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Wednesday Feb 08, 2023
真の父母経 第47話
Wednesday Feb 08, 2023
Wednesday Feb 08, 2023
12 ソウルで母方の叔父を捜す時も天の保護がありました。やっとのことで三十八度線を越え、苦労の果てに以南に下っては来たものの、叔父を見つける見通しが立ちませんでした。祖母と大母様は、どう捜したらよいか分からない状況で、あちこちさまよいながら訪ね歩きました。とても難しいことでした。そうこうしているうちに叔父の友人に出会い、便りを知ることができました。天佑神助(天の神の助け)でした。
その時、叔父はソウル近郊の軍隊の幕舎に住んでいましたが、私たちが訪ねていくと、とても喜び、「いつも故郷にいる家族を思って心配していたところに、このように訪ねてきてくれたので、とてもうれしい」と言いました。それで、急いで家を一つ借りて暮らすようになったのですが、あとで分かったのは、そこが正に青坡洞の旧本部敎会からとても近い所だったということです。
13 私(お母様)が数えの八歳の時、「六・二五動乱」が勃発しました。それで、ソウルから避難することになったのですが、その時、叔父が私たちを助けてくれました。当時、陸軍本部の医務将校だった叔父が、漢江の橋が爆破されるという情報をあらかじめ入手したのです。漢江の橋の通過証を持っていた叔父は、軍用車に乗ってきて、祖母と私を乗せて南の方に避難することになりました。大母様は、ただひたすら主に出会うことだけを思い、絶えず精誠を尽くしながら過ごされたのですが、その避難の途に最初は同行できませんでした。
漢江の橋を渡る時、叔父は私たちに「橋を渡ったらすぐに降りなさい」と言いました。私たち一行は、叔父に言われるがまま、橋を渡るやいなや降りて身を伏せたのですが、その瞬間、漢江の橋が「ドカーン」と爆発して、崩壊したのです。その時、漢江の橋を渡っていた多くの軍人が川に落ちて亡くなりました。幸運にも私たち一行は、叔父の助けで命を取り留めることができたのです。
今も漢江の橋を渡る時は、あの日のことが思い出されて心が痛みます。私と同年代の韓国人のほとんどは、戦争と厳しい受難時代を経てきていますが、私は、すべてにおいて絶えず天の保護があり、無事に過ごすことができました。大母様は、避難生活で私が風邪をひいた時は、飴を口に入れて咳を抑え、けがをした時は、アロエに御飯を擦り潰して傷口に塗り、治療してくださいました。
14 私(お母様)たち一行は、一九五〇年六月二十八日の午前三時に漢江の人道橋が爆破されたのち、南の方に避難してきました。そして、全羅道にある軍人家族避難収容所に留まり、九・二八ソウル収復後に帰京し、空き家になった日本家屋で過ごしました。そのような中、中共軍が介入することによりソウルは再び共産軍の手中に落ちるようになりました。そして、一九五一年の一・四後退の時、再び避難の途に就いたのです。軍人の家族は、他の避難民より先に特別列車に乗ることができ、そのお陰で、ソウルを発ち、大邱に降りてきました。その時、陸軍本部が大邱に移され、そこに勤務していた叔父の家の近くに住むことになりました。私は、このような避難路程において、いつでも神様が共にいらっしゃることを実感しました。神様は、北朝鮮から韓国に来るときも、韓国での避難の渦中でも、常に保護してくださったのです。
第二節 学生時代と真のお父様との出会い
天の導きのとおりに生きてきた学生時代
真のお母様は、ソウルの孝昌小学校をはじめ、大邱、西帰浦(ソグィボ)、春川などの地を経ながら学業を続けられた。特に、春川の鳳儀(ボンウィ)小学校の生活記録簿には、「非常にしとやか、親切で、どこか高尚な態度も見られ、級友の中で最も女性らしい」と記録されており、この学校を卒業する時には優等賞を受賞された。
その後、真のお母様は、一九五六年四月から一九五九年三月まで、聖正(ソンヂョン)女子中学に通われた。真の父母様は、善正中学校に校名が変わったこの学校を、一九八七年四月に引き継がれている。また、真のお母様は、一九五九年三月、現在のカトリック大学看護学部の前身であるソウル聖ヨセフ看護学校に入学された。
1 私(お母様)は、南に渡ったあと、ソウルの孝昌洞(ヒョチャンドン)に部屋を借りて過ごし、孝昌小学校に入学しました。そして、大邱と済州道に移ってからも、勉強を続けました。大母様が、私をより清く育てようという意図から、一九五四年に済州道に渡ったあとは、西帰浦の新孝(シニョ)小学校、すなわち今日の孝敦(ヒョドン)小学校の五学年に転校しました。その後、江原道・春川の補給廠長(しょうちょう)として発令を受けた母方の叔父が、手紙を二度も送ってきて春川に来るようにと言うので、そこに行くことになりました。
そして、春川・孝子洞(ヒョヂャドン)の叔父の家と近い薬司洞(ヤクサドン)で部屋を借りて暮らしながら、一九五五年二月、春川の鳳儀小学校に転校し、すぐに六学年に進級したあと、翌年の一九五六年三月二日に、第十一期として卒業しました。その後、叔父の助けで一九五六年四月十日、ソウルの鍾路区(チョンノグ)社稷洞(サヂクトン)にある聖正女子中学校に入学して、一九五九年三月二十五日、第三期として卒業しました。この期間は、叔父の家族と共に、敦岩洞(トナムドン)と新堂洞(シンダンドン)で生活しました。いとこと共に生活しながら、社稷洞に通学したのです。
2 私(お母様)が中学生の時、学校で運営委員長をした記憶があるのですが、その時、全校生徒のいる前で壇上に上がり、決定事項を話さなければなりませんでした。その話を終えて下りていくと、国語の先生をはじめ幾人かの先生が、「いやあ!鶴子は大したものだ!」と言うのです。いつも周囲の人々には、静かでおとなしい学生という印象を与え、気安く近づけない感じを与えていたのですが、そのように発表するので、驚かれたのです。しかし、私はただ説明しただけなのです。それが、私が大勢の人々の前で話をした初めての経験でした。
3 最近、私(お母様)を訪ねてきた一人の友人がいます。同じ地域に住んでいて、一緒に中学校に通ったのですが、彼女のお父さんは、私にとてもよくしてくれました。また、一年上の先輩が私を見て、端正できれいだと言って、多くの関心をもってくれました。その先輩は、カナダに住みながら、たびたび私に手紙を送ってくれたり、韓国に来ると会ったりもしました。いつだったか、私が通っていた学校に行ってみると、当時の国語の先生がまだいらっしゃいました。その国語の先生のお顔が思い出されます。また、数学の先生も、私にとてもよくしてくださいました。
4 私(お母様)が高校に進学する頃は、戦争が終わったあとで、道路という道路が負傷者であふれていました。戦争孤児や子供たちは、飢餓と疾病でとても苦しんでいました。病気になったとしても、すぐに治療を受けられる人はまれでした。彼らは、とてもかわいそうでした。彼らの痛みを治癒してあげたいと思い、看護学校に入ったのです。彼らを助けてあげられる道を探すためでした。
5 私(お母様)は、どの学校に行っても先生から愛され、よく面倒を見てもらいました。まじめに見えたからか、先生たちがよく面倒を見てくれたのです。また、先生たちから「君は今どきの学生とは違うね。少し外に出て歩いてみてはどうだ」と言われたりもしました。ただ、悩みが多いなどの理由からそのようにしていたのではなく、静かに座っているのが好きだったのです。
思春期や、成長期にも、私は生きることに対する悩みはもちませんでした。母方の祖母や大母様が、常に天に侍って生きる信仰を植えつけてくださったからです。大母様の厳格な指導のもとで、様々な本を熟読しながら過ごしました。そうして、気の合う一人、二人の友人と一緒に果物の木を育てて、田園生活をしながら暮らしたいとも考えていました。友人たちとの会話では、「あなたはまじめな人だけど、お嫁には先に行くでしょう」と言われたこともありました。
聖婚したのちは、過去の学生時代のことを考えることがなかったので、特別に思い出せることがありません。また、考える暇がありませんでした。最近になって、時折訪ねてくる友人たちがいて、その時の記憶が少しよみがえったりするのす。
6 私(お母様)は、平安で静かな雰囲気の中で読書や音楽を楽しむ学生として知られていました。また、かなり知的なイメージの学生としても知られていました。極度に感情的でもなく、極度に怒りを表に出すこともなかったのですが、初めて会う人には、むしろ少し冷たい印象まで与えていたと思います。
私は寄宿舎で、修道女のような生活をしました。さながら温室の中に咲く一輪の花のように、完全に外の環境から自分自身を隔離していたのです。今になって初めて、それがいつか主にお会いして、主の花嫁になる人として聖別するための天の準備過程だったことを知りました。
7 私(お母様)は、一九六〇年まで、衣服で包むように、自分自身をほとんど現さない生活をしました。天が私を世の中と妥協することのない生活へと導かれるので、簡素な生活環境の中で暮らしたのです。神様は、私がサタン世界の空気を吸うことも嫌うほど徹底的に保護してくださり、そのような環境の中で、私は、私自身の考えをすべてなくし、天が導く生活だけをしました。
そして、常に日記を書きましたが、不思議なことに、何げなく書き綴っていたことが、「私たちの願いは統一」など、ほとんどがそのような言葉だったのです。後日、お父様のみ言を聞いてから、そのようなことが意味のあるものとして思い出されました。
8 お母様は、壇上でもとても有名です。壇上で初めて歌を歌ったのが、高校二年生の時です。歌がうまいことでとても有名になりました。誰を前にしても、壇上に上がればチャンピオンのように堂々としていました。
9 お母様には一つも欠点がありません。とても良いお母様です。それは、ただ自然にそうなったわけではありません。男性たちに対するとき、お父様と比較して、「お父様がこうだから、あの男性たちもこうだろう」と考えるのです。そのたびに心が広くなるので、良く見えるというのです。お母様の目と手を見てください。どれだけ鋭敏か分かりません。一言語ると、主語がどうなっていて、目的語がどうなっていると指摘するのです。鋭敏なのですが、よく分析するというのです。十代の時、友人たちから印象的な女性、記憶に残る女性と思われたという話を聞きましたが、鋭敏だからそうなのです。ですから、行き来する道も、何の考えもなしには通りません。自分の心が向く所だけを通るのです。

Wednesday Feb 08, 2023
真の父母経 第46話
Wednesday Feb 08, 2023
Wednesday Feb 08, 2023
第四章 真のお母様の摂理的準備時代
第一節 信仰的な環境の中で過ごした幼少時代
精誠と祝福の信仰生活
真のお母様は、洪順愛(ホンスネ)大母様が再臨主を迎えるための信仰生活に専念するにつれ、幼少時代を主に母の実家で過ごされた。そうして、外祖母である趙元模(チョ・ウォンモ)女史と大母様を通して、信仰の精髄を習得されたのである。大母様は、真のお母様が以北(現在の北朝鮮)にいらっしゃった六歳の時まで、サタンがあらゆる方法を用いて危害を加えようと付いて回るのを、夢の啓示を通してたびたび目撃し、乳母のような立場で、精誠を尽くして真のお母様を養育した。したがって、真のお母様は、天の新婦としてお立ちになるまで、大母様と共に苦難の道を歩まざるを得なかったのである。
