ印象を受けたので、見知らぬ人のようには思えませんでした。それに、その時代に、嫁にハイヒールを買ってあげるほど、新しい考え方をもつおじいさんでした。
母方の祖母である趙元模おばあさんは、小さくて顔がきれいな上に、勤勉で活動的でした。勉学ばかりに多くの時間を割くことはできませんでしたが、当時としては新時代の教育を受けた女性であり、ミシン販売をされていました。ミシンを売ったあと、故障したミシンの修理もしたのです。
天の新婦を準備した韓民族
真のお母様の本貫は、忠清北道の清州である。真のお父様のみ言によれば、「忠清」は「心の中心が清い」という意味であり、「清州」とは「清い郡」ということである。川や海の水が澄んでいれば、魚だけでなく、水底までのぞき見ることができるように、「心の中心が澄んだ道人になることを目標にして歩む人々が暮らす郡」という意味である。そして、清州韓氏(チョンヂュハンシ)の「韓」は、「韓国」を代表し、「宇宙」を代表する。また、「韓(ハン)」は「一(ハナ)」を意味するものとして、「一番」という意味もある。神様が、清州韓氏を通して天の新婦を準備されたのである。
8 韓国は、四千三百年の歴史をもち、その歴史の中に古朝鮮時代がありました。私たちの民族は、天文を研究して天の運勢を解き明かした東夷民族です。天文学の博士たちだったのです。韓国の歴史を見ると国教があったのですが、新羅時代と高麗時代には仏教、朝鮮時代には儒教でした。私たちの民族の起源を遡ると、古朝鮮以前に韓氏が住んでいたとい記録が出てきます。
9 私たちの国の歴史学者たちは、古朝鮮以前の時代に、檀君(ダングン)をお生みになった桓雄(ファヌン)が治める国があったと主張しています。
歴史の記録に出てくる「桓」は、昔の発音に従えば「韓」と表記します。ですから、桓雄と韓雄は同じ言葉です。もちろんこれを「神話だ」と言って中傷する人たちもいます。しかし、檀君神話には、韓民族を天孫民族として選んだ神様のみ意が込められています。その当時の遺物や関連資料も発掘されていて、それが事実であることを示しています。
「韓民族」という言葉や「大韓民国」という国号の根源を知っている人は、多くありません。その根源は「韓氏朝鮮」から見いだすことができます「韓氏朝鮮」と呼んだのです。私たちの民族が「韓民族」であり、私たちの国号が「大韓民国」となったのは、正にこの「韓」に由来しているというのです。結局、韓氏の先祖がこの国を建てたという話です。
Saturday Jan 28, 2023
真の父母経 第32話
Saturday Jan 28, 2023
Saturday Jan 28, 2023
第二節 真のお父様の家系
家門の伝統
南平文氏(ナムピョンムンシ)の始祖である武成公(ムソンゴン)・文多省(ムンダソン)は、西暦四七二年二月に、今日の全羅南道(チョルラナムド)羅州市(ナジュシ)南平邑(ナンピョンウプ)楓林里(プンニムニ)にある、長者淵(チャンヂャヨン)という池の近くにある大きな岩の上の石箱でお生まれになったが、その石箱には赤い字で「文」と刻まれていたと伝えられている。南平文氏の族譜を見ると、新羅時代の慈悲(チャビ)王が、夢の中で「この国に特別な赤ん坊が生まれたので探しなさい」という命を受け、南平にある文巌(ムナム)という岩で泣いている赤ん坊を探し出したところから、文氏の先祖が出発したと記録されている。また、文多省は、真興(チンフン)王の時代に輔相(ポサン)(大臣を従え、国王を助けて国を治める人)を兼ねて大国師(テグクサ)(国王の学問上の師)に昇格したのち、端正な容貌をした人々を選んで、風月主(プンウォルヂュ)(花郎徒-ファランド-の首長)と呼び、孝、忠、義を教えたという。真のお父様は、「南平文氏は、伝統的に良心的であり、操を立てて不義と妥協しない、恐るべき頑固さをもった一族」とされ、「八道江山(パルドガンサン:韓半島全土)から我が家を訪ねてくる人は、誰であっても厚くもてなしてから送り出しなさい」という家門の伝統があると語られた。
