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Thursday Sep 19, 2024
イエス様の生涯と愛 第28話
Thursday Sep 19, 2024
Thursday Sep 19, 2024
結婚をめぐるイエス様の事情
イエス様が結婚するとしたら、誰と結婚しなければならないのでしょうか。腹違いの妹としなければならないのです。当時あの環境で、処女が妊娠すれば石で打ち殺し、家庭的に淫らなことが起きれば一族が滅びるその当時において、これを行い得る環境的与件になっていたでしようか、なっていなかったでしょうか。ザカリヤの家庭だけ見た場合、妹が姉の夫を奪って妊娠してしまい、(親戚の)兄という者が腹違いの妹を強奪してしまったということになるのです。それが明らかになる場合には、一家が滅びるのです。
ザカリヤあるいはエリサベツ、洗礼ヨハネも、イエス様がどのような人なのかを知っていて、またマリヤもそのような環境にいたのですが、そのようなこと(イエス様が腹違いの妹と結婚)をするならば、目がまん丸になり、唇がこのように折り重なるようになったでしょうか、ならなかったでしょうか。あのように妾から生まれた息子が自分の妹を奪うとなれば、「こいつは淫乱の子だ」と思うのです。
ですから洗礼ヨハネもイエス様を拒否したのです。エリサベツも否定し、ザカリヤも否定し、マリヤも「仕方がない」と思ったのです。十六歳のときに堕落したので、イエス様は「結婚します」と十七歳のときに一度話し、二十七歳のときに話し、三十歳のときに決着をつけるために話したにもかかわらず、聞き入れなかったので家を出ざるを得なかったのです。
なぜ十三数が悪い数になったか知っていますか。イエス様が相対的理想を成し遂げることも、定着することもできなかった怨恨の数なので、十三数は悪いということになったのです。結婚するのは十三歳が最も良いのですが、これを失うことによって、個人を失い、家庭を失い、国、世界、すべてを失ってしまいました。どれほど邪悪で悪い数でしょうか。最も願った数なのに、です。これを三度話したのに、言うことを聞かなかったのです。
ですから十七歳のときに、マリヤを通してザカリヤに話したでしょうか、話さなかったでしょうか。エリサベツに話したでしょうか、話さなかったでしょうか。洗礼ヨハネは知っていたでしょうか、知らなかったでしょうか。「こいつ、私の妹を奪って行こうとするのか。私も結婚していないのに、どうしてだ。一族を滅ぼそうとして・・・」と思ったはずです。イエス様は洗礼ヨハネの腹違いの弟ですが、「こいつ、私も結婚していないのに、何だ、私の妹にまたこうするのか。この淫乱の代表!」と思うのです。一族を滅ぼす代表だと言うのです。
イエス様は結婚できますか、できませんか。父が見ても「こいつ!」、エリサベツが見ても「こいつ!」、そして洗礼ヨハネも「こいつ!」、マリヤも「こいつ!」と思ったのです。そうして二十七歳の時に至っても、「そんなことをするのか、こいつ」と思ったのです。それが駄目なので、三年後にその談判をつけたのですが、「こいつ、これは何だ」と追い出すしかなかったのです。父もそのようなイエス様のことを見たくはなかったし、母も兄弟も同じでした。それならばイエス様は、どこに行くのでしょうか。追い出されることになるのです。
ですからイエス様は家を出て、「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」と言ったのです。これはいったい何ですか。歓迎されるべき家庭と両親から追い出され、兄弟から追い出されました。家庭から追い出されたイエス様は、そのような環境を再びつくるために、弟子たちを中心として努力をしたのですが、いくら夢見ても不可能なことなのです。
弟子たち同士がけんかし、怨讐になって嫉み合うのを見ると、同じなのです。それで希望がないので、霊的救いだけでも得るために十字架で亡くなって、霊界の母を地上に送り、イエス様と霊的な真の父母となって霊的重生の摂理を始めたのです。キリスト教は国がなく、地によりどころがないので、国で血を流して死ぬようになったのです。
Thursday Sep 19, 2024
イエス様の生涯と愛 第27話
Thursday Sep 19, 2024
Thursday Sep 19, 2024
二、結婚を中心としたイエス様の恨
新婦を探し出すべきだったイエス様
神様のみ旨とは何でしょうか。今まで四千年のユダヤ教の歴史を経ながら、神様は苦労して何を探し求めて、何を復帰したのかというと、堕落する前の血統が汚されていない息子、アダムです。アダム一人、一人の息子を探し出したのです。それゆえコリント人への第一の手紙では、イエス様のことを「後のアダム」としています。
神様の救いの歴史は、再び取り戻していく復帰歴史なので、このように四千年の歴史を神様が苦労して、人の世に理解されないその道をたどって、初めてひとり子イエス・キリストが現れたのです。このような事実は、堕落せずに神様の愛を受けられるアダムの立場を復帰したということを意味するのです。
神様は天理の原則に従って、運行されるということを知らなければなりません。アダムを捜し出して新郎になったので、何を捜さなければならないでしょうか。サタン世界からエバ、新婦を捜してこなければならないのです。アダムが誤り夫の役割ができなかったことによって、エバに命令できる立場を、責任を履行できずに奪われたので、サタン世界から捜してこなければならないのです。これを捜してくるためには戦わなければならないのです。
それを準備するために、国の基盤から、教会の基盤から、氏族の基盤から、家庭的基盤を神様が準備しなければならないのです。そうしてヨセフの家庭とザカリヤの家庭を準備したのです。
イエス様の新婦を準備すべきだったマリヤ
創造の原則を見れば、アダムをまず造り、そのアダムを中心としてエバを造られました。ゆえにマリヤは息子を協助して、息子の新婦を探さなければならなかったのです。マリヤはそうしなければならないのです。イエス様はもちろん、マリヤも協助して新婦を探さなければならないのです。
