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Sunday Feb 19, 2023
真の父母経 第51話
Sunday Feb 19, 2023
Sunday Feb 19, 2023
第三篇 公式路程の出発と「世界基督教統一神霊協会」の創立
真のお父様は、一九四五年八月十五日、韓国の解放とともに、復帰摂理のための公式路程を出発された。神様の解放と人類の救援、平和世界の実現に向けた大長征の始まりであった。何よりも待ち望んだ新時代が開幕したが、摂理の道には、形容し難い苦難が横たわっていた。真のお父様が新しいみ言を発表できない状況で、牧師や長老に会わなければならなかったため、彼らから摂理の新しい主人として認められるのは、ほぼ不可能なことであった。そのため、真のお父様は、神様と直接、交流できる神霊教団を訪ねていかざるを得なかった。当時、霊的なレベルが最も高い位置にいた金百文が率いる、イエス教会イスラエル修道院を訪ねていき、一九四五年十月から六ヵ月間、あらゆる精誠を尽くして奉仕活動をされたのである。金百文は、翌年の三月初めに、真のお父様について、「ソロモン王の栄光により来られた方」と証したが、その後は、侍って従わなかったため、真のお父様は、「これ以上、金百文を中心として神様のみ旨を成し遂げることはできない」と判断されそこを離れていかれた。
真のお父様は、このように韓国で摂理の基盤を築くことができなくなったため、北朝鮮の平壌に行きなさいとの啓示を受け、一九四六年六月六日、平壌に到着し、祈りによる精誠の祭壇を築かれた。平壌では、天の導きにより、篤実なキリスト教徒たちが集まり、彼らの伝道により、多数の礼拝参加者が来るようになった。しかし、教会員を真のお父様に奪われたと考えた牧師や長老たちの反対と告発により、真のお父様は、その年の八月十一日に、平壌の大同保安署に収監されることになった。そのような中でも真のお父様は、大同保安署で神霊教団の指導者と出会うことを知り、希望を抱いて入っていかれたのである。そこには、肉身再臨の啓示を受けていた腹中教の教主、許浩彬(孝彬)が捕らわれていた。
真のお父様は、許浩彬に、「私が誰か、祈ってみなさい。すべてのことを否定して出ていきなさい」と書いた紙切れを秘密裏に送ったが、彼女の不信によってその紙切れが看守たちに発覚し、共産当局の激しい拷問を受け、瀕死の状態で釈放された。結局、真のお父様は、朝鮮半島の南と北のどちらにおいても、キリスト教の指導者たちと神霊教団から反対を受けることにより、イエス様がユダヤ選民とユダヤ教の反対によって、四十日断食と三大試練を経たように、大同保安署での容赦のない拷問と、三大試練の路程を行かれるようになった。
その第一は、「主なる神の夫人」と語る朴ウルリョンを通した試練である。真のお父様は、僕の僕の位置から、神様の実体対象の位置まで上がっていく縦的八段階の蕩減復帰路程において勝利された。第二の試練は、霊界において、聖賢たちを中心とするあらゆる霊界の代表者たちを対象に、四十三日間にわたる真理闘争の路程であった。真のお父様は、血統転換、所有権転換、心情圏転換の三大主題についての熾烈な論争ののち、「文鮮明の主張が正しい」という神様の公認と御印を改めて受け、勝利された。第三の試練は、イエス様の使命継承者として再出発するため、イエス様が十二弟子を失って十字架の苦難を経たことを蕩減復帰する路程であった。真のお父様は、十字架にかけられた位置と同じ興南特別労務者収容所(興南監獄)で、十二人以上の弟子を復帰して勝利された。
特に真のお父様は、一九四八年五月二十日から二年四ヵ月と二十五日間、興南監獄で強制労働の苦役を受けることになった。興南監獄は、劣悪な食事と環境、苛酷な強制重労働により一年に囚人の四〇パーセントが死んでいくという、生き地獄だった。真のお父様は、そこで生き残らなければならず、言葉も行動も思いどおりにできない立場で、弟子たちを探して立てなければならなかった。伝道の方法は、天を感動させ、献身的な生活によって霊界を動員する道しかなかったのである。霊界にいる先祖たちが、収容所にいる子孫たちに夢のお告げや啓示を与え、多くの人々が真のお父様に侍り、従うようになった。
六・二五動乱の渦中、国連軍の上陸進撃により、興南監獄から九死に一生を得て解放された真のお父様は、昔の食口を訪ねるため、徒歩で十日間かけて平壌に向かわれた。最初に、獄中生活をする前に伝道された金元弼を訪ね、食口たちを訪問するようにされたが、彼らはみな、真のお父様の意向に従わなかった。四十日間の平壌滞在ののち、真のお父様は、金元弼と、監獄から先に出てきた足の折れた朴正華を自転車に乗せ、一九五〇年十二月四日に三人で平壌を出発し、徒歩で南下の道を歩まれた。
南下して五十五日目の一九五一年一月二十七日、釜山の草梁(チョリャン)駅に到着された真のお父様は、その年の五月十一日から一年かけて、『原理原本』を執筆された。そして一九五三年七月二十日、姜賢實を最初の開拓伝道師として大邱に送られたが、これが最初の公開原理宣布であった。
真のお父様は、一九五四年五月一日、ソウル北鶴洞の三つの門の家で、「世界基督教統一神霊協会」を創立された。協会の創立は、真のお父様が北朝鮮において蕩減路程を勝利した基盤の上で、キリスト教に代わるアベル的教団を立てたということであり、神様の復帰摂理が、協会を中心に新たに始まったことを意味する。

Sunday Feb 19, 2023
真の父母経 第53話
Sunday Feb 19, 2023
Sunday Feb 19, 2023
10 世界のキリスト教文化圏を中心とした民主世界は第二イスラエル圏であり、キリスト教は、民主世界の思想的な指導を受け持つべき立場、すなわちイスラエルの国に対するユダヤ教と同じ立場です。イスラエルとキリスト教は、このように霊的につながるようになっています。
したがって、再臨の役事は、霊的なイスラエル圏を相続し得る勝利的基盤を整えた上でしなければなりません。霊的な個人から霊的な家庭、氏族、民族、国家、世界圏まで、勝利的な基盤を整えて地上に現れなければなりません。
そうでなければ地上収拾作戦ができないというのが再臨の役事です。
霊界を屈服させて指揮下に置き、神様のみ旨に従って地上に君臨しなければなりません。このようになれば、地上では実体的な再蕩減路程を経ていけばよいのです。
このような点から見て、霊的に世界的なイスラエル圏が勝利しました。霊的に勝利したこの世界的イスラエル圏は、世界的な天使世界に該当します。したがって、再臨主は第三アダムなので、第二アダムであるイエス様が霊的に勝利した霊的イスラエル圏の足場を、相続しなければならないのです。
11 韓国は、解放後、キリスト教圏である民主世界の保護によって、世界が一つになったところに建てられました。その時にお父様は、新しい歴史的な使命を果たすため、建国当時の要人たちと手を結んで、最高の位置から出発することを期待しました。そのようにならなければならないにもかかわらず、キリスト教を代表した幾人かの牧師が反対することによって遮られ始めたのです。キリスト教を中心とした国家形態ができなければならなかったのですが、キリスト教の最高指導者たちが反対することによって、韓国のキリスト教が反対する道が生じるようになりました。
12 日本の帝国主義が、韓国のキリスト教を抹殺するために神社参拝をさせたのですが、そこには神社参拝を受け入れた群れと、神社参拝を拒否した群れがありました。神社参拝をしなかった人は獄中や地下に入り、神社参拝を受け入れた人は表に出るようになりました。
ですから、地下にいた内的な神霊集団の人々が主体となって、外的な人々を再教育して収拾していかなければなりません。その時、彼らは、「主は人として来て、自分たちの団体を指導する」との啓示を受けたのですか、その人がどのような人として現れるのかということは分かりませんでした。
彼らは一つになり、大韓民国が新たに独立する時に、それを主導する役割を果たさなければなりませんでした。ところが、解放後、内的な神霊集団が主体にならなければならないのですが、逆に神社参拝をした群れ、アメリカで勉強し、都合よく社会と接触してきた人たちが主体になりました。神様に対する新しい概念を中心とした再臨思想と連結された概念のもとで、教会の復興運動が起きなければならなかったのです。
解放当時、韓半島のキリスト教会のほとんどが以北にありました。大多数が平壌を中心として存在していたので、以北がキリスト教の中心になりました。ですから、以北の地で行われる教会運動が、国家的な基礎となり、精神的な基調となり得るキリスト教の新しい世界的活動のための神様の摂理基盤にならなければならなかったのですが、そのようにはなれませんでした。
国を中心として、カインとアベルの闘いをしたのです。教会の基地が立つ前に、サタンが先に入ってしまいました。先にカインの国が位置を占めたのです。ですから、仕方なく南側だけでも守るために新しい国を建てたのです。統一を成し遂げることができず、二つの国ができました。キリスト教を中心に統一された国家基盤を形成してこそ、神様のみ旨の基盤になるのですが、完全にサタン圏に移り始めたのです。
13 光復後、韓国では、神社参拝をしたキリスト教派と、神社参拝に反対して監獄に行った再建教会派、それから神霊的な集団、このように三つの部類ができました。キリスト教派は蘇生、再建教会派は長成、神霊派は完成です。
この神霊派がエデン復帰派ですが、旧約的エデン復帰派は朴東基派、新約的エデン復帰派はイスラエル修道院の金百文派です。その次に、成約的エデン復帰派は、婦人たちが主動となった許浩彬派です。彼らは、蘇生・長成・完成型の縦的な復帰をします。旧約時代、新約時代、成約時代の横的な復帰をするのです。再建教会派と神霊集団が完全に一つにならなければなりません。
そのような基盤の上に、お父様が立たなければならないのですが、洗礼ヨハネがイエス様を信じられなかったように、神霊集団の責任者たちは、主が人として来ることは知っていたのですが、その人が誰なのかは知りませんでした。
14 金聖道氏は、エバ的使命者であり、許浩彬氏はマリヤ的使命者です。許浩彬集団は、イエス様がこの地上に来て三十三年間生き、み旨を成し遂げられずに、(本来)願わない十字架の死の道を行ったため、それを復帰するためのあらゆる準備をしました。そして、「再び来られる主は、韓国人として来られるだろう」と言いました。その方の背丈はどれくらいで、体格はどうだということまで啓示を受け、衣服から寝具に至るまで、一切を準備したのです。
本来、そのようなものをすべて準備しなければなりません。それを準備した人が地上にいなければ、主を送ることができないというのです。昔、イスラエル民族が、主が横になる一間の部屋を準備できず、イエス様は飼い葉桶に寝かされるようになりました。そのような恨をもった神様なので、神様は一人を選んで、生活のあらゆる物、すなわち服と部屋と家庭用品の一切を準備させたのです。この時代に文化生活を営む東洋、西洋の誰にも負けない最高の水準で、すべての物を準備させました。
15 韓半島の東海岸地方で起きた霊的な運動集団には、李龍道牧師がいました。彼は、人々に多くの聖霊の火を受けさせました。そのようなことをすることによって、天は霊的な働き手を一つにまとめようとしたのです。霊的な運動も、二つの形態に分かれました。一つは内的で、もう一つは外的でした。
李龍道牧師を中心として新イエス教が出てくるようになりました。当時、許浩彬氏の腹中教と新イエス教を統一せよという、天からの指示がありました。それで、西の集団が一つになるために、東の集団がいる所を訪ねていきましたが、東の集団は西の集団を受け入れませんでした。この二つの集団が統一に失敗することによって、神様は一つの新しい運動、新しい分野の開拓者を必要とするようになりました。
神様は、御自身の指示を受け入れられる、他の一人の人を願われました。その人が金百文氏でした。白南柱氏は蘇生段階であり、李龍道氏は長成段階、そして、金百文氏が完成段階でした。李龍道牧師はイエス様と同じ立場であり、一九三三年に三十三歳で亡くなりました。このことから、神様が主のためにどれほど多くの準備をされたのかを知ることができます。神様は、日本の圧制に耐え抜けるようにしようと、そのように早くから準備をしていました。このような環境の中で、お父様は、自分が行くべき道のために準備を始めたのです。
16 お父様は数えの二十五歳前後の時に、全国にいる神霊的な人たちを訪ねて回りました。名のある牧師や名のある僧侶、易者などをすべて訪ねたのです。そうして、彼らの信仰観と私の信仰観を比較したり、理論的に討論したりしました。そのような牧師たちに、「堕落とは何か」と尋ねましたが、分かっている人はいませんでした。人間がどのように堕落したのかを知らないのです。根本が曖昧な基盤から出発したものは、いくら過程が驚くべきもので、結果が世界的だとしても、完全な完成の終着点に帰着することはできません。
しかし、彼らは、堕落の根源を全く知らなかったのです。お父様は、どのように堕落したのかという事実をすべて知っている観点から、大勢の神霊的な人たちに会ってみましたが、彼らは知りませんでした。だからといって、時になっていなかったので、発表することもできませんでした。
17 お父様は、少年時代を経て、青年時代を経て、分別がつく頃から聖書の内容を深く探究するうちに、神様の摂理がどのようになっているかを、すべて悟るようになりました。そうして二十六歳の時に、解放とともに新たな出発をすることになったのです。