1 世界の人々は、お父様の血統がどこに連結されているのかを探ります。大韓民国の歴代の先祖たちが犠牲になった土台の上に連結されているのです。犠牲とは何かというと、肥やしになることです。肥やしのある所に生命の種を植えると、よく育ちます。歴史時代に受難を経て、苦痛を受けたその民族は、生命の種を受けてすくすくと育てることができます。このような受難を経た地域では、聖人が出生するのです。義の人、義の主張、義の国、義の主義が発生するようになっているのです。
2 お父様は、南平文氏です。南平という言葉は、南の平地を意味します。南とは理想のことです。南の国に平地を築いていける活動舞台、自然舞台が待っているというのです。文は「文章」の「文」の字です。文の字を見ると、「又」の字の上に点(、)を載せているので、祭祀にお供えするお膳と同じです。
ですから、文氏は祭司長の責任を果たさなければなりません。祭主にならなければならないのです。祭物を供え、神様の恨を解いてさしあげる祭主にならなければならないということです。私はそのように考えて生きてきました。
3 自分の先祖の中で、国の忠臣や聖人、聖子の功績をもつ人がいれば、その人を先祖の中の先祖として奉らなければなりません。文克謙(ムングッキョム)という方は、高麗時代に、武官と文官の間を行き来しながら和解を取り結ぼうとして客死しました。文克謙おじいさんは、歴史的な伝統をわきまえて、朝鮮時代五百年の歴史を綴り得る橋を架けたのです。そして、綿の種を中国から持ち込んだ文益漸(ムンイクチョム)おじいさんから二十三代目に私が入っています。
4 私の家は、曽祖父が引っ越してこられてから定州に住み始めたのですが、家には家訓があります。その家訓とは、「八道江山を慕いつつ、八道江山から貴い客が訪ねてくることを願い、来る客人たちを、真心を込めてもてなしなさい。通りすがりに訪ねてくる客人たちを、真心を込めてもてなしなさい。そうすれば、八道江山の福が、我が一族に訪れる」というものです。
ですから、訪ねてくる客人の接待に手抜かりがあってはいけないというのです。その背後に何がついているのか分からないので、この上ない真心でもてなして送り出せば、後代に福がやって来るのです。「三千里の全土から訪れる福なので、その福はそのような基盤の上で出会うようになり、そのような基盤を通して福を受ければ、さらに三千里半島を越えて世界に分け与えられる福が押し寄せてくる」と考えるのです。
5 私が両親に有り難く思うことは、家訓があるために、「家に出入りする人を絶対にそのまま帰さずに、必ずもてなしてから送りなさい」と言われたことです。乞食が来たといって冷遇してはいけないというのです。私の祖父もそうでした。伝統がそうだったのです。
冬に乞食が訪ねてきて「御飯を下さい」と言えば、食事中でも祖母や母が即座に出ていくのですが、準備をしていなければ、祖父が自分のお膳を持って出ていくのです。知らないふりをして御飯を食べることができません。乞食に食事をあげて、自分は食べられなくてもかまわないというのです。私は、今まで世界の人々のためにそのようにしました。
湖南(ホナム)地方、嶺南(ヨンナム)地方など、八道江山(パルドガンサン)の人々が、以北(現在の北朝鮮)を経て中国に行くときには国道を通っていきます。村に来て一晩泊まっていこうとすると、「あっちに行けば文氏の家があるから、そこに行って泊まりなさい」と教えられるのです。それで、私の家はいつも、春夏秋冬、四季を通して客間が空いていませんでした。ですから、食事の用意をする母が、一生の間苦労したことを私は知っています。八道の人々に御飯を食べさせた、その家門は滅びないのです。八道から歓迎される後裔が生まれるというのです。
6 私の家には、いつも人がたくさんいました。私が八歳の頃、眠りから覚めて起きてみると、見知らぬ人たちで客間がいっぱいでした。そうして夜に宴会をしました。どうして集まっているのかと尋ねてみると、「独立軍が来た」と耳打ちするのです。その時、その人たちは天幕のような所で寝泊まりし、屋根にも上って歩き回り、塀も片手を付いて飛び越えるという話をたくさん聞きました。