そのようなことを見ると、マリヤは責任を果たせなかったということが分かります。ある日マリヤが、ガリラヤのカナの祝宴の場で、イエス様にぶどう酒がなくなったと言うと、イエス様は「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか」と言われました。その言葉は、他人の結婚に何の関係があるのかということなのです。つまりイエス様が結婚する時になったのに、なぜマリヤは知らずにいるのかというのです。結局、マリヤは責任を果たせなかったのです。
イエス様が結婚をしていれば、イエス様の息子と娘は、神様の孫と孫娘になるのです。神様の尊属(血族)になるのです。ある人は、イエス様を神聖なる神様だと言いますが、それこそ精神障害者です。邪教の中の邪教です。イエス様が私たちのような世の人として来られて結婚するというのに、何だというのでしょうか。それに対して、「おお、我々の神聖なる神様が結婚するとは」と言って失望するというのです。なぜ結婚すると神聖ではないのでしょうか。男性も女性も、最も神聖なことは結婚することです。
もしイエス様が結婚して、息子、娘を生んでいたら法王には誰がなるでしょうか。ペテロのような人がならなければならないでしょうか。イエス様の直系の息子、娘が、ローマ法王にならなければならないのです。そうなっていれば、自然と世界の王になっていたはずです。
このように地上に基盤を築こうとしたイエス様が亡くなったので、イスラエル圏を失ったキリスト教は、霊的イスラエル圏のみを築くようになったのです。それゆえ神様には、基盤を備え得る土地がありません。教会が、イエス様の占有できる王国ですか?ですから追われてきたのです。
神様は、アダムを通してエバを造られました。救いの摂理歴史は再創造歴史なので、原理どおりにしなければなりません。それゆえマリヤは、イエス様の新婦を迎えるために準備しなければなりませんでした。ところがその責任を果たすことができなかったので、イエス様はやむを得ず家を出たのです。家を出て、乞食の群れのような人々を集めたのが十二弟子です。一族でイエス様の新婦を探し出してあげていたならば、その一族の人々が十二弟子になるようになっていました。イエス様は何もせずに、「あれはあなたがして、これはあなたがしなさい」と任せればいいのです。ばかばかしく、あちこち歩き回りながら、あんなに苦労して弟子を求めることはしないのです。当時のユダヤ人たちは、祭司長ザカリヤ家門の洗礼ヨハネの言葉なら、みな従うようになっていました。それゆえ一度にすべてを引っ張ってくることができたのです。
そうなっていたらイエス様は、ユダヤ教徒と律法学者、祭司長たちと一つになって、彼らにサタン側国家であるローマ帝国に対して反旗を翻すように言ったでしょう。世界的なアベル国家である小イスラエルを中心として、世界的な大サタン国家であるローマを屈服させよと言うのです。
当時のローマは四通八達した世界文化の中心地だったので、ローマさえ屈服させれば、キリスト教とイスラエルを中心として、その時、既にみ旨は成就されていたのです。亡くなったイエス様が四百年でローマを征服しましたが、もしイエス様が生きていらっしゃれば、四十年でローマを征服できなかったでしょうか。おそらくイエス様は、八十歳になる前にローマを完全に料理していたことでしょう。
Tuesday Sep 17, 2024
イエス様の生涯と愛 第26話
Tuesday Sep 17, 2024
Tuesday Sep 17, 2024
み旨の展開前の生活
もう一度イエス様のことを考えてみましょう。イエス様は天の玉座を前に復帰の使命を担い、この地の悲惨な立場で来られました。そのように来たイエス様は、何をすべきだったのでしょうか。彼には万物を復帰すべき責任があり、万民を復帰すべき責任があり、僕(天使)を復帰すべき責任があり、また子女を復帰すべき責任がありました。
それゆえ彼は、父母の中でも世界的な父母の心をもたなければならず、兄弟の中でも長男の心、兄の中でも兄の心をもたなければならず、世界的な孝子の心をもたなければならず、世界的な忠臣の心をもたなければなりませんでした。また世界的な祭司長の心をもたなければならなかったのです。
そしてこの地上で神様の前に忠誠を尽くして、善の実績を積んだ先祖たちがいるならば、彼らに後れを取らない忠誠の心までもたなければなりませんでした。それゆえイエス様は、エルサレムで暮らしながら御飯を食べるときも、「神様、私は御飯を食べますので、アブラハムの祭壇に供えられた三つの供え物として受け取ってくださいませ」と祈るような生活をしました。
堕落によってすべてを失ったために、嘆息の圏内にある万物と人間のすべての嘆息の条件を、内的に蕩減すべき使命が彼にあったからです。それでイエス様は人知れず、そのような歴史的な生活の基盤を築いていかなければなりませんでした。彼は人間の世の中でみ旨を展開する前に、人知れず内的心情の世界において、歴史の背後を中心として生活しなければならなかったのです。
彼が三十年の間、世の中で笑って、いいかげんに生活したように思うかもしれませんが、彼の生活すべてが祭祀でした。彼が見聞きするすべてが、父が受け取り得るものであったのです。「私が泣くのは、お父様(神様)の苦痛と因縁を結ぼうとするからであり、私が動くのは、この地、この悪なる世をお父様のものとして捧げるためです」という基準で生活したのです。そして、この地のすべての万物と関係を結ぶことを絶対的な目的としたのです。このようなことを知らなければなりません。
イエス様は寝ても覚めても、自分によって万民の罪が贖罪されることを願う、心情をもっていました。眠るときも、万民の罪が贖罪されることを願う心情をもって寝床に就いたのです。人知れぬ静かな夜に目覚めて起き、寝ている万民の代わりに独り祈り、祭祀を捧げる祭司長的な使命を果たすこともありました。「お父様、天宙的な恨の条件を蕩減するための一つの実体として、私を受け取ってください」という隠れた祈祷の生活をしたのです。
イエス様の生活を見ると、彼は万物の価値を無限として、万物の恨を晴らしてあげるために努力しました。また僕の立場で、僕の中の僕の生活をしました。そして息子の使命をもって、息子の中の息子の使命を果たしました。このように三十余年という短い生涯路程でしたが、彼はその生涯の間、復帰の恨全体を一身に懸けて蕩減の条件を立て、ゴルゴタの山頂まで行くことによって、サタンを屈服させたのです。
イエス様の出家