まず、地下教会を遍歴しました。解放前数えの二十四歳の時から地下教会の遍歴を始めたのです。「神霊的な人たちはどのような道を歩むのか。神様の摂理はこのように進まなければならず、このように準備された団体が必ず存在しなければならないのだが」と思いながら、有名だと言われた神霊的な人々に数多く会ってみました。しかし、彼らは神様のみ旨やその方向を知りませんでした。ですからそのような人々を中心として精誠を尽くしてみ言を伝え、関係を結びました。
地下教会の責任者は知らなくても、その教会の中で霊界に通じる神霊的な人たちは、お父様を証しました。私が一週間だけ立ち寄れば、そこにいた神霊的な人たちが私の後ろに付いてくる現象が起こりました。ですから、地下教会も二つに分かれるようになったのです。神霊的な教会を編成するために、志のある人を集めなければなりません。
その人たちに教えなければならない内容は、主は雲に乗っては来ないということでした。これを十年ほど伏せたのちに発表していれば、数多くのキリスト教徒たちがお父様のもとに来ることを知っていましたが、天はそのようにすることはできません。正面から闘争しなければならないのです。神様は目に見えません。ですから、見える機関となり、見えないサタン世界と対峙し、克服して越えていかなければなりません。
18 お父様は、解放後三ヵ月目となる一九四五年十月に、金百文氏に会いました。私は、彼に大きな使命があることが分かりました。当時彼は、プロテスタントの修道院を一つもっていました。彼は「修道院を一つ所有するように」と天から言われていました。また、「再臨主を迎えられる勢力を準備するように」と言われたのです。それが、彼が天から聞いた内容です。ですから、お父様はその集団を訪ね、彼に会い、六ヵ月間彼と共に過ごしました。その期間に神様は、様々な方法で役事されました。
19 お父様は、金百文氏の集団に行き、僕暮らしをしました。当時、どれほど多くの涙を流したか、皆さんは考えることもできません。皆さんが想像もつかない切なる心情をもって祈ったのです。その時、祈っていた床には涙がしみ込み、流した涙が乾く日がありませんでした。
私は、彼が教えてくれた内容を批判することもできました。口さえ開けば、彼らを完全に屈服させることができたにもかかわらず、そこでは一言も話さずに、奉仕の生活を続けたのです。そのようにしたところ、神様が共にいてくださいました。彼らも霊的に明るい人たちなので、天が彼らに、お父様に従いなさいと命令を下したのです。
20 イエス様が洗礼ヨハネから祝福を受けたように、お父様は金百文氏からすべてを相続する予定になっていました。出会ってから数ヵ月後に金百文氏は天から啓示を受け、彼は私の頭に手を置いて、全世界のソロモン王の栄光が臨むようになるだろうと祝福しました。お父様が金百文氏に会ったことは、大きな意味をもっています。もし、金百文氏が天から、そのような祝福をしてあげなさいという啓示を受けたのなら、彼はすべてのことを知るために、私に質問をしなければなりませんでした。それが彼の五パーセントの責任分担でした。
ところが、当時、彼に従っていた篤実な追従者たちがお父様に従ったのです。彼はそれを知って、そのことを良く思いませんでした。いずれにせよ、お父様は彼から祝福を受け、彼がもっていたものを相続したのです。

Friday Feb 17, 2023
真の父母経 第58話
Friday Feb 17, 2023
Friday Feb 17, 2023
第二章 真のお父様の南下と釜山路程
第一節 真のお父様の南下路程
弟子と共に歩んだ南下路程
真のお父様は、一九四八年二月二十二日から一九五〇年十月十四日まで、二年七ヵ月と二十一日間、平壌内務署と平壌刑務所、興南監獄において厳しい拷問と苛酷な強制労役の中、死の淵を越えて蕩減路程を勝利された。
興南監獄を出獄されたのち、既に大勢の人々が避難していた平壌で、昔の食口の収拾に専念され、四十日後に南下された。
真のお父様は、十二月四日の夜、平壌のキリスト教を代表する新婦格の金元弼と共に、獄中の弟子を代表する天使長格として、負傷した朴正華を自転車に乗せ、大同江の下流から、船便で川を渡られた。黄海道(ファンヘド)の碧城郡(ピョクソングン)に着き、青龍(チョンニョン)半島の南端から龍媒島(ヨンメド)に入ったが、再び戻って凍りついた臨津江(イムヂンガン)を渡り、南下された。
平壌から二人の弟子と共に南下する苦難の路程は、堕落した人類を導き、創造本然の理想世界に率いていく、天の摂理の一面を象徴的に見せてくれるものであった。
1 私は、興南の監獄から出て平壌にまで来ても、両親が故郷にいるのは知っていましたが、故郷に行くことができませんでした。いくらでも行ってくることができたにもかかわらず、行けなかったのです。その時、故郷に行けなかったのは、監獄に入る前に私に従っていた食口たちの安否が気遺われ、彼らに会って収拾し、すべて通告してから故郷に帰らなければならないという考えからでした。それが天に従う正道です。
そうしているうちに、突然戦況が変わり、故郷には行けなくなりました。このような情勢になることは予測していました。それで、故郷に立ち寄らず、その食口たちを急いで捜し回ったのです。ですから、三十八度線を越える時に、「私がこのように故郷をあとにして発つのは、天のためであり、私が再び帰ってくる時は、私の手で以北(現在の北朝鮮)を解放し、私の故郷の地を訪ねて、天の勝利を称賛いたします」と祈りました。その祈りを中心として闘ってきたのです。
2 興南の監獄から出て、平壌に行って何をしたのでしょうか。平壌で事件に巻き込まれて監獄に入る前まで私に従っていた食口たちに、会わなければなりませんでした。それで、一人一人にみな会いました。最後の三人のうち二人は、年を取って亡くなっていました。もう一人は、所在が分かり、人を送って会おうとしましたが、結局会うことができず、避難の途に就きました。一九五〇年十二月四日に平壌を出発しました。
人民軍が(平壌に)入城して粛清をする過程の中で、私たちは出発したのです。その時、私は、足をけがした朴正華という人を自転車に乗せてきました。人民軍の銃声を聞きながら下ってきたのです。国道は人民軍が占領していたので、避難民たちはそのほかの小道や、道のない野原や山を越えて三十八度線まで南下してきました。ですから、人民軍とはわずか三里内外しか離れていない道を通ってきたのです。
朴正華が避難の途中で、「このままでは三人とも死んでしまいます。ですから、私が抜けましょう」と言いました。行く道で足手まといになることを知って自決しようとしたところを、私に叱られ、最後まで付いてきたのです。龍媒島に出る時は、朴正華を背負っていきました。朴正華を背負っていったのですが、潮水が入ってくれば、みな溺れて死ぬかもしれません。あの困難な泥道を歩いたことが忘れられません。
3 三十八度線を中心として、国軍警備隊は南側にいて、人民軍は北側にいました。三十八度線で警備隊が見張っているので、南側に行く道がすべて塞がってしまいました。それで、一般人は一人も三十八度線を越えることができませんでした。ですから、青丹(チョンダン)という所から船に乗って出なければなりません。三十八度線に問題が生じたことを、私が誰よりも先に知りました。
国軍警備隊が道の要所にいるので、三十八度線に問題があれば、彼らがまず先に移動するのです。一日前に国軍警備隊が移動することを知ったので、すぐに三十八度線をあとにしました。歩いて埠頭に行ってみると、埠頭から龍媒島までが一・五里です。(ぬかるみの中、人を背負って)二時間以内に一・五里をどのようにして行くのでしょうか。水が引き始めるのを見て、一・五里の道を歩かなければならないのですが、水が引く時から渡り始めて、水が戻ってくるよりも速く歩いてこそ、一・五里を渡ることができるのですが、危険千万です。天を信じて、あらん限りの力を尽くして走った時の思いが忘れられません。その一・五里の泥道を走ったのです。ですから、体は、頭から足の先まで泥だらけになりながら、潮水が埠頭を越える前に、やっとのことで渡り終えました。
4 私は、以南(現在の大韓民国)の地に下る頃、北朝鮮がどのようになるかということを見通していました。ですから、三十八度線をいかに越えるかという問題をめぐって、相当に苦心しました。
もしその時、私の言うとおりにしていなければ、出てくることができなかったのです。休みなく先を急がせました。警備隊員たちが三十八度線からすべて後退していたので、事態は非常に不利でした。そのような時は、素早く先に動かなければならないのです。
このようにして、龍媒島を通って韓国に向かう船に、一旦は乗ろうとしたのですが、その時、警備隊員がすべて後退していた状況だったので、一般人たちは船に乗ることができませんでした。ですから、龍媒島に行ったのに、私たちの乗れる船がないので、再び戻ってきて、三十八度線を越えて下ってきたのです。
5 私たちが臨津江の近くに到着した日、夜の間に臨津江の川辺まで行かなければならないという、そのような何かを感じました。そういう時、お父様は、非常作戦、非常措置を取るのです。アンテナを最高に伸ばして調べるのです。普通の時には、そのようなことはしません。
ですから、他の人たちは夕方になったといって、他の日と同じようにみな村に入って場所を取るのですが、私たちだけは午前零時を過ぎて一時に、臨津江に隣接する家に到着しました。その家の人は、みな韓国に行って、いなかったので、そこに入りました。ところが、私たちが到着した日まで、臨津江が凍らなかったのです。「今夜この川が凍らなければならないのだが」と心配したのですが、神様が保護してくださり、ちょうどその日の晩に凍りました。それで、明け方早くに越えていきました。
私たちが一番早く来たと思ったのですが、その村に先に来ていた人たちがたくさんいました。そして、国連軍の撤収に伴って、私たちの一行を最後に、道を塞いでしまったのです。そのあとに来た人たちは、みな後ろに引き返しました。このような時に一分でもうろうろしていれば、どうなっていたでしょうか。人の運命は時間が問題だというのです。躊躇していればすべて台無しにしてしまうのです。
そのようなことが私たちの人生にもたくさん起こるのですから、天道をかき分けていく道で、何事も起こらないことがあり得るだろうかというのです。ですから、どれほど深刻でしょうか。
6 興南の監獄から出たあとは、何一つ持っていない旅人でした。平壌から韓国まで下ってくる約二ヵ月間は、乞食をしました。ある時は、言葉で表現できないほど食べたいと思うこともありました。それでも、「神様、きょう食べる物がないので、何か下さい」という祈りは絶対にしませんでした。かえって神様を慰労したのです。
ある時は、「あすは間違いなく、ある美しい婦人が道端で何かをくれるはずだ」と考えると、翌日に間違いなく、考えたとおりに真っ白い服を着た婦人が道端で待っていて、「昨晩、夢で万端の準備を整えて待っていなさいと言われ、このようにお待ちしておりました。どうぞ召し上がってください」と言うのです。そのような出来事がたくさんありました。誰も否定できない生きた実績をもっているのです。
そのように助けてくれた村には、時が来れば、恩を返そうと考えています。神様もそうです。お父様と神様が互いに抱き締め合って泣いたその悲しみは、地上の人々は誰も知りません。その深い深い神様に向かう心情は、推し量ることができません。それを考えると、すべての細胞が締めつけられるようです。
三十八度線を越える時の決意
真のお父様は、三十八度線を越える時、「必ず、この手で自由世界を糾合して共産党を消化し、北朝鮮を解放して、南北を統一する」という、悲壮な誓いの祈りを捧げられた。真のお父様は、その日の祈りと誓いを忘れることなく、一生涯、闘ってこられた。臨津江を渡ったあと、紆余曲折の道のりを、ソウルまで八十数キロ歩くのに、一週間かかった。一九五〇年十二月二十一日、臨津江から出発して汶山(ムンサン)駅に到着し、十二月二十七日に漢江を渡り、平壌を発ってから二十四日目に、学生時代に過ごされたソウルの黒石洞に到着されたのである。
7 私は、三十八度線を越える時に祈った言葉を忘れません。「お父様、私は以南の地にまいります。私は以北に来て、み旨を成し遂げることができず、敗者の悲しみを抱いたまま、獄中の身の上を免れることができずに、追い立てられる群れの歩みに従って以南へとまいります。以南に行けば、また反対を受けるでしょう。十年の道、二十年の道、立ちはだかる道がどんなに遠いとしても私は行きます。行って、またこの道を訪ねてこなければならないことを知っておりますので、三十八度線より北に私が行けなければ、私の思想を植えつけて子孫に行かせるようにし、彼らが行けないのなら、私に従う弟子たちにでも行かせるようにいたします」という決心をして下ってきた人です。十年の歳月を一心不乱に闘ってきたのです。私が天のみ前に誓って進み出た歩みは、皆さんとは違います。
8 私が三十八度線を越えながら心で誓ったことは、誰一人として知らないでしょう。また、以北の興南監獄で三年近い歳月を送り、三十八度線の南側を中心として天のみ前に祈ったことを、誰も知らないのです。「悲しい環境ですが、きょう、三十八度線を越えます」と言って涙ながらに祈ったことを、一緒に来た人も知りません。私のために精誠を尽くした父と母を故郷に残し、「この親不孝者が再び帰ってくる日まで待っていてほしい。死なずに待っていてほしい」と言って出発したことを、私は忘れずにいます。また、私が共産党から拷問を受けながら、「私がこの目の黒いうちに、お前の一族を屈服させ、お前の口で神様の偉大さを称賛するその日を迎えてみせる。私は死なずにその日を迎えるのだ」と誓って決意した事実を、皆さんは知らないでしょう。それは今もなお、骨身にしみる心情として私に残っているのです。