その人たちに、夜食として麵料理を作ってあげました。鶏を料理して麵を作るほうが、御飯の仕度よりも早く、たくさんの人に食べさせることができるからです。おなかをすかせた人がいれば、主人が食べられなくても、彼らに食べさせなければならないというのが家訓でした。そのような教育を受けたのです。
7 真の父母の家門にも、愛国忠臣の歴史的伝統を備えなければなりません。私の家では、不思議なことに、家族の中で誰かがたばこを吸ったりお酒を飲んだりすると蕁麻疹(じんましん)が出ます。お酒も飲めず、たばこも吸えません。また、家庭の伝統で立派な点は、妾を置いたことがないことです。ですから、私の祖父の代から見ても、儒教思想を中心に最高の信仰をもってきました。
私の従祖父は牧師でしたが、預言書に関するすべてのことに通じていました。私の母や家族も、祈ると未来について知ることができました。
真のお父様の家族
南平文氏が平安道と咸鏡道(ハムギョンド)一帯に根を下ろしたのは、忠宣公(チュンソンゴン)・文益漸(ムンイクチョム)の五人の息子のうち、三男の毅安公(ウィアンゴン)・文中實(ムンヂュンシル)の時からであり、その中で毅安公の五代目の子孫である文達(ムンダル)が平安北道の定州に定着した。真のお父様の高祖父・文成學(ムンソンハク)は、毅安公の十九代目の子孫に当たり、禎浩(チョンホ)、禎機(チョンギ)、禎紇(チョンフル)など、三人の息子をもうけた。その中で末息子の文禎紇が、正に真のお父様の曾祖父であり、上思里に初めて基盤を築いたのである。
そして、文禎紇は、致國(チグク)、信國(シングク)、潤國(ユングク)の三人の息子をもうけたが、長男の文致國が真のお父様の祖父である。文致國は、真のお父様について、「この子は将来、大きな人物になるので、彼が願うことは何でも助けてあげなさい」と語った。文致國は、慶裕(キョンユ)(一八九三年、陰暦七月十一日~一九五四年十月十一日)、慶福(キョンボク)、慶球(キョング)など、三男二女をもうけ、文慶裕忠父様は、延安(ヨナン)金氏の慶繼(キョンゲ)(本名は周觀(チュグァン)、一八八八年、陰暦十月十五日~一九六八年一月七日)忠母様と婚姻をした。忠母様は定州の有力者で、独立運動と五山学校の設立にも携わった父・金伯洪(キムペコン)と母・仁同張氏(インドンチャンシ)のもと、三男二女の長女として生まれ、朝鮮時代に最も多くの科挙合格者を輩出した延安金氏の家門で富裕な生活を送りながら、貞潔で気品を備えた姿に成長した。背が高く、闊達、情熱的な性格だった忠母様は、真のお父様の再臨路程において、完全な母子協助の摂理基盤を築く犠牲的な人生を送った。
8 私の家庭は、曽祖父の時に神様の祝福を受けました。しかし、祖父の時になって蕩減を受けました。祝福を受けたあとには、蕩減を受けることになります。イスラエル民族も、祝福を受けたあとには、必ず蕩減を受けました。十の祝福を受けたならば、必ずそれだけの蕩減を受けなければならないのです。
ですから、私が神様の召命を受けるまでに、私の家庭に相当な混乱が起きました。財産を失い、人命被害もありました。それだけではなく、私の身近な人々に混乱が起きたりもしました。このように、祝福を受ければ、絶望的な状態に至るまで、神様はその家庭をサタン世界に差し出します。そうすると、サタン世界がしきりに打つのです。三代にわたって蕩減の歴史がありました。
Saturday Jan 28, 2023
真の父母経 第34話
Saturday Jan 28, 2023
Saturday Jan 28, 2023
3 大母様は、私(お母様)を生んだ直後に神秘的な夢を見たそうです。日本の統治下で太平洋戦争のまっただ中の頃でした。朝鮮総督府では、家ごとにくまなく探して、穀物と金物を手当たり次第に奪っていきました。戦争に必要な補給物品と武器を生産するためでした。奪い取った大量の物資は、日本列島に天高く積み上げられていきました。