イエス様は母マリヤからも、ザカリヤやエリサベツからも反対され、最後に洗礼ヨハネからも反対されて、肉親の保護を受けながら使命を成し遂げることを断念せざるを得ませんでした。これが歴史的な秘密です。数多くのキリスト教徒が殉教の血を流す、このような無念で悲惨な歴史が誰のゆえにそうなったのか、誰一人として知る者がいませんでした。これを解いてこそ解放になるのです。地で結ばれたので、地で解いてあげなければならないのです。
新しく霊的基盤を求め、再び復帰摂理をしようと出発したのがイエス様の出家でした。出家したイエス様は、行く所がありませんでした。「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」(マタイ八・20)と嘆きました。一族の基盤を失ったイエス様は、それに代わり得る基盤を探し求めて乗り出したのです。それがイエス様の三年路程でした。唖然とします!家庭と一族を捨て、どこに行ってこれを探すのでしょうか。ですから、十字架で亡くなるしか道がないのです。
家庭と民族の不信に遭い、弟子たちは信仰が揺らいでサタンに侵犯されることによって、イエス様の基台は崩れ、十字架の道を行かざるを得ませんでした。本来イエス様は、メシヤとして地上に来て、弟子たちと万民を祝福し、罪のない天国を築かなければなりませんでした。ところが不信を買い、新婦を迎えられなかったことによって真の父母になれず、その使命を成し遂げられなかったのです。
Tuesday Sep 17, 2024
イエス様の生涯と愛 第25話
Tuesday Sep 17, 2024
Tuesday Sep 17, 2024
イエス様の内的三十年の準備期間
イエス様が三十年の間、準備したものとは何でしょうか。今まで神様が摂理した内的世界においてもつれた曲折をすべて解き、これを外的な世界にそのまま横的に展開させて蕩減復帰するための準備期間でした。三十年の準備期間は内的であり、三年の公生涯路程は外的期間です。三十三年の期間を通して完全なアダム復帰、個体完成を完結させるために闘ってきたということを知らなければなりません。
メシヤとして生まれたその日から、メシヤの振る舞いをするのではなく、先祖たちが誤っていたら、誤ったすべてを完全にサタンの前に蕩減して、分別された勝利的基盤を築いた土台の上で、メシヤとして出発ができるのです。この地上にそのような出発ができる土台があったならば、イエス様は苦難の道を行く必要がないのです。
もし東方の博士、あるいは羊飼いなどが、イエス様が準備時代として内的な闘争をする三十年の準備期間に、イエス様の垣根となって外的な闘争の基盤を築き上げていたら、イエス様は外的三年の公生涯路程で、内的なそのすべての天的な懐を地上に横的に展開させて蕩減するに当たり、苦難の道、迫害の道、苦労の道を行かなくても土台を築くことができたでしょう。
また築かれたその土台を中心として、これを動かしていって苦難に遭ったとしても、これを基盤として、彼らと連絡できる洗礼ヨハネを中心とした人たちが責任を果たしていたならば、イエス様は外的な苦難にぶつからなくても、み旨を成し遂げることができたでしょう。しかし、このような土台がすべて崩れていくことによって、イエス様は東方の博士や羊飼いたちが追求していた人間の代表としての使命を再び収拾して、洗礼ヨハネを立て、それまで築いてきたすべての準備の基盤まで収拾してこそ、時代の前に現れることができるのです。
それゆえ長く見れば、四千年の歴史を収拾しなければならず、自分の生涯について見れば、三十年余りの生涯路程において、天が準備した横的な地上の歴史的条件までも蕩減しなければならなかったのです。それでイエス様が蕩減しなければならない期間が、三十年の生涯と三年の公生涯路程であるということを知らなければなりません。この三年の公生涯路程というのは、極めて悲しい路程です。人間が責任を果たせなかったことによって、イエス様が苦難の道を行き、十字架の道を行ったということを私たちは知らなければなりません。
イエス様が三十三年間、この地上で天を代表して戦った目的はどこにあるかというと、個体完成です。それゆえサタンが、三大試練をしてきたのは何でしょうか。イエス様を一時的な一怨讐として試練をしたのではありません。イエス様の全体目的を前に試練したのです。サタンが試練するに当たって、イエス様の三大試練の内容と同じ、そのような目的の実体になって試練してくる者に対して、「サタンよ、退け」とあらかじめ防いでくれる人がいたのなら、イエス様には試練は必要ないのです。三大試練は必要ないのです。
試練を通さずに出発と同時に個体完成となり、出発と同時に聖殿理想が完成し、出発と同時に世界の栄光を立てられるようになるのです。そのような基準が出発と同時に一度に起きるはずだったのですが、そのような外的な環境からあらかじめ防いでくれ、サタンと対決して「このサタンめ、お前が知る前に私が知っている。お前が試練するこのような条件は、私にしても駄目だ」と、防いでくれる人たちがいなかったがゆえに、イエス様は苦難の道を行ったのです。
私生涯期間のイエス様
イエス様は物心がついてからは、食べるのも民族のために食べ、暮らすのも民族のために暮らしました。彼が何よりも苦心したことは、天の父のみ旨のために生きることでした。ところが、天のみ旨のために心を痛め、気をもんだイエス様の三十年余りの生涯を知り、イエス様を引き止めて求めた者がなく、イエス様を引き止めて捜しに出た者がなく、イエス様を引き止めて彼の心中をたたいた者が、その当時、一人もいませんでした。
そのような環境であったがゆえに、不憫なイエス様になってしまったのです。天のために民族の代わりに求めなくてはならない立場になり、民族の代わりに捜さなくてはならない立場になり、民族の代わりに門をたたかなくてはならない立場になったのです。イエス様はこのように、上には天に代わって求め、捜し、門をたたかなくてはならない立場に立ち、下には地に代わり、民族に代わって、切に求めなくてはならない立場に立つようになりました。また切なる心情を抱いて捜し、民族の心情をたたき、民族の心を開かなければならない立場に立つようになったのです。
不信と裏切りの民族を見つめるイエス様は、その民族が寝ているときも、享楽に浸っているときも、楽に眠ることができず、休めず、楽しむことができず、民族をつかんで天と因縁を結んであげるために戦われたのです。このような事実は、イエス様御自身だけが知っておられました。民族の中の誰一人として、イエス様の心情を慰めてくれる人がいなかったのです。