1 私(お母様)が生まれてから一ヵ月ほどたって、大母様の夢に「新しい主」、金聖道おばあさんが白い雲に乗り、白い服を着て現れました。そして、「順愛、その赤ん坊のために心配しただろう。心配するな。この赤ん坊は主の娘であり、あなたは乳母と同じである。お乳だけしっかり飲ませて養育しなさい」と語られました。大母様は、その命令を心にしっかりと刻んで生きていきました。私は幼少の時、普通の赤ん坊とは違いました。一歳になる前に歩き、言葉まで話しました。一言一言、非常にはっきりと話したのです。ですから、母方の祖母も、「この子はやはり違う」と言ったといいます。そのように賢く、少しも欠けた所がなかったというのです。
2 母方の祖母の趙元模おばあさんと洪順愛大母様は、再び来られる主を迎えるための準備と信仰で一貫した生涯を送られました。世の中と妥協されず、安逸な家庭環境の枠にはまった信仰ではなく、二十四時間すべてを天のみ前に奉仕し、主を迎えるための準備に、この上ない精誠を尽くされました。
大母様は、そのような信仰生活を送ったので、ほとんど家にいらっしゃらず、私(お母様)は幼い頃、主に祖母と一緒に多くの時間を過ごしました。それで、祖母を通して、自然に、かつ当然のように信仰を受け入れるようになったのです。
3 母方の祖母は、私(お母様)に対する天のみ旨を御存じで、私が世の中に染まらず、純粋に育って天のみ前に用いられ得る貴い娘として成長できるよう、多くの精誠を注がれました。祖母は、いつも私に「お前の父親は天のお父様だ」と言われました。ですから、父親と言えば、肉身の父のことを思わず、いつも天のお父様のことを思ったので、神様のことを思うと、いつも心が温かくなるように感じました。また、外的に見ればすぐには理解し難い環境で育ちましたが、特別な不平不満はありませんでした。いつも何かが私のことを包んでくれているような感じがあり、常にゆとりのある心で過ごしていました。
大母様や祖母にも、肉身の父親に関してや、お二人がどうしてこのような生活をしているのかなどといった質問は、全くしませんでした。肉身の父母に対する恨みや不満は、私の人生には全くなかったのです。
4 私(お母様)は、六歳(数え)の時まで平安南道の安州で過ごしましたが、その六年間、大母様の夢にはいつもサタンが現れ、私の命を奪おうとして付きまといました。ですから、大母様は、サタンと六年間、闘い続けられたのです。それでも深い意味は分からないまま、「なぜサタンがこれほどまでに追い回しながら、この子の命を奪おうとするのだろうか」と、ただ不思議に思っていたそうです。
5 大母様は、新イエス教会と聖主教を訪ね回り、最後は腹中教で、再臨主が来られることを待ち望みながら祈りに没頭しました。当時、私(お母様)は数えの四歳ぐらいでしたが、私も大母様に従って敬拝を捧げるなど、精誠を一緒に捧げました。朝と晩には公式的な敬拝の時間があり、各自、黙想祈祷を捧げつつ、たびたび敬拝を捧げました。以南(現在の大韓民国)に下ってきた数えの六歳まで、その生活は変わりませんでした。
6 私(お母様)の幼少時代は、主の花嫁になる者として聖別するための期間だったと思います。本来、私の性格は外向的ではなく、世の中から離れて、自分自身の世界を楽しむほうでした。真のお父様も、趙元模おばあさんや大母様について、天情の道理を私に引き継がせるために骨身を削るのも意に介さず、一片丹心、神様のみ前に絶対服従し、絶対従順する道を行ったと語られたことがあります。そして、ありとあらゆる誘惑の環境に触れさせないようにするため、天が私を世の中から離して聖別生活をさせたのであると語られました。
南下後、戦争と受難を克服
外祖母の趙元模女史と洪順愛大母様と真のお母様は、腹中教に行き来された一九四八年、北朝鮮の共産党当局の宗教弾圧により、十一日間、共に収監された。このように、共産党が次第に猛威を振るうようになるや、趙元模女史は、「以南に行こう」と提案した。その頃、「以南に行きなさい」という天の啓示があった。以南は、三人にとって非常に不慣れな場所だったが、ちょうど、鉄山・聖主教の金聖道の長男の鄭錫天(チョンソクチョン)が先に南に行ったという話を聞いたため、彼を訪ねていこうと決心した。また、大母様の弟の洪順貞(ホンスンヂョン)は、日本留学中、戦時状況に伴って中途帰国することになり、陸軍士官学校の薬剤官教育を受けたのち、中尉として任官し、軍に服務中であった。その弟に会うことも兼ねて、三人は一九四八年、真夜中に出発し、死線を越えて、千辛万苦の末、南に渡ったのである。
7 私(お母様)が安州に住んでいた時、大母様は信仰的惰熱ゆえに、ほとんど家を空けていました。そのような状況だったので、私は常に、母方の家族たちが面倒を見てくれる中で育ちました。キリスト教を信仰していた父は、共産党当局の脅威を避けて、一九四六年、やむなく先に南へと下りました。その頃、父が家に訪ねてきて、大母様に「一緒に行こう」と言ったことをかすかに覚えています。
8 共産治下で信仰をもつことはとても困難でした。趙元模おばあさんは、韓国にいる息子の洪順貞氏に会うため、大母様と私(お母様)と共に南下の途に就きました。私たち三代の母子は、南下する途中でも、主に向かって敬拝を捧げました。洪唯一おじいさんは、平壌がエデン宮であるという啓示を受けて、これを守るために残られ、それ以降、会うことはできませんでした。
9 私(お母様)が南に下る道は容易ではありませんでした。すき返した田畑に沿って歩いていこうとするので、足を取られ、寒さに震えながら南へ南へと移動しました。私たち一行が、やっとのことで三十八度線の近くに到着した時のことです。物々しく警備に就いていた北の人民軍に捕まってしまったのです。彼らは、私たちを空き家の物置に閉じ込めました。そこには、既に捕まった人たちがいました。人民軍は、男性には乱暴に対しましたが、女性と子供にはきつく接することはありませんでした。
大人たちは、寒さに震えながら歩哨(ほしょう)に立っている人民軍に食べ物を持っていってあげなさいと、私を使いに行かせました。私は震える心を抑え、笑顔で食べ物を人民軍に渡しました。何度かそのようにしたところ、人民軍の人たちの心がとても穏やかになりました。ある日の夜、人民軍が、「故郷に帰りなさい」と言って私たちを解放してくれました。生死の岐路において、温かい愛の力が生命の道へと導いてくれたのです。
10 母方の祖母は、私(お母様)といつも一緒にいらっしゃったのですが、祖母と通りを歩くと、人々が私のことを「とてもかわいい」と言って誰もがかわいがってくれました。それで、当時は、人々があまり出歩くことができない時だったのですが、私はあちらこちら歩き回りながら、人のお使いもたくさんしてあげ、多くの愛を受けました。韓国に下ってくる過程でも、子供や女性たちの中に幼い私がいたので、無事に南に渡ってくることができたのです。
やっとのことで三十八度線を越えたばかりの時でした。韓国の軍人たちが人の気配に気づき、こちらに銃口を向けて撃とうとした瞬間、私が歌を歌ったのです。すると、軍人たちはその歌声を聞いて銃口を下げました。そして、私たちを温かく迎えてくれたのです。「こんなにかわいい娘さんを連れてくるとは、大変な苦労だったでしょう」と言って、南側へと導いてくれました。
11 大母様が腹中教に通っていた頃に、母方の叔父である洪順貞氏が日本留学から戻り、南に下って軍に入隊しました。叔父は知識人で、とてもおしゃれな方でした。当時、知識人たちの間では、共産主義理論に同調する人がたくさんいました。叔父もまた共産主義思想が良いと思っていましたが、理論とは違う北朝鮮の共産体制を見て失望しました。理論と矛盾する体制を見て、親がいる北には行かず、南に行って軍に入隊したのです。
(その後、)母方の祖母が、軍隊にいる叔父にどうしても会いたいというので、大母様と私(お母様)と一緒に、叔父に会うために南下したのです。その時からソウルにとどまり続けることになりました。
南下した当初はソウルの孝昌洞(ヒョチャンドン)にいました。そこで小学校にも入学しました。その後、私は行く先々で羨望の的になり、周囲の大勢の人たちから愛されて育ちました。もし私が早く結婚しなければ、この世に奪われる可能性が高かったので、幼い年で聖婚させて、天が先に私を抱かれたのではないかと思いました。

Wednesday Feb 08, 2023
真の父母経 第42話
Wednesday Feb 08, 2023
Wednesday Feb 08, 2023
4 五山普通学校では、日本語を使ってはいけませんでした。皆さんも知っているように独立万歳運動の三十三人のうちの一人で、日本と怨讐の立場で闘争した代表的な人物である李昇薰(イスンフン)氏が建てた学校であり、そのような学校の伝統があるので、日本語を使わせなかったのです。
ところが問題は、私たちが敵を知らなければいけないということでした。敵について詳しく知らなければ、敵と闘っても対策を立てられないという思いがしました。それで、定州普通学校の四学年に、編入試験を受けて入りました。そこに入ってから、日本語が流暢にできるようになって卒業したのです。そのような過程を経ながら、信仰の道や人生の根本など、難しい問題について考えるようになりました。
5 定州普通学校に編入し、学校で日本語を習いました。片仮名、平仮名を勉強したのが、ついきのうのことのようです。それを一晩ですべて覚えてしまいました。学校に行ってみると、三年生、四年生、五年生の子供たちが日本語で話していました。
その当時の私は、年がいってから学校に入ったので、背が高かったのです。それなのに、日本語が一言も分からないのですから、他の人たちが踊っているその真ん中で、何もできずに一人でただ見物ばかりしているのに、恥ずかしいことさえ分かっていないというような状況でした。その時の気まずさは、感じたことのない人には分からないでしょう。ですから、稲妻のように、一年生、二年生、三年生、四年生のすべての本を半月ですべて覚えてしまいました。そうすると、聞き取れるようになったのです。
6 私は、頭が悪くないので、どんな勉強をしても世界的な学者になっただろうと思います。そのような頭をもったからといって、私が勉強して世界に名だたる学者になって何をするのか、そのような問題を深刻に考えました。
そのような学者になったところで、黒板の前でチョークの粉を吸い込み、一生の間、腰が曲がるまでひたすら研究ばかりして死ぬのです。そのようにしてすべての根本問題を解決できるのかといえば、それはできないというのです。
それならば、人間として行くべき道のうち、どんな道が最も困難で大変な道かを考えました。歩むのが大変といわれる道を私は行きたかったのです。人間として今まで歴史時代において、過去、現在、未来に誰もできなかったこと、できないことを、私が一度しなければならないと考えました。
7 私が勉強する時は、稲妻のように勉強しました。数年かけてすることを、瞬く間にやってのけました。私の故郷は、定州から北東方向に約八キロメートルの距離にある農村です。灯蓋(とうがい)(灯火用の油皿を載せるもの)に明かりをともして勉強したのが、ついきのうのことのようです。