ところが、ある瞬間から、供出された物資が船に積まれ、玄界灘を越えて韓国の地にやって来たそうです。そして、それが私の家の前庭に一つずつ積まれていったといいます。日本に行っていたすべてのものが、そっくりそのまま返還されたというのです。そこで、大母様は夢から覚めたそうです。今考えてみれば、その夢は、カインとアベルを和解させ、一つにして、天の父母様へと進んでいくべき母の道を象徴的に見せてくれたように思います。
4 韓国には、聖書とイエス様を信じさえすれば天国に行けると、単純に、そして盲目的に信じている形式化したキリスト教団とは異なる、特別な霊的教団が多くありました。彼らは、再臨主を迎える準備をし、主の花嫁を立てさせるため、神様から多くの啓示を受けていました。これが、私(お母様)が生まれた前後の宗教的状況であり、私は特別に準備された霊的な家庭で生まれました。私がきょう、その当時のことを思い、悲しみに浸ったのは、大母様が所属していたその教団が、到底言葉にできないような苦難を経たことが思い出されたからです。彼らは、常に神様の啓示を受けながら過ごしていました。そして、蕩減路程を通して、主の道を平坦にするために、実に信じ難い苦難の道を歩んできました。また、その中のある人は、監獄で死んでいきました。
彼らは、神様から召命を受けた人々として、神様に献身的に侍りながら、いつかはメシヤに出会えることを唯一の希望にして、苦難を越えていったのです。彼らは再臨主を迎えるために、多くの準備をしました。例えば、さじから衣服に至るまで、一切を準備しました。彼らは、服のサイズまで知っていたほど、非常に詳細に啓示を受けていました。しかし、彼らは不運にも、言葉では言い尽くせない苦難の中で、主に出会うことができず、一人、また一人と死んでいきました。彼らの使命は、三代にわたって引き継がれたのですが、彼らの啓示の最後の頂点において、私が生まれたのです。
「天の新婦」として祝福
真のお母様の聖誕は、単なる一個人の誕生という次元を超え、神様の摂理史の結実という次元から、その意味を見いだすことができる。二千年のキリスト教歴史は、再臨主を迎えるための韓国の神霊運動に連結され、これは再び、外祖母である趙元模女史、洪順愛大母様、真のお母様の三代にわたって結実した。特に、真のお母様が聖誕されて間もなく、聖主教の金聖道が拘束され、拷問の後遺症によりこの世を去ってからは、許浩彬(孝彬)の腹中教がその使命を受け継いだ。その後、許浩彬が投獄されて不在となる中、腹中教を率いた許浩彬の母親は、六歳になった真のお母様に対して、「天の新婦になられる方」と証して祝福した。また、真のお母様の聖誕以前にも、「宇宙の女王になるだろう」などの多くの預言があった。そのような過程を経て、再臨主を迎えるための精誠の基盤が、真のお母様に継承されたのである。
5 私(お母様)の父は、安州でお生まれになり、生涯を教師として生きられた教育者です。体格が良く、体力もあり、繊細な性格で、常に奉仕をしながら暮らしたといいます。何よりもキリスト教の信仰に忠実で、教鞭生活ゆえにいつも忙しい生活を送りました。李龍道牧師の「新イエス教」でも幹部として活躍し、大母様は祖母と共に、安州の「新イエス教」を拠点として信仰生活をされたので、自然に顔を合わせる機会がありました。お二人は、この頃に婚姻されました。
信仰生活に精進していた時、大母様が啓示を受けました。「洪唯一(ホンユイル)の娘よ、喜びなさい!お前の子が男の子であれば宇宙の王になり、女の子であれば宇宙の女王になるであろう」という啓示でした。この啓示を受けて結婚する当時、父の韓承運は二十六歳、大母様は二十一歳でした。それ以後、主を探し求めるために、絶えず尽くされた大母様は、鉄山の聖主教に通われ、婚姻して九年目に私を身ごもられたそうです。限りない精誠と篤実な信仰生活を通して、一つの生命を得たのです。