9 お父様は一人、以北の地から追われる身で韓国を目指して下ってきました。それがついきのうのことのようです。その期間に夢のような出来事がたくさん起こりました。
興南の監獄から出て、韓国に下ってきたのは三十一歳の時で、まだまだ若い頃でした。その時、監獄から出ながら決心したことが、再出発でした。いくら困難なことが北朝鮮の地であったとしても、そこでのすべての困難を忘れ、その困難だった事実が、私の行く道に損害をもたらすのではなく、第二の出発をする上で一つの刺激剤になるだろうと考えました。
私は、いかなる道を通ってでも、み旨の道を完成すべき責任を感じていたので、監獄から出てきた三十代の若者として、新たに出発するという決意が強かったのです。(平壌から)三十八度線を越え、慶州を経て釜山まで来るのに、二ヵ月ぐらいかかりました。その時、釜山に来てみると、どこにも身を隠すことができないほど避難民たちでいっぱいでした。それで、仕方なく土窟を掘って避難生活をせざるを得なかったのです。

Friday Feb 17, 2023
真の父母経 第57話
Friday Feb 17, 2023
Friday Feb 17, 2023
11 お父様は、試練の渦中でも不平を言いません。迫害を受けるまっただ中に入っても、不平を言わないのです。国や町や家庭や個人が終局において攻撃してきましたが、私に勝つことはできませんでした。すべて敗れていきました。最後には、神様までもがお父様に反対しました。しかし、神様がいくら理解し難いことをしても、私は神様をつかんでいました。そうして霊界で四十三日間闘ったのです。
神様が反対するので、神様を中心としてイエス様が反対し、孔子が反対し、釈迦が反対し、ムハンマドが反対し、霊界全体が一つになって反対しました。しかし、四十三日間闘いながら、譲歩しなかったのです。神様は、四十三日の間に決裁をしなければならないようになっていました。それで神様は、お父様が天と地において最高の勝利者であると宣布したのです。
第四節 興南監獄とイエス様の使命継承路程
イエス様の使命を全うするための蕩減路程
興南監獄の試練は、再臨のメシヤとして、イエス様の使命を全うしていかれるための蕩減摂理路程である。再臨のメシヤは、クリスチャンたちが反対する中で、イエス様の使命を全うしていくために、十字架によって亡くなられずに、生きて監獄から出てこなければならないだけでなく、イエス様が失ってしまった十二人以上の弟子を、十字架上(監獄)で探して立てなければならない。北朝鮮の興南監獄は、人間を徐々に殺す十字架と同じであったが、真のお父様は、イエス様の使命を全うしていくための蕩減路程を勝利的に締めくくられたのである。特に、周辺の人に対して伝道することはできなかったが、霊界にいる囚人の先祖たちが子孫に夢で現れ、真のお父様に特別に良く接し、侍るようにと教え、真のお父様が監獄から出てこられるときには、十二人以上の弟子をもつようになられたのである。そして、興南監獄に収監されたのち、最初の二、三週間は、食事の半分を他の囚人たちに分けてあげ、定州にいらっしゃる忠母様(実母)が、定州から興南まで来て差し入れしたはったい粉と服も、すべて彼らに分け与えられるなど、人のために自らを犠牲にしながら、収容期間に三度も模範労働者賞を受けられた。毎日配給される飲料水の一部を残しておき、体を清められるなど、神様の息子であるという自覚をもって模範的な生活をされたため、天も感動せざるを得なかったのである。
1 イエス様は、霊界の地獄のどん底に行って、三日間の受難の道を克服しなければなりませんでした。イエス様が霊肉を中心とした勝利の基点をもたなければならなかったのです。ですから、道を切り開いておかなければ讒訴される立場になってしまうので、道を築かなければなりません。それゆえ、イエス様が霊界の地獄に行って開拓し、道を切り開いたのです。
お父様はそのような原則を知っていたので、以北(現在の北朝鮮)に行って監獄に入ったのです。私が平壌刑務所で手錠をかけられて刑罰を受けている中でも、「誰々に会うだろう」ということを、すべて約束されていました。「そこに行けば、イエス様の三弟子のような人に会うだろう」ということを約束されたのです。復帰の運勢圏の中では、そうでなければ天道と合いません。ですから、手錠をかけられて監獄に行く道も、最高の希望の道でした。
「これこれこのような人に会うだろう」という、その希望をもって監獄に入っていったのです。絶望の中で訪ねていったのではありません。私が監獄に入ったので、そこで道を築き、その苦労の功績を通して、その門が自動的に開くようにしなければならないのです。そのようにするには、完全に蕩減しなければなりません。監獄暮らしをして、獄中で祭物にならなければならないのです。それで、監獄に入っても、最も難しいことを私が引き受けて行いました。
2 解放後、お父様は、怨讐たちが群れをなす以北の地でみ言を伝えました。それで、監獄の道から出発したのです。お父様は平壌の監獄に入っていくときも、死なないことを知っていました。その上、「これこれこのような人に会うだろう」ということまで知っていました。お父様に何か必要な物がある時は、無知蒙昧な強盗や窃盗犯、殺人犯などの大勢の囚人たちに、霊界が「どこそこの監房に番号が五百九十六号の人がいるから、その方にこのようなものを持っていってさしあげなさい」と伝えて、来させたりしました。冬になって寒くなるのに、お父様の着る服がなければ、彼らに着る服を持ってこさせたり、また、私が食べることができず、おなかがすいた時には、思いがけない人に、お父様の名前と番号を教えて、食べ物を持ってこさせたりしました。そのようなことが一度や二度ではありません。
平壌の監獄に入れば誰に会うのかを知っていたので希望の中で一九四八年五月二十日まで過ごしました。その時、監房の窓辺をかすめた柳の葉を眺めながら、思いにふけったことが、ついきのうのことのようです。今も記憶が鮮やかです。そこで、天のみ旨に従っていくことを約束した人たちに会いました。彼らに会うことによって、怨讐の地、最も深い谷間から天の密会が始まったのです。そこから天の兵士を募り始めました。家庭と社会から追われ、追い出されたので、そのように監獄から始めたのです。
3 お父様が平壌刑務所から手錠をかけられて興南の監獄に行くのに、十七時間かかりました。それで、その車内で何を考えたでしょうか。深刻でした。唖然とするほど深刻な立場にいるお父様を見る神様は、どれほどかわいそうでしょうか。神様の六千年の摂理歴史を再び蕩減復帰しなければならないのですが、私のほかには誰もする人がいないのです。これを蕩減復帰しようとすれば、数千年はかからざるを得ません。知っている人は私しかいません。
ですから、すべての山野の外景を眺めながらどれほど深刻だったでしょうか。私一人しかいないのです。その時、最も悪辣な強盗と二人組になって手錠をはめられていました。
そのような状況で「いかにしてこの環境で生き残るか」を考えるのですから、どれほど深刻だったかというのです。
お父様は、以北の平壌と興南の監獄で、イエス様の公生涯に該当する二年八ヵ月の期間を送り、十二人の人を復帰することができました。十二人を復帰することによって、イエス様が失ったすべての条件を復帰することができたのです。たとえその人たちがお父様に従わなかったとしても、お父様が釈放される時、彼らの位置に、ほかの人たちを立てることができました。
お父様は、計画していたすべてのことを完遂したので、天は、天使長国家であるアメリカと国連軍を通して北朝鮮を攻撃するようにし、お父様を解放しました。そうして、監獄から出てくるようになったのですが、その時、四人の人が私に従いました。国連軍が韓国を守ってくれたので、その条件によって、天の運勢は再び民主世界に戻ってくることができ、キリスト教を復帰するための役事を始めることができたのです。
5 イエス様が死の道を行くことになった時、イスラエル民族が裏切り、愛する三弟子までも裏切りました。ですから、蕩減復帰の原則によって、監獄にいる時、イエス様が失った十二弟子と同じ数を蕩減復帰しなければならなかったのです。このような立場にいたので、お父様が興南監獄にいる時、口を開かなくても第二イスラエル圏内にいる霊界の霊人たちが伝道して、その数を満たしてくれました。このような歴史的な関係を経てきたのです。
共産党の厳しい監視と注目を受ける獄中生活でも、人知れぬ心情的な団結運動を、神様が責任をもって行ってくださいました。そこでは、あからさまに伝道することはできませんでした。しかし、お父様が口を閉じていても、霊界から伝道してくれたのです。
北朝鮮・興南での蕩減路程において勝利された真のお父様
真のお父様は、興南監獄で、誰よりも遅く休み、誰よりも早く起きる生活をされ、労働現場においても、同僚のために尽くしながら、最も難しい仕事を一手に引き受けられた。「監獄の聖者」と呼ばれるほど模範的な生活をされたため、天が感動せざるを得なかったのであり、すべての蕩減復帰摂理の条件を立てられた。興南監獄では、国連軍が興南に上陸したのち、一九五〇年十月十二日から、囚人たちを処刑し始めた。真のお父様の処刑日は十月十四日だったが、国連軍が、この日、総攻撃を断行すると、北朝鮮の人民軍が退却するとともに、真のお父様と収監されていた人々はみな、解放された。そして、真のお父様は、監獄から解放された直後、徒歩で十日かけて平壌に向かわれた。
6 十月十四日は、興南の監獄から出てきた日です。そこに入っていくとき、私はどれほど深刻だったでしょうか。何としてでも生きていかなければなりません。生き残ろうとすれば、死ぬと思われるような状況を通過しなければなりませんでした。ですから、労働する所で、いつでもその仕事場で模範となる人物として登場する人が私でした。それが生きていく秘法です。
働く人たちは数十人ではなく、千人近くいるのですが、看守たちが私を選定して、最高の実績を上げ得る材料にするのです。そのようになるのはたやすいことでしょうか。そのようにして生き残ったのです。
お父様は、このような道を走ってきて、み旨を成し遂げてきました。恨多き復帰の峠を越える責任者はどこに行ったのかというのです。民族の怨恨、世界のキリスト教が失敗した怨恨、呪い得るそのすべてのことに対して、私が責任をもって消化してきました。神様と共に働く人になり、その方の味方になり、自分の道を再創造して、私を中心としてキリスト教文化圏以上のものを編成してきたのです。
7 私が興南の肥料工場で働くことにおいてチャンピオンになったので、人々はみな私のあとにばかり付いてきました。朝、出ると班を編成するのですが、毎日同じ人たちと仕事をすることはできません。ですから、班を編成するとき、私がトイレに行っていたとしても、戻ってくるのを待って、私の後ろに付くのです。
そうすると、その中で最も仕事ができる人たちが集まり、そこで私が隊長になります。かますを縛ることから、引きずり出して貨車に積むことまで、することがとても効率的で、公式化されているのです。
ですから、仕事をしているとは考えず、他のことを考えます。国家的、世界的なあらゆることを材料にして、未来のプログラムを練るのです。そのようなことを考えながら働いていると、時間が過ぎるのも忘れます。ですから、他の人と同じように汗を流しますが、疲れを知りません。このようにすることが、精神的に力になるのです。このようにしていたところ、表彰があるたびに、毎回模範労働者に選ばれて賞をもらいました。そのようにして生き残ったのです。
8 「六・二五動乱」中の一九五〇年八月一日、アメリカ軍の日29爆撃機が総攻撃をし、興南を大々的に爆撃しました。お父様はこのようになることを予見していただけではなく、お父様を中心に直径十二メートル以内は、神様が守ってくださることを知っていたので、近い人たちに、みな私の周りにいるように告げました。お父様は、その中でじっと瞑想をしていました。爆撃のことは考えずに、今後の理想世界について考えていたのです。
結局、思想や理想をもった人こそ価値があるのです。このように復帰の使命を担った人を霊界に連れていけば、神様にとっては天宙的な損害になるので、神様はいかなる犠牲を払ってでも防備することを願ったのでありそのようにせざるを得ませんでした。
9 連合軍が爆撃をする数日前から、共産党は囚人たちを処分し始めました。ある日、彼らが麻ひもを集め始めたのです。お父様は、直感的に最後の時が近づいてきたことを感じました。お父様は本当に深刻な祈りを捧げました。
看守が、一人一人を呼び出して別の場所に移動すると説明しました。それが最後の道でした。そして、一人一人、井戸の中に逆さまに落として殺害したのです。次の番がお父様でしたが、その日の夜の午前二時頃、国連軍の総攻撃により、生きて興南監獄を出ることができたのです。
10 一九五〇年に国連軍が北朝鮮を爆撃したのですが、最初に興南を爆撃しました。お父様のいた興南監獄がその近くにありました。お父様は、その国連軍によって自由の身になったのです。そうなるまでに多くのいきさつがあります。
お父様は、東海岸にある興南から平壌まで歩いて帰ってきました。西側の平壌まで歩いていったのです。お父様は、以前に従っていたすべての人たちに、私が帰ってきたことを知らせながら弟子を捜してみましたが、ほとんど戻ってきませんでした。しかし、何人かの人を集めることができたのです。