午前二時、三時まで夜を明かしながら勉強していると、父や母が、「おい!もう寝なさい。体をあまり無理させてはいけない」と言いました。いつもそうでした。その時、私が常に友としたのが夜の虫たちでした。夏は夜の虫を友としたのです。そのように座って、午前二時、三時まで勉強しました。田舎の夜は本当に静かです。昆虫たちが月夜に鳴く声は、とても神秘的なのです。
ソウル留学生活
真のお父様は、定州公立普通学校を卒業され、一九三八年四月十二日から一九四一年三月八日まで、ソウル黒石洞の京城商工実務学校に通われた。真のお父様は、誰よりも早く登校され、教室の掃除を一手に引き受けてされるときも多かった。そのため、同級生たちも気兼ねし、むやみに接することができなかった。か弱い学生は保護してあげ、力があっておごりたかぶる者たちとは正面から向き合い、是非を正された。闊達であられたが、普段は寡黙で真面目だった。天道を明らかにし、人格の完成を目指して、常に沈黙された。真のお父様の学籍記録には、「明朗で活発、飾り立てることなく真面目、そして、強靭、健全であり、自ら率先してあらゆることに熱心に取り組む」、「身体が健康で、出席状況は良好、特にサッカーを好む」と評価されている。
8 謙遜な人は上がっていくのです。学校の友達の中でも、自分の位置や境遇も分からず、拳を振るう学生たちがいます。しかし、謙遜な人、自分に実力があってもおごり高ぶらない学生もいます。そのような人には、何かしら威圧感があります。主管性が宿っているのです。近づきたいと思うのですが、彼がじっとしていても、なぜか近寄り難いのです。皆さんの友達の中にも、そのような人がいるというのです。
私は学生時代、あまり話をしませんでした。学校に行っても絶対に饒舌にはなりませんでした。一日中、話をしない日もありました。ですから、同級生たちは、私のことをとても近寄り難く思っていました。学校の先生よりも近寄り難かったのです。かといって、私が彼らを恐喝したり、脅迫したのでもなく、たたいたりしたのでもありません。
それでも、彼らは私に対して、むやみに接することはできませんでした。
また、彼らは、悩みがあると、私のところに来て相談したのです。
9 学校の友達は、私のことを恐れていました。同じクラスの友達とは、会えば遊んだりしながら過ごしましたが、私のことを恐れたというのです。私は、余計なことは話しませんでした。困っている友達がいれば、私は人知れず、その友達を助けてあげたことがたくさんありました。
また、私は運動選手でした。相撲選手であり、サッカー選手でした。鉄棒もできました。体は大柄ですが、敏捷でした。黒石洞の我が物顔でいる人たちと、一週間のうちに全員会ってみました。そこで誰が親分なのかを調べて、彼らを私が教育すると考えながら暮らしたのです。
10 私の中学校時代は、一人で掃除をすべてやりました。学校を愛することにおいては、私が先頭に立ちたいという気持ちがあったので、全校生徒に代わって私が掃除しようと考えたのです。そのような時は、人が手伝ってくれることを嫌いました。一人できれいにしようとしたのです。それで、人がした所をまたやり直すことになります。そのように何度かしているうちに、友達が「お前が一人でやれ」と言うのです。それで自然に一人で掃除をするようになりました。
11 私は、一度つかんだら放しません。若い時もそうでした。村中から見えるものでも、私がすべて検証するまでは信じませんでした。学校で数学の先生が公式を教えてくれると、それを中心としてその先生を追い込んだ人です。誰がこのような公式をつくったのかというのです。ですから、暴いて、かき分けて、掘ってはまた掘り返しました。適当にではありません。何であっても、適当にしては通じないのです。
12 私が学校に通っていた時は、試験問題に何が出るのか分かりました。学校の先生が講義をする時、どれほど深刻かを見ます。自分の気に入った学生の目をまっすぐに見ながら語るのです。その学生が隅にいれば、隅のほうを見ます。「誰を見るだろうか」と思いながら、学校の先生に注目するのです。「先生が勉強のできる学生を見て強調しているのを見ると、これは間違いなく試験問題に出る」と思えば、A、B、Cと印を付けておきます。
一冊の本の中で十ヵ所だけ印を付けたあと、それだけ勉強しておけば落第しません。その周辺まで見ておくので、答えを書けば、三〇パーセントから四〇パーセントは当てられます。講義をよく聴いたので、そのようにできるのです。
自炊生活と涙の祈祷
真のお父様は、ソウルで過ごされた学生時代の三年間、自炊しながらの下宿生活を通して、苦行に近い生活訓練と多様な経験を積みながら、学業と信仰に精進された。当初、しばらくの間はソウルの銅雀区(トンヂャクク)鷺梁津(ノリャンヂン)から通学し、主に黒石洞で自炊しながら下宿をされた。特に、故郷の家からは十分な学費が送られてきたが、井戸のつるべの鎖が手に張り付くほどの酷寒の中でも、火の気のない部屋で過ごし、冷たい水をくみ上げて御飯を作るなどの自炊生活を通して、貧しい中で生きていく人々の生活を直接、体験された。この時から、昼は常に断食をされた。常に一食一品だった。空腹の時こそ、神様の心情に近く接することができるからである。そして、一日に十二時間以上、祈りに没頭されることもあった。そのため、膝と肘にたこができるほどだった。特に、学校の近くの松林、そして、教会の裏側にある瑞達山(ソダルサン)の岩の丘と、山の向こう側、銅雀洞の麓で、深刻かつ凄絶な談判祈祷もされた。そのような中で、神様の心情を体恤しながら心情的一体を成し遂げられたのである。
13 ソウルに来て自炊生活をしていた頃、冬はとても寒かったのです。平均気温が零下一七度から二一度ほどでした。若かった頃は、それくらい寒かったのです。真冬に火の気のない部屋で暮らし、冷たい水で御飯を炊くのです。
そして、今も私が忘れられないことがあります。山の尾根に掘ってある深さが十尋(約十八メートル)以上の井戸があったのですが、この井戸水は本当に良いものでした。つるべは、緒が切れるので、鎖でつないでいます。それをつかむとき、手が張り付いて「ふうふう」と息を掛けたことが、ついきのうのことのようです。そのような生活をして、人が生きていくことを、身をもって知ったのです。
14 私は、女性がいなくても一人で生きようと、あらゆることを研究しました。一生、独身生活をするとしても、このみ旨を私の一生の事業とすると定めて出発した人なので、できないことがありません。私に必要なものは、誰の世話にもならずに、自らの手で解決するというのです。私は、食事を作るのも上手です。包丁さばきを見れば、素人かどうか、すべて分かります。また、おかずを作るのを見れば、腕前が良いか悪いかすぐに分かるのです。私は七年以上、自炊生活をしました。
私には、たくさんのおかずは必要ありません。地方に行くと、おかずをたくさんお膳に並べますが、それは好きではありません。一種類でも口に合えばよいのです。私は、一つのことに向き合えば、その終わりまで見届けてしまう気質です。おかずもそうです。いくらおかずが多くても、箸は付けてみますが、食べるおかずは一種類だけです。一種類だけ買い、料理して食べるのです。

Tuesday Feb 07, 2023
真の父母経 第43話
Tuesday Feb 07, 2023
Tuesday Feb 07, 2023
15 統一教会の歴史を訪ねていく人は、黒石洞を訪ねざるを得ません。黒石洞が白石洞(ペクソクドン)になるのです。私が昔、暮らしていた暗い谷間のような所が、世界万民に明るい日の光を照らしてくれる伝統の基地にならなければなりません。ノドゥル(漢江の南にある地域の昔の地名)もそこにあります。しかし、昔の姿が今は一つもありません。
昔、その時代に黒石洞で暮らしていた人には会えませんが、子孫たちが大勢います。その父母と関わりのある私が、彼らと会えば、どれほど感激的でしょうか。そうなれば、そこから歴史が復活します。昔のことを語りながら、歴史を復活させて、時代を花咲かせるのです。
16 私が今でも忘れられないことがあります。私が黒石洞に住んでいた頃、上道洞(サンドドン)に越えていく所に松の木が生い茂っていて、その向こうには草花を育てている日本家屋がありました。そちらの方に回っていくと田んぼがあり、その向こうに村があるのですが、そこに開拓伝道のために通った家がありました。
ある時、見知らぬ人が病で道に倒れていました。それは、新学期が始まり、学費を持ってきた時だったので、三月末頃でした。よくよく聞くと、その人は息子のいないかわいそうな人でした。「天安(チョナン)に自分の娘の家がある」と言うので、私が学費をすべてはたいて、旅費と病気の治療費まですべて出してあげました。その時、私の足が離れませんでした。背を向けられなかったのです。そのようなことを見ると、その人の先祖は悪くない先祖なのです。
ですから、私が財布にあった、本を買うお金と下宿代をすべて持たせて行かせたのです。そこから三キロメートルほど背負っていったことが、ついきのうのこどのように思い出されます。
そのような人と天が会わせてくださったのなら、天が「同情してあげなさい」と言われる以上に同情してあげたからといって、絶対に損にはなりません。天が十くらい助けてあげなさいと言うことに、百くらい助けてあげるようになれば、九十は、私が天のみ前に功績を積んだものとして扱われるのです。天が十くらい助けることを望んでいるのに、五だけ助けてあげるのではいけません。天が十くらい助けてあげることを望むときは、十以上助けてあげなければならないのであって、十未満ならば、皆さんの恩恵の道が塞がってしまうのです。それが原則です。公式がそのようになっています。
17 私は、おなかがすかない日がありませんでした。お金がないからではありません。四月初旬に家から学費が送られてくると、五月にはすべて使ってしまいます。すべてかわいそうな人に分けてあげるのです。そのようなことが多かったというのです。そうして何をするのかというと、新聞配達をしたり、物を売ったり、何でもするのです。蕩減の道を行かなければなりません。また、平安道の故郷を離れてソウルにやって来て、言葉にも慣れず、風習にも慣れず、最初の夏休みがどれほど待ち遠しかったか分かりません。
母が私のことをどれほど愛したか分かりません。み旨を知ってからは、その母をどのようにして振り切るかというのです。また、妹たちはお父様のことを愛しています。それをどのようにして引き離すかというのです。ですから、その父や母が現在の立場で望む道とは、反対の行動を取らなければなりません。それで、夏休みに入った日、すべての学生たちが自分の故郷に帰るといって町が慌ただしく、学校が慌ただしくなっているにもかかわらず、一人、部屋に鍵をかけ、「私は、今からこの部屋で、誰々や誰々が帰ってくるまで、私のすべきことをするのだ」と言って、休みの期間を過ごしたのです。
18 すべての人は、宇宙を主管することを願っていますが、自己主管もできていません。それで、お父様は、「宇宙主管を願う前に自己主管を完成せよ」と言ったのです。まず、食欲から主管しなければなりません。食欲は、断食によって克服できます。一週間は問題ではありません。普通の人であれば死地を越えてしまう、そのような境地の訓練を受けなければなりません。