環境から懸け離れたイエス様の心情は、み旨の時を待ち焦がれるどころか、何とも言えないいらだちの気持ちを禁じ得なかったでしょう。三十年余りが過ぎ、み旨の実践路程を覚悟して乗り出したイエス様の心情は、悲壮であるならば何とも言えないほど悲壮であり、形容し難い心情であり、人間としては体恤できない耐え難い心情だったのです。このような気持ちでみ旨を実践しようとする公生涯路程を心配したイエス様であることを、私たちは悟らなくてはなりません。
Tuesday Sep 17, 2024
イエス様の生涯と愛 第24話
Tuesday Sep 17, 2024
Tuesday Sep 17, 2024
イエス様とマリヤの立場
神様を中心とした三位一体(神様、アダム、エバ)が崩れたので、これを再び探し立てなければなりません。それでアダムの代わりとして立てられた存在が、イエス様です。アダムが失敗したので、失敗した三位一体の空席を埋めるために、イエス様が来られたのです。このような内容も知らずに、イエス様が神様だというのですか。神様が神様に祈りますか。「アバ、父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(マタイ二六・39)と祈ることができるでしょうか。
神様は二人でしょうか。それならば、イエス様が十字架に釘打たれて亡くなるとき、神様御自身が十字架を負われたのではないですか。このような矛盾だらけのでたらめな内容を信じると言っているのですから、現在の知性人たちから追われるしかないのです。
本来人間が堕落しなかったら、誰が父になるのでしょうか。神様です。神様が父になるのです。ところが、今は誰が父になっていますか。サタンです。堕落することによって、サタンが父になったのです。したがって、すべて神様の子女に復帰しなければならないのです。サタンを中心として展開していくこの世は、すべて神様のみ旨とは一致しない恩讐の世界なので、これをすべてひっくり返して、本来の姿を備えた息子、娘を中心として、本然の国家と世界をつくらなければなりません。そのためにイエス様が来られたのです。それなのに、イエス様が死んでよいのでしょうか。
ではイエス様は、この地上に来られて、どのように蕩減復帰すべきでしょうか。蕩減復帰の原則から探ってみると、初めにサタンがエバを引き込み、その次にアダムを引き込みました。これを蕩減復帰するためには、どうすべきでしょうか。エバを奪われたので、奪われたエバを元に取り戻さなければならないのです。ところが、天地創造の原則により、アダムを見本としてエバを造られたので、蕩減復帰をしようとするならば、アダムの創造のような役事がなければならないのです。その方が、四千年間準備した基盤の上に送られたイエス様です。
イエス様は、アダムが失ったものを復帰するために再創造された、堕落していない第二次アダムなのです。コリント人への第一の手紙第十五章45節に、「最初の人アダムは生きたものとなった.....しかし最後のアダムは命を与える霊となった」と記録されています。
では第二のアダムとは、何でしょうか。堕落していない父母です。このような点から見ると、マリヤはエバの代わりの立場なのです。ですからエバがアダムを殺したので、それを蕩減復帰するためには、エバの立場に立ったマリヤがアダムの代わりであるイエス様を再び生まなければならないのです。
ではヨセフは、何の立場でしょうか。天使長の立場です。エデンの園において、天使長は神様を中心としてアダムとエバに侍ってあがめるべき立場にあったので、天使長の立場に立ったヨセフは、神様を中心として蕩減復帰の原則によって、イエス様とマリヤに侍って敬わなければならないのです。蕩減復帰の原則がそうなっているのです。
それならば、マリヤとヨセフは一緒に暮らすべきでしょうか、一緒に暮らしてはいけないでしょうか。本来は一緒に暮らしてはいけないのです。
イエス様の事情
イエス様は家を出て一人で歩き回ったので、どんなにあきれたことでしょう。神様が四千年かけて準備したその国は、どこへ行ったのでしょうか。それでも四千年の間、国を建てたのは、その基台の上にイエス様を送り、イエス様を中心として世界を救うために神様が準備されたのです。それにもかかわらずその国が排斥し、四千年間準備したこのユダヤ教が排斥したのです。
ヨセフの家庭を中心として、信頼の焦点(中心)として知ってついてきてくれることを望んだのですが、排斥するのですからどうしますか。ですからイエス様はあきれるでしょうか、あきれないでしょうか。彼らが歓迎しない立場に立ったので、どうなったでしょうか。国に期待しても希望が途切れ、教会に期待しても希望が途切れ、親戚に期待しても希望が途切れて、行こうとしても行けないようにすべてふさがってしまったので、仕方なく土窟を訪ねていき、貧民窟を訪ねていかなければならない身の上になったのです。ですからあきれたでしょうか、あきれなかったでしょうか。
イエス様が家を出て一人で歩き回るので、どれほどおなかがすいたでしょうか。そのような自分自身に対して、どれほどあきれたでしょうか。その上に家を出てきたので、再び帰ることもできない立場でした。聖書にイエス様が家に入って、兄弟たちと楽しく話をして、自分の行った奇跡を自慢したという内容がありますか。そのような内容がどこにありますか。
三年間ぼろを着て歩き回りながら、自分の親戚を抱き締めて話したことがあるかというのです。故郷の山河を訪ねていき、三十年の生涯に自分を育ててくれ、愛情をかけてくれたその母と夜を明かして話をした時があったでしょうか。イエス様が来たといって、ある日、母が餅を作り、祝宴を開いてイエス様を歓迎したという内容が、聖書にあるでしょうか。本当にあきれてしまうのです。
イエス様は家を出たので、おなかもすき、物悲しかったことでしょう。そのとき、近い親戚の家で婚姻の祝宴が開かれるからと、そこへ行くことになったのですが、そこはガリラヤのカナの婚姻の祝宴をする家でした。その家は母マリヤのとても近い親戚の家だったのですが、イエス様はおなかもすいていたので、御飯も食べお餅も食べようとして行ったのです。そこで、ぶどう酒を作る奇跡を起こしました。