11 一九五〇年十月十四日に釈放され、東海岸から平壌に向かって歩きました。平安南北道の境界線付近に来たとき、人民軍が、逃走しながら、峠を越えるたびに敵対する思想をもつ人たちを粛清していました。数十人ずつ並ばせて処刑していた、その峠を越えてきたのです。
その時は、刑務所から釈放されて、囚人服ではないほかの服を着て出てきていたので、人民軍は(私たちが)自分たちの敵ではないと思いました。死の峠を四回越えたのです。その時、四人の人が一緒に付いてきました。

Friday Feb 17, 2023
真の父母経 第56話
Friday Feb 17, 2023
Friday Feb 17, 2023
第三節 八段階の蕩減復帰と霊界での四十三日勝利
真のお父様の縦的蕩減復帰路程
真のお父様は、金百文から祝福された土台の上で、完成格エバの立場の女性に出会わなければならなかったが、それが、「主なる神の夫人」と自称する朴ウルリョンであった。彼女は当時、神様が導き、霊界が従って活動する立場にいた。そのため、真のお父様は、エバからの主管権復帰のため、朴ウルリョンを訪ねていかれたのである。真のお父様は、彼女の子女たちに付き添って世話をすることはもちろん、最低の立場で彼女に仕えながら、犠牲と奉仕の道を歩まれた。その老女は、僕の僕から、僕、養子、庶子、直系の息子、天の国の総理大臣、イエス様の位置、神様の対象実体など、真のお父様を段階的に証した。このようにして、エバからの主管権復帰歴史を締めくくり、縦的八段階の地位を探して立てられたのである。
1 男性から祝福の相続を受けたならば、女性からも祝福の相続を受けなければなりません。そうでなければ復帰ができません。ですから、金百文氏の集団を中心に男性から祝福を受けたので、女性からも祝福を復帰しなければなりません。そのようにしなければ、今まで韓国の地で神様が築いたすべての摂理基盤を相続することができません。
男性の前でそのような基準を立て、そこから分かれて出てきたので、次は女性の前で蕩減復帰をしなければなりません。女性が根本的な堕落をしたので、根本復帰をしなければなりません。ですから、今まで女性たちが受難の道を経てきたのです。僕の門を開け、養子の門を開け、息子、娘の門を開けるために、歴史路程で受難の道を歩んだというのです。
2 平壌に不思議なおばあさんがいる、といううつわさが飛び交っていました。神霊的な集団は、そのような事実を互いに隅々まで連絡し合っていました。その不思議なおばあさんは、自分のことを「神の夫人」と言っているというのです。世間の人たちは、「そのおばあさんは気が狂っている」と言いました。キリスト教でも「気が狂っている」と言いました。しかし、お父様はそのような女性が現れることを願っていました。その知らせを聞いた時、どれほどうれしかったか分かりません。お父様はその知らせを聞いて、「天よ復帰の使命を中心として、天倫の法度の土台をこの三千里半島につこのような女性たちを通して、神様が築いてこられたものを解決すべき問題が残っているので、私は平壌に行きます」と祈ったのです。
結局、キリスト教が従うことができなかったので、再蕩減の役事をしなければなりません。すべてを神様が導いてくださいました。三十八度線を越える時も、虹が前を導いてくれました。十二里の道を直接導いてくれたのです。このような驚くべき導きを受けて、平壌にいる朴というおばあさんに会って蕩減復帰の役事をしたのです。
3 いくら再臨主だとしても、祝福を受ける過程を経なければなりません。「あなたは世界的なアベルです」という祝福を受けなければならないのです。そのように祝福してくれる人に出会い、夜も昼もあらゆる精誠を尽くし、「すべての福を渡しても惜しくない」と思う心をもつようにしなければなりません。そのような基盤の上に、天が共にある世界的な祝福を受けなければならないのです。アベルとしての祝福だけでなく、メシヤとして祝福を受けなければなりません。再臨主になるためには、世界的なアベルの位置、メシヤの後継者の位置に立って祝福を受けなければならないというのです。しかし、息子がメシヤを祝福することはできません。それをするのは母親しかいません。メシヤが生まれるようにする方は母親しかなく、神様しかいません。メシヤは女性を通して生まれるので、祝福してくれる人は母親と神様しかいないのです。
ですから、「神の夫人だ」と言う女性が現れなければなりません。「神の夫人だ」と言う母が現れて、「自分が侍るべきメシヤである」と証言しなければなりません。そのような証言をするためには、その母から「お前は私の愛する子である」と言われるように、絶対服従しなければならないのです。そのような中で上がっていかなければなりません。そのような祝福を受けるためには、僕の僕としての本分を果たさなければなりません。
4 人々がお父様に従って侍りたいと思い、何か貴い物を持ってきてくれると、お父様は、神の夫人と自称する朴というおばあさんの家族にすべて持っていって捧げました。今日、統一教会員がこの民族を復帰するために、農村に行っておじいさん、おばあさんの世話をしたり、赤ん坊の鼻を拭いてあげたりすることは問題にもなりません。女性たちにもできない、そのおばあさんの洗濯の世話までしてあげました。どんな命令でも言うとおりにしなければなりません。復帰路程の公式がそのようになっているからです。
蕩減復帰歴史は僕の基準から上がってきたので、お父様自身も必ず僕のように扱われなければなりません。僕のように扱われるその立場で精誠を尽くせば、ますます復帰されるのです。どれほど心がはずんで楽しいか分かりません。その期間は、お父様が「原理は必ずこうである」ということを大きく開示する時までの試験期間でした。事実がそうかそうでないかを試験する期間だったのです。
このようにしたならば、天は必ず祝福をしなければなりません。僕の僕の位置から祝福復帰をしてくるのです。それが過ぎると、僕の中で最高の僕になります。そうしてさらに精誠を尽くすと、養子の位置で養子の祝福をしてくれるのです。
5 私が、「神の夫人」と語る人を訪ねていってみると、霊的な生活をしているのです。霊界の聖人、賢哲たちを連れて踊りを踊ったりしていました。イエス様が説教し、孔子が出てきて語り、モーセがやって来て話をするのです。
その中に入ったのですが、最初、お父様は僕、天使長の位置に入りました。すべての人たちが、「天が愛する僕の僕が来た」と言いました。その次は、自分たちよりもあらゆる面で優れているので、「ああ、僕だ!」と言いました。そのように証をしなければなりません。その次は「イエス様の弟だ」と言い、そのあとは「イエス様と双子だ」と言います。それが復帰です。その次は「お兄さんだ」、「天の国の総理大臣だ」、このように上がっていくのです。総理の次は神様です。天の国の総理なので「天の国の王だ!」と言うようになるのですが、王になるだけではいけません。
「霊界について教えてくれる先生の中の先生であり、父の中の父である。父であると同時に先生であり、先生であると同時に王である」と、このように神様に代わって呼ばれるようにならなければなりません。その次からは、今まで私が僕の僕として朴というおばあさんに侍ってきた道と、完全に逆の道を歩まなければならないのです。
四十三日の霊界勝利路程
真のお父様は、縦的八段階の位置を探して立てられたのち、四十三日間、霊界の試練を経ていかれた。イエス様と全霊界の聖人、賢哲たちが、真のお父様の原理のみ言に反駁する状況となった。そのため、真のお父様は、天理原則をもって、そのような反対に立ち向かい、独りで決着をつける闘いをされたのである。神様は、真のお父様の主張が復帰の恨を解く原則であり、天倫の秘訣の中の秘訣であると最終的に判定して、御印を押してくださった。
6 お父様は、朴というおばあさんから祝福されたのちに、「私は誰々で、あなたは誰々であるから、復帰の恨を晴らそうとする天のみ旨に屈服しなさい」と言いました。自分の思いどおりに操り、自分の思いどおりに「来なさい、行きなさい」と言うことができていた若い青年がそのように言い出し、とりわけ「私は神の夫人だ」と言っていた局面なのですから、屈服しなければならないとは、唖然としたでしょう。そこでそのおばあさんがおとなしく従っていれば、お父様も苦労しませんでした。そのように従順にするのは大変なことです。千人なら千人が、そこですべて敗れ去っていくのです。屈服せずに反対したその時から、そのおばあさんは気が狂ってしまいました。
内外の祝福基準を兼ね備えるようになるまでの、霊的な試練は言語に絶するほどでした。それは四十三日間にわたる試練期間でした。その時は、霊界のすべての霊人たちが責め立てたのです。
しかし、お父様は、天理の原則をもって彼らと闘いました。一人で四十三日間、今まで生まれては死んでいった数多くの霊界の道人たち、イエス様や神様まで動員された全霊界と闘いました。天地を争いの場にするわけにはいかないので、神様は四十三日の期間が満ちれば、そこで判定を下さなければなりません。天理の原則でなければ天と地が滅びるのです。お父様が探し求めてきたこの道は、間違いありません。結局、お父様は、最後の勝敗を決める闘いで、勝利したという判決を受けたのです。
7 再臨主がしなければならないこととは何でしょうか。キリスト教の反対によって、天上世界と地上世界、霊肉の版図を備えた勝利的覇権が完全に崩れました。それで、それを再び創建しなければなりません。個人、家庭、氏族、民族、国家の四千年間の復帰歴史を、霊界から再び整理していかなければならないのです。ですから、霊界に入っていって大勢の霊人たちを中心として闘いました。ここにおいて、霊界が反対しました。サタン側の立場で、「異端だ」と言って反対したのです。
蕩減復帰は避けることができません。それを個人から収拾しなければなりません。真理をめぐって理論闘争するのです。地上天国は拳をもってつくるのではありません。理論闘争と真の愛をもってしなければなりません。ですから、四十三日間にわたって霊界に大混乱が起きました。教主たちを中心として、宗教指導者たちが責任を果たせなかったことや、復帰の過程では心情を中心として、血統転換していくことを知らずにいたのです。このようなことをお父様が発表することによって、霊界も知るようになり、このような過程において、彼らのほうが理論闘争で負けたのです。
8 再臨主になろうとすれば、霊界に入って神様の御印をもらってこなければなりません。お父様は、霊界に入って四十三日間の闘いをしました。地獄のどん底から天上まで、皆が「文先生は異端者だ!」と言いました。それを下から整理していかなければなりません。最後には、聖賢たちと神様のみ前で談判して、正義の主人は誰かを決する闘いをしなければなりません。
その時、「霊界に来たすべての人々は血統が違っている。血統転換をしなければならないことを知っているのか」と言いました。二つ目は所有権転換です。「地上で暮らしながら自分の所有意識をもっている人は、天の国の背信者である!」と言ったのです。教主たちがいくら偉いといっても、ここに引っ掛かっています。ですから、お父様は霊界で闘う時、自信満々に「異端がどうした」と言い張りました。
最後には、霊界に大混乱が起きそうなので、神様が審判長として判決を下さなければならないのですが、神様まで反対したのです。アダムが天に背いたので、蕩減復帰の原則によって神様もアダム完成者に背かなければなりません。そのようにしてこそ、神様の心に築かれた壁が崩れるのです。そうして全体が反対し、神様まで向こう側に立っている中で、たった一人、お父様だけが残りました。
かといって、混乱の渦中にある霊界を、そのままにしておくことはできないのです。神様が最後の判決を下さなければなりません。神様は、お父様が言う血統転換、所有権転換、心情圏転換をしなければならないというのは事実だと言ったのです。そのような勝利の覇権者として御印をもらって、降りてこなければなりません。
9 解放直後、自由世界を中心として、韓国とキリスト教全体が一つになってお父様に反対しました。イエス様の命を奪い、洗礼ヨハネの命を奪ったのと同じことが韓国で起こったのです。サタンがアダムの命を奪ってアダムの家庭が滅び、イエス様の命を奪ってキリスト教文化圏が延長したように、世界時代が来たので、全権を駆使して平面的に攻撃するのです。肉的に攻撃するのも恐ろしいことですが、霊的に攻撃するのです。霊的世界と肉的世界を総合してお父様を攻撃します。神様がサタンに、「お前が望むことは何でもしてみよ!すべてしてみよ!」と言われたのです。
サタンが望むのは、霊的世界全体と肉的世界全体が一つになって、父になれる資格があるかないかを、自分が試験するということです。サタンが「私は世界と天地に私の子孫を通して基盤を築きました。それから抜け出すためのものが真の父母なので、この二つの陣営の闘争圏内から解放されなければ真の父母にはなれません!」と言えば、神様も原理的な面から「そうだ」と言わざるを得ないのです。それを知っているお父様は、世界の攻撃を受ける前に、まず霊界に入り、数多くの段階の霊界を統一しなければなりません。
10 アダムが神様に反逆したことを蕩減復帰しなければなりません。蕩減復帰の法則は本当に冷酷です。容赦がありません。人間が神様を打ったので、「終わりの日」に再臨主として登場するためには、アダムが神様に反逆したことを蕩減復帰しなければなりません。ですから、神様は、愛するのではなく、打ってしまうのです。