6 私(お母様)が生まれた時、神様が地上に主を送る計画について啓示を受けた、許浩彬という方がいました。その許浩彬女史の母親が、私が六歳の時、「この方こそ、天の新婦になるだろう」と預言したのです。許女史の母親は、「幼い少女が天の新婦になるであろう」という啓示を受けていました。当時、神様によって予定され、召命を受けた神霊教団が、主に以北に広まっていました。そして、平壌は、東方のエルサレムと言われるほど、キリスト教の勢力がとても強い所だったのです。
7 北側では、共産党の勢力が大きくなり、宗教に対する弾圧も激しくなりました。それで、許浩彬女史も、一九四六年八月に、平壌の大同保安署の監獄に入ったのですが、監獄で再臨主に出会うという啓示がありました。その時、お父様も平壌で伝道している中で捕まり、同じ監獄に入ることになりました。その監獄で、許女史の一番弟子を通して、許女史に送った手紙が看守に見つかり、お父様はひどい拷問を受け、歯まで折れる受難に遭われました。
私(お母様)が南に下る前に、許女史の母親が啓示を受けて私を呼びました。六歳の時でした。許浩彬女史の集団は、再臨主のために新婦の使命を果たす団体だったのですが、その名目のもとで私に祝祷をしてくれたのです。これから大きな使命を果たす人であるという祈祷を受けました。白いチマチョゴリを着たおばあさんが私一人を呼んで、「天の啓示があった」と言って祝福をしてくださった記憶が鮮やかに残っています。
8 北の西海岸地方に金聖道女史の聖主教がありました。金聖道女史が死んだあとは、許浩彬女史が引き継ぐようになりました。大母様は、その許女史に篤実に従っていた人でした。大母様は、お母様が四歳の時にその集団に連れていったのですが、許女史の母親が、六歳になったお母様を祝福しました。それは、お母様に使命が受け継がれる出来事だったのです。お母様に会った時に、お父様はそのような事実を知りました。神様によって準備されていたすべてのものが、一九六〇年に成し遂げられました。ですから、今、真の父母が現れるようになったのです。ここから子女に対する祝福が始まるようになりました。
真のお母様の名前の意味
真のお母様がお生まれになった頃、父親の韓承運(ハンスンウン)氏が夢で鶴を見て、真のお母様の名前を「鶴子」にしたという。
真のお父様は、真のお母様の名前について、「恨(韓国語で「韓」と発音が同じ)を抱いた神様について最高に学んだ学者(韓国語で「鶴子」と発音が同じ)となり、神様の相対の位置に進む」という意味があると解釈された。また、韓鶴子の「子」の字は、「神様の王子と縁を結ぶように生まれついたこと」を象徴すると語られた。
9 私(お母様)が生まれる頃、父は、夢のお告げ、幻想を御覧になったそうです。とてもうっそうとした松林の中に、澄んだ美しい陽の光がさし込み、二羽の鶴が和合する姿が見えたというのです。それで父は、私の名前を「鶴子」とお付けになったそうです。
10 お母様の名前は「鶴子」ですが、「鶴子」というのは「鶴の息子」ということです。鶴は、ヒマラヤの山脈を越え、平原に行って卵を産みます。これはエバの使命と同じです。「子」というのは息子のことを意味します。それは結局、女性として息子を慕うことを意味するのです。お母様の使命は、ヒマラヤ山脈を越えて平和の世界で息子、娘を生むことです。そして、鶴は入り混じったものを食べず、きれいなものだけを食べます。栄養があって、あっさりしたものだけを食べるのです。鶴は、一度飛び始めると、なかなか方向を変えません。そして、高く飛びます。それで、東洋では、鶴をとても愛するのです。
Saturday Jan 28, 2023
真の父母経 第33話
Saturday Jan 28, 2023
Saturday Jan 28, 2023