空腹を克服しなければならないのです。日本統治下で自炊生活をしていたとき、米が貴重だったので、友人たちは先を争って御飯をもっと食べようとしていましたが、お父様は、そのようにしませんでした。さじと箸を先に置く人が、あとに置く人の主人になります。原則がそのようになっています。お父様の生活は、毎日が新しいのです。きょうよりあすが新しくなければなりません。天は新しいことを願っていると信じて、実践してきたのです。そのようにしたところ、誰も成し遂げられない世界的な版図を備えるようになったのです。
19 私は、物心がつく頃から昼食を食べませんでした。国もない立場で、三食欠かさず食べる資格があるかと思ったからです。御飯が慕わしくなる生活を本当にたくさんしました。御飯を慕うより、民族を慕う道を行きました。「御飯より民族と国をもっと愛さなければならない」と考え、故郷を離れてソウルにいる時は昼食を食べなかったのです。そのような生活をしました。ポケットにお金がなかったわけではありません。お金があれば、貧しい人たちに分けてあげたのです。
20 私は、一日に四時間以上眠りません。それが習慣になりました。忙しい時は、一日一時間だけでも構いません。眠ることにおいて、人類歴史の中で一番短く眠る代表者が私だと思います。一生をそのように暮らしてきました。また、私ほどひもじい思いをした人はいないはずです。御飯がないわけではありません。おなかをすかせた人々の、救いの手を願い、解放を願う叫び声が聞こえてくるので、御飯を食べることができないのです。
三十歳までは、昼食を抜いて二食だけ食べる二食主義でした。一日に御飯を五杯食べても軽く消化して余りある壮健な体格の人が、二杯も食べずに青春を過ごしました。御飯に対する慕わしさよりも、愛することを優先させる訓練をして、神様を愛し、国を愛する生活の基準を立てようと努力してきたのです。
21 私は、どこに行っても涙を流しながら祈る立場にいたので、その事情が何か知らないのに、同情する人たちがたくさんいました。また、皆さんが私に接するように、行く先々でそのように接してくれる人たちがたくさんいました。下宿先の主人のおばさんは、祝祭日のような時に夜通し準備した料理、あるいは夫のために準備した料理を、私がいる部屋に持ってこなければ自分の部屋に戻れないということもありました。何もせずに自分の部屋に戻ると、突然目の前が真っ暗になるというのです。自分たちも、どういうことか分からないのです。神様は、女性たちの精誠を込めたその料理までも、私に食べさせるために、彼女たちの心を動かしたのです。そのような役事(働き)がたくさんありました。
ですから、私は、神様の愛を夢にも忘れたことがありません。千回、万回、この身が砕け、骨が粉と化すことがあったとしても、忘れることができません。過ぎ去った歴史過程において、神様は、私がいかなる場にいようと共にいてくださり、私のためにそれほどまでに苦労してくださったのです。
22 祈るときは、背が曲がり、膝にたこができるほど祈らなければなりません。私の膝には、祈りながらできた昔のたこが今でも残っています。祈りは床の上でしなければなりません。涙も流さなければならないというのです。私は、祈りながら流した涙の跡が乾かないほど、涙を流す境地を何度も越えた人です。流れていく男ではありません。
23 復帰の道は、たやすいものではありません。私は皆さんのように食べて、寝て、気楽でいたでしょうか。「原理」自体が、どれほど深刻でしょうか。私は、祈るために膝にたこができました。どれほど多くの涙を流したか分かりません。人生の行く道を解決できずに死んでいく人々が大勢いることを知り、それを解決するために、常に目を赤くして祈りました。祈りながらあまりにも涙を流しすぎて、日の光も見られないほどになることもありました。そのようなことをしながら、この道を尋ねてきたのです。
24 皆さんは、毎日のように祈らなければなりません。祈祷生活においても、一日の十分の一を捧げなければならないのです。(一日の)十分の一に当たる二時間二十四分は、毎日祈らなければなりません。私が最も長く祈った時は、身を伏せて十七時間、十八時間、普通でも十二時間祈りました。昼食は食べません。そうして痛哭するのです。そのようにしなければ、生きていくことができません。四方が完全に塞がれて出口がないときは、祈って初めて針の穴ほどのものが見えるのです。
そのような試練の過程を経て「原理」を探し出しました。皆さんは「原理」の本を握りしめて泣いたことがありますか。一生は大切なものです。一度過ぎ去れば二度とやって来ません。結婚して息子、娘を生み、荷物を背負って、リヤカーを引いてあくせくしているうちに、そのまま終わってしまうのです。深刻です。そのように生きていては、善の世界はやって来ません。

Monday Feb 06, 2023

Saturday Feb 04, 2023
真の父母経 第40話
Saturday Feb 04, 2023
Saturday Feb 04, 2023
22 父、母、村人のすべてが私を信じていました。「文氏家門の恐ろしく、賢い者」とうわさになりました。相撲でもボクシングでも、できない運動がありません。どこに行っても三等以下に落ちることがなかったのです。すべて一等になるようになっています。
一等になる人の二倍、三倍努力するのですから、一等にならないはずがありません。私はそのような人です。ですから未知の人生問題や宗教問題の根本、根っこを掘ってひっくり返したのです。一度手を付ければ、それが終わるまで、御飯を食べることも、寝ることも忘れてしまいます。蕩減復帰に最も必要な性格なのです。
23 私は、泣き始めたら一時間で終わるのではありません。それで、あだ名が「ハルウリ(一日泣く子)」でした。一日中泣いてこそ泣きやむので、ハルウリというあだ名が付いたのです。
また、泣くときも、じっと座って泣くのではありません。村が吹き飛ぶかと思うほどの大きな声で泣きました。村中のおじいさん、おばあさんが出てきて見物せよというのです。こうして村中を大騒ぎにし、寝ていた人まで起こすほど泣いたのです。一大事でも起こったかのように泣き続けました。喉が腫れて声がかれ、しまいには声が出なくなるほどでした。そして、泣いてもじっとしたまま泣くのではありません。バタバタと跳ね回りながら、傷つき、皮膚が裂けて血を流しながら泣きました。
それほどなのですから、私がどんな性格かよく分かるでしょう。よくよく見ると、神様は本当に知恵深い方です。私はそのような性格の所有者なので、一度やると決心すれば、死ぬまで諦めません。
24 私は、性格が積極的で健康なので、活動範囲が普通の人の三倍にはなりました。雪が降るような時は眠りません。夜、いたち狩りに行くのです。おなかがすくのも忘れて歩き回ります。ですから、私の母は相当に苦労しました。私は、並外れた人です。十代になると、既に父と母を意のままにしていました。それほどの子供だったので、私は、このようなことをしているのです。まかり間違えば引っ掛かってしまうのですが、その性根に父母も降参しなければなりませんでした。私は、たとえ骨が折れても譲りません。死んでも譲らないのです。
「間違っていましたと、一言言いなさい」と言っても、答えません。間違っていないのに、どうして「間違っていました」と答えるでしょうか。
25 私は、誰にも負けない粘り強い性格をしています。幼い時には、けんかをして相手を降参させきれなければ、三、四ヵ月、眠れなかった人です。そのように粘り強い男です。恐ろしいといえば、誰よりも恐ろしい男なのです。
人に負けることを絶対に嫌う人です。負けたことがありません。何をしても必ず勝つのであって、負けることは考えもしません。勝つか負けるか、すぐに分かります。私が手を付けた場合には、死なない限り勝つのです。そのような性格の持ち主です。
26 私は、性格がとても性急な人です。一言でも悪口を言われれば、我慢ができない性格です。誰かに一発たたかれたら、耐えられない人です。また、誰に対しても負けるのが嫌いな人です。私はそのような気質と性格をもっているので、できないことがありません。どんな運動をしても、私が勝ってみせるという性格をもっています。私は頭も悪くありません。
そのような私に悲惨な境地、これ以上耐えられないという境地が、何十回、何百回あっただろうかと考えてみてください。恥ずかしいといえば、それ以上に恥ずかしいことはないという境地が、一度や二度ではありませんでした。しかし、それをすべて克服してきたのです。神様がそうされたからです。神様も火のような性格があるはずですが、その性格のままに一度動けば、世界を一掃できる立場にいるにもかかわらず、それを神様は、強い意志で耐えられたので、世界が残っているのです。
27 私が若い時は、同じ年頃の子と相撲をして負けたことがありません。私の村にいる私より三歳年上の人と相撲をして、私が一度負けました。田舎で暮らした人は分かるでしょう。アカシアの木が、春の季節になって水分を吸い上げるとき皮を剥ぐと、松の木の皮のように剥がれます。ですから、春の季節に木が水分を吸い上げるとき、何度もしならせると皮が落ちるので、それを一気に剥がすのですが、これが硬いのです。このアカシアの木と相撲を取るのです。「こいつ!お前を倒すまでは御飯を食べるものか!」と思って、六ヵ月目に彼を倒して馬乗りになりました。そうするまでは、御飯を食べることも忘れ、寝ることも忘れてしまうのです。
28 私は、八歳の時から、姉、遠い親戚、村中の人たちまで、嫁や婿に行く時、写真を見てたくさん結婚させました。幼い時も、私が「きょうは雨が降る」と言えば雨が降りました。また、「一週間以内にこの村で人が一人死ぬ」と言えば死にました。そのような逸話がたくさんあります。
ですから、結婚しようとする人が、私に相手の写真を持ってきて、「これをちょっと見てほしい。良いか、悪いか」と尋ねるのです。ちらっと見て「悪い」と言えば、必ず悪いのです。見るのも、長くは見ません。見て「良い」と言えば、それは良いのです。そのような歴史をもっています。
29 私は、村では五山の家の小さな(目の)子で通っていました。目が小さかったので、村で「五山の家の小さな目」と言えば、私のことだと分かります。目があまりにも小さくて、母が私を生んだ時、「目がない」と言ってしばらく見つめたといいます。目を広げてみると、ぱちぱちまばたきしたので、安心したそうです。そのような目が必要です。
遠くまで見ることができる素質をもって生まれたので、今日の世界はもちろん、神様の心情と事情まで解剖して探り出し、(神様の心情に対する)解剖学を論理的にまとめた男です。そのような価値を知るようになれば、世界は私にだけ付いてこようとするのです。私に会いに行こうという行列が、玄界灘を越えて太平洋の真ん中にまで続くでしょう。
30 私は、牛も見ることができます。販売場で牛を見て、「あの牛は悪い」と一言言えば、その牛は売ることができないのです。牛は、首筋が整っていなければならず、前足が整っていなければならず、後ろ姿が整っていなければならず、腰が整っていなければなりません。この四つが整っていれば、良い牛なのです。
昔、父が牛を買いに行く時には、私も付いていって鑑定してあげました。父が知らない牛に関する話をしてあげると、「お前、どうしてそれを知っているのか」と言われました。
私は、既に生まれながらにして知っていました。ですから、今日、世界で誰もできないことをしているのです。