そのような中で、神様が反対するのですが、「これでなければならない」と言って争うのです。これをそのまま放置しておけば、霊界の混乱が継続するので、神様は四十三日以内に「誰が勝利した」という決定的な宣言をしなければなりません。その宣言と同時に、勝利したという御印をもらってこなければならないのです。根は神様です。ですから、全体の勝利的覇権をもったその位置で神様の御印をもらって地上に降りてきました。四千年間継続してきた霊界のあらゆる紛争を収拾したのです。

Friday Feb 17, 2023
真の父母経 第50話
Friday Feb 17, 2023
Friday Feb 17, 2023
第四節 真のお母様の苦難と勝利の道
人知れず歩まれた苦難の道
真のお母様は、天の新婦として立つ聖婚式を前後して、あらゆる苦難を踏み越え、勝利の道を歩まれた。絶対主体であられる神様と真のお父様のみ前に、絶対対象として、絶対信仰、絶対愛、絶対服従の手本としての路程を歩まれた。真のお母様は、いかなる逆境にあっても、摂理であれば、それを貫いて進む強いお姿をお見せになった、真のお母様は、「私が歩んできた道は、考えるだけでも耐え難い苦難の連続でした」と回顧された。
1 お父様がどのような方かを知っているため、皆さんは、それと同じように、ただそのまま、私(お母様)が非常に幸福で、すべての面において完全な人であるに違いないと考えるでしょう。「あなたは神様がそのように創造され、本来、完全な姿でお生まれになった方ですから、御自分では何の努力もする必要がなく、ただその位置に選ばれたのです」と考えるかもしれません。そして、天宙の母として、お父様に出会い、幸せな家庭をもって、人生を楽しんでいるというのが、私に対する人々の一般的な見解でしょう。しかし、お父様がその位置に立たれるために苦難と十字架の道を歩まれたように、私も当然、私なりに、信じられないほどの忍び難く、耐え難い十字架を背負ったのです。
もちろん、私も初めから完全な人間として出発したのではなく、完成まで進まなければなりません。その到達すべき基準があまりにも高く、時には目標までたどり着くのが本当に不可能であると思われたこともあります。その使命を果たし、神様の期待に応えるためには、非常に困難な試練と苦難、そして、絶対的な信仰が必要でした。私は、そのような立場にいたのです。過ぎし日のこのような事情と、私が歩んできた路程に関して振り返って考えてみるとき、涙があふれるのをどうすることもできません。これについて話そうとすれば、苦難と試練の記憶がすべて生き生きとよみがえるので、私はそれを話すのが非常につらいのです。
2 私(お母様)が歩んできた道は、考えるだけでも耐え難い、苦難の連続でした。神様は、選ばれたお父様に試練を与えられたように、私にも何度も試練を下さいました。そして、サタンも、お父様とイエス様を試みたように、私に対して、やはり試みました。メシヤが通過されたような過酷でひどい試練を、このか弱い女性が通過したのです。私は実に、荒々しい海に浮かんだ小さな帆舟のようでした。一方で、その当時は、私に訪ねてこられる神様の恵みを、最も深く感じた時でもありました。
私が苦痛の中にいるときも、神様は、自ら現れて啓示を下さり導いてくださいました。そのような直接的な導きがないときも、私を愛し、守ってくれようとする周囲の人々を通して、(神様は)絶え間なく導き、啓示を下さいました。ですから、当時は、大変に困難な試練と苦難に耐えなければならない時だったにもかかわらず、同時に、その時こそ、最も美しく、神様の恵みに満ちあふれた、本当に神様が共にいてくださることを実感できる時でもありました。このようにして、完成に向かって苦悩しながら歩んだ成長期間が終わり、天が願われる基準に到達した私が、その当時を振り返るとき、その苦難に満ちた記憶がすべて、喜びに変わったのです。
私はいつでも、お父様と深い対話をし、交流することができました。お父様と私の間には、尽きない話題と限りない理解があり、無限の信頼に満ちあふれた対話がありました。お父様とそれほど多くの話を交わさなくても、深く互いの事情を理解することができました。なぜなら、お父様が通過してこられた事情と、私が歩んできた道が、神秘的なほど、非常に似ていたからです。お父様とは、共通の一つの目的を深く理解し、それゆえに不屈の信仰ですべてのことを忍耐し、すべての苦難と闘って完成基準に到達して、今やサタンが一切侵入できない基準まで歩んできたという勝利感があります。お父様と私が向かい合うとき、互いに感じる勝利感によって、私は限りなく慰められ、平安を得ることができました。
3 私(お母様)は、自分自身の体験を通して、神様について、神様がどのようにそのみ旨を成就されるのかについて、多くのことを知りました。人生において、私は、本当に天国と地獄をすべて通過してきましたが、そのどちらも、神様が期待される、完全に成熟した人格を形成するために必要なものだったことを知るようになりました。
もし私が、天国の喜ばしいことだけを享受してきたとすれば、天国の生活をそれほど深く味わい、感謝することができなかったでしょう。私は、地獄のどん底までも通過し、その苦い味も体験しました。「これ以上、このように難しい道を進み続ける力が私にはありません。この道を進み続けるのは絶対に不可能です。神様!なぜ私にこのような道を行けと言われるのですか」と、数え切れないほど尋ねました。私に必要だったのは、真に朽ちることのない不屈の信仰と決意と忍耐であり、それが今日の私自身をつくり上げたと言えます。
皆さんが天国に行く道において、天国的な面だけを期待してはならないというのです。地獄的な面も当然、予期しなければなりません。地獄のどん底の監獄を通過することも、当然、予期しなければなりません。それこそ、神様の恩恵を感じられる最も貴い部分であると言えます。そのような過程を通過するとき、皆さんはより堅固に立つことができ、円満で総合的な人恪と霊性を備えた人格者として、さらに成熟することができるでしょう。そして、天国をより深く体恤できるでしょう。そのような体験が、いつか皆さんの誇りとなるでしょう。勝利と忍耐の記録こそ、いつの日か皆さんの誇りとなるでしょう。
勝利された真のお母様
真のお母様は、満ちあふれる慈愛をもって、時には限りなく崇高な涙をもって、時には少女のような清らかなほほえみで、時には澄み通って地の果てまで響く玲瓏(れいろう)な声で、暗闇を貫く輝かしい光を発せられた。真のお父様は、「真のお母様の勝利によって、復帰摂理を完成、完結、完了することができた」と語られ、真のお母様の勝利に対して、「実に、無私こそが成功の鍵」であることを強調された。
真のお父様が一九九九年六月十四日の「真の父母様天宙勝利祝賀宣布表彰牌」の中で明らかにされたように、真のお母様は、「神様の特命と復帰摂理歴史の結実として結ばれた本然の神様の子女であり、人類の真の母の使命」をもってこの地に来られ、「天のみ前に真の子女の使命、夫の前に真の妻の使命、そして、子女の前に真の父母の使命」を完遂された。そして、真のお母様は、天だけが記憶される中、蕩減復帰の苦難の路程を勝利し、永遠なる真の父母の伝統を立てられたのである。
4 お母様は、家庭の母として、教会の母として、天宙の母として、当然、真の母として、より大きな責任をもつようになります。そのようなお母様が他の人に比べて特別な点は、生まれつき鋭敏な霊的直観力をもっていることです。また、人物や事物に対する洞察力と観察力がとても正確で、直観力も非常に鋭く、明晰ですから、お母様の心に反映されたものはいつでも真実だというのです。その次に、お父様に対する絶対的な忠誠心をもっており、誰が何と言おうと、何でもやると深く決意していることです。それがお母様の信念でもあります。そのような信仰と信念があるので、その苦難の歳月にも、目的達成のため、実に信じ難いほどの忍耐力をもって勝利してきたのです。
5 お父様は、お母様がみ旨に対して特別な性稟をもっていることを深く感謝しています。それは、お母様が常に私心なく、自分の子女だけでなく、皆さん食口に対しても、何でも与えようとすることです。自分の物のうち、何か貴く思う物があれば、いつも誰かに与えたいと思い、与えることを喜びとするというのです。世の中の多くの人々は、真のお母様には多くの喜びがあり、宝石や服などをたくさんもっていると思うかもしれませんが、事実は決してそうではありません。
何でも、自分が良いと思う物は誰かにあげて喜ばせたいと思っています。天候が突然変わったある日などは、お父様と外出しなければならないのに、箪笥(たんす)の中に服があまりなく、その天候に合うふさわしい服を見つけられないときもありました。もちろん、そうでなければ、お父様自身の伝統に付いてくることができないのですが、お母様はお父様以上に質素な生活をしてきたのです。
6 お母様は、ひたすら完成基準に向かって、七年間闘ってきました。この七年という期間に、実に様々な非難と中傷、うわさ、誤解などが真の父母様の家庭を取り囲み、渦巻いていました。非難と中傷と迫害ゆえに血を流すような期間でしたが、それらすべてのものが、必要だったのです。問題は、お母様がこのような試練に耐え非難されてもそれを克服して越えられるかということでした。
お母様はすべてのことに勝利しました。お母様はひたすら沈黙を守って、耐え忍ばなければなりませんでした。このような事情の中で、歳月が流れていきました。しかし、いかなることが起こっても、お母様は最後まで不屈の信仰によって忍耐し、犠牲になりながら、沈黙を守り、信仰し続けてきたのです。そして、ついに、非難されてきた事情がすべて逆さまになり、皆がお母様に頭を下げ、「この方は、本当に天宙のお母様であられる」と考えるようになりました。そのように尊敬し、侍るようになったのです。
7 時には、とても信じられないことが起こったりもしました。お母様を非難していた人々は結局、一人ずつ離れていきました。お父様は原理を知っているので、このような類の事情をいかに主管し、指導者としての使命を果たして、最終的な勝利をもたらすべきか、よく分かっていたのです。もし原理を知らなかったならば、本当に、どのように処理すべきか分からず、うろたえたでしょう。結局は、愛です。愛が中心であり、すべてが愛の問題なのです。そして、愛の問題が極端な方向に行くこともあり得るというのです。お父様は、愛を征服し、復帰するために来ました。そして、それは神様に対する心情復帰でもあります。それこそ、愛の十字架でした。しかし、お母様は、このような困難を経ながらも、ただの一言も弁明しませんでした。お母様自らその苦難の意味を悟って忍耐し、ついに勝利したのです。
8 お母様について話すことができるのは実に勝利的な信仰だったということです。お父様に対する絶対的な信仰でした。お母様も大母様も、共に勝利しました。この天宙的な勝利以降、今やお父様として、そこにふさわしい栄光を(お母様に)与えることにしました。大母様も、生涯を通してお母様の母親にふさわしい、正当な尊敬と栄光を受けなければなりません。もしそれらを受けることができずに亡くなれば、子孫にその結果が現れるでしょう。原理的観点から見るときお父様はお母様に、これまでとは違う形で向き合っています。それが復帰の過程です。それほど難しく、大変なことなのです。これがどれほど難しいことか、皆さんはとても理解できないでしょう。
お母様と大母様は、最も光栄で、責任ある立場に選ばれたのですが、統一教会の最も低い立場で入教し、最も低い位置からその路程を出発しました。このことから、私たちは神様の祝福が、最も高く、光栄で神聖な所で受けるものでは決してなく、人間の悲惨で最低な立場に打ち勝って受けるべきものである、という教訓を学ぶことができます。そのようにしてこそ、祝福が永遠のものとなり全人類を包容できるものとなるのです。

Friday Feb 17, 2023
真の父母経 第49話
Friday Feb 17, 2023
Friday Feb 17, 2023
第三節 天が選んで立てた真のお母様
三代にわたる準備
真のお父様のみ言によれば、新婦基盤全体を代表した女性が人類の真の母になるには、それにふさわしい摂理的条件が具備されなければならない。その第一の条件は、サタン世界の讒訴を越え得る内的な血統的内縁(内的な縁故)である。人類の女性全体を代表する一人の女性が立てられ、真のお母様にまで連結するため、その背後には三代にわたる一人娘の女性がいなければならないというのである。それゆえ、真のお母様の母方の家系は、三代にわたって一人娘をもうけることにより、天の側に聖別されてきた。そして、外祖母の趙元模女史と大母様、真のお母様は、一人娘として、周辺に親戚が多くなく、しがらみのない暮らしを通して分別生活をしながら、天の新婦基盤を準備したのである。
1 誰でもお母様になれるというわけではありません。すべての摂理が、エバの歴史を中心とした摂理と連結された関係を中心として出てくるのです。そのような内外のすべてを合わせ、主が来られて三人の女性の協助を受けて結婚式をするようになるのですが、その時、三人の女性は、蘇生、長成、完成と同じです。
祖母から母、娘まで、三代が一つになったというのは、旧約時代、新約時代、成約時代が連結されたということです。それによって、父母が定着できる時代に入ってくるのです。お母様が中心です。蘇生が中心ではなく、長成が中心ではありません。ですから、歴史時代のあらゆるものが三段階を経なければなりません。平面的時代のあらゆるものは、三番目の段階を完成してこそ、完成の段階に立つのです。