そのときマリヤは、台所に酒がなくなったことを知って、イエス様にぶどう酒がないと言いました。ところがマリヤは、イエス様のことが好きで、神様の息子で能力が長けているので、ぶどう酒を作ってくれるものと思って頼んだと思いますか。マリヤがイエス様のことを、能力に長けた神様の立派な息子、能力を自由自在に発揮できる聖なるイエス様と思って、ぶどう酒がないと言ったと思いますか。哀れにも、もらって食べようとやって来て、それを期待して待っているような姿に見えたので、期待するなという意味でそのようなことを言ったのです。そのようにも言えるでしょう?よくも解釈できれば、悪くも解釈できるのです。
当時イエス様はおなかがすいていたでしょうか、すいていなかったでしょうか。誰か付き従いながら食事を出してくれた人がいたでしょうか。恵みを受けようという人たちはたくさんいて、イエス様を利用しようとする人たちはたくさんいました。しかし、暑ければ暑くはないか、寒ければ寒くはないか、おなかがすけばおなかがすいていないか、困難であれば困難ではないかと、先を争って進みながら、むちで打たれるとしても自分が打たれ、困難があったとしてもその困難を自分がかぶり、イエス様の悲運を代わりに担当しようという人が一人でもいたのでしょうか。
Tuesday Sep 17, 2024
イエス様の生涯と愛 第23話
Tuesday Sep 17, 2024
Tuesday Sep 17, 2024
第三章 イエス様の三十年の準備時代
一、イエス様の家庭事情
正しく知ってイエス様を信じるべき
聖書を見れば、イエス様の生涯の記録は三年の公生涯から始まります。その前に、イエス様の誕生についてとか、十二歳にエルサレムに行ってきたという若干の記録はありますが、それは問題にもならないほどです。
それよりも三十歳になるまでの間、何をしたのか、家では和やかに育ったのか、両親は愛してくれたのか、兄弟の仲が良かったのか、遠い親戚までイエス様を尊敬したかなどの内容は、一つも分からないのです。そのような内容は、聖書に記録されておらず、ぷっつりと切れてしまっています。
なぜこのような話をするのかというと、歴史は正しく明らかにされなければならないからです。自分の両親が国の逆賊ならば、逆賊であると明らかにしなければならないのです。
キリスト教の中心であられる、イエス様について知らなければなりません。その方の歴史について論じようとするのではなく、ただその背後がどのようなものだったのかについて調べようとするだけです。背後が正しくなっているのか、それとも誤っているのかという過去の歴史を知ってこそ、今歩んでいる方向が正しい方向に進んでいるのか、正しい結果として決定されるのかを推し量ることができるので、このような話をするのです。
イエス様の三十年の生涯路程は、ほとんど聖書に記録されていません。聖書の四福音書とか使徒行伝を見ると、イエス様の死後、使徒たちが記録した三年の公生涯路程だけが記されています。
ですからイエス様が、三年路程でペテロやヤコブなど使徒たちを連れて回る所で、いつも親戚に会うこともでき、すべての事実がみな分かる地域であるにもかかわらず、どうしてヨセフの家庭の一族は、一人もイエス様のあとに従わなかったかというのです。いとこやまたいとこ、母方のいとこたちがいたはずなのに、誰もイエス様がどのような人なのか分からなかったのです。その原因はどこにあったのでしょうか。
もしある家に長男がいるとすれば、その長男が継子だとしても、彼が家を出て三年間ある志を抱いて新しい仕事をするからといって、多くの人々が関心をもって彼について回るのに、それを見る親戚の人たちが、そこに一人も加われないのかというのです。
反対に悪いことでもするならともかく、多くの人たちから驚くべき推戴を受け、またその背後に現れた奇跡とか、歴史になかった驚くべきことをして回るイエス様であるにもかかわらず、親戚がそれほどまでに厚かましく知らないふりができるでしょうか。イエス様にも友達がいたはずです。手助けをしてくれる兄弟や友達が一人でもいて、家庭を中心として妹やおばなど、真心からイエス様のことを心配しながら泣きわめいたりする人が一人でもいたでしょうか。そのようなことがすべて謎なのです。
イエス様を愛せなかったマリヤ
マリヤが本当の意味で、この地上のいかなるサタン世界の母親よりも、イエス様を愛さずして愛の道を訪ねていくようになれば、天理の法度から外れるのです。マリヤは、イエス様のために選ばれた女性です。したがってマリヤは、イエス様の母としてイエス様を懐妊して出産すれば、誰よりもイエス様を愛さなければならないのです。
愛する際には、この世のいかなる母親よりも高い立場で愛さなければならないのです。自分の命を捧げ、自分が引き裂かれて死ぬことがあっても、愛を守るために行かなければならないのです。死と引き換えるようなことがあっても、愛を守るために行かなければならないのです。
ヨセフが曖味であるならば、足でけっ飛ばしてでもイエス様のために大げんかをして、足が折れて頭が切れるようなことがあっても、イエス様を愛することに夢中にならなければならないのです。それにもかかわらず、ヨセフと暮らすのですか。イエス様を愛したという立場で育て、愛する年ごろになれば、妻をめとらせて愛し得る立場まで送り出さなければならないのです。
イエス様は、幼い時から母の愛を受け、「私の母は、天上天下に二人とない母です。たった一人しかいない母です。神様、この母は愛さずにはいられない私の母ですので、あなたの国に私の母として入籍してください」と言うべきなのです。イエス様が決定してこそ、マリヤも天国に入籍できるのです。ところが、入籍できないマリヤをカトリックでは聖母と呼んでいるのです。何が聖母でしょうか。天の国に入籍できなかったのです。
それを考えると、母親はイエス様のことを愛したでしょうか。夫も知らない、誰も知らないという立場でイエス様だけを愛することに夢中にならなければならないのです。世界史にない母として外的な環境がどうであれ、イエス様の前に愛を注ぎ、イエス様のために一生の精識をすべて捧げて息子を愛する母にならなければなりませんでした。一等の母にならなければならなかったのです。マリヤはそうだったでしょうか。それができなかったので、イエス様から「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか」(ヨハネ二・4)という言葉を言われても当然なのです。全く当然のことなのです。