31 昔、私が子供の頃、通りに出て、行き交う人を見てどのように感じるかを調べたりしました。「あの人は、間違いなくこうだ」と思うと、それが本当に正しいか正しくないか、付いていきながら打診してみるのです。その人に、「あなたは、こうだったでしょう?」と尋ねてみるのです。それは霊界から教えてくれるのではなく、私の心が既に知っているのです。
それで「あなたは、このような人でしょう?」と尋ねてみると、「どうして分かるのですか」と驚きます。間違いなく当たります。じっと座って、あの部屋に誰がいるのか、良いことをしているのか、悪いことをしているのか、良い人が住んでいるのか、悪い人が住んでいるのか、ということがすぐに分かるのです。
第二節 神様からの召命
蕩減の道を行った家族
真のお父様が天から召命を受けられたことを前後して、家族と周囲の人々は厳しい蕩減を払わなければならなかった。十六歳(数え)になる頃までに、あらゆる試練が押し寄せた。サタンの讒訴条件を清算し、完全な天の側の勝利の基点を確定するため、摂理上、不可避な犠牲が伴ったのである。三代にわたって兄弟たちが客死し、行方不明になった。さらに、真のお父様を含む六男七女の兄弟のうち、格別に愛情をかけた五人の弟妹が相次いで夭折(ようせつ)した。天は、真のお父様が世の中で心を寄せ、頼れる関係や、関心をもつ外的環境を、ことごとく切ってしまった。この世のどこにおいても心安らかに過ごせない緊張した日々を、一生の間、経てこられたのである。
1 統一教会のみ旨を引き継ぐためには、誰もが蕩減路程を経ていかなければなりません。私は十六歳(数え)の時、この道を出発することになりましたが、その時には、十三人の兄弟のうち八人だけを残して五人が死にました。また、犬が死に、牛が死に、馬が死にました。奇怪なことが起きたのです。このような理解し難い出来事を、皆さんは知らないでしょう。謎のような出来事が本当に多かったのです。私の家庭を中心として、完全に破綻させるための悪魔の計略があったというのです。これは現実的な内容です。
万国を代表して勝利の覇権をつかむためには、末端の血族においても、その戦場でサタンが讒訴できない内容を提示しなければならず、本人自身の歴史性においても、世界万民、世界人類を代表して歴史的勝利圏を誇り得る条件を提示しなければなりません。統一教会も同じです。統一国を創建するにも同じなのです。
2 霊的な現象は、見えない世界で起こるのではなく、実際に見える所で様々に現れるのです。サタンはあらゆる手段を使って、お父様の一家を滅ぼすことを計画しました。その渦中で、兄と姉が精神的におかしくなり、大変なことになりました。若い頃、そのような霊的背景と霊的世界の問題があったのです。
気が狂ったと思った兄が、よく見ると何か話をしているのです。兄が話すときは独り言のように語るのですが、その内容が途方もないものでした。また、言い方が時によって違いました。何人かの霊が来て、一日中話をするのです。そのことがお父様には、すぐ分かりました。
3 私自身にとって最も親しかった友達、天が祝福してくれる立場にいる友達は、すべて連れていかれました。この世で信じ、頼れるものは、一つ残らず断ち切られてしまいました。その中には、平安北道の人もいて、黄海道(ファンヘド)の人もいました。誰よりも親しかった友達が、全員連れていかれたのです。
また、私が最も愛した妹が連れていかれました。私の家庭には娘が多かったのですが、母方の叔母の家には娘がいなかったので、叔母さんが懇願し、この妹は叔母の家に行って暮らしていました。それで、私はいつも、その妹のために祈りました。その妹は、兄に対して絶対的でした。ですから、妹にとって良いことであれば、兄としてどんなことでもしてあげたいと思っていたのですが、その期待までもすべて断ち切られてしまいました。妹だけでなく、愛する弟も連れ去られてしまいました。このようなことを見ると、蕩減には許しがないのです。そのような過程を経なければなりませんでした。
4 私のことを愛してくれた友達は、すべて霊界に連れていかれました。なぜ彼らを霊界に連れていったのかを、今考えてみると、私が彼らと私情を交わすかもしれないのでそうしたというのです。神様のすべてのみ旨に責任をもって歩んでいく私が、彼らと私情を交わす恐れがあるからです。神様は、私がこの世で関心をもつ人は、すべて連れていってしまいました。
このようなことをよく知っているので、他の道に行こうにも行けないのです。私が愚かなのでこのようなことをしているのではありません。どれほど多くのことを考えたでしょうか。
十六歳(数え)の時、神様からの召命を受ける
真のお父様は、長老派教会に入教する頃、新しい学問の修学とともに、思考の幅が広がってより深く考えるようになり、将来の問題と現実の問題について深刻な疑問に逢着された。理由も分からない中で起こる家の患難とともに、日本統治下における民族の悲惨な姿、そして、弱小民族の苦痛と悲哀を深く体感された。同時に、人生の根本問題について苦悩しながら、解決点を探そうと身もだえされた。そのような中、定州普通学校に転校した直後、十六歳になった年の一九三五年四月十七日の早朝に、長い時間、涙ながらに山上で祈りを捧げていたところ、イエス様の顕現を体験することになる。イエス様は、奥深く驚くべき事実を多く語られ、その後、何回にもわたって直接対話を交わされた。真のお父様は、神様から天命を受けられたのち、故郷とソウル留学、そして、日本の東京留学を経ながら、将来の摂理的使命者として、責任意識の体得と信仰を深化させる準備期間を過ごされた。

Thursday Feb 02, 2023
真の父母経 第39話
Thursday Feb 02, 2023
Thursday Feb 02, 2023
12 私は、靴下を自分で編んで履き、服も自分で作って着ました。寒くなると、帽子も自分で作ってかぶります。私が姉たちに編み物を教えてあげました。皆さんもみ旨のためには、一人で暮らす準備もしなければなりません。パンツなども、綿布を持ってきて、型を取って作ってはけば、ぴったり合うようになっているのです。
母の足袋も作ってあげました。母が「おやまあ、いたずら半分に足袋を作っていると思ったら、足にぴったり合うわね!」と言うほどでした。そのようなことを、すべて研究しておかなければなりません。服も編んで着ることができなければならず、靴下や帽子も作れなければなりません。そうであってこそ、一人で暮らしても、み旨を成就することができるのです。
13 最近、私が懐かしく思う食べ物があります。私が食べたことのない料理がどこにあるでしょうか。世の中の有名だと言われる料理はすべて食べてみましたが、今でも一番懐かしいものは何だと思いますか。昔、田舎では「五月のじゃがいも峠」(じゃがいもが収穫される前の農家の食糧事情が悪化する春の端境期のこと)というものがありました。(普段は)じゃがいもばかり食べていたのですが、(その時期は)麦を収穫し、麦で御飯を作って食べました。麦飯も、最近の平麦飯ではなく丸麦飯です。その丸麦を水にふやかして炊いた御飯は、スプーンでぎゅっぎゅっと押してすくっても、粒がこぼれ落ちるのです。それにコチュジャンを混ぜて食べたことが思い出されます。それが今でも懐かしいのです。
他のものを混ぜるとおいしくないのです。ぴりぴりするほど辛いコチュジャンを混ぜて、薄赤い御飯を一口食べると、歯の間からぼろぼろと出てきます。それで口を閉じてもぐもぐと食べたのですが、そのことが今でも懐かしいのです。
14 田舎に行けば、本当におもしろくて、素晴らしいことがたくさんあります。そこであらゆることを研究し、材料を収集して、将来の大きな人生設計のために準備をするのです。私には、そのような経験がたくさんあります。
ですから、農村に行けば農作業もでき、海辺に行けば漁夫になって魚を捕ることもできます。私は網打ちをするにしても、明け方に出ていきます。どのみちやるのなら記録を出すのだ、という信念をもってするのです。明け方、一番鶏が鳴く頃に出掛けて、星が出るまでそれをして帰ってきます。私は常に、世界において何であっても、負けるのは駄目だという主義です。どこに行って何をするにしても、絶対に負けないという考えをもっています。ですから、人には絶対に負けません。私が精誠を尽くす時もそうです。
涙が多く情にあふれた少年
真のお父様は、幼い頃から涙の多い方だった。この上なく情が深く、同情心の厚い少年だった。鳥や魚を捕まえ、家で育てているうちに死んでしまうと、親の立場を考えながら涙を流す、切ない童心の情を表された。弱い友達をいじめる人に立ち向かっていったこともあった。御飯を食べられない人がいるといううわさが耳に入れば、両親に隠れて、米の入った甕(かめ)から米を運んであげ、子供が生まれたのに食べる物がない家には、わかめと米を持っていってあげたこともあった。お祝いの日に新しい服も着ることができない貧しい立場にいる友達のために、深い温情を施された。
15 六歳を過ぎて七歳になれば、物心がつく頃です。学校に通う年の頃には、村にいる身重の女性たちのおなかがどれくらい膨れたら、いつ頃赤ん坊が生まれるか分かりました。私は、そのような女性たちについて調べ、米がなければ、一ヵ月前から米を持っていってあげました。妊娠した女性の家にわかめがなければ、わかめを買ってあげたりしました。
ですから、貧しく暮らす人たちは、すべての秘密を私に報告しました。そうなると、秋になれば、とにかく栗でも取って分けてあげたくなり、とうもろこしでも取ってその家に持っていってあげなければ、心が安まりません。そのような訓練をしたので、世界の人たちをみな、食べさせて生かそうとまで考えたというのです。
16 昔、村の中で、私の家は暮らし向きが良かったのです。満足に食べられず、貧しく暮らす村の友人が、弁当に粟飯や麦飯を入れてきて食べるのを見ると、取り替えて食べることはあっても、それを見て、何もせずに自分の御飯を食べることはできませんでした。
また、友人の両親が病気なのに、病院に行くお金がない時には、父や母のところに行って涙を流しながら、「私の友人の誰々の両親が病院に行けるよう、お金を下さい」と言いました。
年が十一歳くらいになった時、「米、大豆一斗(約十八キロ)を売って誰々を助けてあげるのだ」と父に宣布しました。そうして、父に内緒で一斗の米を担いで二里の道を歩いていったことが、今も思い出されます。縄や何かのひもでそれを結んで担いでいかなければならないのですが、そのまま担いでいくので、どれほど息がはずんだか、何度もハアハアと息が切れました。それが今も忘れられません。一生の間忘れられないでしょう。そのすべてが、み旨のために歩むことができる立場に立たせたのです。
17 私は、冬に震えて通り過ぎる乞食を見れば、御飯も食べられず、眠ることもできませんでした。そのような性格でした。それで、父と母に、「部屋に入れて御飯を食べさせてから送り出してあげよう」と言いました。それが、天の愛する根本になり得るものではないでしょうか。
村で御飯を食べられない人がいるといううわさを聞いたならば、どうやって助けてあげようかと考えて、夜眠ることができませんでした。それで、私は両親に内緒で、米櫃{こめびつ)から米を取り出して分けてあげたりもしました。
18 私は餅が好きでした。私が母に「餅を作ってほしい」と言うと、母は「畑仕事もしなければいけないし、息子や娘を結婚させようと思えば、反物も織らないといけない。だから忙しい」と言って、作ってくれません。休む間もない忙しい母でした。それなのに、しきりに「食べ物を作ってほしい」と言うので、簡単な小豆餅や蒸し餅のようなものを作ってくれるのですが、大きな蒸し器に餅を作っておくと、それが三日ももちません。すべて分けてあげるのです。