2 お母様は、世界の女性たちの代表です。その人類全体の女性を代表して一人の女性が受け継ぎ、お母様にまで連結されたのです。ですから、お母様の背後には、三代が連結されなければなりません。本来は一人娘にならなければなりません。アダムも一人息子であり、イエス様も一人息子です。再臨主も、神様のみ旨から見れば、一人息子です。一人息子のみ旨を立てていくので、一人娘でなければなりません。ですから、復帰摂理から見ると、男性と女性が相対的な立場で一つになって結ばれ、世の中のサタン世界を越えて天の国へと行かなければなりません。
3 お母様お一人がお生まれになるためには、三代が一人娘であると同時に、三代が、来られる主のために生きた功績の基盤がなければなりません。お母様の背景を見ると、趙元模おばあさんから洪順愛おばあさん、そして、お母様まで、三代が一人娘です。また、洪氏おばあさんは、再臨主を迎えるための神霊教団の重要な幹部として教育されてきました。そうして、南に避難してくる頃に、お母様が許浩彬氏の母親から「天の花嫁になるだろう」という祝福を受けたのです。お母様がそのような祝福を受けた基盤は、天が準備したのです。
4 お母様の三代が再臨主を迎えるための準備をしました。歴史は、そのようにして上がっていくのです。プロテスタント教会から反対され、カトリック教会からどれほど反対を受けたでしょうか。李龍道牧師を中心として新イエス教会をつくったといって、どれだけ迫害を受けたでしょうか。神霊的な役事と韓国の中心人物たちをすべて連結させて、お母様が祝福を受けました。お母様の家系は、十二人を超えてはいけないのです。
5 腹中教は、主が人として来て母を選定し、十二使徒を立てるという信仰をもっていて、主に侍る訓練をさせました。お母様は、その特定集団を通して訓練を受けました。その腹中教の教主の母親がお母様を呼び、祝福してくれました。気づいてみると、祝福をすべて受けていたというのです。そこに男性がいてはいけません。できるだけ一人娘でなければならないというのです。
6 来られる再臨主を歓迎するために準備した代表者が李龍道牧師です。李龍道牧師は、既成教会から追い出されて新イエス教会をつくり、鉄山の金聖道と連結され、白南柱を通して東と西が連結されたのです。ですから、大母様の家庭を中心として、一つは新イエス教会へと進み、もう一つは女性を中心とした腹中教へと進んだのです。
腹中教において、主を迎えるために、先導的な代表として家を出て歩んだ人が大母様です。新イエス教会から祝福を受け、腹中教から祝福を受けたのです。お母様の家門を見ると、そのようにしてきたというのです。そうでなければなりません。
天の新婦としての準備生活
神様は、ひとり子として再臨主を送られ、ひとり娘である天の新婦をあらかじめ準備してこられた。真のお母様は、幼少時代に周辺から「天の新婦になるだろう」という霊的な証を、数回受けていた。「小羊の婚宴」が近づくと、真のお母様が天の新婦になるという夢の啓示が、多くの食口にも現れ、特に、大母様も夢で啓示を受けた。白い礼服を着た女性食口たちがピンク色の花を手に持ち、真のお父様の部屋に入っていくのだが、後ろを振り返ると、食口ではない女性たちも花を持って立っていた。その時、大母様は、「神様は女性を失ってしまったので、六千年間、女性を探し求めてこられたのだな」と考えた。そこで、真のお母様が、お座りになっている真のお父様の前に歩いていくのが見えた。その間、天から雷鳴と稲光が起こり、一ヵ所に集まった。そして、大勢の人々がその光景を羨ましそうに眺めているのだった。その時もやはり、大母様はそれが何を意味するのか分からなかった。それでも、大母様は、夢の啓示が実現されるように精誠を尽くしながら、真のお母様を養育してきたのである。
7 大母様が主を迎えるために歴史的な受難の道を歩んできたので、お母様もそのような訓練を経た歴史があるのです。み旨のために真心を尽くす夫の道であるならば、それ以上に熱心に従う女性と、そのような家門が必要です。そのように考えて、お母様を迎えたのです。
8 大母様は、迫害を受け、新イエス教会から腹中教を経て、統一教会まで来ました。三つの教団に仕えた歴史がなければ、お母様の先祖になることはできません。大母様がお母様を生んだのも、霊界の命令があって生んだのです。そのような歴史があります。そうでなければ、お母様として誰でも連れてきて立てることはできないのです。
9 母になるためには、三時代の祭物的な家庭にならなければなりません。一人娘の歴史を残さなければなりません。大母様がお母様を身ごもって、一人でこの道を出発したのです。純潔な夫を探し求める三時代の女性たちが歩まなければならない、十字架の峠を越えて育てなければなりません。お母様として、誰を選んでもいいのではないのです。お母様にとってお父様は、祖父の代わりであり、父の代わりであり、夫です。ですから、お父様と向き合うときは、兄のように思い、父のように、祖父のように、王のように思ったというのです。それゆえ、お父様がそれを知って、そのような妹の位置から育てていかなければなりません。婚約者の位置、夫婦の位置、母の位置、祖母の位置、女王の位置まで上がっていくようにしなければならないのです。
10 お母様を尊敬せざるを得ません。三つの教団を経てきました。大母様から、「主が来られるので、主に侍ろうとするなら、このように侍らなければならない」と何回も聞いたので、それが骨髄にしみ込んでいるのです。そうでなければお母様になることはできません。
この十七歳の娘が、女王にならなければならないのです。天の国の女王の位置まで進んでいかなければなりません。ですから、結婚したのちに、統一教会において、相対の位置、母の位置、祖母の位置、その上の女王の位置に上がらなければなりません。母と言えば、その母は国を代表する母です。妻と言えば、その妻は王の代身の妻なので、王として侍るのです。

Friday Feb 10, 2023
真の父母経 第45話
Friday Feb 10, 2023
Friday Feb 10, 2023
10 私は二十歳(数え)になるまで、血の涙の過程を経ながら生きてきました。乞食たちと友になり、彼らを自分の兄のように、自分の母のように愛する心をもつことができなければ、神様の心情圏に入れないことを知っていたので、そのような修練過程を経るために、日本に行っても、民族を越えてそのようなことをしました。私は、土木現場に行ってお金を稼ぎ、友人の学費を出してあげたりもしました。皆さんもその道を行かなければなりません。なぜそのようにしたのでしょうか。困難な曲折の道を自ら願って歩もうとしたからです。
11 雪の降る日や、台風が来た日は学校に行かず、土木現場に出掛けて働きました。そのような時は、とても気持ちが良かったのです。台風が吹いていた時なので、そこで手が真っ黒になっても、雨に当たって、きれいになってしまいます。そのような中で汗を流しながら働きました。その気分は本当に爽快です。
また、その中に悪い人がいれば、こらしめてあげました。時には大男をやっつけたりもしました。また、土木現場には班長がいて、搾取するのですが、給料の三割をかすめ取っていきます。ですから、「そのようなことをしてはいけない」と強く抗議しました。私は、普通の人が恐れるような人たちに対しても、「そのようなことをしてはいけない」と言って、彼らの言うことに従いませんでした。かえって彼らが私に降伏したのです。
12 昔、東京にいた時、二十七の区域にリヤカーで配達する配達夫の仕事をしました。自ら訪ねていってしたのです。お金が必要だったからではありません。訓練が必要だったのです。運送会社ならば、運送会社の人々を説得しなければなりません。知らなければ説得できません。夏に電信柱をリヤカーに載せて十字路を通るとき、電信柱が横に傾いたのですが、人々がそれを見て、大騒ぎになりました。十字路を渡っていて横に傾き、リヤカーがぐるっと回ってしまったのです。それで、男女の別なく逃げていった姿が、ありありと目に浮かびます。
また、今記憶に残っていることは、貧民窟での生活です。そこでぼろをかぶってしらみを取っていた生活が、今も生々しく記憶に残っています。神様の息子が最前線の将兵になり、サタン世界を征服するためのゲリラになったのです。
13 日本にいる時、土木現場に通ったことと、銀座でリヤカーを引いて歩いたことが、今でも生き生きと記憶に残っています。それは、私が御飯を食べるためにやったわけではありません。若い頃に苦労することにおいて、私が模範にならなければならないと思ったのです。
学校に行けなくなった学生を卒業させるために、私が何ヵ月間か学校を休んで、彼らの父や母の役割までしました。夜もありませんでした。夜中の二時に起きて、そのような仕事をしたりもしました。ありとあらゆることをすべて経験したのです。何のためにそのようにしたのでしょうか。私が人より愚かだったからではありません。会社に行って仕事もしてみて、字を書いて売ってみたりもしました。ある時は、会社で現場監督もしてみたのです。
14 私は、世の中についてよく知っています。既に幼い頃から八道江山(パルドガンサン)(韓半島全土)で行かなかった所がありません。
日本に行っても、行かなかった所がありません。困難な所はすべて回りながら、ありとあらゆる仕事をしてみました。大きな会社の使い走りから何から、すべてやってみました。そこでどんな扱いを受けても、私は一言も言いませんでした。通りすがりの一人の留学生にすぎないのですが、何を考えているか分からないというのです。貧民窟からすべて通過していきました。結局は自分の実力を備えなければならず、実力をもって実績を残さなければなりません。
自己主管と真の愛の道を体験
真のお父様の日本留学時代は、「宇宙主管を願う前に自己主管を完成せよ」という標語を自ら実行する期間であった。特に、体をむやみに見せたりせず、五官の統制訓練などを重ねられた。そして、人情を越えて天情を立て、留学時代は、一貫して「日本人を誰よりも愛する条件を立てよう」という思いで、怨讐の国の人を兄弟のように、父母のように切々と愛する修練過程を経ていかれた。
15 私は、少年時代にこの道を修めてくるとき、自分を主管するまでは映画館の前も通りませんでした。酒場の前も通りませんでした。自分が自分を主管するまでは、何をしてもすべて失敗します。主管するのが一番難しいことは何でしょうか。
眠りの問題が一番難しいのです。その次に空腹です。そして、情欲の問題です。これが三大怨讐です。ですから、徹夜しながら、それを主管するための修養過程と考えてきたのです。
おなかをすかせながら、修養過程と考えて歩んできました。一人で暮らしながら、修養過程を通ってきたというのです。自分を主管する前に宇宙主管はできません。自分を主管してこそ宇宙主管ができるのです。自分を主管してこそ神様を呼ぶことができるのであり、神様の主管圏を願うことができるのです。これが原理観です。アダムは、自分を主管できなかったので堕落したのです。
16 日本が戦争をするとき、東京の新宿の裏通りなどを見て回りました。そういう所について研究し続けました。どこに行っても、自分にプラスになるものを得てくるのです。悪い所に行っても、消化できることは消化します。そのような主義です。良い環境を探し回る人ではありません。
修養するときは、必ず静かで荘厳な場所や、深い山のような所に入らなければならない、ということでは話になりません。静かな所でなければ勉強できないというのは、私には通じません。モーターやエンジンが動く工場でも勉強しました。そのようなことが得意です。様々なことをしながら準備するのです。腕っ節の強い人が弱い人をいじめる時には、彼らを単独で片づけます。私一人で闘うのです。それは、公のためにそのようにするのです。これは人生哲学に必要な問題です。
17 私は、皆さん以上に希望が山のようにあります。しかし、皆さんを僕の道に追いやらなければならない時が来るので、私自身も先に僕の立場で歩みました。そのようにしなければ、僕の生活をさせる資格をもつ人になることができないのです。
他人に僕の生活をさせようとすれば、自分自身が先に僕にならなければなりません。この国の僕にならなければなりません。私は、忠実な僕になって、三歳の幼子にまで朝晩侍ったことがあります。その幼子に神様のように侍ったのです。また、日本留学時代、しらみが湧く貧民窟でも暮らし、石炭も背負い、塩も背負ってみました。やらなかったことがありません。そのような歴史があったのです。
その恨を皆さんが解かなければなりません。それでは、感情的あるいは心情的な決意の基点をどこでつかむのでしょうか。そのような基点をつかむ場に、皆さんは私の代わりに行かなければなりません。皆さんがそのような場で涙を流し、迫害を受けるなら、皆さんの血管でお父様の血が躍動するのです。
18 私は、人々がしないことは何かを研究しました。「私は食ベずに我慢できるだろうか」と考え抜いた末、「できる」という信念をもって訓練に臨みました。御飯が出てくれば、いつもどんぶりで三、四杯を一気に食べてしまいます。それくらいおなかをすかせていました。ある日、「どれほど食べられるか試してみよう」と思いました。
戦時中だった当時は、食券というものがありました。その食券があったので、「何杯食べられるか、よし一度試してみよう」と思い、友達を連れて食堂に入りました。そこで食事をしたのですが、親子丼を七杯も食べました。七杯も食べると、首が回らないのです。それはおなかがすくよりもさらに苦痛でした。動くこともできませんでした。そのようなこともしたのです。
しかし、いつもそのようなことをしていたと思ったら大間違いです。私は、いつもおなかがすいていました。それでは、なぜそのように過ごしたのでしょうか。自分のおなかだけを満たしていれば、自分から民族が遠くに逃げていってしまうからです。神様も自分から遠くに逃げていってしまいます。おなかがすいて食べたくても、それ以上に民族と神様を愛さなければならないと考えました。それが真理であり、信条でした。このようにしながら、この道を開拓してきたのです。