イエス様が少し物心のつくぐらいのころ、兄弟たちが生まれて育つ中で、弟たちがイエス様を冷遇したのです。よくよく見ると、イエス様は継子であり、その兄弟たちは実の息子なのです。ですからマリヤとヨセフの間に、イエス様ゆえにいつもトラブルが起きたのです。
非嫡出子として生まれたイエス様は、あきれたのではないでしょうか。彼らとけんかすると、弟たちはいつも誰の所に行くかといえば、お母さんの所に行くのではなく、お父さんの所に行って、お兄さんがどうのこうのと言うので、もとから心が安らかではなかった立場にいたヨセフが、いい言葉を言ったでしょうか。
すべて災いのもとになったのです。ヨセフもそうであり、弟たちもそうであり、その環境というものはあきれたものです。義父のもとに入ればそのようになるのです。ですからイエス様は、父の愛を受けたことがありますか。弟たちの愛を受けたことがありますか。愛を受けていたなら、なぜ家を出たのでしょうか。家を出る必要がないのです。ペテロ、ヤコブ、ヨハネなど十二弟子が必要でしょうか。自分の親戚を中心として引っ張っていけばよいのです。ところがそのようにできなかったので、ヨセフの一族は滅びていったのです。彼らがイエス様を擁護し、イエス様を中心として進んでいたならば、イスラエルの国が滅びるはずはなく、ユダヤ教が滅びるはずはありません。
Tuesday Sep 17, 2024
イエス様の生涯と愛 第22話
Tuesday Sep 17, 2024
Tuesday Sep 17, 2024
イエス様に侍るべきだったヨセフの家庭
本来ヨセフの家庭は、イエス様に侍り、天の法度を立てなければなりませんでした。それはなぜでしょうか。イエス様は天の王子であるからです。それならば、天の王子に侍るマリヤはどのような人物でしょうか。マリヤは、イエス様の母ではありません。母は母ですが、神様のみ旨を中心として見れば、母ではないのです。
神様には、息子を生める娘がいません。それでイエス様も娘を通して生まれたのではありません。本来はエバ自体が完成して、神様の愛に一致できる結果のもとで、娘に決定されなければならなかったにもかかわらず、堕落したので神様の娘になれなかったのです。
このように神様の息子を生める女性がいないので、神様は仕方なく僕の体を借りてでも、息子の種を残さなければなりませんでした。そのような運命から僕の立場であるマリヤを通して、ついに天の王子が生まれたのです。天の王子が生まれたのならば、その次に天の王女がいなければなりませんが、王女がいませんでした。
それならば、マリヤの果たすべき使命とは何でしょうか。僕から娘に、娘から母に上がることです。復帰の路程を経なければならないのです。では僕の体で、神様の娘になり得る立場に立つためには、どのようにすべきでしょうか。神様がアダムを創造し、アダムを見本としてエバを造られたように、マリヤも創造原則によってイエス様に従って復帰されなければならないのです。
マリヤは、イエス様の願いと一つにならなければなりませんでした。神様の息子であるイエス様は、兄や姉がいるわけではなく、父がいるわけでもありません。不憫にも世の中で信じられぬ僕の体を借りて生まれてきたので、イエス様と因縁を結んでいる人はマリヤしかいませんでした。ここでマリヤは、イエス様の心情を知り、イエス様のみ旨に従って、千万の死の道を歩んでも、天の王子であるその息子が行動できるように、家庭、社会に、万全の準備をしなければならないのです。
その次には、天道を立て得る生活の法度が、マリヤとイエス様の間にできなければならず、その事情を中心として、マリヤはヨセフを引っ張って入り、イエス様のみ旨に応じられるようにしなければならないのです。それがマリヤの責任だったのですが、マリヤの立場は、そのようにできる自然な立場ではなかったのです。
マリヤはか弱い女性の身で、自らの使命を果たすにはあまりにも手に負えない環境に追い込まれていました。ヨセフを捨ててみ旨だけに従っていくこともできず、自分の息子、娘を捨てて、イエス様だけに従っていくこともできない立場だったのです。あれもこれもできず躊躇する中で、イエス様は独り、時の責任と使命をすべて負うようになったのです。
本来マリヤは、天の生活的な規範を中心として、僕の身で息子の行ける天の規範を立てなければならず、娘の行ける天の規範を立てなければなりませんでした。その次には、神様の王子の前において、王女として代を継ぎ得る接ぎ木をされなければなりませんでした。その接ぎ木されるとは、アダムの体を通してエバが創造されたように、イエス様のみ旨とイエス様の思想とイエス様の願いに、マリヤが一致して復帰されるということです。マリヤにはこのようなことを植えて、刈り入れるべき責任がありました。
そうしてイエス様の骨の中の骨であり、肉の中の肉になることができる一人の新婦をヨセフの家庭を中心として、マリヤの精誠の基台の上に決定しなければなりませんでした。ところがそのようにできなかったので、イエス様はマリヤをつかんで涙を流しながら、「あなたは天倫によって、私と因縁が結ばれているので、天のみ旨を立てなければならない」と、御白身の心情を吐露されたのです。けれどもマリヤは、それを受け入れて協助する立場に立つことができなかったのです。
それゆえイエス様は、母がいたとしても天を中心として愛し得る母をもつことができなかったのです。マリヤは地上の母として、誰よりも天の恩寵をもってイエス様を愛さなければなりませんでした。たとえ僕の体だとしても、僕の中で最高の愛を天の王子から受けるべき母の立場でした。それにもかかわらず、そのようなことができる立場にマリヤが立てなかったので、イエス様は三十歳のときに家を出ていくことになったのです。
イエス様は、三十年の生涯を過ごすなかでマリヤとヨセフが責任を果たすことを待ちましたが、マリヤはそのような考えさえもできなかったのです。これ以上無為に歳月を送ることができず、三十歳のときに公的な路程を出発したのです。そうして再度、神様のみ旨に従い得る氏族編成に乗り出したのです。
Friday Sep 13, 2024
イエス様の生涯と愛 第21話
Friday Sep 13, 2024
Friday Sep 13, 2024
マリヤの役割
赤ん坊を生もうとすれば、多くの人たちからじろじろ見られるだろうし、名門の娘が非嫡出子を身ごもり、おなかが膨らんでよたよたと歩くのを、その両親は見ることができたでしょうか。体面と威信を知らぬはずのないマリヤですが、そうかと言って死にたくても死ぬことができないのです。