村で心配なことがあれば眠れません。それをよく考えてみると、天がそのような心情を指導したのではないかと感じるのです。村に貧しく暮らす人がいたりすると、どうにかして良い暮らしができるようにしてあげたいと思うのです。村で何か起きれば、それを人ごとではなく、自分のこどのように思ってするのです。心根がこのようになっていなければなりません。天性がそうでなければなりません。川上の水が澄んでいてこそ、川下も澄んだ水になるのです。人は霊的な存在なので、そのように生きてこそ、他の人たちがその人を頼りにして暮らしたいと思うのです。
19 私が幼い頃、我が家では数百箱規模の養蜂をしていました。養蜂をするときには、巣板をぴったり付けておくと、そこに蜂が巣を作って蜜の貯蔵所を作ります。巣は自分で作るというのです。その巣板は高価なものです。それをキャビネットのような所に積んでおくのですが、それを見つけて、(蜜蠟を)すべてこねるのです。
田舎に行くと、油がなくて明かりをともせない家があります。そのような家には、石油はあげられなくても、ろうそくの火だけでもつけられるように、それをあげました。そうしないと心が落ち着かず、我慢できないのです。ですから、(蜜蠟を)すべてこねて、一つ一つ配給してあげました。
私は世間知らずだったので、その当時のお金にするといくらになるか分かりませんでした。それで結局、父にひどく叱られました。ひどく叱られましたが、絶対に「間違っていた」という言葉は口にしません。父も、結局は途中で諦めて叱るのをやめてしまうのです。
20 ある障害者の夫婦がいました。男性は目が見えず、夫人は体に障害がありました。この夫婦は、村中で模範的な夫婦でした。夫人がいつも足を引きながら杖をついて夫を案内してあげるのです。口も曲がり、様々な障害をもっているのですが、夫はこの上なくその夫人を愛していました。冬になると、どこにも住む所がないので、必ずうちの精米所を訪ねてくるのです。
すると、むしろしかないので、私が布団を持っていってあげ、毛布も持っていってあげたりしました。それで、私のことを随分と気に入ってくれていました。そうこうするうちに、彼らが死んだという話を聞き、悲しくて泣いたことが思い出されます。
21 私も皆さんのように、はつらつとして希望にあふれた青春時代がありました。私は、このみ旨を知る前からかわいそうな人の友達になろうと考えていました。貧しく暮らす人に関心をもちました。子供たちがいても、裕福で力のある家の子供たちとは親しくしようとしませんでした。反対の生活をしたのです。村に御飯を食べられない貧しい人がいれば、私は寝るのも忘れてそれを解決してあげようとしました。こうしてすべての人と友達になって、すべての人の友達以上の道を行かなくてはならないと考えたのです。
不撓不屈の性格と予見能力
真のお父様は、幼い頃から一つのことをとことんまで突き詰める性格と、決して屈しない勝負根性の持ち主だった。正しいと判断すれば、絶対に先延ばしにしたり、待ったりせず、即座に行動に移された。このように幼少時代は、神様の救援摂理を完成すべき真の父母となるための資質と禀性を育てる期間だった。そして、真のお父様は、幼少時代から近隣の人々の病苦と災難を予見するなど、特別な霊力を見せ、周囲の人々を驚かせた。

Thursday Feb 02, 2023
真の父母経 第38話
Thursday Feb 02, 2023
Thursday Feb 02, 2023
第三章 真のお父様の摂理的準備時代
第一節 自然と共に過ごした幼少時代
自然と共に過ごしながら得た教訓
真のお父様は、定州普通学校を卒業する頃までの十八年間、故郷である定州郡徳彦面上思里の周辺の二里から三里(八~十二キロ)を活動舞台にして、幼少時代を過ごされた。自然などから悟りを得る、重要な期間だった。真のお父様は、好奇心と探究にかける熱意が並み外れており、典型的な農村環境の中で、多彩で多様な情緒と資質を育まれた。特に鳥や昆虫などを通して、子に対する親の愛を観察しながら、人間愛の道理を確かめるなど、すべての事物が真のお父様にとっては情緒的な友となり、教材となったのである。
1 成長していく上で、情緒的に多くの教材を残してくれる所が故郷です。山を眺める時にも、忘れられない情緒的な網の目が張り巡らされています。また、小川を見る時にもそうです。小川には数多くの魚が棲み、数多くの虫たちが棲んでいます。そのようなものをすべて学びの材料として活用した場合には、自分が成長するようになります。そして、あらゆる知識の供給を受けるに当たって、忘れられない基本的な教材になるのです。
山河にいる動物や植物、自然界に関するあらゆるものを教材にして、自分が内的に成長する過程で、豊かさを身につけることができる多くの材料を与えてくれる所が故郷です。ですから、故郷の山川を懐かしく思うのです。
2 私が住む地、私が見ている周辺の村や山の尾根、山の向こうの地域まで、見ようと思えばいつでも行ってみたのです。私は幼い頃そうでした。そこに貯水池があれば、貯水池にいる魚という魚は、すべて捕まえてみます。鳥もすべて捕まえ、虫もすべて捕まえます。捕まえてみなかったものがありません。ですからよく知っています。ざりがにはもちろんのこと、魚がたくさんいる所はどこで、山の獣はどこにいるのかを、残らず知っているのです。そのようなものを何から何まで調査したので、魚を捕りに行くとき、どこに行けばよく捕れるのかを知っているのです。
3 私は毎日のように山に通い、平地では過ごしませんでした。山を歩き回ったのです。山に行けば、花もたくさんあり、鳥も多く、獣も多く、博物館のように、ないものがありません。人が作ったものは、自然から学んで作ったものが多いのです。自然を愛さなければなりません。満月になれば、私は家で寝ようとはしませんでした。松林に行きます。私の育った所は、おおかみもいて、虎もいましたが、月夜がどれほど神秘的か分かりません。
大きな松の木の下は、松葉が多く、草もあまり生えないので、雨が降ったとき、そこに座ったり寝転んだりしてもぬれません。どれほど素晴らしいでしょうか。そのような所に行って明るい月を見ると、吹いてくる風の音が神秘的です。そして、風で大きな木が揺れると、様々な色に反射するのです。それに酔いしれるというのです。不思議なことに、木と木がぶつかると音がするのですが、その音が人の話し声に聞こえるのです。「原理」は、そのような自然の中にすべてあるのであって、他の所にあるのではありません。
4 私は自然が本当に好きでした。ですから、山に行って座ったまま昼寝をすることもありました。大きな木に寄りかかり、自然の中で昼寝をするのです。そのように過ごしながら、山菜を採って食べたりもしました。このようなことが忘れられません。情緒的な人間として育つための、基本的な教材を私に提供したのだと思います。
山川にある木がすべて同じ木でも、それぞれの形が印象に残ります。それが情緒的な面において、追憶となって記憶に残る一つの教材であり、博物館なのです。
5 私の村に訪れる渡り鳥を、私はすべて知っていました。しかし、ある時、初めて見る渡り鳥がいました。まだら模様がどれほどきれいか分かりません。渡り鳥は、雛を産んで故郷に帰るのですが、どこで雛を産むのか、どうしてここに現れたのかを考えてみました。その鳥が現れた理由は簡単です。その周辺に巣があるか、水を飲みに来たか、この二つのはずです。水を飲む場合も、良い水を飲まなければならないので、良い水を探し求めて来たのです。
ですから、泉を探してみます。泉を探して良い泉があれば、間違いなくその泉の水を飲みに来るのです。それで、泉を見つけ出して二週間ほど見張りました。間違いなく水を飲みに来るはずなので、毎日のように朝から行って見張るのです。案の定、その鳥を発見しました。現れたのです。鳥たちを見ると、本当に不思議です。
6 故郷に小川があるのですが、私がそこに棲む魚という魚はすべて捕ってみました。どじょうもいて、鰻もいて、ありとあらゆる数多くの淡水魚がいますが、それらをすべて捕まえてみました。大きな池があれば、これらの魚をそこに投げ入れていたはずです。最近は、家でも魚を育てたりしますが、その時、そのようにできる池があれば、どれほど良かったでしょうか。
その頃は分別がなかったので、水たまりをつくって入れました。魚はどのような水でも、すべて生きていけると思っていました。ところが、一晩寝て起きて見ると、魚がすべて死んでいたのです。その訳も知らず、「精誠を尽くしてお前を生かしてあげようと思ったのに、どうして死んでしまったのか」と悲しみました。
そのようなところを見ると、私は情的な人です。死んだ魚を見ても、「おい、お前のお母さんが泣くだろうな。僕が泣いてあげるよ」と言いながら一人で泣きました。
7 私の家から二里余り離れた所に海がありましたが、私は他の人より短時間で往復しました。また、私は、鰻を捕るチャンピオンでした。私が小さい頃、「小さな目の子」と呼ばれていたのですが、その「小さな目の子」が鰻を一日に数十匹捕って煮込み、豚に食べさせたり、牛に食べさせたりしていると、うわさになりました。ですから、お客さんが来て鰻の話をすれば、私は「準備しておいてほしい」と言って、鰻を捕まえに飛び出していくのです。食事の時間に合わせて鰻を捕り、お客さんが喜ぶ料理を作って接待しました。鰻スープや、鰻の煮込み料理を食べようと口癖のように言っては、それを思う存分食べるのです。
8 万物は、人のためにつくられました。ごく小さな動物にまで真の愛を施すことができる主人の資格を備えるようになれば、恥じることなく堂々と神様の愛を受けることができるのです。子犬も人の愛を願い、すずめも人の愛を願い、くもも人の愛を願います。すべてが主人の愛を受けようとするのです。
昔、私は鳥を捕まえるチャンピオンでした。ですから、私が捕まえたことがない鳥はいません。渡り鳥たちも、捕まえられなければ、夜も眠れませんでした。
幼い頃はそうでしたが、成長してからは、その鳥たちに餌をあげ、泉を掘ってあげました。私が真心を込めて泉を掘れば、鳥がやって来て水を飲むというのです。また、私が食べ物をあげるとそれを食べ、私が行ったり来たりするのを見ても、飛んでいきませんでした。自分たちを傷つけないことが分かれば、人を好きになるようになっています。それは、人が万物の主人だからです。
9 動物たちも、春になれば、愛の相手を求めてさまよいます。鳥たちもそうで、昆虫たちもやはり同じです。夏に昆虫の鳴き声を聞いてみてください。その鳴き声には、二通りあります。一つはおなかがすいて鳴く声であり、もう一つはつがいになる相手に会いたくて鳴く声です。合図は簡単です。「おなかがすいているので、友達と一緒に何か食べに行こう」、それから「良い相手を探しに行こう」の二つです。
私は田舎で暮らしたので、昆虫を本当にたくさん捕まえました。また、捕まえてみたことがない動物はいません。山猫からたぬき、うさぎなど、すべて捕まえてみました。それは興味が尽きません。それらは一匹で住んでいると思っていましたが、すべて相手がいました。すべてつがいです。昆虫の世界も、鳥類の世界も同じです。