19 東京にいた学生時代、雨が降る日は、学生服を着ていましたが、できるだけびしよぬれになった労働者の横に行きました。一番ひどい臭いがする所に行くのです。行って、「この方が私の兄、私の父だったらどうしただろうか。私のためにこのような悲惨な状態にいるとすれば、私はどうすべきなのだろうか」と考えました。
また、電車に乗れば、車中の学生たちのうちで、身なりのいい学生たちを見ながら比較するのです。「君たちが笑って過ごしているうちに、君たちの青春が流れていき、君たちの一生が流れていくが、私の思いの中では、私の一生が輝き、将来、希望の太陽が昇るのだ」と思いました。「私には未来が保障され、希望があるが、君たちには未来の希望がない」と考えるのです。
一生の間、真の父母の名を立てることは、極めて難しいという事実を知らなければなりません。すべての人に対して、主体性をもち得る自分自身を発見しなければならないのです。
20 お父様は、日本で勉強していた学生時代、故郷の家に行く際には、電報を打ちませんでした。また、定州駅から家まで、およそ二里になるのですが、できるだけ風が吹いて寒い日や、雨が降る日に歩いていくのです。歩きながら祈ってみると、「実に素晴らしい方が世の中をつくられたな!」と悟るようになります。
日が傾いて夜になった時や、白い雪が降った晩に、一人で歩きながら感じたその思い出は、一生の間忘れられません。小さなお土産を両手に交互に持ち替えながら家に向かうとき、両親がどのような顔で迎えてくれるだろうかと思うと、とても感傷的になります。それを考えると、その期間がどれほど幸せな期間だったか分かりません。
早期卒業と帰国
真のお父様は、当時の戦時状況の変化により、学期が半年短縮され、一九四三年九月三十日、早稲田高等工学校電気工学科を第二十五期生として卒業された。真のお父様は、卒業と同時に、故郷の家に帰郷の日程を知らせる電報を打ち、十月四日発の関釜連絡船乗船チケットをあらかじめ購入された。
出発当日、友人たちの見送りを受け、東京駅のチケット売り場に入ろうとした時、どういうわけか、心が不安になり、足まで動かなくなったため、悩み抜いた末に出発を保留された。
その日、真のお父様が乗船しようと予約した関釜連絡船・崑崙丸は、十月五日午前一時十五分頃、沖ノ島の北東約十海里の海上で、アメリカ軍の潜水艦による魚雷攻撃を受け、沈没した。帰郷日を延期したとの通知を受けていなかった故郷の本家では、事故の知らせに接するやいなや、大騷ぎになった。真のお父様は、「今は、民族の恨を解いてあげられないまま帰るが、近いうちに、必ず日本の青年たちに対して命じ、教える時が来るだろう。その時、もう一度会おう」という内面の誓いを立てながら、十月中旬、帰国の途に就かれた。
21 卒業する当時は、太平洋戦争中でしたが、兵役問題もあり、六ヵ月短縮して、九月に卒業しました。故郷の家には、関釜連絡船で帰り、何時に到着すると電報を打っておきました。ところが、その船が戦争のため、沈没してしまったのです。故郷では、乗船者名簿を調査しましたが、私の名前はありませんでした。それで、皆、死んでしまったと思い、大騒ぎになって、村全体がひっくり返ったのです。
22 私が日本から帰る一九四三年、崑崙丸(こんろんまる)が沈没しました。卒業を六ヵ月短縮したので、下関を経由して、韓国のソウルまで行くチケットを買ったのですが、その時に乗るべきだった船が崑崙丸です。汽車に乗ろうと、東京駅に入ったのですが、気分がおかしいのです。それで、その汽車には乗りませんでした。家には、間違いなく何日に到着すると連絡しておきました。チケットを買って、既に何時の便で行くと連絡しておいたので、故郷ではその日、その時間に来ると思っていたのです。ところが、東京駅で私が引き返したのです。その船が沈没してしまいました。その時、私は東京駅に見送りに来ていた友人と、熱海かどこかに行きました。ですから、故郷では、「帰る」という連絡があった人が来ないので、死んだものと思ったのです。
その時、私の母は、気が動転したのです。定州からソウルまで五十八里の道のりですから、汽車では十時間かかります。それを、釜山まで行こうとするのですから、どれほど気が動転していたでしょうか。チマもはかず、薄手のズボンだけはいて飛び出したのです。靴がいつ脱げたかも分からずに走り続けたので、アカシアのとげが足の裏に刺さって固くなっているのも分かりませんでした。それを、私が帰ってきたあとに抜いたという話を聞いて、私は「ああ、父母の愛はそのように偉大なのだなあ!」と悟りました。

Wednesday Feb 08, 2023
真の父母経 第44話
Wednesday Feb 08, 2023
Wednesday Feb 08, 2023
明水台教会設立と教会学校の生徒指導
真のお父様は、ソウルの黒石洞(フクソクトン)時代の初期、日本統治体制の影響下にあった教会の独善的教会行政と教理中心の信仰形態に異を唱え、韓国的聖霊運動を主導したペンテコステ教会と交流をもたれた。そして、西氷庫(ソビンゴ)ペンテコステ教会に通われ、一九三九年の秋、黒石洞に新イエス教会を建てるに当たって、主導的な役割を果たされた。平壌から李浩彬、朴在奉(パクチェポン)牧師が頻繁に訪ねてきて、復興会と聖書写経会を行ったときには、そこに同参され、彼らと深い交流をもたれた。そして、新イエス教会の教会学校の生徒たちを格別な愛情で指導され、長期の休みの際に平壌に行けば、教会学校で説教をされた。
25 私は、学校に通いながら教会学校の学生たちも指導しました。黒石洞教会でも、西氷庫教会でも、そのようにしました。当時は、夜になると寒いので、漢江が凍り、水の割れる音がしました。一人でいると恐ろしいのです。そのような漢江を渡りながら、西氷庫教会の教会学校の学生たちを指導しました。私は、教会学校の学生たちを上手に指導したのです。涙を流しながら話をしました。
一度そのように泣きながら話をしてあげれば、学生たちがもう十分だと言うはずなのに、追いかけてきて「また話してほしい」と言うのです。
26 私は、三人の友達と力を合わせて、ソウルの黒石洞に明水台・新イエス教会を造りました。私が学費をはたいて投資したのです。今も教会の跡は、すべて残っています。そして、新しい教会が始まる前、多くの人々をそこに連結させるために、西氷庫を中心として伝道したことが思い出されます。冬になると漢江がかちかちに凍り、水面の氷が割れて、とても恐ろしい音がしました。恨の多い歴史時代でしたが、思い出もたくさんあります。
27 私は、幼い子供にも敬拝した人です。三歳の子供を天の王子のように思い、精誠の限りを尽くして侍りました。私は、公証できる内外のあらゆる歴史的勝利の基台を築いて話すのです。幼い子供から勝利してきました。これを三代以上できなければなりません。そのような伝統をもたなければならないのです。幼い子供たちを私自身の希望の相対とみなし、教会学校の学生たちを指導した名指導員です。彼らを誰よりも愛しました。その子供たちが、学校にも行かずに、私のあとを付いて回ろうとしたのです。カインを愛する歴史を開拓することが私の使命だからです。
28 李浩彬牧師、朴在奉牧師、韓俊明(ハンヂュンミョン)牧師が新イエス教会の主な責任者でした。それで、彼らが建てた平壌の新イエス教会には、数千人の学生がいました。その教会は名が知れ渡っており、教会堂も非常に立派に建てられていました。
私が教会に寄るときは、いつも学生会に責任をもち、指導しました。それで教会学校の学生たちを指導することで私は有名になりました。ですから、教会の牧師たちをよく知っていて、また青少年を中心に有名になったので、誰もが自分の家に私を招待しようとしました。
29 私は、平壌にある新イエス教会の李浩彬牧師、韓俊明牧師、朴在奉牧師に対する秘密の内容を、誰よりもよく知っています。
彼らに、「あなたはこのような召命的責任を中心として、このように生きることを分かっているのですか」と尋ねると、答えられなかったのです。「そのような行動をしてはいけない」と忠告しました。ですから、私のことを最も恐れたのです。旧約・新約聖書の秘密をすべて知っていました。
学生だった私がそこに立ち寄れば、数千人の教会学校の学生たちが、「話をしてほしい」と私のところに来るほど、有名な学生指導者でした。子供たちがすっかり夢中になり、私が帰るときは、停留場にあまりにも多くの人が集まるので、牧師たちがみな、防御線を張って私を保護しました。ですから、その三人の牧師は、いつでも私の言うことを聞くのです。
第四節 日本留学と原理の究明
神様解放の志を抱いて
真のお父様は、未来の摂理のためにより大きく、広く準備しようと、日本留学に旅立たれた。一九四一年三月三十一日、京釜(キョンプ)線のひかり号列車に乗ってソウル駅を出発し、四月一日、関釜連絡船・昌慶丸に乗って釜山を離れ、下関に向かわれた。そして、四月初旬、早稲田大学附属早稲田高等工学校電気工学科に入学された。
1 私は小さい頃から、「この国が日本よりも強い国だったら、このようにはならなかっただろう」と考えていました。問題はそれです。弱いから、弱い背景と弱い基盤に立っているから、悲惨な運命の道を避けられない、ということを切実に感じました。その時に思ったのは、「世界で一番の強国はどの国か。アメリカだ」ということでした。
その時、既にアメリカについて知っていました。「それならば、アメリカは日本よりも大きな国だが、アメリカも、日本がするように、自分の国権を拡張するために、弱小国を占領してこのようなことをするだろうか、しないだろうか。同じだ。している。だとすれば、正義の国家、この世界を代表し、正義の立場に立って弱小国を保護し、育ててくれる正義の国はないのだろうか」と幼い頃から考えていました。もしそのようなことができる何かがあるとすれば、それは何かと考えたのです。歴史的に見るとき、人間世界では不可能ですが、もし創造主がいるとすれば、創造主なら可能だというのです。
ですから、「創造主、絶対者がいるなら、私はその絶対者を通して国を生かし、圧迫を受けている民族の解放を成し遂げよう」と思いました。それで、神様がいるかいないかという問題に取り組み、宗教を探査しました。神様がいるのなら、その神様に自分が一度会わなければならないと思ったのです。そうして十代を過ごし、二十代に向かいながら、信仰路程において様々なことにも悩みました。
そのような中で、「日本に行ってみなければならない。日本を経てアメリカに行ってみなければならない。現地に行って、弱小民族が悲痛な目に遭い、迫害を受けるとはどのようなことなのかを体験しなければならない」と考えたのです。
2 漢江の鉄橋を通り過ぎる時、涙をぽろぽろ流したのがきのうのことのようです。孤児のごときこの民族を置いて日本に行く時、汽車の中で外套を頭からかぶり、釜山まで痛哭しながら行きました。
ある日本人のおばさんが汽車の中で泣いている私を見て、「学生さん、親御さんでも亡くしたのですか。そのような悲しみは、人なら誰にでもあることではないですか」と言いました。しかし、私の悲しみは、ひとえに国を愛する気持ちでいっぱいになってあふれ出た悲しみでした。国を愛せない人は、天を愛することができないのです。
3 私は、日本留学に行くため、ソウルから「ひかり」という汽車に乗って釜山に行く時、「私が日本に行って学んでくることは何か。この国を解放し、成長しつつある次の世代が、希望にあふれて前進と出世ができる道、自主的独立国家を備えられる道を、私が築かなければならない」と決心しました。
汽車が漢江の橋を通り過ぎる時、手すりをつかんで、とめどもなく涙を流したことを今も思い出します。「私が帰ってくる時は、涙を流して帰ってくる男にはならない」と考えました。
4 私は、釜山から船に乗って日本に行ったのですが、その時、連絡船の中で、とめどなく涙を流したのが、ついきのうのことのようです。当時は日本統治時代です。ですから、哀れなこの民族を、誰がその束縛から救ってくれるのかというのです。私は星を見つめながら夜を明かし、この民族の解放の一日のために、涙を流して精誠を捧げました。この民族のため、神様のみ前に「私はこれから旅立ちますので、帰ってくるまで、神様、この民族をお守りください」と祈ったのです。そのように涙を流しながら恨の心情を残したのが、きのうのことのようです。
5 私は、早稲田大学附属高等工学校に入って、夜間部に通いながら勉強しました。それは、苦学生たちの費用を援助してあげるためでした。私は労働者生活をしながら暮らしたのです。それを皆さんは知りません。今、生きている人たちがこのことを涙で訴えなければ、日本は立つことができません。日本の人たちが、姿勢を正して立つことができない恥ずかしい歴史を抱き、痛哭とともに謝罪しなければならない日が残っているというのです。
6 日本統治時代の時、日本の友人もたくさんいました。その友人たちにも、分け隔てなく接してあげました。彼らは、難しい事情があると、私のところに相談に来ました。「韓国はどうなのか」と言いながら、大勢の友人たちが訪ねてきたのです。そのような日本の友人たちに負けたくないと思いました。彼らが一言話せば、私は二言話すのです。私は本当に早口です。日本人に話す時も、迅速に話します。素早く話せるように研究して訓練しておきました。今後、日本の青年たちまで自分の手で消化し、世界のために用いると誓ったのです。普通の日本人以上の常識をもって弁論ができる能力を備えなければならないと思って訓練しました。