自分一人が死ぬことは問題ではないのですが、天使ガブリエルが現れて、間違いなく神様の息子を懐妊すると言ったので死ぬこともできず、そうかと言って事情を打ち明けることもできない立場でした。孤独な心情を独り抱えて、女性としての最高の死地で身もだえせざるを得なかったのです。
ですからマリヤは、機会さえあれば神様に切に求めたのです。「神様!私はこの群衆の前で赤ん坊を生める事情ではありません。私が赤ん坊を生むとすれば、旅人の境遇でもよく、ジプシーの境遇でもよいので、国境を越えることがあってもこの地域を抜け出して、赤ん坊を生めるようにしてください。そのようなことが可能な道があるならば、その道を選ぶのが私の願いです」と祈ったでしょう。
日ごと募る思いで、このような祈祷をしたことでしょう。神様はこのようなマリヤの心情をあまりにもよく知っていらっしゃったので、住民登録をするために行く途中、ベツレヘムでイエス様を生ませたのです。これはみ旨を思うマリヤの心に対する、神様の手厚い愛であることを知らなければなりません。
このようにしてマリヤが赤ん坊を生めば、両親は孫を見て喜び、兄弟や親成もみな喜んで歓迎しなければならなかったにもかかわらず、そのような立場になっていないのでイエス様を連れて故郷に帰ることができたでしょうか。帰ることができなかったのです。そのようなときに神様は、ヘロデ王がイエス様のことをねらっているという事実をヨセフとマリヤに知らせ、エジプトに身を避けるようにしたのです。
それゆえ故郷に背を向け、エジプトに行って三年間過ごし、ヘロデ王が死んだのちに再びガリラヤのほとりに戻って暮らしながら、イエス様は人知れぬ成長過程を経てきたのです。継子の身に生まれたイエス様が、ヨセフの家庭で三十年間大工の仕事をしながら、楽な生活をしてきたかというのです。
ヨセフはマリヤとの情が薄れたので、イエス様の事情を分かってあげようとはしませんでした。イエス様の事情を一から千万に至るまで分かってあげる、そのような家庭になれなかったのです。マリヤもそのような事情圏内で暮らしながら、夫ヨセフを見つめるたびに過去のすべてのことを男性の立場で考えれば、そうならざるを得なかったという思いもするようになったのです。
ですから、イエス様を抱いてヨセフの前で誇らしく乳を飲ませられる立場になれなかったのです。イエス様は、大きくなりながらこのような交錯する心情を体得するようになると、自分の母の膝のもとに行って座ろうとしても、ヨセフの顔色をうかがわなければならなかったのです。継子は義理の父母に従わないものです。しかも弟たちにも歓迎されない局面になったので、イエス様はどんなに孤独だったでしょうか。私たちは、イエス様の恨を解かなければならないのです。
それでは、神様が四千年間苦労して立てられたイスラエルの国とユダヤ教は、誰のために立てたものでしょうか。イエス様一人を愛するためでした。またイスラエル民族を代表し、ユダヤ教を代表して、ユダ支派のヨセフの一族を選んだ理由は、どこの誰よりもイエス様を愛するようにするためでした。イエス様を愛するようにするために、ヨセフとマリヤを選び立てたにもかかわらず、ヨセフはイエス様を愛することができず、マリヤもまたイエス様を愛することができなかったのです。
マリヤは本当のイエス様の母として、イエス様の深い心情を知り、今後すべきことは何かとイエス様と話し合いながら、ヨセフとイエス様とを仲立ちする役割をしなければなりませんでした。その家庭で、イエス様が自由に生活できる舞台をつくってあげなければならなかったのです。
そのような主導的な役割は、イエス様御自身が直接できません。マリヤがしなければなりませんでした。しかしマリヤは、このような責任を果たせる立場になれませんでした。過去からヨセフと交錯した心情が累積している事情に追われたマリヤは、知りながらもヨセフの顔色をうかがう立場でイエス様に対さざるを得なかったのです。そのような生活の中でイエス様は、三十年余りの生涯を送られたのです。
Friday Sep 13, 2024
イエス様の生涯と愛 第20話
Friday Sep 13, 2024
Friday Sep 13, 2024
悲しく育ったイエス様
イエス様は、死ぬために来られたというのでしょうか。イエス様の夢は、死ぬことにあったというのでしょうか。もしイエス様が死ぬために来られたとするならば、神様は選民を何のためにお立てになったのでしょうか。
イエス様は、悲惨な環境でこの地上に生まれました。それはマリヤとヨセフが、責任を全うできなかったからです。イエス様を生んだマリヤも、天の美しい天使たちの指導を受けて、自分の生んだ男の子は、将来どのようになるかを知りました。かと言ってイエス様が育つとき、神様がいつもマリヤと共にいてくださったわけではありませんでした。したがって日がたつにつれてマリヤは、思いもよらずイエス様が生まれたものと考えるようになったのです。このようなヨセフの家庭で、イエス様は育ったのです。
一方、ヨセフには、イエス様は本当に聖霊によって懐胎したのか、それとも誰かによって懐胎したのか疑わしいという気持ちが生じるようになったのです。ですから、考えれば考えるほど心苦しかったのです。婚約した処女が赤ん坊を身ごもって来て、「聖霊によって懐胎した」というのですから、ヨセフはどのような気持ちだったでしょうか。神様が教えてくださったその事実は信じたかもしれませんが、イエス様とマリヤを見るたびに、どうして激しい苦痛を感じないでいられるでしょうか。
このようにイエス様は、義父のもとで悲しく育たなければならなかったのです。このようなイエス様の事情を知らなければなりません。哀れなイエス様でした。弟たちの面倒は見てあげましたが、弟たちから少しも愛されなかったイエス様でした。イエス様は、ヨセフから何々をするようにという言葉を聞くときにも、真心から父の愛を受ける立場で聞くことができませんでした。義父から疑われる立場で聞いたのです。このようにイエス様は、見えない虐待の中で育ったのです。
責任を果たせなかった親戚
私たちは、ヨセフが義なる血統の出身だと見ますが、ほかに誰を挙げることができるでしょうか。私たちはヨセフの家庭と、ザカリヤの家庭を挙げることができます。家庭的には、一家庭はカインの立場にあり、もう片方の一家庭はアベルの立場にありました。