10 私は五葉松を愛しています。五葉松には、人間が食べられる実がなるからです。また、五葉松の実は、誰でもむいて食ベられるというものではありません。石で割らなければならないからです。どのように割ればよいか、その方法を知って割ろうとしても、正確にたたいてこそ割れるのです。ですから、誰もがむいて食べられるわけではないのです。
またこれは、植えても、凍ってひびが入ってこそ、初めて芽が出ます。普通のものとは正反対の時に植えるのです。春に植えるのではなく、秋に植えなければなりません。凍らなければならないのです。どのようにしても、その本質の素性は変わりません。その環境や与えられた条件に支配されることがなく、反対に環境全体を爆発させ得る内容をもっているので、そこから春を迎え、芽が出て、五葉松の木として育つのです。それが五葉松です。
これは、東西南北を中心にして、一つの中央線があります。そのような意味で、私は五葉松を愛するのです。また、この木はとてもよく育ちます。まっすぐに上がっていきます。根もまっすぐで、芽もまっすぐに上がっていくのです。
自給生活の訓練
真のお父様は、幼少時代、田畑の耕作、苗植え、草取りなど、田舍のあらゆる農作業を経験された。特に稲、豆、とうもろこし、さつまいもなどを上手に育てる秘訣、畑への肥料のまき方、山での落ち葉のかき集め方などを身につけながら、少年期を過ごされた。そして靴下や服、帽子も手作りで編んで使うなど、自給生活に強い一面をお見せになった。
11 私は学校に行って帰ってくると、もろ肌を脱ぎ、先頭に立って仕事をします。兄や姉たちと競争しても、いつも私が一歩先を行きました。農村で王のような勝利的農夫の称号を受けられなければ、その農夫の世界では指導者になれません。ですから、どのような土地に大豆を植えなければならず、小豆を植えなければならないのかをすべてよく知っています。
土地を見て、「ここは、さつまいもがよくできるのに、なぜこれを植えているのですか」と言えば、「そのようなことがどうして分かるのか」と言われます。すべて経験を通して知っているのです。私が農村に行けば、農夫の中の農夫です。漁村に行ってもそうです。船も造り、鮪(まぐろ)を捕まえるシステムも開発しました。

Thursday Feb 02, 2023
真の父母経 第37話
Thursday Feb 02, 2023
Thursday Feb 02, 2023
9 許浩彬女史は、大母様に「再臨主が履かれる革靴と紗帽(サモ)を安州で作ってきなさいと、天がおっしゃっています」と言いながら、自分が受けた啓示を伝えてくれました。大母様はその話を聞くやいなや、安州で革靴と紗帽を上手に作ることで有名な家を訪ねていって、「精誠の限りを尽くして作ってください。お金は欲しいだけあげますから、最高の物を作ってください」と言い、サイズを書いて帰ってきました。一週間ほどしてから行ってみると、革靴は上手に作ってあるのですが、紗帽が気に入らないのです。その紗帽を受け取るやいなや、腕がしびれ始め、目がぐるぐる回り、身動きすることもできなくなりました。挙げ句の果てには、その家の床に足がくっついてしまったのです。そこで、「もう一度作ってほしい」と言ったところ、体が少しずつ動くようになりました。大母様が目をむいて紗帽を作った人を叱ると、(その人は)ぶるぶる震えながら、「きちんと作り直します」と言いました。一週間後にもう一度行ってみると、今度は本当によく作ってあり、気に入ったといいます。お金を払って平壌に持っていくと、心が落ち着きました。その話を許浩彬女史にすると、笑って喜んだといいます。それから約一ヵ月後に、また夢を見ました。大母様は、夢のお告げを非常にはっきりと受ける方ですが、一ヵ月前に(夢で)会ったその方がまた出てきて、「私はもっと北に行って勉強しなければならないので、あなたが一番大切にしている掛布団と敷布団、それから洋服を一着、背負い袋に入れてほしい!」と言われるのです。それで、「そのようにいたします」と答えて家に入ると、不思議なことに、掛布団と敷布団がきれいに準備されていました。洋服も、淡い色の服でしたが、良い布でできた物が準備されていました。ですから、「本当に有り難く、驚くべきことだなあ!」と思いながら、真心を込めてそれを包み、背負い袋に入れてさしあげました。すると、それを担いで「私は三年したら来るから、あなたは三年間、心変わりせず、待っていなさい」と言われ、北に向かって、口笛を吹きながら独り寂しく行かれるのです。その後ろ姿を見つめながら、大母様はいつまでも泣きました。独り、勉強しに行かれる姿が、この上なく寂しく見えたのです。もちろん、その間に心変わりすることはあり得ませんが、「取るに足らない私に向かって、三年間、変わらずにいなさいという、畏れ多いみ言を下さって行かれるのだなあ」と言って泣いている途中で、夢から覚めました。そのように、大母様は再臨主と既にお会いしたのです。
10 一九四六年八月、腹中教信徒の中の一人が共産党当局に密告して、許浩彬女史と腹中教の幹部たちが警察に捕まり、大同保安署に拘禁されました。内務署員が許浩彬女史に、「お前の腹中にいるイエスはいつ出てくるのか」と尋ねると、彼女は「数日後に出てこられる」と答えました。天から、しきりにそのような指示が下りたのです。許浩彬女史は、再臨主が監獄において出てこられる日時を話していたため、二、三十人の信徒が白い服を着て、毎日監獄の門の外に立っていました。また、内務署員は、それまで作っておいた服を、一つ残らず持っていってしまいました。
天から「再び作りなさい」という指示が下り、一年間以上、精誠を尽くしてもう一度その分を作りましたが、その時もまだ、許浩彬女史は出獄できずにいました。
11 一九四六年六月頃、お父様はソウルを離れ、北朝鮮の平壌に行き、景昌里で集会所を開き、伝道をされました。その頃、北朝鮮の共産党当局は、宗教団体に対する弾圧を始めました。腹中教の許浩彬女史などが、宗教の名を語って人をだましたという罪で立件された時、お父様も、それと類似した団体の指導者であり、李承晩政権のスパイであるなどの容疑で、大同保安署に拘禁されました。特に、摂理的新婦格として準備された腹中教が、新郎格であるお父様のところに自ら訪ねてくることができなくなるや、お父様は二度にわたって人を送り、勧告されました。それでも、最後まで拒否した結果、神様は獄中にまで訪ねていかれたのです。
お父様は、八月十一日から百日間、獄中での苦難に遭いながら、許浩彬女史と接触しようと数度にわたって手を打たれましたが、許浩彬女史は、最後までお父様が誰であるか気づかず、そのような摂理的に適切な(天の)処置に対して、顔を背けたまま不信の道に行ってしまいました。お父様は十一月二十一日、過酷な拷問により瀕死状態に陥ったまま、放免されました。天の加護が共にあったのです。しかし、その頃、腹中教幹部の多くは拷問を受けて死亡し、その後の六・二五動乱でも戦没しました。天の祝福と恩賜に対して、責任を果たせなかった摂理的使命者の結末が、どれほど過酷で厳しいかを教訓として教えてくれる、生きた歴史です。
12 大母様と趙元模おばあさんは、生涯にわたって再臨主を迎えるための準備をする信仰生活を貫かれました。世の中と妥協したり、安逸な家庭環境に安住したりせず、全面的に天のみ前に奉仕しながら、至誠を尽くされました。大母様が主を迎えるために、歴史的な受難の道を歩んできたがゆえに、私(お母様)もそこに同参(一緒に参加すること)したのです。私もそのような訓練をしました。み旨のために行く道であれば、何であれ犠牲にしてきたので、私たちの家門に神様が共にあったのです。
13 大母様の生涯のように、皆さんも誇ることができる一生を送らなければなりません。真の父母様の両家の父母のうち、大母様が最も高齢までお父様に侍られた方でした。それで、お父様は、「大母様」という称号を下さったのです。そのように「大母」の称号を受けるまで、天のみが知る血の涙の精誠祈祷をされました。
お父様に侍る前は、再臨主に会わせてくださいと祈り、お父様にお会いしてからは、真の父母様の家庭のために一層精誠を尽くされたのです。なぜなら、霊的によく御存じだったからです。真の父母様の家庭を守るために、サタンとの闘いをされたのです。大母様は、十年間、闘病生活をしながらも、真の父母様の家庭のために祈られました。
14 今後皆さんは、自分のために財物を積み上げておいてはいけません。節約するのは良いのです。しかし、み旨のために節約しなさいというのです。自分の一族と一国家、南北統一のために、皆さんがもっているものをすべて投入することができなければなりません。自分の家ばかり保護してはいけません。ただもつべきものは、神様の愛によって真っ赤に燃え上がる、その一つの心情だけです。
ですから、大母様のように、二十四時間、神様のみ旨と父母様のみ旨を成就させることを考えて生きなければなりません。大母様には、その考えしかありませんでした。それ以外のことは考えもしなかったのです。私たちが尊敬すべき方です。ですから、「大母」という名前を私が授けたのです。
15 大母様は、父母様の聖婚以降、労働者の妻から皇族まで、ありとあらゆる女性がお母様を打つという局面を収拾するために苦労しました。お母様一人では、これに耐えられないので、三代にわたって打たれなければなりません。その代を受け継ぐために、責任を果たしたおばあさんであることを知っているので、お父様は「大母」という名前を与えたのです。女性たちが行く愛の道で、泰山峻嶺(大きな山と険しい峰)のように立ち塞がっている垣根を崩してしまわなければ、お母様に降りかかってくるので、「あらゆる重荷を私に背負わせてください」と痛哭し、そのことをしてきました。「父母様の家庭のあらゆる心配を解消してください」と言ったのです。
そうして、今や恨多き犠牲の道を通じて、国家基準を越え、世界基準を越えて、統一天下に向かい、解放に向かって前進できる時代に来たのです。
この転換期に自分の責任を果たして逝き、すべての人が忠心で奉るべき資格をもったので、「大母様」としたのです。皆さんは、この方の一片丹心の心情を引き継ぎ、自分の子孫に対して、神様に侍る伝統を正しく立てなければなりません。このおばあさんは、神様に侍るために生きました。神様を皆さんの家庭に迎えるには、それ以上の一片丹心、忠情の道理を尽くさなければなりません。
一九八九年十一月四日、揮毫を「忠心奉身」としましたが、忠誠に満ちた一片丹心の心をもって、生畜の祭物になる道を歩みきったこのおばあさんのように歩むとき、迫害なく神様から福を受けることができるでしょう。
16 大母様は、生涯にわたり、ただ一つの所に向かって信仰生活をしてこられた方です。その中で私たちが特別に記憶すべきことは、新たな摂理歴史において「再臨主が人として来られる」と宣布し、新しい教団を準備したすべての役事に、最初から参加してきたということです。聖主教を中心として母の系統を引き継いだのは金聖道であり、それが一代目です。
そして、もう一つの系統が腹中教の許浩彬です。その系統で信仰の主流的歴史の伝統を引き継ぎ、来られる再臨主を迎えるために、選抜走者として走ってこられた方が大母様です。
お母様を生んで三代のエバの役事を経たのですが、お母様の時代に来て実を結ぶことができるというみ旨を暗々裏に知って、準備してきたおばあさんなのです。その間にあった苦労というものは、とても言い表すことができません。周辺にいる兄弟や親戚、仲間など、誰も理解できないこの道を独りで歩み、生食をしながら、ありとあらゆる役事を経てきたのです。