9 昔、私一人を亡き者にするために、私の家族に信じられない様々な霊的現象がありました。私はそのような環境の中で生まれ、様々な困難な環境を自らすべて解決してきました。もちろん両親もいて、親戚もたくさんいました。その中で従祖父(文潤國)は牧師でしたが、有名な方でした。漢文にもたけていて、中国の歴史にも精通している方でした。また、平壌神学校を出て英語もできました。西洋文明も見通すことができる、独立運動の先駆者でもありました。
そのような家庭的背景をもっていましたが、すべての問題を私一人で解決してきたのです。それは、どこの誰に相談しても分からないことです。私が将来歩もうとするその道については、両親も知らず、誰も知らないのです。その背後で、霊的現象によって一家族、親から親戚に至るまで、様々な問題が起きました。たくさんの出来事がありました。サタンはよく知っているので、私を中心に家族全体に悪影響を及ぼすのです。
10 私は、三・一運動を主導していたある家門で生まれました。私の従祖父、文潤國おじいさんがそのような人でした。私は、従祖父から「お前は、私よりも立派な孫にならなければならない」という話を聞きながら育ったのです。そのおじいさんは、私をとても愛しました。五山学校を建てたその背後には、私の従祖父がいます。
11 私の父について言えば、法がなくても正しく生きることができる方でした。もし父がどこかで急に借金をしてきた時には、その借金を返すと約束した日に、利子まで返してあげなければ耐えられない方でした。どのようなことがあっても、その約束を履行するのです。約束を遂行することにおいては、模範的な方でした。
12 私の母は、十三人の息子、娘を生みました。私の上に姉が三人もいます。息子としては私が二番目です。五人が亡くなり、残ったのが六人の娘と二人の息子でした。ですから、母がどれほど衝撃を受けたでしょうか。息子を育てて亡くし、娘たちも育てて亡くしたのです。
弟が死んで、その棺を父が運んで埋葬したのですが、私の兄は手伝うことができませんでした。父が責任をもって簡単な棺を組み立て、そこに弟の亡骸を入れて、肩に担いでいって埋めたのです。母は子供を亡くして泣いているので、父は一人で埋葬しました。そして、帰ってきても手を洗いませんでした。三日過ぎてから、ようやく手を洗って御飯を食べ始めたのです。息子を埋葬して、どうして手を洗って御飯が食ベられるでしょうか。それを見ると、父は法がなくても正しく生きていける人でした。先祖の遺言を法より恐れる人です。
13 私の母は、厚い徳のある方でした。男勝りの方で、とても激しい性格でしたが、嫁の役割は上手にこなしました。舅が朝、どこかに出掛けるというと、それに合わせて明け方から食事を作ってさしあげました。一生の間、不平も言わずに、そのようにしたのです。私は、母から多くのことを学びました。
14 私は、母にとても似ています。私の革命的な気質は母に似ているのです。父は学者です。父は、一度聞けば、最近のコンピューターのように忘れません。記憶力が優れていました。私の創造力は母に似たのですが、母方の祖父もそうでした。革命的な素質が多かったのです。母方の祖父は、自分の村で海と関連した仕事をするにも革命的でした。それで、私が六歳、七歳、八歳の時、その母方の祖父の家に行っては、祖父に付いて回りながら魚を捕ったりしたのですが、それをどれほど興奮して待ったか分かりません。
15 私の母は、赤ん坊をたくさん生みました。十三人を出産したのですが、母が語った言葉があります。「この世で『楽しい、楽しい』と言っても、ほかに楽しいことはない。赤ちゃんを生んで、お乳をあげて育てる、それ以上に楽しいことはない。年を取って赤ちゃんが生めないから、すべてがつまらなくて仕方がない」と語っていたのです。
母の顔を見ると、多くの苦労をしてかさかさになった顔です。様々な風霜をすべて経た母親の顔です。しかし、愛らしい赤ん坊を育てた、その苦労の姿がいいと言うのです。愛は困難と犠牲を伴いますが、その犠牲を忘れさせるのです。真の愛を実践すれば、犠牲になったことを忘れるようになります。そのような犠牲が肥やしとなり、肥料となるのです。また、自分の肉となり、骨となって、喜びになります。愛になるというのです。