7 昔は、言葉を速く話さず、ゆっくりと話しました。日本に来て、日本語を学びながら、一分間で誰がより多く話せるかを日本人と競争したりもしました。彼らに負ければ眠れませんでした。三十分ほど話をするのに、ゆっくり話せば千語しか話せないところを、ある時は倍以上速く話し二千語以上も話しました。ですから、訓練が必要なのです。
「原理」の究明と心身訓練
真のお父様は、日本留学時代から、原理の究明と体系化に没頭された。聖書全体を反復して読破し、新たに究明された原理と照らし合わせて検証された。下宿先の机の上には、いつも韓国語、日本語、英語の聖書が置かれていた。特に、韓国語と日本語の聖書には、文字を判別するのが難しいほど、傍線などが引かれていた。膨大な天倫の拫本真理を体系化する過程は、誰も道案内できない、ただ独り、孤独に歩む探究の道であった。そして、学業のほかにも、下層の生活から中流層と上流層の生活まで、等しく経験しながら、つらい修練をされた。将来、途方もない使命を完遂するため、いかなる環境においても限界線を突破し、目的地点まで進もうと、万事に対処できる力を蓄えられた。特に、家から送られてきた生活費は、貧しい人々のために使い、背負子(しょいこ)や荷車で物を運ぶ仕事などもされた。労働者の友人であると同時に、兄弟ともなり、一緒に血と汗を流しながら苦楽を共にした。「萬苦の勝者、栄高の王者」になることを、訓練を通して自ら体得されたのである。
3 私は人々に、自分がどのような思想をもっているのか、全く話しませんでした。友達も知りませんでした。私は、聖書を研究したり、宗教関係の書籍や、普通の人があまり読まない哲学書も読みました。早稲田大学の政経学部に通う友人がいたのですが、共産主義を勉強していたその友人と激論を交わしたことがあります。
また、路傍に立って大声で演説したこともあります。桜の花が満開で、多くの人が集まっている所でも演説をしました。その時代に対する批判をしたのです。「あすの青年は、これこれこういうようにしていかなければならない」と叫びました。その時に預言したことが、今になってそのまま的中しつつあります。その時、友人たちが見物に来て、私が演説しているのを見て仰天したのです。
9 ソウルの学校から推薦を受けて、早稲田大学附属高等工学校に入りました。学校の勉強の代わりに、教会関連の勉強をし、また、聖書にある未知の事実を突き止めるため、聖書を深く読みました。聖書の一つの章を中心として、五年間研究しても、解決できないことがあります。その一つの章が問題だというのです。それが根です。そのように、聖書の中で最も難しく、難解な問題をすべて明確に解かなければなりません。そのようにして解き明かしたのが「原理」のみ言です。天と共にこれを解き明かしたので、天が無関心ではいられないのです。天はすべて知っているというのです。

Wednesday Feb 08, 2023
真の父母経 第48話
Wednesday Feb 08, 2023
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真のお父様との出会い
聖主教の金聖道は、長男の鄭錫天(チョンソクチョン)に、「神様が任せてくださったこのみ旨を、私が成就できなければ、他の人を通してでも成し遂げる。その代身者も、私と同じように淫乱集団として誤解され、迫害を受け、獄中での苦しみを味わうだろう。そのような教会が現れれば、真実の教会であると思って、訪ねていきなさい」という遺言を残した。そのため、鄭錫天は、姉の鄭錫溫(チョンソゴン)と共に、母親の代でこのみ旨が成し遂げられなくても、次の代、あるいはその次の代になれば、必ず成し遂げられると信じ、南下したあと、家庭で熱心に礼拝を捧げながら、このみ旨が成し遂げられているところを探し回った。その頃、新聞に報道された梨花女子大学退学事件の記事を読み、鄭錫溫が娘と共に奨忠洞(チャンチュンドン)のソウル統一教会を訪ねるようになった。その後、真のお父様は、一九五五年十月四日、西大門刑務所から無罪で釈放されたのち、鄭錫天の消息を聞き、大邱の東城路(トンソンノ)にある鄭氏の家を自ら訪問された。これにより、のちに大母様と真のお母様が、真のお父様に出会うことになったのである。
10 真のお父様が西大門刑務所から出監され、復興会の激励のために大邱に来られた一九五五年十一月頃、春川にいらっしゃった大母様は、鄭錫天氏から手紙を受け取りました。聖主教とそっくりな教会がソウルにあるというのです。そして、真のお父様が今、大邱に来てみ言を語られるから、早く来て聞きなさいということでした。しかし、大母様は、事情があってすぐには大邱に行くことができず、翌月、十二月に行かれました。大母様が大邱に行くと、鄭錫天氏は、「ようやく主を探し出しました。腹中教で服を準備してお迎えしようとしていた方を、ようやく探し出したのです。その方が、大邱に来てみ言を語られました」と語り、その方が既にソウルに上京されたと伝えました。また、腹中教で教えていたことと全く同じことを教えていると話しました。大母様は、今からソウルに上京すれば、お慕いしていた方にお会いできるという思いでうれしくもありましたが、なぜかしきりに不足さばかりを感じたといいます。このように、心の準備をしていると、その日の晩、黄金の龍が一双、ソウルの方に向かってひれ伏している夢を見たのです。大母様は心の中で、「大邱に来る時は白い龍を見たが、大邱を発とうとする時には黄金の龍が一双現れるとは、本当に不思議だ」と思ったといいます。そして、すぐにソウルに上京し、青坡洞一街の旧本部教会で真のお父様にお会いして、挨拶をお捧げしました。驚くべきことにその方は、腹中教時代に二回夢でお会いした、正にその姿であり、夢にまで慕い求めた主の姿だったのです。大母様は、あまりにも畏れ多い気持ちになり、身の置き場がなかったといいます。
11 私(お母様)は、北朝鮮ではお父様にお会いすることができず、南に下ったのち、ソウルで初めてお会いしました。その時、私は満十三歳で、小学校を終えたあとでした。当時は、大母様と共に入教してから、いくらもたっていない時でした。その頃、私は江原道の春川に住んでおり、お父様はソウルにいらっしゃったため、互いに遠く離れていました。一九五六年三月、大母様に連れられて青坡洞教会に行き、初めてお父様にお会いしたのです。私は、お父様と出会ったあと、青坡洞教会に通いながら中学校を卒業し、高校に進学しました。
12 お父様が学生服を着た私(お母様)を御覧になったのちに、じっと目を閉じて感嘆されたことが、今も記憶にはっきりと残っています。すべては天が準備なさっていたと常に感じます。私の性格から見ても、生きてきた背景から見てもそうです。
イサクがアブラハムと、祭物を捧げるために山に登っていく時、アブラハムに「祭物はどこにあるのですか」と尋ねるのですが、アブラハムは「神様が既に準備されている」とだけ言いました。しかし、幼いイサクは、既にそこで状況判断をしていたのです。
それと同じように、私も、「私が何かをしなければならないようだ」という状況判断を、幼い頃からしていました。再臨主の相対として準備された自分であることを、それとなく感じていたように思います。
私は、既に私に定められた道を行かざるを得ないように生まれついたのです。他の女性であれば耐え難い立場でしたが、私はすべてのことに打ち勝ってきました。
13 皆さんは、お父様が聖婚を決心されて、初めて私(お母様)に出会った時、最初の会話がどのような内容だったのか、最も気になるでしょう。当時の食口たちはみな、お父様のことを慕っていましたが、同時に近寄り難く感じてもいました。しかし、私は近寄り難いとは思いませんでした。私が何を言っても怒ることがないといった印象で、まるで私の母方の祖父にお会いしているかのように感じました。
周辺の人たちの中には、恐らく「あの人(お母様)は、年は幼いがとても肝が据わっている」と感じていた人もいたと思います。私は当時、祖父のようにも感じ、父のようにも感じ、そして、夫のようにも感じ、兄のようにも感じ、息子のようにも感じたのです。
14 アダムとエバは、神様のみ言に背いて堕落しましたが、私(お母様)は、「神様が警告しなかったとしても、当時は神様と一問一答していた時代なので、本心の作用によってみ言を守れたのではないだろうか」と考えたこともあります。私は、神様の摂理歴史を思いながら成長してきました。私が満十七歳でお父様に出会った時、「神様が大変な苦労をして歩んでこられた蕩減復帰摂理歴史を、私の代で終わらせる。私が終わらせる」と自ら決心しました。私は、そのような内容を誰かに教育されたわけではありませんが、そのような決心をしたのです。そのように決心することができたのは、私が神様を知ったからです。
15 私(お母様)は、お父様に会った時、摂理歴史を知りました。「原理」を勉強したわけでもないのに、蕩減復帰摂理歴史が分かったのです。ですから、私は、「お父様が再臨主として使命を完成、完結したと宣言するためには、私の力が絶対的に必要だ。私は誰にも任せることなく、私自ら責任を果たす。私が生きている限り、このみ旨は発展し、成功する。サタンを必ず追い払う」と決心しました。このために、私は心と体をすべて捧げて犠牲になったのです。
韓国における信仰生活
真のお母様は、外祖母の趙元模女史と洪順愛大母様と共に、一九四八年に南下されたあと、ソウルと大邱、西帰浦、春川などの地を転々としながら、信仰生活をされた。大母様が、大邱で過ごしていたとき、見知らぬ一人の男性が真のお母様を見て、「天地において貴い娘」と証をするなど、真のお母様はどこに行っても注目の的であり、多くの霊的な証を受けられた。
16 聖主教の金聖道氏は、獄中の苦難に遭ったあとに他界し、残った家族が中心となって命脈を保ち、許浩彬氏を中心とした腹中教がそのあとを継ぎました。しかし、聖主教は、北朝鮮の共産党治下で定着することができなくなりました。特に、金聖道氏の長男の鄭錫天氏は、南に下り、鉱山事業をしばらくしたあと、大邱の東城路(トンソンノ)に家を構え、米と石油の商売を始めました。その大邱で、六・二五動乱を経る中、鄭氏の家族と大母様の一行が出会うことになったのです。大母様は、鄭錫天氏の家族と集まって話をし、「私たちが北朝鮮にいたとき、聖主教の新しい主(金聖道氏)と腹中教の許浩彬氏を通して多くの恵みを受け、大きな役事(働き)が起きました。再臨主は韓国に来られるでしょうから、この道を探し求めるため、集まって一生懸命に祈りましょうと、心を合わせました。鄭氏の姉である鄭錫溫(チョンソゴン)氏も、釜山から来るようにさせ、大母様は、大勢の食口たちと共に、熱心に祈りながら信仰生活をしていくようになりました。
17 大母様が大邱で小さな店を出していたある日、笠をかぶった通りすがりの道人が、小学生だった幼い私(お母様)を見て、驚くべき証をしました。「この娘は、十人の息子にも勝るので、しっかり育ててください。数えの十七歳になれば、年の差が大きい人と結婚する貴い娘です。陸海空の財産をもつ富者として暮らすでしょう」と言うのです。
大母様がその言葉を聞いて驚き、どういうことかと尋ねると、(その人は)「生まれる時から、そのような運命に生まれたのです」と言いました。大母様は、その言葉を聞いてから、真理のみ言を求めて、さらに一生懸命に信仰しなければならないと決心されました。そして、「再臨主に出会うまでは、世俗に染まらないよう、正しく育てなければならない」と考え、済州道に行って生食をするなど、厳しい霊的な鍛錬生活をされました。
その後、真のお父様に出会ってからは、私を統一教会の重要な働き手として育てようと思われました。そのように、一つのほこりも付かないようにされたのです。それほど、天のみ旨に捧げるための摂理には、極端で、かつ涙ぐましい事情が秘められていたのです。
18 趙元模おばあさんは、家庭礼拝を捧げながら聖別された生活を送り、私(お母様)に聖書の話もたくさん聞かせてくださいました。大母様は、聖書を熱心に奉読し、真心を尽くして信仰生活をされたため、私の周辺には常に聖書がありました。私は、自然に聖書を読むようになり、天の父母様が導かれる生活をしました。このような生活は、大邱に避難した時や動乱後、済州道と春川に転校してからも、そのまま続きました。大邱で教会学校に通う時は、学生代表として歌もよく歌いました。
19 大母様は、避難していた大邱で聖主教の金聖道氏の長男である鄭錫天氏に会ったのち、新しい主が韓国に来られるという信仰をもって祈りに励み、松葉を食べる生食をしながら暮らしました。
当時、小学生だった私(お母様)は、かわいらしくて勉強もできたので、周囲の人々に人気がありました。しかし、大母様は、私が注目の的になることを負担に思われました。私について「主の娘」という啓示や証がたくさんあったからです。結局、大母様は、再臨主に出会うため、一九五四年に済州島に渡っていかれました。私は、ひどい船酔いで苦労したことが思い出されます。
20 大母様の関心は、いつも「天の花嫁である」という祝祷を受けた私(お母様)を、世俗に染まらず純粋に成長させることに集中していました。「六・二五動乱」が終わった翌年、混乱した地を離れ、済州道で約九ヵ月間過ごしました。当時、済州道には、聖主教の金聖道おばあさんの次男、鄭ソクチン(鄭平和-チョンピョンファ)氏がいました。その人は、イエス様の苦難を体恤するために、茨の冠をかぶって十字架の苦痛を再現するほど、熱烈な信仰をもった人でした。
大母様は、その方と共に、より一層篤実な信仰生活に励みました。昼は畑を耕して生食をしながら、夜は祈りと精誠を尽くす日々でした。