しかし、最後まで自分の中心思想を曲けずに歩んでくることによって、お母様がお父様と出会える基台を造成しました。

Tuesday Jan 31, 2023
真の父母経 第36話
Tuesday Jan 31, 2023
Tuesday Jan 31, 2023
10 「韓民族」という言葉は、その源流を尋ねてみれば、「韓」に由来します。「韓民族」とは、古代から私たちの民族を呼ぶ固有の名称です。その意味は、最も秀でた民族であり、偉大な民族として、天のみ旨を立て、世界を一つにする天孫民族ということです。そして、韓氏は悠久な歴史をもった王族の血統であり名門の血統として知られています。このような血統を通して、天は母を求めてきたのです。
11 「한(「韓」も同音)」とは、一つという意味であり、神様も意味し、宇宙万象の合一も意味します。また、大きいという意味があり、宇宙万象を包容するという意味もあります。満ちるという意味で、充満していることを意味します。そして、神聖で立派であり、世界の「最上」と、万象の「太初」であることも意味しています。私たち韓(한)民族は、神様の天命を受けて歴史の主体となり、真理の主体となって、神様のみ旨を地上に実現する役割を担う民族なのです。
12 私たちの民族は、倍達民族です。「倍達」というのは、光明の国、輝く国、天をあがめ尊ぶ国を意味します。それで檀君を倍達王ともいうのです。数千年前の上古時代から、既に私たちの民族のことを倍達民族と言ったのです。
聖書の歴史を見ると、天はノアやアブラハムなどの中心人物を立てて役事(働き)をしてこられ、結局はイスラエルを選民として選んでイエス様を送られたのと同じように、大昔から天孫民族として、弘益人間(ホンイクインガン)(広く人間世界に利益を与えること)の思想をもつ天民として、韓民族を選んで準備されたというのです。結果的に、再臨主を送る摂理をされたと言うことができます。
したがって、私たちは、後天開闢時代に、平和王国創建の先鋒に立てるため、天が選んだ選民の血族が韓民族であることを、肝に銘じなければなりません。
13 訓民正音(フンミンヂョンウム)とは何でしょうか。正しい音を聞いて学び、訓(おし)える国民は、千年の歴史、万年の歴史においてすべてが滅んでも、残るというのです。それが東夷民族であることを、私は知りました。古朝鮮から四千年の歴史と見ていますが、古朝鮮の前に三千年の間、「韓」があったのです。その「韓」の韓半島における根拠地が清州であると考えています。私は今、東洋史における古代韓国の歴史書を編纂し、年代的関係が途切れている歴史をつなげようとしているのです。
第三節 真のお母様と神霊教団
新しい天の摂理を準備した神霊教団
神様が再臨のメシヤを韓国の地に送るための摂理を急がれる中、一九〇〇年代初頭から、このような神様の摂理を、先立って知っていた篤実なクリスチャンの間で神霊運動が起こり始めた。その神霊運動は、李龍道師を中心とした新イエス教会、金聖道の聖主教、許浩彬の腹中教に脈々と受け継がれた。このような基盤の上に、天の新婦を迎えるための摂理が、神霊教団を中心に、同時に進められてきたのである。
1 神様は、今まで韓国の地で、キリスト教を中心に神霊の役事をしてきました。解放前の一九三〇年代と一九四〇年代に、神様はこのための準備をさせてきました。神様のみ旨に従うべきキリスト教は、そのような立場で神様の内的な事情に従い、内的なみ旨を立てなければなりません。神様は、数多くの家庭を通して、あるいは数多くの開拓者を通して、このような役事をしてこられました。
鉄山、平壌、または元山のすべての動きは、その時代的環境に対応させるためでした。キリスト教が従わなければならなかったので、それを一歩前進した環境で、神様は準備させてこられたのです。
2 神霊的な役事をした人の中で、鉄山に金聖道という方がいました。そして、咸興(ハムン)には白南柱という人がいました。白南柱氏は、総督府から聖主教の認可を得た人です。霊界からすべて教えられてそうしたのです。
「裸足で鉄山に行きなさい」という霊界の指示を受けた白南柱氏は、鉄山に行きました。咸興から平壌まで六十里から七十里にもなります。裸足で鉄山に行って金聖道女史に会いました。そのようにして東と西が会ったのです。会って、来られる主がこの地に来た時に、苦難を受けないように準備したのです。そうして、聖なる「聖」の字と主人の「主」の字を入れた「聖主教」がつくられました。
しかし、金聖道女史の主張と、その他の人の主張との対立が表面化するようになりました。金聖道女史は、「天が私を中心として、エバの使命について教えてくれたのだから、主が来られれば私がお迎えしなければならない」と主張したのです。
3 金聖道女史の家庭が責任を果たせないことによって、その使命は至誠を尽くして金聖道女史に侍っていた許浩彬という婦人に引き継がれました。その婦人は、すべて主を中心として生活をしてきました。天は、その婦人にまず罪を脱ぐ方法を教えてくれ、その次に生きていく方法を教えてくれ、またその次には、主が来られたあとに子女を育てる方法を教えてくれました。
その許女史は、主に侍って生活し得る法度と全体的な規則を立てて準備しました。許女史は、解放前からそのような準備をしなければなりませんでした。七年前からそのような準備をしてこなければならないというのが原則です。そのようになっていれば、韓国の解放を中心として、再臨理念が出発するようになっていました。そうしてこれを引き継いで、新しい役事をしていかなければなりません。その時は一段階離れます。「自分が主である」と言うのではなく、「主を生む」と言います。腹中を通して主が生まれるというのです。それは、復帰だからそうなのです。それがマリヤ的使命です。
4 二千年前、イエス様がイスラエルの地にお生まれになるまで、天は多くの準備をされました。イエス様が天の家庭を形成し、一つになった国家をつくり、世界へと出ていくことができるよう、あらかじめ準備させました。しかし、その当時、準備されて責任をもっていた中心人物たちは、天の深いみ旨や事情よりも現実問題に汲々とし、イエス様のことをきちんと理解できず、イエス様に侍ることもできずに、ついに十字架に送ってしまったのです。ですから、イエス様の復活後、二千年間続いてきたキリスト教文化を中心として、新しく来られる主を迎える新婦としての準備がすべてできるよう、天は無知な人間たちを悟らせながら役事してこられました。
天は、韓国を選民の国として選ばれ、韓国のキリスト教の歴史がまだ浅いにもかかわらず、解放前後を通して、新しい主を迎えるための内的な準備をする団体を立てられました。腹中教を立てた許浩彬夫婦を通して、天は内的にどのように再臨主に侍るべきかを直接的に教えてくださいました。イエス様が生まれてから、三十三年の生涯路程を歩み終えるまでの不幸だった恨を解いてさしあげるため、すべての衣服をそれぞれの年齢に合わせて作るようにするなど、あらゆる準備をさせたのです。
真のお母様に結実した神霊役事の基盤
真のお父様は、「金聖道を中心とした聖主教と、許浩彬を中心とした腹中教が、大母様を経て、お母様にまで連結されてきた」と語られた。特に、洪順愛大母様は、来られる主を迎えるために、神霊教団である聖主教と腹中教に通って多くの精誠を尽くし、献身した。そのような過程で、許浩彬の母親が真のお母様に対して、「天の新婦になられる方」と祝福したのだが、これはあらゆる神霊役事の精誠基盤が、大母様を経て真のお母様に承継されたことを意味するのである。
5 根のない木がないように、お父様とお母様が真の父母様の名前をもつに至るまでの過去の根を知らなければなりません。人は誰でも、良い環境、良い家族、良い血統を、どのようにして最後まできちんと整えるかが重要です。
大母様は、一九一四年、陰暦二月二十二日、平安北道の定州で出生され、来られる主をお迎えし侍るために、一生の間、渾身の力を尽くして生きてこられた方です。今までのすべてのキリスト教徒たちは、主を迎えるために生きましたが、大母様の一生は、それとは異なる道を歩まれました。主を迎えるために、実践の道を歩まれたのです。
6 二千年前のイスラエルの国においても、主を迎えるための内的な準備が多くあったように、解放前の韓国においても、再臨主を迎えるために準備した団体が数多くありました。そのように、復帰摂理の役事を内面的に果たしてきた団体も数多くあったのですが、母方の祖母と大母様は、そのような団体を訪ね回りながら、ひたすらみ旨のためだけに、ひたすら主に出会うその日を準備するために生きてこられたのです。結局、そのような信仰生活が、私(お母様)をこの場にまで導きました。
母方の祖母と大母様は、絶えず深い信仰生活をされました。常に分別され、清潔な生活、清い生活をされました。私は、生活のほとんどを大母様から学びましたが、母方の祖母からも影響を受けました。
7 趙元模おばあさんは、キリスト教の家庭で生まれました。信仰心と愛国心が篤く、すべてのことに熱心でした。一九一九年、三・一万歳運動が起こった当時、満五歳になった大母様を背中に背負い、その隊列に加わって万歳運動をしている写真を見た覚えがあります。それほど、素晴らしい方でした。大母様も、このような祖母の熱心な信仰生活の影響を受けて、十九歳までは長老派教会の信仰をもっていらっしゃいました。
鉄山で、金聖道女史が教主をしている聖主教が活発に集会を行っていましたが、祖母と大母様は、そこで熱心に信仰生活をされたのです。
8 私(お母様)が生まれた翌年の一九四四年頃、大母様は、趙元模おばあさんと共に腹中教に入り、主を迎えるための準備をしました。ある日、許浩彬女史が、「女性はみな、服を一着ずつ作ってこそ、再臨主が顕現されても恥ずかしくない」と言いながら、午後一時くらいになっていたのですが、大母様に向かって、「夜になるまでに服を一着作りなさい」と言いました。普通の人の服であれば、数時間で作ることができますが、主の服を作るというので、いい加減にはできませんでした。しかし、大母様は従順に従いました。手がぶるぶると震えましたが、感謝の思いでその仕事をやり遂げました。
ある時、大母様は、夜も昼も霊的に再臨主に侍って暮らす許浩彬女史がとても羨ましくなり、「夢の中でも、再臨主に一度お会いできれば、死んでも恨みはない」と思いました。すると、夢のお告げがあったのです。
夢の中で、大母様はきれいな小屋にいました。上下に白い服を着て、台所で食事の準備をしたあと、ぬれた手をエプロンで拭きながら出てくると、祖母が、「この部屋は、誰も入れない部屋だ」と言うのです。しかし、言い返すわけでもなく、丁寧に扉をそっと開けて入り、おとなしく座ったといいます。すると、壮健な方が、東に向かって机を一つ置き、頭に手拭いを巻いて座って勉強していたのですが、さっと向きを変えて座るのです。そして、「私は、あなた一人を探し求めるため、このように勉強しているのだ」と言ったというのです。そのみ言が非常に有り難く、畏れ多くて、涙が自然と流れ、言葉が出なかったといいます。それで、その方の手を握って泣いているうちに、目が覚めたというのです。起きて初めて、「本当に不思議だ。あの方が恐らく、再臨主なのだろう」と思ったといいます。そのように、大母様は夢のお告げを通して、真のお父様に初めて会われたのです