ザカリヤの妻であるエリサベツとマリヤは、彼女たちの二人の子供、洗礼ヨハネとイエス様に関して相談しなければなりませんでした。子供たちがどのように育ち、子供たちを育てるに当たって困難なことなどを話し合わなければなりませんでした。彼女たちは二人の子に関心をもたなければなりませんでした。マリヤとエリサベツは姉妹のような立場でした。したがって、イエス様と洗礼ヨハネは近い関係だったのです。
洗礼ヨハネは、生まれるときから不思議な、非凡な子供でした。洗礼ヨハネが生まれる前にも、とても不思議な話がありました。彼の父、ザカリヤは祭司長でした。ザカリヤが至聖所で供え物を捧げていたとき、主の使いが彼の前に現れて、子供が生まれることを知らせてくれました。彼の妻は既に老いていましたが、そのような啓示があったのです。
けれども彼は、その話を信じなかったので口がきけなくなりました。そしてその子供が生まれたのちに、彼が主の使いから言われたとおりにその子供の名前を教えると、そこで口がきけるようになったのです。町中の人たちがそのうわさを聞きました。イエス様もまた同じ経路で、同じような不思議な方法で生まれました。
聖書では私たちは、マリヤがたった一度しかエリサベツの家を訪問しなかったということを発見します。これはまた別の複雑な話です。もし彼女たちが近い姉妹であれば、彼女たちはいろいろ相談しようとお互いに行ったり来たりしたはずです。ザカリヤとエリサベツも、神聖な赤ん坊であるイエス様に関するうわさを聞きました。ですから彼らは、近所の人たちのこそこそ話のゆえにマリヤが足しげく訪ねてくることを好みませんでした。それでマリヤは、エリサベツの家をそれ以上訪問することができなくなったのです。
もしエリサベツとマリヤの二人が、神様のみ旨のもとに一つとなってイエス様の使命に関して互いに行き来して話し合うことができていたならば、事は非常に簡単になっていたでしょう。
イエス様の道をまっすぐにするために来た洗礼ヨハネについて考えると、もし彼が主イエス様を証することができていたならば、洗礼ヨハネを高くあがめていた当時の人たちが、イエス様にもっと簡単に従うことができたでしょう。さらにまた、その二人の母親たちも一つになっていたならば、事ははるかにたやすくなっていたでしょう。
Friday Sep 13, 2024
イエス様の生涯と愛 第19話
Friday Sep 13, 2024
Friday Sep 13, 2024
ヨセフの不信と無知
ヨセフは、それが絶対的な神様の啓示であると信じてマリヤを迎え入れました。そのように迎え入れはしましたが、どうせならもう一度教えてほしい、二度、三度と夢の中で毎日のように教えてくれればよいのですが、そういうわけでもないので、ヨセフの心は落ち着きませんでした。
「男子の一言は千金のごとし」といいますが、神様の一言だったら数億千金になるのではないでしょうか。一度した約束は守らなければならないのであって、ばかばかしくトビのように何度も(ぐるぐる回って)確かめなければならないのでしょうか。神様はそうするわけにはいかないのです。一度教えれば、それでおしまいなのです。
ですからヨセフは、マリヤのおなかの中にいる子が男の子か女の子か分からなくても、いったい誰の子か気になったでしょうか、気にならなかったでしょうか。もし牧師の妻がそうなった場合、神聖な天の国に行こうとする牧師といえども、妻に尋ねるでしょうか、尋ねないでしょうか。尋ねないという人は気違いです。私もそのような立場に立たされれば、尋ねることでしょう。尋ねるにしても、直撃弾で尋ねます。
それならば、ヨセフの胸の中で気掛かりになり、心配の種になったこの事件がしこりのように残っているのに、マリヤに尋ねたでしょうか、尋ねなかったでしょうか。ヨセフはマリヤに、穏やかに愛に満ちた表情で、神様が喜び得る語調で、「神様はこのように教えてくださり、またみ旨があるものと思っているけれど、いったい赤ん坊を身ごもらせた人は誰ですか」と尋ねたでしょう。
そう尋ねられたマリヤの気持ちは、良かったでしょうか、悪かったでしょうか。実際、そのような質問は、して当然のことです。マリヤは「私は知りません!」と返事ができたでしょうか。ヨセフはマリヤの命の恩人なのに、そのように答えることができたでしょうか。それとも、「はい、話しましょう」と言ったでしょうか。マリヤの身をよく考えてみてください。どうしたでしょうか。間違いなく、うんうんとうめきながら、そわそわしたことでしょう。女性たちがそうだと答えるのですから、間違いありません。
けれども、それが返事のできる内容でしょうか。もし答えた場合には、天地が動揺し、世界がひっくり返り、一族が滅びるとしたら、いくらヨセフが尋ねたとしても返事をすべきでしょうか、してはいけないでしょうか。
横で口を固くつぐむマリヤを見ていたヨセフの気持ちは、どうだったでしょうか。「私は実に素晴らしい妻を迎えた」と思ったでしょうか。考えてみてください。そして尋ねたことに答えもせずにいるマリヤを見て、ヨセフがじっとしていたでしょうか。「おい、誰の子なんだ?」とまた尋ねたでしょう。それでも返事をしないので、三回目に尋ねるときは怒りを帯びて、「あなたは本当に言えないのか」と言ったことでしょう。ですから、家庭不和が起きたでしょうか、起きなかったでしょうか。男は一度尋ねれば、答えが聞けなければ気分が悪いのです。
そのようなものですから、部屋に入ってもヨセフがふんぞり返って座っていれば、マリヤはまともに座ることができたでしょうか。マリヤを見つめるヨセフの視線は、もう昔のようには優しくなかったのです。このような局面で、ヨセフとマリヤは数えきれないほど言い争いをしたでしょう。
また近所の人たちから見ると、婚礼の日が過ぎたのにヨセフは結婚祝いもせずに、処女を迎え入れて暮らしていることも疑わしい上に、毎日けんかをしているので、「ヨセフはいい人なのに、何か特別な事情でもあるのだな」と、ひそかにこそこそと議論をしたでしょう。そのように十か月を過ごす間、マリヤがイエス様を流産しなくて幸いでした。
それではヨセフは、マリヤとけんかして殴ったでしょうか、殴らなかったでしょうか。ヨセフにむち打たれて暮らしたマリヤは、悔しく思ったでしょうか、思わなかったでしょうか。悔しかったことでしょう。ところが聖書には、このような内容は記録されていないのです。