16 私の兄は、弟の私に対しては、絶対的でした。カインの立場で完全に蕩減できる基台が自然に造成されたのです。兄の信仰は徹底していました。八・一五解放と六・一五動乱が起こることをあらかじめ知っていました。あらゆる困難な問題を、霊界の指示を通して解決するという、信仰態度を身につけていました。私の兄は、「歴史上に数多くの兄がいて、数多くの弟がいたが、自分の弟は歴史的な弟である」と思っていました。ですから、私が何か言うと、それを絶対視して、従ってくれました。
私が平壌にいる時のことです。その時は、復帰摂理の途上において、とても大きな役事があったのですが、私が頼んだことは、普通の考えでは信じられないことだったにもかかわらず、兄は様々な内容を整えて弟のために手助けをしました。その頼みがどれほど難しいことであっても、躊躇せずに助けてくれる兄でした。
17 兄は霊界に通じていたので、知っていました。「兄弟関係はどの家にもみなあり、一族の誰もが縦横に関係をもっているが、兄弟の中で私の弟が歴史で一番の弟だ」と、それだけは分かっていたのです。霊界からそのように教えてくれたというのです。
ですから兄は、私がしようと言うとおりに、すべてしました。「家を売る」と言えば家を売り、「牛を売る」と言えば牛を売り、学費がなければ土地を売ってでも出してあげようと、一つも反対しようとはしませんでした。ですから、カイン・アベルを復帰したのです。
第二章 真のお母様の聖誕
第一節 真のお母様の聖誕とその背景
聖誕の宗教的背景
神様は、ひとり子である再臨主をこの地に送られ、ひとり娘、実体の聖霊である天の新婦を送るための摂理を進めてこられた。特に、天は復帰されたエバを送るために神霊教団を立て、多くの準備をされた。それゆえ、真のお母様の誕生の背景には、神霊運動が韓半島において大きく広がっており、お母様の家庭はその中心に立っていた。真のお母様は、一九四三年二月十日、陰暦一月六日、母方の実家である平安南道安州郡安州邑(アンジュウプ)信義里(シニリ)二六番地において、父・韓承運(ハンスンウン)氏と母・洪順愛(ホンスネ)大母様(テモニム)のもと、一人娘として聖誕された。
1 摂理歴史の中心人物を見れば、母の役割がどれほど重要か、私たちはよく知っています。アブラハム、ヤコブ、モーセ、イエス様なども、その妻や母親の果たす役割によって、新しい歴史をつくり、花咲かせました。しかし、内的には、悲惨で苦痛に満ちた恨の歴史をつくってきたのです。私(お母様)が生まれたことや、今日までのことも、すべては偶然ではありませんでした。解放前に有名だった李浩彬(イホビン)牧師が啓示を受けて、仲人を務め、父と母を結婚させたのです。
2 普通の子は、生まれると「おぎゃあ!」と泣きますが、私(お母様)は泣かずに「ラッラ、ラッラ」と言ったそうです。すると趙元模おばあさんが、「この子は大きくなったら音楽家になるようだ」とおっしゃったそうです。
また、大母様が最初のわかめスープを飲んで、私を抱いて眠りにつくと、角の生えた真っ黒なサタンが近寄ってきて、「この子が生まれたことによって私は死んでしまう」と言いながら、赤ん坊の命を奪おうとしたそうです。それで大母様は、「サタンよ、退け!この娘は、私にとって本当に大切な娘なのに、どうしてお前は命を奪おうとするのか」と叫んだそうです。
よほど大声で叫んだのか、祖母が「まあ、お前は気が弱っているようだ」とおっしゃったそうです。大母様が「そうではなく、角の生えたサタンが来て、赤ちゃんの命を奪おうとしたので、大声で叫んだのです」と言うと、祖母は「それは不思議なことだ」とおっしゃったそうです。
ですから、大母様は、「この世に生まれるなり、サタンが命を奪おうとするところを見ると、この子は精誠を尽くして育てなければならない。今後、世俗に染まらないよう、清く美しく育てて主に捧げなければ」と思われたそうです。